ほごログ
「須釜遺跡の弥生土器」が埼玉県立歴史と民俗の博物館「埼玉考古50選」に出展
9月15日、埼玉県立歴史と民俗の博物館に須釜遺跡出土の弥生土器を貸し出しました。
埼玉県立歴史と民俗の博物館では、下記のとおり、10月9日(土)より「埼玉考古50選」展が開催されます。
須釜遺跡の弥生土器はこちらの展示会に出展されます。
●博物館開館50周年記念「埼玉考古50選」
期間:令和3年10月9日(土)から11月23日(火・祝)
時間:9:00から16:30
会場:埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区高鼻町4-219)
*東武アーバンパークライン(野田線)大宮公園駅より徒歩5分
観覧料:一般600円 高校生・学生300円
埼玉考古50選チラシ(チラシ画像をクリックするとPDFが開きます)
須釜遺跡は市内北部の倉常に位置します。
「再葬墓」とは、縄文時代の終わりごろから弥生時代の中頃にかけて関東地方から東北地方において広まったお墓の形です。人が亡くなった際、一度、遺体をそのまま土に埋めたりして葬(ほうむ)りますが、一定の時間がたったのち、その遺体を掘り出して、さらに骨だけにし、再び葬るものです。「再び葬る」ことから「再葬墓」と呼ばれています。
この「再葬墓」が須釜遺跡では11基検出され、完全な形に近い弥生土器、総数29点が発見されています。埼玉県東部地域では、弥生時代の遺跡はあまり発見されていないことから、須釜遺跡の遺物は平成17年に「須釜遺跡再葬墓出土遺物一括」として埼玉県指定文化財となりました。
「埼玉考古50選」では、1号再葬墓と2号再葬墓から発見された土器が展示されます。土器の表面に残った稲籾の圧痕の説明などもあるようです。
埼玉県立歴史と民俗の博物館は、東武アーバンパークラインの大宮公園駅が最寄りとなります。コロナ対策を十分とっていただいて、お出かけいただければ幸いです。
須釜遺跡再葬墓出土の土器
須釜遺跡については過去のブログでも紹介しております。
夏季展示が遺したもの
夏季展示「桐のまち春日部」展も終わり、ただいま資料返却の旅の最中です。資料をお貸しいただいた方々から、「いい展示だったね」「お役に立ててよかった」と感謝のお言葉をいただき、本当によかったなと思う毎日です。 #かすかべプラスワン
様々な方に巡り合い、お話しが聞けて、春日部の桐産業の理解が深まったこと、あるいはこれから深めていくきっかけになったことが、資料館として何よりの財産になったわけですが、ほかにも目に見える形で夏季展示を活かしていきます。今日は2点ほど、夏季展示を継承する成果を紹介します。
第一 桐箪笥のリーフレットを一新しました。
今回の調査を受けて、より見やすく充実した内容に一新しました。まだ前の範の残部がありますので、在庫がなくなり次第配布します。小学校の地域学習の課題などにお役立てください。表紙には、桐箪笥から登場する郷土資料館あんない人の「うめわかくん」が!「うめかわくん」でなく「うめわかくん」です。
第二 桐箪笥のカンナくずを活用した体験講座の開発に着手しています。
桐箪笥屋さんから廃材となるカンナくずをご提供いただき、これを活かして何かできないかなと、展示期間中、職員一同頭をひねっていました。そして、たどり着いたのがカンナくずでつくったバラのブーケです。
以前、実習生がしれっと紹介していましたが、もっと注目されてもいいモノだと思いますので、紹介させてください。
カンナくずを丁寧に折って花びらにし、これを組み合わせて「バラの花」に仕立てました。教育センターの清掃員の方からも大変好評です。先日、箪笥職人さんにもご披露したところ、大変喜んでくださいました。
春日部の象徴である「桐」の廃材を再利用して、美しいバラにする、まさにSDGs未来都市に相応しいといえましょうか。今はどのように事業化すればよいか思案しているところです。
これからも、展示の成果を郷土資料館の活動に活かしていきたいと思います。
【9月16日】 #今日は何の日? in春日部
今から74年前の9月16日は、カスリン台風による水害が発生した日です。 #かすかべプラスワン
昭和22年(1947)9月14日朝から降り出した雨は、15日には強くなりました。いわゆるカスリン台風(カスリーン・キャサリンとも)による豪雨です。台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつありましたが、台風の接近に先立って秋雨前線が活発化し、豪雨がもたらされました。この間の雨量は秩父で県内最高611ミリメートルを記録しました。
16日0時20分ごろには利根川流域の栗橋(久喜市)で水位が9メートル以上に達し、その10分後、埼玉県東村(現加須市)の新川通地先で、堤防が350メートルにわたり決壊、洪水は古利根川筋を南下しながら、埼玉県東部(中川低地)を飲み込み、東京都江東区まで進行しました。
当時の状況は『昭和22年9月埼玉県水害誌』(以下、『水害誌』)に詳しくまとめられています。
これによれば、春日部市内に利根川の洪水が実際に達したのは、9月16日の午後から夕方ごろのようです。東村の堤防決壊から半日あまり時間が経過していました。とはいえ、幸松村では、洪水が達する以前、午後2時頃から新倉松落や旧倉松落などの水路が相次いで決壊するなど、大雨による河川の逆流などもあり、被害が出ていたようです。
16日の夕刻を過ぎると、南桜井村・幸松村で浸水がはじまり、午後11時には春日部町境の隼人堀が氾濫し、内牧・梅田でも浸水が始まります。17日午前0時には宝珠花村の水田が濁流で浸水、午前5時には春日部町の川久保地先で古利根川が決壊し、町域の南部・町並の一部が浸水しました。午前10時には古利根川の春日橋が流失、午前11時には豊野村に幸松村方面から押し寄せた濁流により、全村浸水。同刻には武里村の字備後で古利根川が越水(午後1時決壊)。正午には川辺村の字水角・赤崎・飯沼・米崎、米島・中野(現東中野)の一部が濁流に覆われました。
利根川の洪水(濁流)の進行の経過は、『水害誌』所収の図に図示されています。古利根川や庄内古川を画して、濁流の進行状況が異なったことがうかがえます。赤い実線は16日、赤い破線は17日の洪水進行状況を示しています。読み取りづらい部分もありますが、市域では古利根川以東の地域の濁流進行が早く、豊春村・武里村では徐々に浸水が進行していったようです。また、台地や発達した自然堤防などの高台は浸水を免れたこともわかります。
『水害誌』の付録である『附録写真帳』には当時の貴重な写真が掲載されています。下の写真は武里村で撮影されたものです。武里村の水防団が警戒する様子がみえます。このほかの市内の写真は「かすかべデジタル写真館」で紹介しています。
浸水位(深さ)は幸松村で「床上六尺以上」(床から約180cm)と報告されています。市内では6日以上湛水(水がひかない)地域もあり、高台や水塚(土盛りした建物)の上で生活する方も多く、1か月もの間避難する方もいました。農作物や橋の被害、家屋の浸水、流失・半壊する家も多くあり、大変な被害をもたらす災害となりました。また、水が引いた後の掃除も大変だったとの聞き取り記録もあります。
カスリン台風の発生から70数年が経過し、災害を経験した方も少なくなってきています。カスリン台風時には、明治43年(1910)の水害を経験した方がまだご存命で、その経験で助かった命も少なくないと聞いています。先人の経験をきちんと知り、伝え、それを学ぶことで、私たちやみなさんの暮らしの「備え」にきっとなるのではないかと思います。
春日部市では、最近「災害ハザードマップ」をリニューアルしました。こちらもぜひお目通しください。
参考文献 『昭和22年9月埼玉県水害誌』(埼玉県、1950年)、『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会、2013年)、カスリーン台風70年特集サイト(カスリーン台風70年実行委員会)
【常設展】プチ展示替しました【樋籠村の #村絵図 】
今回展示替したのは、常設展示室の最奥「江戸時代の村々」と「水とのたたかい」のコーナー。地味なコーナーですが、現代の春日部の暮らしに直結する重要な展示です。陳列したのは2点。いずれも近世文書です。しぶ~い展示ですが、どちらも新出史料で、史料集などに掲載されても不思議でない良き史料です。 #かすかべプラスワン
今回は、そのうちの「水とのたたかい」コーナーに展示した、武蔵国葛飾郡樋籠村の村絵図を少し紹介。地名は「ひろう」と読みます。
展示した資料は寛保元年(1741)9月の絵図です。中川低地に位置した、江戸時代の樋籠村の景観が見て取れ、低地の村落の人々が水害の脅威といかに対峙していたかが読み取れます。また、絵図中には、かつて葛西用水として利用されていた「悪水堀」「小古堀」が描かれ、村の西端に描かれた倉松落には「葛西用水堀」と注記され、江戸時代の中川低地の灌漑を支えた葛西用水の変遷を考える上でも重要な資料だと思います。
大変興味深い資料ではありますが、これまで展示公開されたことがありませんでした。この機会にぜひご覧ください。
機会があれば古文書講座のテキストにして、市民の皆さんと読んでみたいとも思っています。
臨時休館のお知らせ
9月18日(土)から9月21日(火)は、燻蒸作業を行うため郷土資料館は休館いたします。
ご迷惑をおかけしますが、ご理解いただきますようお願いいたします。
*18日(土)~20日(月)は、教育センター全館立ち入り禁止になりますのでご注意ください。
*21日(火)は、郷土資料館は休館となりますが、教育委員会事務局は業務を行っております。
【動画】「春日部市の昔と今」公開中!
郷土資料館ホームページの「かすかべデジタル写真館」の古写真が活用され、市の公式動画チャンネル「かすかべ動画チャンネル」に、動画「春日部市の昔と今」が公開されています。 #かすかべプラスワン
この動画は、令和3年度の敬老会の中止に伴い、高齢者支援課により制作・公開されたものです。古写真を現在のまちの様子と比較していて、さまざまな世代の皆さんがお楽しみいただけるものと思います。いよいよ、郷土資料館もyoutubeデビューです。出典元の「かすかべデジタル写真館」も合わせてご活用ください。
武里大枝公民館で「神明貝塚の巡回展示」を開催しています
9月7日(火曜日)より武里大枝公民館にて「神明貝塚の巡回展示」を開催しています。
武里地区においては県指定無形民俗文化財の「やったり踊り」(大畑)が馴染み深い地区ではありますが、前回の豊野地区同様に「遺跡」は確認されておらず、また神明貝塚の所在する西親野井地区とも市内の中でも遠いところに位置しています。
しかし、市内にたくましく生きた縄文人のなりわい、食生活、そして国史跡になった大規模な貝塚を多くの市民の皆さまに知っていただきたく、土器や石器、貝類の実物、縮尺1/150のジオラマ、盛りだくさんの解説パネルを用意しました。
今回の展示場所である武里大枝公民館は、かつて「東洋一の団地」とも称された武里団地の中に所在しています。武里地区での神明貝塚の知名度を上げるべく、是非多くの方々にご覧いただきたいと思いますが、その際には新型コロナウィルス感染拡大防止にご協力いただければと思います。
展示場所:武里大枝公民館 1階ロビー左手
展示期間:9/7(火)~12/19(日) ※月曜・祝日また選挙投票日等は休館
開館時間:8:30~17:15
明日 #ミュージアムトーク やります
令和3年9月5日(日)をもって、夏季展示「桐のまち春日部」展もいよいよ最終日。最終日は、展示担当学芸員によりミュージアムトーク( #展示解説 )を開催します。 #かすかべプラスワン
時間は10時30分~と15時~の2回。「語り出したらキリがない」ので60分ほどになるかと思います。解説を聞きたい方、ご自分の体験談を聞いてほしい方、お付き合いいただける方をお待ちしています。もちろん予約不要、費用はかかりません。
元・桐材屋さんから資料を寄贈いただきました
おかげさまで「桐のまち春日部」展もたくさんの方にご覧いただき、なかには関係者の方もちらほら。先日、夏季展示「桐のまち春日部」展をご覧いただいた、市民の方から資料を寄贈いただきました。
お話をうかがったところ、以前、粕壁で桐材店を営んでいた方でした。
その昔、郷土資料館にも、桐材店に関連する道具を寄贈いただき、その一部は「桐のまち春日部」展でも展示しています。展示をご案内したところ、ご来館いただきました。ご来館された方は、桐材店の娘さんでしたので、直接ご家業に携わっていたわけではなかったようですが、展示資料をご覧いただき、「懐かしい」「○○さんという名前聞いたことがある」とお話しいただきました。
ご来館の折、ご持参いただいたのが今回ご紹介する資料です。資料は、昭和50年ごろに夏休みの自由研究の成果(模造紙)です。自由研究のテーマは「春日部桐箪笥のできるまで」。当時、小学生だった桐材店のご子息が家業の仕事の風景を写真で記録し、模造紙に貼り付けまとめたものです。桐材店のご子息が調べた内容もさることながら、とりわけ貴重なのは写真です。そこで、今回その写真を紹介します。
まずは、桐の丸太の写真です。工場には、大量の丸太が山積されていたそうです。
桐は丸太のまま乾燥させ、そのあと、製材・製板していくことになるようです。
次は、製板された桐材です。屋根が映り込んでいるので長い板であることがうかがえます。
板を乾燥させているところのようです。桐は雨ざらしにしてアク(シブ)を抜かないと製品になった後に変色してしまうそうです。板を斜めに立て掛ける干し方は、面積をとるため、広い敷地がないとできないと聞いたことがあります。
つづいて、工場内部の写真。木取りをしている場面のようです。
丸鋸盤で板材を必要な寸法に切ります。木取りが箪笥を製造する上で重要なことは以前紹介しました。
つづいても工場の中。箪笥のワクを組んでいるところです。
職人さんは、「アツイタ」とよばれる作業台の上で生地を組んでいきます。
ホゾを組むときや、木釘をうちつけるときには、木槌やトンカチ(ゲンノウ)が使用されます。
「トントントン」と、リズミカルで心地よい音が聞こえてくるようです。
ところで、最近の箪笥屋さんは、「箪笥屋さん、儲かるかい?」「トントントントン、トントンのカミ」というそうです。意味は、箪笥を一生懸命「トントン」と組んでも、儲けは「トントン」(差し引きゼロ)だということです。
かつては、「箪笥屋さんかい?神様かい?天皇陛下のオジサマかい?」といったほど、春日部の箪笥産業は盛んでしたが、近年は手間賃が安く箪笥屋さんの景気もあまりよくないとか。聞き取り調査の折に、こんな話をうかがったこともあります。
話は脱線しましたが、「桐のまち春日部」展は9月5日まで。あとわずかですが、春日部の桐産業について、まだまだ、わからないことが沢山ありますので、関係者の方、ぜひ教えてください。
小渕・観音院の聖徳太子立像
夏季展示「桐のまち春日部」展で展示中の聖徳太子立像(小渕・観音院所蔵)は、同展の目玉資料の一つです。今回は春日部の桐細工との関わりについて、ご紹介します。 #かすかべプラスワン
小渕の観音院は、正式には小淵山正賢寺観音院といい、市内では現存する唯一の本山修験宗の寺院です。鎌倉時代中頃の正嘉2年(1258)建立とされ、市内最多の7躯の円空仏(小渕観音院円空仏群・県指定有形文化財)、元禄年間(1688-1704)建立と伝えられる小渕山観音院仁王門(市指定有形文化財)など、春日部のあゆみを理解する上で貴重な文化財を伝えています。イボ・コブ・アザなどにご利益のある「イボトリ観音」として古くから信仰され、5月の大型連休中に円空仏を開帳する「円空仏祭」や「四万六千日祭」(8月10日)などの年中行事に加え、近年はさまざまな催し物を織り交ぜたイベント「寺フェス」などを催し、寺院の新たな役割を模索しています。
小渕の観音院に伝わる聖徳太子立像は、木造で厨子におさめられ、普段は本堂に安置されています。太子像は、髪を角髪(みずら)に結い、鳳凰丸紋(ほうおうまるもん)の朱華(はねず)の袍衣(ほうい)に袈裟(けさ)をかけ、柄香炉(えごうろ)を持っています。これは、父の用明天皇の病気平癒を祈った16歳の姿といわれ、孝養太子と呼ばれています。
観音院には、江戸時代、境内に太子堂があり、この中に安置されていたものと考えられます。
天保13年(1842)「小渕太子堂奉加帳」(市指定文化財)によれば、観音院の太子堂は、もともと宝暦5年(1755)に近隣の職人が講銭を集め、粕壁の八幡宮の宝殿に造営されたもののようです。経緯は不明ですが、その後、観音院に太子堂が移されたようです。天保13年、観音院と小渕村の職人たちは、この太子堂を修復するために近隣の職人などに寄付を募りました。この寄付台帳が「小渕太子堂奉加帳」です。奉加帳には、大工・木挽・建具屋など、市域周辺の250名余りの職人の名前が記録されています。このなかに、春日部の桐細工の起源とも考えられる、指物屋・箱屋の署名がみられます。箱屋と指物屋の区別は明確ではありませんが、いずれも木組みをして箱・長持・箪笥類を細工・製造した職人と考えられます。市域では、粕壁宿に箱屋9名、小渕村に箱屋1名・指物屋2名、樋籠村に指物屋1名、牛島村に指物屋3名、藤塚村に箱屋2名、指物屋1名、銚子口村に箱屋2名、備後村に箱屋1名が確認され、広範に職人が存在していたことがわかります。
聖徳太子は、四天王寺などを建立した事績から、各地で建築や木工の祖として崇められていました。春日部市域では残念ながらたどれませんが、県内では箪笥職人などが「太子講」という聖徳太子を信仰する講が組織される例があります。この「小渕太子堂奉加帳」により、観音院の聖徳太子像は、春日部の桐細工職人らに信仰されていたと考えられ、「講銭」が集められたという記述から、市域でも「太子講」に近い組織が存在していたことがうかがえます。
そういうわけで、観音院の聖徳太子立像は、春日部の桐細工の歴史に深く関わる資料といえます。桐細工の歴史を物語る資料は、紙の資料が大半を占めてしまいますが、数少ない立体の展示資料として、鮮やかな彩色も伴い、展示に華を添えています。
今回、観音院の「聖徳太子立像」と「小渕太子堂奉加帳」が初めて一同に会しています。展示室の照明の都合から、厨子から出した状態で「聖徳太子立像」を展示しています。像を単体で鑑賞いただけるのは、9月5日まで。あとわずかです。この機会に、ぜひともご覧ください。そういえば、今年は聖徳太子御遠忌1400年だそうです。
春日部の桐細工の起源と伝承について(その2)
気が付けば、夏季展示「桐のまち春日部」展の会期も最後の一週間です。引き続き、春日部の桐細工の起源と伝承について第二弾にして最終回。 #かすかべプラスワン
前回、紹介した通り、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播していきました。
こうしたことは展示の企画段階から何となく把握していましたが、調査を進めるなかで新たな資料を見出すことになりました。それが、大正13年(1924)に発表された論文、緑川禄「埼玉の桐箱」です。この論文は、大日本山林会の会誌『大日本山林会報』498号に収載されるものです。ちなみに大日本山林会の会誌のバックナンバーはデジタル化されています。
緑川には『確実なる副業 檪、竹、桐、杞柳の実際的経営』という著書もあり、埼玉県技師であったことがわかっています。会誌『大日本山林会報』には、埼玉県内の林業・林政に関する緑川氏の文章がいくつも収載されており、緑川は埼玉県の林業に深く携わっていた人物であると考えられます。緑川のいう「桐箱」とは、いわゆる桐小箱だけではなく、大型の箱である桐箪笥や長持なども含んだ桐製の指物のことを指しており、関東大震災直後の埼玉の桐産業の状況を伝える貴重な文献です。埼玉の桐箱の起源についても次のように言及されています。表記は原文のママ。誤字は( )で注記した。
桐箱製造の起源は遠く後陽成帝の御宇慶長年間徳川家康江戸に開幕と共に、爾来家具の工匠を武州川越に住ましめ、将軍家の御用を仰付け、其後霊元帝の御代天和年間、に至り桐材を以て家具類を製作せしめたるに創るので、其当時は僅か十数人の工匠が大箱即ち箪笥、刀箪笥累の製作を主とし、尚ほ枕及硯箱をも工作したのであつた。
其後中御門帝の御宇正徳年間、北葛飾郡幸松村の人某川越に於て技術を習得し、自村に帰つて創業せるが、是粕壁地方に於ける桐箱製造の元祖である。(中略)幸松村に於て一般の需要に満たすべく製作を開始せるに、会々(津?)仙台公日光崇拝の途次粕壁町に於て御納戸硯箱を献じて技工の優秀なるを認められ、公儀御用商人住吉屋をして納入せし以来諸大名、家老近卿(郷か)々士にまで供給する様になつたのである。(以下略)
すなわち、埼玉の桐箱づくりは、徳川家康の入部とともに、城下町川越に移住させられた職人が直接の起源であり、春日部の桐細工の起源は、正徳年間に幸松村(明治22年以降の地名)の某氏が川越で技術を習得し、幸松村で創業したことに求められています。その後、諸大名の東照宮参詣などで日光道中の粕壁宿にて硯箱が大名に献上され、幕府の御用商人の住吉屋(おそらく江戸の箪笥問屋)に納入され、江戸の諸大名や武家らが用いるようになったと記されています。
緑川「埼玉の桐箱」は、春日部の桐細工の起源について言及した文献として、現在わかる範囲では最古のものです。最古であるからだけではなく、幸松村や住吉屋といった具体的な固有名詞が出て記述が、大変興味深いものとなっています。幸松村は、現在判明する範囲で最古の箪笥屋が所在する小渕も含まれた地域です。現在の箪笥屋の系譜では天明年間(1781-1788)までしか遡れませんが、幸松はそれよりも古くまで遡れる桐細工産業の発祥の地なのかもしれません。また、日光道中を利用した諸大名の目にとまり、住吉屋に卸されるようになったとの記事も大変興味深いです。住吉屋とは、近世の史料にも登場する江戸の京橋の箪笥商、明治初頭まであった実在する箪笥卸商であったようです。
こうした具体的な記述から、春日部の桐細工が、日光道中を起点にし、巨大都市江戸と関係を結びつきながら、歴史的に展開していったことが想像されます。日光道中沿いにあることから、いつのまにか「日光東照宮の工匠」に関する伝承が生まれていったのかもしれません。
しかし、残念なことに、緑川は明確な典拠を示していません。川越に技術を習いにいった人物も「某」とされており、よくわかりません。しかし、ほかの記事では、農商務省山林局編『木材ノ工芸的利用』(明治45年刊)にも近似する県内の桐箱製造者数のデータも掲載されており、緑川「埼玉の桐箱」は、なんらかの調査や資料に基づいて執筆されたと推察されます。担当者としては、緑川説は、「東照宮の工匠伝説」より、やや具体的であり、執筆者の立場からしても、歴史により桐産業を権威化する意図は感じられないので、信ぴょう性が高いのではないと考えています。
このように説明すると、「「東照宮の工匠伝説」は間違っているのか!?」「結局、どっちが正しいのか」「どちらも証拠がないのでは?」「起源なんてどうでもいいのでは?」と叱責されてしまいそうです。いずれも「伝承」「伝説」であり、担当者としては、どちらが正しい、間違っているのかを裁定するつもりは固よりありません。桐細工の起源説の検討から、強調しておきたいことは、以下のことです。
「伝説」「伝承」はさておき、今回の調査では、証拠のある具体的な歴史としては、春日部の桐細工は、古文書により、江戸時代半ばまで遡れる地場産業であること。そして、明治時代後期以降、産業として大きく飛躍し、その頃に、現代に伝統産業として継承される礎が築かれてきたことがわかりました。
今回わかってきた具体的な桐産業の歴史は、「東照宮の工匠伝説」のような華やかで箔をつけたかのような「起源」に比べれば、一見地味かもしれません。ただ、農間余業として始まり、その後に専業化し、春日部を「桐のまち」として支えていった一つ一つの歩みは、現代の私たちから見れば地味かもしれませんが、歴史の当事者や関係者たちにとって決して地味なものではなかったはずです。具体的な歴史をとらえ、それを一つ一つ見つめ直し、理解することこそが、先人たちや関係者の方々に敬意を表すことになる。展示担当者は、様々な資料や関係者への聞き取り調査のなかで、春日部の桐産業は、尚もまちの特徴であり、今後のまちの行く末を考えていく上でも、桐産業の具体的な歴史を考えることは重要だと改めて思いました。
皆様にも、雲をつかむような「東照宮の工匠伝説」ではなく、より具体的な春日部の桐産業の歴史を今一度見つめ直していただきたいと思います。そんな、春日部の桐産業の歴史を具体的に紹介する「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。
「オンライン土器作り教室」~土器焼きを行いました~
8月25日(水)に「オンライン土器作り教室」最後の工程の”土器焼き”を行いました。
当日は小雨が降り、天候が危ぶまれましたが、何とか実施することができました(例年は内牧公園で
にぎやかに焼き上がりを待ちながら、まがたま作りや火おこし体験を行っていましたが・・・)。
縄文土器は野焼きという方法で焼くため、地面に直接火をくべて焼きます。まずは火の遠いところに土器を置き、じっくりと土器の温度を上げていき、十分に温まると土器を火に近づけます。また土器の中に炭を入れ、内側からも土器を温めて最後の乾燥を行います。
土器の色が変わり、固く焼きしまると、最後に燃えやすい薪をくべ、「赤い炎」の中で焼いていきます。縄文土器の色が赤茶色をしているのも、酸素を十分に送った「赤い炎」で焼いているためです。
この時の温度は約600度以上にも上がります。
土器が焼きあがりました!精巧に装飾がされたものから、独特の文様や形をもつ土器が出来上がりました。乾燥も十分にでき、失敗もありませんでした。
参加者の皆さま、作品のお引き取りをお待ちしております。
また来年も、この夏休み期間に「オンライン土器作り教室」を継続していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
春日部の桐細工の起源と伝承について(その1)
夏季展示「桐のまち春日部」展が、新聞各紙に取り上げられ、少なからぬ反響をいただきました。そこで数回にわけて春日部の桐細工の起源の伝承について、補足説明させていただきます。 #かすかべプラスワン
以前にも紹介したとおり、春日部の桐細工の起源については、史料的には安永7年(1778)以前には遡ることができません。
現在、『春日部市史 民俗編』が言及するように、江戸時代初期に東照宮造営に加わった工匠たちが、帰りに粕壁に住み着いたことが始まりという伝承がほぼ定説として扱われています。ただ、日光東照宮の工匠を起源とする言説は、あくまで「伝承」「伝説」であり、確固たる証拠がありません。
今回の展示にあたり、この「東照宮の工匠伝説」がいつ頃までさかのぼれるのかを検討してみました。春日部の桐産業が大きくなる明治後期以降の様々な資料を博捜しましたが、管見の限り「東照宮の工匠伝説」の初見は、どうやら『春日部市の史跡と観光』(昭和42年・春日部市観光協会発行)という冊子で、次のような記述がみえます(以下引用。誤字等の表記は原文のママ)。
春日部の桐箪笥 県内の桐タンスは春日部と川越が主産地になっております。春日部のタンスの発祥は遠く徳川時代大名の参勤交代の砌衣装入れとして桐長持を使用していた。その頃京都から移住せる工匠があり長持に工夫をこらして引出しをつけたものを作成した。これが箪笥の初めと伝えられている。(以下略)
桐小箱 徳川時代関西方面から日光山造営に参加した工匠の一部が当地に溜り、小道具の整理箱、箱枕等の製造をタンスの不用材を利用して初められたのが起源であって、明治に至りライオン歯磨本舗考案の桐製歯磨箱の登場により容器箱として新しく飛躍し、(以下略)
しかし、興味深いのは、桐箪笥が「京都からの工匠の移住説」であるのに対し、桐箱は「日光山造営の工匠の移住説」とされている点です。桐箪笥の起源については、同じ昭和40年代の資料にも「京都からの工匠の移住説」が唱えられており、おそらく戦後~高度経済成長期にかけて、桐箪笥業界では「京都からの工匠の移住説」が有力もしくは定説化されていたのだろうと考えられます。
その後、昭和50年3月に春日部市で発行した『春日部の特産品』という冊子では、その起源について、次のように説明されてます。
桐箪笥 春日部タンスといえば東京タンス、東京タンスといえば総桐タンス。いまでこそ全国にその名をとどめているこの春日部のタンスも、発祥の歴史をたどれば300余年前のむかしにさかのぼる。日光東照宮のご造営がおこなわれたおり、全国各地から名うての工匠たちがかり出された。そのころ、京都からやってきた一人の工匠が春日部の桐材を利用して長持ちをつくり、工夫をこらして引出しを加えた。これが大変な好評を博し、その後、春日部にタンスの生産が定着することとなる。(後略)
桐箱木工品 桐材を利用した小箱類などの木工品が春日部に発祥した由来とその時期は、桐タンスと全く同じくする。すなわち、日光東照宮造営の徳川期に工匠の一部木工関係者が春日部に住みつき、桐材でつくる家具調度品の残木を生かして、庶民階級向けの小さな日用品をつくったのである。硯箱、文庫、整理箱、箱枕などがそれである。(後略)
おおざっぱにいえば、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播し、採用されます。図書によっては、3代将軍家光の時であるとか、5代将軍綱吉の時であるとか、説明するものも現れていきます。
なぜ、「東照宮工匠伝説」が伝播していったのか、理由は定かではありませんが、昭和40年代以降、日本人の生活様式が変化していくなかで、桐箪笥の需要が伸び悩み、職人さんたちが桐箪笥づくりの「伝統」を自覚・自負するなかで、「伝説」が語られ、広まっていったのだろうと考えられます。
「東照宮工匠伝説」については、関連史料がないことから、真偽はまったく不明です。ただ、桐細工との関係は不明ですが、市内に東照宮造営の図面を伝える旧家があったことや、伊勢神宮のある伊勢国を本貫地とする旧家があることなど、今後検討されなければならない課題もあります。東照宮の関連史料や旧日光街道沿いに伝わる類似の「伝説」についても、あわせて検証が必要です。
次回は、「東照宮工匠伝説」を揺るがした(!?)、新発見の大正13年の論文について紹介し、春日部の桐細工の起源について、さらに検討してみたいと思います。
関連する企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。
博物館実習6日目
本日の午前中は、「資料の取扱い」について館長からご指導いただきました。まず、資料を取り扱う上での学芸員として重要な考え方を学び、実際に和装本と巻子本と掛軸の取扱いを行いました。
貴重な資料を扱うことに緊張しながらも、一つひとつの工程を丁寧に行うことを意識して取り組むことが出来たと思います。
また、実習生の半数は掛軸を扱ったことはありましたが、和装本と巻子本は扱った人がいませんでした。和装本や巻子本も含め、様々な資料の扱い方法を学ぶ貴重な経験となりました。
そして午後には、桐の貯金箱の体験講座の準備と講座を受ける方への対応を行いました。受付や検温など、感染防止対策をしながら各自手分けして行い、スムーズに講座ができるような対応ができたと思います。講座では、参加者は熱心に話を聞き、おもいおもいの貯金箱を作ることができました。
その後、昨日製作したフトンを使って実際に土器の梱包を行いました。昨日学んだ説明を踏まえ、2人1組で作業を分担して行いました。実際に資料に触れながら、土器に負荷をかけないような梱包の仕方を肌で体験することができました。この経験を土器だけではなく、それぞれの資料に合わせた梱包にも活かしていきたいです。
(令和3年度実習生)
博物館実習5日目
午前中は、土器の取扱い方と梱包の仕方ついて学びました。
資料を扱う際の注意点や、布団という梱包材のつくり方を中心に説明を受けて、実際に製作しました。貴重な資料を守るための大切な作業なので、ポイントをしっかりと押さえて臨みました。
また、午後の講座で使用するものや会場の準備をしました。感染症の流行もあり、道具をひとつひとつ消毒し、対策をしました。
午後は、縄文文化をもとにした音楽づくりの体験講座を実施し、実習生たちは受講者として参加しました。國學院大學栃木短期大学の中村耕作先生(考古学)と早川冨美子先生(音楽教育)、及び音楽教育の教科指導で著名な石上則子先生のご指導のもと、春日部で出土した土器の文様からイメージした音楽をつくりました。小学生の参加者と共に、土器文様を観察して、縄文時代にあったであろう自然素材を用いて、文様のイメージした音の表現しようとしました。想像を膨らませてたくさんの音を作っていく過程はとても楽しかったです。
(令和3年度実習生)
博物館実習四日目
午前では、昨日に引き続き各々が担当している収蔵資料の調査・研究を行いました。
調査をもとに解説文をまとめました。注意した点としては、一般論をふまえつつも、春日部市の周辺の地域的な特徴に留意することです。収蔵資料の魅力を伝えるため、当時の生活や文化が具体的に理解できるように解説文を執筆しました。
午後は、資料の整理を行いました。市内の旧家よりお借りした資料を合計67点整理しました。
資料の中には、安政2年の『唐詩選』という古典籍や明治時代の児童用読本がありました。資料整理している中で感じたこととしては、古い書物なので風化が進んでおり、めくるたびに粉が出てたりするので、破けないように慎重に取り扱いました。また、虫食いによる穴とページのくっつきがあったため、ハラハラドキドキしながら作業に当たりました。教科書や博物館でしか見たことのない古い資料を実際に触れて読むことができ貴重な体験になりました。
博物館実習も残す日程も半分になりました。
明日も資料の整理や縄文土器の模様を見て音楽をつくる体験講座を行う予定です。引き続き、学芸員さんの活動から様々なことを学びんでいきたいと思います。
(令和3年度実習生)
博物館実習三日目
本日は、収蔵資料の紹介のために個別資料の調査・研究を行いました。収蔵資料の採寸や関連資料の調査を行い、展示解説にまとめる作業をしました。
高村は、現在開催中の「語り出したら、キリがない!桐のまち春日部」にも関連しますが、展示できなかった、桐箪笥の仕上げ職人がつかった道具について調査しました。仕上げ職人の道具は、種類・用途において多岐に渡ります。そのため、解説時に要点が散らばりや資料写真の撮影における画面の収まりを想定しながら、資料の点数を絞りながらも資料同士の繋がりを維持できるように資料の選出を行いました。また、私を含め、写真撮影をしていない収蔵資料も多く、実習生自ら撮影を行いました。
内木は、武里団地について調査しました。春日部市郷土資料館には、武里団地に関わる沢山の資料があり、資料を読み込むだけでも時間がかかりました。しかし、その作業によって武里団地がいつできたなどの基本情報はもちろん、どのような背景があり、武里団地ができたかなど、様々なことが分かりました。この判明したことをもとに、理解し易い展示解説を作っていきたいと考えています。
明日の午前も実習七日目の発表に向けて、この作業をしていきます。実習生による収蔵資料の紹介はホームページでも公開されますので、是非宜しければご覧下さい。
(令和3年度実習生)
博物館実習二日目
実習二日目となる今日は、体験学習の研究として「藍の生葉染め」と「かんなくずを利用した花づくり」を行いました。
春日部市では、少なくとも明治時代には、藍が工芸作物として栽培されていたようです。また、備後・小渕・下柳などでも、かつて紺屋という布や糸を藍で染める仕事がありました。このような「春日部の歴史」を踏まえた上で体験講座は考えられています!
藍で染めると抗菌・防臭・防火作用が得られるとされます。現在の企画展「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」に展示されている印半纏も藍色に染められています。ご来館の際はぜひ思い出してご覧ください。また、藍の生葉染では、植物性繊維である木綿や化学繊維のポリエステルは染まらず、動物性繊維である絹や羊毛を染めることができます。今回は絹を用いました!
藍の生葉染め体験では、慣れない環境に苦心しながらも、鮮やかな藍色を表現しようと真剣に黙々と作業する実習生の姿を見ることが出来ました。絹を漬けるために、入念に藍の葉をもみ込み、色を出すのが一番大変な工程でした。
生木染めは藍の育つ季節にだけ体験できるもので、一年の中でこの時期にしか体験できない貴重な経験です。
午後のかんなくずを利用した花づくり体験では、崩れやすいかんなくずに悪戦苦闘する実習生の姿が見受けられ、これから体験講座を受ける人がより分かりやすい体験をするにはどうすればよいか想像を膨らませ、改善点を模索していました。
参加する受講者がけがをしにくい方法を考える人、出来栄えや作業のやり易さを追求する人と考え方は人それぞれでした。完成したかんなくずの花はどれも個性のある作品となりました!
コロナ禍で当初の予定にあった他館見学は中止になってしまいましたが、未経験のことにチャレンジすることができ、童心に帰ったかのように楽しむことができました。
残りの実習も楽しみつつ、一生懸命に取り組んでいこうと思います。
(令和三年度博物館実習生)
博物館実習が始まりました
春日部市郷土資料館で #博物館実習 が始まりました。今年は10名の大学生が実習生として館務実習にのぞみます。
初日の本日は、館内の見学と博物館について討論をしてもらいました。
午前中は、展示室やバックヤードを見学してもらいました。展示資料の解説というより、館の成り立ち・運営や展示法をまじえた解説で、皆さん、当館の特長を深めてもらえたようです。
午後は、館の見学をふまえて、博物館のあるべき姿・理想像について話し合ってもらいました。みなさん、博物館学を学修されていて、「放課後博物館」とか「市民博物館」とか、市民・住民参加型の博物館の理想像を持っているようでした。また、当館の実状をふまえて、春日部市郷土資料館の方向性やキャッチコピーをグループ討論し、発表してもらいまいした。討論から提案されたキャッチコピーは「春日部の歴史を照らす」「春日部って何?」というもので、いずれも当館の評価点を伸ばしながら、ウィークポイントを改善するコンセプトになっていました。
館の職員一同、的を射た指摘に感心させられるとともに、今後の運営に大変参考になる発表だったと思います。みなさんの意見をふまえ、ウイルス対策、暑さ対策など健康管理にも十分注意しながら、8日間の実習にのぞんでいただければと思います。
桐のまち春日部展に野原ひろし登場!
「語りだしたらキリがない!桐のまち春日部」展の開催を期して、 #クレヨンしんちゃん でお馴染みの #野原ひろし の限定記念スタンプをご用意しています。
浴衣姿のひろし(しんちゃんのお父さん)と春日部の特産品「桐タンス」「桐箱」とをデザインした郷土資料館オリジナルのスタンプです。先日、来館してくれた市内在住の小学生は、「ひろしのスタンプだー!かっこいい」と喜んでたくさん押してくれていました。春日部市民にとって、野原一家は誰もが知っているまちの有名人です。
ところで、「桐のまち春日部」展は、桐タンス・桐箱の製造、産業のあゆみを紹介する企画展示で、内容はちょっと大人向き。けれども、お子様向けに体験コーナー「キリに親しむ」も用意しています。木材を見て、さわって、臭いをかいで桐材を探すものや、春日部産の桐箱と中国産の桐箱を見極める体験です。また、桐タンス・桐箱の製造工程をご覧いただける映像コーナーも用意しています。
小さなお子様も、みて・きいて・さわって・かいで「桐のまち春日部」を楽しみいただけると思います。そして、お子様に決め手は、やはり「野原ひろし」のスタンプ。「ひろし」を介して春日部の特産品を知ってもらえれば、担当者としてこんなに幸せなことはありません(実は担当者の名もひろしだったりします)。このほかに、しんちゃんやみさえのオリジナルスタンプもあります。ご家族で夏の思い出にどうぞ。
「オンライン土器作り教室」~土器乾燥中です~
例年、多くの皆さまに参加いただいている「土器づくり教室」ですが、今年は新たな形で取り組んでいる「オンライン土器作り教室」の途中経過をお知らせします!
参加者の皆さまにお持ちいただいた土器の陰干しを本日10日から開始しました。
どれも思い思いの個性にあふれた土器に仕上がっています。
土器を乾燥させると成形時よりも一回り、二回り縮みます。また粘土の色も濃い茶色から薄い黄土色へと変化しているのがわかります。
これから2週間ほどかけてじっくりと乾燥させ、土器焼きに備えます。
参加いただきましたみなさん、焼き上がりを楽しみにお待ちください。
幸手市郷土資料館の博物館実習生が見学に来ました
8月5日、幸手市郷土資料館で博物館実習に参加している実習生2名が、春日部市郷土資料館に見学に訪れました。展示室から収蔵庫などのバックヤードまで、とても熱心に見学していただきました。
博物館実習は、大学の学芸員課程において学芸員資格をとるために必須の課程です。しかしながら、受け入れ側の博物館、資料館では、人数などの都合でどうしてもお断りせざるを得ないことがあり、学芸員資格をとりたい学生たちは、往々にして実習受入れ先の館を探すことに苦労します。幸手市郷土資料館では、今年度より実習を開始したとのことで、近隣館で受入れ先が増えたことは、当館にとっても大変ありがたいものです。
当館でも、新型コロナウイルス感染症対策を徹底して、今年度は8月の後半から10名の実習生を受け入れて、約1週間の日程で博物館実習を行う予定です。こういった機会に、少しでも多くの資料館の仕事を経験してもらい、今後の人生に役立ててもらいたいと思っています。
実習の内容は、期間中に実習生に書いてもらうほごログでお伝えしていきます。昨年度のものも掲載していますので、ぜひご覧ください。
幸手市郷土資料館は、過去の記事(【近隣館の紹介】幸手市郷土資料館)でも触れたことがありますが、平成30年にオープンした新しい館です。
9月5日(日曜日)まで2つの企画展が同時開催されています。ぜひお出かけください。
幸手市郷土資料館令和3年度企画展『幸手の海でとれた貝』(幸手市郷土資料館サイトへリンク)
幸手市郷土資料館 令和3年度企画展『渋沢栄一と幸手』(幸手市郷土資料館サイトへリンク)
#春日部の桐箱 あなどるなかれ!
8月4日(水)、桐のまち春日部展の #ミュージアムトーク (展示解説)を行いました。うだるような暑さの平日にも関わらず、ご関心をお持ちの皆さまにお集まりいただきました。 #かすかべプラスワン
写真は、春日部の桐箱の品質について解説しているところです。春日部の桐箱をあなどるなかれ。一般の桐箱と比べると、春日部の桐箱の品質のよさは一目瞭然です。箱を比べるコーナーも用意していますので、ぜひお手に取ってご覧ください。ひとつひとつ職人さんの技術で丁寧につくっている春日部の桐箱。これからは大切なものは春日部の桐箱にしまうことにいたしましょう。
展示解説の後、参加者の方から様々なご質問をいただきました。今日もおじいさん・お父さんが桐箱職人だったという方がいらっしゃいました。へその緒の箱やにんべんの鰹節の箱を作っていたそうです。来館者の方に新たな情報を教えていただくこともミュージアムトークのだいご味だったりもします。
次回の、ミュージアムトークは残すところあと1回。展示会の最終日9月5日(日)です。
イベントはともかく、この夏、桐細工の展示をお見逃しなく。
#ミュージアムトーク 展示解説をしました
7月31日(土)桐のまち春日部展のミュージアムトーク(展示解説)を実施しました。多くの皆さまにお集まりいただき、解説は30分を予定していましたが、約60分お付き合いいただきました。
午前の部には、お父さんが桐箪笥職人だった方がご来館され、板削りを手伝ったお話や、親戚の箪笥職人の方のお話を教えていただきました。展示準備の聞き取り調査では、桐箱職人が血縁関係から広がっていったことが明らかになりましたが、箪笥職人もまた、血縁関係のなかで広がりをみせていったことがうかがえる貴重なお話でした。
午後の部には、調査の折に大変お世話になった桐箪笥職人さんがご来館されました。
職人さんの前で桐箪笥の構造や鑑賞の仕方について解説をしました。まさに釈迦に説法。かなり緊張しました。解説の後、職人さんからは色々とアドバイスをいただき、「展示はよくまとまっている」とお褒めの言葉をいただきました。展示会が開催できてよかったと思えた瞬間でした。
また、午後には桐箪笥の元職人さんとご友人という方もおり、元職人さんにお取り次ぎいただきました。まだまだ調査を継続し、色々なお話を集めなければならない、と実感した一日でもありました。
皆さま、ご来館いただきありがとうございました。
次回のミュージアムトークは、8月4日(水)10:30~、15:00~となります。桐箪笥・桐小箱にゆかりのある方も、ぜひおいでください。
郷土資料館は開館しております
新型コロナウイルス感染拡大防止に向け、政府の緊急事態宣言に伴う埼玉県の協力要請を受けた対応として、8月3日(火曜日)以降も徹底した感染防止対策を講じた上で制限付き開館を継続し、イベントも開催します。
なお体験コーナーは一部利用できません。
<来館時のお願い>
・大人数での来館は控えてください。館内の状況により、入場制限を行う場合があります
・発熱などの風邪症状のある人は入館できません
・皆さんの安全確保のために、入館時に氏名・緊急連絡先の記入をお願いします
・入館時の手指の消毒にご協力をお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・滞在時間は、30分を目安にしてください
・会話を控えるとともに、他の来館者との十分な距離(おおむね2メートルを目安)をとってください
9月5日まで「語りだしたらキリがないー桐のまち春日部」展を開催しています。
夏季展示はじまりました。展示解説講座も
#かすかべプラスワン 7月20日より夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまっています。ご来館いただいた方には展示パンフレットを差し上げています。ぜひご来館ください。
7月25日には、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」も開催しました。
展示担当の学芸員による今回の解説講座では、近世から現代の春日部の桐産業に関する史料を読み解きました。これまでの春日部の桐産業の歴史は、どちらかといえばあいまいにされてきた部分も多くありましたので、今回は史料に基づいて、近世から近代の桐産業の展開をたどってみました。史料とは文献・文字資料のことで、上の写真のスライドにもみえるように、くずし字の古文書も含まれます。ちょっと小難しかったかもしれませんが、受講者も講師もレジュメと終始にらめっこ。一言一句解説をしながら、受講者の皆さまと史料を解釈しました。
内容については夏季展示でも紹介しているところですが、少しだけ講座の内容を紹介。
春日部の桐産業の起源は、史料的には、天明元年(1781)までしか遡れません。天明元年の銚子口村年貢割付状(埼玉県立文書館収蔵銚子口区有文書)に、「一、戌新規 永百文 箱指冥加永」(ひとつ いぬしんき えいひゃくもん はこさしみょうがえい)とある記事が、現在判明する限りで最も古い桐産業の起源を示すものとなります。
「戌新規」とは、安永7年(1778)の戌年から新規にという意味。銚子口村では安永7年から「箱指冥加永」を「永百文」を毎年幕府に上納しているという記述です。「冥加永」とは、営業税の一種で、「箱指」とは箱・指物づくりをする職人のことを指しています。「箱指冥加永」を別の史料では「箱屋運上」と言い換えている史料もあります。同様に「箱指冥加永」を支払っている市内の村は、粕壁宿・備後村(当初は藤塚村も)であったこともわかっており、粕壁宿では、「永五十文」を毎年幕府に上納していたことが、市指定有形文化財の粕壁宿文書(埼玉県立文書館収蔵)から判明します。また、粕壁宿・備後村・銚子口村の箱指(箱差)はいずれも「農間箱指」「農業之間指物細工」などと表現された農業の合間の生業として、箱・指物づくりに従事していたこともわかります。
実は桐細工であるかどうかはわからないのですが、このように桐箪笥・桐箱づくりの起源は、史料的には天明元年(1781)のものが最古で、安永7年(1778)より以前、市域において「箱指」がどのように存在していたのか、わからないのです。
となると、よくいわれている「江戸時代の日光東照宮に加わった工匠たちが春日部に移り住んで桐箪笥や桐箱の製造をはじめた」という起源の話は、いったいどうなるのでしょうか。解説講座では、この東照宮の工匠伝説についても言及しました。この点については夏季展示でも紹介しいるところですし、ミュージアムトーク(展示解説)でもお話する予定です。
気になる方は、ぜひ展示を見に来てください。
【プレ夏季展示最終回】常設展とロビーにハミ出し展示
いよいよ7月20日から始まる夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展のプレ展示第3弾(事実上の最終回)です。まもなく、夏季展示が始まるので、今回は大きくハミ出しました。まず、常設展の展示ケースを展示替えです。夏季展示の関連資料を陳列しました。
テーマは「桐箪笥・桐箱の流通・消費を考える」です。
今回の企画展示では、製造の工程や春日部の桐産業の展開を中心に紹介しています。これまでの成果も基本はその大枠を出るものではなかったと思います。生産量が増え、「桐のまち」へと成長していくのは自明のことですが、ではその需要はどこにあったのか。このハミ出し展示では、桐箪笥・桐箱の流通・消費のあり方を考える様々な史料を展示しました。ハミ出しており、一見、企画展示の本筋ではないようですが、実は本展示の核心的なテーマだったりします。資料の都合上、明治以降が中心となりますが、江戸時代にも遡って考えられるのではないか、と考えています。お見逃しなきよう。
もう一つは、ロビーのパネル展。
ここには、「語り出したらキリがない、けど語らせて」と題し、今回の聞き取り調査、資料調査で得た「小咄」をコラム的に紹介しています。以前、紹介した藤塚橋の桐の木など、ちょっとした小ネタを余すところなく紹介しています。ミュージアムトークのネタが無くなってしまうかもしれません。企画展示室内にも同様のコーナーがありますが、パネルに貼りきれなかったので、ハミ出しました。
今回は、職人さんをはじめ、色々な方にご協力をいただいたので、手前味噌ですが本当に充実しています。展示は7月20日(火)から、いよいよ始まります。ご期待ください。
なお、開会後、最初の催し物として、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」を以下の通り開催します。あわせてご利用ください。
日時:令和3年7月25日(日)午前10時~12時
会場:春日部市教育センター2階 視聴覚ホール
定員:30名
費用:無料
申込:郷土資料館へ直接、または電話。
縄文体験教室 in 豊野小学校♪
7月14日(水)は豊野小学校の6年生の2クラスを対象に「縄文体験教室」の出張授業に伺いました。
今学期6校目の実施となりました。
どちらのクラス共に飛鳥時代まで授業が進められていましたので、”縄文時代”は振り返りの学習です。
授業の導入では「神明貝塚」のYoutubeにもアップしている動画を観た後、レジュメに沿って春日部の縄文時代の遺跡を写真や図を用いて紹介しました。
▲講義の一コマ。手にしているのは、なんと12万年前の地層から発見された「カキ」の化石。
現在、私たちが食卓で食べるカキに比べ大きいですね!
このことから春日部は12万年前に、ある状態であったことが分かります。
その後、
「石器」「食料」「土器」の三ブースに分かれて、グループで体験学習に取り組みました。
▲「食料」ブースでの体験。はたして何の骨でしょう?
▲イラストを用いた解説。はたして縄文人は「どのように」土器を作っていたのでしょうか?
豊野小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも様々な学習にお手伝いにうかがいます。
県指定無形民俗文化財”やったり踊り”の写真展示のお知らせ
本日、7月14日(水)から7月末まで、埼玉りそな銀行 武里支店・せんげん台支店(せんげん台駅西口 徒歩3分)で写真展示が行われています。
昨日のほごログでもお知らせしましたが、新型コロナウイルスの影響により、伝統芸能の公開が全国的にも見合わせが多くなっています。しかしながら、地域で代々継承され、ひとからひとへとバトンが引き継がれる貴重な伝統の舞を多くの皆さまへ知っていただこうと、銀行のフロアーで公開していただいております。
▲「やったり踊り」と越谷市の「下間久里の獅子舞」が紹介されております。
▲「やったり踊り」では扇子踊りで使われる『扇子』とお囃子の篠笛の実物も展示されています
▲「下間久里の獅子舞」では、地区を巡る『辻回り』と各所での奉納舞の写真が展示されています
梅雨終盤の暑い中ですが、銀行利用と併せて郷土が誇る伝統芸能について多くの皆さまに知っていただける機会となりましょう。お近くにお出かけされた折には、お立ち寄りください。
夏季に行われる”伝統芸能”の公開の中止について
例年、7月第3週目の「海の日」前後には、埼玉県や春日部市で指定されております伝統芸能(無形民俗文化財)が市内各所で公開されております。
本年につきましては、昨年に引き続き、残念ながら新型コロナウイルスの感染拡大により、やったり踊りや西金野井の獅子舞など、獅子舞や神楽を継承しております6団体の公開が中止となりました。
各団体ともに伝統の舞の継承のため、個人や少人数による自主練習が重ねられております。
コロナ渦の終息後には、賑やかな祭り囃子と華麗な舞の公開がされますよう、もう少し、おまちください!
【プレ夏季展示第2弾】常設展の桐タンスの解説がグレードアップ!?
7月20日から始まる夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展のプレ展示第2弾です。今回も夏季展示をハミ出して、常設展に展示中の桐箪笥・用箪笥の解説パネルを更新しました。
これまで、常設展示の桐箪笥の解説パネルには、資料名「桐箪笥」と使用推定年代だけ表示していましたが、これを一新。今回の夏季展示の調査で、職人さんや関係者の方に教えていただいた箪笥の見方を踏まえて、キャプションを記述してみました。
写真下段の箪笥は、上段に板戸付きの箪笥、下段には2つ抽斗(ひきだし)の箪笥の二つ重ねの箪笥で、「二つ重ね上開き箪笥」(戸開二重箪笥)と呼ばれています。この形は、近世の草双紙にも描かれるもので、関東地方では近世から明治時代にかけて多く製作されたようです。
この挿絵は、寛政元年(1789)刊『炉開噺口切』(国立国会図書館デジタルコレクションより)に掲載されるもので、武家の屋敷に戸開きの箪笥がみえます。
展示中の箪笥は、粕壁の旧家(商家)から寄贈されたものです。形からみて、幕末から明治時代頃の箪笥だと考えられれます。箪笥は使用される部材によって等級や価格が変わるのですが、この箪笥は厚さ六分(18mm)の板を使っていますが、人目につかない部分は薄い板になっています。こうした製法を「上羽(うわば・上端)」といいます。どこが薄いのかは原物をぜひ見てください。「材をまけて、見栄えがよいように作る」職人のワザなんだと思います。
もうひとつ。箪笥の上に置いている小型の箪笥は、用箪笥(ようだんす)といいます。「ヨウダンス」という言葉は、一部の国語辞典にも掲載される「洋箪笥」(洋服をつるして収める箪笥)と同じ発音・イントネーションでもあり、また製造数も少ないため、「用箪笥」は過去の遺物になりつつあります。用箪笥は「サカ」と呼ばれ、引戸(ひきど)のないものを「一寸サカ」。引戸(ひきど)があるものを「二寸サカ」といい、この用箪笥は七つの抽斗(ひきだし)があるので「七ツ割」であり、製造する職人は「七ツ割一寸坂」と呼んだのではないと考えられます。用箪笥は、桐箱よりも大きく、箪笥や長持(ながもち)よりも小ぶりなため、本箱や硯箱(すずりばこ)とともに「中箱(ちゅうばこ)」ともいわれました。明治時代後期、粕壁周辺には「中箱」製造を得意とする職人「中箱師」が300人もいたといいます。現在は、春日部の特産品の桐製品は、桐箪笥、桐箱に二極化していますが、元来は、箪笥と箱の中間があったようです。なぜ、用箪笥を「サカ」と呼んだのか、わかりませんでしたので、どなたか知っている方がいたら教えてください。
作った職人が違うとはいえ、桐箪笥も用箪笥も、前面がきれいに整った柾目(まさめ)の板材を使っています。柾目とは平行で均質に整った木目のことで、箪笥等の家具に好まれる部材です。一本の丸太からとれる柾目の板は限られているため、希少な部材です。どのように柾目の板をつくるのか、箪笥が作られるのか、これについては夏季展示でも解説するところですので、展示の「予習」として桐箪笥や用箪笥をぜひご覧ください。もちろん、夏季展示の会期中にも展示する予定です。
奥深いぞ!春日部の桐産業
新収蔵品展のパンフレットを掲載します
春日部市郷土資料館かすかべの宝もの18新収蔵品展パンフレット.pdf(582KB)
7月7日のミュージアムトーク
7月7日(水)をもちまして、「第63回企画展示 かすかべの宝もの18 新収蔵品展」は終了しました。期間中は、多くの方にご来館いただき、誠にありがとうございました。また、資料をご寄贈、ご寄託いただいた方、ご協力者の方に深くお礼を申し上げます。
会期中のイベント、展示解説講座「春日部の板碑」、ミュージアムトークにつきましても、盛況のうちに開催することができました。
通常の日程ですと、当館の企画展示は、日曜日までの会期が多いのですが、今回は、7月7日に春日部で聖火リレーが行われるということで、会期を7月7日水曜日までとしました。聖火リレーも無事行われ、ご来場いただいたお客様の中には、帰りに資料館にお立ち寄り頂いた方もいらっしゃいました。
さて、会期中、展示室でお配りした企画展示のパンフレットのPDFを掲載します。
春日部市郷土資料館新収蔵品展パンフレット.pdf(582KB)
(掲載資料:小流寺縁起、木造小島庄右衛門正重坐像、聖徳太子像、板碑、小学読本巻四、尋常小学習字本、粕壁中学校通知表、粕壁中学校会報、葛飾中学校椅子、上蛭田村高札、南桜井村議会議案、南桜井村報、亀田鵬斎カネコ薬局看板、5玉そろばん、往診用薬箱と道具、一円紙幣、田畑小作取立簿、粕壁町八坂神社祭典記念絵葉書、一般用米穀類購入通帳、1964年オリンピック審判補助員制服、日本オリンピック委員会バッジ、東京五輪ピンバッジ、1964年東京五輪組織委員会参加記念バッジ、1980年モスクワオリンピック公式記念メダル、プリントゴッコ)
7月20日(火)からは、「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展を開催します。引き続き換気・消毒等新型コロナウイルス感染症対策を実施しながら開館いたしますので、皆さまぜひご来館ください。
【プレ夏季展示】常設展の粕壁宿模型が桐のまちに!?
7月20日から春日部市郷土資料館の夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまります。
今回の展示は、桐箪笥や桐箱の業者さんに聞き取り調査をし、その成果を紹介し、秘蔵の資料や資料館の収蔵品を展示するものです。調査を進めていく過程で、本当にいろいろなお話しがうかがえ、春日部の桐産業の奥深さが徐々にわかってきました(現在進行形です)。常設展示にも桐箪笥・桐箱が展示されていますが、これまでの展示方法、解説のキャプションは何も説明できていないことを痛感させられた次第です。担当者が思ったのは、「桐のまち」と言われるだけあり、本当に語り出したらキリがありません。ですから、おそらく当館の手狭な企画展示室には収まりきらないでしょう。
ということで、今回の夏季展示では、常設展示にも桐に関連する資料を陳列することが濃厚です。チラシの「展示室をハミ出して桐のまちの魅力をお届けします」とは、これを所以としています。
さて、今回はハミ出し展示の第一弾、展示を先取りした「プレ夏季展示」として、江戸時代の粕壁宿推定復元模型に、桐箪笥や桐箱の職人・問屋がいた地点に表示を立ててみました。
模型のなかで特に密集しているのが、源徳寺の周辺で三枚橋や新々田と呼ばれたあたり。昭和32年の『商工名鑑』によると箱屋さん、箪笥屋さんが数件集まっています。ここには、老舗の箪笥問屋として島村箪笥製作所が所在します。同店は、創業者の島村忠太郎が大正7年(1918)に粕壁に転住し、箪笥製造と仲買を始めた店とされており、後の島忠家具(島忠ホームズ)の前身にもなります。現在の学校通り沿いに店舗があったことをご記憶の方も多いと存じますが、粕壁における最初の店舗は三枚橋に所在したようです。
このほかにも、日光街道沿いのこの模型の中に確認できる場所に立て札を置いています。桐箪笥職人や問屋の所在地が確認できるのは、明治時代以降となりますので、模型の想定年代とはずれるのですが、いかに春日部(粕壁)が桐のまちであったかがよくわかるのではないかと思います。
皆様には展示の前の「予習」としてご覧いただければ幸いです。もちろん、会期中も展示予定です。
【7/7まで新収蔵品展】1964年東京オリンピック時に使用した横断幕
新収蔵品展は、いよいよ7月7日(水)までです。最終日7月7日には、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
みなさまのご来館をお待ちしております。
さて、新収蔵品展では、市民の方からいただいた1964年東京オリンピック時に使用した横断幕を展示しております。
この横断幕は、幅約40㎝、長さ約520㎝、オリンピックの5色のライン上に白で抜く形で「WELCOME TO TOKYO 1964」の文字が書かれます。1964年の東京オリンピック時、オリンピックの海外選手の練習会場となった東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)に掲げられたものです。
駒場キャンパスでは、現在もある陸上競技場や野球場、ラグビー場が、全面的に陸上競技の練習会場になりました。またキャンパス内の現在「トレーニング体育館」と呼ばれる施設では、当時はまだめずらしかったウエイトトレーニングをすることができました。駒場キャンパスは、オリンピックによって、スポーツ施設の整備が急速に進められました。
横断幕の特に裏側をみてみると、布にペンキのようなもので5色のラインを引いています。既製品ではなく、手作りの横断幕で海外からの選手を歓迎したことがわかります。
参考
教養学部報第561号 1964年東京五輪と駒場キャンパス(東京大学サイト)
日本のオリンピックを支えた東京大学の施設|オリパラと東大。(東京大学サイト)
【7/7まで新収蔵品展】兌換制度と一円札
新収蔵品展は、いよいよ7月7日(水)までです。みなさまのご来館をお待ちしております。
さて、新収蔵品展では、市民の方から寄贈頂いた武内宿禰(たけうちのすくね)の肖像と「日本銀行兌換銀券(だかんぎんけん)」と印字された1円札を展示しています。
貨幣(かへい)は、商品の交換手段であり、それ自体が価値をもつ金、銀が金貨、銀貨として使われていました。しかし商品の流通が拡大すると、貨幣が不足します。これに対応するため、中央銀行が、金貨、銀貨の準備金を用意し、兌換(だかん・紙幣と金銀の交換)をおこなうことを保証することで、紙幣が金銀と同じ価値をもち、信用力が上がります。兌換紙幣(だかんしへい)はいっせいには金銀に交換されないため、準備金を超える紙幣が発行でき、その増減をはかることができます。金に兌換する紙幣が流通することを金本位制、銀に兌換する紙幣が流通することを銀本位制といいます。
日本の明治時代から昭和時代はじめまでは、近代的な兌換制度が採り入れられた時代であり、明治22(1889)年からから昭和17(1942)年まで発行された武内宿禰(たけうちのすくね)の銀兌換の一円紙幣はその象徴的な存在でした。
明治政府は、明治4(1871)年、近代的な貨幣制度を整えるため、大阪に造幣局(ぞうへいきょく)を作り、新貨条例(しんかじょうれい)を発布(はっぷ)して、金1.5gを1円と定め、円、銭(せん)、厘(りん)の単位による十進法(じっしんほう)の通貨制度を採用、金貨、銀貨、銅貨を発行しました。明治5(1872)年、国立銀行条例が制定され、金兌換(きんだかん)の国立銀行券が発行されました。
ところで、この貨幣制度と国立銀行を準備して整えたのは、当時明治政府の大蔵省で働いていた渋沢栄一です。こうした縁もあり、渋沢栄一は令和6(2024)年から一万円札の肖像として採用されています。なお、このとき成立した国立銀行は、国の法律や制度によって成立した民間の銀行といった意味で、今の日本銀行ではなく、第一銀行から第百五十三銀行まで番号を付されていました。
明治15(1882)年、松方正義(まつかたまさよし)により日本銀行が設立し、明治18(1885)年、日本銀行から銀兌換(ぎんだかん)紙幣が発行されました。当時、中国や東南アジア諸国、メキシコ等、銀本位国との貿易が盛んになっており、日本も準備金を銀で用意していたことから、銀本位制が採用されました。明治22(1889)年には、武内宿禰があしらわれた銀兌換の一円紙幣が発行され、番号が漢数字で書かれます。
日清戦争(にっしんせんそう)後、多額の賠償金を得た日本政府は、明治30(1897)年、貨幣法を交付し、金本位制を採用しました。世界的に金の価値が高まっていたことから、これまでの倍の価値となる金0.75gが1円に変更されました。しかしながら、一円紙幣については、兌換される金貨が製造されなかったため、銀兌換券の発行が続けられることになりました。大正5(1916)年から発行された一円紙幣は、それまでの一円紙幣と武内宿禰を用いたデザインは共通するものの、番号がアラビア数字で書かれ、昭和17(1942)年まで発行されました。実に53年間、同じデザインの1円紙幣が発行されました。
このころ、写真技術の発達とともに紙幣の偽造が横行し、その対策として、すかし技術や写真に撮影しづらい淡い色合いで印刷する技術が発展しました。
昭和6(1931)年、金貨兌換停止、昭和17(1942)年金本位制廃止、翌昭和18年、不換紙幣の発行により、日本は管理通貨制度へ移行しました。
参考文献
新出隆久2019 「近代の貨幣制度と銀本位制の確立まで」『日本史かわら版』第7号 帝国書院
新出隆久2019 「金本位制の確立と展開」『日本史かわら版』第8号 帝国書院
松村記代子2012「日本紙幣の沿革」『日本印刷学会誌』第49巻第2号
○7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
"オンライン土器作り教室"の応募を締め切ります
昨日より申し込みの受付を開始した「オンライン土器作り教室」ですが、予想を大きく上回るご応募をいただき、本日、定員に達したため、応募を締め切ります。
たくさんのご応募ありがとうございました。
またこれから応募しようとされていた方々、ご家族で検討されていた皆様につきましては、大変申し訳ありませんが、またの機会にお待ちしていますので、よろしくお願いします。
”オンライン土器作り教室”参加者を募集しております!
毎年、夏休みの恒例イベントとしておなじみの「土器作り教室」をオンラインで開催します!
昨年は新型コロナウィルスの感染拡大により、中止せざるを得ない状況でしたが、何とか開催できないものかと考えた結果、新たな取り組みとしてオンラインでの開催といたしました。
主な内容としては、配信される土器作り動画を参照のもと、各ご家庭での土器作り体験です。詳しい内容及び日程については市ホームページをご覧ください。
本日7月1日より受付を開始していますが、すでに7名の方々から申し込みがありました。先着20名となりますので、是非参加してみたいという方はお早めにお申し込みください。このブログでも逐次、申し込み状況を発信してまいります。
【申込方法】
参加者の住所・氏名・年齢・電話番号を記入のうえ、メールにてお申し込みください。
(宛先)bunkazai@city.kasukabe.lg.jp
【7/7まで新収蔵品展】米穀類購入通帳
6月27日(日)、新収蔵品展2回目のミュージアムトークを開催しました。ミュージアムトークは、7月7日(水)展示最終日にも開催いたします。10時30分~、15時~の2回で、いずれも30分程度の予定です。申込み不要ですので、お気軽にご来館ください。
さて、新収蔵品展では、市民の方から寄贈頂いた一般用米穀類購入通帳(べいこくるいこうにゅうつうちょう)を展示しています。
太平洋戦争中は、食料や物資のさまざまなものが不足し、割り当てられた量しか買うことができない配給制や切符制となりました。米などの米穀類は昭和17年(1942)2月、食料管理法が定められ、配給される米を購入するときには、米穀類購入通帳を提示し、購入する量などを記入、市町村長の印を受ける形となりました。戦時中の米の大人1人の1日の配給量は330gでした。
戦後、すぐは食糧難が続き、配給制も続けられました。しばらくすると好転し、昭和30年ごろには米穀類購入通帳が無くても米が買えるようになっていたそうです。
昭和34年(1959)2月号の広報かすかべには、「お米のキロ単位配給」の記事が掲載されています。これは、当時1日1人365グラム、月あたり5キロ475グラムであった配給を5キロか6キロの配給とし、年間を通じてキログラム未満部分を調整して配給するものです。
展示している米穀類購入通帳の昭和44年(1969)の時点では、大人1人、1か月の配給量が15㎏でした。すでに通帳がなくても米は買えたようですが、米穀類購入通帳は、市町村長の公印が押されていることで、身分証明書としても使用されました。
米穀類購入通帳は、昭和44年に自主流通米制度が創設されると形骸化し、昭和56年(1981)に廃止されました。
ところで、7月3日(土)13:30より、新収蔵品展で展示している貞治6年の板碑を中心に、市内の板碑の概要などについての展示解説講座を教育センターで開催します。また繰り返しになりますが、7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆展示解説講座「春日部の板碑」
日時:7月3日(土)13:30~
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:直接、または電話(048-763-2455)で郷土資料館まで。
◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
市の木「キリ」はどこにある?
「春日部は桐細工が盛んだけれど、桐の木はどこにあるのか」と、よく聞かれます。桐の木(キリ)は、市の木として春日部市のシンボルの一つでもありますが、たしかに、市内で桐の木を目にすることはほとんどありません。
現在、いくつかの公園や市内の学校などにキリが植樹されているようです。春日部市役所の敷地内にも、枝が選定され貧相ですがキリが植わっています。下の写真は、五月初旬に花を咲かせた様子を職員が撮影したものです。
果たして、春日部には桐の木が繁茂していたのでしょうか。
企画展「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展の調査のなかで、戦前生まれの桐箪笥職人、桐箱職人の方にお話しをうかがうことができました。
粕壁にお住まいの桐箪笥職人さんによれば、昭和22年以前、最勝院の裏から古隅田川の縁辺にかけての敷地はみな桐林だったとのことです。ですから、現在の春日部中学校が桐林だったらしいです。また、幸松にお住まいの桐箱職人さんによれば、樋籠の柳原団地と呼ばれる住宅地は、その昔桐林だったそうです。昭和22年撮影の航空写真をみると、すでに畑地もしくは更地になっており、残念ながら写真では確認できませんでした。『春日部市史』によれば、戦後の食糧増産政策により、多くの桐の木が切り倒されていったとされます。
大正時代の資料によれば、埼玉県の南部にあたる入間・比企・北足立・南埼玉・北葛飾5郡には優良な桐材の産地だったとされています。県南部なので「南部桐」と称し、岩手・青森県の南部桐とも混同・混用されてたともされています。多くの桐材が産出されていたことは確実のようです。ただし、職人さんにいわせれば、県内の桐の質はあまりよくなく、桐の木があっても使うことはなかっただろうともお話しいただきました。
調査を続けるなかで春日部市内の古い桐林の写真が見つけました!これについては企画展示でお披露目したいと思います。
さて、キリの木の情報を方々から聞き取るなかで、一風変わったキリの話を教えてもらいました。なんでも藤塚橋の人道橋の水道管の上に生えたキリの木があるとのこと。早速、確認しにいってみました。
教えていただいた方によれば、キリが生えてから15年は経過しているとのこと。春先には花も咲かせているそうです。キリは苗ほどの大きさまで成長してしまえば、強く育つ植物のようで、藤塚橋の水道管の隙間に積もった土で生きるようです。ただ、土が少なく根を広げることができないので、これ以上は大きくならないとか。
アスファルトに咲く花ならぬ、「橋桁に植わるキリ」として注目してはいかがでしょうか。そんな話題も踏まえて、企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展、目下準備中です。お楽しみに。
縄文体験教室 in 緑小学校♪
6月28日(月)は緑小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業に伺いました。
クラスは全2クラス。
導入では令和2年3月に国史跡になった「神明貝塚」の紹介動画を見てもらいました。どの学校でも動画13分間は静寂に包まれ、皆さんが集中してくれます。
その後は学校近くの遺跡の紹介。緑小の地区内では古代の八木崎遺跡と浜川戸遺跡がありますが、縄文時代遺跡が無いことも地形と縄文海進から謎解きを・・・・
▲講義の様子。皆さん集中して聞いてくれてます。
その後、
「石器」「食料」「土器」の三ブースに分かれて、グループで体験してもらいました。
▲「食料」ブースでの体験。はたして何の骨でしょう?
▲「石器」ブースでの体験。鋭い黒耀石製の石器の切れ味に段ボールもご覧のとおり!
実体験をとおして縄文の技術の高さが一層わかります。
緑小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
縄文体験教室 in 桜川小学校♪
6月25日(金)は桜川小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業に出向きました。
クラスは全3クラス。
導入で「神明貝塚」のyoutubeにもアップしている動画を観た後、レジュメに沿って学校の近くにも縄文時代の遺跡があることを写真や図を用いて紹介しました。
▲講義の様子。縄文人が食べた「とある哺乳類」の頭の骨です。皆さんは何の骨か分かりますか?
これにより縄文時代の春日部が「ある状態」であったことが分かります。
(ヒントは今、世界で問題になっている〇〇化現象です)
その後、
「石器」「食料」「土器」の三ブースに分かれて、グループでほんものに触れる体験を。
▲「土器ブース」での体験。古代人が使用した「土師器と須恵器」を直に触ってみて歓声をあげる6年生。
「なぜ?」を軸に、縄文人、古代人がどのように生活をしていたのか、を考えてもらいました。
桜川小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in桜川小学校
令和3年6月24日(木)に桜川小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回は社会科“わたしたちのまち みんなのまち”の授業の一環として、桜川小周辺にある文化財の紹介や、航空写真を利用して町の様子を学習しました。
桜井小のすぐ近くにある県指定有形文化財の花蔵院の四脚門や、同じく県指定有形文化財の香取神社本殿を写真で紹介させてもらいました。
児童からも「見たことある!」「知ってる!すぐそこ!」などの声が聞こえ、身近に文化財があることを知ってもらえた様子。児童にとって「文化財」という言葉はまだ聞きなれないものですが、歴史のある貴重なものだということは伝えられたかと思います。
紙芝居では“生きている彫り物”という花蔵院の四脚門に纏わる伝説の読み聞かせをしました。みんなじっくりと集中して聞いてくれましたね。
航空写真を広げて、桜川小や自宅、周辺の施設など色々なものを探しました。航空写真を読み取るために方角を意識するようにもしましたね!
目印となるところにシールをペタペタ貼るのも楽しかったようです。
自由時間には児童自ら紙芝居の読み聞かせ!
なかなか感情を込めて読む児童もいました。将来は役者さんでしょうか♪
みんな楽しそうに学習してくれたようで何よりです!
多くの学校からご好評いただき、おかげさまで“でばりぃ資料館”もだんだんと認知度が増してまいりました!
これからも随時ご依頼、ご相談お待ちしております!
桐の企画展示やります!
先日、調査の経過を報告しましたが、7月20日(火)から、春日部市郷土資料館で企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展を開催します。展示のチラシができましたので、お披露目したいと思います。
今回の展示は、春日部の特産品である桐箱と桐箪笥を中心に、桐細工産業の歴史を紹介するものです。
チラシには、江戸時代の桐細工職人が信仰した小渕・観音院の聖徳太子立像、昭和34年に皇太子殿下御成婚記念の献上品の桐箪笥、昭和40年代後半の市内箱屋の出荷風景の写真を掲載しました。背景は、桐箪笥の開き戸の錠前と帯金具です。「桐」の文字は、明治期の市内の箪笥職人の帳面からトレースしてみました。チラシは順次、市内の施設などで配布します。
展示の内容やこぼれ話などは、このブログで追々紹介していければと思っています。お楽しみに。
事業名:春日部市郷土資料館夏季展示(第64回)「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展
会期:令和3年7月20日(火)~9月5日(日) 月曜祝日休館
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15 教育センター内)
入館料:無料
関連イベントもあります。詳しくはチラシ(PDF約4MB)をご覧ください。
南桜井小学校で縄文体験教室を行いました
6月23日(水)に南桜井小学校の6年生を対象に縄文体験教室を行いました。
南桜井小学校の学区である西金野井では市内で最も古い年代にあたる約3万年前の旧石器時代の人々の暮らしをはじめ、縄文時代の貝塚を伴うムラも発掘されており、市内でも歴史の古い土地柄です。
また馴染みの深い「首都圏外郭放水路(龍Q館)」の工事からわかった大昔の海の様子が話題となり、子どもたちも当時の環境について興味がわいてきたのではないでしょうか。
▲神明貝塚からみつかった貝を種類ごとにわけてもらいました。黒くて小さい貝は現代の「シジミ」です。
子どもたちには授業を通じて、縄文人の技術の高さや現代の私たちと同じものを食べていることに驚き、実物に触れることで、教科書では味わえない体験をしてもらいたいと思っています。
引き続き縄文時代の学習のお手伝いを進めてまいりますので、お声かけをお待ちしています。
縄文体験教室 ㏌ 八木崎小学校♬
6月18日(金)は八木崎小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業を行いました。
クラスは全3クラス。
授業は、三密を避けるため4階の広々とした多目的教室を会場としました。
導入では「神明貝塚」の動画、さらには学校付近に広がる八木崎遺跡・浜川戸遺跡を紹介、さらには市内の貝塚遺跡の特徴や市内が海原にあった時代を学習しました。
その後、
「道具ブース」「食料ブース」「土器ブース」の三箇所に分かれてグループで体験してもらいました。
▲石器の黒耀石が200km離れた信州諏訪付近からの交易によってもたらされたことを学習する生徒さん達。
▲「縄文土器」「須恵器」「土師器」「埴輪」。それぞれの用途や違いを実物に触れて学習。
灰色の「須恵器」を石やコンクリートだと思っていた生徒さんが、「土器」であると知り驚いていました。
▲石器のコーナーでは黒耀石の鋭い切れ味を段ボールで実体験。指を切らないようにハラハラしながらも、「良く切れる!」の歓声が上がります。
授業終了後、感想を聞いたところ、「黒耀石の石器が欲しいです!」と熱意をもって答えてくれた生徒さんもいました。これをきっかけにもっともっと縄文時代を好きになってもらえたら幸いです。
八木崎小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
【7/7まで新収蔵品展】貞治6年銘の板碑
新収蔵品展では、金崎の方から寄贈された、板碑(いたび)を展示しています。板碑は、板石塔婆(いたいしとうば)とも呼ばれ、中世に、死者の供養などのために建てられました。日本全国で確認されるものの、埼玉県はとりわけ数が多く、約27,000基の板碑が確認されています。
春日部市内には、486本(『埼葛の遺跡』)の板碑の存在が確認されており、資料館に収蔵されているもののほか、地域のお寺や住宅などで、信仰の対象として大切に保管されています。これら板碑のうち、浜川戸遺跡から出土したもの(郷土資料館常設展示)が市指定文化財に、西親野井の大王寺別院に安置されているものが県指定文化財に指定されています。
埼玉県周辺でみられる板碑は、緑泥片岩(りょくでいへんがん)という、長瀞町や小川町でとれる石を使っています。青い色が目立つ石であることから「青石塔婆(あおいしとうば)」と呼ばれることもあります。形は、板状に整形され、頭部を三角に整えます。上部より、二条線、梵字(ぼんじ)で表された主尊(しゅぞん)、蓮台(れんだい)、花瓶(けびょう)などを刻みます。梵字は古代インドのブラーフミー文字から発展した文字で、仏教と結びつきが強く、仏教の仏を1字で表すことができます。板碑に彫られる梵字は、キリークという阿弥陀如来(あみだにょらい)を示す梵字が最も多く見られます。
板碑の多くには、このほかに供養者名や建てた年号などが刻まれます。建てられた具体的な年号を知ることができ、展示している板碑にも貞治(じょうじ)6年(1367)の年号と「八月廿八(にじゅうはち)日」という日付が刻まれています。
西暦1367年当時は、朝廷が北朝と南朝に分かれた南北朝時代でした。年号も北朝、南朝それぞれで定めており、この「貞治」という年号は、北朝の年号です。埼玉県周辺の板碑に刻まれる年号は、北朝の年号のものが多いようです。
一方で、春日部市内には、「元弘(げんこう)」という南朝で1331~1334年に使われた年号をもつものが4本あり、春日部にかかわりの深い武士の春日部氏が南朝側についたからではと考えられています。
さて、7月3日(土)13:30より、今回ご紹介した貞治6年の板碑を中心に、市内の板碑の概要などについての展示解説講座を教育センターで開催します。また、6月27日(日)と7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆展示解説講座「春日部の板碑」
日時:7月3日(土)13:30~
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:直接、または電話(048-763-2455)で郷土資料館まで。
◆ミュージアムトーク
日時:6月27日(日)、7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
参考文献
埼玉県立歴史と民俗の博物館展示解説シート 『第6室 板碑ー武士の心』
埼葛地区文化財担当者会 2007 『埼葛の遺跡』埼葛地区文化財担当者会報告書第6集
春日部市教育委員会 1994 『春日部市史第6巻 通史編1』P.372~P.395
春日部市史編さん委員会 2012『春日部市史 庄和地域 原始古代中世近世』P.239~P.241
豊野地区公民館で展示説明会を実施します
以前にもブログでお知らせしましたが、豊野地区公民館で現在開催されている神明貝塚の巡回展示にあわせて、下記の日程で展示説明会を実施します。
タイトル:「ここまでわかった! 国史跡 神明貝塚と縄文人のくらし」
会 場:豊野地区公民館
日 時:令和3年6月27日(日)14:00~15:30
定 員:20名(先着順・豊野地区公民館に直接申し込み)
現在、展示説明会に向けて準備をしているところですが、展示説明というより、神明貝塚の魅力と特徴を講座形式で、発掘調査から判明した神明貝塚の姿や、縄文人のくらしの様子などをお伝えできればと思っています。
また、Youtube上でも公開している動画の上映や、実際に土器や貝殻に触れていただく機会としております。まだ定員に達していないということですので、お気軽にご参加いただければと思います。
【展示説明会の詳細・申し込み】→豊野地区公民館のブログ
【臨時休館】6月19日(土)は休館します
誠に申し訳ございませんが、6月19日(土)は教育センターの施設点検のため、春日部市郷土資料館は休館します。
6月20日(日)は通常通り開館します。
縄文体験教室 in 内牧小学校♪
6月11日(金)は内牧小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業を行いました。
6年生の社会科学習が歴史単元に進んだので、今回が令和三年度最初の出張授業となりました!!
クラスは全3クラス。授業は、三密を回避するため、少々暑かったですが広々とした体育館で行いました。
導入では「神明貝塚」の動画、さらには学校付近に広がる遺跡と市内の貝塚の存在を学習し、その後、
「石器ブース」「貝・骨ブース」「土器ブース」の三つのブースをグループで体験してもらいました。
歴史の授業が今日がはじめてというクラスもあり、みなさんは興味津々でした。
▲春日部市内にも縄文時代の遺跡があることを知り、中には驚く子も。
▲石器のコーナーでは切れ味体験とあわせて石器の石材の黒耀石がどこからやってきたのか学びます。200kmも離れた信州諏訪付近からも交易によってもたらされたものと知り、驚く様子もみられました。
▲貝などの海産物や獣、そして豊かな森から得られる植物資源と多様な縄文人の食生活。現代に通じる食生活があったかも?
授業終了後、子どもたちの中には、名残惜しそうにブースを眺めている子もいて「もっと聞きたかった」と言ってくれた子もいました。
内牧小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
【7/7まで新収蔵品展】小流寺の聖徳太子像
新収蔵品展では、小流寺の文化財として、令和3年4月22日に市指定文化財となった「木造小島庄右衛門正重座像(もくぞうこじましょうえもんまさしげざぞう)」、「小流寺縁起(しょうりゅうじえんぎ)」(春日部市指定文化財)、そして今回ご紹介する「聖徳太子像」を展示しています。
7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。
小流寺
小流寺は、浄土真宗の寺院で、現在は西宝珠花に所在します。もとは上吉妻にあり、昭和28年(1953)、江戸川改修工事に伴い、現在地に移転しました。坐像になっている小島庄右衛門正重は、小流寺の開祖であり、江戸時代、庄内領と呼ばれた現在の庄和地区の新田開発にたずさわりました。
聖徳太子像は、ながく小流寺でまつられてきたもので、江戸川を漂流してきたものと伝わります。像の高さは約90㎝、髪を中央で分け、両手に柄香炉(えごうろ)をもち、袈裟を身に着けています。髪型は本来は、長い髪を耳のわきで結ぶ角髪(みずら)であったようですが、結ばれていたであろう部分は欠損しています。表情はやや険しく、私たちがよく知っている旧1万円札の聖徳太子とは違う印象を受けます。制作年代は不明ですが、江戸時代の早い時期と考えられます。
この像の形は、孝養像(きょうようぞう)と呼ばれ、聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気快復を願って祈る姿と言われます。「孝養」とは、「こうよう」とも読むようですが、子が親に孝行をすることを表します。
柄香炉の持ち方は、浄土真宗本願寺派の勤式指導所のサイトによれば、作法としては「保持の仕方は、右手で上から柄の端の曲がっている部分を持ち、左手は下から柄の中央部より少し香炉寄りを持つ」とのことです。小流寺の聖徳太子像は、左右逆に持っており、これは手の部分を本体から抜くことができるため、誤って取り付けられた可能性もあります。しかしながら各地の聖徳太子像や絵画をみてみると、右手側に香炉をもつ小流寺の聖徳太子像と同じものもあるので、一概に間違っているとは言えないようです。
日本に仏教を取り入れた聖徳太子への信仰は、日本の仏教史とともに歩んできました。奈良時代の歴史書『日本書紀』では、生まれながらの聖人であったことが記されました。平安時代から中世には、様々な太子の伝記が書かれ、文学、芸能、美術など、さまざまな面で聖徳太子への信仰が関わりました。
鎌倉時代には鎌倉新仏教と呼ばれる新しい宗派が生まれ、各宗派を始めた祖師たちは、やはり聖徳太子を敬います。とりわけ小流寺の宗派である浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)は、聖徳太子を大変尊敬しており、浄土真宗のお寺には、聖徳太子像など、聖徳太子にかかわるものがまつられることが多いようです。小流寺に伝わる「小流寺縁起」にも、聖徳太子の事績を書く部分があります。
江戸時代には、聖徳太子が、四天王寺(大阪府)や法隆寺(奈良県)の建設にたずさわったことから、大工や左官、鍛冶屋、桶屋などの職人の信仰が盛んになりました。太子が亡くなった日に集まって、太子像などをまつる太子講が広まりました。
小渕の観音院にも、聖徳太子像が伝えられていますが、太子像がおさめられていた太子堂の修理のために、市域周辺の大工などの職人たちがお金を出し合った記録「小渕太子堂奉加帳」(春日部市指定文化財)が残されています。
小渕太子堂奉加帳と観音院の聖徳太子像は、7月20日から9月5日まで開催される「語り出したらキリがない桐のまち春日部」に出展予定ですのでお楽しみに。
西暦2021年の今年は、聖徳太子の亡くなったといわれる622年から1400年であり、4月には法隆寺で100年に1度の大法要が営まれました。このような特別な年に、偶然にも2回続けて「聖徳太子像」を企画展に出展する春日部市郷土資料館にぜひおこしください。
参考文献
武田佐和子 1993 『信仰の王権 聖徳太子 太子像をよみとく』 中央公論社
石井公成 2016『聖徳太子ー実像と伝説の間』春秋社