ほごログ(文化財課ブログ)

2021年3月の記事一覧

「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。

3月28日、本来12月に行う予定でした「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。当日は、あいにくの雨模様でしたが、23名の方にご参加いただきました。

今回の考古学講座では、権現山遺跡の概要をお話ししたあと、実際に権現山遺跡の埋蔵文化財発掘調査報告書をみていただきながら、報告書の構成や図面の見方を説明させていただきました。何人かの方からは、「大変、勉強になった」とご感想をいただきました。

埋蔵文化財発掘調査報告書は、発掘調査成果の基礎的な情報が掲載されています。専門的な用語や図面がならぶので、最初に手に取った際は、なかなか読みにくい内容です。しかしながら、一定のルールに基づいて書かれているので、そのルールを覚えてしまえば、読み解くことが容易になります。

また、発掘調査報告書は、市立図書館や県立図書館、国立国会図書館などで閲覧することができますし、インターネット上で公開されているものや販売されているものもあります。ある遺跡のことをより深く知ろうと思った際には、発掘調査報告書をひも解くのが近道です。

 

考古学講座につきましては、新年度も定期的に開催する予定です。開催のお知らせは、こちらのほごログや広報かすかべでお伝えします。みなさまのご参加をお待ちしております。

 

講座の様子

#企画展 #渋沢栄一 もみた春日部の藤

#春日部市郷土資料館 では、令和3年4月13日(火)~5月2日(日)まで、ミニ展示(企画展)「渋沢栄一もみた春日部の藤」展を開催します。 #かすかべプラスワン

画像:ポスター

チラシはこちら(2.8MB)

市の広報誌4月号の「かすかべ今昔絵巻」でも、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞したことを紹介しましたが、実は意外と知られていなかったことなので、驚いた方も多いのではないでしょうか。

渋沢だけでなく、跡見花蹊(あとみ かけい・跡見学園創始者)、清浦圭吾(きようら けいご・内閣総理大臣)、徳川昭武(とくがわ あきたけ・徳川慶喜実弟)、田山花袋(たやま かたい・小説家)など、近現代の著名な政治家や文化人も牛島のフジに訪れています。昭武は渋沢とパリに渡欧した人物としても知られていますよね。

この展示では、春日部のフジをめぐる歴史、そして、現代のまちづくりの歴史について紹介します。実は令和2年4月に開催できなかった展示のリバイバルでもありますが、その後、資料調査を進め、内容は少しバージョンアップしています。

今年は、コロナウイルスの影響により、藤まつり、藤テラスといった大型イベントが中止になっています。感染症対策に十分気を付けていただきながら、ご来館いただき、渋沢の足跡や郷土の歴史文化をお楽しみいただければ幸いです。

 

会期:令和3年4月13日(火)~5月2日(日) 開館時間は9:00~16:45

会場:春日部市郷土資料館 企画展示室(教育センター内)

入館料:無料

休館日:月曜日・祝日

関連イベント:4月17日(土)・25日(日)にミュージアムトーク(展示解説)を開催します。両日とも10:30~、15:00~(30分程度。申込不要)

<ご注意ください>

 *新型コロナウイルス感染対策のため、皆さまの入館時にお名前と、連絡先のご記入をお願いしております。

 **展示室内の入館者数の制限(30名程度)をしております。

 ***今後の新型コロナウイルス感染症拡大の動向によっては、展示・イベントが延期・中止となる場合があります。

    市ホームページ、市教育委員会ホームページ、ほごログ等でお知らせします。

 

常設展プチ展示替その2ー貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました

郷土資料館再開にあわせ、先日、考古遺物の展示コーナーに、春日部市指定文化財の貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦(かいのうちいせきしゅつどしもうさこくぶんじのきひらがわら)を展示しました。

この瓦については、以前にもほごログでとりあげました。平成4年(1992)に行なわれた調査で発見された、下総国分寺で使われた瓦と同じ文様をもつ瓦です。

展示をご覧いただく際の注目ポイントは、上部表面の布目(ぬのめ)です。この瓦は「1枚作り」という技法で作られています。上部に凸部をもつ木製の台の上に粘土の板をのせ、上から木の板でたたきます。そうすることで、湾曲したしまりのある瓦をつくりあげています。台の上に粘土をのせる際、粘土と木製の台の間に布を敷きます。これは粘土を木製の台から離しやすくするためですが、その布のあとが、瓦の凹面についています。

 瓦作りの技術は、仏教の伝来とともに、6世紀ごろ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わりました。瓦ぶきの建物を建設するために、大量の瓦を生産する必要があることから、「1枚作り」や「桶巻きづくり」といった技法が用いられました。

ちなみに軒平瓦の文様(もんよう)の部分は、本体部分とは別に作成し接合しています。文様は、削り出した木製の型を使って付けられています。貝の内遺跡出土瓦の文様からは、型にキズがあることが想定でき、下総国分寺で出土しているものと共通しています。

下総国分寺は、現在の市川市にありました。なぜ、市川市から遠く離れた貝の内遺跡で下総国分寺軒平瓦が出土したのかなど、まだまだ謎が多く、研究の余地が大きい瓦です。ぜひ資料館でご見学ください。

古代の展示ケース

展示ケースに貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました。

瓦の布目

瓦についた布目

 

参考文献

潮見浩 1988 『図解 技術の考古学』有斐閣選書

【3月27日】 #今日は何の日? in春日部

今から332年前の3月27日(旧暦)は、元禄2年(1689) #松尾芭蕉 が #春日部 に宿泊した日です。 #かすかべプラスワン

3月27日の明け方、江戸深川を出立した、松尾芭蕉は、弟子の河合曽良(かわい そら)とともに春日部に宿泊します(といっても、3月27日は旧暦。令和3年の暦では、5月8日にあたるようです)。

弟子河合曽良が残した「曽良日記」には、「一(ひとつ)、廿七日夜カスカヘニ泊ル、江戸ヨリ九里余」(原文は読点なし)とあります。「廿七日」は27日です。「奥の細道」の旅の一泊目の地は「カスカヘ」だったことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

曽良の「随行日記」により、春日部に宿泊したことが広く知られるようになりましたが、実は「カスカヘ」のどこなのかは依然として謎です。一説には、粕壁の東陽寺に宿泊したといわれ、境内には「随行日記」の一説を刻んだ石碑が建てられています(現代に建てられたものです)。もう一つよく言われるのが、小淵の観音院に泊まったのではないかという説です。これは、境内に芭蕉の句碑が建てられていることを根拠として唱えられるものです。句碑には「ものいへば 唇さむし 秋の風」と芭蕉の句が刻まれていますが、建立年代などの銘文がなく、いつ誰が建てたのか不明でした。

最近、各地の芭蕉墳(句碑)を紹介する「諸国翁墳記」(しょこくおきなづかのき)という近世中ごろに出版された本に、観音院の句碑のことが記されていることを見出しました。ここには「はせを墳 日光道中糟壁杉戸間 小淵村観音仁王門前 葛飾老茄園四世不牛建 ものいへは 唇寒し 秋の風」と記されています。観音院の句碑が、葛飾老茄園四世不牛という人物により建てられたことが判明したのです。この人物は、不牛ではなく、正確には「不干」(ふかん)と名乗り、内牧村南蔵院の修験者であり、文化・文政期を中心に俳諧を能くした葛飾蕉門の俳人でもありました。彼は、文化12年(1815)3月に葛飾蕉門(かつしかしょうもん)の名跡である老茄園を継いでいますので、この句碑が建てられたのは文化12年以降ということになるでしょう。

というわけで、観音院の句碑も、松尾芭蕉が観音院に宿泊したという決定的な証拠にはならないということになります。ただし、芭蕉の句碑は芭蕉を慕った津々浦々の人々によって、ゆかりの地などに「墳」(墓)とみなすものとして建てられ、碑とともにゆかりの品を埋納することもあったようです。観音院はどうだったのか、謎はますます深まるばかりですが、春日部市内のどこかに泊まったことは間違いないと思います。

 

前置きが長くなりましたが、長い臨時休館の間に収蔵資料を再整理する機会に恵まれ、館蔵のなかにも松尾芭蕉ゆかりの資料があることがわかりました。2つあるのですが、今回はその1つを紹介。

 写真:芭蕉句碑拓本

この軸は、荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本です。碑文には、「奥の細道」の矢立はじめの有名な一節、芭蕉の座像が刻まれています。文政3年(1820)10月12日に芭蕉忌に際して、書家として著名な亀田鵬斎(かめだ ほうさい)が銘文を、千住宿の文人建部巣兆(たけべ そうちょう)が座像を手がけたものです。この石碑は、現在は剥落がひどかったため、平成7年に復刻されているそうです。

碑文は、欧米では「フライング・ダンス」と称される、鵬斎独特の空を舞うような字体で書かれます。収蔵資料にも鵬斎書の薬種問屋の看板があります。石碑には、次のように書かれています。

「千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみだ

 行はるや鳥啼き魚の目ハなみたをそゝく   はせを翁

 巳友巣兆子翁の小影をうつし

 またわれをしてその句を記せしむ 鵬斎老人書」

 

この拓本は、近世中期に地域の俳人として活躍した石井文龍(ぶんりゅう)を輩出した家に伝来したものです。文龍は、葛飾蕉門の門人となり、寛政10年(1798)に二世「宜春園」の名跡を継いでいます。文政2年(1819)74歳で亡くなります。この拓本・軸は、直接文龍に関わるものではないようですが、「カスカヘ」に泊まった芭蕉の足跡や、後の蕉風俳諧の流行を伝える資料といえるでしょう。常設展示にすぐにでも出したいのですが、展示のスペースがないのが残念。

いつか、原物をご覧いただける機会を設けたいと思います。

  

参考文献 齊藤諒「『諸国翁墳記』研究ー諸本の出版年代について」『東洋大学大学院紀要』52、2015年

古利根~3つの名前を持つ河川~ # 桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。

3月24日古利根川・埼葛橋

 

「古利根川(ふるとねがわ)」。

 何ともノスタルジックな名前です。語義の通り、‘古い利根川’という意味です。利根川の変遷については、以前このブログで簡単にお話いたしました(春日部 利根川紀行)。

 いったいいつから「古」となったのか、庄内古川の整備や江戸川の誕生など「新利根川」の誕生と関連があると思われますが、はっきりとした年代はわかっておりません。ただし通説では、上流に土手を築きしめ切ってしまうことで古利根川が利根川本流から切り離されていったのは、戦国時代末から江戸時代前期にかけての時期であると考えられています。

 さて、この古利根川、国土地理院の地図を見ると「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」と書かれています。また、別名「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。古利根川の名称については、よく皆さまからご質問を受けますので、ここで簡単に説明いたします。

 大落古利根川は、「大落」と「古利根川」の2つの名前を一括りにしたものです。「大落」とは、大きな落とし水、すなわち農業排水路のことです。江戸時代には「悪水路」とも呼ばれました。具体的には、江戸時代以降の河川改修により、古利根川は、騎西領、羽生領、向川辺領(いずれも、現加須市・羽生市・久喜市付近)の水田の落とし水(農業排水)を集めて水源としていたことから、「大落堀」と呼ばれていました。

 「古利根川」はかつての利根川という意味ですが、正確にいつから「古」になったのかは、先述のように不明です。

 一方で、古利根川は「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。聞きなれない方も多いと思いますが、「葛西用水」は、本来は、現葛飾区・江戸川区などにあたる葛西地域の水田へ、農業用の水を供給するため整備された農業用水路です。川俣(現羽生市)で利根川から水路を引き込み、はるばる東京の農地まで水を供給していました。春日部付近では、古利根川は長大な葛西用水の一部分として利用されていました。

 春日部から下流に行くと、松伏溜井(まつぶしためい 現松伏町・越谷市 古利根堰)というダムがあり、夏季には用水を貯水していました。今でも夏季に古利根川の水位が上がるのは、このためです。こうした葛西用水の体系が確立したのは、江戸時代中ごろ、享保期のことでした。

 このように、春日部付近の古利根川は、かつての利根川であり、上流からの農業排水路であり、下流への農業用水路でもあり、用水を確保するための貯水ダムでもありました。古利根川が持つ3つの名前は、こうした川の由来や機能を表したものなのです。

3月24日古利根川・春日橋と古利根公園橋方面

*参考 平成13年『第23回特別展(合同葛西用水展)古利根川の歴史と文化』パンフレット