2025年12月の記事一覧
12月の考古学関係展示会、イベント情報
近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。
(毎月28日ごろに掲載します。随時、情報を更新します。)
(東部地区文化財担当者会リレー展示ー都鳥が見た古代)
・1月6日(火曜日)~3月1日(日曜日)
宮代町郷土資料館(宮代町・資料展示)
(展示会_閉会日順)
・1月17日(土曜日)~2月16日(月曜日) 村君公民館
「永明寺古墳県指定10周年記念パネル展」 主催:羽生市教育委員会
*以下巡回します
3月7日(土曜日)~5月6日(水曜日)羽生市立郷土資料館
・12月28日(日曜日)まで 船橋市飛ノ台史跡公園博物館(千葉県船橋市)
「ふなばしを掘る 発掘速報展」
・1月12日(月曜日・祝日)まで 難波田城資料館(富士見市)
「日常使いの近代『セトモノ』展~蔵に眠っていた食器~」
・1月25日(日曜日)まで 藤岡歴史館(群馬県藤岡市)
秋季企画展「再発見!時代を創った古代藤岡のモノづくり -発掘された日本列島2018・2024を振り返る-」
・1月25日(日曜日)まで 岩槻郷土資料館(さいたま市岩槻区)
企画展「さいたま市の土偶たち」
・1月25日(日曜日)まで 海老名市立郷土資料館 海老名市温故館(神奈川県海老名市)
令和7年度かながわの遺跡展「あつまれ!!かながわのはにわ」
・2月1日(日曜日)まで 埼玉県立さきたま史跡の博物館(行田市)
令和7年度ほるたま展 発掘!さいたま出土品展「古代のものづくり」
・2月1日(日曜日)まで 栃木県立博物館(栃木県宇都宮市)
人文系テーマ展「姿川村の遺物語り~野澤岩蔵コレクションの世界~」
・2月15日(日曜日)まで 下野市立しもつけ風土記の丘資料館(栃木県下野市)
企画展「下野市内の遺跡IV 律令国家の転換と『下野国』古代の制度改革~人がいない・予算がない~」
・2月15日(日曜日)まで 観音塚考古資料館(群馬県高崎市)
令和7年度 第37回企画展「剣崎長瀞西遺跡を考える(2)~渡来人も暮らした古墳時代のムラ~」
・2月23日(月曜日・祝日)まで はだの歴史博物館(神奈川県秦野市)
企画展『根丸島遺跡-弥生時代~奈良・平安時代の集落-』
・2月23日(月曜日・祝日)まで かみつけの里博物館(群馬県高崎市)
第33回特別展「はにわ馬-古墳時代、最先端の乗り物をどう造形したのか。」
・2月23日(月曜日・祝日)まで 新田荘歴史資料館(群馬県太田市)
企画展「午年に馬のはにわがお出むかえ~太田出土の馬形埴輪20体が大集合~」
・3月1日(日曜日)まで 千葉市立加曽利博物館(千葉県千葉市若葉区)
令和7年度企画展示「加曽利B式展ー加曽利の名を持つもう一つの土器ー」
・3月1日(日曜日)まで 埼玉県立嵐山史跡の博物館(嵐山町)
企画展「東山道と鎌倉街道」
・5月17日(日曜日)まで 群馬県埋蔵文化財調査センター(群馬県渋川市)
令和7年度最新情報展第2期「縄文土器がつくられはじめた頃ーみどり市下谷戸B遺跡の発掘調査から」
(講演会)
・1月18日(日曜日)14:00~明治大学駿河台キャンパスアカデミーコモン3階アカデミーホール
主催:明治大学日本古代学研究所(インターネットから申込み)
学術講演会「ヤマト王権と佐紀古墳群」
・2月7日(土曜日)10:00~埼玉会館小ホール(さいたま市浦和区)
主催:埼玉県埋蔵文化財調査事業団(11月4日からホームページから申込み)
令和7年度東京・神奈川・埼玉埋蔵文化財関係財団普及連携事業公開セミナー
「弥生時代が終わるころ~ムラのカタチとヒト・モノの流れ~」
・2月21日(土曜日)13:00~明治大学駿河台キャンパス リバティタワー1階1012教室
主催:日本考古学協会ほか(申込み不要)
2025年度アジア考古学合同講演会「アジアの船に関わる考古学」
襖下張り文書から、江戸川の舟運を考える
館蔵資料の再整理を進めています。今回は、以前寄贈された資料のなかから、江戸川の舟運の歴史の一端がわかる資料がでてきましたので、少し紹介したいと思います。
資料はこちら。
資料寄贈者によれば、本資料は、西金野井の河岸問屋の家の襖の下張り文書とか。
たしかに、糊が塗布されていたためか、赤茶けており、ボロボロと崩れ落ちてしまいます。
こうしたものが大量にあるのですが、上の資料は河岸問屋の取引について読み取れる数少ない部分です。
取引の記事は、本文3行目から、次のように読み取れます。
「明石屋舟」によって、西金野井に運ばれてきた「油屋市兵衛殿行」の荷物「種粕百三拾五枚」。
油屋は粕壁宿の肥料問屋鹿間市兵衛のこと。種粕は、肥料なのでしょう。
「舟賃弐貫四百三十文」「口銭弐百七十弐文」とあり、舟賃(運送費)や手数料の額面が記されています。また「百三十九文」ともあります。これらは河岸問屋が受領した金銭なのでしょうか。
荷物は、「戌正月七日」に取引され、「井上平兵衛殿」なる人物が送り主とみられます。井上については詳しくはわかりません。
金額から日付の間に記される「十二 忠兵衛」「十二 十蔵」などの数字と名前は、どうやら陸送業者の馬方の名前とみられます。「十二」「十三」は荷物の分量なのでしょうか。
この記載から、戌年正月に、西金野井河岸に井上なる人物から荷物が荷揚げされ、馬方によって、粕壁宿の油屋市兵衛に種粕が陸送されたことが明らかになります。残念ながら、具体的な年月日や舟賃や口銭などの詳しい内容についてわからないのですが、江戸川の舟運の具体像がみえてきます。
ちなみに、後段には、「藤蔵舟」にて「鈴木清五郎殿行」の「炭小俵百俵」「中俵三十壱俵」が荷揚げされたことが記されています。「鈴木清五郎」は八丁目村の人物で、後に成金鈴木久五郎を輩出する鈴木一族の者です。炭荷物には「白札カネ長」の荷札が付されていたようです。
このように、江戸川の舟運は、粕壁や八丁目をはじめ、古利根川周辺地域の物流にも寄与していたことが知られるのです。
さて、断簡ももう一点。
これも断簡の一部ですが、河岸問屋で取り扱っていた荷物の中身の記事。
「ヤネ」に「木」の印の荷物の中身が記されていますが、順に
「大雲母黒砂拾弐本」「白砂糖弐樽」「白下地壱樽」「和三盆壱樽」「半し四甲(ヵ)」「鰹節壱樽」「蝋燭四甲(ヵ)」「たばこ弐甲(ヵ)」
多くは市域で生産・産出される物品でないことから、おそらく西金野井で荷揚げされた品物とみられます。
市域の江戸川の舟運については、史料の残りが大変乏しく、具体的なことがわかっていません。こうした襖下張りの文書を丁寧に読み取り、断片的な情報をつなぎ合わせることで、これまで明らかでなかった江戸川舟運の歴史が復元できるかもしれません。
ただ、この襖下張り文書、大変状態が悪く、触るとホロホロと小萩のように崩れ落ちてしまいます。今回、わけあって断簡を読んでみようと試みましたが、収拾がつかず、あえなく断念しました。史料の修補技術と費用が万全になるときまで、楽しみはとっておくことにし、その日まで大切に保存することにしたいと思います。
市指定文化財「赤沼の獅子舞」を伝承する「赤沼民俗文化財保存会」の活動が「プロジェクト未来遺産2025」に登録されました!
このたび、春日部市指定無形民俗文化財である「赤沼の獅子舞」を伝承する「赤沼民俗文化財保存会」の活動が「プロジェクト未来遺産2025」に登録されました。
「プロジェクト未来遺産2025」とは、公益社団法人日本ユネスコ協会連盟が、日本の豊かな文化や自然を100年後の子どもたちに伝えていくことを目指す「未来遺産運動」として行っているもので、地域の文化・自然遺産の継承に取り組む市民の活動を登録しています。今年度は全国から33件の応募があり、5件が登録されました。
赤沼民俗文化財保存会のプロジェクト名は「赤沼の獅子舞を未来へ 農村の文化芸能を伝える繋げる」です。
赤沼の獅子舞は、一人立三頭獅子で、奉納獅子舞と神楽舞が共存する特色があります。享保3年7月(1718)に下間久里(越谷市)から伝授されて以来、豊作や無病息災を祈願して、春と秋の例大祭で奉納されてきました。
伝承約300年の長い歴史の中で、昭和36年(1961)頃には、担い手不足により一時中断してしまいました。しかし、赤沼民俗文化財保存会が中心となり、かつての担い手とともに昭和61年(1991)頃に復活させました。復活の過程で、女性や子どもたちの参加を集い、平成10年(1998)頃から開始した「子ども獅子舞」では、子どもたちだけで獅子舞を披露し、現在は小学生を中心に10名の子どもたちが活躍しています。また、若手の女性の舞手も誕生し、新しい形で伝承が進められています。
詳しくは、公益社団法人日本ユネスコ協会連盟のホームページをご参照ください。
https://www.unesco.or.jp/future-project/year-2025/34166/
赤沼の獅子舞は、例年7月と10月に赤沼神社で祭礼が行われています。ぜひ現地に足をお運びいただき、地域のみなさんのたゆまぬ努力と情熱によって伝承されてきた、獅子舞と神楽をご覧ください。
歴史文化講演会「渋沢栄一と埼玉・春日部」を開催しました
12月20日(土)歴史文化講演会「渋沢栄一と埼玉・春日部」を開催しました。講師は、渋沢史料館館長の桑原功一先生、当日は65名の方にご参加いただきました。ご講演いただいた桑原先生、ご参加のみなさま、誠にありがとうございました。
大河ドラマにもなったことで有名な渋沢栄一は、天保11年(1840)、武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市)の農家に生まれました。青年期には、菊池菊城(きくちきくじょう)や尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)らに、「論語」などの漢籍や儒学を教わりました。
文久4年(1864)には、のちに将軍になる一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ・徳川慶喜)に仕えました。慶応3年(1867)~明治元年(1868)、慶喜の弟、昭武(あきたけ)に随行し、パリ万博の見学や欧米の銀行家、フリューリ・エラールに経済知識を教わりました。帰国後は、明治政府に出仕し、租税制度や土地制度、殖産興業など新しい国作りに関わりました。明治6年(1873)、第一国立銀行を創設、約500社にのぼる株式会社の創設、育成に尽力しました。
渋沢栄一と埼玉県の関わりでは、県内でも多数の会社を設立したほか、埼玉県誘掖会を創立し県出身者の育成をはかるなど多くの社会公共事業に関わりました。
このような生涯のなか、明治45年(1912)4月28日と大正7年(1918)5月11日に、渋沢栄一は粕壁町を訪れています。
渋沢栄一の多岐にわたる動きは、「渋沢栄一伝記資料」としてまとめられ、渋沢史料館のサイトで公開されています。
明治45年の際は、牛島の藤を見学し、粕壁中学校(現・県立春日部高校)父兄会で講演をしています。当時の粕壁中学校校長の服部捨太郎氏は、大正10年時点で現在の渋沢栄一記念財団にあたる竜門社の特別会員になっているとのことです。
大正7年の際は、東洋生命保険株式会社粕壁代理店が契約高7万円に到達した祝賀会に来訪し、粕壁小学校で講演した後、粕壁代理店主幹の田村新蔵邸で「東久邇宮殿下御手植の樹の碑」の除幕式に出席しました。東洋生命保険会社は明治33年(1900)に創立した会社ですが、日露戦争後の恐慌の影響を受け、栄一の粕壁訪問のころは竜門社関係者が中心となって経営改善を図っていました。明治時代末から大正時代初期に粕壁代理店は開設されているようですが、このころは各地に代理店を開設し、地方での生命保険加入者の増加を見込んでいたようです。
明治42年(1909)に古稀70歳を迎えた渋沢栄一は、東京貯蓄銀行をのぞく全ての会社役職を辞職し、民間外交や社会公共事業への関与が顕著になっていました。同時に日露戦争で疲弊した地方社会をみて「都会のみが繁昌して田舎が衰頽(すいたい)すると云ふことは、誠に憂ふべきこと」と説き、粕壁での講演会でも、地方振興について主張しています。
桑原先生は、栄一が粕壁に訪問した理由として、東洋生命保険株式会社の立て直し、粕壁中学校の服部捨太郎など竜門社とつながりの深い人が粕壁にいたこと、地方振興を積極的に各地で訴える必要があったことなどを挙げられました。
休憩なしの丸々2時間、非常に熱のこもったご講演で、参加者からは「わかりやすい説明で渋沢栄一への理解が深まった」、「渋沢栄一について知らないことが多かった」、「当時の粕壁が渋沢栄一にどのように見えたのかを知りたい」などの感想をいただきました。
当日は、渋沢史料館のパンフレットや渋沢栄一記念財団のセミナーのご紹介もいただきました。今回のご講演をきっかけに、渋沢史料館へも是非お出かけいただければと思います。桑原先生ありがとうございました。
2026年1月27日(火)13:30~ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団セミナー「論語とそろばん」
(要申し込み)
発掘調査が終了しました(貝の内遺跡)
ハルカイトにて行った貝の内遺跡の発掘調査が終了しました。
8月から12月までの5ヶ月にわたる長期の調査、調査面積1500㎡という、春日部市では数年に一度の大規模な調査になりました。
奈良時代から平安時代にかけての竪穴住居跡を26軒確認しました。
ハルカイトの皆さま、近隣の皆さまには発掘調査にご協力いただきありがとうございました!
成果と遺物を公開できるよう、これから整理作業と報告書の刊行作業になります。
まだまだ道のりは長いですが、刊行までの整理作業の様子も公開していきます。