ほごログ(文化財課ブログ)

2020年12月の記事一覧

【臨時休館】令和3年1月5日(火)から1月17日(日)休館します

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火)から1月17日(日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。なお、1月4日(月)、1月18日(月)は通常の休館日です。

休館中は、展示室にご入館いただけません。今後の新型コロナウイルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を延長する場合があります。

ご迷惑をお掛けいたしますが、ご理解、ご協力をお願いします。

【延期】12月26日考古学講座を延期します

12月26日(土)に予定しておりました考古学講座「権現山遺跡を探る」ですが、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため延期することといたしましたので、以下の通り、お知らせします。

 

考古学講座「権現山遺跡を探る」

日程 12月26日(土)→【延期】3月28日(日)

時間 午前10時から12時

本日までにすでにお申し込みの方につきましは、3月28日もお申込みいただいているものとして取り扱います。

考古学講座のご案内(日程は3月28日です。ご注意ください)

武里のオリジナルソング(広報補足・その8・最終回)

いよいよ、広報かすかべ10月特集号の補足も最終回です。今回は、 #武里 の #オリジナルソング #たけさと音頭 について。 #かすかべプラスワン

今年はコロナウィルスの影響で軒並み中止になってしまいましたが、近年、春日部市では「かすかべ音楽祭」や「ブラスジャンボリー」など、音楽のイベントが定着しつつあり、「音楽のまち春日部」とも称されています。しかし、そうした「歌や音楽で盛り上がろう!地域で一つになろう!」という取り組みは、実は最近の始まったものではありません。

「春日部のご当地ソング」ともいえる歌は、世に知られているだけでも19曲もあります(『春日部の歌と歩み』による)。以下、曲名・発表年を時代順に列挙します。

粕壁小唄 昭和7年(1932)以前/和楽音頭 昭和13年(1938)以前/春日部音頭 昭和25年(1950)/幸松音頭 昭和29年(1954)/新春日部音頭 昭和31年(1956)/古利根しぐれ 昭和31年(1956)/大凧音頭 昭和36年(1961)/たけさと音頭 昭和50年(1975)/小渕音頭 昭和52年(1977)/小渕小唄 昭和52年(1977)/庄和音頭 昭和55年(1980)/春日部藤音頭 昭和57年(1982)/春日部踊り 昭和60年(1985)/庄和町・町民憲章の歌 昭和61年(1986)/新大凧音頭 昭和61年(1986)/春日部サンバ 平成元年(1998)/庄和大凧ばやし 平成2年(1990)/心の空 平成27年(2015)

以前紹介した「春日部藤音頭」、大凧あげ祭りで流れる「新大凧音頭」、チェリッシュでおなじみの「春日部サンバ」、夏祭りで披露される「新春日部音頭」「古利根しぐれ」、夕刻のチャイムで流れる「心の空」など、おなじみの歌も多い一方、今では音源を入手できない歌もあります。それぞれの歌や制作の経緯や背景については、ふれあい大学34期生桐組6班の皆さんが執筆・編集された『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)に詳しく述べられています。

さて、このなかで、ひと際異彩を放つのが「たけさと音頭」です。「たけさと音頭」は、昭和50年(1975)武里団地入居10周年を記念して「団地の子どもたちに、ふるさと感覚を」としてつくられました(※広報では昭和52年としましたが、正しくは昭和50年のようです)。歌詞の作詞は、団地の住民に募りました。十数篇の応募があり、入選したのは文筆家の高木圀夫氏。氏は著書『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)のなかで次のように述懐しています。

「私の地元が子供たちにふるさと感覚を持たせる一つのアイデアとして祭り用の音頭を募集していたのであった。(略)なにげなしに原稿用紙の端に言葉を並べてみた。それが入選したのだ。考えられなかった。」

高木氏によれば、詞は決まったものの、作曲が問題となり、高木氏が高木東六の甥であることから、地元の人たちに取り次ぎを懇願され、高木東六が作曲をすることになったそうです。高木東六は、高名なピアニスト・作曲家で、TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてもおなじみでした。「たけさと音頭」は、オペラの作曲家がつくった唯一の民謡として生まれたのです。お披露目となったのは昭和50年(1975)8月1日、大場小学校体育館でたけさと音頭発表会が開催されました。当時の県知事も招待されたそうです。貴重な写真が武里団地の自治会報「たけさと」111号に掲載されています。

 写真:たけさと音頭発表会

異彩を放つのは、高木東六作曲だからではありません。上にあげた春日部のご当地ソングには、古利根川・江戸川・藤の花・大凧揚げなど、春日部を象徴する風景などが歌詞に織り込まれています。しかし、「たけさと音頭」には「郷土」を感じられるワードはわずかに「藤の花びら」だけです。『春日部の歌と歩み』では「「春日部」や「武里」といった地名が一切出てこず、「ふるさと音頭」とうたっているのが地域の歌としてはとてもユニークです」と的確に評しています。

曲ができた当時、春日部市はベッドタウンして人口が激増していた時代でした。武里団地は市のベッドタウン化の先駆けともなった地区です。そうした武里団地発の「たけさと音頭」の歌詞は、子どもたちになじみやすい言葉でつづられ、よく言えば「ユニーク」ですが、土臭さ、泥臭ささのような「郷土」的な個性がないように感じます。その理由はおそらく、それぞれ異なる「郷土」をもつ住民(親世代)たちが、新たな「ふるさと」を想像し、制作されたからではないでしょうか。「武里団地夏祭り」、そしてその場で流されてきた「たけさと音頭」(盆踊り)は、ベッドタウン化した春日部らしいイベント・ご当地ソングといえるのかもしれません。 

昭和49年武里団地夏祭り

ただ、残念なことに、郷土資料館では「たけさと音頭」のレコードを入手できておりません。春日部の現代史資料として極めて貴重だと思います。お持ちの方はご一報いただけると幸いです。

 

以上、市制15周年を機に、8回にわたり市内八地区の身近な歴史ネタを紹介させていただきました。それぞれの歴史はそれぞれ人の思いやさまざまな経緯が折り重なり、紡がれてきたものです。そうしたことをもう一度顧みることで、新たな「春日部らしさ」=まちの良さに気付き、そして春日部が歩む未来がみえてくるのではないでしょうか。

参考文献 ふれあい大学34期生桐組6班『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)、高木圀夫『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)

軍需工場・時計工場のまち南桜井(広報補足その7)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #南桜井駅 北側にあった #軍需工場 について。 #かすかべプラスワン

庄和地域の玄関口、南桜井駅。現在は市街地化され、駅前はにぎわっています。実は、南桜井駅周辺の市街地化のきっかけは、昭和戦中の軍需工場の疎開に求められます。
昭和18年夏ごろ、精工舎は東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう、伝達を受け、同19年3月より東京太平町の工場の一部の疎開を開始します。精工舎とは、東洋の時計王ともよばれた服部金太郎が創業した服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の製造・開発部門です。
昭和18年12月までに、南桜井村大字金野井、大字大衾、川辺村大字米島、大字新宿新田に、約6万坪の工場、約9万坪の厚生施設の敷地が強制買収されました。
当時の南桜井駅近辺はうっそうとした森で、松林などが生い茂り、「大衾山」、あるいは「オバケの森」とよばれていたそうです。こうした森林を敷地にするため、南桜井や周辺の青年団や粕壁中学校(現県立春日部高校)の生徒などが勤労奉仕として木の根堀りや建材の運搬作業に動員されました。なかには、大きな木は素人になかなか切れないので、シャリキとよばれる職人が大勢雇われ、木を切ったそうです。

この軍需工場は、服部時計店南桜井工場と命名され、昭和18年11月6日に資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅に貨物専用の米島仮停車場が設置され、その北側隣接地に工場・男子寄宿舎、南側に女子寄宿舎、武州川辺駅の南側に社宅が建設されました。当時、南桜井村の人口は3625人、川辺村は2424人(いずれも昭和15年国勢調査)でしたが、南桜井工場の疎開によって、3000人以上ともいわれる人が移住してきましたので、敷地内には医務室(診療所・病棟)や学校(私立服部南桜井青年学校)両村は景観も住民構成も大きくかわることになりました。

南桜井工場で製造されたのは、高射砲の弾丸の頭につけ爆発を誘発する部品で、45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管でした。高スピード、高回転のなかで正確に動かなければならないので時計製作よりも高い技術が必要だったといわれています。工場がフルに操業を開始したのは昭和19年10月で、最初の製品が完成したのは昭和20年1月のことといわれています。

また、昭和20年5月には、同年3月・4月の東京大空襲で被害を受けた東京第一陸軍造兵廠の第三製造所が、南桜井工場の北部の未利用地に疎開しました。精工舎の南桜井工場と混同を防ぐため江戸川工場と名付けられました。江戸川工場は軍直属の官営工場で、風船爆弾の信管を製造しました。

終戦となり、軍需工場は操業をとりやめ、閉鎖されます。南桜井工場はおよそ1年弱、江戸川工場は3か月半で幕を閉じることになりました。その後、工場の建物25万坪、機械2000台は大蔵省の管理下におかれましたが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと全国農業会の支援を後ろ盾に施設設備は転用され、昭和21年3月28日に株式会社農村時計製作所が発足します。農村時計では、目覚まし時計などを製造していましたが、品質はあまり良くなかったといわれます。経営難のためからバリカンや地震計の製造もしたこともありました。しかし、戦後の経済政策もあり、農村時計は昭和25年10月に事業を停止します。
農村時計の末期、順調な売れ行きをみせていた「リズム」という商標の時計がありました。昭和25年11月3日、この商標を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足し、農村時計の事業は継承されることになります。南桜井駅周辺は、平成9年(1997)年9月に工場が東京都墨田区に移転するまで、リズム時計の南桜井工場とともに戦後を歩んでいくことになりました。
リズム時計の工場はご記憶がある方も多いのではないでしょうか。写真も残っています。

写真:昭和49年南桜井駅と北側のリズム時計工場

昭和49年(1974)南桜井駅と北側のリズム時計工場

写真:昭和49年南桜井駅南側

昭和49年(1974)リズム時計工場からみた南桜井駅の南側

南桜井駅周辺は、その後ショッピングモールや住宅地として再開発され、軍需工場や時計工場の面影はほとんど残っていません。しかし、青年学校の跡地には葛飾中学校(のち移転。現桜川小学校)、医務室の跡地には子供の町として利用されるなど、道路・住宅の区画などは軍需工場以来の名残りがあります。また、ショッピングモールの敷地内に、リズム時計の創業地の記念時計塔が立てられています(シティーセールス広報課撮影)。

写真:南桜井の時計塔

昭和時代の南桜井駅周辺は軍需工場・時計工場とともに歩んできたといっても過言ではありません。ですが、終戦のときに関係資料が廃棄されてしまったため、戦中の軍需工場・時計工場については資料が少なく、詳しくわからない部分が多いのです。今回、気の利いた図版がないのもそのためです。

平成のはじめ、県立庄和高校地理歴史研究部は、資料が少ないなかで、地域住民の方々、関係者の方々に聞き取りをするなど丹念に調査をし、上述したことを明らかにしています。その成果は『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』という私家版にまとめられています。今から30年前だから聞けた話がふんだんに詰め込まれ、南桜井の歴史を知るうえで必読の書です。

長文になってしまいましたが、庄和高校のみなさんが明らかにされたことは、上のことにとどまりません。入手困難な図書なのですが、『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』も合わせてご覧いただけると幸いです。

次回は最終回です。クライマックスは、武里地区の「たけさと音頭」について。

参考文献 庄和高等学校地理歴史研究部『むかし庄和町に軍需工場があった』(1991年)、同『賀川豊彦と農村時計』(1991年)、同『南桜井村戦後史』(1989年)、『春日部市史 庄和地域 近代・現代』(春日部市、2013年)
     

郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました

令和2年12月13日(日)に、郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました。

毎年12月に開催しているしめ縄作り、本年はマスクの着用をお願いしたうえで、多く方にご参加いただきました!

体験講座しめ縄作り

 

まず半紙を使って紙垂(しで)を作り、その後しめ縄を作成しました。

しめ縄編み込み作業風景

しめ縄作りは意外と力のいる作業です。

「汗が出てきた!」とおっしゃる方もいたほど!

ですが、皆さん協力しながら頑張って作ってくださいました。

 

しめ縄仕上げ風景

丹精込めて編み上げ、立派なしめ縄ができました!

 

お帰りの際には「来てよかった」「また来年も来たい」というお言葉もいただきました。

楽しんでいただけたようで何よりです!

 

郷土資料館では、今後も感染防止策を徹底しながら講座などの企画を行っていく予定です。

広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!