ほごログ(文化財課ブログ)

2022年6月の記事一覧

「縄文体験出張授業」3日目・・・桜川小学校での様子

 6月29日(水)縄文体験出張授業の3日目、桜川小学校の6年生3クラスで行いました。社会科の授業では既に弥生時代、クラスによっては古墳時代に入ったため、縄文時代は復習の場となりました。

導入の座学では「縄文時代とはどんな時代?」と問うと、狩りや植物の採取という生業活動が皆さんには印象が残っていたようでした。史跡神明貝塚の紹介動画や学校近くの遺跡を画像で説明を進めると、郷土資料館の入口にどーんと展示されている縄文の復元家屋の記憶がよみがえり、口々に「たてあな住居」が縄文人のイエであることを発表してくれた生徒さんもおり、3年生時の資料館見学を鮮明に覚えてくれていました。うれしい一言でした。

 また、現在、学習を進めている古墳時代については、学校周辺の遺跡からもムラが発掘されていること、古墳時代に使われた土器を授業で間近にみて、触れることを紹介すると、興味津々、目を輝かせてくれました。

導入座学

土器観察

石器観察

 

 

 

 

 

 

 

貝殻や獣骨、土器や石器の実物を6年生の皆さんは臆することなく積極的に触れて、間近に観察していただきました。特に遠方からもたらされた資源の代表である黒曜石については、どのような方法で200km以上も離れた春日部の地にたどり着いたのか、様々な考えをディスカッションしてくれました。このような機会をとおして市内の縄文時代の暮らしの理解が進むよう、各校での出張授業を進めていきます。

【7/3まで宝珠花の歴史と大凧あげ】僧・浄信の過去帳

7月3日(日)まで「宝珠花の歴史と大凧あげ」春季企画展示を開催中です。

 大凧あげの最古の記録として、天保12年(1841)に旅の僧、浄信(じょうしん)が「紙だこ」をあげて占うことを伝えたと記す小流寺の過去帳があります。

小流寺過去帳小流寺過去帳(クリックすると画像データがダウンロードできます:205KB)

(読み下し文)

釋浄信禅門 天保十二年丑九月十一日

右ノ僧生國出羽國山本郡水沢邑西光寺弟子

廿四輩順拝ニ罷出候処当寺ニ一宿致シ病気重く也

十日斗リ相煩ひ終ニ病死致シ右当人ノ往来一札を以て

村役人同所世話人立會之上取仕末致シ申候念為記ス

占ヒニ紙だこを伝ふ(蚕豊作)

 

この小流寺の過去帳は、宝暦12年(1762)から嘉永4年(1851)にかけてのもので、天保12年(1841)9月11日に、旅の僧、浄信の記載があります。

記載によれば、浄信は、出羽国山本郡水沢村(現・秋田県山本郡八峰町(旧峰浜村)水沢)の生まれで、秋田県能代市にある西光寺の弟子でした。廿四輩(にじゅうよんはい)旧跡をめぐるため、関東地方にやってきて、当時は上吉妻にあった小流寺に泊まりました。浄信は、この時点ですでに重い病気にかかっていて、10日ほどして小流寺で亡くなりました。寺では、上吉妻村の役人と世話人が立ち会って、遺体を処理したとあります。

そして、最終行に「占ヒニ紙だこを伝ふ(蚕豊作)」と記されています。

 

 まず、「廿四輩」とは、浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん)の高弟24人を開基とする寺院で構成されたもので、江戸時代に成立しました。これらの寺院は、岩手県から長野県の広い地域に分布していますが、とりわけ親鸞とゆかりが深い常陸国(ひたちのくに)であった茨城県にその多くが所在します。春日部市の周辺では、茨城県境町の妙安寺、同じく坂東市の妙安寺、西念寺、千葉県野田市の長命寺、埼玉県吉川市の清浄寺が含まれています。『埼玉県の大凧あげ習俗ー庄和町西宝珠花の大凧あげ』では、浄信は、江戸と茨城方面の移動の際に、宝珠花河岸を利用したのではないかと推定しています。

 

次に、最終行の「占ヒニ紙だこを伝ふ(蚕豊作)」についてです。まず「(蚕豊作)」の部分は、( )の存在や字体からあとから書かれたものとみられています。また「だこを」、「ふ」の部分も「タコヲ」、「フ」の字の上から上書きしています。したがって、元の文は「占ヒニ紙タコヲ伝フ」であり、「浄信は占いのために紙たこを伝えた」となります。宝珠花の凧には、凧が「舞い上がる」が「まゆ(の値段)が上がる」につながり、養蚕のできを占ったとの言い伝えがあります。「(蚕豊作)」の部分は、後世の人が地元の言い伝えとして書き加えたのかもしれません。(『庄和町史編さん資料(十二)民俗Ⅱ-まつりと儀礼』)

 

浄信の過去帳は宝珠花の凧の最古の記録として重要なものですが、記載をそのまま読めば、宝珠花についた浄信は、すでに重い病気にかかっていて、宝珠花で亡くなるまでの期間も10日ばかりとのこと、このような浄信がどのように凧を伝えたのかは謎です。

しかしながら、浄信のふるさと、秋田県能代市(のしろし)も凧あげが盛んなまちで、毎年行われる能代凧揚げ大会では、「ベラボー凧」(リンク先記事に写真あり)に代表される能代凧が盛んにあげられています。

 

その後、明治時代初期の宝珠花では、新暦6月5日と6日(旧暦の端午の節句にあたる)に各家で凧があげられて、このころから、凧あげに男子出産の祝いや健やかな成長の意味がこめられるようになりました。明治時代半ばからは、西宝珠花の上町と下町で一面ずつ共同で作るようになり、明治時代の終わりごろには、現在と同じくらいくらいの大凧を上げるようになったようです。

6月5日、6日であった大凧あげまつりの開催日は、昭和29年(1954)から5月5日と6日、昭和40年(1965)から、5月3日と5日になりました。

明治41年大凧(上若) 

明治41年(1908)の大凧(「上若」)

 

参考文献 

庄和町教育委員会『埼玉県の大凧あげ習俗ー庄和町西宝珠花の大凧あげ』平成5年(1993)

庄和町教育委員会『庄和町史編さん資料(十二)民俗Ⅱ-まつりと儀礼』平成17年(2005)

小渕小学校6年生”縄文体験”授業を行いました!!

 6月28日(火)は小渕小学校6年生の社会科出張授業で”縄文体験”を開催しました。社会科の授業では既に古墳時代に入ったため、縄文時代は復習の場となりました。

 導入の座学では「縄文時代とはどんな時代だったのか?」と問うと、狩りや植物の採集という生業活動が皆さんには印象に残っていたようでした。教室に持ち込んだ市内の貝塚遺跡から発掘された様々な種類の貝殻と併せて春日部にも長い時代、海原が広がっていたため、漁撈活動も活発であったことを画像や実物からは驚きの声が上がりました。

導入

画像視聴

▲暑い中、どのクラスも集中して、市内初の史跡になった神明貝塚の動画と小渕小付近の遺跡の様子を見入ってくれました。

 また、学校周辺には古墳時代から平安時代にかけて営まれたムラが発掘され、今まさに授業で学習している暮らしの痕跡が皆さんの足元に眠っていることを伝えると、興味津々の反応が印象的でした。

 貝殻や獣骨、土器や石器の実物を6年生の皆さんが臆することなく触れて、間近に観察していただきました。このような機会をとおして市内の縄文時代の暮らしの理解が進むよう、各校での出張授業を進めていきます。

緑小学校6年生”縄文体験”を行いました!!

 本日6月27日(月)は緑小学校の6年生の社会科出張授業で縄文体験を開催しました。今回、初めてパソコンルームでの授業となりましたが、クラス全体で画像をみるよりも個別のパソコンをとおして高い集中力で市内の縄文遺跡や貝塚の様子を学習していただきました。

 社会科の授業では既に古墳時代に入ったため、縄文時代は復習となりましたが、改めて史跡となっている神明貝塚の特徴や地球の温暖化現象によって縄文時代、さらには12万年前の二度、市域に海原が広がっている様子を大型のカキ化石とともに示すと驚きの声が上がりました。

 神明貝塚動画パソコンでの学習

▲授業導入ではパソコンと神明貝塚の紹介動画をとおして市内の縄文時代を学習しました

貝種比較

獣骨

▲海に生息する貝と汽水域の貝の比較、イノシシの顎骨にも興味津々、大人気でした

 石器観察土器観察

 

 

 

 

 

▲石器では関東外縁からの交易によってもたらされた黒曜石についてディスカッションができました。土器では縄文土器はもちろん、埴輪やこれから学習する奈良・平安時代の須恵器や土師器の違いを観察しました。

 貝殻や獣骨、土器や石器の実物を6年生の皆さんが臆することなく触れて、間近に観察していただきました。このような機会をとおして市内の縄文時代の暮らしの実態が理解が進むよう、各校での出張授業を進めていきます。

宮内庁の方が郷土資料館所蔵資料を調査

宮内庁宮内公文書館と春日部市郷土資料館の共催展示「明治天皇と春日部」展の準備のため、宮内庁宮内公文書館の職員が資料調査に来館しました。 #かすかべプラスワン

写真:資料撮影の模様

写真:内牧村村長肖像の撮影調査

といっても、騒ぎ立てるほどのものではなく、至極普通のこと。以前より、展示の準備のため宮内庁の方は何度も何度も足を運ばれています。

ここで、皆さんに知っていただきたいことは2つあります。

まず、地元春日部でしか見られない資料があるということ。宮内庁宮内公文書館は約9万点の資料を所蔵しているそうですが、膨大な資料をくくっても分からないことがあるのです。今回は、展示の準備が差し迫ってきていますので、東京にいては分からないこと、知りえないことを確認されるために、わざわざお越しいただいたのです。春日部市郷土資料館には、世界に一つしかないオンリーワンの資料が沢山あるんですよ。

もう1つは、だからといって春日部が「偉い」とか「凄い」とかではなく、資料は平等ということ。今準備している展示では、宮内庁からお借りしてくる資料が多く並びますが、宮内庁所蔵だから「偉い」とか「凄い」というものでもありません。資料は、春日部のものであっても、宮内庁のものであっても、歴史を伝えるという意味においては、まったく同じです。今回の共催展では、宮内庁の資料と春日部の資料が所狭しと(実際に狭いのですが!)陳列される予定です。展示では、春日部の資料、宮内庁の資料、という風に見ないで、それぞれが歴史的な意義をもつ資料であることをぜひ見ていただきたいと思います。

資料もそうですが、展示を準備する担当者としても、宮内庁と春日部市という立場や、普段の業務や取り扱う資料の性質が違いますが、宮内庁の皆さんのご厚意もあり、お互いにリスペクトしながら、対等な立場で調査を重ねてきました(と私は思ってますが合ってますか?)。宮内庁の皆さんには、本当に感謝しています。

展示の千秋楽のあいさつのような文章になってしまいましたが、まだまだこれからです。目下、展示準備中。ご期待ください。