ほごログ(文化財課ブログ)

2025年6月の記事一覧

【学芸員がやってみた】ショート動画「麦わらのかすかべ」展をつくってみた

今日から思いつきではじまった「学芸員がやってみた」シリーズ(初回にして最終回かもしれない)。「麦わらのかすかべ」展の告知のショート動画をつくってみました。若い世代の方々向けに(!?)縦づかいの動画です。

夏季展示案内 縦型モニタ(動画).mp4

麦稈真田を職人さんが縫い、麦わら帽子が一つ一つ丁寧につくられている工程をイメージして、15秒の動画をつくってみました。まだまだ粗削りですが、一般のソフトで作っていますのでご容赦を。

市役所内のデジタルサイネージで7月中旬ごろから放映される予定です。市役所に公用でたまに訪れる出先の担当者も見れたらラッキー。映像が流れたときは、ぜひ立ち止まって見てみてくださいね。

【展示情報】

展示会名:春日部市郷土資料館夏季展示(第72回)「麦わらのかすかべ~帽都いま・むかし~」

会  期:令和7年7月23日(水)~9月7日(日) 月曜・祝日休館

会  場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15 教育センター内)

入  館  料:無料

麦稈真田を編みを再現したい!

7月23日からはじまる、企画展「麦わらのかすかべ~帽都いま・むかし」展、目下準備中です。

本展は、春日部の特産品「麦わら帽子」産業の歴史、そして今を紹介する展示ですが、以前にも紹介した通り、市域におけるその始まりは、麦わら帽子の原料である「麦稈真田」(ばっかんさなだ)を、農家の副業としてはじめたことのようです。

画像:麦稈真田

日本で麦稈真田をつくるようになったのは、明治初めのことです。東京の大森(現大田区)の川田谷五郎が、横浜で外国人がかぶっている麦わら帽子に着目し、大森に伝わる麦わら細工の技術を活かし、麦稈真田を開発したといわれています。川田の開発後、麦稈真田は、欧米の麦わら帽子の材料となり、明治10年代半ばには輸出の需要に応えるように、製造が盛んになっていきました。川田は、麦稈真田の編み方を考案しただけでなく、麦わらの漂白方法や品種の選定までに手をかけたといわれ(『大田区史 資料編 民俗』)、政府の産業奨励とともに、麦稈真田製造を新興の輸出産業に育てていった重要な人物といわれています。

春日部市域に、麦稈真田製造がどのように伝わったのか。それを示す一次資料は現在のところ見出されていません。当時の状況をもっとも詳しく活写するのは、大正元年(1912)刊行の埼玉県の郷土誌『埼玉縣誌 下巻』です。

 これによれば、粕壁町周辺では、明治11年のころは東京・大森に麦稈(麦わら)を送っていたが、明治13年に神奈川県川崎町の鳥飼(鳥養か)氏が婦女の副業として麦稈真田製造が有益であると説き、粕壁町の高橋氏、幸松村の野口氏に勧め、両人らの尽力もあって、市域周辺で麦稈真田製造がはじまったが、しばらくは不振で、明治15年以降にやや盛大になっていった、とあります。

麦作が盛んだった市域では、はじめは麦わらの供給地として大森方面の麦稈真田製造を支え、明治13年に川崎町の鳥飼(鳥養)なる人物が技術を伝え、明治15年以降、婦女子の副業=地域の産業として根付いていったということです。春日部市域での起こりを年代・人名を明確にして記述するものは、このほかには管見の限りありません。残念ながら典拠は示されていませんが、『縣誌』は大正元年刊行なので、30~40年前の出来事を知っている人もいたでしょうから、市域の麦稈真田産業の始まりを伝えるものとして信憑性が高い記事だと考えられます。

そうしてはじまった、麦稈真田製造。明治30年(1897)『日本農業新誌』6-11によれば、粕壁地方では、麦稈真田の原料には、大麦の半芒種「ザンギリ」という麦わらを使っていたそうです。市域周辺の麦稈真田製造は明治30年半ばにピークを迎え、その後は中国産の麦稈真田がとってかわることになります。また、明治末期から大正期にかけて、国内では麦稈にかわる素材で編む真田=経木真田、マニラ麻真田が考案・製造されるようになります。ですから、実は、市域では国内産の麦わらをつかって編む麦稈真田製造は、明治13年ごろから明治30年代ごろまで(遅くても大正初めまで)であり、大正初めまでにはほとんど製造されなくなってしまうようです。

ただ、国内では、岡山県・広島県・香川県などで麦稈真田製造は続けられ、中国・四国地方には様々な文献や製造用具が伝来しているようです(野田繭子「資料紹介 岡山県立博物館所蔵麦稈真田関係資料について」『岡山県立博物館研究紀要』37、2017年)。おそらく、春日部市域でも同様の用具が使用されていたものと考えられます。

市域では短命に終わった麦稈真田製造ですが、かつてかなり盛んだった真田編みを再現してみたい!

岡山県立博物館では、紙テープをつかって三本編みの真田(三平・さんぴら)編みの疑似体験をされていたことが、前掲野田氏の文章にみえましたので、参考にさせていただき、まずは紙テープ三平に挑戦(といっても、担当者は鶴の折り紙がギリギリできるくらいの「不器用な男」なので、手先の器用なパートさんの協力を得てつくってもらいました)。

画像:三平

意外と簡単で、楽しい。お子様でもできるかも。

では、5本編み(五平・ごひら)はどうか。はじめ、一戸清方『麦稈真田製造法』(1906年)の図を参考にしながら編んでもらいましたが、図や説明が不完全でどうしてもできない。諦めかけたとき、藤原覚一『図説日本の結び新装版』(築地書館、2012年)に出会いました。そして、できたのがこれ。

画像:5本編み

三平よりは複雑で難しいですが、手順さえ間違えなければ意外とできるかも。 

不器用な男も、ラッピング用の針金でもやってみました。

画像:針金の5本編み

針金はキラキラして綺麗ですが、接ぐのが難しいのが難点。飛び出たところはご愛敬!?本来は切って整えるようです。「やっぱり紙テープかなぁ、それとも…」と素材をかえながら、試行錯誤しているところです。

ちなみに、麦稈真田をつくる動作を「編む」ともいいますが、「打つ」ともいうようです(どちらも使うようです)。

企画展の体験コーナーでは、「みんなでつなぐ紙テープ真田」(仮称)と題して、観覧者の皆さんに紙テープ真田に「編み」「打ち」に挑戦していただき、それをつないで長い真田をつくってみたいと思っています。たぶん、三平です。お楽しみに。

【展示情報】

展示会名:春日部市郷土資料館夏季展示(第72回)「麦わらのかすかべ~帽都いま・むかし~」

会  期:令和7年7月23日(水)~9月7日(日) 月曜・祝日休館

会  場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15 教育センター内)

入  館  料:無料

「幸松っ子クラブ」でのお囃子教室

6月23日(月)に幸松小学校の放課後こども教室である「幸松っ子クラブ」の第1回目が開催されました。この中の「お囃子教室」では、幸松地区に江戸時代から伝わる市指定無形民俗文化財「不動院野の神楽」を継承する、「東不動院野神楽保存会」の皆さんが、講師として招かれました。

1年生から6年生まで、総勢15名でのお囃子教室です。まずは保存会の皆さんによる「新バヤシ」と「ニンバ」のお手本を見学します。初めてお囃子を聞く子どもも多く、皆さん興味津々です。今回の教室では「ニンバ」というお囃子の太鼓を叩く練習をしました。

  保存会の皆さんの指導の下、「天スク ステスク 天ツクツ スク」のリズムに合わせて太鼓に見立てたタイヤを叩きます。バチの握り方やリズムの取り方が難しいようでした。

 

 練習の後半では、本物の太鼓を叩きました。タイヤでは出せない音や感触の違いを感じ、子どもたちも真剣に、楽しそうに叩いていました。「大きいほうの太鼓も叩いてみたい!」と積極的に取り組んでいました。

 

 お囃子の練習は今後も継続して行われるので、子どもたちの上達が楽しみです。この中から地区の神楽やお囃子に興味をもってくれる子どもたちが増えることを願っています。

7月12日(土)・13日(日)の春日部夏まつりでは、保存会の方々が実際にお囃子を披露されますので、こちらもぜひお出かけください。

保存会の皆さん、ありがとうございました。

#かすかべ地名の話 (10)#正善

春日部市内の地名の話。今回は、武里地区の正善(しょうぜん)という地名について。

現在、正善小学校の名称にも使用されている「正善」という地名。「正善」(せいぜん)は「正しくてよいこと」「理にかなって正しいこと」の意味ですが、市内の地名は「しょうぜん」と読ませますので、「せいぜん」と同じ意味ではないと思われます。しかし、実は地名の本来の意味はわかっていません。

「正善」の初見は、元禄10年(1697)「武蔵国崎玉郡備後村検地水帳」(県立文書館収蔵森泉家文書)です。

備後村の小名として「正善」が確認されます。検地帳によると、このほか、備後村には「市の縄」「田嶋」「須加」「宮田」「大道東」「谷原(やわら)」「会の谷」「立野」という小名があったようです。

小名の由来・意味を特定(確定)するのは非常に難しい。というより、地元に言い伝えなどがなければ、確かなことはわかりません。「正善」も同様です。今回は、その意味に迫るため、あえて地名の意味を推察してみたいと思います。地名は土地・地形の状況を表わす場合が多いですので、考えうる範囲で次のようになりましょうか。

「市の縄」は、よくわかりませんが、「縄」は土地の丈量に使用される道具なので、丈量に関わる地名なのでしょうか。「市の縄」は旧古利根川の流路跡に分布する自然堤防上のエリアと重なり、「一の縄」と漢字が当てられることもあるので、人びとが住み着き、最初に丈量した土地ということでしょうか。

「田嶋」の「嶋」は、水に囲まれた陸地のこと。県東部では、低地のなかに島状に高くなている微高地を「嶋」と称することが多いので、「田嶋」は田のなかにある少し高くなっている土地を指すのでしょう。

「須加」は今でも「備後須賀」などと使われる地名の一つ。スカは川沿いに堆積した砂地・微高地を意味します。備後須賀の周辺には古利根川の旧流路跡があり、かつて側に川が流れていました。その時に積もり堆積した砂をして、須賀と呼んだのでしょう。

「大道東」は日光道中沿いの東側に分布する地名です。「大道」は日光道中のこと、その東側という意味でしょうか。

「会の谷」「谷原」は、落ちくぼんだ谷状の地形=後背湿地を「谷」と読んでいるのではないかと思われます。

「立野」は原野という意味があるようです。備後だけでなく、市内にも散見される地名です。

 「宮田」は、第四保育所から東側国道4号あたりまでのエリア。「宮」は、お宮(神社)を指すのでしょうから、備後須賀稲荷や備後西川香取神社、いずれかの神社の田んぼ、という意味なのでしょう。

そして「正善」。まったく見当がつきません。全国規模でみると、福井県や高知県に「正善」の地名があったり、「正善」寺という寺院があったり。春日部とは直接関係はありませんが、正善という僧侶も存在したようで、仏語なのでしょうか。いずれにしても、土地に「正しくてよいこと」「理にかなって正しいこと」の意味を与えた、とは考えにくいですから、「正善」という人物か、もしくは仏教由来からか、この土地が「正善」と呼ばれるようになったと思われます(大変苦しいです)。

以下の写真は、明治後期から大正期に作図された備後地区の字図。まちがいなく、この土地は「正善」と呼ばれていたことがわかります。

写真:耕地整理図

 

写真:字正善

そして、昭和51年(1976)、正善小学校が開校します。武里・備後地区の児童数が増えていったため、「正善」に仮称備後第二小学校の新築がはじまりました。当時の春日部市では、「上沖小」(昭和51年)「沼端小」(昭和51年)「立野小」(昭和52年)など、小字を採用して学校名が付けられることが多かったため、「正善」小学校と名付けられることになりました。

繰り返しになりますが、地名の「正善」は地名の本来の意味はわかっていません。先人から受け継いできた土地に刻まれた「正善」の歴史を、今後も考えていく必要がありましょう。

結論がなく、小字・小名の謎は深まるばかり。ご存じの方がおられましたら、そっと、ご教示ください。

春期展示「発掘された板碑」ー金泥が残る板碑

平成9年に行われた小渕山下北遺跡2次調査では、井戸跡の中から破片を含め、17基以上の板碑が発見されました。このうち天文23年(1554)の銘が刻まれた板碑には、刻まれた文字の部分などに金泥(きんでい)が残っていました。

小渕山下北遺跡天文22年板碑

金泥は金箔をすりつぶした金粉にニカワを混ぜた水を加えたものです。発掘調査で出土した板碑には金泥が残されているものが少なからずあり、板碑が造られた当時は、多くの板碑に金泥が使われていたものと推定できます。

小渕山下北遺跡天文22年板碑アップ

▲金泥部分アップ

ちなみに同じ井戸からは、「二引両紋(ふたつひきりょうもん)」と呼ばれる家紋が赤漆で描かれた漆椀(うるしわん)も発見されています。

 

ご紹介した金泥が残る板碑も展示している「発掘された板碑」展は、会期が残り2週間となりました。6月22日(日)にはみゅーじあむとーくを予定しております。ぜひご来館ください。

●第71回企画展示「中世板碑の世界ー発掘された板碑」

会期:令和7年7月6日(日曜日)まで

休館日:毎週月曜日、祝日

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・東武鉄道春日部駅東口より徒歩10分)

 

●関連事業 みゅーじあむとーく

展示室で学芸員による展示解説を行います。申し込み不要、展示室までお越しください。30分程度、各回同じ内容です。

とき 6月22日(日曜日)、7月6日(日曜日)10:30~、15:00~
ところ 郷土資料館企画展示室