ほごログ(文化財課ブログ)

2025年5月の記事一覧

出張授業「縄文体験教室」 in川辺小学校

5月27日(火)に川辺小学校3年生の「総合的な学習の時間」へ出張授業に行ってきました。

今年度の第1回目の出張授業です。その内容は「発見!探検!春日部じまん!」をテーマに”川辺小学校ちかくの昔むかしの生活”について、学習しました。

授業の前半では、最も冷涼な頃であった2万年前の氷河時代に暮らした旧石器時代のひとびとの生活と環境と、土器を作り、定住しムラを築いた縄文時代の暮らしを取り上げました。 

氷河時代には関東地方にも今や絶滅してしまったマンモスがいたことや日本列島が大陸とも陸続きであったこと、そして地球規模の温暖化が進んだ6,000年前の縄文時代には市内に海が広がっていたことなどをスライドで学びました。

 

現在、海なし県に住んでいるわたしたちですが、学校付近にはかつて「大海原」が広がり、その証として貝塚遺跡からは複数の貝類やウミガメやイルカの骨が見つかっていることを聞いて驚いていました。

 

授業の後半では、3つの班に分かれて、縄文人の食べ物や道具に触れる体験を行いました。

石器の体験では、実際に黒曜石で段ボールを切る体験をしました。鋭い切れ味に歓声があがり、慣れてくると段ボールを裁断するまで切れ味を試した児童も現れました。

 

縄文人の食べ物では、貝塚の貝がらと川で取れる貝がらを比べてみます。

現在は南九州や東南アジアの国々からしか取れない貝も貝塚からは発見されており、縄文時代は市内に温かい海が広がっていたことがわかります。「これは何の貝だろう?」と興味津々でした。

 

土器の体験では、市内で出土した縄文土器や色々な破片を実際に見て触ってもらいました。

「外側がザラザラしてる」「ちょっと重いかも」と、率直な感想が聞けました。「はにわ」の破片を見て「はにわ知ってるよ!」と教えてくれる生徒さんたちもいました。

3年生の皆さんは目をキラキラさせながら本物の道具や貝に触れていました。最後は丁寧にお礼を言ってくれました。川辺小3年生のみなさん、ありがとうございました!今後は6年生を対象とした授業も行います。6年生からどんな感想が聞けるのか、楽しみです。

たくさんの生徒さんたちに「本物に触れる」体験をしてもらえると嬉しいです。多くの小・中学校からの出張授業のお申し込みをお待ちしています!

 

 

ふれあい大学の皆さん、郷土資料館を見学。旧宿場町を町歩きされました

5月27日・28日、ふれあい大学の皆さんが春日部案内人の会の皆さんの案内で来館されました。

写真:見学のようす1 

今回は、ふれあい大学のカルキュラムの一環で、粕壁宿の町並み巡りをされるそうです。

実は、先日、ふれあい大学の皆さんには「春日部の歴史」と題して、お話をしたところでした。「はじめまして」ではなく、むしろ「先日はありがとうございました」「楽しかったです」なんて、お声がけいただいた方もいらっしゃいました。「先日は眠くなる話で恐縮でした」と挨拶からはじめて、“つかみはOK”

館内では、宿場町並み模型について解説しました。詳しい説明は、現地のガイドさんに譲りましたが、松尾芭蕉をはじめ、伊能忠敬、徳川慶喜など歴史的な著名人が訪れ、泊まった歴史があるのは、やはり市域では唯一の町だからです。

先日の「春日部の歴史」の講義では、時間の都合で近世・近現代の話題をかなり省略してしまいましたので、“きいてないよー”状態だったかもしれませんが、「江戸時代の宿場町は市内のどこを探してもここだけ!」とお話しすると、深くうなずく方がいらっしゃいました。

写真:見学のようす2

しかし、郷土資料館の見学はわずか7分のみ。しかも、模型の解説を聞くだけで時間一杯です。

ぜひ、後日ゆっくりとご観覧にきていただけるとうれしいです。
 

5月の考古学関係展示会、イベント情報

5月の近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。

(毎月28日ごろに掲載します。随時、情報を更新します。)

(東部地区文化財担当者会リレー展示ー都鳥が見た古代)
・6月3日(火曜日)~7月21日(月曜日・祝日)幸手市郷土資料館(資料展示)

(展示会_閉会日順)
・6月15日(日曜日)まで 国立科学博物館(東京都台東区)
古代DNA-日本人の来た道―

・6月15日(日曜日)まで 水子貝塚資料館(富士見市)
「縄文文化のはじまり ~八ヶ上遺跡全部見せます~」

・6月15日(日曜日)まで 飛鳥山博物館(東京都北区)
春期企画展「丸木舟ラボー縄文の舟にまつわる4つのはてなー」

・6月29日(日曜日)まで 佐野市郷土博物館(栃木県佐野市)
令和7年度春の展示「佐野の遺跡展」

・6月29日(日曜日)まで 栃木県埋蔵文化財センター(栃木県下野市)
令和7年度春の企画展「キレッきれの黒い石―とちぎの黒曜石―」

・7月6日(日曜日)まで 宮代町郷土資料館(宮代町)
企画展 「発掘された地蔵院~テーマで探る人々の姿~」

・7月6日(日曜日)まで 熊谷市立図書館郷土資料展示室
令和7年度市立熊谷図書館・立正大学博物館連携展示「立正大学を掘ってみたー熊谷校地内遺跡発掘調査の記録」

・7月6日(日曜日)まで 杉戸町文化財展示室(杉戸町エコ・スポいずみ内)
令和7年度企画展「モノ云うモノ」

・8月30日(土曜日)まで 帝京大学総合博物館(東京都八王子市)
企画展「ホネホネワンダーランド-骨の不思議を探る-」

・8月31日(日曜日)まで かみつけの里博物館(群馬県高崎市)
企画展「わくわく!はにわ体験‘25」


(現地説明会)
・6月8日(日曜日)10:00~14:00 沢口上古墳・八木上遺跡(狭山市) 公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団(要申込)

【資料寄贈】武里駅前の清酢工場のチラシ

郷土資料館には、年に数十件ほど資料の寄贈のお話しをいただきます。

今回は、市外の方ですが、古書店で次のような広告を見つけたといい、快くお譲りいただきました。

画像:酢屋の資料

資料は、かつて武里駅前にあった武里清酢醸造所の広告です。景品を付けて、清酢(食用酢)を大売り出ししたときのもののようで、売出・景品交換期間は大正15年(1940年・12月に昭和に改元)とありますので、大正時代の終わりごろに印刷・配布されたものでしょう。

武里駅前にかつて酢の工場があったこと、地元の古老の方や郷土史家の方に聞いたことがありますが、具体的な資料が、少なくとも館蔵の資料にはなく、たまにお問い合わせいただきますが、よくわからないと答えるばかりでした。

いま一度、調べてみると、清酢工場は、武里村の大字大畑に所在していた工場で、今の武里駅の東側に所在していました。工場の創業は大正7年1月とされています(『埼玉県工場通覧 昭和10年』)。別の文献では、屋号を「酢屋」といい、酢屋田中栄次郎商店ともいいました。工場の創業は大正7年のようですが、酢の醸造の創業年は江戸時代後期の天保年間ともされています。

…江戸時代まで遡るのか。担当者の目の色が少し変わってきました。

田中栄次郎という人は、安政元年(1854)生まれ。赤沼村(豊野地区)出身の方のようで、赤沼在住の時代には酢の醸造だけでなく、醤油の販売もしていたようです(『埼玉県南埼玉北葛飾二郡公民必携名家鑑』)。残念ながら、江戸時代の赤沼村の醸造についての史料は見出されていませんが、天保14年(1843)、隣村の銚子口村では「豆腐・油揚・醤油・酢・ぞふり(草履)・わらし(草鞋)」を商う農家があったことが確認されますので(『春日部市史 近世史料編 5』p656)、近郷で酢の醸造をしていた家があってもおかしくはないでしょう。

武里の酢屋は、おそらく、明治32年(1899)に東武鉄道が開通し、交通・流通の便を考え、工場を武里駅前に創業したのではないか、と考えられます。

桐箪笥・麦わら帽子など春日部の地場産業は、農村部で産業が勃興すると、明治時代末期から大正期にかけて、その担い手が粕壁町などの地域都市に進出していく傾向がみられます。おそらく、酢屋もその歴史過程と軌を一にしたものと理解できるでしょうか。

具体的なことがわからないにも関わらず、推論に推論を重ねてしまいました。関係者の方、詳しいことをご存じの方がおられましたら、ご教示いただけますと幸いです。

末尾ですが、資料をご寄贈いただいた方に、改めて感謝申し上げます。

麦稈真田からはじまった。。。麦わら帽子の産業の歴史について調べています

今夏の企画展のテーマは、春日部の特産品「麦わら帽子」をテーマにします。

題して、「麦わらの春日部~帽都いま・むかし」展です。

市内の麦わら帽子は、明治時代から続く、伝統の地場産業です。昨今は麦わら帽子だけなく、製帽産業自体も厳しく、平成初めには8つほどあった帽子製造所ですが、市内には2つほど。かつては、帽子製造や帽子の材料となる真田紐を集荷・製造する業者が67者もありました(大正4年)。かすかべは、帽子の都、すなわち「帽都」(ぼうと)とも称されました。「帽都」の語は、戦前の地理教育学系の雑誌『デルタ』1-2(1937年)の執筆者による造語のようですが、帽子産業に彩られた「かすかべ」を形容しており、副題として採用してみました。

郷土資料館にも、かつて帽子製造所からご提供いただいた、麦わら帽子・経木帽子・ストローバックを特産品として常設展示しております。がしかし、これだけでは企画展示になりませんので、市内の製造所の皆さん、かつて帽子製造に携わっておられた方にご協力いただき、帽子の作り方をはじめ、産業の盛衰について取材させていただき、麦わら帽子のあゆみを調査しています。

今日は、調査で得たことを少しだけご紹介。といっても、初歩の初歩の話。

そもそも、麦わら帽子って、何で出来ているか知っていますか?

「麦わら」と答えた方は、惜しい。

単なる「麦わら」からは、麦わら帽子は作れない。「麦づくりをしているから、麦わら帽子ができる」という言い方は少し飛躍しています。

改めて、麦わら帽子をよく見ていただくとわかります。下の写真は帽子のてっぺんのところ。

麦わら帽子のウズ

よくみると、麦わら帽子は、ウズ状の構造をしていることがわかります。たしかに、麦の茎=麦わらが素材(原料)ではあるのですが、ウズの元になっているのは、数本の麦わらを編んだ紐です。この紐は、麦稈真田(ばっかんさなだ)と呼ばれています。麦稈とは、麦わらの意ですから、平易に麦わら真田という場合もあります。

麦稈真田は、原料の麦わらの太さや本数によって、様々な太さ・形状のものがあります。

写真:麦稈真田(見本)

職人さんは、麦稈真田のことを「ブレード」と呼びます。「ブレード」は、太さ・編み方・色合いが多様で、帽子にあった「ブレード」を選び、あるいは組み合わせて、それを縫製することで麦わら帽子ができるのです。

 現在の「ブレード」は、ほぼ中国製です。麦稈真田は、機械で編むことはできないため、中国では今も手作業で真田を編んでるそう。麦わらは、自然素材ですから、わらの出来具合によって、色合いが違ったり、切れやすくなってしまう部分もでてくるそうです。職人さんに教えていただきましたが、「ブレード」にも表と裏があるそうで、わらの茎の継ぎはじめがみえる側が裏、比較的綺麗な編みの側が表になるそう。当然、表側が帽子の表面になるように縫製していくそうです。

色がついている真田は、中国から輸入された真田を晒や染色専門の業者に一旦預け、染色してもらったものです。どんな業者でも染色ができるわけではなく、麦稈真田特有の染め方の技術があるそうです。上の写真は青色ですが、色は色々です。

帽子の素材はこの麦稈真田如何で決まってくるわけです。

日本で麦稈真田が作られるようになるのは、明治4年(1871)のことといわれています。帽子は、洋装とともに広まっていった、極めて近代的なアイテムですが、その原料となる国産の麦稈真田も明治以降のこと。ですから、日本における麦わら帽子の歴史は、どう遡っても明治時代からです。 

市内に一次史料は残されていませんが、どうやら、春日部の麦わら帽子製造の起源は、明治時代に「麦稈真田」づくりから。かつては、市域周辺の農家の女性たちが、副業として麦稈真田を編んでいたのです。そして、この「ブレード」と呼ばれる材料をめぐって、市内の帽子産業の歴史はうねりをみせていくのですが、そのあたりのことは、次の機会に。

麦わら帽子、麦稈真田について、情報がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

「麦わらのかすかべ」展、ご期待ください。