ほごログ(文化財保護課ブログ)

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縄文体験教室 in 内牧小学校♪

6月11日(金)は内牧小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業を行いました。

6年生の社会科学習が歴史単元に進んだので、今回が令和三年度最初の出張授業となりました!!

 

クラスは全3クラス。授業は、三密を回避するため、少々暑かったですが広々とした体育館で行いました。

 導入では「神明貝塚」の動画、さらには学校付近に広がる遺跡と市内の貝塚の存在を学習し、その後、

「石器ブース」「貝・骨ブース」「土器ブース」の三つのブースをグループで体験してもらいました。

歴史の授業が今日がはじめてというクラスもあり、みなさんは興味津々でした。

 

▲春日部市内にも縄文時代の遺跡があることを知り、中には驚く子も。

 

 

▲石器のコーナーでは切れ味体験とあわせて石器の石材の黒耀石がどこからやってきたのか学びます。200kmも離れた信州諏訪付近からも交易によってもたらされたものと知り、驚く様子もみられました。

▲貝などの海産物や獣、そして豊かな森から得られる植物資源と多様な縄文人の食生活。現代に通じる食生活があったかも?

 

授業終了後、子どもたちの中には、名残惜しそうにブースを眺めている子もいて「もっと聞きたかった」と言ってくれた子もいました。

 

内牧小学校のみなさん、ありがとうございました。

これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。

【7/7まで新収蔵品展】小流寺の聖徳太子像

新収蔵品展では、小流寺の文化財として、令和3年4月22日に市指定文化財となった「木造小島庄右衛門正重座像(もくぞうこじましょうえもんまさしげざぞう)」、「小流寺縁起(しょうりゅうじえんぎ)」(春日部市指定文化財)、そして今回ご紹介する「聖徳太子像」を展示しています。

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。

小流寺小流寺

小流寺は、浄土真宗の寺院で、現在は西宝珠花に所在します。もとは上吉妻にあり、昭和28年(1953)、江戸川改修工事に伴い、現在地に移転しました。坐像になっている小島庄右衛門正重は、小流寺の開祖であり、江戸時代、庄内領と呼ばれた現在の庄和地区の新田開発にたずさわりました。

聖徳太子像は、ながく小流寺でまつられてきたもので、江戸川を漂流してきたものと伝わります。像の高さは約90㎝、髪を中央で分け、両手に柄香炉(えごうろ)をもち、袈裟を身に着けています。髪型は本来は、長い髪を耳のわきで結ぶ角髪(みずら)であったようですが、結ばれていたであろう部分は欠損しています。表情はやや険しく、私たちがよく知っている旧1万円札の聖徳太子とは違う印象を受けます。制作年代は不明ですが、江戸時代の早い時期と考えられます。

この像の形は、孝養像(きょうようぞう)と呼ばれ、聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気快復を願って祈る姿と言われます。「孝養」とは、「こうよう」とも読むようですが、子が親に孝行をすることを表します。

柄香炉の持ち方は、浄土真宗本願寺派の勤式指導所のサイトによれば、作法としては「保持の仕方は、右手で上から柄の端の曲がっている部分を持ち、左手は下から柄の中央部より少し香炉寄りを持つ」とのことです。小流寺の聖徳太子像は、左右逆に持っており、これは手の部分を本体から抜くことができるため、誤って取り付けられた可能性もあります。しかしながら各地の聖徳太子像や絵画をみてみると、右手側に香炉をもつ小流寺の聖徳太子像と同じものもあるので、一概に間違っているとは言えないようです。

聖徳太子像

日本に仏教を取り入れた聖徳太子への信仰は、日本の仏教史とともに歩んできました。奈良時代の歴史書『日本書紀』では、生まれながらの聖人であったことが記されました。平安時代から中世には、様々な太子の伝記が書かれ、文学、芸能、美術など、さまざまな面で聖徳太子への信仰が関わりました。

鎌倉時代には鎌倉新仏教と呼ばれる新しい宗派が生まれ、各宗派を始めた祖師たちは、やはり聖徳太子を敬います。とりわけ小流寺の宗派である浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)は、聖徳太子を大変尊敬しており、浄土真宗のお寺には、聖徳太子像など、聖徳太子にかかわるものがまつられることが多いようです。小流寺に伝わる「小流寺縁起」にも、聖徳太子の事績を書く部分があります。

江戸時代には、聖徳太子が、四天王寺(大阪府)や法隆寺(奈良県)の建設にたずさわったことから、大工や左官、鍛冶屋、桶屋などの職人の信仰が盛んになりました。太子が亡くなった日に集まって、太子像などをまつる太子講が広まりました。

小渕の観音院にも、聖徳太子像が伝えられていますが、太子像がおさめられていた太子堂の修理のために、市域周辺の大工などの職人たちがお金を出し合った記録「小渕太子堂奉加帳」(春日部市指定文化財)が残されています。

小渕太子堂奉加帳と観音院の聖徳太子像は、7月20日から9月5日まで開催される「語り出したらキリがない桐のまち春日部」に出展予定ですのでお楽しみに。

西暦2021年の今年は、聖徳太子の亡くなったといわれる622年から1400年であり、4月には法隆寺で100年に1度の大法要が営まれました。このような特別な年に、偶然にも2回続けて「聖徳太子像」を企画展に出展する春日部市郷土資料館にぜひおこしください。

 

参考文献

武田佐和子 1993 『信仰の王権 聖徳太子 太子像をよみとく』 中央公論社

石井公成 2016『聖徳太子ー実像と伝説の間』春秋社

【近隣館の紹介】幸手市郷土資料館

幸手市郷土資料館では企画展「彰義隊士横山光造の陣笠」展を開催しています。

当館のような小さな館は、近隣の博物館さんと助け合い、支え合いながら日々運営できています。その日ごろの感謝を込めて、少し新しい試みですが、今回は近隣館を紹介してみたいと思います。

幸手市郷土資料館さんは、平成30年10月に設置された比較的新しい施設です。

写真:幸手市郷土資料館

当館は、埼玉県博物館連絡協議会などで、日ごろからお世話になっており、先日打ち合わせと資料調査でお邪魔し、その折に企画展を拝見しました。

写真:展示風景

戊辰戦争で歴史の表舞台に登場する、幸手ゆかりの彰義隊隊士横山光造に焦点をあて、遺されたわずかな資料からその実像を紹介しています。

常設展示は、充実した『幸手市史』の成果により、体系的に幸手の通史が学べます。民具の展示を質量ともに圧巻されます。おすすめは常設展の「武蔵国絵図写」。「かすかべ」の記述もあり、いずれ借用・展示させていただきたいなぁと、目をつけています。まだ見学されたことのない方はぜひともお出かけください。

 

展示期間:令和3年5月25日(火曜日)から7月18日(日曜日)まで

開催場所:幸手市郷土資料館 歴史展示室内 企画展示エリア

詳しくは幸手市郷土資料館ホームページ

粕壁小学校6年生が郷土資料館を見学しました。

令和3年6月9日(水)、粕壁小学校第6学年の皆さんが、社会科の歴史単元「縄文のむらから古墳のくにへ」の学習のため郷土資料館を見学しました。

写真:竪穴式住居を見学する

学芸員による縄文・弥生・古墳時代の解説を聞いたあと、児童各々は竪穴式住居原寸大模型や神明貝塚の出土品、須釜遺跡の土器、塚内古墳群の埴輪などをじっくり観察していました。縄文時代の土器や石器を触ってみたり、なかには匂いをかいでみる児童もいました。はたまた、神明貝塚の人骨と自分の顔を比べる児童もいました。自らの身体をフルに活用して郷土の縄文時代を体感してくれたようです。写真をブログに載せてほしいとリクエストをいただきましたので載せます。タイトルは「人骨と小学生」

写真:人骨と小学生

目的の学習を終えると、粕壁宿の模型で自分の家の位置を確かめたり、粕壁小学校の木造校舎の写真や粕壁の昔の風景をみて、まちの移り変わりを考えたり、学芸員に詳しく話を聞いたりして、身近な物事に基づきながら、さまざまな時代について楽しみながら歴史の理解を深めてくれていたようでした。

なかでも、航空写真から自分の家や友達の家を探すことや、

写真:航空写真をみる小学生

「かすかべ弁」として掲示している県東部地域の方言の意味を考えることに夢中になっているようでした。

写真:方言を考える小学生

最近では、文化財保護課による出張授業当館の「でばりぃ資料館」などの出張メニューも好評をいただいていますが、先史時代から現代まで、すべての時代の歴史を順を追って体感できるのは郷土資料館しかありません。6年生の皆さんには、江戸時代の参勤交代や宿場町を学習する単元でも、日光道中や粕壁宿の模型を身近な教材として活用していただき、もう一度社会科見学に来ていただけるといいなぁと思います。

千葉大学の博物館実習を受け入れました

昨年度に引き続き、千葉大学学芸員課程の博物館実習を受け入れ、14名の学生が郷土資料館に来館しました。

午前中は、ざざっと館の概要や館内をご案内したあと、小学生の体験授業で使用する稲わらを束ねてもらいました。実際に授業で小学生に体験してもらう「千歯こき」も皆さんに体験してもらいました。

 千歯こき体験

 

 

 

 

 

 

 

 

  

千歯こきの体験 

午後は、昨年度に引き続き、館蔵の資料整理にご協力いただきました。市内の商家からいただいた明治時代から平成初頭までの史料群の未整理の文書箱を開梱して、資料の概要調査の調書を作成してもらいました。千葉大学の皆さんには、ここ何年か連続してこの作業をしていただいており、昨年度の先輩が作成した調書を参考にしながら、今年も作業を進めました。

この資料は、解体される寸前の商家から、短時間で箱に詰めて資料館に収蔵したもので、どんな資料が入っているかを把握しきれていません。そのため毎年度、職員も含め、ワクワクしながら箱を開いています。

資料整理

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資料整理の様子

 今年の作業では、明治時代初期の粕壁宿の絵図が見つかりました。この絵図は宿場の細部までしっかりと書かれており、今後、展示や研究などに大いに利用されていくものと思われます。

学生の皆さんに、歴史的な資料が発見される瞬間に立ち会っていただくことができました。

明治時代初期の粕壁宿絵図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治時代初期の粕壁宿絵図 

1日という短い時間でしたが、みなさん熱心に見学され、また真剣に作業を進めていただきました。ありがとうございました。

【7/7まで新収蔵品展】上蛭田村の高札

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。

「新収蔵品展」では、上蛭田(かみひるた)村に掲げられていた高札を展示しています。この高札は、享保6年(1721)に出されたもので、幕府の鷹場内で鉄砲をうつことや鳥をとることを禁じたものです。

上蛭田村高札 上蛭田村享保16年高札

(クリックすると大きな画像(271KB)がダウンロードされます)

高札は江戸時代から明治時代の初期、幕府からの法令などを示すために、人々が往来する場所や名主の屋敷内に掲げられました。墨で書かれた文字が薄くなった場合は、許可をとって墨入れをしますが、この高札も、最初に掲げられた年から122年を経た天保14年(1843)に墨入れしたと、裏面に記されています。

高札裏面の墨書

 

 

 

 

 高札裏面の墨書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高札は、例えば粕壁宿では、高札場が日光道中と岩槻の方面への道が分岐する辻に建てられ、文化元年(1804)には下記のような高札が掲げられていたと記録されています。

①「親子兄弟夫婦を始」

②「切支丹宗門御制禁」

③「粕壁宿より駄賃并(ならびに)人足賃銭」

④「毒薬并(ならびに)似せ薬種」

⑤「駄賃并(ならびに)人足荷物之次第」

⑥「火を付るもの」

⑦「鷹番之義」

⑧「在々ニ而鉄砲打候もの」

⑨「何事によらすよろしからさる」

⑩「当未正月より来ル辰十二月迄拾ケ年駄賃壱割五分増」

⑪「当戌十月より来寅十月迄五ケ年之内賃銭三割増」 

参考:春日部市郷土資料館収蔵資料紹介:鷹番廃止の高札

『春日部市史近世史料編Ⅱ』P.801~

 

また江戸時代、江戸の外縁部は、幕府の鷹場(たかば)に設定されており、春日部市域周辺は、鷹場の中でも「捉飼場(とらえかいば)」として、将軍の鷹を訓練する場所として使われていました。

春日部市域に鷹場に関するとりきめを記した高札が多く残るのは、このためです。

 

鷹番廃止の高札については、過去の記事でもとりあげました。

 ほごログ過去の記事:鷹番廃止の高札『新編図録春日部の歴史』ーその75

 

上蛭田村高札の釈文、読み下しは以下の通りです。

(釈文) 

在々にて若鉄炮打候

もの有之候ハヽ申出へし幷

御留場之内にて鳥を

取申もの捕候歟見出し

候ハヽ早々申出へし

急度御褒美可被

下置者也

享保六年二月

 

裏面

天保十四卯年正月書入

武州埼玉郡

上蛭田村

 

(本文部分の読みくだし)

さだめ

ざいざいにて、もしてっぽううちそうろう

ものこれありそうらわば、もうしいずべし、ならびに

おとめばのうちにてとりを

とりもうすものとらえそうろうか、みいだし

そうらわば、そうそうもうしいずべし

きっとおほうび

くだしおかるべきものなり

 

 

#庄和総合支所 で #南桜井 の歴史を紹介しています

庄和総合支所の1階ロビーの隅っこに、市内の文化財や歴史を展示・紹介するスペースがあるのをご存知ですか。

郷土資料館では、長らく、江戸川に関する古写真などを展示していましたが、このたび、南桜井の歴史を紹介するパネルを掲示しました。

南桜井周辺の古地図や航空写真、人口の移り変わりなどを掲示したもの、南桜井の文化財を紹介したもの、地名の由来や地区に伝わる伝説を紹介したものを掲示しています。

先日「大衾の歴史」を紹介した通り、地区の歴史については、掘り下げれば掘り下げるほど、本当にキリがありません。南桜井という一地域の歴史・文化も話せば長くなりますが、何とか掲示板一面に何とかおさめることができました。総合支所周辺の地域の歴史を感じていただければ幸いです。

写真:掲示物の様子

なお、わずかですが、市内の遺跡から発掘した原物の資料を展示する「春日部市発掘調査速報展示」もありますので、あわせてご覧ください。

【7/7まで新収蔵品展】亀田鵬斎書の看板

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。

「新収蔵品展」では、かすかべ大通りのカネコ薬局さんから頂いた亀田鵬斎(かめだぼ(ほ)うさい)書の看板を展示しています。「家伝 たんせきのくすり 鵬斎老人書」と書かれ、亀田鵬斎が金子家宿泊のお礼に書いたものと伝わります。

*亀田鵬斎書の看板については、郷土資料館サイトの収蔵資料紹介もご覧ください。また、亀田鵬斎書の荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本については、ほごログの過去記事「【3月27日】 #今日は何の日? in春日部」もご覧ください。

亀田鵬斎(宝暦2(1752)年~文政9(1826)年)は江戸時代の儒学(じゅがく)者であり、文人です。書にも長け、空中に飛び回るような豪快な書風は「フライング・ダンス」とも形容され、全国に書や碑を残しています。

宝暦2(1752)年に、江戸の神田で生まれた(一説には上五箇村(かみごかむら・群馬県千代田町))鵬斎は、明和2(1765)年、13歳のころから、儒者の井上金峨(きんが)に学び、安永3(1774)年、赤坂山王社(現千代田区)のそばに私塾を開きました。天明5(1785)年には、私塾を駿河台(現千代田区)に移し、「育英堂」と名付けました。鵬斎の私塾には多くの入門者が集まりました。しかしながら、寛政2(1790)年、幕府の老中、松平定信(まつだいらさだのぶ)により「寛政の改革」の一環として「寛政異学の禁」が出されると、儒学の中でも朱子学(しゅしがく)を正当とし、鵬斎が教えた折衷学派(せっちゅうがくは)は「異学」とされ、多くの門人を失うことになりました。その後は私塾を閉じ、50歳ごろより各地を旅しました。鵬斎は豪放な性格で、また大の酒好きでもあったことから多くの逸話を残しています。酒井抱一(さかいほういつ)、谷文晁(たにぶんちょう)、大田南畝(おおたなんぽ)らと交流がありました。文政9(1826)年、74歳でその生涯を閉じ、今戸(現台東区)の称福寺に葬られました。

鵬斎が春日部に滞在した正確な時期はわかっていません。大正12年の東京日日新聞によれば、「寛政異学の禁」のあと、千住あたりで散々遊んだ後に粕壁宿にたどりつき、しばらく宿泊しているうちに金子薬店の主人夫妻と仲良くなり、居候になったと伝えています。居候中は、子どもに書の手本を書いて教えたり、帳場の帳面をつけたりしながら、患っていた梅毒の治療をしてもらいました。このお礼に、今回展示している「家伝たんせきのくすり」という看板と六双の屏風を書きました。また、世話になった金子薬店の主人が亡くなった際には旅先から駆け付け、その位牌を書きました。

久喜には、遷善館(せんぜんかん)という代官早川八郎左衛門正紀(はやかわはちろうざえもんまさとし)が、享和3年(1803)に設立した郷学(ごうがく・武士のための藩校と一般庶民のための寺子屋の中間に位置する官民一体となった教育機関)がありましたが、鵬斎は早川に招かれて、講師をつとめました。地方での講演が最も多く行われたのが久喜の遷善館であったと弟子が書き残しています。鵬斎は、粕壁や久喜といった埼玉県東部地域の町々とも深く関わりがあったことがうかがえます。

なお、金子家の当主は、代々「七右衛門」と名乗り、元禄時代に初代七右衛門が薬屋を開業しました。大正時代には、粕壁に国立薬草園が開園しましたが、この誘致や創設に、12代七右衛門がたずさわりました。

 

(参考文献)

久喜市公文書館1999『第11回企画展 遷善館』

東京日日新聞 1923「鵬齋の居候ぶり(上)(下)」大正12年8月8日、9日

 

【7/7まで新収蔵品展】ミュージアムトークを開催しました

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています

5月22日(土)、第63回企画展示「新収蔵品展」の会場にてミュージアムトークを開催しました。

「新収蔵品展」は、近年、郷土資料館に寄贈や寄託いただいた資料をご紹介するもので、中世の板碑(西暦1367年のもの)から現代のプリントゴッコ(西暦1993年のもの)まで、26種類76点の資料を並べています。展示では「小流寺の文化財」、「春日部の中世」、「春日部の学校」、「村の行政」、「春日部のまち」、「1964東京オリンピック」、「プリントゴッコ」の7つのコーナーを作り資料を展示しています。

本日はあまり天気が良くなったこともあり、ご来館者は決して多くありませんでしたが、バラエティ豊かな資料を展示していることから、皆様のご興味も様々で、多くのご質問やご感想をいただきました。

ミュージアムトークの様子

展示資料につきましては、こちらのほごログでも、順次ご紹介してまいります。(ちなみにプリントゴッコについては、こちらでご紹介しました。)

 

ミュージアムトークは、この後、6月27日(日)、7月7日(水)の10時30分からと15時からそれぞれ30分程度を予定しております。事前の申込みは不要です。ぜひご来館ください

市内の桐箪笥屋さん・桐小箱屋さんの調査をしています

5月18日(火)より「新収蔵品展」がはじまりましたが、次回、夏季展示の準備も進めているところです。今夏の展示は桐箪笥づくり、桐小箱づくりを中心に、春日部の伝統産業である桐産業の歴史を紹介する展示です。

とはいえ、郷土資料館として桐箪笥や桐小箱について、これまで十分な調査がされていませんでした。今回は、展示の準備のため、市内の桐材屋さん、桐箪笥屋さん、桐小箱屋さん、家具屋さんなどにご協力いただき、各所の歴史の聞き取り調査、製造工程の記録・取材を進めています。

先日、調査させていただいたのは、豊野地区の飯島桐箪笥製作所さんです。

桐の板材から、箪笥の各部材の板をとる「木取」(きどり)の工程をみせていただきました。

写真:木取

丸太から切り出した大きな板材から、箪笥の板に適した木目の部分だけを、丸鋸盤で切り出します。大きな材からとれる板は、わずかで、切り落とした部分はおが屑屋に回収してもらうそうです。

その後、木取した板材の木目をみながら、各部材の寸法の板を合わせます(幅寄せ)。

写真:木取

これらの工程を「木取」と呼ぶそうです。丸太を切り出した板材から各部材を切り出す、この工程は、瞬時に木目などを判別し、箪笥出来栄えや等級にもかかわる重要なものなので、昔から親方の仕事とされてきたそうです。

さらに、「組手づくり」の工程もみせていただきました。

ケビキとノミをつかって、箪笥の棚板を組みあわせる「ホゾ」を切り、ホゾサライと呼ばれる小刀で整えていきます。

写真:組手づくり

資料館でもケヒキやノミを所蔵しているところですが、実際に職人さんが使っているところを初めて見たので、大変感動しました。道具は使われてナンボなのですね。

このほか、塗装の工程も見学する予定でしたが、あいにくの雨なので作業は見合わせに。けれども、ウツギと呼ばれる木釘や、箪笥の塗料の原料ヤシャの実なども、お分けいただきました。

このほかにも、厚川産業さん、松田桐箱さん、古谷桐箱さん、山田桐箱さん、飛鳥馬製作所さん、遠藤木工さん、猪瀬桐材さん、山田箪笥さんなど、様々な業者さん、また残念ながら現在は廃業されてしまった方にもお話しを聞いて回っています。みなさん、突然の調査にも関わらず暖かくお迎えいただき、聞き取りの話が尽きません。ありがたい限りです。

これらの調査の成果については、展示でお披露目できればと思っています。市内には、まだまだ桐箪笥、桐小箱の事業者さんはたくさんおり、どこまでお話しが聞けるのか、わかりませんが、できる限り、多くの方のご協力をいただきたいと考えています。桐箪笥・桐小箱・家具業者の皆さんには、引き続きご協力いただきたいと思います。よろしくお願いいたします。