ほごログ
「須釜遺跡の弥生土器」が埼玉県立歴史と民俗の博物館「埼玉考古50選」に出展
9月15日、埼玉県立歴史と民俗の博物館に須釜遺跡出土の弥生土器を貸し出しました。
埼玉県立歴史と民俗の博物館では、下記のとおり、10月9日(土)より「埼玉考古50選」展が開催されます。
須釜遺跡の弥生土器はこちらの展示会に出展されます。
●博物館開館50周年記念「埼玉考古50選」
期間:令和3年10月9日(土)から11月23日(火・祝)
時間:9:00から16:30
会場:埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区高鼻町4-219)
*東武アーバンパークライン(野田線)大宮公園駅より徒歩5分
観覧料:一般600円 高校生・学生300円
埼玉考古50選チラシ(チラシ画像をクリックするとPDFが開きます)
須釜遺跡は市内北部の倉常に位置します。
「再葬墓」とは、縄文時代の終わりごろから弥生時代の中頃にかけて関東地方から東北地方において広まったお墓の形です。人が亡くなった際、一度、遺体をそのまま土に埋めたりして葬(ほうむ)りますが、一定の時間がたったのち、その遺体を掘り出して、さらに骨だけにし、再び葬るものです。「再び葬る」ことから「再葬墓」と呼ばれています。
この「再葬墓」が須釜遺跡では11基検出され、完全な形に近い弥生土器、総数29点が発見されています。埼玉県東部地域では、弥生時代の遺跡はあまり発見されていないことから、須釜遺跡の遺物は平成17年に「須釜遺跡再葬墓出土遺物一括」として埼玉県指定文化財となりました。
「埼玉考古50選」では、1号再葬墓と2号再葬墓から発見された土器が展示されます。土器の表面に残った稲籾の圧痕の説明などもあるようです。
埼玉県立歴史と民俗の博物館は、東武アーバンパークラインの大宮公園駅が最寄りとなります。コロナ対策を十分とっていただいて、お出かけいただければ幸いです。
須釜遺跡再葬墓出土の土器
須釜遺跡については過去のブログでも紹介しております。
夏季展示が遺したもの
夏季展示「桐のまち春日部」展も終わり、ただいま資料返却の旅の最中です。資料をお貸しいただいた方々から、「いい展示だったね」「お役に立ててよかった」と感謝のお言葉をいただき、本当によかったなと思う毎日です。 #かすかべプラスワン
様々な方に巡り合い、お話しが聞けて、春日部の桐産業の理解が深まったこと、あるいはこれから深めていくきっかけになったことが、資料館として何よりの財産になったわけですが、ほかにも目に見える形で夏季展示を活かしていきます。今日は2点ほど、夏季展示を継承する成果を紹介します。
第一 桐箪笥のリーフレットを一新しました。
今回の調査を受けて、より見やすく充実した内容に一新しました。まだ前の範の残部がありますので、在庫がなくなり次第配布します。小学校の地域学習の課題などにお役立てください。表紙には、桐箪笥から登場する郷土資料館あんない人の「うめわかくん」が!「うめかわくん」でなく「うめわかくん」です。
第二 桐箪笥のカンナくずを活用した体験講座の開発に着手しています。
桐箪笥屋さんから廃材となるカンナくずをご提供いただき、これを活かして何かできないかなと、展示期間中、職員一同頭をひねっていました。そして、たどり着いたのがカンナくずでつくったバラのブーケです。
以前、実習生がしれっと紹介していましたが、もっと注目されてもいいモノだと思いますので、紹介させてください。
カンナくずを丁寧に折って花びらにし、これを組み合わせて「バラの花」に仕立てました。教育センターの清掃員の方からも大変好評です。先日、箪笥職人さんにもご披露したところ、大変喜んでくださいました。
春日部の象徴である「桐」の廃材を再利用して、美しいバラにする、まさにSDGs未来都市に相応しいといえましょうか。今はどのように事業化すればよいか思案しているところです。
これからも、展示の成果を郷土資料館の活動に活かしていきたいと思います。
【9月16日】 #今日は何の日? in春日部
今から74年前の9月16日は、カスリン台風による水害が発生した日です。 #かすかべプラスワン
昭和22年(1947)9月14日朝から降り出した雨は、15日には強くなりました。いわゆるカスリン台風(カスリーン・キャサリンとも)による豪雨です。台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつありましたが、台風の接近に先立って秋雨前線が活発化し、豪雨がもたらされました。この間の雨量は秩父で県内最高611ミリメートルを記録しました。
16日0時20分ごろには利根川流域の栗橋(久喜市)で水位が9メートル以上に達し、その10分後、埼玉県東村(現加須市)の新川通地先で、堤防が350メートルにわたり決壊、洪水は古利根川筋を南下しながら、埼玉県東部(中川低地)を飲み込み、東京都江東区まで進行しました。
当時の状況は『昭和22年9月埼玉県水害誌』(以下、『水害誌』)に詳しくまとめられています。
これによれば、春日部市内に利根川の洪水が実際に達したのは、9月16日の午後から夕方ごろのようです。東村の堤防決壊から半日あまり時間が経過していました。とはいえ、幸松村では、洪水が達する以前、午後2時頃から新倉松落や旧倉松落などの水路が相次いで決壊するなど、大雨による河川の逆流などもあり、被害が出ていたようです。
16日の夕刻を過ぎると、南桜井村・幸松村で浸水がはじまり、午後11時には春日部町境の隼人堀が氾濫し、内牧・梅田でも浸水が始まります。17日午前0時には宝珠花村の水田が濁流で浸水、午前5時には春日部町の川久保地先で古利根川が決壊し、町域の南部・町並の一部が浸水しました。午前10時には古利根川の春日橋が流失、午前11時には豊野村に幸松村方面から押し寄せた濁流により、全村浸水。同刻には武里村の字備後で古利根川が越水(午後1時決壊)。正午には川辺村の字水角・赤崎・飯沼・米崎、米島・中野(現東中野)の一部が濁流に覆われました。
利根川の洪水(濁流)の進行の経過は、『水害誌』所収の図に図示されています。古利根川や庄内古川を画して、濁流の進行状況が異なったことがうかがえます。赤い実線は16日、赤い破線は17日の洪水進行状況を示しています。読み取りづらい部分もありますが、市域では古利根川以東の地域の濁流進行が早く、豊春村・武里村では徐々に浸水が進行していったようです。また、台地や発達した自然堤防などの高台は浸水を免れたこともわかります。
『水害誌』の付録である『附録写真帳』には当時の貴重な写真が掲載されています。下の写真は武里村で撮影されたものです。武里村の水防団が警戒する様子がみえます。このほかの市内の写真は「かすかべデジタル写真館」で紹介しています。
浸水位(深さ)は幸松村で「床上六尺以上」(床から約180cm)と報告されています。市内では6日以上湛水(水がひかない)地域もあり、高台や水塚(土盛りした建物)の上で生活する方も多く、1か月もの間避難する方もいました。農作物や橋の被害、家屋の浸水、流失・半壊する家も多くあり、大変な被害をもたらす災害となりました。また、水が引いた後の掃除も大変だったとの聞き取り記録もあります。
カスリン台風の発生から70数年が経過し、災害を経験した方も少なくなってきています。カスリン台風時には、明治43年(1910)の水害を経験した方がまだご存命で、その経験で助かった命も少なくないと聞いています。先人の経験をきちんと知り、伝え、それを学ぶことで、私たちやみなさんの暮らしの「備え」にきっとなるのではないかと思います。
春日部市では、最近「災害ハザードマップ」をリニューアルしました。こちらもぜひお目通しください。
参考文献 『昭和22年9月埼玉県水害誌』(埼玉県、1950年)、『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会、2013年)、カスリーン台風70年特集サイト(カスリーン台風70年実行委員会)
【常設展】プチ展示替しました【樋籠村の #村絵図 】
今回展示替したのは、常設展示室の最奥「江戸時代の村々」と「水とのたたかい」のコーナー。地味なコーナーですが、現代の春日部の暮らしに直結する重要な展示です。陳列したのは2点。いずれも近世文書です。しぶ~い展示ですが、どちらも新出史料で、史料集などに掲載されても不思議でない良き史料です。 #かすかべプラスワン
今回は、そのうちの「水とのたたかい」コーナーに展示した、武蔵国葛飾郡樋籠村の村絵図を少し紹介。地名は「ひろう」と読みます。
展示した資料は寛保元年(1741)9月の絵図です。中川低地に位置した、江戸時代の樋籠村の景観が見て取れ、低地の村落の人々が水害の脅威といかに対峙していたかが読み取れます。また、絵図中には、かつて葛西用水として利用されていた「悪水堀」「小古堀」が描かれ、村の西端に描かれた倉松落には「葛西用水堀」と注記され、江戸時代の中川低地の灌漑を支えた葛西用水の変遷を考える上でも重要な資料だと思います。
大変興味深い資料ではありますが、これまで展示公開されたことがありませんでした。この機会にぜひご覧ください。
機会があれば古文書講座のテキストにして、市民の皆さんと読んでみたいとも思っています。
臨時休館のお知らせ
9月18日(土)から9月21日(火)は、燻蒸作業を行うため郷土資料館は休館いたします。
ご迷惑をおかけしますが、ご理解いただきますようお願いいたします。
*18日(土)~20日(月)は、教育センター全館立ち入り禁止になりますのでご注意ください。
*21日(火)は、郷土資料館は休館となりますが、教育委員会事務局は業務を行っております。
【動画】「春日部市の昔と今」公開中!
郷土資料館ホームページの「かすかべデジタル写真館」の古写真が活用され、市の公式動画チャンネル「かすかべ動画チャンネル」に、動画「春日部市の昔と今」が公開されています。 #かすかべプラスワン
この動画は、令和3年度の敬老会の中止に伴い、高齢者支援課により制作・公開されたものです。古写真を現在のまちの様子と比較していて、さまざまな世代の皆さんがお楽しみいただけるものと思います。いよいよ、郷土資料館もyoutubeデビューです。出典元の「かすかべデジタル写真館」も合わせてご活用ください。
武里大枝公民館で「神明貝塚の巡回展示」を開催しています
9月7日(火曜日)より武里大枝公民館にて「神明貝塚の巡回展示」を開催しています。
武里地区においては県指定無形民俗文化財の「やったり踊り」(大畑)が馴染み深い地区ではありますが、前回の豊野地区同様に「遺跡」は確認されておらず、また神明貝塚の所在する西親野井地区とも市内の中でも遠いところに位置しています。
しかし、市内にたくましく生きた縄文人のなりわい、食生活、そして国史跡になった大規模な貝塚を多くの市民の皆さまに知っていただきたく、土器や石器、貝類の実物、縮尺1/150のジオラマ、盛りだくさんの解説パネルを用意しました。
今回の展示場所である武里大枝公民館は、かつて「東洋一の団地」とも称された武里団地の中に所在しています。武里地区での神明貝塚の知名度を上げるべく、是非多くの方々にご覧いただきたいと思いますが、その際には新型コロナウィルス感染拡大防止にご協力いただければと思います。
展示場所:武里大枝公民館 1階ロビー左手
展示期間:9/7(火)~12/19(日) ※月曜・祝日また選挙投票日等は休館
開館時間:8:30~17:15
明日 #ミュージアムトーク やります
令和3年9月5日(日)をもって、夏季展示「桐のまち春日部」展もいよいよ最終日。最終日は、展示担当学芸員によりミュージアムトーク( #展示解説 )を開催します。 #かすかべプラスワン
時間は10時30分~と15時~の2回。「語り出したらキリがない」ので60分ほどになるかと思います。解説を聞きたい方、ご自分の体験談を聞いてほしい方、お付き合いいただける方をお待ちしています。もちろん予約不要、費用はかかりません。
元・桐材屋さんから資料を寄贈いただきました
おかげさまで「桐のまち春日部」展もたくさんの方にご覧いただき、なかには関係者の方もちらほら。先日、夏季展示「桐のまち春日部」展をご覧いただいた、市民の方から資料を寄贈いただきました。
お話をうかがったところ、以前、粕壁で桐材店を営んでいた方でした。
その昔、郷土資料館にも、桐材店に関連する道具を寄贈いただき、その一部は「桐のまち春日部」展でも展示しています。展示をご案内したところ、ご来館いただきました。ご来館された方は、桐材店の娘さんでしたので、直接ご家業に携わっていたわけではなかったようですが、展示資料をご覧いただき、「懐かしい」「○○さんという名前聞いたことがある」とお話しいただきました。
ご来館の折、ご持参いただいたのが今回ご紹介する資料です。資料は、昭和50年ごろに夏休みの自由研究の成果(模造紙)です。自由研究のテーマは「春日部桐箪笥のできるまで」。当時、小学生だった桐材店のご子息が家業の仕事の風景を写真で記録し、模造紙に貼り付けまとめたものです。桐材店のご子息が調べた内容もさることながら、とりわけ貴重なのは写真です。そこで、今回その写真を紹介します。
まずは、桐の丸太の写真です。工場には、大量の丸太が山積されていたそうです。
桐は丸太のまま乾燥させ、そのあと、製材・製板していくことになるようです。
次は、製板された桐材です。屋根が映り込んでいるので長い板であることがうかがえます。
板を乾燥させているところのようです。桐は雨ざらしにしてアク(シブ)を抜かないと製品になった後に変色してしまうそうです。板を斜めに立て掛ける干し方は、面積をとるため、広い敷地がないとできないと聞いたことがあります。
つづいて、工場内部の写真。木取りをしている場面のようです。
丸鋸盤で板材を必要な寸法に切ります。木取りが箪笥を製造する上で重要なことは以前紹介しました。
つづいても工場の中。箪笥のワクを組んでいるところです。
職人さんは、「アツイタ」とよばれる作業台の上で生地を組んでいきます。
ホゾを組むときや、木釘をうちつけるときには、木槌やトンカチ(ゲンノウ)が使用されます。
「トントントン」と、リズミカルで心地よい音が聞こえてくるようです。
ところで、最近の箪笥屋さんは、「箪笥屋さん、儲かるかい?」「トントントントン、トントンのカミ」というそうです。意味は、箪笥を一生懸命「トントン」と組んでも、儲けは「トントン」(差し引きゼロ)だということです。
かつては、「箪笥屋さんかい?神様かい?天皇陛下のオジサマかい?」といったほど、春日部の箪笥産業は盛んでしたが、近年は手間賃が安く箪笥屋さんの景気もあまりよくないとか。聞き取り調査の折に、こんな話をうかがったこともあります。
話は脱線しましたが、「桐のまち春日部」展は9月5日まで。あとわずかですが、春日部の桐産業について、まだまだ、わからないことが沢山ありますので、関係者の方、ぜひ教えてください。
小渕・観音院の聖徳太子立像
夏季展示「桐のまち春日部」展で展示中の聖徳太子立像(小渕・観音院所蔵)は、同展の目玉資料の一つです。今回は春日部の桐細工との関わりについて、ご紹介します。 #かすかべプラスワン
小渕の観音院は、正式には小淵山正賢寺観音院といい、市内では現存する唯一の本山修験宗の寺院です。鎌倉時代中頃の正嘉2年(1258)建立とされ、市内最多の7躯の円空仏(小渕観音院円空仏群・県指定有形文化財)、元禄年間(1688-1704)建立と伝えられる小渕山観音院仁王門(市指定有形文化財)など、春日部のあゆみを理解する上で貴重な文化財を伝えています。イボ・コブ・アザなどにご利益のある「イボトリ観音」として古くから信仰され、5月の大型連休中に円空仏を開帳する「円空仏祭」や「四万六千日祭」(8月10日)などの年中行事に加え、近年はさまざまな催し物を織り交ぜたイベント「寺フェス」などを催し、寺院の新たな役割を模索しています。
小渕の観音院に伝わる聖徳太子立像は、木造で厨子におさめられ、普段は本堂に安置されています。太子像は、髪を角髪(みずら)に結い、鳳凰丸紋(ほうおうまるもん)の朱華(はねず)の袍衣(ほうい)に袈裟(けさ)をかけ、柄香炉(えごうろ)を持っています。これは、父の用明天皇の病気平癒を祈った16歳の姿といわれ、孝養太子と呼ばれています。
観音院には、江戸時代、境内に太子堂があり、この中に安置されていたものと考えられます。
天保13年(1842)「小渕太子堂奉加帳」(市指定文化財)によれば、観音院の太子堂は、もともと宝暦5年(1755)に近隣の職人が講銭を集め、粕壁の八幡宮の宝殿に造営されたもののようです。経緯は不明ですが、その後、観音院に太子堂が移されたようです。天保13年、観音院と小渕村の職人たちは、この太子堂を修復するために近隣の職人などに寄付を募りました。この寄付台帳が「小渕太子堂奉加帳」です。奉加帳には、大工・木挽・建具屋など、市域周辺の250名余りの職人の名前が記録されています。このなかに、春日部の桐細工の起源とも考えられる、指物屋・箱屋の署名がみられます。箱屋と指物屋の区別は明確ではありませんが、いずれも木組みをして箱・長持・箪笥類を細工・製造した職人と考えられます。市域では、粕壁宿に箱屋9名、小渕村に箱屋1名・指物屋2名、樋籠村に指物屋1名、牛島村に指物屋3名、藤塚村に箱屋2名、指物屋1名、銚子口村に箱屋2名、備後村に箱屋1名が確認され、広範に職人が存在していたことがわかります。
聖徳太子は、四天王寺などを建立した事績から、各地で建築や木工の祖として崇められていました。春日部市域では残念ながらたどれませんが、県内では箪笥職人などが「太子講」という聖徳太子を信仰する講が組織される例があります。この「小渕太子堂奉加帳」により、観音院の聖徳太子像は、春日部の桐細工職人らに信仰されていたと考えられ、「講銭」が集められたという記述から、市域でも「太子講」に近い組織が存在していたことがうかがえます。
そういうわけで、観音院の聖徳太子立像は、春日部の桐細工の歴史に深く関わる資料といえます。桐細工の歴史を物語る資料は、紙の資料が大半を占めてしまいますが、数少ない立体の展示資料として、鮮やかな彩色も伴い、展示に華を添えています。
今回、観音院の「聖徳太子立像」と「小渕太子堂奉加帳」が初めて一同に会しています。展示室の照明の都合から、厨子から出した状態で「聖徳太子立像」を展示しています。像を単体で鑑賞いただけるのは、9月5日まで。あとわずかです。この機会に、ぜひともご覧ください。そういえば、今年は聖徳太子御遠忌1400年だそうです。
春日部の桐細工の起源と伝承について(その2)
気が付けば、夏季展示「桐のまち春日部」展の会期も最後の一週間です。引き続き、春日部の桐細工の起源と伝承について第二弾にして最終回。 #かすかべプラスワン
前回、紹介した通り、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播していきました。
こうしたことは展示の企画段階から何となく把握していましたが、調査を進めるなかで新たな資料を見出すことになりました。それが、大正13年(1924)に発表された論文、緑川禄「埼玉の桐箱」です。この論文は、大日本山林会の会誌『大日本山林会報』498号に収載されるものです。ちなみに大日本山林会の会誌のバックナンバーはデジタル化されています。
緑川には『確実なる副業 檪、竹、桐、杞柳の実際的経営』という著書もあり、埼玉県技師であったことがわかっています。会誌『大日本山林会報』には、埼玉県内の林業・林政に関する緑川氏の文章がいくつも収載されており、緑川は埼玉県の林業に深く携わっていた人物であると考えられます。緑川のいう「桐箱」とは、いわゆる桐小箱だけではなく、大型の箱である桐箪笥や長持なども含んだ桐製の指物のことを指しており、関東大震災直後の埼玉の桐産業の状況を伝える貴重な文献です。埼玉の桐箱の起源についても次のように言及されています。表記は原文のママ。誤字は( )で注記した。
桐箱製造の起源は遠く後陽成帝の御宇慶長年間徳川家康江戸に開幕と共に、爾来家具の工匠を武州川越に住ましめ、将軍家の御用を仰付け、其後霊元帝の御代天和年間、に至り桐材を以て家具類を製作せしめたるに創るので、其当時は僅か十数人の工匠が大箱即ち箪笥、刀箪笥累の製作を主とし、尚ほ枕及硯箱をも工作したのであつた。
其後中御門帝の御宇正徳年間、北葛飾郡幸松村の人某川越に於て技術を習得し、自村に帰つて創業せるが、是粕壁地方に於ける桐箱製造の元祖である。(中略)幸松村に於て一般の需要に満たすべく製作を開始せるに、会々(津?)仙台公日光崇拝の途次粕壁町に於て御納戸硯箱を献じて技工の優秀なるを認められ、公儀御用商人住吉屋をして納入せし以来諸大名、家老近卿(郷か)々士にまで供給する様になつたのである。(以下略)
すなわち、埼玉の桐箱づくりは、徳川家康の入部とともに、城下町川越に移住させられた職人が直接の起源であり、春日部の桐細工の起源は、正徳年間に幸松村(明治22年以降の地名)の某氏が川越で技術を習得し、幸松村で創業したことに求められています。その後、諸大名の東照宮参詣などで日光道中の粕壁宿にて硯箱が大名に献上され、幕府の御用商人の住吉屋(おそらく江戸の箪笥問屋)に納入され、江戸の諸大名や武家らが用いるようになったと記されています。
緑川「埼玉の桐箱」は、春日部の桐細工の起源について言及した文献として、現在わかる範囲では最古のものです。最古であるからだけではなく、幸松村や住吉屋といった具体的な固有名詞が出て記述が、大変興味深いものとなっています。幸松村は、現在判明する範囲で最古の箪笥屋が所在する小渕も含まれた地域です。現在の箪笥屋の系譜では天明年間(1781-1788)までしか遡れませんが、幸松はそれよりも古くまで遡れる桐細工産業の発祥の地なのかもしれません。また、日光道中を利用した諸大名の目にとまり、住吉屋に卸されるようになったとの記事も大変興味深いです。住吉屋とは、近世の史料にも登場する江戸の京橋の箪笥商、明治初頭まであった実在する箪笥卸商であったようです。
こうした具体的な記述から、春日部の桐細工が、日光道中を起点にし、巨大都市江戸と関係を結びつきながら、歴史的に展開していったことが想像されます。日光道中沿いにあることから、いつのまにか「日光東照宮の工匠」に関する伝承が生まれていったのかもしれません。
しかし、残念なことに、緑川は明確な典拠を示していません。川越に技術を習いにいった人物も「某」とされており、よくわかりません。しかし、ほかの記事では、農商務省山林局編『木材ノ工芸的利用』(明治45年刊)にも近似する県内の桐箱製造者数のデータも掲載されており、緑川「埼玉の桐箱」は、なんらかの調査や資料に基づいて執筆されたと推察されます。担当者としては、緑川説は、「東照宮の工匠伝説」より、やや具体的であり、執筆者の立場からしても、歴史により桐産業を権威化する意図は感じられないので、信ぴょう性が高いのではないと考えています。
このように説明すると、「「東照宮の工匠伝説」は間違っているのか!?」「結局、どっちが正しいのか」「どちらも証拠がないのでは?」「起源なんてどうでもいいのでは?」と叱責されてしまいそうです。いずれも「伝承」「伝説」であり、担当者としては、どちらが正しい、間違っているのかを裁定するつもりは固よりありません。桐細工の起源説の検討から、強調しておきたいことは、以下のことです。
「伝説」「伝承」はさておき、今回の調査では、証拠のある具体的な歴史としては、春日部の桐細工は、古文書により、江戸時代半ばまで遡れる地場産業であること。そして、明治時代後期以降、産業として大きく飛躍し、その頃に、現代に伝統産業として継承される礎が築かれてきたことがわかりました。
今回わかってきた具体的な桐産業の歴史は、「東照宮の工匠伝説」のような華やかで箔をつけたかのような「起源」に比べれば、一見地味かもしれません。ただ、農間余業として始まり、その後に専業化し、春日部を「桐のまち」として支えていった一つ一つの歩みは、現代の私たちから見れば地味かもしれませんが、歴史の当事者や関係者たちにとって決して地味なものではなかったはずです。具体的な歴史をとらえ、それを一つ一つ見つめ直し、理解することこそが、先人たちや関係者の方々に敬意を表すことになる。展示担当者は、様々な資料や関係者への聞き取り調査のなかで、春日部の桐産業は、尚もまちの特徴であり、今後のまちの行く末を考えていく上でも、桐産業の具体的な歴史を考えることは重要だと改めて思いました。
皆様にも、雲をつかむような「東照宮の工匠伝説」ではなく、より具体的な春日部の桐産業の歴史を今一度見つめ直していただきたいと思います。そんな、春日部の桐産業の歴史を具体的に紹介する「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。
「オンライン土器作り教室」~土器焼きを行いました~
8月25日(水)に「オンライン土器作り教室」最後の工程の”土器焼き”を行いました。
当日は小雨が降り、天候が危ぶまれましたが、何とか実施することができました(例年は内牧公園で
にぎやかに焼き上がりを待ちながら、まがたま作りや火おこし体験を行っていましたが・・・)。
縄文土器は野焼きという方法で焼くため、地面に直接火をくべて焼きます。まずは火の遠いところに土器を置き、じっくりと土器の温度を上げていき、十分に温まると土器を火に近づけます。また土器の中に炭を入れ、内側からも土器を温めて最後の乾燥を行います。
土器の色が変わり、固く焼きしまると、最後に燃えやすい薪をくべ、「赤い炎」の中で焼いていきます。縄文土器の色が赤茶色をしているのも、酸素を十分に送った「赤い炎」で焼いているためです。
この時の温度は約600度以上にも上がります。
土器が焼きあがりました!精巧に装飾がされたものから、独特の文様や形をもつ土器が出来上がりました。乾燥も十分にでき、失敗もありませんでした。
参加者の皆さま、作品のお引き取りをお待ちしております。
また来年も、この夏休み期間に「オンライン土器作り教室」を継続していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
春日部の桐細工の起源と伝承について(その1)
夏季展示「桐のまち春日部」展が、新聞各紙に取り上げられ、少なからぬ反響をいただきました。そこで数回にわけて春日部の桐細工の起源の伝承について、補足説明させていただきます。 #かすかべプラスワン
以前にも紹介したとおり、春日部の桐細工の起源については、史料的には安永7年(1778)以前には遡ることができません。
現在、『春日部市史 民俗編』が言及するように、江戸時代初期に東照宮造営に加わった工匠たちが、帰りに粕壁に住み着いたことが始まりという伝承がほぼ定説として扱われています。ただ、日光東照宮の工匠を起源とする言説は、あくまで「伝承」「伝説」であり、確固たる証拠がありません。
今回の展示にあたり、この「東照宮の工匠伝説」がいつ頃までさかのぼれるのかを検討してみました。春日部の桐産業が大きくなる明治後期以降の様々な資料を博捜しましたが、管見の限り「東照宮の工匠伝説」の初見は、どうやら『春日部市の史跡と観光』(昭和42年・春日部市観光協会発行)という冊子で、次のような記述がみえます(以下引用。誤字等の表記は原文のママ)。
春日部の桐箪笥 県内の桐タンスは春日部と川越が主産地になっております。春日部のタンスの発祥は遠く徳川時代大名の参勤交代の砌衣装入れとして桐長持を使用していた。その頃京都から移住せる工匠があり長持に工夫をこらして引出しをつけたものを作成した。これが箪笥の初めと伝えられている。(以下略)
桐小箱 徳川時代関西方面から日光山造営に参加した工匠の一部が当地に溜り、小道具の整理箱、箱枕等の製造をタンスの不用材を利用して初められたのが起源であって、明治に至りライオン歯磨本舗考案の桐製歯磨箱の登場により容器箱として新しく飛躍し、(以下略)
しかし、興味深いのは、桐箪笥が「京都からの工匠の移住説」であるのに対し、桐箱は「日光山造営の工匠の移住説」とされている点です。桐箪笥の起源については、同じ昭和40年代の資料にも「京都からの工匠の移住説」が唱えられており、おそらく戦後~高度経済成長期にかけて、桐箪笥業界では「京都からの工匠の移住説」が有力もしくは定説化されていたのだろうと考えられます。
その後、昭和50年3月に春日部市で発行した『春日部の特産品』という冊子では、その起源について、次のように説明されてます。
桐箪笥 春日部タンスといえば東京タンス、東京タンスといえば総桐タンス。いまでこそ全国にその名をとどめているこの春日部のタンスも、発祥の歴史をたどれば300余年前のむかしにさかのぼる。日光東照宮のご造営がおこなわれたおり、全国各地から名うての工匠たちがかり出された。そのころ、京都からやってきた一人の工匠が春日部の桐材を利用して長持ちをつくり、工夫をこらして引出しを加えた。これが大変な好評を博し、その後、春日部にタンスの生産が定着することとなる。(後略)
桐箱木工品 桐材を利用した小箱類などの木工品が春日部に発祥した由来とその時期は、桐タンスと全く同じくする。すなわち、日光東照宮造営の徳川期に工匠の一部木工関係者が春日部に住みつき、桐材でつくる家具調度品の残木を生かして、庶民階級向けの小さな日用品をつくったのである。硯箱、文庫、整理箱、箱枕などがそれである。(後略)
おおざっぱにいえば、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播し、採用されます。図書によっては、3代将軍家光の時であるとか、5代将軍綱吉の時であるとか、説明するものも現れていきます。
なぜ、「東照宮工匠伝説」が伝播していったのか、理由は定かではありませんが、昭和40年代以降、日本人の生活様式が変化していくなかで、桐箪笥の需要が伸び悩み、職人さんたちが桐箪笥づくりの「伝統」を自覚・自負するなかで、「伝説」が語られ、広まっていったのだろうと考えられます。
「東照宮工匠伝説」については、関連史料がないことから、真偽はまったく不明です。ただ、桐細工との関係は不明ですが、市内に東照宮造営の図面を伝える旧家があったことや、伊勢神宮のある伊勢国を本貫地とする旧家があることなど、今後検討されなければならない課題もあります。東照宮の関連史料や旧日光街道沿いに伝わる類似の「伝説」についても、あわせて検証が必要です。
次回は、「東照宮工匠伝説」を揺るがした(!?)、新発見の大正13年の論文について紹介し、春日部の桐細工の起源について、さらに検討してみたいと思います。
関連する企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。
博物館実習6日目
本日の午前中は、「資料の取扱い」について館長からご指導いただきました。まず、資料を取り扱う上での学芸員として重要な考え方を学び、実際に和装本と巻子本と掛軸の取扱いを行いました。
貴重な資料を扱うことに緊張しながらも、一つひとつの工程を丁寧に行うことを意識して取り組むことが出来たと思います。
また、実習生の半数は掛軸を扱ったことはありましたが、和装本と巻子本は扱った人がいませんでした。和装本や巻子本も含め、様々な資料の扱い方法を学ぶ貴重な経験となりました。
そして午後には、桐の貯金箱の体験講座の準備と講座を受ける方への対応を行いました。受付や検温など、感染防止対策をしながら各自手分けして行い、スムーズに講座ができるような対応ができたと思います。講座では、参加者は熱心に話を聞き、おもいおもいの貯金箱を作ることができました。
その後、昨日製作したフトンを使って実際に土器の梱包を行いました。昨日学んだ説明を踏まえ、2人1組で作業を分担して行いました。実際に資料に触れながら、土器に負荷をかけないような梱包の仕方を肌で体験することができました。この経験を土器だけではなく、それぞれの資料に合わせた梱包にも活かしていきたいです。
(令和3年度実習生)
博物館実習5日目
午前中は、土器の取扱い方と梱包の仕方ついて学びました。
資料を扱う際の注意点や、布団という梱包材のつくり方を中心に説明を受けて、実際に製作しました。貴重な資料を守るための大切な作業なので、ポイントをしっかりと押さえて臨みました。
また、午後の講座で使用するものや会場の準備をしました。感染症の流行もあり、道具をひとつひとつ消毒し、対策をしました。
午後は、縄文文化をもとにした音楽づくりの体験講座を実施し、実習生たちは受講者として参加しました。國學院大學栃木短期大学の中村耕作先生(考古学)と早川冨美子先生(音楽教育)、及び音楽教育の教科指導で著名な石上則子先生のご指導のもと、春日部で出土した土器の文様からイメージした音楽をつくりました。小学生の参加者と共に、土器文様を観察して、縄文時代にあったであろう自然素材を用いて、文様のイメージした音の表現しようとしました。想像を膨らませてたくさんの音を作っていく過程はとても楽しかったです。
(令和3年度実習生)
博物館実習四日目
午前では、昨日に引き続き各々が担当している収蔵資料の調査・研究を行いました。
調査をもとに解説文をまとめました。注意した点としては、一般論をふまえつつも、春日部市の周辺の地域的な特徴に留意することです。収蔵資料の魅力を伝えるため、当時の生活や文化が具体的に理解できるように解説文を執筆しました。
午後は、資料の整理を行いました。市内の旧家よりお借りした資料を合計67点整理しました。
資料の中には、安政2年の『唐詩選』という古典籍や明治時代の児童用読本がありました。資料整理している中で感じたこととしては、古い書物なので風化が進んでおり、めくるたびに粉が出てたりするので、破けないように慎重に取り扱いました。また、虫食いによる穴とページのくっつきがあったため、ハラハラドキドキしながら作業に当たりました。教科書や博物館でしか見たことのない古い資料を実際に触れて読むことができ貴重な体験になりました。
博物館実習も残す日程も半分になりました。
明日も資料の整理や縄文土器の模様を見て音楽をつくる体験講座を行う予定です。引き続き、学芸員さんの活動から様々なことを学びんでいきたいと思います。
(令和3年度実習生)
博物館実習三日目
本日は、収蔵資料の紹介のために個別資料の調査・研究を行いました。収蔵資料の採寸や関連資料の調査を行い、展示解説にまとめる作業をしました。
高村は、現在開催中の「語り出したら、キリがない!桐のまち春日部」にも関連しますが、展示できなかった、桐箪笥の仕上げ職人がつかった道具について調査しました。仕上げ職人の道具は、種類・用途において多岐に渡ります。そのため、解説時に要点が散らばりや資料写真の撮影における画面の収まりを想定しながら、資料の点数を絞りながらも資料同士の繋がりを維持できるように資料の選出を行いました。また、私を含め、写真撮影をしていない収蔵資料も多く、実習生自ら撮影を行いました。
内木は、武里団地について調査しました。春日部市郷土資料館には、武里団地に関わる沢山の資料があり、資料を読み込むだけでも時間がかかりました。しかし、その作業によって武里団地がいつできたなどの基本情報はもちろん、どのような背景があり、武里団地ができたかなど、様々なことが分かりました。この判明したことをもとに、理解し易い展示解説を作っていきたいと考えています。
明日の午前も実習七日目の発表に向けて、この作業をしていきます。実習生による収蔵資料の紹介はホームページでも公開されますので、是非宜しければご覧下さい。
(令和3年度実習生)
博物館実習二日目
実習二日目となる今日は、体験学習の研究として「藍の生葉染め」と「かんなくずを利用した花づくり」を行いました。
春日部市では、少なくとも明治時代には、藍が工芸作物として栽培されていたようです。また、備後・小渕・下柳などでも、かつて紺屋という布や糸を藍で染める仕事がありました。このような「春日部の歴史」を踏まえた上で体験講座は考えられています!
藍で染めると抗菌・防臭・防火作用が得られるとされます。現在の企画展「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」に展示されている印半纏も藍色に染められています。ご来館の際はぜひ思い出してご覧ください。また、藍の生葉染では、植物性繊維である木綿や化学繊維のポリエステルは染まらず、動物性繊維である絹や羊毛を染めることができます。今回は絹を用いました!
藍の生葉染め体験では、慣れない環境に苦心しながらも、鮮やかな藍色を表現しようと真剣に黙々と作業する実習生の姿を見ることが出来ました。絹を漬けるために、入念に藍の葉をもみ込み、色を出すのが一番大変な工程でした。
生木染めは藍の育つ季節にだけ体験できるもので、一年の中でこの時期にしか体験できない貴重な経験です。
午後のかんなくずを利用した花づくり体験では、崩れやすいかんなくずに悪戦苦闘する実習生の姿が見受けられ、これから体験講座を受ける人がより分かりやすい体験をするにはどうすればよいか想像を膨らませ、改善点を模索していました。
参加する受講者がけがをしにくい方法を考える人、出来栄えや作業のやり易さを追求する人と考え方は人それぞれでした。完成したかんなくずの花はどれも個性のある作品となりました!
コロナ禍で当初の予定にあった他館見学は中止になってしまいましたが、未経験のことにチャレンジすることができ、童心に帰ったかのように楽しむことができました。
残りの実習も楽しみつつ、一生懸命に取り組んでいこうと思います。
(令和三年度博物館実習生)
博物館実習が始まりました
春日部市郷土資料館で #博物館実習 が始まりました。今年は10名の大学生が実習生として館務実習にのぞみます。
初日の本日は、館内の見学と博物館について討論をしてもらいました。
午前中は、展示室やバックヤードを見学してもらいました。展示資料の解説というより、館の成り立ち・運営や展示法をまじえた解説で、皆さん、当館の特長を深めてもらえたようです。
午後は、館の見学をふまえて、博物館のあるべき姿・理想像について話し合ってもらいました。みなさん、博物館学を学修されていて、「放課後博物館」とか「市民博物館」とか、市民・住民参加型の博物館の理想像を持っているようでした。また、当館の実状をふまえて、春日部市郷土資料館の方向性やキャッチコピーをグループ討論し、発表してもらいまいした。討論から提案されたキャッチコピーは「春日部の歴史を照らす」「春日部って何?」というもので、いずれも当館の評価点を伸ばしながら、ウィークポイントを改善するコンセプトになっていました。
館の職員一同、的を射た指摘に感心させられるとともに、今後の運営に大変参考になる発表だったと思います。みなさんの意見をふまえ、ウイルス対策、暑さ対策など健康管理にも十分注意しながら、8日間の実習にのぞんでいただければと思います。
桐のまち春日部展に野原ひろし登場!
「語りだしたらキリがない!桐のまち春日部」展の開催を期して、 #クレヨンしんちゃん でお馴染みの #野原ひろし の限定記念スタンプをご用意しています。
浴衣姿のひろし(しんちゃんのお父さん)と春日部の特産品「桐タンス」「桐箱」とをデザインした郷土資料館オリジナルのスタンプです。先日、来館してくれた市内在住の小学生は、「ひろしのスタンプだー!かっこいい」と喜んでたくさん押してくれていました。春日部市民にとって、野原一家は誰もが知っているまちの有名人です。
ところで、「桐のまち春日部」展は、桐タンス・桐箱の製造、産業のあゆみを紹介する企画展示で、内容はちょっと大人向き。けれども、お子様向けに体験コーナー「キリに親しむ」も用意しています。木材を見て、さわって、臭いをかいで桐材を探すものや、春日部産の桐箱と中国産の桐箱を見極める体験です。また、桐タンス・桐箱の製造工程をご覧いただける映像コーナーも用意しています。
小さなお子様も、みて・きいて・さわって・かいで「桐のまち春日部」を楽しみいただけると思います。そして、お子様に決め手は、やはり「野原ひろし」のスタンプ。「ひろし」を介して春日部の特産品を知ってもらえれば、担当者としてこんなに幸せなことはありません(実は担当者の名もひろしだったりします)。このほかに、しんちゃんやみさえのオリジナルスタンプもあります。ご家族で夏の思い出にどうぞ。
「オンライン土器作り教室」~土器乾燥中です~
例年、多くの皆さまに参加いただいている「土器づくり教室」ですが、今年は新たな形で取り組んでいる「オンライン土器作り教室」の途中経過をお知らせします!
参加者の皆さまにお持ちいただいた土器の陰干しを本日10日から開始しました。
どれも思い思いの個性にあふれた土器に仕上がっています。
土器を乾燥させると成形時よりも一回り、二回り縮みます。また粘土の色も濃い茶色から薄い黄土色へと変化しているのがわかります。
これから2週間ほどかけてじっくりと乾燥させ、土器焼きに備えます。
参加いただきましたみなさん、焼き上がりを楽しみにお待ちください。
幸手市郷土資料館の博物館実習生が見学に来ました
8月5日、幸手市郷土資料館で博物館実習に参加している実習生2名が、春日部市郷土資料館に見学に訪れました。展示室から収蔵庫などのバックヤードまで、とても熱心に見学していただきました。
博物館実習は、大学の学芸員課程において学芸員資格をとるために必須の課程です。しかしながら、受け入れ側の博物館、資料館では、人数などの都合でどうしてもお断りせざるを得ないことがあり、学芸員資格をとりたい学生たちは、往々にして実習受入れ先の館を探すことに苦労します。幸手市郷土資料館では、今年度より実習を開始したとのことで、近隣館で受入れ先が増えたことは、当館にとっても大変ありがたいものです。
当館でも、新型コロナウイルス感染症対策を徹底して、今年度は8月の後半から10名の実習生を受け入れて、約1週間の日程で博物館実習を行う予定です。こういった機会に、少しでも多くの資料館の仕事を経験してもらい、今後の人生に役立ててもらいたいと思っています。
実習の内容は、期間中に実習生に書いてもらうほごログでお伝えしていきます。昨年度のものも掲載していますので、ぜひご覧ください。
幸手市郷土資料館は、過去の記事(【近隣館の紹介】幸手市郷土資料館)でも触れたことがありますが、平成30年にオープンした新しい館です。
9月5日(日曜日)まで2つの企画展が同時開催されています。ぜひお出かけください。
幸手市郷土資料館令和3年度企画展『幸手の海でとれた貝』(幸手市郷土資料館サイトへリンク)
幸手市郷土資料館 令和3年度企画展『渋沢栄一と幸手』(幸手市郷土資料館サイトへリンク)
#春日部の桐箱 あなどるなかれ!
8月4日(水)、桐のまち春日部展の #ミュージアムトーク (展示解説)を行いました。うだるような暑さの平日にも関わらず、ご関心をお持ちの皆さまにお集まりいただきました。 #かすかべプラスワン
写真は、春日部の桐箱の品質について解説しているところです。春日部の桐箱をあなどるなかれ。一般の桐箱と比べると、春日部の桐箱の品質のよさは一目瞭然です。箱を比べるコーナーも用意していますので、ぜひお手に取ってご覧ください。ひとつひとつ職人さんの技術で丁寧につくっている春日部の桐箱。これからは大切なものは春日部の桐箱にしまうことにいたしましょう。
展示解説の後、参加者の方から様々なご質問をいただきました。今日もおじいさん・お父さんが桐箱職人だったという方がいらっしゃいました。へその緒の箱やにんべんの鰹節の箱を作っていたそうです。来館者の方に新たな情報を教えていただくこともミュージアムトークのだいご味だったりもします。
次回の、ミュージアムトークは残すところあと1回。展示会の最終日9月5日(日)です。
イベントはともかく、この夏、桐細工の展示をお見逃しなく。
#ミュージアムトーク 展示解説をしました
7月31日(土)桐のまち春日部展のミュージアムトーク(展示解説)を実施しました。多くの皆さまにお集まりいただき、解説は30分を予定していましたが、約60分お付き合いいただきました。
午前の部には、お父さんが桐箪笥職人だった方がご来館され、板削りを手伝ったお話や、親戚の箪笥職人の方のお話を教えていただきました。展示準備の聞き取り調査では、桐箱職人が血縁関係から広がっていったことが明らかになりましたが、箪笥職人もまた、血縁関係のなかで広がりをみせていったことがうかがえる貴重なお話でした。
午後の部には、調査の折に大変お世話になった桐箪笥職人さんがご来館されました。
職人さんの前で桐箪笥の構造や鑑賞の仕方について解説をしました。まさに釈迦に説法。かなり緊張しました。解説の後、職人さんからは色々とアドバイスをいただき、「展示はよくまとまっている」とお褒めの言葉をいただきました。展示会が開催できてよかったと思えた瞬間でした。
また、午後には桐箪笥の元職人さんとご友人という方もおり、元職人さんにお取り次ぎいただきました。まだまだ調査を継続し、色々なお話を集めなければならない、と実感した一日でもありました。
皆さま、ご来館いただきありがとうございました。
次回のミュージアムトークは、8月4日(水)10:30~、15:00~となります。桐箪笥・桐小箱にゆかりのある方も、ぜひおいでください。
郷土資料館は開館しております
新型コロナウイルス感染拡大防止に向け、政府の緊急事態宣言に伴う埼玉県の協力要請を受けた対応として、8月3日(火曜日)以降も徹底した感染防止対策を講じた上で制限付き開館を継続し、イベントも開催します。
なお体験コーナーは一部利用できません。
<来館時のお願い>
・大人数での来館は控えてください。館内の状況により、入場制限を行う場合があります
・発熱などの風邪症状のある人は入館できません
・皆さんの安全確保のために、入館時に氏名・緊急連絡先の記入をお願いします
・入館時の手指の消毒にご協力をお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・滞在時間は、30分を目安にしてください
・会話を控えるとともに、他の来館者との十分な距離(おおむね2メートルを目安)をとってください
9月5日まで「語りだしたらキリがないー桐のまち春日部」展を開催しています。
夏季展示はじまりました。展示解説講座も
#かすかべプラスワン 7月20日より夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまっています。ご来館いただいた方には展示パンフレットを差し上げています。ぜひご来館ください。
7月25日には、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」も開催しました。
展示担当の学芸員による今回の解説講座では、近世から現代の春日部の桐産業に関する史料を読み解きました。これまでの春日部の桐産業の歴史は、どちらかといえばあいまいにされてきた部分も多くありましたので、今回は史料に基づいて、近世から近代の桐産業の展開をたどってみました。史料とは文献・文字資料のことで、上の写真のスライドにもみえるように、くずし字の古文書も含まれます。ちょっと小難しかったかもしれませんが、受講者も講師もレジュメと終始にらめっこ。一言一句解説をしながら、受講者の皆さまと史料を解釈しました。
内容については夏季展示でも紹介しているところですが、少しだけ講座の内容を紹介。
春日部の桐産業の起源は、史料的には、天明元年(1781)までしか遡れません。天明元年の銚子口村年貢割付状(埼玉県立文書館収蔵銚子口区有文書)に、「一、戌新規 永百文 箱指冥加永」(ひとつ いぬしんき えいひゃくもん はこさしみょうがえい)とある記事が、現在判明する限りで最も古い桐産業の起源を示すものとなります。
「戌新規」とは、安永7年(1778)の戌年から新規にという意味。銚子口村では安永7年から「箱指冥加永」を「永百文」を毎年幕府に上納しているという記述です。「冥加永」とは、営業税の一種で、「箱指」とは箱・指物づくりをする職人のことを指しています。「箱指冥加永」を別の史料では「箱屋運上」と言い換えている史料もあります。同様に「箱指冥加永」を支払っている市内の村は、粕壁宿・備後村(当初は藤塚村も)であったこともわかっており、粕壁宿では、「永五十文」を毎年幕府に上納していたことが、市指定有形文化財の粕壁宿文書(埼玉県立文書館収蔵)から判明します。また、粕壁宿・備後村・銚子口村の箱指(箱差)はいずれも「農間箱指」「農業之間指物細工」などと表現された農業の合間の生業として、箱・指物づくりに従事していたこともわかります。
実は桐細工であるかどうかはわからないのですが、このように桐箪笥・桐箱づくりの起源は、史料的には天明元年(1781)のものが最古で、安永7年(1778)より以前、市域において「箱指」がどのように存在していたのか、わからないのです。
となると、よくいわれている「江戸時代の日光東照宮に加わった工匠たちが春日部に移り住んで桐箪笥や桐箱の製造をはじめた」という起源の話は、いったいどうなるのでしょうか。解説講座では、この東照宮の工匠伝説についても言及しました。この点については夏季展示でも紹介しいるところですし、ミュージアムトーク(展示解説)でもお話する予定です。
気になる方は、ぜひ展示を見に来てください。
【プレ夏季展示最終回】常設展とロビーにハミ出し展示
いよいよ7月20日から始まる夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展のプレ展示第3弾(事実上の最終回)です。まもなく、夏季展示が始まるので、今回は大きくハミ出しました。まず、常設展の展示ケースを展示替えです。夏季展示の関連資料を陳列しました。
テーマは「桐箪笥・桐箱の流通・消費を考える」です。
今回の企画展示では、製造の工程や春日部の桐産業の展開を中心に紹介しています。これまでの成果も基本はその大枠を出るものではなかったと思います。生産量が増え、「桐のまち」へと成長していくのは自明のことですが、ではその需要はどこにあったのか。このハミ出し展示では、桐箪笥・桐箱の流通・消費のあり方を考える様々な史料を展示しました。ハミ出しており、一見、企画展示の本筋ではないようですが、実は本展示の核心的なテーマだったりします。資料の都合上、明治以降が中心となりますが、江戸時代にも遡って考えられるのではないか、と考えています。お見逃しなきよう。
もう一つは、ロビーのパネル展。
ここには、「語り出したらキリがない、けど語らせて」と題し、今回の聞き取り調査、資料調査で得た「小咄」をコラム的に紹介しています。以前、紹介した藤塚橋の桐の木など、ちょっとした小ネタを余すところなく紹介しています。ミュージアムトークのネタが無くなってしまうかもしれません。企画展示室内にも同様のコーナーがありますが、パネルに貼りきれなかったので、ハミ出しました。
今回は、職人さんをはじめ、色々な方にご協力をいただいたので、手前味噌ですが本当に充実しています。展示は7月20日(火)から、いよいよ始まります。ご期待ください。
なお、開会後、最初の催し物として、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」を以下の通り開催します。あわせてご利用ください。
日時:令和3年7月25日(日)午前10時~12時
会場:春日部市教育センター2階 視聴覚ホール
定員:30名
費用:無料
申込:郷土資料館へ直接、または電話。
縄文体験教室 in 豊野小学校♪
7月14日(水)は豊野小学校の6年生の2クラスを対象に「縄文体験教室」の出張授業に伺いました。
今学期6校目の実施となりました。
どちらのクラス共に飛鳥時代まで授業が進められていましたので、”縄文時代”は振り返りの学習です。
授業の導入では「神明貝塚」のYoutubeにもアップしている動画を観た後、レジュメに沿って春日部の縄文時代の遺跡を写真や図を用いて紹介しました。
▲講義の一コマ。手にしているのは、なんと12万年前の地層から発見された「カキ」の化石。
現在、私たちが食卓で食べるカキに比べ大きいですね!
このことから春日部は12万年前に、ある状態であったことが分かります。
その後、
「石器」「食料」「土器」の三ブースに分かれて、グループで体験学習に取り組みました。
▲「食料」ブースでの体験。はたして何の骨でしょう?
▲イラストを用いた解説。はたして縄文人は「どのように」土器を作っていたのでしょうか?
豊野小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも様々な学習にお手伝いにうかがいます。
県指定無形民俗文化財”やったり踊り”の写真展示のお知らせ
本日、7月14日(水)から7月末まで、埼玉りそな銀行 武里支店・せんげん台支店(せんげん台駅西口 徒歩3分)で写真展示が行われています。
昨日のほごログでもお知らせしましたが、新型コロナウイルスの影響により、伝統芸能の公開が全国的にも見合わせが多くなっています。しかしながら、地域で代々継承され、ひとからひとへとバトンが引き継がれる貴重な伝統の舞を多くの皆さまへ知っていただこうと、銀行のフロアーで公開していただいております。
▲「やったり踊り」と越谷市の「下間久里の獅子舞」が紹介されております。
▲「やったり踊り」では扇子踊りで使われる『扇子』とお囃子の篠笛の実物も展示されています
▲「下間久里の獅子舞」では、地区を巡る『辻回り』と各所での奉納舞の写真が展示されています
梅雨終盤の暑い中ですが、銀行利用と併せて郷土が誇る伝統芸能について多くの皆さまに知っていただける機会となりましょう。お近くにお出かけされた折には、お立ち寄りください。
夏季に行われる”伝統芸能”の公開の中止について
例年、7月第3週目の「海の日」前後には、埼玉県や春日部市で指定されております伝統芸能(無形民俗文化財)が市内各所で公開されております。
本年につきましては、昨年に引き続き、残念ながら新型コロナウイルスの感染拡大により、やったり踊りや西金野井の獅子舞など、獅子舞や神楽を継承しております6団体の公開が中止となりました。
各団体ともに伝統の舞の継承のため、個人や少人数による自主練習が重ねられております。
コロナ渦の終息後には、賑やかな祭り囃子と華麗な舞の公開がされますよう、もう少し、おまちください!
【プレ夏季展示第2弾】常設展の桐タンスの解説がグレードアップ!?
7月20日から始まる夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展のプレ展示第2弾です。今回も夏季展示をハミ出して、常設展に展示中の桐箪笥・用箪笥の解説パネルを更新しました。
これまで、常設展示の桐箪笥の解説パネルには、資料名「桐箪笥」と使用推定年代だけ表示していましたが、これを一新。今回の夏季展示の調査で、職人さんや関係者の方に教えていただいた箪笥の見方を踏まえて、キャプションを記述してみました。
写真下段の箪笥は、上段に板戸付きの箪笥、下段には2つ抽斗(ひきだし)の箪笥の二つ重ねの箪笥で、「二つ重ね上開き箪笥」(戸開二重箪笥)と呼ばれています。この形は、近世の草双紙にも描かれるもので、関東地方では近世から明治時代にかけて多く製作されたようです。
この挿絵は、寛政元年(1789)刊『炉開噺口切』(国立国会図書館デジタルコレクションより)に掲載されるもので、武家の屋敷に戸開きの箪笥がみえます。
展示中の箪笥は、粕壁の旧家(商家)から寄贈されたものです。形からみて、幕末から明治時代頃の箪笥だと考えられれます。箪笥は使用される部材によって等級や価格が変わるのですが、この箪笥は厚さ六分(18mm)の板を使っていますが、人目につかない部分は薄い板になっています。こうした製法を「上羽(うわば・上端)」といいます。どこが薄いのかは原物をぜひ見てください。「材をまけて、見栄えがよいように作る」職人のワザなんだと思います。
もうひとつ。箪笥の上に置いている小型の箪笥は、用箪笥(ようだんす)といいます。「ヨウダンス」という言葉は、一部の国語辞典にも掲載される「洋箪笥」(洋服をつるして収める箪笥)と同じ発音・イントネーションでもあり、また製造数も少ないため、「用箪笥」は過去の遺物になりつつあります。用箪笥は「サカ」と呼ばれ、引戸(ひきど)のないものを「一寸サカ」。引戸(ひきど)があるものを「二寸サカ」といい、この用箪笥は七つの抽斗(ひきだし)があるので「七ツ割」であり、製造する職人は「七ツ割一寸坂」と呼んだのではないと考えられます。用箪笥は、桐箱よりも大きく、箪笥や長持(ながもち)よりも小ぶりなため、本箱や硯箱(すずりばこ)とともに「中箱(ちゅうばこ)」ともいわれました。明治時代後期、粕壁周辺には「中箱」製造を得意とする職人「中箱師」が300人もいたといいます。現在は、春日部の特産品の桐製品は、桐箪笥、桐箱に二極化していますが、元来は、箪笥と箱の中間があったようです。なぜ、用箪笥を「サカ」と呼んだのか、わかりませんでしたので、どなたか知っている方がいたら教えてください。
作った職人が違うとはいえ、桐箪笥も用箪笥も、前面がきれいに整った柾目(まさめ)の板材を使っています。柾目とは平行で均質に整った木目のことで、箪笥等の家具に好まれる部材です。一本の丸太からとれる柾目の板は限られているため、希少な部材です。どのように柾目の板をつくるのか、箪笥が作られるのか、これについては夏季展示でも解説するところですので、展示の「予習」として桐箪笥や用箪笥をぜひご覧ください。もちろん、夏季展示の会期中にも展示する予定です。
奥深いぞ!春日部の桐産業
新収蔵品展のパンフレットを掲載します
春日部市郷土資料館かすかべの宝もの18新収蔵品展パンフレット.pdf(582KB)
7月7日のミュージアムトーク
7月7日(水)をもちまして、「第63回企画展示 かすかべの宝もの18 新収蔵品展」は終了しました。期間中は、多くの方にご来館いただき、誠にありがとうございました。また、資料をご寄贈、ご寄託いただいた方、ご協力者の方に深くお礼を申し上げます。
会期中のイベント、展示解説講座「春日部の板碑」、ミュージアムトークにつきましても、盛況のうちに開催することができました。
通常の日程ですと、当館の企画展示は、日曜日までの会期が多いのですが、今回は、7月7日に春日部で聖火リレーが行われるということで、会期を7月7日水曜日までとしました。聖火リレーも無事行われ、ご来場いただいたお客様の中には、帰りに資料館にお立ち寄り頂いた方もいらっしゃいました。
さて、会期中、展示室でお配りした企画展示のパンフレットのPDFを掲載します。
春日部市郷土資料館新収蔵品展パンフレット.pdf(582KB)
(掲載資料:小流寺縁起、木造小島庄右衛門正重坐像、聖徳太子像、板碑、小学読本巻四、尋常小学習字本、粕壁中学校通知表、粕壁中学校会報、葛飾中学校椅子、上蛭田村高札、南桜井村議会議案、南桜井村報、亀田鵬斎カネコ薬局看板、5玉そろばん、往診用薬箱と道具、一円紙幣、田畑小作取立簿、粕壁町八坂神社祭典記念絵葉書、一般用米穀類購入通帳、1964年オリンピック審判補助員制服、日本オリンピック委員会バッジ、東京五輪ピンバッジ、1964年東京五輪組織委員会参加記念バッジ、1980年モスクワオリンピック公式記念メダル、プリントゴッコ)
7月20日(火)からは、「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展を開催します。引き続き換気・消毒等新型コロナウイルス感染症対策を実施しながら開館いたしますので、皆さまぜひご来館ください。
【プレ夏季展示】常設展の粕壁宿模型が桐のまちに!?
7月20日から春日部市郷土資料館の夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまります。
今回の展示は、桐箪笥や桐箱の業者さんに聞き取り調査をし、その成果を紹介し、秘蔵の資料や資料館の収蔵品を展示するものです。調査を進めていく過程で、本当にいろいろなお話しがうかがえ、春日部の桐産業の奥深さが徐々にわかってきました(現在進行形です)。常設展示にも桐箪笥・桐箱が展示されていますが、これまでの展示方法、解説のキャプションは何も説明できていないことを痛感させられた次第です。担当者が思ったのは、「桐のまち」と言われるだけあり、本当に語り出したらキリがありません。ですから、おそらく当館の手狭な企画展示室には収まりきらないでしょう。
ということで、今回の夏季展示では、常設展示にも桐に関連する資料を陳列することが濃厚です。チラシの「展示室をハミ出して桐のまちの魅力をお届けします」とは、これを所以としています。
さて、今回はハミ出し展示の第一弾、展示を先取りした「プレ夏季展示」として、江戸時代の粕壁宿推定復元模型に、桐箪笥や桐箱の職人・問屋がいた地点に表示を立ててみました。
模型のなかで特に密集しているのが、源徳寺の周辺で三枚橋や新々田と呼ばれたあたり。昭和32年の『商工名鑑』によると箱屋さん、箪笥屋さんが数件集まっています。ここには、老舗の箪笥問屋として島村箪笥製作所が所在します。同店は、創業者の島村忠太郎が大正7年(1918)に粕壁に転住し、箪笥製造と仲買を始めた店とされており、後の島忠家具(島忠ホームズ)の前身にもなります。現在の学校通り沿いに店舗があったことをご記憶の方も多いと存じますが、粕壁における最初の店舗は三枚橋に所在したようです。
このほかにも、日光街道沿いのこの模型の中に確認できる場所に立て札を置いています。桐箪笥職人や問屋の所在地が確認できるのは、明治時代以降となりますので、模型の想定年代とはずれるのですが、いかに春日部(粕壁)が桐のまちであったかがよくわかるのではないかと思います。
皆様には展示の前の「予習」としてご覧いただければ幸いです。もちろん、会期中も展示予定です。
【7/7まで新収蔵品展】1964年東京オリンピック時に使用した横断幕
新収蔵品展は、いよいよ7月7日(水)までです。最終日7月7日には、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
みなさまのご来館をお待ちしております。
さて、新収蔵品展では、市民の方からいただいた1964年東京オリンピック時に使用した横断幕を展示しております。
この横断幕は、幅約40㎝、長さ約520㎝、オリンピックの5色のライン上に白で抜く形で「WELCOME TO TOKYO 1964」の文字が書かれます。1964年の東京オリンピック時、オリンピックの海外選手の練習会場となった東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)に掲げられたものです。
駒場キャンパスでは、現在もある陸上競技場や野球場、ラグビー場が、全面的に陸上競技の練習会場になりました。またキャンパス内の現在「トレーニング体育館」と呼ばれる施設では、当時はまだめずらしかったウエイトトレーニングをすることができました。駒場キャンパスは、オリンピックによって、スポーツ施設の整備が急速に進められました。
横断幕の特に裏側をみてみると、布にペンキのようなもので5色のラインを引いています。既製品ではなく、手作りの横断幕で海外からの選手を歓迎したことがわかります。
参考
教養学部報第561号 1964年東京五輪と駒場キャンパス(東京大学サイト)
日本のオリンピックを支えた東京大学の施設|オリパラと東大。(東京大学サイト)
【7/7まで新収蔵品展】兌換制度と一円札
新収蔵品展は、いよいよ7月7日(水)までです。みなさまのご来館をお待ちしております。
さて、新収蔵品展では、市民の方から寄贈頂いた武内宿禰(たけうちのすくね)の肖像と「日本銀行兌換銀券(だかんぎんけん)」と印字された1円札を展示しています。
貨幣(かへい)は、商品の交換手段であり、それ自体が価値をもつ金、銀が金貨、銀貨として使われていました。しかし商品の流通が拡大すると、貨幣が不足します。これに対応するため、中央銀行が、金貨、銀貨の準備金を用意し、兌換(だかん・紙幣と金銀の交換)をおこなうことを保証することで、紙幣が金銀と同じ価値をもち、信用力が上がります。兌換紙幣(だかんしへい)はいっせいには金銀に交換されないため、準備金を超える紙幣が発行でき、その増減をはかることができます。金に兌換する紙幣が流通することを金本位制、銀に兌換する紙幣が流通することを銀本位制といいます。
日本の明治時代から昭和時代はじめまでは、近代的な兌換制度が採り入れられた時代であり、明治22(1889)年からから昭和17(1942)年まで発行された武内宿禰(たけうちのすくね)の銀兌換の一円紙幣はその象徴的な存在でした。
明治政府は、明治4(1871)年、近代的な貨幣制度を整えるため、大阪に造幣局(ぞうへいきょく)を作り、新貨条例(しんかじょうれい)を発布(はっぷ)して、金1.5gを1円と定め、円、銭(せん)、厘(りん)の単位による十進法(じっしんほう)の通貨制度を採用、金貨、銀貨、銅貨を発行しました。明治5(1872)年、国立銀行条例が制定され、金兌換(きんだかん)の国立銀行券が発行されました。
ところで、この貨幣制度と国立銀行を準備して整えたのは、当時明治政府の大蔵省で働いていた渋沢栄一です。こうした縁もあり、渋沢栄一は令和6(2024)年から一万円札の肖像として採用されています。なお、このとき成立した国立銀行は、国の法律や制度によって成立した民間の銀行といった意味で、今の日本銀行ではなく、第一銀行から第百五十三銀行まで番号を付されていました。
明治15(1882)年、松方正義(まつかたまさよし)により日本銀行が設立し、明治18(1885)年、日本銀行から銀兌換(ぎんだかん)紙幣が発行されました。当時、中国や東南アジア諸国、メキシコ等、銀本位国との貿易が盛んになっており、日本も準備金を銀で用意していたことから、銀本位制が採用されました。明治22(1889)年には、武内宿禰があしらわれた銀兌換の一円紙幣が発行され、番号が漢数字で書かれます。
日清戦争(にっしんせんそう)後、多額の賠償金を得た日本政府は、明治30(1897)年、貨幣法を交付し、金本位制を採用しました。世界的に金の価値が高まっていたことから、これまでの倍の価値となる金0.75gが1円に変更されました。しかしながら、一円紙幣については、兌換される金貨が製造されなかったため、銀兌換券の発行が続けられることになりました。大正5(1916)年から発行された一円紙幣は、それまでの一円紙幣と武内宿禰を用いたデザインは共通するものの、番号がアラビア数字で書かれ、昭和17(1942)年まで発行されました。実に53年間、同じデザインの1円紙幣が発行されました。
このころ、写真技術の発達とともに紙幣の偽造が横行し、その対策として、すかし技術や写真に撮影しづらい淡い色合いで印刷する技術が発展しました。
昭和6(1931)年、金貨兌換停止、昭和17(1942)年金本位制廃止、翌昭和18年、不換紙幣の発行により、日本は管理通貨制度へ移行しました。
参考文献
新出隆久2019 「近代の貨幣制度と銀本位制の確立まで」『日本史かわら版』第7号 帝国書院
新出隆久2019 「金本位制の確立と展開」『日本史かわら版』第8号 帝国書院
松村記代子2012「日本紙幣の沿革」『日本印刷学会誌』第49巻第2号
○7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
"オンライン土器作り教室"の応募を締め切ります
昨日より申し込みの受付を開始した「オンライン土器作り教室」ですが、予想を大きく上回るご応募をいただき、本日、定員に達したため、応募を締め切ります。
たくさんのご応募ありがとうございました。
またこれから応募しようとされていた方々、ご家族で検討されていた皆様につきましては、大変申し訳ありませんが、またの機会にお待ちしていますので、よろしくお願いします。
”オンライン土器作り教室”参加者を募集しております!
毎年、夏休みの恒例イベントとしておなじみの「土器作り教室」をオンラインで開催します!
昨年は新型コロナウィルスの感染拡大により、中止せざるを得ない状況でしたが、何とか開催できないものかと考えた結果、新たな取り組みとしてオンラインでの開催といたしました。
主な内容としては、配信される土器作り動画を参照のもと、各ご家庭での土器作り体験です。詳しい内容及び日程については市ホームページをご覧ください。
本日7月1日より受付を開始していますが、すでに7名の方々から申し込みがありました。先着20名となりますので、是非参加してみたいという方はお早めにお申し込みください。このブログでも逐次、申し込み状況を発信してまいります。
【申込方法】
参加者の住所・氏名・年齢・電話番号を記入のうえ、メールにてお申し込みください。
(宛先)bunkazai@city.kasukabe.lg.jp
【7/7まで新収蔵品展】米穀類購入通帳
6月27日(日)、新収蔵品展2回目のミュージアムトークを開催しました。ミュージアムトークは、7月7日(水)展示最終日にも開催いたします。10時30分~、15時~の2回で、いずれも30分程度の予定です。申込み不要ですので、お気軽にご来館ください。
さて、新収蔵品展では、市民の方から寄贈頂いた一般用米穀類購入通帳(べいこくるいこうにゅうつうちょう)を展示しています。
太平洋戦争中は、食料や物資のさまざまなものが不足し、割り当てられた量しか買うことができない配給制や切符制となりました。米などの米穀類は昭和17年(1942)2月、食料管理法が定められ、配給される米を購入するときには、米穀類購入通帳を提示し、購入する量などを記入、市町村長の印を受ける形となりました。戦時中の米の大人1人の1日の配給量は330gでした。
戦後、すぐは食糧難が続き、配給制も続けられました。しばらくすると好転し、昭和30年ごろには米穀類購入通帳が無くても米が買えるようになっていたそうです。
昭和34年(1959)2月号の広報かすかべには、「お米のキロ単位配給」の記事が掲載されています。これは、当時1日1人365グラム、月あたり5キロ475グラムであった配給を5キロか6キロの配給とし、年間を通じてキログラム未満部分を調整して配給するものです。
展示している米穀類購入通帳の昭和44年(1969)の時点では、大人1人、1か月の配給量が15㎏でした。すでに通帳がなくても米は買えたようですが、米穀類購入通帳は、市町村長の公印が押されていることで、身分証明書としても使用されました。
米穀類購入通帳は、昭和44年に自主流通米制度が創設されると形骸化し、昭和56年(1981)に廃止されました。
ところで、7月3日(土)13:30より、新収蔵品展で展示している貞治6年の板碑を中心に、市内の板碑の概要などについての展示解説講座を教育センターで開催します。また繰り返しになりますが、7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆展示解説講座「春日部の板碑」
日時:7月3日(土)13:30~
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:直接、または電話(048-763-2455)で郷土資料館まで。
◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
市の木「キリ」はどこにある?
「春日部は桐細工が盛んだけれど、桐の木はどこにあるのか」と、よく聞かれます。桐の木(キリ)は、市の木として春日部市のシンボルの一つでもありますが、たしかに、市内で桐の木を目にすることはほとんどありません。
現在、いくつかの公園や市内の学校などにキリが植樹されているようです。春日部市役所の敷地内にも、枝が選定され貧相ですがキリが植わっています。下の写真は、五月初旬に花を咲かせた様子を職員が撮影したものです。
果たして、春日部には桐の木が繁茂していたのでしょうか。
企画展「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展の調査のなかで、戦前生まれの桐箪笥職人、桐箱職人の方にお話しをうかがうことができました。
粕壁にお住まいの桐箪笥職人さんによれば、昭和22年以前、最勝院の裏から古隅田川の縁辺にかけての敷地はみな桐林だったとのことです。ですから、現在の春日部中学校が桐林だったらしいです。また、幸松にお住まいの桐箱職人さんによれば、樋籠の柳原団地と呼ばれる住宅地は、その昔桐林だったそうです。昭和22年撮影の航空写真をみると、すでに畑地もしくは更地になっており、残念ながら写真では確認できませんでした。『春日部市史』によれば、戦後の食糧増産政策により、多くの桐の木が切り倒されていったとされます。
大正時代の資料によれば、埼玉県の南部にあたる入間・比企・北足立・南埼玉・北葛飾5郡には優良な桐材の産地だったとされています。県南部なので「南部桐」と称し、岩手・青森県の南部桐とも混同・混用されてたともされています。多くの桐材が産出されていたことは確実のようです。ただし、職人さんにいわせれば、県内の桐の質はあまりよくなく、桐の木があっても使うことはなかっただろうともお話しいただきました。
調査を続けるなかで春日部市内の古い桐林の写真が見つけました!これについては企画展示でお披露目したいと思います。
さて、キリの木の情報を方々から聞き取るなかで、一風変わったキリの話を教えてもらいました。なんでも藤塚橋の人道橋の水道管の上に生えたキリの木があるとのこと。早速、確認しにいってみました。
教えていただいた方によれば、キリが生えてから15年は経過しているとのこと。春先には花も咲かせているそうです。キリは苗ほどの大きさまで成長してしまえば、強く育つ植物のようで、藤塚橋の水道管の隙間に積もった土で生きるようです。ただ、土が少なく根を広げることができないので、これ以上は大きくならないとか。
アスファルトに咲く花ならぬ、「橋桁に植わるキリ」として注目してはいかがでしょうか。そんな話題も踏まえて、企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展、目下準備中です。お楽しみに。
縄文体験教室 in 緑小学校♪
6月28日(月)は緑小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業に伺いました。
クラスは全2クラス。
導入では令和2年3月に国史跡になった「神明貝塚」の紹介動画を見てもらいました。どの学校でも動画13分間は静寂に包まれ、皆さんが集中してくれます。
その後は学校近くの遺跡の紹介。緑小の地区内では古代の八木崎遺跡と浜川戸遺跡がありますが、縄文時代遺跡が無いことも地形と縄文海進から謎解きを・・・・
▲講義の様子。皆さん集中して聞いてくれてます。
その後、
「石器」「食料」「土器」の三ブースに分かれて、グループで体験してもらいました。
▲「食料」ブースでの体験。はたして何の骨でしょう?
▲「石器」ブースでの体験。鋭い黒耀石製の石器の切れ味に段ボールもご覧のとおり!
実体験をとおして縄文の技術の高さが一層わかります。
緑小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
縄文体験教室 in 桜川小学校♪
6月25日(金)は桜川小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業に出向きました。
クラスは全3クラス。
導入で「神明貝塚」のyoutubeにもアップしている動画を観た後、レジュメに沿って学校の近くにも縄文時代の遺跡があることを写真や図を用いて紹介しました。
▲講義の様子。縄文人が食べた「とある哺乳類」の頭の骨です。皆さんは何の骨か分かりますか?
これにより縄文時代の春日部が「ある状態」であったことが分かります。
(ヒントは今、世界で問題になっている〇〇化現象です)
その後、
「石器」「食料」「土器」の三ブースに分かれて、グループでほんものに触れる体験を。
▲「土器ブース」での体験。古代人が使用した「土師器と須恵器」を直に触ってみて歓声をあげる6年生。
「なぜ?」を軸に、縄文人、古代人がどのように生活をしていたのか、を考えてもらいました。
桜川小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in桜川小学校
令和3年6月24日(木)に桜川小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回は社会科“わたしたちのまち みんなのまち”の授業の一環として、桜川小周辺にある文化財の紹介や、航空写真を利用して町の様子を学習しました。
桜井小のすぐ近くにある県指定有形文化財の花蔵院の四脚門や、同じく県指定有形文化財の香取神社本殿を写真で紹介させてもらいました。
児童からも「見たことある!」「知ってる!すぐそこ!」などの声が聞こえ、身近に文化財があることを知ってもらえた様子。児童にとって「文化財」という言葉はまだ聞きなれないものですが、歴史のある貴重なものだということは伝えられたかと思います。
紙芝居では“生きている彫り物”という花蔵院の四脚門に纏わる伝説の読み聞かせをしました。みんなじっくりと集中して聞いてくれましたね。
航空写真を広げて、桜川小や自宅、周辺の施設など色々なものを探しました。航空写真を読み取るために方角を意識するようにもしましたね!
目印となるところにシールをペタペタ貼るのも楽しかったようです。
自由時間には児童自ら紙芝居の読み聞かせ!
なかなか感情を込めて読む児童もいました。将来は役者さんでしょうか♪
みんな楽しそうに学習してくれたようで何よりです!
多くの学校からご好評いただき、おかげさまで“でばりぃ資料館”もだんだんと認知度が増してまいりました!
これからも随時ご依頼、ご相談お待ちしております!
桐の企画展示やります!
先日、調査の経過を報告しましたが、7月20日(火)から、春日部市郷土資料館で企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展を開催します。展示のチラシができましたので、お披露目したいと思います。
今回の展示は、春日部の特産品である桐箱と桐箪笥を中心に、桐細工産業の歴史を紹介するものです。
チラシには、江戸時代の桐細工職人が信仰した小渕・観音院の聖徳太子立像、昭和34年に皇太子殿下御成婚記念の献上品の桐箪笥、昭和40年代後半の市内箱屋の出荷風景の写真を掲載しました。背景は、桐箪笥の開き戸の錠前と帯金具です。「桐」の文字は、明治期の市内の箪笥職人の帳面からトレースしてみました。チラシは順次、市内の施設などで配布します。
展示の内容やこぼれ話などは、このブログで追々紹介していければと思っています。お楽しみに。
事業名:春日部市郷土資料館夏季展示(第64回)「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展
会期:令和3年7月20日(火)~9月5日(日) 月曜祝日休館
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15 教育センター内)
入館料:無料
関連イベントもあります。詳しくはチラシ(PDF約4MB)をご覧ください。
南桜井小学校で縄文体験教室を行いました
6月23日(水)に南桜井小学校の6年生を対象に縄文体験教室を行いました。
南桜井小学校の学区である西金野井では市内で最も古い年代にあたる約3万年前の旧石器時代の人々の暮らしをはじめ、縄文時代の貝塚を伴うムラも発掘されており、市内でも歴史の古い土地柄です。
また馴染みの深い「首都圏外郭放水路(龍Q館)」の工事からわかった大昔の海の様子が話題となり、子どもたちも当時の環境について興味がわいてきたのではないでしょうか。
▲神明貝塚からみつかった貝を種類ごとにわけてもらいました。黒くて小さい貝は現代の「シジミ」です。
子どもたちには授業を通じて、縄文人の技術の高さや現代の私たちと同じものを食べていることに驚き、実物に触れることで、教科書では味わえない体験をしてもらいたいと思っています。
引き続き縄文時代の学習のお手伝いを進めてまいりますので、お声かけをお待ちしています。
縄文体験教室 ㏌ 八木崎小学校♬
6月18日(金)は八木崎小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業を行いました。
クラスは全3クラス。
授業は、三密を避けるため4階の広々とした多目的教室を会場としました。
導入では「神明貝塚」の動画、さらには学校付近に広がる八木崎遺跡・浜川戸遺跡を紹介、さらには市内の貝塚遺跡の特徴や市内が海原にあった時代を学習しました。
その後、
「道具ブース」「食料ブース」「土器ブース」の三箇所に分かれてグループで体験してもらいました。
▲石器の黒耀石が200km離れた信州諏訪付近からの交易によってもたらされたことを学習する生徒さん達。
▲「縄文土器」「須恵器」「土師器」「埴輪」。それぞれの用途や違いを実物に触れて学習。
灰色の「須恵器」を石やコンクリートだと思っていた生徒さんが、「土器」であると知り驚いていました。
▲石器のコーナーでは黒耀石の鋭い切れ味を段ボールで実体験。指を切らないようにハラハラしながらも、「良く切れる!」の歓声が上がります。
授業終了後、感想を聞いたところ、「黒耀石の石器が欲しいです!」と熱意をもって答えてくれた生徒さんもいました。これをきっかけにもっともっと縄文時代を好きになってもらえたら幸いです。
八木崎小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
【7/7まで新収蔵品展】貞治6年銘の板碑
新収蔵品展では、金崎の方から寄贈された、板碑(いたび)を展示しています。板碑は、板石塔婆(いたいしとうば)とも呼ばれ、中世に、死者の供養などのために建てられました。日本全国で確認されるものの、埼玉県はとりわけ数が多く、約27,000基の板碑が確認されています。
春日部市内には、486本(『埼葛の遺跡』)の板碑の存在が確認されており、資料館に収蔵されているもののほか、地域のお寺や住宅などで、信仰の対象として大切に保管されています。これら板碑のうち、浜川戸遺跡から出土したもの(郷土資料館常設展示)が市指定文化財に、西親野井の大王寺別院に安置されているものが県指定文化財に指定されています。
埼玉県周辺でみられる板碑は、緑泥片岩(りょくでいへんがん)という、長瀞町や小川町でとれる石を使っています。青い色が目立つ石であることから「青石塔婆(あおいしとうば)」と呼ばれることもあります。形は、板状に整形され、頭部を三角に整えます。上部より、二条線、梵字(ぼんじ)で表された主尊(しゅぞん)、蓮台(れんだい)、花瓶(けびょう)などを刻みます。梵字は古代インドのブラーフミー文字から発展した文字で、仏教と結びつきが強く、仏教の仏を1字で表すことができます。板碑に彫られる梵字は、キリークという阿弥陀如来(あみだにょらい)を示す梵字が最も多く見られます。
板碑の多くには、このほかに供養者名や建てた年号などが刻まれます。建てられた具体的な年号を知ることができ、展示している板碑にも貞治(じょうじ)6年(1367)の年号と「八月廿八(にじゅうはち)日」という日付が刻まれています。
西暦1367年当時は、朝廷が北朝と南朝に分かれた南北朝時代でした。年号も北朝、南朝それぞれで定めており、この「貞治」という年号は、北朝の年号です。埼玉県周辺の板碑に刻まれる年号は、北朝の年号のものが多いようです。
一方で、春日部市内には、「元弘(げんこう)」という南朝で1331~1334年に使われた年号をもつものが4本あり、春日部にかかわりの深い武士の春日部氏が南朝側についたからではと考えられています。
さて、7月3日(土)13:30より、今回ご紹介した貞治6年の板碑を中心に、市内の板碑の概要などについての展示解説講座を教育センターで開催します。また、6月27日(日)と7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。
◆展示解説講座「春日部の板碑」
日時:7月3日(土)13:30~
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:直接、または電話(048-763-2455)で郷土資料館まで。
◆ミュージアムトーク
日時:6月27日(日)、7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要
参考文献
埼玉県立歴史と民俗の博物館展示解説シート 『第6室 板碑ー武士の心』
埼葛地区文化財担当者会 2007 『埼葛の遺跡』埼葛地区文化財担当者会報告書第6集
春日部市教育委員会 1994 『春日部市史第6巻 通史編1』P.372~P.395
春日部市史編さん委員会 2012『春日部市史 庄和地域 原始古代中世近世』P.239~P.241
豊野地区公民館で展示説明会を実施します
以前にもブログでお知らせしましたが、豊野地区公民館で現在開催されている神明貝塚の巡回展示にあわせて、下記の日程で展示説明会を実施します。
タイトル:「ここまでわかった! 国史跡 神明貝塚と縄文人のくらし」
会 場:豊野地区公民館
日 時:令和3年6月27日(日)14:00~15:30
定 員:20名(先着順・豊野地区公民館に直接申し込み)
現在、展示説明会に向けて準備をしているところですが、展示説明というより、神明貝塚の魅力と特徴を講座形式で、発掘調査から判明した神明貝塚の姿や、縄文人のくらしの様子などをお伝えできればと思っています。
また、Youtube上でも公開している動画の上映や、実際に土器や貝殻に触れていただく機会としております。まだ定員に達していないということですので、お気軽にご参加いただければと思います。
【展示説明会の詳細・申し込み】→豊野地区公民館のブログ
【臨時休館】6月19日(土)は休館します
誠に申し訳ございませんが、6月19日(土)は教育センターの施設点検のため、春日部市郷土資料館は休館します。
6月20日(日)は通常通り開館します。
縄文体験教室 in 内牧小学校♪
6月11日(金)は内牧小学校の6年生を対象に「縄文体験教室」の出張授業を行いました。
6年生の社会科学習が歴史単元に進んだので、今回が令和三年度最初の出張授業となりました!!
クラスは全3クラス。授業は、三密を回避するため、少々暑かったですが広々とした体育館で行いました。
導入では「神明貝塚」の動画、さらには学校付近に広がる遺跡と市内の貝塚の存在を学習し、その後、
「石器ブース」「貝・骨ブース」「土器ブース」の三つのブースをグループで体験してもらいました。
歴史の授業が今日がはじめてというクラスもあり、みなさんは興味津々でした。
▲春日部市内にも縄文時代の遺跡があることを知り、中には驚く子も。
▲石器のコーナーでは切れ味体験とあわせて石器の石材の黒耀石がどこからやってきたのか学びます。200kmも離れた信州諏訪付近からも交易によってもたらされたものと知り、驚く様子もみられました。
▲貝などの海産物や獣、そして豊かな森から得られる植物資源と多様な縄文人の食生活。現代に通じる食生活があったかも?
授業終了後、子どもたちの中には、名残惜しそうにブースを眺めている子もいて「もっと聞きたかった」と言ってくれた子もいました。
内牧小学校のみなさん、ありがとうございました。
これからも縄文時代の学習にお手伝いを進めてまいります。
【7/7まで新収蔵品展】小流寺の聖徳太子像
新収蔵品展では、小流寺の文化財として、令和3年4月22日に市指定文化財となった「木造小島庄右衛門正重座像(もくぞうこじましょうえもんまさしげざぞう)」、「小流寺縁起(しょうりゅうじえんぎ)」(春日部市指定文化財)、そして今回ご紹介する「聖徳太子像」を展示しています。
7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。
小流寺
小流寺は、浄土真宗の寺院で、現在は西宝珠花に所在します。もとは上吉妻にあり、昭和28年(1953)、江戸川改修工事に伴い、現在地に移転しました。坐像になっている小島庄右衛門正重は、小流寺の開祖であり、江戸時代、庄内領と呼ばれた現在の庄和地区の新田開発にたずさわりました。
聖徳太子像は、ながく小流寺でまつられてきたもので、江戸川を漂流してきたものと伝わります。像の高さは約90㎝、髪を中央で分け、両手に柄香炉(えごうろ)をもち、袈裟を身に着けています。髪型は本来は、長い髪を耳のわきで結ぶ角髪(みずら)であったようですが、結ばれていたであろう部分は欠損しています。表情はやや険しく、私たちがよく知っている旧1万円札の聖徳太子とは違う印象を受けます。制作年代は不明ですが、江戸時代の早い時期と考えられます。
この像の形は、孝養像(きょうようぞう)と呼ばれ、聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気快復を願って祈る姿と言われます。「孝養」とは、「こうよう」とも読むようですが、子が親に孝行をすることを表します。
柄香炉の持ち方は、浄土真宗本願寺派の勤式指導所のサイトによれば、作法としては「保持の仕方は、右手で上から柄の端の曲がっている部分を持ち、左手は下から柄の中央部より少し香炉寄りを持つ」とのことです。小流寺の聖徳太子像は、左右逆に持っており、これは手の部分を本体から抜くことができるため、誤って取り付けられた可能性もあります。しかしながら各地の聖徳太子像や絵画をみてみると、右手側に香炉をもつ小流寺の聖徳太子像と同じものもあるので、一概に間違っているとは言えないようです。
日本に仏教を取り入れた聖徳太子への信仰は、日本の仏教史とともに歩んできました。奈良時代の歴史書『日本書紀』では、生まれながらの聖人であったことが記されました。平安時代から中世には、様々な太子の伝記が書かれ、文学、芸能、美術など、さまざまな面で聖徳太子への信仰が関わりました。
鎌倉時代には鎌倉新仏教と呼ばれる新しい宗派が生まれ、各宗派を始めた祖師たちは、やはり聖徳太子を敬います。とりわけ小流寺の宗派である浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)は、聖徳太子を大変尊敬しており、浄土真宗のお寺には、聖徳太子像など、聖徳太子にかかわるものがまつられることが多いようです。小流寺に伝わる「小流寺縁起」にも、聖徳太子の事績を書く部分があります。
江戸時代には、聖徳太子が、四天王寺(大阪府)や法隆寺(奈良県)の建設にたずさわったことから、大工や左官、鍛冶屋、桶屋などの職人の信仰が盛んになりました。太子が亡くなった日に集まって、太子像などをまつる太子講が広まりました。
小渕の観音院にも、聖徳太子像が伝えられていますが、太子像がおさめられていた太子堂の修理のために、市域周辺の大工などの職人たちがお金を出し合った記録「小渕太子堂奉加帳」(春日部市指定文化財)が残されています。
小渕太子堂奉加帳と観音院の聖徳太子像は、7月20日から9月5日まで開催される「語り出したらキリがない桐のまち春日部」に出展予定ですのでお楽しみに。
西暦2021年の今年は、聖徳太子の亡くなったといわれる622年から1400年であり、4月には法隆寺で100年に1度の大法要が営まれました。このような特別な年に、偶然にも2回続けて「聖徳太子像」を企画展に出展する春日部市郷土資料館にぜひおこしください。
参考文献
武田佐和子 1993 『信仰の王権 聖徳太子 太子像をよみとく』 中央公論社
石井公成 2016『聖徳太子ー実像と伝説の間』春秋社
【近隣館の紹介】幸手市郷土資料館
幸手市郷土資料館では企画展「彰義隊士横山光造の陣笠」展を開催しています。
当館のような小さな館は、近隣の博物館さんと助け合い、支え合いながら日々運営できています。その日ごろの感謝を込めて、少し新しい試みですが、今回は近隣館を紹介してみたいと思います。
幸手市郷土資料館さんは、平成30年10月に設置された比較的新しい施設です。
当館は、埼玉県博物館連絡協議会などで、日ごろからお世話になっており、先日打ち合わせと資料調査でお邪魔し、その折に企画展を拝見しました。
戊辰戦争で歴史の表舞台に登場する、幸手ゆかりの彰義隊隊士横山光造に焦点をあて、遺されたわずかな資料からその実像を紹介しています。
常設展示は、充実した『幸手市史』の成果により、体系的に幸手の通史が学べます。民具の展示を質量ともに圧巻されます。おすすめは常設展の「武蔵国絵図写」。「かすかべ」の記述もあり、いずれ借用・展示させていただきたいなぁと、目をつけています。まだ見学されたことのない方はぜひともお出かけください。
展示期間:令和3年5月25日(火曜日)から7月18日(日曜日)まで
開催場所:幸手市郷土資料館 歴史展示室内 企画展示エリア
詳しくは幸手市郷土資料館ホームページ
粕壁小学校6年生が郷土資料館を見学しました。
令和3年6月9日(水)、粕壁小学校第6学年の皆さんが、社会科の歴史単元「縄文のむらから古墳のくにへ」の学習のため郷土資料館を見学しました。
学芸員による縄文・弥生・古墳時代の解説を聞いたあと、児童各々は竪穴式住居原寸大模型や神明貝塚の出土品、須釜遺跡の土器、塚内古墳群の埴輪などをじっくり観察していました。縄文時代の土器や石器を触ってみたり、なかには匂いをかいでみる児童もいました。はたまた、神明貝塚の人骨と自分の顔を比べる児童もいました。自らの身体をフルに活用して郷土の縄文時代を体感してくれたようです。写真をブログに載せてほしいとリクエストをいただきましたので載せます。タイトルは「人骨と小学生」
目的の学習を終えると、粕壁宿の模型で自分の家の位置を確かめたり、粕壁小学校の木造校舎の写真や粕壁の昔の風景をみて、まちの移り変わりを考えたり、学芸員に詳しく話を聞いたりして、身近な物事に基づきながら、さまざまな時代について楽しみながら歴史の理解を深めてくれていたようでした。
なかでも、航空写真から自分の家や友達の家を探すことや、
「かすかべ弁」として掲示している県東部地域の方言の意味を考えることに夢中になっているようでした。
最近では、文化財保護課による出張授業や当館の「でばりぃ資料館」などの出張メニューも好評をいただいていますが、先史時代から現代まで、すべての時代の歴史を順を追って体感できるのは郷土資料館しかありません。6年生の皆さんには、江戸時代の参勤交代や宿場町を学習する単元でも、日光道中や粕壁宿の模型を身近な教材として活用していただき、もう一度社会科見学に来ていただけるといいなぁと思います。
千葉大学の博物館実習を受け入れました
昨年度に引き続き、千葉大学学芸員課程の博物館実習を受け入れ、14名の学生が郷土資料館に来館しました。
午前中は、ざざっと館の概要や館内をご案内したあと、小学生の体験授業で使用する稲わらを束ねてもらいました。実際に授業で小学生に体験してもらう「千歯こき」も皆さんに体験してもらいました。
千歯こきの体験
午後は、昨年度に引き続き、館蔵の資料整理にご協力いただきました。市内の商家からいただいた明治時代から平成初頭までの史料群の未整理の文書箱を開梱して、資料の概要調査の調書を作成してもらいました。千葉大学の皆さんには、ここ何年か連続してこの作業をしていただいており、昨年度の先輩が作成した調書を参考にしながら、今年も作業を進めました。
この資料は、解体される寸前の商家から、短時間で箱に詰めて資料館に収蔵したもので、どんな資料が入っているかを把握しきれていません。そのため毎年度、職員も含め、ワクワクしながら箱を開いています。
資料整理の様子
今年の作業では、明治時代初期の粕壁宿の絵図が見つかりました。この絵図は宿場の細部までしっかりと書かれており、今後、展示や研究などに大いに利用されていくものと思われます。
学生の皆さんに、歴史的な資料が発見される瞬間に立ち会っていただくことができました。
明治時代初期の粕壁宿絵図
1日という短い時間でしたが、みなさん熱心に見学され、また真剣に作業を進めていただきました。ありがとうございました。
【7/7まで新収蔵品展】上蛭田村の高札
7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。
「新収蔵品展」では、上蛭田(かみひるた)村に掲げられていた高札を展示しています。この高札は、享保6年(1721)に出されたもので、幕府の鷹場内で鉄砲をうつことや鳥をとることを禁じたものです。
(クリックすると大きな画像(271KB)がダウンロードされます)
高札は江戸時代から明治時代の初期、幕府からの法令などを示すために、人々が往来する場所や名主の屋敷内に掲げられました。墨で書かれた文字が薄くなった場合は、許可をとって墨入れをしますが、この高札も、最初に掲げられた年から122年を経た天保14年(1843)に墨入れしたと、裏面に記されています。
高札裏面の墨書
高札は、例えば粕壁宿では、高札場が日光道中と岩槻の方面への道が分岐する辻に建てられ、文化元年(1804)には下記のような高札が掲げられていたと記録されています。
①「親子兄弟夫婦を始」
②「切支丹宗門御制禁」
③「粕壁宿より駄賃并(ならびに)人足賃銭」
④「毒薬并(ならびに)似せ薬種」
⑤「駄賃并(ならびに)人足荷物之次第」
⑥「火を付るもの」
⑦「鷹番之義」
⑧「在々ニ而鉄砲打候もの」
⑨「何事によらすよろしからさる」
⑩「当未正月より来ル辰十二月迄拾ケ年駄賃壱割五分増」
⑪「当戌十月より来寅十月迄五ケ年之内賃銭三割増」
参考:春日部市郷土資料館収蔵資料紹介:鷹番廃止の高札
『春日部市史近世史料編Ⅱ』P.801~
また江戸時代、江戸の外縁部は、幕府の鷹場(たかば)に設定されており、春日部市域周辺は、鷹場の中でも「捉飼場(とらえかいば)」として、将軍の鷹を訓練する場所として使われていました。
春日部市域に鷹場に関するとりきめを記した高札が多く残るのは、このためです。
鷹番廃止の高札については、過去の記事でもとりあげました。
ほごログ過去の記事:鷹番廃止の高札『新編図録春日部の歴史』ーその75
上蛭田村高札の釈文、読み下しは以下の通りです。
(釈文)
定
在々にて若鉄炮打候
もの有之候ハヽ申出へし幷
御留場之内にて鳥を
取申もの捕候歟見出し
候ハヽ早々申出へし
急度御褒美可被
下置者也
享保六年二月
裏面
天保十四卯年正月書入
武州埼玉郡
上蛭田村
(本文部分の読みくだし)
さだめ
ざいざいにて、もしてっぽううちそうろう
ものこれありそうらわば、もうしいずべし、ならびに
おとめばのうちにてとりを
とりもうすものとらえそうろうか、みいだし
そうらわば、そうそうもうしいずべし
きっとおほうび
くだしおかるべきものなり
#庄和総合支所 で #南桜井 の歴史を紹介しています
庄和総合支所の1階ロビーの隅っこに、市内の文化財や歴史を展示・紹介するスペースがあるのをご存知ですか。
郷土資料館では、長らく、江戸川に関する古写真などを展示していましたが、このたび、南桜井の歴史を紹介するパネルを掲示しました。
南桜井周辺の古地図や航空写真、人口の移り変わりなどを掲示したもの、南桜井の文化財を紹介したもの、地名の由来や地区に伝わる伝説を紹介したものを掲示しています。
先日「大衾の歴史」を紹介した通り、地区の歴史については、掘り下げれば掘り下げるほど、本当にキリがありません。南桜井という一地域の歴史・文化も話せば長くなりますが、何とか掲示板一面に何とかおさめることができました。総合支所周辺の地域の歴史を感じていただければ幸いです。
なお、わずかですが、市内の遺跡から発掘した原物の資料を展示する「春日部市発掘調査速報展示」もありますので、あわせてご覧ください。
【7/7まで新収蔵品展】亀田鵬斎書の看板
7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。
「新収蔵品展」では、かすかべ大通りのカネコ薬局さんから頂いた亀田鵬斎(かめだぼ(ほ)うさい)書の看板を展示しています。「家伝 たんせきのくすり 鵬斎老人書」と書かれ、亀田鵬斎が金子家宿泊のお礼に書いたものと伝わります。
*亀田鵬斎書の看板については、郷土資料館サイトの収蔵資料紹介もご覧ください。また、亀田鵬斎書の荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本については、ほごログの過去記事「【3月27日】 #今日は何の日? in春日部」もご覧ください。
亀田鵬斎(宝暦2(1752)年~文政9(1826)年)は江戸時代の儒学(じゅがく)者であり、文人です。書にも長け、空中に飛び回るような豪快な書風は「フライング・ダンス」とも形容され、全国に書や碑を残しています。
宝暦2(1752)年に、江戸の神田で生まれた(一説には上五箇村(かみごかむら・群馬県千代田町))鵬斎は、明和2(1765)年、13歳のころから、儒者の井上金峨(きんが)に学び、安永3(1774)年、赤坂山王社(現千代田区)のそばに私塾を開きました。天明5(1785)年には、私塾を駿河台(現千代田区)に移し、「育英堂」と名付けました。鵬斎の私塾には多くの入門者が集まりました。しかしながら、寛政2(1790)年、幕府の老中、松平定信(まつだいらさだのぶ)により「寛政の改革」の一環として「寛政異学の禁」が出されると、儒学の中でも朱子学(しゅしがく)を正当とし、鵬斎が教えた折衷学派(せっちゅうがくは)は「異学」とされ、多くの門人を失うことになりました。その後は私塾を閉じ、50歳ごろより各地を旅しました。鵬斎は豪放な性格で、また大の酒好きでもあったことから多くの逸話を残しています。酒井抱一(さかいほういつ)、谷文晁(たにぶんちょう)、大田南畝(おおたなんぽ)らと交流がありました。文政9(1826)年、74歳でその生涯を閉じ、今戸(現台東区)の称福寺に葬られました。
鵬斎が春日部に滞在した正確な時期はわかっていません。大正12年の東京日日新聞によれば、「寛政異学の禁」のあと、千住あたりで散々遊んだ後に粕壁宿にたどりつき、しばらく宿泊しているうちに金子薬店の主人夫妻と仲良くなり、居候になったと伝えています。居候中は、子どもに書の手本を書いて教えたり、帳場の帳面をつけたりしながら、患っていた梅毒の治療をしてもらいました。このお礼に、今回展示している「家伝たんせきのくすり」という看板と六双の屏風を書きました。また、世話になった金子薬店の主人が亡くなった際には旅先から駆け付け、その位牌を書きました。
久喜には、遷善館(せんぜんかん)という代官早川八郎左衛門正紀(はやかわはちろうざえもんまさとし)が、享和3年(1803)に設立した郷学(ごうがく・武士のための藩校と一般庶民のための寺子屋の中間に位置する官民一体となった教育機関)がありましたが、鵬斎は早川に招かれて、講師をつとめました。地方での講演が最も多く行われたのが久喜の遷善館であったと弟子が書き残しています。鵬斎は、粕壁や久喜といった埼玉県東部地域の町々とも深く関わりがあったことがうかがえます。
なお、金子家の当主は、代々「七右衛門」と名乗り、元禄時代に初代七右衛門が薬屋を開業しました。大正時代には、粕壁に国立薬草園が開園しましたが、この誘致や創設に、12代七右衛門がたずさわりました。
(参考文献)
久喜市公文書館1999『第11回企画展 遷善館』
東京日日新聞 1923「鵬齋の居候ぶり(上)(下)」大正12年8月8日、9日
【7/7まで新収蔵品展】ミュージアムトークを開催しました
7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。
5月22日(土)、第63回企画展示「新収蔵品展」の会場にてミュージアムトークを開催しました。
「新収蔵品展」は、近年、郷土資料館に寄贈や寄託いただいた資料をご紹介するもので、中世の板碑(西暦1367年のもの)から現代のプリントゴッコ(西暦1993年のもの)まで、26種類76点の資料を並べています。展示では「小流寺の文化財」、「春日部の中世」、「春日部の学校」、「村の行政」、「春日部のまち」、「1964東京オリンピック」、「プリントゴッコ」の7つのコーナーを作り資料を展示しています。
本日はあまり天気が良くなったこともあり、ご来館者は決して多くありませんでしたが、バラエティ豊かな資料を展示していることから、皆様のご興味も様々で、多くのご質問やご感想をいただきました。
展示資料につきましては、こちらのほごログでも、順次ご紹介してまいります。(ちなみにプリントゴッコについては、こちらでご紹介しました。)
ミュージアムトークは、この後、6月27日(日)、7月7日(水)の10時30分からと15時からそれぞれ30分程度を予定しております。事前の申込みは不要です。ぜひご来館ください
市内の桐箪笥屋さん・桐小箱屋さんの調査をしています
5月18日(火)より「新収蔵品展」がはじまりましたが、次回、夏季展示の準備も進めているところです。今夏の展示は桐箪笥づくり、桐小箱づくりを中心に、春日部の伝統産業である桐産業の歴史を紹介する展示です。
とはいえ、郷土資料館として桐箪笥や桐小箱について、これまで十分な調査がされていませんでした。今回は、展示の準備のため、市内の桐材屋さん、桐箪笥屋さん、桐小箱屋さん、家具屋さんなどにご協力いただき、各所の歴史の聞き取り調査、製造工程の記録・取材を進めています。
先日、調査させていただいたのは、豊野地区の飯島桐箪笥製作所さんです。
桐の板材から、箪笥の各部材の板をとる「木取」(きどり)の工程をみせていただきました。
丸太から切り出した大きな板材から、箪笥の板に適した木目の部分だけを、丸鋸盤で切り出します。大きな材からとれる板は、わずかで、切り落とした部分はおが屑屋に回収してもらうそうです。
その後、木取した板材の木目をみながら、各部材の寸法の板を合わせます(幅寄せ)。
これらの工程を「木取」と呼ぶそうです。丸太を切り出した板材から各部材を切り出す、この工程は、瞬時に木目などを判別し、箪笥出来栄えや等級にもかかわる重要なものなので、昔から親方の仕事とされてきたそうです。
さらに、「組手づくり」の工程もみせていただきました。
ケビキとノミをつかって、箪笥の棚板を組みあわせる「ホゾ」を切り、ホゾサライと呼ばれる小刀で整えていきます。
資料館でもケヒキやノミを所蔵しているところですが、実際に職人さんが使っているところを初めて見たので、大変感動しました。道具は使われてナンボなのですね。
このほか、塗装の工程も見学する予定でしたが、あいにくの雨なので作業は見合わせに。けれども、ウツギと呼ばれる木釘や、箪笥の塗料の原料ヤシャの実なども、お分けいただきました。
このほかにも、厚川産業さん、松田桐箱さん、古谷桐箱さん、山田桐箱さん、飛鳥馬製作所さん、遠藤木工さん、猪瀬桐材さん、山田箪笥さんなど、様々な業者さん、また残念ながら現在は廃業されてしまった方にもお話しを聞いて回っています。みなさん、突然の調査にも関わらず暖かくお迎えいただき、聞き取りの話が尽きません。ありがたい限りです。
これらの調査の成果については、展示でお披露目できればと思っています。市内には、まだまだ桐箪笥、桐小箱の事業者さんはたくさんおり、どこまでお話しが聞けるのか、わかりませんが、できる限り、多くの方のご協力をいただきたいと考えています。桐箪笥・桐小箱・家具業者の皆さんには、引き続きご協力いただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています
本日より7月7日(水)まで第63回企画展示「かすかべの宝もの18 新収蔵品展」を開催しています。
市民の方々からご寄贈、ご寄託いただいた市にゆかりの資料を約90点展示しています。
展示の概要は以下の通りです。
どうぞ、みなさまお誘いあわせの上、ご来場ください。
<第63回企画展示 かすかべの宝もの18 新収蔵品展>
期日:令和3年5月18日(火)から7月7日(水)
会場:春日部市郷土資料館企画展示室
(関連事業)
・展示解説講座「春日部の板碑」
新収蔵品展出展の板碑を中心に、春日部市内の中世板碑の状況を郷土資料館学芸員が解説します。
日時:令和3年7月3日(土曜日)午後1時30分~午後3時
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:令和3年6月15日(火曜日)から直接、または電話で郷土資料館へ(電話:048-763-2455)
・ミュージアムトーク
企画展示会場で、郷土資料館学芸員の展示解説を行います。
日時:令和3年5月22日(土曜日)、6月27日(日曜日)、7月7日(水曜日)
各日午前10時30分~、午後3時~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申し込み不要
豊野地区公民館で「神明貝塚の巡回展示」を開催しています
5月11日より豊野地区公民館にて、「神明貝塚の巡回展示」を開催しています。
豊野地区は「赤沼の獅子舞」や「銚子口の獅子舞」といった無形民俗文化財の継承が盛んな一方、埋蔵文化財、いわゆる「遺跡」がほとんど確認されていない地区で、貝塚や遺跡について、あまり馴染みがないといった方々が多いのではないでしょうか。
そこで今回は公民館事業ではありますが、展示解説も兼ねた講演会を現在、企画しています。このブログでも情報を再度告知させていただきますが、日時、内容、定員等の詳細な情報は6月の豊野地区公民館報に掲載されますので、そちらをご覧ください。
新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、限られたスペースですが、春日部市で初めての”国史跡”の特徴と魅力をご覧いただければと思います。
展示場所:豊野地区公民館 1階ロビー
展示期間:5/11(火)~9/5(日) ※月曜・祝日は休館
開館時間:8:30~17:15
常設展示に「牛島のフジ」の解説コーナーをつくりました
▲明治44年(1911)絵葉書 「粕壁の藤花」(個人蔵)
4月13日(火)から5月2日(日)まで開催しておりましたミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、ご好評をいただき、無事終了いたしました。ご協力いただいた方々、ご来館いただいた皆さま、ありがとうございました。
せっかくですので、常設展示の中に特別天然記念物「牛島のフジ」について紹介する一角を設けました。
館内が狭いためほんとに小さなものですが、下の写真のように、かつて「九尺藤」といわれた3メートル近い花房を原寸大で再現してみた折り紙の藤花も参考として展示しています。お近くにお越しの際には、ちょっとお立ち寄りいただけますと幸いです。
【春日部の地区小史】大衾の歴史
以前、『方言漢字 埼玉県編』に市内の地名「大衾」(が紹介されたことをお伝えしましたが、方言漢字がさまざまなメディアにとりあげられ、大変反響がありました。地名「大衾」がフィーチャーされていますので、改めて、春日部市の大衾の歴史を概観してみたいと思います。
大衾は、近世以降に確認される地名です。近世には「大衾村」といい、下総国葛飾郡庄内領に属し、近世を通じて幕府の直轄領(天領)として支配された村でした。『武蔵国郡村誌』によれば、寛永年間(1624-1643)以後に開発された村とされています。ただし、大衾の古寺・蓮花院には、天正11年(1583)の銘のある位牌があるほか、大衾には中世の板石塔婆も遺されていることから、大衾に人々が定住しはじめたのは、戦国期まで遡れると考えられます。正風館の西側の香取廻(かとりまわり)というあたりからは、縄文時代中期・後期、古墳時代前期の住居跡や遺物が発掘されており、大衾の人々の暮らしはさらに遡れるかもしれません。
さて、大衾という地名の語義について、『埼玉県地名誌』には次のように説明されています。
フスマはフシミ(伏見)と同語である。フシミとは、うつむいて見ること。されば大衾は見下ろすことができる傾斜地なので、その名をえたものとみられる。
たしかに、大衾は下総台地の突端に位置するため、台地と低地の高低差が坂道になっており、起伏のある地形になっています。正風館の前の通りの坂道が、まさに台地と低地の高低差といえば、イメージしやすいでしょうか。古くから地元の方は台地上の高台を「ノガタ」(野方)、低地を「シタヤ」(下谷)と呼んでいたそうです(『庄和町史編さん資料13 民俗Ⅲ』)。大衾村は、『武蔵国郡村誌』によれば、田は4反余、畑は28町8反余、宅地は1町2反余あり、耕地のうち約94%が畑地の畑がちの村であったことがわかります。ノガタに位置し、台地上を畑として耕作していたのでしょう。
旧庄和町域(庄和地域)では、江戸川が開削され、耕地の開発が安定する正保(1644-1647)や慶安(1648-1651)の頃に「シタヤ」に村が開かれていきます、大衾を含めた「ノガタ」に立地する村は、これ以前から存立していたようです。次の絵図は、国立公文書館所蔵の正保期の下総国絵図の写とされるもの(松平乗命本)の部分です。
この絵図には、中世以来の集落があった宝珠花・金野井・小田辺(現・東中野)のほか、「米嶋」そして「大衾」の俵型がみられます。この絵図では俵型は村落(集落)を表現していますので、江戸川が開削されて間もない正保期にはすでに「大衾村」が存在していたことを示すことになるでしょう。また、緑色の地帯は「や」、黄色の地帯は「田」「あし」などと記述されており、緑は台地、黄は低地を表現しているようです。「大衾村」が台地上に位置していたことがよくわかります。
このように、大衾村は、比較的古い近世の村であることがうかがえます。しかし、大衾地区に伝来したであろう古文書や古記録はいまだに見出されておらず、近世の村の状況は詳しくはわからないのが現状です。
明治時代以降、大衾村は、明治6年(1873)には千葉県、同8年(1875)には埼玉県に所属します、明治12年(1879)には中葛飾郡に所属し、明治22年(1889)に永沼村・下柳村・上柳村・金崎村・上金崎村・西金野井村・大衾村が合併し、南桜井村となります。以降、「大衾」は南桜井村、昭和29年(1954)からは庄和村、昭和39年(1964)からは庄和町、平成17年(2005)からは春日部市の「大字」としての地名となります。
資料館収蔵資料のなかに、明治前期の大衾村が発行した古文書がありました。古文書の内容は、林畑の地券を2枚預かったことを証明するものですが、「大衾邨役場」とあり、公印には「大衾村役場證」と印文がみえます。
この古文書に「林畑」とあるように、大衾にはうっそうとした雑木林があったようです。明治前期の物産は「薪」とされ、隣村の西金野井にはシャリキとよばれる杣(そま)職人が集住していたそうです(『庄和町史編さん資料10 民俗Ⅰ』)。記録が残されていないので推測にすぎませんが、おそらく「薪」の生産が盛んだった大衾にもシャリキ職人がいたのではないでしょうか。
そうした大衾の暮らし、景観が大きく変化するのは、昭和のはじめの頃だと思われます。昭和5年(1930)に総武線(現東武野田線)が開通し、南桜井駅が開業し、昭和18年(1933)に軍需工場が南桜井駅付近に疎開してきました。
軍需工場の疎開については、前に詳しく紹介しましたが、工場の敷地を造成するため、雑木林を切り開いていきました。その時に活躍したのがシャリキだったともいわれています。大衾の雑木林は「大衾山」と呼ばれていたそうで、地元の方は「オバケの森」といったとも。今では想像もできませんが、それだけうっそうとした森林だったのでしょう。戦後も多少雑木林が遺っていたようですが、高度経済成長期以降の宅地開発により今は見る影もありません。
大衾の人口も明治初めは、115人(20世帯)でしたが、昭和45年(1970)には973人、昭和55年(1980)には2898人(873世帯)、平成2年(1990)には3078人(917世帯)、同12年(2000)には3277人(1092世帯)、同22年(2010)には3333人(1241世帯)と、高度経済成長期に大きく変わっていったことがわかります(『武蔵国郡村誌』、国勢調査による)。
「大衾」の歴史については、地域にのこされた記録が少なくまだよくわからないことも多いのですが、以上のようになるでしょうか。
ところで、5月20日(木)11:10~40分頃、NHKのFMラジオ(85.1MHz)「ひるどき!さいたま~ず」(生放送)で、方言漢字「衾」について紹介されるそうです。「大衾」についても言及されるかもしれません。大衾にお住まい方も、そうでない方もお聞き逃しなく。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in備後小学校
令和3年5月7日(金)に備後小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今年の3月にも3年生向けにでばりぃ資料館で訪問させていただきましたが、新年度となり3年生の顔ぶれも新たになりました。
今回のでばりぃ資料館は社会科ではなく、総合的な学習の時間「備後のカルタ作り」の一環として、身近な地域の様子を学習してもらうという趣旨でのご依頼でした。
また、GWあけということもあり、長期休暇から日常の授業へ急に戻るのではなく、体験的な楽しさを取り入れた授業を行うことで、緩やかに通常授業に戻してあげたいという先生の計らいでもあるようです!
授業は体育館と郷土資料室で行い、体育館では武里地区にまつわる伝説の紙芝居の上演や、
武里地区の航空写真、郷土かるたを用いながら身近な文化財について学びました。
郷土資料室では、展示してある昔の生活道具を学芸員が解説し、自由時間には実際に触ったり、昔の体重計に乗ったりして体験学習をしました。
昨年度から実施しているでばりぃ資料館は、主に10月~3月の小学校第3学年向け社会科郷土学習のために生まれた事業ですが、社会科に限らず内容や日程の調整をさせていただければ随時受付可能です。
私どもとしても、児童にもっと郷土資料館を知ってほしい気持ちがありますので、ぜひお気軽にご相談ください!
小淵山観音院~県指定文化財~”円空仏”の公開
本日、5月3日から5日まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館から年1回の里帰りとなります「円空仏祭」が小淵山観音院の本堂で開催されております。
”円空仏”の作者である円空さんは寛永9年(1632)に美濃国(現岐阜県)で生まれ、近畿地方から北海道にかけて各地を行御し、12万体の仏像を彫ることを祈念し、実行した修行僧・遊行僧として知られております。特に鉈彫(なたぼり)の仏像制作が特徴的でおよそ5千体以上の円空仏が全国で発見されています。
さて、埼玉県は生誕の岐阜県、そして愛知県に次いで約200個体の作例が発見されており、特に霊山日光へ向かう日光道中沿いの越谷市や春日部市、蓮田市周辺で多くが確認されております。
▲本堂ではスケッチをしたり、何をモデルとして作られたのかを家族で話したり、本堂の静寂の中で様々な拝観の光景がみられました。もちろん、本堂の空間は「密」にならぬよう、人数を制限しながら、じっくりと円空仏を拝むことができます。
▲像高194㎝、一つの材から彫り出された円空仏では県内最大の「聖観音菩薩立像」
頭巾(ずきん)様の宝冠には阿弥陀如来もみられる
▲像高134㎝、両手で宝塔を捧げもつ「伝毘沙門天立像」
ケープ状の頭巾(ずきん)には竜頭様の兜が描写されている
このように円空仏には様々な彫り物がみられます。
このゴールデンウイークは、ゆっくりと静寂な時間の中、新緑が映える観音院本堂で円空が一心に鉈を振るった木造仏を拝観してみてはいかがでしょうか。
【4月28日】 #今日は何の日? in春日部
今から109年前の4月28日は、春日部に #渋沢栄一 が訪れた日です。 #かすかべプラスワン
明治45年(1912)4月28日、天気は晴れ。渋沢栄一は、粕壁中学校(現県立春日部高校)の父兄会より講演の依頼をうけ、粕壁に向かいました。その様子は、渋沢栄一伝記資料に詳しく記述されています。
これによると、栄一は朝6時に起床し、王子停車場から汽車に乗り、午前10時に粕壁駅に到着しました。「多数ノ人士来リ迎フ」と記録されており、大勢の人々に駅前で出迎えられました。その足で人力車に乗り牛島へ。
牛島には何をしにいったのかというと、藤を見に行きました。そう、かの有名な牛島のフジです。藤樹をみて渋沢は「頗ル大木ナリ、開花ハ未タ充分ナラサルモ、棚ノ広サ凡ソ二百坪アルヘク、真ニ稀ニ見ル所ナリ」と称賛しています。
東武鉄道の開通以後、牛島のフジは「粕壁の藤」と呼ばれ、関東地方で最も著名な藤の名所地として知られていました。渋沢も見たかったのか、それとも地元の人たちに請われ、見に行ったのか、わかりませんが、いずれにしても牛島のフジは、「渋沢栄一もみた春日部の藤」なのです。藤について詳しくは「渋沢栄一もみた春日部の藤」展をご覧ください。
さて、渋沢は「小亭ニ休憩シテ」とあり、園内の建物で休息をとり、その後、粕壁税務署で「地方人士」たちと昼食、懇談しました。当時の税務署の庁舎は完成して間もなかったようです。「地方人士」とは、おそらく粕壁の町中の有志たちでしょう。この点について少し補足しておきましょう。
さかのぼること10数年前、渋沢は男爵を授爵した明治33年(1900)に帝国ホテルで埼玉県の有志者90余名を集めて祝賀会を開いています。当日招待された名前をみると、市域からは粕壁の田村新蔵、練木市左衛門、山田半六、清水寿太郎といった粕壁の大店層の面々や、のちに「成金」として知られる鈴木久五郎、その一族で鈴木銀行役員の鈴木善五郎が招かれています。ですから、明治45年に粕壁税務署で会食した「地方人士」たちは、こうした渋沢と親交のあった人たちだったと考えられます。
さて、渋沢は午後2時に粕壁中学校に向かい、本来の目的である講演をします。「国家経済ト教育」に関する演題で話をし、聴講者は600~700名あり、盛会だったといいます。
午後5時40分、粕壁駅発の汽車に乗り、午後8時に王子停車場に到着しました。
以上の行程について、郷土資料館では「図説渋沢栄一の一日inかすかべ」というリーフレットを作りました。このときの渋沢の足跡が一目でわかるものです。このリーフレットは、観光ガイドさんにもご協力いただき、藤花園内でも配布していただき、牛島のフジに訪れたお客様から大変好評を得たと聞いています。ミニ展示のネタバレにもなってしまい、手前みそですがなかなかの出来栄えなので、「ほごログ」にもあげておきたいと思います。
渋沢の足跡.pdf(1.1MB)
ところで、なんと渋沢はもう一度粕壁にやってきています。そのことについては、5月2日までのミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展でちょこっとだけ紹介しています。気になる方は、展示を見に来てくださいね。
ミュージアムトーク開催しました
令和3年4月25日(日)郷土資料館ミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展のミュージアムトークを開催しました。
今回も多くの方にお集まりいただきました。渋沢栄一について詳しく話が聞けるものと、ご期待いただいた方も多くいらっしゃったようですが、展示解説の主題は「牛島のフジ」について、です。渋沢栄一ではなく、藤の展示なのです。牛島のフジのスゴさについては前にもブログで紹介しています。
牛島からお越しいただいた方によれば、花の最盛期には、藤の牛島駅から藤花園まで、長蛇の列で、行列が途切れなかったこともあるとか。また、最近、春日部に越してきたという方は、「春日部は住みやすい上に、歴史ある牛島のフジもあって誇らしい」と話していました。
先日22日(木)の定例教育委員会終了後、教育委員の皆さまにもご見学いただきました。「牛島のフジ」の新たなる側面をお楽しみいただけたようです。
多くの方にご覧いただいた「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、5月2日(日)まで。4月26日(月)と4月29日(祝・木)は休館日なのでご注意ください。
4月22日開催の教育委員会で文化財が新たに指定されました!
令和3年4月22日(木)開催の4月定例教育委員会の審議で、新たに文化財が指定されました。
この文化財は西宝珠花の小流寺に伝わる江戸時代、宝永8年(1711)に制作された「木造小島庄右衛門正重坐像(こじましょうえもんまさしげざぞう)」で、有形文化財(彫刻)となります。
▲教育委員による文化財の実見の様子
小島庄右衛門正重は、江戸幕府の代官伊奈忠治の下で活躍した人物で、現在の庄和地域を含む庄内領の開発や江戸川の開削にも携わった人物としても広く知られています。像の形態からは市域の江戸時代肖像彫刻の基準作として、また、郷土の治水の開発に功績があった人物の彫像としても歴史的価値があることからも評価されたものです。本資料で市指定文化財は46件となりました。
▲ 新たに文化財に指定された「木造小島庄右衛門正重坐像」
今後は郷土資料館での公開を予定しております。日程が決まりましたら、改めてお知らせいたします。ご期待ください!
#牛島のフジ がスゴイ件(最終回)
藤花園の牛島のフジは今まさに満開のようです。郷土資料館の近く、図書館・文化会館の藤・藤棚も盛りを迎えています。 #かすかべプラスワン #牛島の藤
郷土資料館の最寄りの藤は、粕壁小学校校舎の裏に自生(?)しているものです。ほかの木に巻き付いて、ものすごく高いところに花をつけています。
さて、引き続き、あいうえお作文「牛島のフジがスゴイ件」の続き(最終回)です。
「の」飲みすぎ注意!酒と料理でおもてなし
牛島のフジの藤花園には、料亭があり、料理が提供されていることは、以前紹介しました。
当然、酒も提供されており、古利根川の川魚料理をアテに、女中さんが配膳してお酒をすすめてくださいます。
大正12年の句集には「寝る人も酔っているらし藤の花」という句が収録されています。
小説家・田山花袋(たやま かたい)は、大正12年(1923)刊『東京近郊一日の行楽』のなかで、「粕壁の藤花」という随筆をのこしています。これによれば、大町桂月(おおまち けいげつ)と田山が滞在していた羽生で落ち合い、酒を飲みながら汽車で粕壁に向かい、さらに藤花園で、牛島のフジを鑑賞しながら吸い物や煮つけをアテにしながら、競い合うように酒を酌み交わしたようです。
…私達は何を話したらう。田舎の百姓家、藤の花を見せて客を引いて拙い酒と肴とを勧める田舎の百姓家―さういふものが不思議に私には思はれた。吸物はおとし玉子、肴は鰤か何かの煮附、酒はくさい地酒・・・。(略)何うして車夫に賃金を払つたか、また何うして汽車に乗つたか、それすれも分からないくらゐであつた。
あまりいいように書いてはくれていませんが、藤の聖地で、酒を飲みすぎてしまったことにかわりはないでしょう。
「ふ」フジの花房は最大9尺 愛称は「九尺藤」
牛島のフジは、よく樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えの藤だといわれます。しかし、戦後の新聞には、樹齢800年とか、戦国時代に戦死者を弔うため藤を植えたとか、その起源についてはつまびらかではありません。記録上では、江戸時代末には、すでに大名や公家等が賞賛した藤であったことは間違いないのですが。
いずれにしても、国内、いや世界でまれに見る藤の巨樹・古木であることにはかわりなく、明治時代末には、「関東一」、昭和3年(1928)の内務省天然記念物指定後には、「世界一」とも称されるようになります。なにが、「関東一」「世界一」なのか。天然記念物指定の事由をみると、学術的に確定できない樹齢を要件とするではなく、花房(かぼう)の長さを根拠としていることがわかります。その長さ、なんと「九尺」。1尺は約30センチですから、2.7メートルも花房があったといいます。だから、地元の愛称は「九尺藤」。
藤棚の広さ・規模は足利フラワーパークや市内のふじ通りに負けても、これだけの長さの花房をみせる藤は、日本、世界を捜しても牛島のフジだけです。戦前に天然記念物指定となったのも、戦後に特別天然記念物指定になったのも頷けますね。量より質です。
「じ」地元かすかべの文化的サロン
これまで紹介してきたように、牛島のフジは、さまざまな文化人がおとずれたから、町・市のシンボルだから、地元の有力者や文化人たちもフジを囲んできました。藤花園という庭園が造られ、社交場としての「倶楽部」が設けられ、文化教養のある方たちが集い、句会などが催される。近代の春日部の華麗なる歴史は、牛島のフジとともに形成されてきたといっても過言ではありません。
以上、牛島のフジのスゴさを、あいうえお作文で紹介してきました。「牛島のフジがスゴイ件」のリーフレットは、郷土資料館で配布していますし、観光ボランティアさん・案内人の会さんにもご協力いただき、藤花園でも配布していただいています。
最後に蛇足ですが、こうした牛島のフジをめぐる歴史文化を調べていて、「渋沢栄一もみた春日部の藤」展の展示担当者として、考えたこと、気づいたことが二つほどあります。
一つは、これまで常にまちの人たちやかすかべに訪れる人たちを魅了してきた、囲まれてきたということ。しかし、現代は価値観の多様化のせいか、「かすかべisフジ」という理念が揺らぎつつあるように思えました。これからも、春日部のみなさんをはじめ、市外・県外の方たちからも愛される「牛島のフジ」であってほしいな、と願うばかりです。
もう一つは、「樹齢1200年以上!」とか「国の特別天然記念物です」とか、そんな陳腐な言葉では語りつくせない牛島のフジの歴史や文化があること。それこそが、牛島のフジのスゴさなのであり、春日部にとっては、それはもうpriceless(プライスレス)。藤だけに「不二」(二つとない)ものなのだと。おあとがよろしいでようで。
「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、5月2日(日)まで。4月25日(日)には、感染症対策にも配慮してミュージアムトーク(学芸員による展示解説)も実施します。10時30分~、15時~の二回。会期は残りわずかです。ぜひご来館ください。
【5/18~新収蔵品展】プリントゴッコをご寄贈いただきました
<郷土資料館では、令和3年5月18日(火)~7月4日(日)の期間で、第63回企画展示「かすかべのたからもの18新収蔵品展」を開催します。近年、資料館に寄贈、寄託された資料を展示します。>
昨年、市内の方からプリントゴッコをご寄贈いただきました。次回の企画展示、5月18日(火)からの新収蔵品展にて展示します。平成5(1993)年、ロビンソン春日部店の文具売り場で購入されたとのことで、ロビンソンのスタンプが保証書に押されています。
ご寄贈いただいたプリントゴッコPG-10と保証書
年賀状印刷などで、プリントゴッコを使われた方も多いと思いますが、発売元の理想科学工業株式会社が先日、インターネット上で「プリントゴッコ懐かしい展」を開始しました。
プリントゴッコは昭和52(1977)年に発売を開始、発売当初から大ヒットし、平成8(1996)年には売り上げ台数1,000万台に到達しました。平成12(2000)年以降、パソコンや家庭用プリンターの普及で需要が衰退し、平成20(2008)年に本体の販売停止、平成24(2012)年には関連する消耗品等の販売もおわり、事業終了となりました。
プリントゴッコは、「孔版(こうばん)印刷」という技術で印刷されます。仕組みと使い方は、まず、炭素を含んだ専用のペンで原稿を書き、マスターと呼ばれる版とともに機械にセットします。機械で付属のランプの光を一時的にあてることにより、原稿の炭素を発熱させ、その熱で原稿の炭素付着部分に対応する版の表面のフィルムを溶かし、孔を開けます。そして、この版にインクをのせ、用紙に圧着させると、孔からインクが原稿通りの形にしみ出し、同じものを何枚も印刷することができます。
文章で書くと難しそうですが、手順を覚えてしまえば手軽に年賀状などの大量印刷ができる機械です。イモでスタンプを作る芋版などが普通だった時代、プリントゴッコの登場は画期的でした。
それにしても、大ヒットした平成8(1996)年から数えてもまだ35年ですが、とてもなつかしく感じられる方も多いのではないでしょうか?近年のパソコンやプリンター、また印刷技術の発達は、隔世の感があります。
#牛島のフジ がスゴイ件(2)
牛島のフジ(藤花園)の開園日でもあった令和3年4月17日(土) #春日部市郷土資料館 でミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展のミュージアムトークを開催しました。 #かすかべプラスワン
天気は雨の予報でしたが、多くの方にお集まりいただきました。ソーシャルディスタンス・感染症対策を十分にとった上で、渋沢栄一のこと、牛島のフジのことについての展示解説を聞いていただきました。参加された方からは「藤のトークめっちゃ面白かった!」「来てよかったです」などの感想をいただきました。「特別天然記念物」という冠だけでは語り切れない、牛島のフジの歴史文化について、ご理解を深めていただけたようでした。午後には、市内在住の歴史少年が「徳川昭武知っている!」と話し、熱心に牛島のフジで記念撮影をした写真をみていました。未来の学芸員を目指してほしいものです。トークの後、熱心に質問される方も多く、担当者として充実した一日となりました!
さて、一部では好評!?の、牛島のフジがスゴイ件のパート2です。
今日のミュージアムトークでも「これ考えたんですか!?」とお誉めいただきました。今回は、うしじまのふじの、「じ」「ま」について。
「じ」人力車・待合茶屋に、お土産でうるおう観光産業
東武鉄道の開通により、一躍有名になった牛島のフジ。最寄り駅が粕壁駅(現春日部駅)であったことから、当時は「粕壁の藤」と呼ばれることが多く、駅から藤花園まで観光客を運ぶ人力車が営業されていました。駅前には、汽車をまつ待合茶屋もありました。お土産は、「藤羊羹」「塩せんべい」。現在でも「かすかべフードセレクション」にも、藤をモチーフにした商品もありますね。その元祖といってもよいかもしれません。
大正12年の粕壁町の旭町を主体として開かれた句会の句集には、次のような句があります。
付く汽車も又付く汽車も藤見哉
新道の普請成り立つ藤の花
花の盛りには、汽車でやってくる客が絶えなかったこと、観光客のため、藤の周辺に「新道」が整備されていったことがうかがえます。多くの方がやってくることで、町のインフラ整備もすすんでいったことがうかがえます。
「ま」まちづくりの中核に かすかべisフジ
牛島のフジが有名になる明治も、大正も、昭和も、そして春日部市がまちづくりに活用されはじめる高度経済成長期から現在に至るまで、フジと春日部は切っても切り離せない関係にあります。昭和48年には、市の花にフジが制定され、以後、日本一の規模の藤の街路樹ともいわれる藤通り、藤まつり、藤テラス、藤音頭、マンホールや文化会館の緞帳、市役所の立体駐車場の壁面…
まちのシンボルとして、まちの景観、住民どうしをつなぐイベントのなかに、常に「藤」「フジ」「ふじ」があります。
これも牛島のフジが天然記念物として知られ、明治時代からかすかべの観光産業・町のくらしを支え、町を代表する象徴的な樹木だからです。牛島のフジが春日部のくらし・行政に与えた影響は計り知れないものがあります。まだまだ思わぬところに「フジ」があるかもしれません。まちにある「フジ」の情報をぜひお寄せください。
本日より牛島のフジが(藤花園)が開園されました。ミュージアムトークでも「牛島のフジの開花状況は?」と質問され、答えられませんでしたが、開花状況は藤花園のホームページをご覧ください。展示と合わせて牛島のフジもお楽しみください!
(つづく)
#牛島のフジ がスゴイ件(1)
令和3年4月13日(火)から「渋沢栄一もみた春日部の藤」展が始まりました。この展示は、渋沢の足跡をたどりながら、春日部の藤の歴史文化を紹介するものです。#ビビる大木 さん、渋沢センパイは本当に春日部に来ているのですよ!
企画展示室の入り口は、手作りの藤のモニュメントで華やかに彩られました。藤の花言葉は「歓迎」だそうで、ご覧いただく皆さまを歓迎しています。
ところで、展示のための調査・準備の過程で、国指定特別天然記念物「牛島のフジ」が如何に「スゴイ」のかが明らかになってきました。でも、そのスゴさを知らない、気づいていない方も多いようです。
そこで、今回の展示では「牛島のフジがスゴイ件」というリーフレットを制作し、そのスゴさを「う・し・じ・ま・の・ふ・じ」の7文字をとって紹介しています。あいうえお作文です。
「う」浮世を忘れさせるフジの聖地
「し」渋沢だけじゃない各界の著名人がやってきた
「じ」人力車・待合茶屋に、お土産でうるおう観光産業
「ま」まちづくりの中核に かすかべisフジ
「の」飲みすぎ注意!酒と料理でおもてなし
「ふ」フジの花房は最大9尺 愛称は「九尺藤」
「じ」地元かすかべの文化的サロン
今回は、あいうえお作文の「う」「し」について詳述します。
「う」浮世を忘れさせるフジの聖地
牛島のフジの庭園藤花園内には、紫雲館とよばれた料亭(貸席料理店)がありました。紫雲は藤の花を形容する表現のようで、後に総理大臣となる清浦圭吾(きようら けいご)が名付け、その扁額が飾ってあったそう。紫雲館では、料理が提供され、古利根川で獲れた川魚料理が提供され、「閑雅」な雰囲気だったといいます(小泉一郎『東武鉄道線路案内記』・明治37年刊)。また、最近発見した資料によれば、能登の和倉温泉の鉱泉を引き入れて、薬湯を開き、観藤客やその他一般にも入浴・宿泊できる施設があったとされます(昭和3年「史跡名勝天然記念物調査報告書」・埼玉県行政文書№昭15024)。東京からの訪れた来客は、見事な藤をみながら、日常では味わえない、しとやかで優雅のひと時をおくれたことでしょう。
「し」渋沢だけじゃない各界の著名人がやってきた
今回の展示会名称にもなっている、渋沢栄一は、粕壁に用件があった明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞しています。大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、埼玉の偉人とされることから、ご興味を惹かれた方も少なくないようですが、藤をみたのは「渋沢だけじゃない」のです。牛島のフジに訪れた著名人については、以前紹介したことがあります。ただ、これらはほんの一例にすぎません。様々な紀行文や新聞記事を調べると、まだまだ牛島のフジに関する記述がでてきます。
たとえば、明治38年(1905)5月23日には、伯爵会(華族会館に集うサークル)の例会として、華族の松平・徳川・真田などの諸氏が粕壁に遠足し、牛島のフジを鑑賞したそうです(「朝日新聞」明治38年5月25日号)。
牛島のフジは、太宰治(だざい おさむ)「斜陽」にも登場しますが、太宰が訪れたのかはわかっていません。様々な著名人が本当に訪れたのかを知るすべは限られていますが、近代(明治~昭和)の政治家や文化人にとって、牛島のフジは、私たちが思っているよりも有名だったととらえていただいて差し支えないでしょう。
こんな人も来ているという情報をお持ちの方は、ぜひご教示ください。
(つづく)
春日部と俳句 # 桜咲くかすかべ
# 桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
古利根川の遊歩道(古利根きらめき通り)には、いくつかの案内板があります。案内板の下半部に注目していただきますと、主に古利根川や春日部にちなんだ俳句が書かれています。すべてが当地で詠まれたものではありませんが、松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子、水原秋桜子、加藤楸邨等々の俳句は、川歩きをする人々へ心の彩りを与えてくれます。
春日部来訪者で1、2を争う著名人といえる松尾芭蕉(1644~1694)は、同行していた弟子の曽良の日記によると、元禄2年(1689)『奥の細道』の行程で日光道中粕壁宿に一泊したと考えられています(今日は何の日)。芭蕉が当地で詠んだ作品はありませんが、案内板には、大和国で詠まれた「草臥て 宿かるころや 藤の花」が選ばれています。想像をたくましくして、藤の花で有名になった現代の春日部へ、もしも芭蕉が訪れたとすると、このように藤花を愛でて句を詠んだかもしれませんね。
古利根川と古隅田川沿いを実際に歩いたのは、近代俳句では著名な2人の人物、水原秋桜子(1892~1981)と加藤楸邨(1905~1993)です。旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)へ昭和4年(1929)に新任で国語教師として赴任した加藤楸邨は、中学校の同僚教師に勧められて俳句を始め、安孫子医院(閉院)に月2回ほど東京から往診に来ていた水原秋桜子から俳句の指導を受けていました。句会が終了すると二人は古利根河畔を散歩して、俳句について論じあっていたといいます。加藤楸邨は、昭和12年に辞職し、俳句を志すため大学に進学し東京へと移ります。この間8年、夫人や子供たちとともに、古利根川と古隅田川の河畔を歩いたことでしょう。夫婦で散歩していて、生徒たちにからかわれたというエピソードも伝わっているようです。
*参考
平成6年 『第8回特別展 春日部ゆかりの文人たち(一)』パンフレット
平成10年 『第16回特別展 近代の俳人たちと粕壁 ~水原秋桜子・加藤楸邨と近代の俳人たち~』パンフレット
平成22年 『第41回夏季展示 俳人 加藤楸邨と粕壁』パンフレット
桜がつく地名 #桜咲くかすかべ
#桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
桜川小学校の桜並木 (2021年3月28日)
春日部には、南桜井駅や南桜井小、桜川小など、桜がつく施設名があります。
「南桜井」という言葉は、明治22年(1889)、それまでの下柳村、上柳村、上金崎村、金崎村、西金野井村、大衾村、永沼村の7村が合併して南桜井村となったことによります。昭和29年(1934)に、川辺村、南桜井村、富多村、宝珠花村の4村が合併して庄和村になるまで使われた地名で、現在では、駅名や小学校名に残ります。
この「桜井」は、中世末期ごろから、中川周辺の村々がまとめられて「桜井郷」といわれたことにちなみます。同じく明治22年、春日部市北部から杉戸町、幸手市にかかる細野村、屏風(びょうぶ)村、椿村、深輪(ふかわ)村、倉常村、芦橋村、木崎村の7村が合併した際に、やはり「桜井郷」にちなみ桜井村としました。合併した下柳ほか6村は、この桜井村の南に位置したので村名を南桜井村としました。
桜井村は、現在の越谷市の北部の地区でも、やはり「桜井郷」にちなみ、明治22年に誕生しています。なぜ「桜井」の地名が流行したのか確かなことはわかりません。しかしながら、明治20年代は靖国神社や東京都内の公園などにソメイヨシノが多く植えられた時代だそうです。(佐藤俊樹2005『桜が創った『日本』-ソメイヨシノ 起源への旅 』岩波新書)
春日部や越谷の人も、桜を意識し始めた時代なのかもしれません。
ところで「桜川小」の「桜川」は、何がもとになっているのでしょうか。
桜川小学校は、昭和50年(1975)4月、南桜井小学校、川辺小学校の児童増加により、それまで葛飾中学校があった現在の桜川小学校の場所に校舎をそのままに新しく設置され、学校名は、南桜井小の「桜」と川辺小の「川」をとって桜川小学校としました。葛飾中学校は、現在の位置に移転しました。
桜川小学校新設を伝える広報しょうわ昭和50年2月号
(クリックすると大きな画像がダウンロードされます)
ちなみに、現在の埼玉県内の「桜」がつく地名には、以下のものがあります。(角川日本地名大辞典編纂委員会1980『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店)
桜ヶ丘(深谷市)、桜木町(熊谷市、さいたま市、秩父市)、桜沢(寄居町)、桜町(熊谷市、行田市、川口市)
「桜」がつく地名は、意外と少なく貴重です。春日部市の「南桜井」や「桜川」は、現在は地名ではありませんが、♯桜咲くかすかべ には欠かせない名称だと思います。
「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。
3月28日、本来12月に行う予定でした「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。当日は、あいにくの雨模様でしたが、23名の方にご参加いただきました。
今回の考古学講座では、権現山遺跡の概要をお話ししたあと、実際に権現山遺跡の埋蔵文化財発掘調査報告書をみていただきながら、報告書の構成や図面の見方を説明させていただきました。何人かの方からは、「大変、勉強になった」とご感想をいただきました。
埋蔵文化財発掘調査報告書は、発掘調査成果の基礎的な情報が掲載されています。専門的な用語や図面がならぶので、最初に手に取った際は、なかなか読みにくい内容です。しかしながら、一定のルールに基づいて書かれているので、そのルールを覚えてしまえば、読み解くことが容易になります。
また、発掘調査報告書は、市立図書館や県立図書館、国立国会図書館などで閲覧することができますし、インターネット上で公開されているものや販売されているものもあります。ある遺跡のことをより深く知ろうと思った際には、発掘調査報告書をひも解くのが近道です。
考古学講座につきましては、新年度も定期的に開催する予定です。開催のお知らせは、こちらのほごログや広報かすかべでお伝えします。みなさまのご参加をお待ちしております。
#企画展 #渋沢栄一 もみた春日部の藤
#春日部市郷土資料館 では、令和3年4月13日(火)~5月2日(日)まで、ミニ展示(企画展)「渋沢栄一もみた春日部の藤」展を開催します。 #かすかべプラスワン
市の広報誌4月号の「かすかべ今昔絵巻」でも、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞したことを紹介しましたが、実は意外と知られていなかったことなので、驚いた方も多いのではないでしょうか。
渋沢だけでなく、跡見花蹊(あとみ かけい・跡見学園創始者)、清浦圭吾(きようら けいご・内閣総理大臣)、徳川昭武(とくがわ あきたけ・徳川慶喜実弟)、田山花袋(たやま かたい・小説家)など、近現代の著名な政治家や文化人も牛島のフジに訪れています。昭武は渋沢とパリに渡欧した人物としても知られていますよね。
この展示では、春日部のフジをめぐる歴史、そして、現代のまちづくりの歴史について紹介します。実は令和2年4月に開催できなかった展示のリバイバルでもありますが、その後、資料調査を進め、内容は少しバージョンアップしています。
今年は、コロナウイルスの影響により、藤まつり、藤テラスといった大型イベントが中止になっています。感染症対策に十分気を付けていただきながら、ご来館いただき、渋沢の足跡や郷土の歴史文化をお楽しみいただければ幸いです。
会期:令和3年4月13日(火)~5月2日(日) 開館時間は9:00~16:45
会場:春日部市郷土資料館 企画展示室(教育センター内)
入館料:無料
休館日:月曜日・祝日
関連イベント:4月17日(土)・25日(日)にミュージアムトーク(展示解説)を開催します。両日とも10:30~、15:00~(30分程度。申込不要)
<ご注意ください>
*新型コロナウイルス感染対策のため、皆さまの入館時にお名前と、連絡先のご記入をお願いしております。
**展示室内の入館者数の制限(30名程度)をしております。
***今後の新型コロナウイルス感染症拡大の動向によっては、展示・イベントが延期・中止となる場合があります。
市ホームページ、市教育委員会ホームページ、ほごログ等でお知らせします。
常設展プチ展示替その2ー貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました
郷土資料館再開にあわせ、先日、考古遺物の展示コーナーに、春日部市指定文化財の貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦(かいのうちいせきしゅつどしもうさこくぶんじのきひらがわら)を展示しました。
この瓦については、以前にもほごログでとりあげました。平成4年(1992)に行なわれた調査で発見された、下総国分寺で使われた瓦と同じ文様をもつ瓦です。
展示をご覧いただく際の注目ポイントは、上部表面の布目(ぬのめ)です。この瓦は「1枚作り」という技法で作られています。上部に凸部をもつ木製の台の上に粘土の板をのせ、上から木の板でたたきます。そうすることで、湾曲したしまりのある瓦をつくりあげています。台の上に粘土をのせる際、粘土と木製の台の間に布を敷きます。これは粘土を木製の台から離しやすくするためですが、その布のあとが、瓦の凹面についています。
瓦作りの技術は、仏教の伝来とともに、6世紀ごろ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わりました。瓦ぶきの建物を建設するために、大量の瓦を生産する必要があることから、「1枚作り」や「桶巻きづくり」といった技法が用いられました。
ちなみに軒平瓦の文様(もんよう)の部分は、本体部分とは別に作成し接合しています。文様は、削り出した木製の型を使って付けられています。貝の内遺跡出土瓦の文様からは、型にキズがあることが想定でき、下総国分寺で出土しているものと共通しています。
下総国分寺は、現在の市川市にありました。なぜ、市川市から遠く離れた貝の内遺跡で下総国分寺軒平瓦が出土したのかなど、まだまだ謎が多く、研究の余地が大きい瓦です。ぜひ資料館でご見学ください。
展示ケースに貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました。
瓦についた布目
参考文献
潮見浩 1988 『図解 技術の考古学』有斐閣選書
【3月27日】 #今日は何の日? in春日部
今から332年前の3月27日(旧暦)は、元禄2年(1689) #松尾芭蕉 が #春日部 に宿泊した日です。 #かすかべプラスワン
3月27日の明け方、江戸深川を出立した、松尾芭蕉は、弟子の河合曽良(かわい そら)とともに春日部に宿泊します(といっても、3月27日は旧暦。令和3年の暦では、5月8日にあたるようです)。
弟子河合曽良が残した「曽良日記」には、「一(ひとつ)、廿七日夜カスカヘニ泊ル、江戸ヨリ九里余」(原文は読点なし)とあります。「廿七日」は27日です。「奥の細道」の旅の一泊目の地は「カスカヘ」だったことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
曽良の「随行日記」により、春日部に宿泊したことが広く知られるようになりましたが、実は「カスカヘ」のどこなのかは依然として謎です。一説には、粕壁の東陽寺に宿泊したといわれ、境内には「随行日記」の一説を刻んだ石碑が建てられています(現代に建てられたものです)。もう一つよく言われるのが、小淵の観音院に泊まったのではないかという説です。これは、境内に芭蕉の句碑が建てられていることを根拠として唱えられるものです。句碑には「ものいへば 唇さむし 秋の風」と芭蕉の句が刻まれていますが、建立年代などの銘文がなく、いつ誰が建てたのか不明でした。
最近、各地の芭蕉墳(句碑)を紹介する「諸国翁墳記」(しょこくおきなづかのき)という近世中ごろに出版された本に、観音院の句碑のことが記されていることを見出しました。ここには「はせを墳 日光道中糟壁杉戸間 小淵村観音仁王門前 葛飾老茄園四世不牛建 ものいへは 唇寒し 秋の風」と記されています。観音院の句碑が、葛飾老茄園四世不牛という人物により建てられたことが判明したのです。この人物は、不牛ではなく、正確には「不干」(ふかん)と名乗り、内牧村南蔵院の修験者であり、文化・文政期を中心に俳諧を能くした葛飾蕉門の俳人でもありました。彼は、文化12年(1815)3月に葛飾蕉門(かつしかしょうもん)の名跡である老茄園を継いでいますので、この句碑が建てられたのは文化12年以降ということになるでしょう。
というわけで、観音院の句碑も、松尾芭蕉が観音院に宿泊したという決定的な証拠にはならないということになります。ただし、芭蕉の句碑は芭蕉を慕った津々浦々の人々によって、ゆかりの地などに「墳」(墓)とみなすものとして建てられ、碑とともにゆかりの品を埋納することもあったようです。観音院はどうだったのか、謎はますます深まるばかりですが、春日部市内のどこかに泊まったことは間違いないと思います。
前置きが長くなりましたが、長い臨時休館の間に収蔵資料を再整理する機会に恵まれ、館蔵のなかにも松尾芭蕉ゆかりの資料があることがわかりました。2つあるのですが、今回はその1つを紹介。
この軸は、荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本です。碑文には、「奥の細道」の矢立はじめの有名な一節、芭蕉の座像が刻まれています。文政3年(1820)10月12日に芭蕉忌に際して、書家として著名な亀田鵬斎(かめだ ほうさい)が銘文を、千住宿の文人建部巣兆(たけべ そうちょう)が座像を手がけたものです。この石碑は、現在は剥落がひどかったため、平成7年に復刻されているそうです。
碑文は、欧米では「フライング・ダンス」と称される、鵬斎独特の空を舞うような字体で書かれます。収蔵資料にも鵬斎書の薬種問屋の看板があります。石碑には、次のように書かれています。
「千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみだ
行はるや鳥啼き魚の目ハなみたをそゝく はせを翁
巳友巣兆子翁の小影をうつし
またわれをしてその句を記せしむ 鵬斎老人書」
この拓本は、近世中期に地域の俳人として活躍した石井文龍(ぶんりゅう)を輩出した家に伝来したものです。文龍は、葛飾蕉門の門人となり、寛政10年(1798)に二世「宜春園」の名跡を継いでいます。文政2年(1819)74歳で亡くなります。この拓本・軸は、直接文龍に関わるものではないようですが、「カスカヘ」に泊まった芭蕉の足跡や、後の蕉風俳諧の流行を伝える資料といえるでしょう。常設展示にすぐにでも出したいのですが、展示のスペースがないのが残念。
いつか、原物をご覧いただける機会を設けたいと思います。
参考文献 齊藤諒「『諸国翁墳記』研究ー諸本の出版年代について」『東洋大学大学院紀要』52、2015年
古利根~3つの名前を持つ河川~ # 桜咲くかすかべ
#桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
「古利根川(ふるとねがわ)」。
何ともノスタルジックな名前です。語義の通り、‘古い利根川’という意味です。利根川の変遷については、以前このブログで簡単にお話いたしました(春日部 利根川紀行)。
いったいいつから「古」となったのか、庄内古川の整備や江戸川の誕生など「新利根川」の誕生と関連があると思われますが、はっきりとした年代はわかっておりません。ただし通説では、上流に土手を築きしめ切ってしまうことで古利根川が利根川本流から切り離されていったのは、戦国時代末から江戸時代前期にかけての時期であると考えられています。
さて、この古利根川、国土地理院の地図を見ると「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」と書かれています。また、別名「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。古利根川の名称については、よく皆さまからご質問を受けますので、ここで簡単に説明いたします。
大落古利根川は、「大落」と「古利根川」の2つの名前を一括りにしたものです。「大落」とは、大きな落とし水、すなわち農業排水路のことです。江戸時代には「悪水路」とも呼ばれました。具体的には、江戸時代以降の河川改修により、古利根川は、騎西領、羽生領、向川辺領(いずれも、現加須市・羽生市・久喜市付近)の水田の落とし水(農業排水)を集めて水源としていたことから、「大落堀」と呼ばれていました。
「古利根川」はかつての利根川という意味ですが、正確にいつから「古」になったのかは、先述のように不明です。
一方で、古利根川は「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。聞きなれない方も多いと思いますが、「葛西用水」は、本来は、現葛飾区・江戸川区などにあたる葛西地域の水田へ、農業用の水を供給するため整備された農業用水路です。川俣(現羽生市)で利根川から水路を引き込み、はるばる東京の農地まで水を供給していました。春日部付近では、古利根川は長大な葛西用水の一部分として利用されていました。
春日部から下流に行くと、松伏溜井(まつぶしためい 現松伏町・越谷市 古利根堰)というダムがあり、夏季には用水を貯水していました。今でも夏季に古利根川の水位が上がるのは、このためです。こうした葛西用水の体系が確立したのは、江戸時代中ごろ、享保期のことでした。
このように、春日部付近の古利根川は、かつての利根川であり、上流からの農業排水路であり、下流への農業用水路でもあり、用水を確保するための貯水ダムでもありました。古利根川が持つ3つの名前は、こうした川の由来や機能を表したものなのです。
*参考 平成13年『第23回特別展(合同葛西用水展)古利根川の歴史と文化』パンフレット
再開初日。常設展プチ展示替
令和3年3月23日より、 #春日部市郷土資料館 が再開しました。 #かすかべプラスワン
再開初日、さっそく団体見学のお客様がお見えになり、約3か月ぶりに展示室がにぎわいました。
再開初日から常設展示もプチ展示替。
テーマは「遺らなかったかもしれない歴史~襖下張り文書の世界」と題して、収蔵資料の襖下張り文書(ふすましたばりもんじょ)を紹介しています。
昨年10月に福島県いわき市の方から電話をいただいたことが、この展示替のきかっけです。その方によれば、いわき市内の親戚の家を解体した際、襖の下から古文書が出てきたといいます。字は筆で書かれていてよく読めないが、「粕壁町」と書いてあるものが多いので、春日部市の郷土資料館に寄贈したいと申し出ていただきました。郵便で送付いただいたところ、粕壁町の公印や、町役場の罫紙を使用したものが多く、大半は明治時代の粕壁町役場の文書であることが判明しました。
紙が貴重だった時代、屏風や襖は、元の役割を終えた書類を再利用した反故紙(ほごし)が下張りに使用されました。下張りに使用されなければ、この世には存在しない「遺らなかったかもしれない歴史」だったかもしれません。
寄贈していただいた襖の下張りには、粕壁町の文書のほか、須賀村(現宮代町)役場のものや、福島県内の文書も混じっていました。おそらく、粕壁町や埼玉県内のくず紙が福島県方面に流通し、福島県の経師屋(きょうじや)によって襖が仕立てられたものと考えられます。寄贈していただいた方は、下張りをみて「貴重な史料だ」と思い、一枚一枚丁寧にはがしたそうです。「郷土の歴史のために地元で役立ててほしい」とメッセージをいただきました。
今回のプチ展示替は、福島県から届いた熱い想いをみなさんにご披露するものです。下張り文書は断片的で、ちょっとマニアックですが、これまでわからなかった歴史の一端を確実に伝える貴重な資料です。
暖かくなり、古利根川や粕壁宿の町並みを散策される方も増えてきているようです。町並みを散策される前に、郷土資料館にお立ちよりいただければ、まちの歴史や文化を知ってプラスワンな散歩になるのではないでしょうか。ぜひご覧ください。
令和3年3月23日から郷土資料館を再開します
新型コロナウィルス感染拡大防止のため令和3年1月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和3年3月23日から開館します。
なお、体験コーナーは一部利用できません。
3月28日(日)10:00から(当初予定12月26日(土)の振り替え)の考古学講座「権現山遺跡を探る」は、予定通り実施します。
春日部 利根川紀行 # 桜咲くかすかべ
#桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
春日部には、北から南に古利根川(ふるとねがわ)、庄内古川(中川)、江戸川が流れており、私たちに水の恵みをもたらしています。
こうした河川は、少なくとも歴史時代にはいずれも利根川であり、特に戦国時代の末から江戸時代の初めころ、おおよそ400年前ごろに行われたといわれる河道変更によって、利根川は銚子(現千葉県)へと流れるようになりました。庄内古川、江戸川は、いずれも利根川と称されていた時期があったようです。江戸川は、当初「新利根川」ともいわれていました。
また、利根川が国境であったことの名残りとして、武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)の国境、埼玉郡と葛飾郡の郡境は、時代によって変化していきました。
今日、桜を愛でることができる古利根川や古隅田川(ふるすみだがわ)は、古代・中世には利根川・隅田川であったと考えられています。当時の利根川は小渕付近で西側に折れ、おおむね現在の古隅田川筋を流れて、岩槻(現さいたま市)方面の元荒川へ流れていたと想定されています。今私たちの見る古隅田川の流れと真逆ですね。
この古隅田川や古利根川が国境・郡境であったことは、南北朝時代と室町時代の古文書で確認できます。約700年前、今の粕壁地区付近は春日部郷といわれており、市域の大半は下総国に属していました。江戸時代には、庄内古川(中川)を境に武蔵国に変わっています。
春日部では、このように時代によって違っていた利根川をまとめて見られます。川沿いにお花を見ながら、利根川の悠久の歴史を感じていただけると幸いです。
*参考 平成7年『第11回特別展 埼葛の歴史』展パンフレット
平成26年『第49回夏季展示 江戸川』展パンフレット
川沿いの桜 #桜咲くかすかべ
#桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
河川や水路が多い春日部市では、水辺に沿って桜が植えられ、お花見スポットになっている場所が多くあります。平成7年刊行の『春日部昔むかし』では、季節行事の「花見」の紹介にあたり、俳句の巨匠、加藤楸邨が句を詠んだ古利根川と古隅田川の合流地点のほか、古利根川の藤塚橋付近、八幡橋付近、古隅田川の南栄町付近を桜がみられる場所としてとりあげています。平成17年に庄和町と合併した現在では、庄和道の駅さくら公園から始まる庄内領悪水路沿いの桜並木も、川沿いの人気がある桜スポットです。
ところで、市内の川沿いの桜はいつ頃植えられたのでしょうか?過去の広報をひも解いてみました。植えられた時期が広報からはっきり読み取れたのは、「藤塚橋付近の桜」と、「庄内領悪水路沿いの桜」で、いずれも昭和60年であることがわかりました。
広報かすかべ昭和60年5月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)
「藤塚橋付近の桜」は、記事に「桜並木を復活させよう」とあるので、新しく植えなおしたことがわかります。
広報しょうわ平成4年3月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)
このほか、「古隅田川と古利根川合流地点の桜」は、古隅田川沿いと最勝院境内に、昭和29年の市制施行を記念して当時の商工会によって「観光桜」として植えられたものもあるそうです。(「かすかべ市議会だより」第28号 昭和52年5月)現在は、合流地点の桜は無く、十文橋西側の最勝院から春日部中学校裏に巨木が残ります。
古隅田川合流点の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)
十文橋西側の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)
「南栄町の古隅田川沿いの桜」は、内牧工業団地が昭和46年竣工なので、そのころに植えられたものでしょうか。
その他の桜は、植えられた年代がはっきりしません。しかしながら、広報をみていると、昭和62年に市民の方が「春日部には珍しい花見に出会いました。」(広報かすかべ昭和62年2月号)という文章を写真とともに寄稿しています。現在のように、市内のいたるところで桜の花がみられるようになるのは、意外と最近のことのようです。
ちなみに桜は樹齢約50年たつと、木の高さ約15m、幹の直径が約80㎝になるそうです。
この春は市内で、川沿いの風情ある立派な桜をどうぞお楽しみください。
参考文献
古隅田川土地改良区 1992 『古隅田川土地改良区記念誌』
臨時休館延長のお知らせ
新型コロナウィルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火曜日)から3月21日(日曜日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(3月7日までとしていたものを延長します。)休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、3月22日(月曜日)は通常の休館日です。今後の新型コロナウィルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を変更する場合があります。ご理解、ご協力をお願いします。
休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。
休館に伴い、下記のイベント、講座は中止します。
3月13日(土)・27日(土)古文書講座初級編・中級編
3月21日(日)体験ワークショップ 蓄音機で音楽を聴いて昔のおもちゃを作ってみよう
第37回小学校地域学習展「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」(会期 令和3年3月21日(日)まで)
【出張授業】「でばりぃ資料館」in備後小学校
令和3年3月4日(木)に備後小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
備後小学校では教室、低学年学習室、高学年学習室の3つの教室を利用して、それぞれ「60年前の春日部+昔の学校の道具」「昔の家の道具」「昔の農業」のコーナーを展開して開催しました。
「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーでは、近年と60年前の航空写真を用いて、現在の備後小学校の周りやイオンの周辺が、60年前にはどうなっていたかなどを比較しながら学習しました。
こちらは「昔の家の道具」コーナーです。
児童には黒電話や手回し洗濯機がいつも人気なのですが、アンケートを見ると意外にも「火のし」が印象に残ったと書いてあることも多いのです。「火のし」は穴に木炭を入れて金属部を熱し、現在のアイロンのように布のしわ伸ばしに使われていた道具です。
上の写真の左から2番目の道具が「火のし」なのですが、水をくむための柄杓にみえるという児童が多いようで、アイロンと同じ役割だったという意外性が印象に残るようですね。
「昔の農業」コーナーでは昔の米作り体験です。
稲の状態から手作業で玄米・白米にするには昔はどのようにしていたかを説明し、千歯扱きを使った脱穀体験や、籾摺り・米つき作業を簡易的に体験をしてもらいました。
「でばりぃ資料館」はまだまだ受付可能となっております!
早いもので今年度も残り1か月となり、学校の方も年度末で忙しい時期かとは思いますが、お電話と簡単な書類のやり取りのみで大掛かりな準備をしていだだく必要はございませんので、ぜひともご用命ください!
【出張授業】「でばりぃ資料館」in中野小学校
令和3年2月26日(金)に中野小学校へ出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
中野小学校では図書室を利用して「昔の家の道具」「昔の農業」の2コーナーを、3年生の各教室を利用して「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーを展開して開催しました。
図書室の「昔の家の道具」コーナーですが、道具のみならず、60年前・80年前の小学3年生の平均身長と比べられるパネルも持っていきました。背比べをしてみると、パネルよりやや大きい児童が多いようですね。
「昔の農業」コーナーでは、昔の米作り体験をしました。
説明の中で現代の米作りについて触れる部分もあったのですが、すでに学習済みの内容を含んでいるため、思い出してもらって復習することもできました。
でばりぃ資料館も開催後にアンケートをお願いしているのですが、やはり一度学習したことを思い出すことで記憶や知識の定着に繋がるので、復習する機会を与えることも大切にしていきたいと思っております。
教室での「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーは、2時間目は3年2組、3時間目は3年1組、といった具合で休み時間に資料を移動させて各教室で開催しました。
教室を活かして黒板に板書しながら解説し、耳から聞くだけでは頭で整理することが難しいことも、黒板に書いてあることで理解しやすくなったようです。
先生方からも「見学に行くのと違い、資料館が出張に来てくれることで、次の時間の授業がすぐに始められる」など感謝の言葉もいただき、ありがたい限りです!
コロナの関係で学校としても授業時間の確保が難しいことかと思います。だからこそ、“1時間でできる資料館体験”「でばりぃ資料館」をぜひご活用ください!
【出張授業】「でばりぃ資料館」in川辺小学校
令和3年2月19日(金)に川辺小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
川辺小学校では図書室を利用して「昔の家の道具」「60年前の春日部+昔の学校の道具」の2コーナーを、生活科室を利用して「昔の農業」コーナーを展開して開催しました。
図書室では机を移動していただき、空きスペースに60年前の春日部の航空写真を、移動した机をそのまま昔の学校の道具の展示台として活用しました。
今の児童が使うノートは紙でできていますが、昔は石板(せきばん)といって、まるで小さな黒板のようなものでした。石板は一回一回消しながら使うので、記録として残すことができず、復習をするのが難しかったかもしれません。
こちらも図書室です。長机をご用意いただき、昔の家の道具を展示・解説しています。
児童は職員の解説で印象に残ったことをメモしながらしっかり聞いていました。
自由時間になると、手回し洗濯機や黒電話など、回して体験できるものが大人気でした。
昔の農業は生活科室で体験しました。
児童からは「昔の苦労を知った」「こんなにいろいろ体験できると思わなかった!」という声が聞こえ、学習効果も満足度も高かった様子でした。
ありがたいことに、各学校から「でばりぃ資料館」のご予約を次々にいただいております!
体育館や、空き教室を3つご用意いただくのが難しい場合でも、今回のように、図書室などの広めの特別教室で2コーナーを展開して行うことも可能ですので、ぜひご相談ください!
資料も出張って活躍しています
先日、緑小学校では、1年生の国語「たぬきの糸車」の学習が行われました。子どもたちは、実物の「糸車」をみて、昔のくらしを想像しながら、楽しく作品の理解を深めてもらえたとのことです。
「でばりぃ資料館」が徐々に浸透・定着しつつあり、大変ありがたいことに、各学校に職員がお邪魔することが続いています。今回、緑小に出張ったのは「糸車」です。職員は付添いませんでしたから、いわば「糸車の一騎がけ」です。
意外と知られていないようですが、郷土資料館では、「糸車」のみならず、各種資料の貸し出しも(細々と)やっております。
「郷土資料館は狭くて展示資料も少なく活かせるものがないよ」とお思いの先生方もいらっしゃるようです。実は郷土資料館には展示室よりも広い収蔵庫には未だ展示しきれない資料が山ほどあります。なかには、学校の教材用としてご寄贈いただいたものもあります。詳しくは、ホームページの「学校の先生方へ」や「学校教材用貸出リスト」をご覧いただきたいのですが、ここに掲載している資料だけではなく、多彩な資料が本当にまだまだたくさんあります。たとえば戦時期の資料でも、海軍帽、配給切符、訓練用の手りゅう弾、出征時のタスキ・日の丸寄せ書き、軍の水筒、慰問の手紙、千人針などなど(ホームページの更新が望まれるところですね)。
学校にお邪魔して感じるところですが、子どもたちの成長過程や様子がわからず、不慣れな私どもがゲリラ的に授業をするよりも、先生方が資料を自在に自由に扱って授業を組み立てたほうが効果的な学習になるのではと思ったりもします。
学芸員や資料館が主たる「博学連携」は、とかく社会科学習に偏る傾向があります。資料館には「たぬきの糸車」のように様々な教科にもご活用いただける資料がまだ眠っています。そういう意味で、郷土資料館の潜在能力は未知数だと思います。私たちが思ってもみない資料の活用を提案・実践されることを期待しています。気軽にご相談いただければ幸いです。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in桜川小学校
令和3年2月16日(火)に桜川小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
でばりぃ資料館は、5つのテーマの中から学校の要望に合わせて3つを組み合わせて展示・解説を行う方式が基本の形です。
今回は、「60年前の春日部」「昔の家の道具」そして「昔のおもちゃ体験」を選んでいただきました。“おもちゃ”と聞くと、学習として活用しにくいと思われがちですが、実は児童自身が自分の経験と一番照らし合わせ易く、今と昔の違いを感じるにはもってこいのテーマといえるのです。
桜井小の先生は昔のおもちゃブースを見て、「これがもう資料なんですね」と呟いていました。
お気持ちよく分かります(笑)
今回は体育館での開催です。約60年前の道具と、今の家庭で使用している道具を比べて、機能や形状の違い、また動力の違いなどを解説しました。
車のトランクに若干の余裕があったため、昔の学校の道具も持って行かせてもらいました。
また、昔のおもちゃブースでは、学校でご用意いただいた新聞紙を使い、「紙鉄砲」の製作体験をしました。
今は遊びといえばもっぱらテレビゲームという児童も多いですが、からくりおもちゃを触ると大興奮!アナログなおもちゃにも子供心をくすぐる要素はたくさんあるものです。
賑やかでとても楽しそうな姿が印象的な桜川小学校3年生でした!
『でばりぃ資料館』のご予約はまだまだ受け付けております。新型コロナウイルス感染拡大防止対策をして開催いたしますので、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
出張授業 縄文体験教室 in 飯沼中学校
令和3年2月9日(火)に飯沼中学校で「縄文体験教室」の出張授業を行いました。
これまで「縄文体験教室」は小学校を対象に行ってきましたが、中学校での授業は今回初めて。
学年は中学1年生。
生徒さんたちは自分たちの身近な地域に遺跡や貝塚があること、春日部市に海が広がっていたことについて驚いていました。また史跡になった「神明貝塚」では、貝塚の特徴である海や川の幸のみならず身近なさまざまな食料資源を取り入れて生活を営んでいたことも学び、社会科の歴史教科だけではなく、生物学や人類学も縄文人の生活の解明に関連していたことを知っていただきました。
生徒さんがこちらからの質問に積極的に考え、答えたくれたので授業は大変盛り上がりました。
飯沼中学校の皆さま、ありがとうございました!
エア博物館 ぬりえがふえました
#エア博物館 #おうちで博物館 #ぬりえ
きょうどしりょうかんの、ぬりえがふえました。
おうちで、ぬりえをたのしんでください。
エア博物館 おうちでぬりえをしませんか(これまでのぬりえはこちら)
くりっくすると、PDF(ぴーでぃーえふ)ふぁいるをだうんろーどします。いんさつして、つかってください。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in南桜井小学校
令和3年2月5日(金)及び2月9日(火)に南桜井小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回のでばりぃ資料館は、なんと2日間開催!
1日目の2月5日には各クラスで航空写真や古写真を利用しながら、昭和時代の南桜井小学校周辺について学びました。
昭和前期の小学校の写真をみて、今と違うところを探してもらうと、建物の作りが現在と異なることや、服装・髪型の違いに気づき、とても驚いた様子。さらには、その写真が昔の南桜井小学校だと知ると、「えっ!?えっ!?」「これが!?」と大盛り上がりでした。
また、昭和40年の南桜井駅の写真では、駅舎に2階がなく、階段を上って別のホームに行くことができないことに注目してもらい、実は昔は反対のホームに行くには電車が来ていないときに線路を渡って反対側のホームに行っていたことなど、今の暮らしと比較しながら学んでもらいました。
2日目の2月9日には体育館で昔の暮らしや道具について解説を行い、その後、児童が4つに分かれた展示エリアを自由に見学しました。
こちらはでばりぃ資料館では今回が初出展となる昔の学校の道具ブースです。
教科書やランドセルの大きさが今とは異なります。また、昔の小学1年生の教科書はひらがなではなく、カタカナから習っていたことに驚いた様子でした。
読んでみて、触ってみて体験型の学習ですね!
ちゃぶ台の前では「ご飯だよ~」という声が!
昔の雰囲気・・・出てます!(笑)
南桜井小学校では2時間いただけたことで、より時間をかけてじっくりと学んでもらえたかと思います。
私たちも、毎回反省を重ねながら、よりよい資料館体験をしてもらえるよう思案しております。そのせいか、回を重ねる毎に少しずつ持ち運ぶ教材が増えていき、移動用の車に乗せることが困難になってきました(苦笑)
今回はテレビや新聞の取材もあり、コロナの中でも試行錯誤して教育を進める学校や行政の取り組みを紹介する良い機会となりました。
『でばりぃ資料館』のご予約はまだまだ受け付けております。新型コロナウイルス感染拡大防止対策をして開催いたしますので、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
臨時休館延長のお知らせ
新型コロナウィルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火曜日)から3月7日(日曜日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(2月7日までとしていたものを延長します。)休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、3月8日(月曜日)は通常の休館日です。今後の新型コロナウィルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を変更する場合があります。ご理解、ご協力をお願いします。
休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。
休館に伴い、下記のイベント、講座は中止します。
2月13日(土)古文書講座初級編・中級編
2月20日(土)体験講座「縄文土器から音楽を作るチャレンジ」
2月21日(日)体験ワークショップ 蓄音機で音楽を聴いて昔のおもちゃを作ってみよう
大衾(おおぶすま)って珍しい地名!?
言葉に地域差があるのと同様に、漢字にも特定の地域だけで通用する「方言漢字」がある
と紹介する『方言漢字 埼玉県編』(リーフレット)に、市内の地名「大衾」(おおぶすま)が紹介されました。
このリーフレットは、「八潮の地名から学ぶ会」という団体が発行するもので、県内で使用される「方言漢字」を紹介するものです。
同会によれば、「衾」のつく地名は県内でも数例あるそうですが、住居表示では「春日部市大衾」が県内唯一だそうです。
大衾の地名の由来については、つまびらかでありませんが、一説には「フスマ」は「フシミ(伏見)」と同語で、「フシミ」とは「うつみて見ること」。大衾は、下総台地から中川低地を見下ろすことのできる傾斜地なので、「大衾」と名付けられたといわれています(埼玉県地名誌)。
「大衾」の意味の真偽はともかく、地名がその土地の風土・環境、歴史・文化を体現していることは、いうまでもありません。そういえば、以前「中央」という地名がつくられ、古い地名が失われたことを紹介しました。
『方言漢字 埼玉県編』を発行された同会は、地名は土地の記憶であり、地域固有の宝、まちづくりに活かせるのだと提唱され、幅広く活動されています。このたび、同会のご厚意により『方言漢字 埼玉県編』をお分けいただき、郷土資料館に配架させていただくことになりました(なお、現在、郷土資料館は臨時休館中ですので、入り口付近のチラシラックに配架しています)。
ご興味がある方は、無料で配布していますので、ぜひお手にとってご覧ください。一風変わった「方言漢字」や珍しい地名が、県内でも多用されていることに驚かされますヨ。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in牛島小学校 4年生
令和3年2月3日(水)、牛島小学校に出向き、第4学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回のでばりぃ資料館は、社会科の県内の伝統・文化を学習する単元にお邪魔して、市内に伝わる古い建物や民俗芸能などを、写真や映像をつかって紹介しました。
授業では、まず、牛島小学校周辺のお寺や神社について、お寺と神社って何が違うのか、身近な寺社にも古くから伝わる貴重なモノが遺っていることを紹介しました。牛島に所在する女体神社や宝光院は通学路や家の近所の子どもたちが多くいました。女体神社は、なぜ女体という名前が付けられているか、よくわかっていないと話すと、自分たちで調べてみたいと話す子どもたちもいました。
つづいて、市内に伝わる獅子舞や神楽、指定文化財の建造物を紹介。市内とはいえ、いったことも聞いたこともない地区に伝わる文化財でも、郷土かるたの絵札になっているため、知っている子たちも多くいました。授業では、不動院野の神楽や倉常の神楽囃子のDVDを鑑賞し、長い年月をかけて、地域の人たちが伝えてきた民俗芸能の様子も見てもらいました。
こうした伝統的な民俗芸能、古い建造物であっても、失われてしまったものもあることを紹介しました。下の写真の下蛭田の獅子舞は、豊春地区の下蛭田に伝来した獅子舞でしたが、昭和39年(1964)を最後に舞われることはなくなり、平成6年(1994)に一度復活しましたが、現在では行われていません。なくなってしまったことは、誰かが悪いわけではなく、みんなの関心がなくなったり、価値を知らない人が増えたためです。失われていく文化財がある話題は、子どもたちにとって少しショッキングだったようです。
講師となった学芸員は、最後に「地元に獅子舞や神楽、古い建造物等があることを知り、興味を持ち続けてもらうことが、未来へと地域の文化を守り、伝えていくことになる」、と文化財保護課の職員らしいメッセージを伝え、授業を終えました。
少し難しかったかもしれませんが、「楽しかった」とか「詳しく調べてみたい」と話す子どもたちもおり、地元を見つめなおすきっかけになったのならば幸いです。
今回は、4年生の社会科の授業にお邪魔しましたが、新型コロナウイルス感染拡大防止対策をとったうえで開催いたしますので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
幸松地区公民館で神明貝塚の巡回展示を開催しています
長らく武里地区公民館にお邪魔していましたが、本日、2月2日より幸松地区公民館で神明貝塚の巡回展示を開催しています。
また幸松地区公民館のブログでも巡回展示開催の告知をしていただきました。ありがとうございます。
神明貝塚は幸松地区公民館より約8キロ北東の西親野井地区に位置する、3800年前(縄文時代後期)の縄文人のムラの跡で、令和2年3月に”国史跡”に指定されました。
貝塚と聞くと貝や魚の骨を連想し、縄文人の食生活も貝や魚を中心とした、偏っていたと思われがちですが、神明貝塚の特徴の一つに食料資源の多様さがあります。いったい縄文人がどのような動物や植物、魚、貝を食料として利用していたのか、またどのような暮らしぶりだったのか、展示をご覧になって下さい。
展示場所:幸松地区公民館 1階ロビー
展示期間:2/2(火)~5/9(日) ※月曜・祝日は休館
開館時間:8:30~17:15
予 約:不要(自由に見学できます)
※新型コロナウイルス感染拡大防止のため、見学に来られる際はマスクの着用、アルコール消毒などご協力をお願いします。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in幸松小学校
令和3年2月2日(火)に幸松小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回のでばりぃ資料館は、図書室で「60年前の春日部」、幸松ルームで「昔の家の道具」、理科室で「昔の農業」とテーマを分けて行いました。
使用する教室が3つとも特別教室なこともあって、児童もちょっといつもと違う気分で授業を受けられたのではないでしょうか。
幸松ルームは、幸松小学校がある地区の由来や古写真、歴史、伝説を紹介している、幸松小学校のオリジナルルームです。郷土資料館でお手伝いさせていただいて、平成27年(2015)に郷土資料室として整備いたしました。昔のコメ作りや生活の道具などの実物の資料も展示してあり、大人の方でも楽しめる部屋です。
60年前の春日部がテーマの図書室では、巨大航空写真や昔の春日部の風景写真だけでなく、人口データなどの数字も用いて、今と昔を比較しながら学習しました。
昔の家の道具がテーマの幸松ルームは郷土資料室として数多くの民具を設置してあり、今回、郷土資料館から手持ちした昔の民具も合わせて見どころたっぷりの教室になりました。
昔の農業がテーマの理科室では、機械化以前の米作りについて、どんな道具を使って米を白くしていたかを職員が説明しました。体験も取り入れて、頭だけでなく体も使って学んでもらいました。
児童に伝えたいことがたくさんあり、どうしても時間が足りなくなってしまうことも多いのですが、限られた時間でも工夫して学びを深めてもらえるよう、私どもも努力してまいります!
でばりぃ資料館をご利用いただいた学校には、児童へのアンケートのご協力をお願いしているのですが、アンケートには「また来てほしい」「資料館にも行ってみたい」という声も多数いただきました!
新型コロナウイルス感染拡大防止対策をとったうえで開催いたしております。まだまだ受付中ですので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
【出張授業】「でばりぃ資料館」in牛島小学校
令和3年1月27日(水)に牛島小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回のでばりぃ資料館は、教室で「60年前の春日部」、学習室1で「昔の家の道具」、学習室2で「昔の農業」とテーマを分け、3つの教室を使用し、児童がグループ毎に巡回する形式で開催しました。
60年前の春日部がテーマの教室では、航空写真を観察し、目印になるポイントにシールを貼りながら、当時の春日部市域の様子を学びました。
昔の家の道具がテーマの学習室1では、今ではほとんど目にする機会がなくなった“火のし”や、“黒電話”など、懐かしい家の道具を展示しました。
大人が見たら懐かしい道具も、児童にとってはむしろ新鮮に感じられたようです。
各学校に配布させていただいた「たんけんシート」で、しっかりと学びも深めてくれました。
昔の農業がテーマの学習室2では、稲についた籾の状態から手作業で白米にする体験を行いました。本来の精米の工程で使用していた道具とは異なる道具を使用していますが、体験をすることで、楽しさと昔の苦労も感じ取ってくれました。
各教室で体験を終え、満足そうに教室を出ていく児童を見ると、私どもも“来てよかったなぁ”と心から思います♪
現在、郷土資料館は臨時休館中ですが、ありがたいことに『でばりぃ資料館』のご相談をたくさんいただいております!今回はミニコミ誌の取材もあり、これから話題沸騰の予感です!
新型コロナウイルス感染拡大防止対策をとったうえで開催いたしますので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
【出張授業】「でばりぃ資料館」in八木崎小学校
令和3年1月22日(金)に八木崎小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
ちなみに、『でばりぃ資料館』とは、郷土資料館での展示や体験をお届けする出張授業のことです。
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、室内の換気、マスクの着用、適宜手指の消毒を行いながら授業をしました。
授業の前半は学芸員が児童全体に向けて昔の暮らしや道具について解説を行い、後半は児童が3つに分かれた展示エリアを自由に見学しました。
千歯扱きによる脱穀や、手作業での精米体験、約60年前の春日部を映した航空写真や、昔の生活の道具など、児童たちは楽しんで学びを深めてくれました。
千歯扱き体験では「気持ちよかった」「僕もやりたい」など昔の農作業を“楽しいもの”と感じた児童が多かったようです。
ただ、学芸員が「でもこの作業(脱穀)を1日中やるとしたら?」という質問になると、「大変そう」「かわいそう」といった意見も。
今と昔の便利さの違いを、感じ取ってくれたみたいです。
授業の最後には、児童から「楽しかったけど、もっと時間がほしかった」など、まだまだ体験し足りないといった声も聞こえ、興味・関心の高さを窺わせてくれました。
郷土資料館が臨時休館中の今だからこそ生まれた『でばりぃ資料館』!
今回の八木崎小学校では体育館を会場に使用させていただきましたが、各種教室や図書室等でも可能です。各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
【休館中だからこそ打って出る】でばりぃ資料館はじめました
感染症拡大防止のため市の各施設では「休館」「中止」「延期」の文字が踊る昨今。郷土資料館も、2月7日(日)まで臨時休館、この期間の様々なイベントも中止となりました。仕方がないことですが、教育委員会のブログにも「休館」「中止」「延期」の言葉が並び、ちょっと暗い雰囲気。
例年1・2月は、市内の小学3年生が連日、郷土資料館に団体見学で訪れるのですが、受け入れもままなりません。
そこで、郷土資料館では「でばりぃ資料館」と称し、小学校に館内展示資料と学芸員を出張させ、新型コロナ感染防止対策を十分に行ったうえで、子どもたちに館内見学を疑似体験してもらう試みを新たに企画してみました。
「でばりぃ資料館」の「でばりぃ」とは、和語の「出張(でばり)と英語の「delivery(デリバリー)」を掛け合わせた造語です。学芸員が学校に出張り、資料と資料館での体験をお届けすることを意味しています。子どもたちに親しみやすいように名づけました。「出張(でばり)」とは現在では「しゅっちょう」の読み方が一般化し、あまり読み慣れませんが、「戦いのために他の地域、場所へ出向くこと」の意もあります。コロナ禍で不透明な情勢が続いておりますが、郷土資料館は児童が地域の歴史や昔のくらしを学ぶ機会を確保するため、コロナ禍であっても攻めていきたい、との願いを込め命名したものです。
肝心の中身ですが、実は至って普通の出張授業です。ですが、授業に学芸員が出張するのでなく、あくもでも、資料と資料館での体験をお届けすることを主眼とし、郷土資料館を知ってもらうことをねらいとしています。児童のみなさんには楽しみながら学んでいただき、郷土に関心を持つきっかけになればと考えています。
「でばりぃ資料館」では、あんな資料やこんな資料を持ってきてほしい、こんな体験をやってみたい、など、ご要望にできる限り応えます。以前の出張授業はこんな感じでした。
持参する資料としては、こんなものを考えています。
もちろん、感染症対策は徹底しますので、ご安心ください。
ぜひとも、学校の先生方には、資料と資料館をご活用いただけますよう、ご相談いただけると幸いです。
【臨時休館】令和3年1月5日(火)から2月7日(日)まで休館を延長します
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火)から2月7日(日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(1月17日までとしていたものを延長します。)なお、2月8日(月)は通常の休館日です。
休館中は、展示室にご入館いただけません。今後の新型コロナウイルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を延長する場合があります。ご迷惑をお掛けいたしますが、ご理解、ご協力をお願いします。
休館に伴い、以下のイベントを中止します。
1月16日(土)古文書講座初級編/中級編
1月24日(日)体験ワークショップ
なお休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。