【7/7まで新収蔵品展】上蛭田村の高札
7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。
「新収蔵品展」では、上蛭田(かみひるた)村に掲げられていた高札を展示しています。この高札は、享保6年(1721)に出されたもので、幕府の鷹場内で鉄砲をうつことや鳥をとることを禁じたものです。
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高札は江戸時代から明治時代の初期、幕府からの法令などを示すために、人々が往来する場所や名主の屋敷内に掲げられました。墨で書かれた文字が薄くなった場合は、許可をとって墨入れをしますが、この高札も、最初に掲げられた年から122年を経た天保14年(1843)に墨入れしたと、裏面に記されています。
高札裏面の墨書
高札は、例えば粕壁宿では、高札場が日光道中と岩槻の方面への道が分岐する辻に建てられ、文化元年(1804)には下記のような高札が掲げられていたと記録されています。
①「親子兄弟夫婦を始」
②「切支丹宗門御制禁」
③「粕壁宿より駄賃并(ならびに)人足賃銭」
④「毒薬并(ならびに)似せ薬種」
⑤「駄賃并(ならびに)人足荷物之次第」
⑥「火を付るもの」
⑦「鷹番之義」
⑧「在々ニ而鉄砲打候もの」
⑨「何事によらすよろしからさる」
⑩「当未正月より来ル辰十二月迄拾ケ年駄賃壱割五分増」
⑪「当戌十月より来寅十月迄五ケ年之内賃銭三割増」
参考:春日部市郷土資料館収蔵資料紹介:鷹番廃止の高札
『春日部市史近世史料編Ⅱ』P.801~
また江戸時代、江戸の外縁部は、幕府の鷹場(たかば)に設定されており、春日部市域周辺は、鷹場の中でも「捉飼場(とらえかいば)」として、将軍の鷹を訓練する場所として使われていました。
春日部市域に鷹場に関するとりきめを記した高札が多く残るのは、このためです。
鷹番廃止の高札については、過去の記事でもとりあげました。
ほごログ過去の記事:鷹番廃止の高札『新編図録春日部の歴史』ーその75
上蛭田村高札の釈文、読み下しは以下の通りです。
(釈文)
定
在々にて若鉄炮打候
もの有之候ハヽ申出へし幷
御留場之内にて鳥を
取申もの捕候歟見出し
候ハヽ早々申出へし
急度御褒美可被
下置者也
享保六年二月
裏面
天保十四卯年正月書入
武州埼玉郡
上蛭田村
(本文部分の読みくだし)
さだめ
ざいざいにて、もしてっぽううちそうろう
ものこれありそうらわば、もうしいずべし、ならびに
おとめばのうちにてとりを
とりもうすものとらえそうろうか、みいだし
そうらわば、そうそうもうしいずべし
きっとおほうび
くだしおかるべきものなり