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【7/7まで新収蔵品展】兌換制度と一円札

新収蔵品展は、いよいよ7月7日(水)までです。みなさまのご来館をお待ちしております。

さて、新収蔵品展では、市民の方から寄贈頂いた武内宿禰(たけうちのすくね)の肖像と「日本銀行兌換銀券(だかんぎんけん)」と印字された1円札を展示しています。

武内宿禰1円札

貨幣(かへい)は、商品の交換手段であり、それ自体が価値をもつ金、銀が金貨、銀貨として使われていました。しかし商品の流通が拡大すると、貨幣が不足します。これに対応するため、中央銀行が、金貨、銀貨の準備金を用意し、兌換(だかん・紙幣と金銀の交換)をおこなうことを保証することで、紙幣が金銀と同じ価値をもち、信用力が上がります。兌換紙幣(だかんしへい)はいっせいには金銀に交換されないため、準備金を超える紙幣が発行でき、その増減をはかることができます。金に兌換する紙幣が流通することを金本位制、銀に兌換する紙幣が流通することを銀本位制といいます。

日本の明治時代から昭和時代はじめまでは、近代的な兌換制度が採り入れられた時代であり、明治22(1889)年からから昭和17(1942)年まで発行された武内宿禰(たけうちのすくね)の銀兌換の一円紙幣はその象徴的な存在でした。

明治政府は、明治4(1871)年、近代的な貨幣制度を整えるため、大阪に造幣局(ぞうへいきょく)を作り、新貨条例(しんかじょうれい)を発布(はっぷ)して、金1.5gを1円と定め、円、銭(せん)、厘(りん)の単位による十進法(じっしんほう)の通貨制度を採用、金貨、銀貨、銅貨を発行しました。明治5(1872)年、国立銀行条例が制定され、金兌換(きんだかん)の国立銀行券が発行されました。

ところで、この貨幣制度と国立銀行を準備して整えたのは、当時明治政府の大蔵省で働いていた渋沢栄一です。こうした縁もあり、渋沢栄一は令和6(2024)年から一万円札の肖像として採用されています。なお、このとき成立した国立銀行は、国の法律や制度によって成立した民間の銀行といった意味で、今の日本銀行ではなく、第一銀行から第百五十三銀行まで番号を付されていました。

明治15(1882)年、松方正義(まつかたまさよし)により日本銀行が設立し、明治18(1885)年、日本銀行から銀兌換(ぎんだかん)紙幣が発行されました。当時、中国や東南アジア諸国、メキシコ等、銀本位国との貿易が盛んになっており、日本も準備金を銀で用意していたことから、銀本位制が採用されました。明治22(1889)年には、武内宿禰があしらわれた銀兌換の一円紙幣が発行され、番号が漢数字で書かれます。

日清戦争(にっしんせんそう)後、多額の賠償金を得た日本政府は、明治30(1897)年、貨幣法を交付し、金本位制を採用しました。世界的に金の価値が高まっていたことから、これまでの倍の価値となる金0.75gが1円に変更されました。しかしながら、一円紙幣については、兌換される金貨が製造されなかったため、銀兌換券の発行が続けられることになりました。大正5(1916)年から発行された一円紙幣は、それまでの一円紙幣と武内宿禰を用いたデザインは共通するものの、番号がアラビア数字で書かれ、昭和17(1942)年まで発行されました。実に53年間、同じデザインの1円紙幣が発行されました。

このころ、写真技術の発達とともに紙幣の偽造が横行し、その対策として、すかし技術や写真に撮影しづらい淡い色合いで印刷する技術が発展しました。

 昭和6(1931)年、金貨兌換停止、昭和17(1942)年金本位制廃止、翌昭和18年、不換紙幣の発行により、日本は管理通貨制度へ移行しました。

 参考文献

新出隆久2019 「近代の貨幣制度と銀本位制の確立まで」『日本史かわら版』第7号 帝国書院

新出隆久2019 「金本位制の確立と展開」『日本史かわら版』第8号 帝国書院

松村記代子2012「日本紙幣の沿革」『日本印刷学会誌』第49巻第2号

 ○7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。

◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要

 

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