春日部の桐細工の起源と伝承について(その1)
夏季展示「桐のまち春日部」展が、新聞各紙に取り上げられ、少なからぬ反響をいただきました。そこで数回にわけて春日部の桐細工の起源の伝承について、補足説明させていただきます。 #かすかべプラスワン
以前にも紹介したとおり、春日部の桐細工の起源については、史料的には安永7年(1778)以前には遡ることができません。
現在、『春日部市史 民俗編』が言及するように、江戸時代初期に東照宮造営に加わった工匠たちが、帰りに粕壁に住み着いたことが始まりという伝承がほぼ定説として扱われています。ただ、日光東照宮の工匠を起源とする言説は、あくまで「伝承」「伝説」であり、確固たる証拠がありません。
今回の展示にあたり、この「東照宮の工匠伝説」がいつ頃までさかのぼれるのかを検討してみました。春日部の桐産業が大きくなる明治後期以降の様々な資料を博捜しましたが、管見の限り「東照宮の工匠伝説」の初見は、どうやら『春日部市の史跡と観光』(昭和42年・春日部市観光協会発行)という冊子で、次のような記述がみえます(以下引用。誤字等の表記は原文のママ)。
春日部の桐箪笥 県内の桐タンスは春日部と川越が主産地になっております。春日部のタンスの発祥は遠く徳川時代大名の参勤交代の砌衣装入れとして桐長持を使用していた。その頃京都から移住せる工匠があり長持に工夫をこらして引出しをつけたものを作成した。これが箪笥の初めと伝えられている。(以下略)
桐小箱 徳川時代関西方面から日光山造営に参加した工匠の一部が当地に溜り、小道具の整理箱、箱枕等の製造をタンスの不用材を利用して初められたのが起源であって、明治に至りライオン歯磨本舗考案の桐製歯磨箱の登場により容器箱として新しく飛躍し、(以下略)
しかし、興味深いのは、桐箪笥が「京都からの工匠の移住説」であるのに対し、桐箱は「日光山造営の工匠の移住説」とされている点です。桐箪笥の起源については、同じ昭和40年代の資料にも「京都からの工匠の移住説」が唱えられており、おそらく戦後~高度経済成長期にかけて、桐箪笥業界では「京都からの工匠の移住説」が有力もしくは定説化されていたのだろうと考えられます。
その後、昭和50年3月に春日部市で発行した『春日部の特産品』という冊子では、その起源について、次のように説明されてます。
桐箪笥 春日部タンスといえば東京タンス、東京タンスといえば総桐タンス。いまでこそ全国にその名をとどめているこの春日部のタンスも、発祥の歴史をたどれば300余年前のむかしにさかのぼる。日光東照宮のご造営がおこなわれたおり、全国各地から名うての工匠たちがかり出された。そのころ、京都からやってきた一人の工匠が春日部の桐材を利用して長持ちをつくり、工夫をこらして引出しを加えた。これが大変な好評を博し、その後、春日部にタンスの生産が定着することとなる。(後略)
桐箱木工品 桐材を利用した小箱類などの木工品が春日部に発祥した由来とその時期は、桐タンスと全く同じくする。すなわち、日光東照宮造営の徳川期に工匠の一部木工関係者が春日部に住みつき、桐材でつくる家具調度品の残木を生かして、庶民階級向けの小さな日用品をつくったのである。硯箱、文庫、整理箱、箱枕などがそれである。(後略)
おおざっぱにいえば、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播し、採用されます。図書によっては、3代将軍家光の時であるとか、5代将軍綱吉の時であるとか、説明するものも現れていきます。
なぜ、「東照宮工匠伝説」が伝播していったのか、理由は定かではありませんが、昭和40年代以降、日本人の生活様式が変化していくなかで、桐箪笥の需要が伸び悩み、職人さんたちが桐箪笥づくりの「伝統」を自覚・自負するなかで、「伝説」が語られ、広まっていったのだろうと考えられます。
「東照宮工匠伝説」については、関連史料がないことから、真偽はまったく不明です。ただ、桐細工との関係は不明ですが、市内に東照宮造営の図面を伝える旧家があったことや、伊勢神宮のある伊勢国を本貫地とする旧家があることなど、今後検討されなければならない課題もあります。東照宮の関連史料や旧日光街道沿いに伝わる類似の「伝説」についても、あわせて検証が必要です。
次回は、「東照宮工匠伝説」を揺るがした(!?)、新発見の大正13年の論文について紹介し、春日部の桐細工の起源について、さらに検討してみたいと思います。
関連する企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。