ほごログ(文化財課ブログ)

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【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】昭和38年4月5日埼玉新聞の記事

権現山遺跡の第1次調査は、昭和38年4月2日から4日に行われました。埼玉新聞の取材を受け、翌4月5日には、旧大滝村(現・秩父市)三十場(みそば)で調査された遺跡と合わせ、紙面に大きく掲載されました。

記事では「底にあながあけられている」ことは明記されていませんが、「ハニワ(埴輪)ツボ」と表現され、実用のものではなく、埴輪のように祭祀に使われたものだと書かれています。

また、米島や西親野井、松伏町の築比地(ついひじ・記事中の「ついへじ」は誤り)、杉戸町豊岡でも遺跡が発見されていることが書かれており、これは米島は米島貝塚、西親野井は神明貝塚、杉戸町豊岡は目沼浅間塚古墳(めぬませんげんづか古墳)の調査を示しています。松伏町築比地の「昨年石オノ」との記述はどの遺跡かわかりませんが、築比地地区では、昭和29年(1954)に、栄光院貝塚の調査が行われています。

昭和38年4月5日埼玉新聞

昭和38年4月5日埼玉新聞

 

(記事全文)

考古資料各地からぞくぞく 庄和村から発掘 土器など原型のままで

 北葛庄和村で古墳時代の土器多数がほとんど原型のまま発掘され、考古学研究に貴重な資料がそろったと関係者を喜ばせている。出土したのは同村中野通称”権現山台地”で、同所農業、横川四郎さん(五五)ら六人の所有地六千平方メートルを畑にするため、さる三月末からブルドーザーでけずりとっていたところ、地表下一メートル前後のところから土器数個が出てきたので工事関係者が同村葛飾中、横川好富教諭(二五)=国学院大日本史学専攻=に連絡、国学院大の学生と同中学生数人の協力を得て、三日から現場の下調べをかねて出土品をとり集めた。

 この結果四日までに土器と什(じゅう)器など二十余点がみつかったが、土器、什器とも素焼きのウツワで、大きいのは直径一〇センチ、平均七、八センチあり、ほとんど原型のまま出土した。同教諭はこれを県文化財保護委の柳田敏司係長にみせたが、土器は三、四世紀の古墳時代(今から千五、六百年前)のもので、土器のうちハニワ(埴輪)ツボは当時の住民が祭し(祀)用に使ったものと推定され、県下では松山についで二度目の出土器だという。

 この近くの同村米島と西親野井では、さきに縄文(じょうもん)土器、松伏村築比地(ついへじ)では昨年石オノ、杉戸町豊岡では数年前に前方後円墳が発掘されており、住民がいたので、このほかにも考古学の資料が出土するのではないかと期待されている。

(昭和38年4月5日埼玉新聞)

 

<開催中>春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

 

(関連イベント)

<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」

権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。

講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)

日時:9月2日(土)14:00~16:00

場所:教育センター視聴覚ホール

対象:定員100人(申込順)

費用:無料

申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか

 

<参加自由>ミュージアムトーク

企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。

日時:8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)

場所:郷土資料館企画展示室

費用:無料

申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。

 

【体験ワークショップ】ペーパーローリングを作ろう!

7月30日(日)に体験ワークショップを開催します。

体験ワークショップでは、蓄音機の上演、紙芝居、昔のおもちゃづくりをします。

今回作る昔のおもちゃは「ペーパーローリング」です。

 

ペーパーローリング

昨年度の最後(令和5年1月)のワークショップで作ったおもちゃもペーパーローリングだったのですが、今年度は初回で作ることにしました。

というのも、ペーパーローリングは1980年代頃にお祭りや縁日で販売され大流行した商品とのことで、“お祭り”といえば“夏”という安直な発想から、この時期に作ってみようと思いました!

ペーパーローリング遊び方

私も子供のころ、「不思議なおもちゃだなぁ~」と思いながらよく遊びました。

部屋の照明から垂れ下がっている紐を狙って“シュッ”っと。この感覚、今の子どもたち果たして伝わるでしょうか(笑)

 

簡単な作りなのに、ついついハマって遊んでしまうペーパーローリング!

一緒に作って遊んでみましょう♪

 

申し込み不要、おもちゃの材料は資料館で用意しています。

当日の午前10時30分と午後2時からの計2回開催しますので、お時間までに郷土資料館にお越しください!

 

【体験ワークショップ】

日時:令和5年7月30日(日)午前10時30分~・午後2時~

場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)

内容:蓄音機と紙芝居の上演

   昔のおもちゃづくり(ペーパーローリング)

費用:無料

申込:不要(開催時間までに郷土資料館にお越しください)

【令和5年夏季展示】あなのあいた壺はじまりました

7月22日(土)より、権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」展が始まりました。

第68回企画展示チラシ

 

開催初日の本日は、午前、午後とミュージアムトークを行いました。ご参加いただいた方、ありがとうございました。

ポスターやチラシに載せている赤い壺は、権現山遺跡の底部穿孔の壺で、高さは13.7㎝です。ポスターやチラシでは、一見、大きそうに見えてしまうこともあり、実際、会場で実物をご覧いただいた方からは「かわいい壺」との感想を頂きました。ミュージアムトークはこのあと、8月19日(土)と9月3日(日)に予定しています。

ミュージアムトーク

 

また、「小さな壺に色を塗って大きな壺にはろう」というコーナーを設けています。実際の権現山遺跡の底部穿孔壺の実測図のコピーに、好きな色を塗って、同じ壺の大きな実測図に貼っていただくものです。

初日だけで、カラフルな壺がたくさん貼られました。

小さな壺に色を塗って大きな壺に貼ろう作業

小さな壺に色を塗って大きな壺に貼ろう

「あなのあいた壺」展は、9月3日(日)までです。関連イベントも実施します。 ぜひご来館いただき、あなのあいた壺の実物をご覧ください。

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

(関連イベント)

●記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」

権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。

講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)

日時:9月2日(土)14:00~16:00

場所:教育センター視聴覚ホール

対象:定員100人(申込順)

費用:無料

申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか

 

●展示解説講座

古墳時代の権現山遺跡出土底部穿孔土器を中心に、弥生時代の須釜遺跡の資料などについて、郷土資料館学芸員が解説します。

講師:郷土資料館学芸員

日時:7月29日(土)10:00~12:00

場所:教育センター視聴覚ホール

対象:定員50人(申込順)

費用:無料

申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか

 

●ミュージアムトーク

企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。

日時:7月22日(土)、8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)

場所:郷土資料館企画展示室

費用:無料

申し込み:不要

不動院野の神楽~鷲香取神社夏まつりでの公開~

  夏休みまであとわずか・・・・小学生や中学生の浴衣姿が多数みられた内牧地区の鷲香取神社で夏まつりが7月18日に開催されました。例年、春日部夏まつりの後、そして夏休み直前という日程ですが、かき氷、金魚すくいなど、なじみの出店と提灯が境内に並び、懐かしい雰囲気を醸し出していました。

 

 その中で、境内南側にある神楽殿で市指定の伝統芸能、不動院野の神楽が公開され、祭り囃子をはじめ、おかめひょっとこ、大黒様、獅子舞などの演目が演じられ拍手喝采をいただいていました。

 

 

 

 

 

 

 特に縁起物の獅子に頭をかじられると無病息災になると伝えられているため、新生児をはじめ小学生が列をなし、代わる代わる、また中にはこわごわと頭を出す児童もみられました。

民俗芸能を継承する団体は地元のお祭りに限らず、他地域のお祭りにも出演し活躍しております。

暑い中、ありがとうございました。

市内各地域で伝統芸能が公開されました!!

 連日の猛暑が続いていますが、7月15日(土)、16日(日)には市内各所で埼玉県や春日部市の指定文化財(無形民俗文化財)が公開されました。コロナ渦でほぼ4年ぶりの公開となる伝統芸能もあり、地域の皆さまの不断のご協力とご支援のもと次世代の子供たちへ伝統の舞が継承されております。

 埼玉県の文化財に指定されているやったり踊りは15日午後8時スタート。大畑香取神社で小中学生の小若、成人の若衆による扇子踊りと手踊りが奉納されました。小若の中学生にとっても4年前は小学生低学年。当時の経験を思い起こしながら若衆の指導のもと、本番に臨むことができました。若衆のみなさんも連日の指導に加え自らの舞を仕上げてくれました。

 

市内東部、江戸川沿いの西金野井香取神社では、県指定の西金野井の獅子舞が16日(日)に公開されました。

 

午前からさんさんと照り付ける日差しでしたが、今年出産された女児双子ちゃんが太夫獅子からのお祓いをいただいていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西金野井の獅子舞では、春から練習を重ねている南桜井小学校の伝統芸能クラブの皆さまも祭礼に加わり、練習の成果を披露。暑い中、初めて獅子頭を被り、熱演してくれました。保存会の皆さまは午前10時前から夕刻までの長丁場、数々の演目を披露、最後には神社拝殿で注連縄を切る「注連切り」を舞い、終演となりました。

榎区の集会所では、市指定の榎の囃子神楽が公開され、軽快な祭り囃子と共に、女性の大黒さまと高校1年生による獅子舞が披露されました。獅子役の高校生はお父さんと役替りし太鼓を、祖父は笛を奏でると、親子三代で共演いただきました。

 

 豊野地区では、越谷市下間久里の獅子舞から伝承された2つの獅子舞が同日に奉納舞が行われました。4年ぶりの公開となった赤沼の獅子舞では、子ども獅子と女性の舞手が勇壮な舞に加わりました。そして太夫獅子による弓くぐりも行われ、五穀豊穣、疾病退散が祈願されました。

 

 そして赤沼と同系列の銚子口の獅子舞でも勇壮可憐な三匹獅子が披露。今夏でも女性の舞手が小獅子役を担い、優美な舞を演じていただきました。

市内の伝統芸能の夏季の公開はこの二日間、10月にも各所で奉納舞が公開されます。子供たち、そして女性と新たな世代の後継者が伝統の舞を受け継いでいますので、ぜひ、現地へ足を運んでみてはいかがでしょうか。  

 

 

【令和5年夏季展示予告その6】須釜遺跡の底部穿孔土器

須釜遺跡3号再葬墓出土底部穿孔土器

3号再葬墓出土底部穿孔土器の底

須釜遺跡3号再葬墓出土底部穿孔土器

 

須釜遺跡は、倉常の中川(庄内古川)左岸の水田地帯で、周りより1~2mほど標高が高い自然堤防と呼ばれる微高地に立地します。これまでに3回の発掘調査が行われ、1・2次調査では、古墳時代前期の竪穴状遺構や包含層、近世の屋敷跡が確認されています。3次調査は、平成13年(2001)に土地所有者が耕作作業をしている際に弥生土器が発見されたことがきっかけとなり行われました。弥生時代中期の11基の再葬墓と呼ばれる墓跡と、それに伴って約30点の完全な形に近い弥生土器が発見されました。須釜遺跡の出土遺物は平成17年に埼玉県の有形文化財に指定されました。

 

須釜遺跡の底部穿孔土器は3号、4号、6号、7号再葬墓から出土しています。壺以外に、甕や筒形の土器も穿孔されています。いずれも焼成後の穿孔です。底の外面(下側)に何かを当てた痕跡がないことから、内面(上側)からあなをあけているものと考えられます。

須釜遺跡7号再葬墓出土土器

須釜遺跡7号再葬墓出土土器底部

須釜遺跡7号再葬墓出土土器内面

須釜遺跡7号再葬墓出土土器(側面、底面、内面)

 

ほかの再葬墓の遺跡でも底部穿孔土器が出土することはあるものの、須釜遺跡のように多くの土器が穿孔されることはありません。須釜遺跡の再葬墓は、お墓の形が再葬墓から方形周溝墓に移り変わる時期に営まれたと考えられており、そういった時代背景から底部穿孔土器が多く出土している可能性も考えられます。

 

須釜遺跡については、下記の記事などもご覧ください。

【常設展】須釜遺跡出土土器を展示替えしました

須釜遺跡再葬墓出土遺物一括-指定文化財でめぐる春日部

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

 

#納涼 ミュージアム #スタンプラリー

暑い日が続きますね。暑い日は、お近くの博物館に涼みに。そして、ぜひご家族で近隣の博物館巡りをしてはいかがでしょうか。 #博物館 #かすかべプラスワン #クールオアシス #夏休み

画像:スタンプラリー台紙

7月15日から始まった「彩の国東部・北部ミュージアムスタンプラリー」は、春日部市郷土資料館を含む博物館24館園のスタンプラリー。中学生以下の方のみ参加可で、スタンプ3つ集めれば粗品。6つ集めればオリジナル埴輪貯金箱をプレゼント。最西端は神川町から、最南端は三郷市まで24館園が参加しています。24館園のなかには、まちのクールオアシスとして協力している博物館もありますので、涼みながら、各地域の特色を知り、学べます。 

スタンプの台紙はこちらからR5_埼博連スタンプラリー台紙.pdfダウンロード・ご利用できます。春日部市郷土資料館は、多種多様なスタンプを用意していますが、台紙におすのは1つまでなのでご注意を。

 

事業名:彩の国東部・北部ミュージアムスタンプラリー

主催:埼玉県博物館連絡協議会東・北部地域連絡協議会

期間:令和5年7月15日(土)から10月1日(日)景品がなくなり次第終了

参加加盟館園:埼玉県東・北部の博物館24館園

対象:中学生以下の方

【令和5年夏季展示予告その5】権現山遺跡の大口径羽口

奈良時代~平安時代の竪型炉に伴う大口径羽口

権現山遺跡で発見された大口径羽口(写真のように置いた時の縦の長さ19㎝)

 

昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査では、奈良時代から平安時代の大口径羽口(だいこうけいはぐち)が発見されています。羽口とは、鉄を加工する炉の内部に、火の力を強めるために空気を送り込むための送風管のことです。粘土で作られており、火を受けた跡や溶けた鉄が付着していることが確認できます。

今回ご紹介する羽口はとても大きいもので、大口径羽口と呼ばれています。大口径羽口は、砂鉄から鉄を作るための竪型炉(たてがたろ)に装着されたものです。権現山遺跡では、このほかにも、製鉄(製錬・せいれん)にともなう炉壁(ろへき)や鉄滓(てっさい)が、総量34435.2g出土しています。

 

竪型炉の本体は発見されておらず、資料が集中して出土した場所は、廃材を捨てる排滓場(はいさいば)であったと考えられます。大口径羽口などの特徴から、時代は、8世紀後半から9世紀前半と推定されています。

春日部市周辺では、製鉄(製錬)の工程に関する遺跡は現在のところ、この権現山遺跡のみです。鍛冶(鉄を製品にしあげる)の工程の遺跡は、松伏町の本郷遺跡や市内米島の吉岡遺跡、宝珠花の町道遺跡、小渕の小渕山下遺跡で発見されています。

この大口径羽口の出土により、権現山遺跡周辺で、砂鉄を原料とした製鉄を行っていたことが推定できます。

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

春日部市郷土資料館7月の休館日

休館日にご注意ください。Please note 请注意 주의해 주세요  #Closed #休馆日 #휴관일

7月の休館日は、3日(月)・10日(月)・17日(月・祝)・18日(火・祝日の翌日)・24日(月)・31日(月)です。

Closed Mondays and July 18

休馆日 周一 7月18日

휴관일 월요일 7월18일,

休館日に、外国の方がスタンプラリーで来館されていると聞いています。ご注意ください。

画像:うめわかおじぎ

伝統芸能の公開にむけて-やったり踊りの練習にうかがいました!!

 いよいよ夏季の例祭が各地で催されますが、7月8日(土)は埼玉県無形民俗文化財に指定されている”やったり踊り”の練習にうかがいました。

 

令和元年の公開以降、3年ぶりに小若の元気な舞と若衆による伝統を継承する勇壮な舞が戻ってきました。

 

 この日は本番同様、練り込みと呼ばれる西光寺から奉納舞を行う大畑香取神社境内まで、道中の所作をはじめ、小若低学年、高学年、若衆の順で「扇子踊り」と「手踊り」の仕上げが行われました。

 

 小若の低学年(小学生1~3年生)は初めての参加、さらに高学年の皆さんも3年のブランクを取り戻そうと、低学年時の経験を一生懸命に思い起こしています。境内での練習は本日が初めてで当初は戸惑いもみられましたが、若衆みなさんのアドバイスや励ましにより、低学年を引っ張ろう、舞を合わせようと、頑張ってくれました。

 この練習時には、小若は揃いの半被ですが、若衆は白地に鮮やかな青の染め抜きの浴衣、赤の鉢巻き、赤の鼻緒の草履という、特徴的な装束も見どころの「念仏踊り」とされる県内でも希少な無形民俗文化財です。

 全国的にもコロナ渦で中断が余儀なくされていた伝統芸能の再興にご苦労されています。是非、この夏の祭礼に足を運んで地域の伝統芸能を応援ください!

※やったり踊りの公開は、次週土曜日、7月15日(土)午後8時に西光寺を出発、約20分の練り込みにより大畑香取神社へ。午後8時30分ごろから奉納舞が公開されます。

 7月16日(日)は、西金野井の獅子舞、赤沼の獅子舞、銚子口の獅子舞、榎の囃子神楽も公開されます。詳しくは市公式ホームページをご覧ください。

展示替はじまっています

7月2日までの企画展の資料を撤収しました。素丸書の松尾芭蕉の肖像画の軸を巻き、まさにしまおうとしたところ、軸の表紙に目がとまりました。

軸の表紙

墨書や蔵書印があるのですが、注目は次の蔵書印です。

画像:蔵書印

鼎(かなえ)を模している印なのでしょうか。やかんでしょうか。形はよくわかりませんが、文字はちょっと読みづらいかもしれませんが、印には「宜春園(ぎしゅんえん)」と印刻されているようです。

宜春園とは、江戸中期の備後の文人・石井文龍が、師匠の溝口素丸から与えられた号です。素丸も宜春園を名乗っていたといい、文龍にとっては誉れ高き名跡だったはず。その後、宜春園の名跡は、地元の文人に継承されていきました。

詳しくは、松尾芭蕉の肖像が春日部に伝来した理由を参照してください。

つまり、芭蕉の肖像の軸に「宜春園」の蔵書印が捺されているということは、まぎれもなく石井文龍の持ち物だったといえるわけです。今後、「宜春園」の蔵書印に注目しながら、他の資料を検討していけば、何か新たな発見があるかもしれません。撤収のさなか気づいた今後の課題です。終わりは始まりなのです。

さて、撤収後、次の企画展示「あなのあいた壺」展の設営が始まりました。

写真:展示の設営

前の展示は、紙ものばかりでしたが、今度はうってかわって立体的な土器が並びます。資料の種別や特性によって、取り扱い方も全く違います。倒れないように、土器専用の台やテグスなどでしっかり固定しています。立体的な資料なのでどの部分を見せたいのか、担当の学芸員の個性が出るところでしょう。

終わりは始まり、ですが、展示の設営が始まったということは、これもいつか終わりを迎えるのです。

終わりは始まり、始まりは終わりなのです。

企画展示は期間限定ですので、お見逃しなく。

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その4】権現山遺跡の縄文時代晩期の土器

権現山遺跡晩期土器

 

権現山遺跡から出土した縄文時代晩期の土器(土器の高さ48.2㎝)

 

権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代晩期の土器を紹介します。

縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6時期に区分されていますが、春日部市域でもっとも遺跡数が多いのが縄文時代前期です。東京湾が北に広がった縄文海進がもっとも進んだ時期で、低地は海となり、陸地であった台地で人々は生活し、貝塚を残しました。縄文時代中期の遺跡も比較的多くみられます。縄文時代後期になると、遺跡数は少なくなりますが、神明貝塚のような大きな遺跡が確認されています。

縄文時代晩期は今から約3,300~2,500年前で、市内では今回ご紹介する権現山遺跡の深鉢形土器が、ほぼ唯一の資料です。

この土器は、昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査で、古墳時代前期までに埋まったとみられる埋没谷から発見されました。縄文時代晩期後半、中部地方から東北地方にみられる浮線文系土器群に属するものと考えられています。

口径(復元)34.5㎝、推定の高さ48.2㎝の大型のもので、口縁には、2個1組と1個の山形の突起を交互に5個つけています。浮線文系土器の文様は、網状文(あみじょうもん)とよばれる網目のような模様がよく見られますが、権現山の土器は、竹などの工具で平行に線が引かれる平行沈線(へいこうちんせん)が描かれており、浮線文系土器群のなかでも新しい特徴とみられています。

縄文時代早期の土器に続き、この晩期の土器も大変貴重な資料です。 

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

 

海外の方にも大人気! #クレヨンしんちゃん スタンプ

4月ごろから、郷土資料館に海外からのお客さんが見受けられるようになりました。「クレヨンしんちゃん 春日部スタンプ巡り」に参加されている皆さんです。

実は、4月16日(日)から2か月以上連続で海外の方の来館が続いており、ある日は来館者の半数以上が海外の方ということもありました。

春日部市郷土資料館で提供するしんちゃんのスタンプは、国指定特別天然記念物である牛島のフジ、国選択無形民俗文化財である大凧あげ、日光道中の宿場町、伝統工芸である桐ダンス・桐小箱をデザインした、春日部の魅力が詰まっているオリジナルスタンプです。

 

思いがけない反響に、資料館では、外国の方向けに多言語の案内表示を掲示しました。

画像:多言語化案内

また、常設展示のクレヨンしんちゃんの展示コーナーには、感謝の言葉も表示しました。

画像:感謝の多言語

これをきっかけに、江戸時代の宿場町や縄文人の家の模型を見学して、クレヨンしんちゃんが住む春日部の歴史文化に触れていただき、春日部市の魅力を知っていただきたいと、願うところです。

#家康 と春日部

#徳川家康 と春日部の関わりを紹介する春季展示は7月2日(日)まで。展示では家康が実は春日部に来ていたかも!?と紹介しています。 #かすかべプラスワン

展示も終盤なので、ネタバレで紹介します。家康が春日部に在陣することを示すのは、江戸幕府による官撰の系譜「寛政重修諸家譜」。戦国期には古河公方足利家の家来だった一色氏の系譜の記事のなかに見出せます。下の画像はその部分(国立公文書館所蔵)。

画像:寛政重修諸家譜

戦国末からの当主一色義直の記事は、次の通りです。

(前略)五年会津に御発向のとき、粕壁の駅に至りて拝謁し、台駕にしたがひたてまつらむ事を請といへとも、年老たるをもつて許し給はす、男照直を俱せらる、関原凱旋のゝち、参府して御気色をうかかふのところ、御前にめされ、義直老年ながら会津御陣の供奉をこひし事健気なりとの御感ありて、養老の料として下総国和歌領にをいて、千石の地をたまふ(後略)

慶長5年(1600)、家康は会津の上杉景勝の征伐のため、江戸城を立ちました。その途次「粕壁の駅」で一色義直は家康に拝謁し、軍勢に加わりたいと請願しますが、老齢のため家康の許しを得ることができず、嫡男の照直が供奉することになりました。

一色氏は、かつて幸手領(幸手市域から杉戸町・春日部市域の一部)を所領にしていた在地領主です(後に下総国相馬郡に所領を替えられ、現在の野田市の木野崎村に居住)。家康が関東に入部した後は、幸手に知行地5160石余を与えられ、徳川家の旗下となりました。慶長5年当時、義直は隠居の身でしたが、おそらく家康の軍勢が自らの所領幸手領を通行する直前の「粕壁の駅」で、挨拶のため拝謁したものと考えられます。

家康は、会津に向かう途中、小山で江戸に引き返したといい(小山評定)、そのまま関ケ原に向かいました(関ケ原の戦い)。

「諸家譜」はさらに続けて、関ケ原の戦いの後、一色義直は江戸城で家康に拝謁し、老年ながら会津征討に供奉したいと請願を「健気なり」と褒賞され、隠居料として下総国和歌領(現茨城県八千代町)に1000石の知行所を与えられました。

一色義直の「粕壁の駅」での拝謁については、残念ながら同時代の史料は残されていません。「諸家譜」のほか、一色家諸系譜(幸手市史編さん室編『幸手一色氏』)にも記されており、家に伝来した出来事であったと考えられますが、当時いわゆる「日光道中」が成立していたかは疑義が残り、「粕壁の駅」の位置や実態について詳しくはわかりません(後述)。

上杉征伐~小山評定~関ケ原の戦いは、大変ドラマチックな展開であり、その途次に「粕壁の駅」が登場するわけですが、近年は「小山評定はなかった」説も唱えられており、江戸からの行程、江戸までの行程も詳しくはわかりません。このあたりが大河ドラマでがどのように描かれるのか、注目されるところでもあります。

さて、肝心の「粕壁の駅」とは、何か。先日の「みゅーじあむとーく」でも、「粕壁の駅」とはどこなのか、当時粕壁に宿場町があったのか、など観覧者から鋭い質問をいただいたところです。

粕壁宿の名主文書によれば、いわゆる「日光道中粕壁宿」(現在の春日部大通り)の町割りがされたのは、慶長16年(1611)のこととされています。一方、天正18年(1590)9月には、岩槻城主高力清長が「糟壁新宿」に人を集め年貢を納めることを命じています。「糟壁新宿」はのちに元新宿と呼ばれた地区(現南・緑町)であり、いわゆる「日光道中粕壁宿」の成立以前の馬継場は同所にあったと考えられています(詳しくは以前紹介記事参照)。会津征伐の慶長5年は、この間の出来事。果たしてどこに「粕壁の駅」があったのか。はたまた、「粕壁の駅」はそもそもこの時期に存在したのか、今後の検討が必要です。

結論はでませんが、そうした家康と春日部の関わりを紹介している春季展示「かすかべ人物誌」は7月2日(日)まで。家康の朱印状も展示していますので、お見逃しなく。

 

出張授業in川辺小学校 その2

6月28日(水)は再び川辺小学校に行きました。

前回の6月9日は3年生の「総合的な学習の時間」でしたが、今回は6年生2クラス、社会科の授業です。

6年生は歴史の授業で弥生~古墳時代を勉強中だと教えてくれました。

3年生の授業とは内容が少し変わって、国史跡「神明貝塚」について具体的に学んだあとに、春日部市や川辺小学校周辺の縄文時代について発掘調査の成果を素材に学習に取組みました。

 

その後は「石器」「貝」「土器」に分かれての縄文体験です。

貝コーナーでは、遺跡から出土した貝を実際に触ってもらいました。

授業の冒頭に紹介した神明貝塚では、川や河口付近に生息するヤマトシジミがほとんで貝塚が作られたことが特徴です。

 

一方、学校周辺の貝塚はアサリやハマグリなど、海に生息する貝であり、神明貝塚の貝とを比べてみると、その違いがよく理解してもらえました。「縄文人は採集をしていた」ことを目に見えて実感してもらえたのではないでしょうか。

 

最初は縄文なんてよく分からないと言っていた子どもたちも、

終わってみると、楽しかった、おもしろかったと教えてくれました。

体験に使われる土器や石、貝は春日部市内の遺跡から見つかったものになります。

自分の住んでいる地域にも教科書で学んだことが起きていたということを、楽しかった記憶とともに覚えてもらえたら嬉しいです。

 

今月の出張授業は一区切りとなります。

川辺小学校のみなさん、ありがとうございました!引き続き、市内の子供たちに縄文時代の学習を深めてもらえるよう出張授業に取組みます!!

郷土資料館の顔~その2 怒っている!?人物埴輪

郷土資料館の顔の第二回目は、常設展示の内牧の塚内4号墳の人物埴輪です。

写真:人物埴輪

人物埴輪の出土事例として、顔・かたちがわかるものは、市内ほぼ唯一のもののようです。また、人の顔のある考古遺物としても、市内でも稀有な資料。

人物埴輪の解説については、前に博物館実習生に記述してもらったことがあります。詳しくはこちらをご覧ください。

解説にもあるように、完全な形はとどめていませんが、この埴輪は男性をかたどったものです。首には玉の首飾り、髪型はかけていますが耳の横に美豆良(みずら)を下げています。顔には赤い模様も施されており、春日部に住んでいた(?)古代人の姿がうかがえます。

顔の表情をみると、目と口は直線状の穴で表現されています。鼻筋も通っており、切れ長の目で東洋人的な「しょうゆ顔」でしょうか。

そんなこの人物埴輪、面白いのが角度を替えて鑑賞すると全く違う表情を見せてくれるところです。

写真:上からみた人物埴輪

写真のように上から見ると、切れ長の目がつりあがり怒っている表情に見えます。ケースを下から見あげると、目が垂て悲しんでいる表情の様。あたかも、千円札を折って表情を変える野口英世のようです。

記述者が最初にみた写真は少し上から撮っていた写真だったようで、目がつりあがって怒っているイメージをもっていました。ところが、カメラの角度を替えると全く違う表情。埴輪に怒っているのかと語りかければ、「キレてないですよ」「俺をキレさせたらたいしたもんだ」と言われてしまいそうです。

人物埴輪を制作した人は、どういう表情を思い浮かべ、制作したのでしょうか。そんなことに思いを巡らせると、お馴染みの資料でも、まだ十分に楽しめる余地が生まれてきますし、資料にとっての正面とは何か、を考えさせる一品でもあります。

ぜひ原物の人物埴輪に会いに来て、さまざまな角度からお楽しみいただければと思います。

市内の指定文化財については、本ページのメニューからもご覧いただけます。

・市指定史跡・内牧塚内古墳群についてはこちら

・市指定有形文化財・塚内4号墳出土遺物についてはこちら

出張授業in桜川小学校

6月27日(火)、今年度3校目の出張授業として桜川小学校にうかがいました。

今回は6年生を対象にした「学校付近に暮らした縄文人の生活」の授業です。

3クラスへの授業は今年度初となるため、職員も気合が入ります。

縄文時代の印象を聞くと「竪穴」「狩りや採集で食料を取った」と、きちんと覚えてくれているようです。でも、縄文時代の人びとが春日部にいたのかなと聞かれると、頭をひねる皆さん。中には「春日部にはいなかった」と答えてくれる子もいました。いやいや実は…と始まった今回の授業では、学校付近での縄文時代の遺跡を交えながら史跡神明貝塚と学校付近の縄文人の暮らしを説明しました。

 

桜川小学校は台地の上にあるため、縄文時代に海進がおよんでも陸地であった場所です。休み時間には目の前の海に泳ぎに行けたかもしれない、なんてわくわくする話です。

神明貝塚のビデオ、そして学校付近の縄文時代の生活について話を聞いたあとは、3班に分かれて体験の時間です。

 

1コーナー5分ほど、実際に石や貝、土器に触れる時間を設けています。

今回は土器コーナーの紹介です。土器の名前の由来となった「縄文」に触り、土器の煤など縄文人の実生活に際してついた痕跡を一緒に探します。

また、土器クイズも開催しました。一人一つ土器片を選んでもらい、自分の土器が何時代のものかを考えてもらいます。ヒントを見ながら、「縄文土器」「土師器」「須恵器」「埴輪」を当てる4択問題です。実は正解者が多いこの問題、土器に違いがあることを実感してもらう良い機会になりました。

さて、今月の出張授業も残すところ1校となりました。

教科書の文章をより身近なものに感じてもらえるよう工夫を続けていきます。

 

桜川小学校のみなさん、ありがとうございました!

郷土資料館の顔~その1 石井文龍

春日部市郷土資料館の展示室は、とってもせま~いのですが、展示を見渡すと様々な「顔」があることに気づきました。絵やイラストでも、顔と認識されるモノは、人間の本能なのか目を引くようです。そんな郷土資料館の顔を紹介する新シリーズ。 #かすかべプラスワン

第一回目は、現在、春季展示「かすかべ人物誌」で展示中の、江戸時代の地域文人石井文龍の「顔」です。

画像:石井文龍の顔

石井文龍については、先日紹介しましたので、それに譲ります。

描かれた文龍は、74歳、晩年の時のもの。享年が74歳なので、亡くなる直前か、生前の姿を描いたもののようです。

文龍は、医者であり、若い時分から俳諧に傾倒してきた地域の文化人でもありました。白髪で穏やかなお顔付きで、やさしい眼差しをしています。好きなことを追究され、穏やかな晩年を過ごしたのではないか、そんなことが想像される「顔」です。

不定期ですが、郷土資料館の「顔」シリーズ。次回をお楽しみに。

#松尾芭蕉 の肖像画が #春日部 に伝来した理由

松尾芭蕉の肖像画などを展示する春季展示「かすかべ人物誌」も残すところあと1週間になりました。 #かすかべプラスワン

写真:展示風景

芭蕉の肖像画が、なぜ春日部に伝わったのか、前の記述では来てのお楽しみとしていましたが、ここで少し解説します。ネタバレですので、楽しみにされている方はご注意ください。

今回展示している松尾芭蕉の肖像の掛け軸は、備後の旧家と八丁目の仲蔵院に伝わったものです。

備後の旧家とは、代々在村医をつとめてきた石井家です。江戸時代中頃の石井家の当主文龍は、葛飾蕉門という江戸を中心とする俳諧の一派に加わり、当時の宗匠溝口素丸(幕臣)に師事し、俳諧に傾倒しました。葛飾蕉門は芭蕉の高弟山口素堂の系統を引く一派です。文龍の居住した備後村や周辺の村々では、18世紀半ばごろには地域の俳諧が盛んであり、この環境で幼少期・青年期を過ごした文龍が俳諧に傾倒したのは必然的であったのかもしれません。

文龍は素丸や兄弟子筋にあたる地域の俳人から俳諧を学び、師匠素丸の別号「宜春園」を継承して宗匠となり、地域の俳人に師事しました。その門人は数百人いたといわれています(石井敬三「東武地方武里の俳人石井文龍翁について」『武蔵野史談』1-2)。

前に紹介した芭蕉の肖像は、石井家に伝来したものです。文龍の師匠にあたる素丸自筆の芭蕉の句が書き込まれています。詳しい史料がなく、想像ですが、この肖像は、おそらく点取り俳諧などでよい成績を残した文龍に、師匠素丸が与えたものなのかもしれません。

文龍の生きた時代は、松尾芭蕉が「俳聖」として神格化される時代であり、「蕉風」を自称する俳諧サークルの活動が各地で活発になる時代でもありました。地域の文人たちは、芭蕉の命日を「芭蕉忌」として俳諧の場とし、これを俳題にもしながら、俳諧を創作したそうです。文龍の俳諧一派葛飾蕉門も「蕉門」と称しているように、芭蕉を敬慕し、その俳諧を継承していることを自負していました。文龍自身も西国巡礼の旅の途次に芭蕉の墓のある近江・義仲寺に立ち寄っていることから、「俳聖」芭蕉を敬慕していたものと考えられます。

文龍の肖像も遺されています(展示中です)。

画像:文龍肖像

晩年の文龍の姿ですが、茶人帽に頭陀袋。芭蕉に似せて描かれているようです。肖像の上には「散る柳 紅葉をねたむ 色もなし」は辞世の句です。彼の墓石にも彫られていました。この句は、師匠素丸から秀作と評されたもののようです。このように、文龍は、芭蕉を敬い、師匠からおそらく与えられたであろう芭蕉の肖像を大切に保管し、これが現代に伝わったのです。

実は、 八丁目の仲蔵院に伝来した芭蕉の肖像も同様です。時代は下りますが、明治から大正期にかけて、仲蔵院の住職平原寛圓は、雪中庵という俳諧一派に加わっていました。雪中庵は芭蕉の高弟服部嵐雪の系統を引く俳諧サークルです。詳しい履歴は調査が必要ですが、寛圓は竹堂凡子と号し、地域俳諧の宗匠であったようです。また、仲蔵院には近代の雪中庵歴代の宗匠が訪れていたことも分かっています(増田竜雨『竜雨俳話』昭和8年)。近代の地域の俳諧の拠点となった仲蔵院、そして竹堂の元に芭蕉の肖像が遺され、今に伝わったと考えられるのです。

江戸時代中頃以降、地域の俳諧・文人の交流のなかで芭蕉の肖像が生まれ、伝えられてきたこと。展示の担当者は、この点を強調しておきたいのです。

 展示では、芭蕉の肖像画のみならず、石井文龍の作品などを一堂に会しています。文龍は俳諧のみならず詩や画も遺しました。下の画像はその一つ。

写真:文龍の俳画

左手には猿回しの画とともに「世の中は つなてかなしも 猿回し」と詠んでいます。おそらく文龍の作品でしょう。

世の中は綱に繋がれた猿回しのようだ、という意味でしょうか。身分を超え俳諧に親しみながらも、身分制社会の桎梏を詠んでいるのでしょうか。本展の目玉資料の一つです。

展示はあと1週間。お見逃しなく。

【令和5年夏季展示予告その3】権現山遺跡の縄文時代早期の土器

権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代早期の土器を紹介します。

昭和63年(1988)に行われた第2次調査では、縄文時代早期(7,000~12,000年前)の屋外で煮炊きをしたと推定される炉穴(ろあな・ファイヤーピットとも言う)が10基発見され、全体の形がわかる深鉢(ふかばち)が出土しています。貝殻で土器の表面を調整した条痕文(じょうこんもん)と呼ばれる文様が見られ、条痕文系土器群とも呼ばれます。

土器の底部は非常に小さく、そのまま置いただけでは安定しないことから、炉穴などで底の先を土に埋めて使用したのではないかと考えられています。

縄文時代早期の条痕文系土器群は、破片では市内の遺跡から多く発見されますが、権現山遺跡で出土しているような、全体形がわかる個体は少なく、大変貴重な資料です。 

 

茅山上層式の土器1茅山上層式の土器2茅山上層式の土器3茅山上層式の土器4

権現山遺跡から出土した縄文時代早期の土器(土器の高さ28~45㎝)

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓で使われた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

 【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺