ほごログ(文化財課ブログ)

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出張授業in小渕小学校

6月23日(金)は小渕小学校へ出張授業にうかがいました。

今回は6年生の2クラスを対象にした「春日部に暮らした縄文人の生活」の授業です。

 

社会科の学習ではすでに古墳時代まで進んでいるため、6年生にとっては復習になりますが、

はじめに縄文時代がどんな時代か聞くと、「狩り!」「採集!」と元気に答えてくれました。

出張授業では、国指定史跡となった”神明貝塚”の紹介動画をみたあと、小渕小学校周辺の遺跡の存在と縄文時代の様子を画像を交えて紹介しました。

学校周辺には縄文時代の遺跡は確認されていません。縄文時代の6,000年前、縄文海進の頃は、小渕小学校付近は海原にあり、貝塚の調査によると春日部の海の様子はイルカやウミガメが泳いでいた…という話を興味津々で聞いてくれました。

小渕では古墳時代以降に人々が暮らしたことがわかっています。

近くにある砂丘の砂の中から大きな須恵器の甕が発見された話では、驚きの声が上がっていました。

 

その後は班ごとに分かれて「石器の用途」「貝の種別をはじめ縄文の食糧」「いろいろな土器」に実際に触れる体験をしました。

   黒曜石で段ボールを切る    食料となったイノシシの骨      縄文土器をさわる

  

 教科書でみた歴史が自分の住んでいる地域でもあったことを実感してくれたようです。

同じ春日部市内でも地域によって人が住んだ時期に違いがあることも、面白さの一つだと思います。

小渕小学校のみなさん、ありがとうございました!

みゅーじあむとーく開催しました

6月18日(日)に春季展示「かすかべ人物誌」のみゅーじあむとーく(展示解説)を開催しました。 #かすかべプラスワン

午前の部、午後の部ともに、郷土の歴史に高い関心をお持ちの皆さんにお集まりいただき、質問を交えながら展示解説をしました。

西金野井香取神社に伝わる天正19年(1591)の徳川家康の朱印状については、実物を見ながら史料の内容や形状を解説。写真では家康の朱印が見づらいのですが、実物では家康の朱印が確かに捺されていることがわかります。皆さんには、2代将軍の徳川秀忠の朱印状(の写真)と比べて、家康の朱印状と何が違うのかを考えていただきました。

写真:みゅーじあむとーくの様子

「色が違う!」と答える方がいらっしゃいましたが、写真の色が悪かったようで・・・すみません。

大きく異なる点は、家康の朱印状は、料紙を横半分に折った「折紙」という形態であるのに対し、秀忠のそれは、料紙全体を使用した「竪紙」という形態です。また、写真ではわかりにくいのですが、秀忠の朱印状は大高檀紙(おおたかだんし)とよばれる皴(しわ)の入った料紙を使っています。

一般的に「竪紙」という形態は「折紙」よりも厚礼な書式といわれています。天正19年の家康の寺社宛の朱印状は、①家康の花押が捺された竪紙のものと、②西金野井香取神社の例と同じ折紙で朱印が捺されるものの二通りに分けられます。①の例は領地100石を超える寺院宛のもので、より有力な寺社には厚礼な①の形式で朱印状を発給したようです。西金野井香取神社は、朱印状の形式から考えれば、広い地域まで勢力を及ぼす大きな寺社ではないが、北条氏の時代からの地域の有力な神社であったといえることができましょう。

天正19年(1591)、朱印状を発給した家康は、まだ豊臣政権下で関東地方の一大名にすぎませんでしたが、家康は、地域の有力な中小規模の寺社にも朱印状を与え、関東地方の地域支配を盤石なものにしていったのでしょう。

一方、秀忠の朱印状で使用される大高檀紙(おおたかだんし)は、豊臣秀吉が自らの朱印状で採用した料紙であり、天下人を象徴する料紙でした。秀忠の朱印状は、先代家康が寄進した領地を安堵(保障)する継目安堵の意味を持ちましたが、有力な寺院とともに西金野井香取神社のような地域の有力神社にも、竪紙の大高檀紙が使用されました。秀忠が朱印状を発給した元和3年(1617)は、豊臣氏は滅び、秀忠はすでに征夷大将軍となっていましたが、各地には有力な大名もあり、徳川政権を盤石なものにしていく過渡期でもありました。将軍の発給する文書の形式を整えて、政権・領国支配を安定させていく時期にあったので、継目の安堵もより厚礼なものにしていったのでしょう。

西金野井香取神社に伝わる家康の朱印状からは、当時の家康の政治的な立場を読み取ることができるのです。

本当は、秀忠の朱印状と並べて展示しようかと構想していたのですが、スペースの都合でお披露目は見送りました。またの機会をお楽しみに。とはいえ、家康の朱印状が見られるのも7月2日(日)まで。お見逃しなく。

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

令和5年の夏季展示についてお知らせします。

春日部市東中野の権現山遺跡で、昭和38年(1963)に発掘調査が行われ、方形周溝墓から底部穿孔土器が出土しました。これらは「権現山遺跡方形周溝墓出土底部穿孔土器」の名称で埼玉県の有形文化財に指定されています。

今回の展示は、発掘調査60周年を記念し、普段は埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示されている権現山遺跡の底部穿孔土器を中心に墓から出土した土器を展示します。

*埼玉県立歴史と民俗の博物館は、施設改修工事のため秋まで休館中です。

  

夏季展示チラシ

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓で使われた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

 

(関連イベント)

●記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」

権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。

講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)

日時:9月2日(土)14:00から16:00

場所:教育センター視聴覚ホール

対象:定員100人(申込順)

費用:無料

申し込み:7月11日(火)から電話(048-763-2455)、直接、電子申請

 

●展示解説講座

古墳時代の権現山遺跡出土底部穿孔土器を中心に、弥生時代の須釜遺跡の資料などについて、郷土資料館学芸員が解説します。

講師:郷土資料館学芸員

日時:7月29日(土)10:00から12:00

場所:教育センター視聴覚ホール

対象:定員50人(申込順)

費用:無料

申し込み:7月11日(火)から電話(048-763-2455)、直接、電子申請

 

●ミュージアムトーク

企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。

日時:7月22日(土)、8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)

場所:郷土資料館企画展示室

費用:無料

申し込み:不要

 

権現山遺跡の底部穿孔土器については下記の記事もご覧ください。

【令和5年夏季展示予告その1】底にあながあけられた壺

 

春日部に伝来した #松尾芭蕉 の肖像

元禄2年(1689)3月27日、奥州の歌枕を訪ねる「奥の細道」の旅に出立した芭蕉は、その夜、弟子の曽良とともに「カスカヘ」に泊まりました。 #かすかべプラスワン

現在開催中の春季展示「かすかべ人物誌」では、春日部ゆかりの歴史上の人物として、徳川家康・松尾芭蕉について展示紹介しています。展示は7月2日(日)まで。6月18日(日)には展示解説(みゅーじあむとーく)を開催します。

今回は、展示中の松尾芭蕉ゆかりの資料を紹介します。松尾芭蕉と粕壁の関係についてはこちら

画像:松尾芭蕉肖像

上の画幅は、市内に伝来した松尾芭蕉肖像です。肖像自体は、芭蕉の墓所・近江の義仲寺で刷られたものです。近世中期ごろから、芭蕉を偲ぶ「芭蕉忌」という句会が芭蕉の命日に各地で開かれるようになりました。この肖像画も「芭蕉忌」に際して義仲寺で刷られたものなのかもしれませんが、担当者が調べる限りでは同じ肖像の資料は見つかってなさそうですので、詳しくは不明です。

注目されるのは画像の上の墨書です。「稲つまに悟らぬ人のたうとさよ」と芭蕉の著名な句が記されています。署名は「素丸書」とあります。墨書は、溝口素丸という人物が書いたものであることがわかります。

この素丸、近世中期にそこそこ名の知れた俳諧の宗匠。葛飾蕉門と呼ばれる江戸周辺の俳諧の一派のドン、其日庵(三世)の名跡を名乗ります。彼の自筆の芭蕉の句が記された芭蕉の肖像の軸がなぜ春日部に伝来したのでしょうか。

 

6月18日(日)の「みゅーじあむとーく」では、その事情について詳しく解説する予定です。上の写真の資料のほかにも芭蕉の肖像が2幅と1冊並んでいます。展示は7月2日(日)まで。お見逃しなく。

 

展示名:春日部市郷土資料館(第67回)春季展示「かすかべ人物誌」

会 期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日) 開館時間:9時~16時45分

会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)

休館日:会期中の月曜日

入場料:無料

関連事業:みゅーじあむとーく 6月18日(日)10時30分~、15時~

出張授業in川辺小学校

6月9日(金)は川辺小学校へ出張授業にうかがいました。

3年生みなさんの「総合的な学習の時間」をつかって、学校付近の歴史をテーマに”縄文体験”をチャレンジしてもらいました。

 

3年生ではまだ歴史の授業はまだ習っていないということで、

縄文時代小学校付近まで海があった話をするとあちこちから驚きの声が!

台地が入り組んだ地形で、坂が多い地区のみなさんだからこそ、地形と海の話もすぐ理解してくれたようです。

付近の発掘調査からみつかった縄文時代の貝塚や、人々が住んでいた竪穴住居の話も

クイズをしながら楽しく聞いてくれました。

 

その後は班ごとに「石器の用途」、「貝の種別をはじめ縄文の食糧」、「いろいろな土器」を実物に触れる体験をしました。

実際に重さや手触りを確かめてみたり、さらにはにおいを嗅いでみたり、発見したことをたくさん教えてくれました。

 

縄文人が食べた貝殻や実際に使った石器や土器などを観察する機会を得て、みなさんの住んでいる土地の歴史を身近に感じてもらえたようでとてもうれしいです。

今後もほかの小学校への出張授業を通して、春日部の良さを広めていきます。

川辺小学校のみなさんありがとうございました!

展示替の裏話

絶賛、市指定有形文化財「北条氏政の感状」を常設展示に出展中ですが、その裏話をちょこっと。 #かすかべプラスワン #博物館の裏話 #博物館の裏事情

展示のきっかけは、市の広報誌の「かすかべ今昔絵巻」の記事でした。入稿時の文章の末尾は「郷土資料館でもパネルで紹介しています」的な文章でしたが、せっかくだから「期間限定で」原本を出しちゃおう、というノリで今回の出品に至りました。こうして、郷土資料館は日々かわってゆくのです。

もう一つ。今回出品したものがあるということは、それと引替えに展示から撤収したものもあるということです。

北条氏政の感状を入れたケースには、もともと江戸時代の道中双六(レプリカ)が展示されていました。双六は残そうということになり、別のケースへ。双六を展示したケースに入っていた粕壁宿の絵図(レプリカ)が押し出されることになりました。粕壁宿の絵図(レプリカ)は、長く展示していたもので、粕壁宿の推定復元模型のジオラマと比較してみていただこうと、展示していたものです。日光道中粕壁宿を一見できる良質な資料なので惜しいのですが、仕方ありません。

ところで、資料(レプリカ)を回収したところ、うっすらと長方形の跡が!

 写真:レプリカの色落ち

展示では、くずし字の文字を解読したキャプションを資料の上においていたのですが、長い年月展示していたたため、キャプションのの跡がついてしまったようです。照明は紫外線カットのフィルター付きのもの、LEDライトを当てているのですが、レプリカとはいえ、印刷物の一種ですから、長い時間照明を当てていると色落ちしてしまうのですね。

資料館にいらっしゃるお客様から、たまに「展示室が暗い」「もっと明るくならないのか」とご意見をいただくこともあります。展示を見やすくすることは大事なのですが、私たちの努めは、資料を後世に伝えるということでもあります。今回の例で明らかなように、光に曝されると、目視できませんが資料は傷んでしまうのです。観覧される皆様もその旨、ご理解いただけると幸いです。

写真:照明をおとしています

 

【臨時休館のお知らせ】

令和5年6月10日(土)は教育センターの施設点検のため、郷土資料館は休館となります。

ご迷惑をおかけしますが、ご注意ください。

6月11日(日)は通常通り開館します。

常設展示にあの戦国大名が登場!?

市の広報紙に「北条氏政の感状」(市指定有形文化財)が紹介されたので、期間限定で常設展示に展示しています。 #かすかべプラスワン

写真:展示風景

市指定有形文化財「北条氏政の感状」は、永禄12年(1569)3月14日に多田新十郎に与えられたものです。古文書の中身については別に譲ることにしますが、春日部市としては、市内に伝わる数少ない中世(戦国時代)の古文書の原本の一つです。

おすすめは、氏政の花押(かおう)です。本文の文字は、おそらく大名の書記官にあたる家臣が書いている可能性が高いですが、花押は本人の自筆(のはず)です。

写真:氏政の花押

前近代の人たちにとって、文書に自署することは、自分自身を文書に投影させることを意味することもありました(ちょっと言い過ぎかもしれませんが)。北条氏政の感状は、まさに戦国大名北条氏政自身といえるわけです。写真では伝わらない古文書の風合いを、この機会に心ゆくまでご堪能ください。

展示期間は7月末までを予定しています。

北条氏政の感状については、こちらをご参照ください。

 

【 #6月2日 】 #今日は何の日?in春日部

今から378年前の正保2年(1645)6月2日(旧暦)は、江戸川が完成し通水をした日です。 #かすかべプラスワン

埼玉県と千葉県境を流れる江戸川は、江戸幕府による関東地方の河川改修の一環で開削された人工の河川です。

江戸川がいつ成立したのか。これは古くから学術的な見解がわかれる問題です。成立の年代の諸説として、寛永12年(1635)説(吉田東伍)、寛永17年(1640)説(根岸門蔵)、寛永18年(1641)説(清宮秀堅)、寛永12年起工・18年竣工説(栗原亮輔)が唱えられてきました。江戸時代前期の寛永時代の基本的な文献が少なく、参照する史料の性格の相違や、江戸川の上流と下流でも時期がずれることも説が分かれる理由の一つです。

ところで、市域の江戸川流域、かつて庄内領と呼ばれた地域には、開削当時の伝承を伝える江戸時代の記録が伝わっています。著名なものでは市指定有形文化財でもある「小流寺縁起」もその一つです。「小流寺縁起」は明暦3年(1657)に小流寺の開基・開山の由来について記した寺の縁起で、そのなかに寛永17年(1640)2月に幕府代官伊奈忠治の家来が利根川(江戸川)の改修工事のため川を見分したことが記されています。開削された時代のわずか十数年後に具体的な工事についての記述がされているため、歴史研究の世界ではよく知られた史料として扱われてきました。

また、同じく市指定有形文化財でもある元禄12年(1699)閏9月「西金野井香取神社領替地につき覚書」にも、寛永17年(1640)に「新利根川」(江戸川)の堀り替え工事が行われたことが記されています。

江戸時代の後期、地域の有力者(村役人)などに共有された手控え「庄内領三拾五ケ村高反別控帳」(郷土資料館所蔵)には、次のような記述がみえます。

庄内新田古来之事
右庄内新田之儀 寛永寅年より伊奈半重郎様御家来小嶌庄右衛門様御取立
寛永十七辰年より江戸川関宿より今上村堀迄、親野台辰より午迄三ヶ年、夫より正保二酉年六月二日新川村成就  水流し申候、正保元申年庄内領何村 名除いたし、草訳相成、戌亥慶安元子丑五ヶ年之間無年貢、其節之御役人左之通り(後略)

これによれば、庄内領の新田は、寛永15年(1638)に代官伊奈半十郎の家来小島庄右衛門によ
り取立られ、同17年(1640)から関宿から今上村(現野田市)まで江戸川が開削、「親野台」(現市内西親野井、野田市東親野井か)では開削に3か年を要した。

正保2年(1645)6月2日に江戸川が通水。同元年(1644)には「名除」(名附の誤写か)し、同3年(1646)から慶安2年(1649)の5年間(ママ)の年貢免除を経て、新田村が成立した、という。

本史料は文化年間(1804-1818)ごろに書写されたもので、記述に疑問が残る部分もありますが、他史料にも同様の記事もみえることから、19世紀の庄内領における開削・開発の記憶・伝承を記した記録といえます。江戸川の開削は、庄内領の人々にとって、自分たちが住む村の成り立ちとも関わる関心事でした。地元の人たちは、寛永17年(1640)に関宿から今上の開削が終わり、正保2年(1645)6月2日に通水をしたと考えていたようです。ほかの史料とも共通するのは寛永17年。おそらく、春日部近辺では、寛永17年ごろに江戸川が開削されたのでしょう。

そして興味深いのが、正保2年(1645)6月2日の通水。なぜこの年のこの日付なのか、十分な説明はできませんが、寛永17年の開削と同様、通水した出来事・日付を地元で脈々と伝えてきたのではないかと考えられます。別の史料では正保3年(1646)に舟渡しが命ぜられたとあるので、正保時代に江戸川は整えられたことになりましょう。

江戸川は、流通を支えた川として、自動車の物流が盛んになる戦後まで、人々の暮らしを支えてきました。

写真:昭和11~13年頃江戸川西金野井辺りポンポン船

写真は、昭和11~13年ごろの西金野井の河川敷で撮影されたもの。ポンポン船がはしっています。

郷土資料館では、現在、江戸川の開削を伝える資料を展示しています。ぜひご覧いただければと思います。

 

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月14日版3月27日版4月28日版6月3日版6月10日版7月31日版9月16日版

【春季展示】みゅーじあむとーくを開催しました

5月20日(土)から始まった「かすかべ人物誌」展の初日、学芸員による展示解説(みゅーじあむとーく)を開催しました。 #かすかべプラスワン

午前、午後ともに多くの皆さまにお集まりいただき、徳川家康や松尾芭蕉など歴史的な著名人物の人気ぶりがうかがわれました。

写真:展示解説の様子

解説では、家康の朱印状の形式や、家康が粕壁に来ていたことを伝える後世の史料、松尾芭蕉の肖像画幅、葛飾蕉門とよばれる俳諧一派の活動について、重点的にお話しました。

とくに俳諧・文芸について紹介していることもあり、普段とはちがって、文化文芸に関心の高い皆さんにご参加いただけた模様です。

次回のみゅーじあむとーくは、6月18日(日)を予定しています。ご興味あれば、ご参集ください。

【事務職員は見た】展示はこうして作られる!

春日部市郷土資料館では、年間4回程度の企画展を開催しています。

今回は、その作業風景を少しご紹介したいと思います。

 

展示が開催されるまでには、実はたくさんの苦労があります。

テーマを決め、構成を考え、必要な資料を集め、他館に依頼してお借りする場合などは資料運搬に伴う各種事務作業、キャプションを作り、担当者は意図をもって展示品を並べます。また、パンフレット・チラシ・ポスターを作成し、期間中の各種講座の準備もしなければなりません。

ライティング作業

また、パンフレットやキャプションを作るには、当然ながら知識の集積・研鑽も欠かせません。

研究風景

 

正直、“展示ってただ物を並べてればいいんでしょ?”と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、展示テーマ・展示品の選定はもとより、展示品の数、使用するもののサイズ、レイアウトなど、実は展示は担当者の個性が映る発表会の場でもあるのです。当館だけでなく他館においてもきっとそうだと思います。

展示のテーマに興味を持たれてお越しくださる方も多いと思いますが、そういった個性の違いも味わってみてはいかがでしょうか!

 

春日部市郷土資料館春季展示『かすかべ人物誌』は7月2日(日)まで開催中!

7月下旬には弥生時代から古墳時代をテーマにした企画展を予定しています!

ぜひ、郷土資料館に足を運んでみてください!

 

春季展示「かすかべ人物誌」はじまります

週末5月20日(土)から春季展示が始まります。 #かすかべプラスワン

春日部ゆかりの人物に焦点をあて「かすかべ人物誌」展と題した新シリーズの第一弾。

今回は、大河ドラマの主人公で話題の徳川家康、近世前期の俳人松尾芭蕉を中心とした近世の人物に焦点をあて、ゆかりの資料を展示します。

初日の5月20日(土)と6月18日(日)には、学芸員による展示解説「みゅーじあむとーく」も開催します。

ご覧ください。

画像:ポスター

展示名:春日部市郷土資料館(第67回)春季展示「かすかべ人物誌」

会 期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日) 開館時間:9時~16時45分

会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)

休館日:会期中の月曜日

入場料:無料

関連事業:みゅーじあむとーく 5月20日(土)、6月18日(日)各日とも10時30分~、15時~

南桜井小学校伝統芸能クラブ“獅子舞”の練習が行われました

 5月17日(水)、南桜井小学校の6時間目の授業はクラブ活動。平成23年以降、このクラブ活動に地域の伝統芸能である、県指定無形民俗文化財『西金野井の獅子舞』を継承している西金野井獅子舞保存会から直接指導を受け、地域学習、伝承学習の機会になっています。

本日は練習2回目。4、5、6年生の計9名が伝統の舞いとササラの演奏に取組みました。特に5、6年生は前年からの経験と練習成果を生かし、早くも「辻切り」「芝舞い」の2演目を立派に舞えるようになってきました。

 

 

 

 

 

 

 

▲6年生による三匹獅子舞(辻斬り)と5年生の「芝舞い」

 今夏7月の獅子舞の祭礼、そして11月に開校150周年の式典でも舞の披露が予定されています。次世代へ着実に地域の伝統芸能が引き継がれおり、平日の貴重な時間に指導していただいている保存会の皆さまに感謝!!ありがとうございます。子供たちはクラブ活動の時間に加え、祭礼が近づく7月には香取神社拝殿で舞いを仕上げていきます。

 なお、本年は7月16日(日)に保存会の皆さまによる勇壮な三匹獅子舞と共に子供獅子が披露されますので、是非とも県指定を冠した伝統の舞いをご覧になってはいかがでしょうか。

【結果発表】春の花総選挙

5月2日で幕を閉じた「春の花*春日部」展において、ひっそりと開催していた春の花総選挙。集計作業が終わりましたので結果発表をします。 #かすかべプラスワン

画像:投票パネル

桜:20票

藤:43票

桃:15票

牡丹:8票

序盤は花見の王道「桜」勢が票を伸ばしましたが、桜が散るとともに藤が優勢になっていきました。藤のまち春日部では、市のシンボルでもある藤が根強い人気!小淵や藤塚にゆかりの深い「桃」は地元の根強い人気がありましたが、惜しくも落選(!?)。牡丹は知名度が劣り、票を伸ばすことはできませんでした。

市の公式ツイッターでも同様のアンケートをとっていましたが、そちらでは桃が最下位でした。リアル総選挙では、桃が善戦したので、展示をご覧いただき、春日部と桃の深いつながりをご理解いただけたのかもしれません。

健康ハイキングやスタンプラリーの効果もあって、例年よりも入館者は多かったのですが、投票率は伸び悩みました。投票を促す普及啓発も今後の課題です。

次回は来春の予定です。ぜひ、ご参加ください。

埼玉県指定有形文化財-小渕観音院円空仏群-公開

 初夏を感じさせる5月の連休も終盤となりましたが、5月3日から5日までの期間限定で埼玉県の有形文化財に指定されている”円空仏の特別公開が小淵山観音院で行われています。

  静寂な本堂では凛とした冷厳な雰囲気の中、江戸時代前期の約330年前に生涯12万体の木像を制作したと云われる修行僧円空作の「円空仏」を間近に拝観することができます。5月2日に新聞紙面で公開が報じられたこともあり、県内外から多くの方々が鉈彫りの素朴な木像を拝観しようと訪れていただいています。

 観音院では修験宗にまつわる蔵王権現像をはじめ7躯が伝わり、像高194㎝と一木造りでは関東地方でも指折りの大きさを誇る聖観音菩薩立像、頭上に大きな龍を抱く伝毘沙門天立像と、威風堂々した像が揃っています。一方、円空仏の特徴でもある鉈(なた)による一刀彫の鋭い表現に加え、口元に表現される微笑みの柔和さも人々を引き付ける魅力となっています。

 

▲像高194㎝の聖観音菩薩立像と像頭に龍を抱く伝毘沙門天立像

 年一度の公開も明日5月5日が最終日です。午前10時から午後5時まで、そして要予約の「ヨイノカイ」の特別公開も設けられています。円空仏と共に皐月のひと時をどうでしょうか。

 

 

 

考古学講座の現地視察をおこないました

4月23日、令和4年度の考古学講座を受講していただいたみなさんと、郷土資料館から浜川戸遺跡周辺まで、地形などを確認しながら歩いてみました。

もともと3月26日に実施する予定でしたが、雨天だったため、順延しての開催です。4月23日は、とても良い天気で、絶好のウォーキング日和でした。

 

郷土資料館見学

朝は、郷土資料館に集合し、展示されている浜川戸遺跡の出土品を確認しました。郷土資料館の常設展示には、浜川戸遺跡に関係する資料が意外とたくさんあります。

 

日枝神社横で自然堤防確認

粕壁東の日枝神社では、宿場に向かって標高が上がっていく地形を確認しました。粕壁宿から浜川戸地区は、古利根川などによって形成された広大な自然堤防が広がっています。

 

碇神社横で江戸時代の土地利用を確認

埼玉県指定天然記念物「碇神社のイヌグス」がある碇神社では、江戸時代の粕壁宿周辺の土地利用を、昔の地図と比較しながら確認しました。

 

梅田地区で過去の古隅田川流路を確認

梅田地区では、現在とは違う流路で、かつてこの辺りを流れたと考えられる古隅田川について確認しました。

八幡公園で浜川戸遺跡を体感

最終目的地、浜川戸の八幡公園では、浜川戸遺跡の広がりや浜川戸砂丘、春日部稲荷神社や春日部八幡神社の成り立ちを確認しました。

 

全長約3㎞の行程でしたが、脱落者はなく、無事ゴールすることができました。

ご参加された皆様、ありがとうござました。

 

考古学講座は、今年度も9月から1月まで、毎月1回の連続講座を予定しています。ほごログでもご案内しますので、ご興味がある方はぜひご参加ください。

最先端の技術で、神明貝塚の人骨が調査されました

先日、南山大学の中尾央准教授のもと、「神明貝塚」出土の人骨の調査が行われました。 #かすかべプラスワン

中尾准教授は、文部科学省科学研究費助成による「出ユーラシアの総合的人類史学」の研究の一環で、様々な時代の古人骨の三次元計測を進められているそうです。

今回、春日部市が世界に誇る文化遺産の一つ、「神明貝塚」出土の縄文人骨、常設展示で展示している江戸時代の人骨も計測されました。計測って、巻き尺を使ってやるのかと思いきや!

写真:三次元撮影

な、なんと!様々な角度から写真撮影をして、パソコン上で立体画像にするんだそうです。

写真は60コマ程度を角度をかえて撮影すれば、十分なんだそうです。

もともとは工業製品の生産にかかわる技術なんだとか。出来上がった立体画像はこんな感じだそうです。

写真:立体画像

もっと精密に撮るカメラ・機材もあるそうです。最新鋭の調査技術で、いとも簡単に計測ができて大変驚きました。

県内では、同じく国史跡指定の水子貝塚(富士見市)の縄文人骨も同様に計測調査されるそうです。

今回の調査によって、神明貝塚(の人骨)は、人類のルーツを明らかにする研究資料として活用されることでしょう。また、計測によって資料の現況を記録する大変有意義な機会となりました。

「神明貝塚って何!?」って思った、そこのあなたは、こちらの動画をご覧下さいね。

郷土資料館からみえる藤が咲いています。

#牛島のフジ も先日開園し、週末は4年ぶりの #春日部藤まつり 。 #春日部の藤 、今まさに満開です。 #かすかべプラスワン

写真:粕壁小のフジ

郷土資料館(教育センター)からみえる藤は、粕壁小学校に自生するものです。フジはツル性なので、他の樹木に巻き付いて、高いところに花をつけます。時折り、風にあおられ、ゆらゆらと花房を揺らします。万葉の人たちは、風で波のようにゆれる藤の花を「藤波」と形容しました。「藤波」、美しい言葉ですが、担当者はどうしても某プロレスラー、あるいは某メジャーリーガーを連想してしまいます。

昔の人たちがフジをどのように楽しんだか、親しんだのか。現在、郷土資料館では、春日部と藤の歴史を紹介し、春日部の藤をより楽しむための企画展を開催しています。

画像:春の花春日部展ポスター

ぜひ、牛島のフジ、藤まつり、そして、春日部の藤波と一緒にお楽しみください。クレヨンしんちゃんのお母さんみさえとフジのスタンプも用意していますよ。

顔ハメ、記念にどうぞ

クレヨンしんちゃんスタンプラリーの効果もあり、市外・県外からもお客さんが見えています。先日、県外からお越しのご家族も、しんちゃんのスタンプラリーを目当てにご来館。 #かすかべプラスワン #顔ハメ

スタンプついでに、館内をご見学いただきました。お子様は体験コーナー、大人の方は様々な展示を見て、楽しんでいただけたようです。

記念にオリジナルの押絵羽子板の顔ハメを兄妹でやってくれました。

写真:顔ハメパネルの兄妹

お兄ちゃんは、歌舞伎役者ばりの睨みのきいた顔でポーズ。撮影の前に「どんな顔すればいいの?」「笑顔がいいのかな?」と聞いてくれました。本物の弁慶の押絵羽子板(写真後方)を観てもらったところ、押絵の表情を真似してくれたようです。「本物と一緒に撮りたい」と話してくれたのでこちらで撮影。妹ちゃんも、かわいい藤娘になれました!

押絵羽子板の顔ハメは、春日部市郷土資料館だけ(たぶん)!

クレヨンしんちゃんのスタンプとともに、ぜひ記念に使ってください。

【令和5年夏季展示予告その1】底にあながあけられた壺

令和5年7月22日(土)から9月3日(日)まで開催する第68回夏季展示では、権現山遺跡(古墳時代前期)や須釜遺跡(弥生時代中期)の底にあながあけられた壺を紹介する予定です。

詳細が決まりましたら、ほごログでもお知らせします。

 

今回は、展示予定の権現山遺跡から出土した、底にあながあけられた土器を紹介します。

権現山遺跡については、過去の記事もご参照ください。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器『新編図録春日部の歴史』からーその8

 

権現山遺跡は、春日部市の南東、東中野地区の下総台地上にあります。昭和38年の発掘調査で、「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」と呼ばれる古墳時代のお墓から、底にあながあけられた土器が13点出土しました。これらの土器は、昭和62年に埼玉県指定文化財に指定され、普段はさいたま市にある埼玉県立歴史と民俗の博物館(令和5年秋まで休館)で展示されています。

「底部穿孔(ていぶせんこう)土器」と呼ばれています。

「孔」は”あな”とも読み、一般的な「穴」の字とほぼ同じ意味です。また「穿孔」とは「孔を穿つ(うがつ)」、すなわち「穴をあける」ということです。

 底部穿孔土器1

<底部穿孔土器(実測図番号1)>

底部穿孔壺1の底部(焼成前穿孔)

<底部穿孔土器(実測図番号1)の底>

 

底部穿孔土器13点のうち、12点は壺形の土器です。ほぼ同じ大きさ、形も似かよった12点が発見されています。

これらは骨などを収めた蔵骨器ではなく、葬儀を行ったり死者を埋葬する方形周溝墓を飾りたてるために設置されたと考えられています。

底の部分は穴があけられ、何かを入れても底から抜けてしまいます。死者に供える土器として、通常の使用ができないようにされたものと推測されています。

 

権現山遺跡底部穿孔壺実測図

<12点の壺形土器の実測図>

 

12点のうち11点の土器は、焼く前に底に穴があけられています。これを「焼成前穿孔(しょうせいぜん(まえ)せんこう)」と呼んでいます。

焼成前にあけられた穴は、まだ粘土のうちに、粘土を切り取るように穴をあけるので、縁が整えられています。

また、焼く前に底に穴をあけてしまうということは、お墓に使うためだけの土器をわざわざ作っているということです。古墳時代ごろには、こういった文化も芽生えたようです。

 

底部穿孔壺12

<底部穿孔土器(実測図番号12)>

底部穿孔壺12の底部

< 底部穿孔土器(実測図番号12)の底>

12点のうち、1点だけ、土器が焼かれたあとに穴をあけている「焼成後穿孔(しょうせいごせんこう)」の壺があります。大きさは他のものとほぼ同じなものの、この壺のみ全体が赤く塗られています。

底の穴の部分をよく見てみると、外側から硬いものでたたくように穴をあけている痕跡があります。

穴アップ

<底部穿孔土器(実測図番号12)の底の穴>

なぜ、1点だけ焼成後の穿孔なのか?、土器を焼いてすぐに穴をあけたのか、それとも亡くなった方のそばで、生前使われていた土器に穴をあけたのか?、疑問は尽きません。

 

権現山遺跡の底部穿孔土器は、近隣では類例が少なく、とても珍しいものであるとともに、とても丁寧に作られたきれいな土器です。

令和5年7月22日(土)から開催する第68回夏季展示で、ぜひ実物をご覧ください。