ほごログ
#企画展 #渋沢栄一 もみた春日部の藤
#春日部市郷土資料館 では、令和3年4月13日(火)~5月2日(日)まで、ミニ展示(企画展)「渋沢栄一もみた春日部の藤」展を開催します。 #かすかべプラスワン
市の広報誌4月号の「かすかべ今昔絵巻」でも、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞したことを紹介しましたが、実は意外と知られていなかったことなので、驚いた方も多いのではないでしょうか。
渋沢だけでなく、跡見花蹊(あとみ かけい・跡見学園創始者)、清浦圭吾(きようら けいご・内閣総理大臣)、徳川昭武(とくがわ あきたけ・徳川慶喜実弟)、田山花袋(たやま かたい・小説家)など、近現代の著名な政治家や文化人も牛島のフジに訪れています。昭武は渋沢とパリに渡欧した人物としても知られていますよね。
この展示では、春日部のフジをめぐる歴史、そして、現代のまちづくりの歴史について紹介します。実は令和2年4月に開催できなかった展示のリバイバルでもありますが、その後、資料調査を進め、内容は少しバージョンアップしています。
今年は、コロナウイルスの影響により、藤まつり、藤テラスといった大型イベントが中止になっています。感染症対策に十分気を付けていただきながら、ご来館いただき、渋沢の足跡や郷土の歴史文化をお楽しみいただければ幸いです。
会期:令和3年4月13日(火)~5月2日(日) 開館時間は9:00~16:45
会場:春日部市郷土資料館 企画展示室(教育センター内)
入館料:無料
休館日:月曜日・祝日
関連イベント:4月17日(土)・25日(日)にミュージアムトーク(展示解説)を開催します。両日とも10:30~、15:00~(30分程度。申込不要)
<ご注意ください>
*新型コロナウイルス感染対策のため、皆さまの入館時にお名前と、連絡先のご記入をお願いしております。
**展示室内の入館者数の制限(30名程度)をしております。
***今後の新型コロナウイルス感染症拡大の動向によっては、展示・イベントが延期・中止となる場合があります。
市ホームページ、市教育委員会ホームページ、ほごログ等でお知らせします。
常設展プチ展示替その2ー貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました
郷土資料館再開にあわせ、先日、考古遺物の展示コーナーに、春日部市指定文化財の貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦(かいのうちいせきしゅつどしもうさこくぶんじのきひらがわら)を展示しました。
この瓦については、以前にもほごログでとりあげました。平成4年(1992)に行なわれた調査で発見された、下総国分寺で使われた瓦と同じ文様をもつ瓦です。
展示をご覧いただく際の注目ポイントは、上部表面の布目(ぬのめ)です。この瓦は「1枚作り」という技法で作られています。上部に凸部をもつ木製の台の上に粘土の板をのせ、上から木の板でたたきます。そうすることで、湾曲したしまりのある瓦をつくりあげています。台の上に粘土をのせる際、粘土と木製の台の間に布を敷きます。これは粘土を木製の台から離しやすくするためですが、その布のあとが、瓦の凹面についています。
瓦作りの技術は、仏教の伝来とともに、6世紀ごろ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わりました。瓦ぶきの建物を建設するために、大量の瓦を生産する必要があることから、「1枚作り」や「桶巻きづくり」といった技法が用いられました。
ちなみに軒平瓦の文様(もんよう)の部分は、本体部分とは別に作成し接合しています。文様は、削り出した木製の型を使って付けられています。貝の内遺跡出土瓦の文様からは、型にキズがあることが想定でき、下総国分寺で出土しているものと共通しています。
下総国分寺は、現在の市川市にありました。なぜ、市川市から遠く離れた貝の内遺跡で下総国分寺軒平瓦が出土したのかなど、まだまだ謎が多く、研究の余地が大きい瓦です。ぜひ資料館でご見学ください。
展示ケースに貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました。
瓦についた布目
参考文献
潮見浩 1988 『図解 技術の考古学』有斐閣選書
【3月27日】 #今日は何の日? in春日部
今から332年前の3月27日(旧暦)は、元禄2年(1689) #松尾芭蕉 が #春日部 に宿泊した日です。 #かすかべプラスワン
3月27日の明け方、江戸深川を出立した、松尾芭蕉は、弟子の河合曽良(かわい そら)とともに春日部に宿泊します(といっても、3月27日は旧暦。令和3年の暦では、5月8日にあたるようです)。
弟子河合曽良が残した「曽良日記」には、「一(ひとつ)、廿七日夜カスカヘニ泊ル、江戸ヨリ九里余」(原文は読点なし)とあります。「廿七日」は27日です。「奥の細道」の旅の一泊目の地は「カスカヘ」だったことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
曽良の「随行日記」により、春日部に宿泊したことが広く知られるようになりましたが、実は「カスカヘ」のどこなのかは依然として謎です。一説には、粕壁の東陽寺に宿泊したといわれ、境内には「随行日記」の一説を刻んだ石碑が建てられています(現代に建てられたものです)。もう一つよく言われるのが、小淵の観音院に泊まったのではないかという説です。これは、境内に芭蕉の句碑が建てられていることを根拠として唱えられるものです。句碑には「ものいへば 唇さむし 秋の風」と芭蕉の句が刻まれていますが、建立年代などの銘文がなく、いつ誰が建てたのか不明でした。
最近、各地の芭蕉墳(句碑)を紹介する「諸国翁墳記」(しょこくおきなづかのき)という近世中ごろに出版された本に、観音院の句碑のことが記されていることを見出しました。ここには「はせを墳 日光道中糟壁杉戸間 小淵村観音仁王門前 葛飾老茄園四世不牛建 ものいへは 唇寒し 秋の風」と記されています。観音院の句碑が、葛飾老茄園四世不牛という人物により建てられたことが判明したのです。この人物は、不牛ではなく、正確には「不干」(ふかん)と名乗り、内牧村南蔵院の修験者であり、文化・文政期を中心に俳諧を能くした葛飾蕉門の俳人でもありました。彼は、文化12年(1815)3月に葛飾蕉門(かつしかしょうもん)の名跡である老茄園を継いでいますので、この句碑が建てられたのは文化12年以降ということになるでしょう。
というわけで、観音院の句碑も、松尾芭蕉が観音院に宿泊したという決定的な証拠にはならないということになります。ただし、芭蕉の句碑は芭蕉を慕った津々浦々の人々によって、ゆかりの地などに「墳」(墓)とみなすものとして建てられ、碑とともにゆかりの品を埋納することもあったようです。観音院はどうだったのか、謎はますます深まるばかりですが、春日部市内のどこかに泊まったことは間違いないと思います。
前置きが長くなりましたが、長い臨時休館の間に収蔵資料を再整理する機会に恵まれ、館蔵のなかにも松尾芭蕉ゆかりの資料があることがわかりました。2つあるのですが、今回はその1つを紹介。
この軸は、荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本です。碑文には、「奥の細道」の矢立はじめの有名な一節、芭蕉の座像が刻まれています。文政3年(1820)10月12日に芭蕉忌に際して、書家として著名な亀田鵬斎(かめだ ほうさい)が銘文を、千住宿の文人建部巣兆(たけべ そうちょう)が座像を手がけたものです。この石碑は、現在は剥落がひどかったため、平成7年に復刻されているそうです。
碑文は、欧米では「フライング・ダンス」と称される、鵬斎独特の空を舞うような字体で書かれます。収蔵資料にも鵬斎書の薬種問屋の看板があります。石碑には、次のように書かれています。
「千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみだ
行はるや鳥啼き魚の目ハなみたをそゝく はせを翁
巳友巣兆子翁の小影をうつし
またわれをしてその句を記せしむ 鵬斎老人書」
この拓本は、近世中期に地域の俳人として活躍した石井文龍(ぶんりゅう)を輩出した家に伝来したものです。文龍は、葛飾蕉門の門人となり、寛政10年(1798)に二世「宜春園」の名跡を継いでいます。文政2年(1819)74歳で亡くなります。この拓本・軸は、直接文龍に関わるものではないようですが、「カスカヘ」に泊まった芭蕉の足跡や、後の蕉風俳諧の流行を伝える資料といえるでしょう。常設展示にすぐにでも出したいのですが、展示のスペースがないのが残念。
いつか、原物をご覧いただける機会を設けたいと思います。
参考文献 齊藤諒「『諸国翁墳記』研究ー諸本の出版年代について」『東洋大学大学院紀要』52、2015年
古利根~3つの名前を持つ河川~ # 桜咲くかすかべ
#桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
「古利根川(ふるとねがわ)」。
何ともノスタルジックな名前です。語義の通り、‘古い利根川’という意味です。利根川の変遷については、以前このブログで簡単にお話いたしました(春日部 利根川紀行)。
いったいいつから「古」となったのか、庄内古川の整備や江戸川の誕生など「新利根川」の誕生と関連があると思われますが、はっきりとした年代はわかっておりません。ただし通説では、上流に土手を築きしめ切ってしまうことで古利根川が利根川本流から切り離されていったのは、戦国時代末から江戸時代前期にかけての時期であると考えられています。
さて、この古利根川、国土地理院の地図を見ると「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」と書かれています。また、別名「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。古利根川の名称については、よく皆さまからご質問を受けますので、ここで簡単に説明いたします。
大落古利根川は、「大落」と「古利根川」の2つの名前を一括りにしたものです。「大落」とは、大きな落とし水、すなわち農業排水路のことです。江戸時代には「悪水路」とも呼ばれました。具体的には、江戸時代以降の河川改修により、古利根川は、騎西領、羽生領、向川辺領(いずれも、現加須市・羽生市・久喜市付近)の水田の落とし水(農業排水)を集めて水源としていたことから、「大落堀」と呼ばれていました。
「古利根川」はかつての利根川という意味ですが、正確にいつから「古」になったのかは、先述のように不明です。
一方で、古利根川は「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。聞きなれない方も多いと思いますが、「葛西用水」は、本来は、現葛飾区・江戸川区などにあたる葛西地域の水田へ、農業用の水を供給するため整備された農業用水路です。川俣(現羽生市)で利根川から水路を引き込み、はるばる東京の農地まで水を供給していました。春日部付近では、古利根川は長大な葛西用水の一部分として利用されていました。
春日部から下流に行くと、松伏溜井(まつぶしためい 現松伏町・越谷市 古利根堰)というダムがあり、夏季には用水を貯水していました。今でも夏季に古利根川の水位が上がるのは、このためです。こうした葛西用水の体系が確立したのは、江戸時代中ごろ、享保期のことでした。
このように、春日部付近の古利根川は、かつての利根川であり、上流からの農業排水路であり、下流への農業用水路でもあり、用水を確保するための貯水ダムでもありました。古利根川が持つ3つの名前は、こうした川の由来や機能を表したものなのです。
*参考 平成13年『第23回特別展(合同葛西用水展)古利根川の歴史と文化』パンフレット
再開初日。常設展プチ展示替
令和3年3月23日より、 #春日部市郷土資料館 が再開しました。 #かすかべプラスワン
再開初日、さっそく団体見学のお客様がお見えになり、約3か月ぶりに展示室がにぎわいました。
再開初日から常設展示もプチ展示替。
テーマは「遺らなかったかもしれない歴史~襖下張り文書の世界」と題して、収蔵資料の襖下張り文書(ふすましたばりもんじょ)を紹介しています。
昨年10月に福島県いわき市の方から電話をいただいたことが、この展示替のきかっけです。その方によれば、いわき市内の親戚の家を解体した際、襖の下から古文書が出てきたといいます。字は筆で書かれていてよく読めないが、「粕壁町」と書いてあるものが多いので、春日部市の郷土資料館に寄贈したいと申し出ていただきました。郵便で送付いただいたところ、粕壁町の公印や、町役場の罫紙を使用したものが多く、大半は明治時代の粕壁町役場の文書であることが判明しました。
紙が貴重だった時代、屏風や襖は、元の役割を終えた書類を再利用した反故紙(ほごし)が下張りに使用されました。下張りに使用されなければ、この世には存在しない「遺らなかったかもしれない歴史」だったかもしれません。
寄贈していただいた襖の下張りには、粕壁町の文書のほか、須賀村(現宮代町)役場のものや、福島県内の文書も混じっていました。おそらく、粕壁町や埼玉県内のくず紙が福島県方面に流通し、福島県の経師屋(きょうじや)によって襖が仕立てられたものと考えられます。寄贈していただいた方は、下張りをみて「貴重な史料だ」と思い、一枚一枚丁寧にはがしたそうです。「郷土の歴史のために地元で役立ててほしい」とメッセージをいただきました。
今回のプチ展示替は、福島県から届いた熱い想いをみなさんにご披露するものです。下張り文書は断片的で、ちょっとマニアックですが、これまでわからなかった歴史の一端を確実に伝える貴重な資料です。
暖かくなり、古利根川や粕壁宿の町並みを散策される方も増えてきているようです。町並みを散策される前に、郷土資料館にお立ちよりいただければ、まちの歴史や文化を知ってプラスワンな散歩になるのではないでしょうか。ぜひご覧ください。
令和3年3月23日から郷土資料館を再開します
新型コロナウィルス感染拡大防止のため令和3年1月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和3年3月23日から開館します。
なお、体験コーナーは一部利用できません。
3月28日(日)10:00から(当初予定12月26日(土)の振り替え)の考古学講座「権現山遺跡を探る」は、予定通り実施します。
春日部 利根川紀行 # 桜咲くかすかべ
#桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
春日部には、北から南に古利根川(ふるとねがわ)、庄内古川(中川)、江戸川が流れており、私たちに水の恵みをもたらしています。
こうした河川は、少なくとも歴史時代にはいずれも利根川であり、特に戦国時代の末から江戸時代の初めころ、おおよそ400年前ごろに行われたといわれる河道変更によって、利根川は銚子(現千葉県)へと流れるようになりました。庄内古川、江戸川は、いずれも利根川と称されていた時期があったようです。江戸川は、当初「新利根川」ともいわれていました。
また、利根川が国境であったことの名残りとして、武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)の国境、埼玉郡と葛飾郡の郡境は、時代によって変化していきました。
今日、桜を愛でることができる古利根川や古隅田川(ふるすみだがわ)は、古代・中世には利根川・隅田川であったと考えられています。当時の利根川は小渕付近で西側に折れ、おおむね現在の古隅田川筋を流れて、岩槻(現さいたま市)方面の元荒川へ流れていたと想定されています。今私たちの見る古隅田川の流れと真逆ですね。
この古隅田川や古利根川が国境・郡境であったことは、南北朝時代と室町時代の古文書で確認できます。約700年前、今の粕壁地区付近は春日部郷といわれており、市域の大半は下総国に属していました。江戸時代には、庄内古川(中川)を境に武蔵国に変わっています。
春日部では、このように時代によって違っていた利根川をまとめて見られます。川沿いにお花を見ながら、利根川の悠久の歴史を感じていただけると幸いです。
*参考 平成7年『第11回特別展 埼葛の歴史』展パンフレット
平成26年『第49回夏季展示 江戸川』展パンフレット
川沿いの桜 #桜咲くかすかべ
#桜咲くかすかべ
郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。
河川や水路が多い春日部市では、水辺に沿って桜が植えられ、お花見スポットになっている場所が多くあります。平成7年刊行の『春日部昔むかし』では、季節行事の「花見」の紹介にあたり、俳句の巨匠、加藤楸邨が句を詠んだ古利根川と古隅田川の合流地点のほか、古利根川の藤塚橋付近、八幡橋付近、古隅田川の南栄町付近を桜がみられる場所としてとりあげています。平成17年に庄和町と合併した現在では、庄和道の駅さくら公園から始まる庄内領悪水路沿いの桜並木も、川沿いの人気がある桜スポットです。
ところで、市内の川沿いの桜はいつ頃植えられたのでしょうか?過去の広報をひも解いてみました。植えられた時期が広報からはっきり読み取れたのは、「藤塚橋付近の桜」と、「庄内領悪水路沿いの桜」で、いずれも昭和60年であることがわかりました。
広報かすかべ昭和60年5月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)
「藤塚橋付近の桜」は、記事に「桜並木を復活させよう」とあるので、新しく植えなおしたことがわかります。
広報しょうわ平成4年3月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)
このほか、「古隅田川と古利根川合流地点の桜」は、古隅田川沿いと最勝院境内に、昭和29年の市制施行を記念して当時の商工会によって「観光桜」として植えられたものもあるそうです。(「かすかべ市議会だより」第28号 昭和52年5月)現在は、合流地点の桜は無く、十文橋西側の最勝院から春日部中学校裏に巨木が残ります。
古隅田川合流点の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)
十文橋西側の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)
「南栄町の古隅田川沿いの桜」は、内牧工業団地が昭和46年竣工なので、そのころに植えられたものでしょうか。
その他の桜は、植えられた年代がはっきりしません。しかしながら、広報をみていると、昭和62年に市民の方が「春日部には珍しい花見に出会いました。」(広報かすかべ昭和62年2月号)という文章を写真とともに寄稿しています。現在のように、市内のいたるところで桜の花がみられるようになるのは、意外と最近のことのようです。
ちなみに桜は樹齢約50年たつと、木の高さ約15m、幹の直径が約80㎝になるそうです。
この春は市内で、川沿いの風情ある立派な桜をどうぞお楽しみください。
参考文献
古隅田川土地改良区 1992 『古隅田川土地改良区記念誌』
臨時休館延長のお知らせ
新型コロナウィルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火曜日)から3月21日(日曜日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(3月7日までとしていたものを延長します。)休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、3月22日(月曜日)は通常の休館日です。今後の新型コロナウィルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を変更する場合があります。ご理解、ご協力をお願いします。
休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。
休館に伴い、下記のイベント、講座は中止します。
3月13日(土)・27日(土)古文書講座初級編・中級編
3月21日(日)体験ワークショップ 蓄音機で音楽を聴いて昔のおもちゃを作ってみよう
第37回小学校地域学習展「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」(会期 令和3年3月21日(日)まで)
【出張授業】「でばりぃ資料館」in備後小学校
令和3年3月4日(木)に備後小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
備後小学校では教室、低学年学習室、高学年学習室の3つの教室を利用して、それぞれ「60年前の春日部+昔の学校の道具」「昔の家の道具」「昔の農業」のコーナーを展開して開催しました。
「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーでは、近年と60年前の航空写真を用いて、現在の備後小学校の周りやイオンの周辺が、60年前にはどうなっていたかなどを比較しながら学習しました。
こちらは「昔の家の道具」コーナーです。
児童には黒電話や手回し洗濯機がいつも人気なのですが、アンケートを見ると意外にも「火のし」が印象に残ったと書いてあることも多いのです。「火のし」は穴に木炭を入れて金属部を熱し、現在のアイロンのように布のしわ伸ばしに使われていた道具です。
上の写真の左から2番目の道具が「火のし」なのですが、水をくむための柄杓にみえるという児童が多いようで、アイロンと同じ役割だったという意外性が印象に残るようですね。
「昔の農業」コーナーでは昔の米作り体験です。
稲の状態から手作業で玄米・白米にするには昔はどのようにしていたかを説明し、千歯扱きを使った脱穀体験や、籾摺り・米つき作業を簡易的に体験をしてもらいました。
「でばりぃ資料館」はまだまだ受付可能となっております!
早いもので今年度も残り1か月となり、学校の方も年度末で忙しい時期かとは思いますが、お電話と簡単な書類のやり取りのみで大掛かりな準備をしていだだく必要はございませんので、ぜひともご用命ください!
【出張授業】「でばりぃ資料館」in中野小学校
令和3年2月26日(金)に中野小学校へ出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
中野小学校では図書室を利用して「昔の家の道具」「昔の農業」の2コーナーを、3年生の各教室を利用して「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーを展開して開催しました。
図書室の「昔の家の道具」コーナーですが、道具のみならず、60年前・80年前の小学3年生の平均身長と比べられるパネルも持っていきました。背比べをしてみると、パネルよりやや大きい児童が多いようですね。
「昔の農業」コーナーでは、昔の米作り体験をしました。
説明の中で現代の米作りについて触れる部分もあったのですが、すでに学習済みの内容を含んでいるため、思い出してもらって復習することもできました。
でばりぃ資料館も開催後にアンケートをお願いしているのですが、やはり一度学習したことを思い出すことで記憶や知識の定着に繋がるので、復習する機会を与えることも大切にしていきたいと思っております。
教室での「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーは、2時間目は3年2組、3時間目は3年1組、といった具合で休み時間に資料を移動させて各教室で開催しました。
教室を活かして黒板に板書しながら解説し、耳から聞くだけでは頭で整理することが難しいことも、黒板に書いてあることで理解しやすくなったようです。
先生方からも「見学に行くのと違い、資料館が出張に来てくれることで、次の時間の授業がすぐに始められる」など感謝の言葉もいただき、ありがたい限りです!
コロナの関係で学校としても授業時間の確保が難しいことかと思います。だからこそ、“1時間でできる資料館体験”「でばりぃ資料館」をぜひご活用ください!
【出張授業】「でばりぃ資料館」in川辺小学校
令和3年2月19日(金)に川辺小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
川辺小学校では図書室を利用して「昔の家の道具」「60年前の春日部+昔の学校の道具」の2コーナーを、生活科室を利用して「昔の農業」コーナーを展開して開催しました。
図書室では机を移動していただき、空きスペースに60年前の春日部の航空写真を、移動した机をそのまま昔の学校の道具の展示台として活用しました。
今の児童が使うノートは紙でできていますが、昔は石板(せきばん)といって、まるで小さな黒板のようなものでした。石板は一回一回消しながら使うので、記録として残すことができず、復習をするのが難しかったかもしれません。
こちらも図書室です。長机をご用意いただき、昔の家の道具を展示・解説しています。
児童は職員の解説で印象に残ったことをメモしながらしっかり聞いていました。
自由時間になると、手回し洗濯機や黒電話など、回して体験できるものが大人気でした。
昔の農業は生活科室で体験しました。
児童からは「昔の苦労を知った」「こんなにいろいろ体験できると思わなかった!」という声が聞こえ、学習効果も満足度も高かった様子でした。
ありがたいことに、各学校から「でばりぃ資料館」のご予約を次々にいただいております!
体育館や、空き教室を3つご用意いただくのが難しい場合でも、今回のように、図書室などの広めの特別教室で2コーナーを展開して行うことも可能ですので、ぜひご相談ください!
資料も出張って活躍しています
先日、緑小学校では、1年生の国語「たぬきの糸車」の学習が行われました。子どもたちは、実物の「糸車」をみて、昔のくらしを想像しながら、楽しく作品の理解を深めてもらえたとのことです。
「でばりぃ資料館」が徐々に浸透・定着しつつあり、大変ありがたいことに、各学校に職員がお邪魔することが続いています。今回、緑小に出張ったのは「糸車」です。職員は付添いませんでしたから、いわば「糸車の一騎がけ」です。
意外と知られていないようですが、郷土資料館では、「糸車」のみならず、各種資料の貸し出しも(細々と)やっております。
「郷土資料館は狭くて展示資料も少なく活かせるものがないよ」とお思いの先生方もいらっしゃるようです。実は郷土資料館には展示室よりも広い収蔵庫には未だ展示しきれない資料が山ほどあります。なかには、学校の教材用としてご寄贈いただいたものもあります。詳しくは、ホームページの「学校の先生方へ」や「学校教材用貸出リスト」をご覧いただきたいのですが、ここに掲載している資料だけではなく、多彩な資料が本当にまだまだたくさんあります。たとえば戦時期の資料でも、海軍帽、配給切符、訓練用の手りゅう弾、出征時のタスキ・日の丸寄せ書き、軍の水筒、慰問の手紙、千人針などなど(ホームページの更新が望まれるところですね)。
学校にお邪魔して感じるところですが、子どもたちの成長過程や様子がわからず、不慣れな私どもがゲリラ的に授業をするよりも、先生方が資料を自在に自由に扱って授業を組み立てたほうが効果的な学習になるのではと思ったりもします。
学芸員や資料館が主たる「博学連携」は、とかく社会科学習に偏る傾向があります。資料館には「たぬきの糸車」のように様々な教科にもご活用いただける資料がまだ眠っています。そういう意味で、郷土資料館の潜在能力は未知数だと思います。私たちが思ってもみない資料の活用を提案・実践されることを期待しています。気軽にご相談いただければ幸いです。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in桜川小学校
令和3年2月16日(火)に桜川小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
でばりぃ資料館は、5つのテーマの中から学校の要望に合わせて3つを組み合わせて展示・解説を行う方式が基本の形です。
今回は、「60年前の春日部」「昔の家の道具」そして「昔のおもちゃ体験」を選んでいただきました。“おもちゃ”と聞くと、学習として活用しにくいと思われがちですが、実は児童自身が自分の経験と一番照らし合わせ易く、今と昔の違いを感じるにはもってこいのテーマといえるのです。
桜井小の先生は昔のおもちゃブースを見て、「これがもう資料なんですね」と呟いていました。
お気持ちよく分かります(笑)
今回は体育館での開催です。約60年前の道具と、今の家庭で使用している道具を比べて、機能や形状の違い、また動力の違いなどを解説しました。
車のトランクに若干の余裕があったため、昔の学校の道具も持って行かせてもらいました。
また、昔のおもちゃブースでは、学校でご用意いただいた新聞紙を使い、「紙鉄砲」の製作体験をしました。
今は遊びといえばもっぱらテレビゲームという児童も多いですが、からくりおもちゃを触ると大興奮!アナログなおもちゃにも子供心をくすぐる要素はたくさんあるものです。
賑やかでとても楽しそうな姿が印象的な桜川小学校3年生でした!
『でばりぃ資料館』のご予約はまだまだ受け付けております。新型コロナウイルス感染拡大防止対策をして開催いたしますので、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
出張授業 縄文体験教室 in 飯沼中学校
令和3年2月9日(火)に飯沼中学校で「縄文体験教室」の出張授業を行いました。
これまで「縄文体験教室」は小学校を対象に行ってきましたが、中学校での授業は今回初めて。
学年は中学1年生。
生徒さんたちは自分たちの身近な地域に遺跡や貝塚があること、春日部市に海が広がっていたことについて驚いていました。また史跡になった「神明貝塚」では、貝塚の特徴である海や川の幸のみならず身近なさまざまな食料資源を取り入れて生活を営んでいたことも学び、社会科の歴史教科だけではなく、生物学や人類学も縄文人の生活の解明に関連していたことを知っていただきました。
生徒さんがこちらからの質問に積極的に考え、答えたくれたので授業は大変盛り上がりました。
飯沼中学校の皆さま、ありがとうございました!
エア博物館 ぬりえがふえました
#エア博物館 #おうちで博物館 #ぬりえ
きょうどしりょうかんの、ぬりえがふえました。
おうちで、ぬりえをたのしんでください。
エア博物館 おうちでぬりえをしませんか(これまでのぬりえはこちら)
くりっくすると、PDF(ぴーでぃーえふ)ふぁいるをだうんろーどします。いんさつして、つかってください。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in南桜井小学校
令和3年2月5日(金)及び2月9日(火)に南桜井小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回のでばりぃ資料館は、なんと2日間開催!
1日目の2月5日には各クラスで航空写真や古写真を利用しながら、昭和時代の南桜井小学校周辺について学びました。
昭和前期の小学校の写真をみて、今と違うところを探してもらうと、建物の作りが現在と異なることや、服装・髪型の違いに気づき、とても驚いた様子。さらには、その写真が昔の南桜井小学校だと知ると、「えっ!?えっ!?」「これが!?」と大盛り上がりでした。
また、昭和40年の南桜井駅の写真では、駅舎に2階がなく、階段を上って別のホームに行くことができないことに注目してもらい、実は昔は反対のホームに行くには電車が来ていないときに線路を渡って反対側のホームに行っていたことなど、今の暮らしと比較しながら学んでもらいました。
2日目の2月9日には体育館で昔の暮らしや道具について解説を行い、その後、児童が4つに分かれた展示エリアを自由に見学しました。
こちらはでばりぃ資料館では今回が初出展となる昔の学校の道具ブースです。
教科書やランドセルの大きさが今とは異なります。また、昔の小学1年生の教科書はひらがなではなく、カタカナから習っていたことに驚いた様子でした。
読んでみて、触ってみて体験型の学習ですね!
ちゃぶ台の前では「ご飯だよ~」という声が!
昔の雰囲気・・・出てます!(笑)
南桜井小学校では2時間いただけたことで、より時間をかけてじっくりと学んでもらえたかと思います。
私たちも、毎回反省を重ねながら、よりよい資料館体験をしてもらえるよう思案しております。そのせいか、回を重ねる毎に少しずつ持ち運ぶ教材が増えていき、移動用の車に乗せることが困難になってきました(苦笑)
今回はテレビや新聞の取材もあり、コロナの中でも試行錯誤して教育を進める学校や行政の取り組みを紹介する良い機会となりました。
『でばりぃ資料館』のご予約はまだまだ受け付けております。新型コロナウイルス感染拡大防止対策をして開催いたしますので、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!
臨時休館延長のお知らせ
新型コロナウィルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火曜日)から3月7日(日曜日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(2月7日までとしていたものを延長します。)休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、3月8日(月曜日)は通常の休館日です。今後の新型コロナウィルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を変更する場合があります。ご理解、ご協力をお願いします。
休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。
休館に伴い、下記のイベント、講座は中止します。
2月13日(土)古文書講座初級編・中級編
2月20日(土)体験講座「縄文土器から音楽を作るチャレンジ」
2月21日(日)体験ワークショップ 蓄音機で音楽を聴いて昔のおもちゃを作ってみよう
大衾(おおぶすま)って珍しい地名!?
言葉に地域差があるのと同様に、漢字にも特定の地域だけで通用する「方言漢字」がある
と紹介する『方言漢字 埼玉県編』(リーフレット)に、市内の地名「大衾」(おおぶすま)が紹介されました。
このリーフレットは、「八潮の地名から学ぶ会」という団体が発行するもので、県内で使用される「方言漢字」を紹介するものです。
同会によれば、「衾」のつく地名は県内でも数例あるそうですが、住居表示では「春日部市大衾」が県内唯一だそうです。
大衾の地名の由来については、つまびらかでありませんが、一説には「フスマ」は「フシミ(伏見)」と同語で、「フシミ」とは「うつみて見ること」。大衾は、下総台地から中川低地を見下ろすことのできる傾斜地なので、「大衾」と名付けられたといわれています(埼玉県地名誌)。
「大衾」の意味の真偽はともかく、地名がその土地の風土・環境、歴史・文化を体現していることは、いうまでもありません。そういえば、以前「中央」という地名がつくられ、古い地名が失われたことを紹介しました。
『方言漢字 埼玉県編』を発行された同会は、地名は土地の記憶であり、地域固有の宝、まちづくりに活かせるのだと提唱され、幅広く活動されています。このたび、同会のご厚意により『方言漢字 埼玉県編』をお分けいただき、郷土資料館に配架させていただくことになりました(なお、現在、郷土資料館は臨時休館中ですので、入り口付近のチラシラックに配架しています)。
ご興味がある方は、無料で配布していますので、ぜひお手にとってご覧ください。一風変わった「方言漢字」や珍しい地名が、県内でも多用されていることに驚かされますヨ。
【出張授業】「でばりぃ資料館」in牛島小学校 4年生
令和3年2月3日(水)、牛島小学校に出向き、第4学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。
今回のでばりぃ資料館は、社会科の県内の伝統・文化を学習する単元にお邪魔して、市内に伝わる古い建物や民俗芸能などを、写真や映像をつかって紹介しました。
授業では、まず、牛島小学校周辺のお寺や神社について、お寺と神社って何が違うのか、身近な寺社にも古くから伝わる貴重なモノが遺っていることを紹介しました。牛島に所在する女体神社や宝光院は通学路や家の近所の子どもたちが多くいました。女体神社は、なぜ女体という名前が付けられているか、よくわかっていないと話すと、自分たちで調べてみたいと話す子どもたちもいました。
つづいて、市内に伝わる獅子舞や神楽、指定文化財の建造物を紹介。市内とはいえ、いったことも聞いたこともない地区に伝わる文化財でも、郷土かるたの絵札になっているため、知っている子たちも多くいました。授業では、不動院野の神楽や倉常の神楽囃子のDVDを鑑賞し、長い年月をかけて、地域の人たちが伝えてきた民俗芸能の様子も見てもらいました。
こうした伝統的な民俗芸能、古い建造物であっても、失われてしまったものもあることを紹介しました。下の写真の下蛭田の獅子舞は、豊春地区の下蛭田に伝来した獅子舞でしたが、昭和39年(1964)を最後に舞われることはなくなり、平成6年(1994)に一度復活しましたが、現在では行われていません。なくなってしまったことは、誰かが悪いわけではなく、みんなの関心がなくなったり、価値を知らない人が増えたためです。失われていく文化財がある話題は、子どもたちにとって少しショッキングだったようです。
講師となった学芸員は、最後に「地元に獅子舞や神楽、古い建造物等があることを知り、興味を持ち続けてもらうことが、未来へと地域の文化を守り、伝えていくことになる」、と文化財保護課の職員らしいメッセージを伝え、授業を終えました。
少し難しかったかもしれませんが、「楽しかった」とか「詳しく調べてみたい」と話す子どもたちもおり、地元を見つめなおすきっかけになったのならば幸いです。
今回は、4年生の社会科の授業にお邪魔しましたが、新型コロナウイルス感染拡大防止対策をとったうえで開催いたしますので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!