ほごログ
【1960年代の春日部】1967年埼玉国体の審判員ブレザー
1967年(昭和42年)10月22日から27日にかけて、埼玉県で第22回国体秋季大会(国民体育大会)が開催されました。春日部市(旧)では、大沼運動公園グラウンドで、女子ソフトボールが行われました。
今回ご紹介する国体審判員のブレザーは、上尾運動公園陸上競技場で開催された陸上競技で、東中野ご出身の鈴木文一さんが身につけられていたものです。ブレザーには、N.R.R(当時の日本陸上競技連盟の略称)のワッペンや徽章、埼玉国体のワッペンなどが付けられています。
鈴木さんは、ともにご寄贈いただいた審判員証によると、1967年の5月に審判員の資格を取得し、国体の予選会や国体後は、11月に埼玉で行われた第3回全国身体障害者スポーツ大会でも審判員をつとめられました。
宮川小学校で出張授業を行いました
7月14日(火)に宮川小学校の6年生を対象に縄文時代の生活や食に関する出張授業を行いました。今学期は八木崎小、備後小に続いて3校目となりました。 教科書では国特別史跡である千葉県の加曾利貝塚や青森県の三内丸山遺跡が取り上げられていますが、春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が身近にあること、また実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。
▲授業導入では神明貝塚の紹介動画と学校近くの遺跡を紹介。宮川小学校付近では花積地区や内牧地区で旧石器時代からムラがつくられていました。住んでいる場所が昔どんな様子だったか知ることで、歴史をより身近に感じられます。動画を見たり説明を聞きながら、気づき感じたことをメモする児童たちの姿も見られ、一生懸命の授業風景です。
体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。
▲実物の土器や貝殻を観察し、触れることで、それぞれの特徴や違いを直に感じとってくれました。
児童からの率直な感想や質問が飛び交い、各コーナーとも楽しく学ぶことができました。
この出張授業は学校の依頼に応じて2学期初めまで取り組みます!
備後小学校で出張授業を行いました
7月10日(金)に備後小学校の6年生を対象に縄文時代の生活や食に関する出張授業を行いました。
教科書では国特別史跡である千葉県の加曾利貝塚や青森県の三内丸山遺跡が取り上げられていますが、春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が身近にあること、また実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。
▲授業導入では神明貝塚の紹介動画と学校近くの遺跡を紹介。現代と縄文時代の暮らしの違いについては児童が気づき感じたことをメモする姿がみられました。一生懸命の授業風景です。
体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。
▲実物の土器や貝殻を観察し、触れることで、それぞれの特徴や違いを直に感じとってくれました。
この出張授業は学校の依頼に応じて2学期初めまで取り組みます!
【おうちで夏祭り】市民夏祭りの歴史
春日部の夏の風物詩・市民夏祭りの季節となりましたが、今年はコロナ禍の影響により中止となってしまいました。今回は、 #おうちで夏祭り と題して、春日部の市民夏祭りの歴史について紹介しようと思います。
第一回の市民夏祭りは、昭和48年(1973)7月14日・15日に開催されました。当時の市の広報誌には次のように紹介されています。
市制20周年記念“夏祭り”は7月14日、15日に市街地通りで盛大に行なわれました。初の「歩行者天国」を実施し、町並み通りは夏祭り一色になり、チビッ子御輿(みこし)がねり歩く姿が見られました。夜になると、婦人会や一般市民の春日部音頭の踊りがひときわ祭りを盛り上げたり、各町内の大型御輿12台が勢揃いし、町並通りコースをかけ声も威勢よく、沿道を埋めた7万人の観客をかき分けながらねり歩き、夏祭りは最高潮に達して、夏の日夜を市民こぞって楽しく過ごしました。(原文ママ 昭和48年8月広報誌№199より)
市民夏祭りは、市観光協会、地区長会、商工会が主催者となり、春日部市制20周年を記念して始まったイベントでした。現在は、参加する町会が増え、最大25基もの御輿(神輿)が「御輿パレード」と称して、春日部駅東口界隈をねり歩き、子どもから、若者、お年寄りまで、老若男女が集まり、大変なにぎわいをみせています。
昭和48年~現在に至るまでの市民夏祭りにはさらなる起源があります。
その起源とは、春日部が「粕壁宿」と呼ばれていた時代、江戸時代まで遡ることができます。
粕壁宿の宿入口には市神とよばれる牛頭天王社(現在の八坂神社)が所在します。牛頭天王社では、毎年夏と秋に祭礼が行われていました。
文政8年(1825)6月には、9日に御輿の仮宮を造り、12日~14日は「夜宮」と称して、毎夜家並に懸け行灯をして、町内ごとに神酒所をつくり、子どもたちが集まり太鼓を敲き、15日の御輿渡御には、若者たちが町内毎に蛇や宝船などの造作物や舞台をあつらえ子供や、太神楽舞の芸人が躍りました。中宿では、関宿町の天王祭礼に呼ばれた浄瑠璃語りの駒太夫を招き、浄瑠璃を演じさせたといいます(『春日部市史 近世史料編Ⅲノ1』p355-357。文政13年(1830)にも、粕壁宿の人たちが町内ごとに揃いの単物を着て、囃子台を組み、笛・太鼓を奏でながら宿内を牽き歩いています(『春日部市史 近世史料編Ⅱ』p770).
このように、粕壁宿では、工夫を凝らして、神事祭礼に彩りを添えましたが、当時の幕府から祭礼が華美であるとして罰金刑を処されました。問題とみなされたがために、祭礼の様子が記録に遺されることになったのです。
明治時代、牛頭天王社は八坂神社と改称されます。その後の祭礼については記録が見出されていませんが、大正時代と推定される写真絵葉書には、粕壁の町内を各町の山車や御輿がねり歩く様子が伝えられています。江戸時代の雰囲気を伝える貴重な写真です。山車を牽く人たちが新町橋を渡っています。
八坂神社の祭礼は、戦後一時中断されましたが、その後再開されることになります。市の広報誌の旧蔵写真には昭和37年(1962)の八坂神社祭礼の様子が記録されています。
写真を見る限り、後の市民夏祭りほどにぎわっている感はないようです。意外ですが、「八坂神社の祭礼では、出店などが多く出ていたわけではなく、どちらかといえば町内の祭礼行事のようだった。出店などで賑わったのは、神明神社の酉の市だった」と、地元の方に教えていただいたことがあります。
そうして、八坂神社の祭礼は、市制20周年記念として市民夏祭りとして改組されるにいたるのです。日光道中粕壁宿の町並みにあたる春日部大通りで行われるのも、毎年7月に行われるもの、実は、粕壁宿(町)の牛頭天王(八坂神社)の神事祭礼に求められるわけです。
伝統と創造を兼ね備えた市民夏祭り、来年は無事に開催されることを祈るばかりです。今年は、御輿パレードはみれませんが、粕壁宿の市神八坂神社にはいつでもご覧いただけますので、是非のぞいてみてはいかがでしょうか。八坂神社境内には、牛頭天王社の神主で、寺子屋の師匠でもあった柳内匠の筆小塚があります。ちなみに、牛頭天王は疫病の神様だったりもします。
#顔ハメ はじめました
春日部市郷土資料館、オリジナルの #顔ハメ ( #顔はめ )、はじめました。春日部の特産品「 #押絵羽子板 」の弁慶や藤娘になって、記念撮影をしてみませんか?
導入にさきがけて、たまたま展示室に居合わせた幸松地区の子どもたちにモデルになってもらいました。大変好評でした。
また、昨年度の企画展の「成金鈴木久五郎」のポスターも喜んで持ち帰ってくれました。鈴木久五郎は、幸松の偉人なのを知っているかい?と聞きたいところでしたが、野暮なので尋ねるのはやめておきました。
なお、コロナウイルス感染拡大防止のため、常設はしていませんので、使ってみたい方は受付までお申し出ください。
【1960年代の春日部】1960年代と現在の東武鉄道の運賃の比較
春季展示で予定しておりました「1960年代の春日部」展は中止になりましたが、現在、これに変わる1960年代の春日部に焦点を当てた展示を準備しております。開催時期等、確定いたしましたらまたご案内いたします。
さて今回は、春日部から北千住までの東武鉄道の運賃について、1962(昭和37)年と現在を比較します。
初乗り運賃は、10円から150円と実に15倍になりましたが、春日部から北千住間の運賃では、90円から420円と約4.6倍です。
春日部から北千住間の通勤定期の運賃は、1カ月では、830円から15,290円と約18倍になっています。普通運賃と比べ、定期の値上げ幅が大きいのは、普通運賃に対する割引率の縮小が原因と考えらえます。
物価の比較として、経団連等の調査による1962(昭和37)年当時の会社員の初任給は、約18,000円(大卒・事務職)、2019(令和元)年では、約217,000円(前同)と約12倍になっています。
ところで通勤手当は、1960~1970年代の高度経済成長期に導入する企業が増えました。企業の労働力確保のために、郊外から労働者を集めるための手当です。通勤手当に法律上の義務等は無く、あくまで企業などの規則で定められる任意のものですが、現在の日本では8割以上の企業が導入しています。世界の多くの国では通勤費は自己負担で、通勤手当の習慣がある国は少数派だそうです。
一方で通勤手当は、遠くから通勤しても電車賃は会社負担であるため、遠距離通勤や満員電車の通勤地獄などサラリーマンのストレスを助長する原因であったとも考えられています。
東武鉄道の初乗り運賃(円) | 春日部~北千住の普通運賃(円) | |
1962(昭和37)年 | 10 | 90 |
2020(令和2)年 | 150 | 420 |
春日部~北千住の通勤定期運賃 | 1カ月(円) | 3カ月(円) | 6カ月(円) |
1962(昭和37)年 | 830 | 2,370 | 4,480 |
2020(令和2)年 | 15,290 | 43,580 | 82,570 |
協力 東武博物館
参考文献
東武鉄道年史編さん事務局編集 1964『東武鉄道65年史』東武鉄道株式会社
森永卓郎監修 2008 『物価の文化史事典』展望社
(一社)日本経済団体連合会(一社)東京経営者協会 2019年10月29日「2019年3月卒「新規学卒者決定初任給調査結果」の概要」https://www.keidanren.or.jp/policy/2019/088.pdf(インターネット閲覧)
八木崎小学校で出張授業を行いました
6月29日(月)に八木崎小学校の6年生を対象に縄文時代に関する出張授業を行いました。学習指導要領の改定や新型コロナウィルスの影響もあり、この時期までずれ込んでしまいましたが、今年度最初の出張授業となりました。
教科書では国特別史跡である千葉県の加曾利貝塚や青森県の三内丸山遺跡が取り上げられていますが、春日部市の遺跡や国史跡に指定された神明貝塚について学び、縄文時代の遺跡が身近にあること、実体験をとおして縄文人の生活を学習することが狙いです。
▲授業導入では神明貝塚の紹介動画と学校近くの遺跡を紹介。集中してみたり、メモしたり、一生懸命の授業風景です。
体験のコーナーでは、市内の遺跡から発掘された土器や石器、神明貝塚で発掘された貝がらに触れたり、担当者が加工した黒曜石の石器を使って段ボールを切る体験をしました。教科書の写真や記述だけではなく、体験をとおして縄文人の生活をより一層、理解してもらえたのではないでしょうか。
▲切れ味抜群の黒曜石の剥片。段ボールが難なく切れ込める、この切れ体験では毎年、歓声があがります。
1学期末まで各学校の依頼に応じて、この出張授業に取り組みます!
【 #常設展 】#春日部を踏みしめよう! 【 #土足歓迎 】
#春日部市郷土資料館 の常設展示は日々替わっています。今回は「空から春日部をみてみた」を追加しました。
説明不要だと思いますが、要するに、春日部市域の航空写真を床に貼ってみました。手作りです。
写真は平成26年4月頃のものです。製作にあたっては、国土地理院の地理院地図を活用しました。
でも、ただ見るだけじゃ、つまらない。「見るんじゃない、感じるのだ」
ということで、郷土春日部を踏みしめましょう。「土足禁止」ならぬ、「土足歓迎」です。
ご自分のご自宅や学校・会社、市の施設がどこにあるか、目と足で感じ、探してみてくださいね~
春日部市の「へそ」をさぐる
春日部市の「へそ」はどこでしょうか。「へそ」とは、人の腹部にあるくぼみ(おへそ)のことですが、転じて、物の中央にあたる部分、物事の重要な部分の意でも使われます。春日部市の「へそ」を探る方法を思案すると、市域の中心地点(これを幾何的重心というそうです)が思い浮かびます。それを求めるのは複雑な数式を解かなければならないので、それは後考に期すとして、人文学的には次の二つのアプローチが思い浮かびます。
①仮説上の「へそ」
最近の国勢調査では、全国の市町村別の人口重心が公開されています。
人口重心とは、人口の1人1人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が全体として平衡を保つことができる点をいいます。
平成27年の国勢調査によれば、春日部市の人口重心は、東経139度45分55.14秒 北緯35度58分16.1秒ということがわかりました。地図におとすと、ゆりのき通と東武線が交差するアンダーパスの南側の付近(緑町1丁目14番地)に相当します。ちなみ、平成22年の国勢調査による人口重心は、東経139度45分55.10秒 北緯35度58分15.67秒となり、この5年間で約5m北西に移動したことがわかります。
②市政における「へそ」
春日部市には「中央」という住居表示があります。
春日部市の「中央」は、元は大字粕壁の一部、春日部駅西口に展開する商業地区および住宅地区にあたります。昭和43年(1968)9月の市議会で、大字粕壁字内出(うちで)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)を、中央一丁目、二丁目と定めることになり、昭和44年(1969)7月26日に誕生しました。
当時の春日部市は武里団地の造成をはじめとして、人口が急速に増加する傾向にありました。とりわけ現在の「中央」一帯は、昭和42年(1967)の国民体育大会に伴う整備以降、商業地区・官公庁が集約される地区として急速に発展を遂げていきました。昭和44年(1969)1月には市立病院が完成、同45年(1970)12月には市役所(現庁舎)が完成、同46年(1971)12月には駅西口改札が開設され、市の「中央」としての機能を備えいきました。
「中央」の住居表示を得た、春日部駅西口の付近の貴重な写真を紹介しましょう。いずれも当時としてはまだ珍しいカラー写真で市の刊行物に掲載されたものです。一枚目は昭和45年(1970)頃の春日部駅西口付近を空撮したものです(当時は西口改札はまだありませんでした)。
低地に広がる田圃が、直線・直角の街路で整然と区画されいったことがわかります。
次は、昭和46年(1971)ごろの市庁舎より春日部駅方面を眺めた写真。
駅のホームまで見通せます。東口には今はなきスーパーマーケット(尾張屋・ニチイ)が建っています。
ところで、春日部市のみならず、昭和40年代から50年代にかけて県内各市町で「中央」の住居表示が創られていきました。県内の「中央」を列記すると以下の通りです(『角川日本地名大辞典』11埼玉県、昭和55年)。
・草加市 昭和41年(1966)4月に草加駅付近を「中央」
・蕨市 昭和41年(1966)10月に市の中央部・蕨駅付近を「中央」
・加須市 昭和42年(1967)5月に加須駅付近を「中央」
・本庄市 昭和45年(1970)9月に市の中央部・官公庁が集約される地区を「中央」
・上福岡市 昭和47年(1972)4月に市の中央部・上福岡駅近くを「中央」(現ふじみ野市上福岡中央)
・北本市 昭和48年(1973)6月に北本駅付近を「中央」
・久喜市 昭和48年(1973)11月に市の中央部・久喜駅付近を「中央」
・行田市 昭和51年(1976)2月に市の中央部・行田市駅南口付近を「中央」
昭和55年以降、栗橋町にも「中央」(現久喜市栗橋中央)、鷲宮町にも「中央」(現久喜市鷲宮中央)が創られていったようです。最近の例では、お隣のさいたま市では、平成15年(2003)4月の政令指定都市施行に伴い、旧与野市域が「中央区」と命名されています。
高度経済成長期の行政は、官公庁や市街地の中心となる駅周辺部を町の中心として「中央」と名付けたがる傾向があるようです。町が「中央」を基点にして発展することは歓迎すべきことではありますが、「中央」と名付けられることによって、「馬草場」や「与野」といった先人たちがつけた地名が失われていく側面も見逃せません。
いずれにしても、昭和40~50年代、あるいは1960~70年代にかけて、春日部市をはじめ埼玉県下の市は、高度経済成長の波にのみこまれて、都市化を遂げ、現在の町に至っているといっても過言ではありません。
春日部市に「中央」という「へそ」がが生まれたのは1960年代。春日部の町がどのように変わっていったのか、詳しく知りたいなぁ~、と思う今日この頃です。
・・・今後の郷土資料館の活動にご期待ください。
資料を寄贈いただきました♪
令和2年6月23日(火)には、市民の方から歴史資料の寄贈をいただきました。
ありがとうございます。
内容は、『上柳区・川端支部(川端組)の青年会』の昭和25年(1950年)から令和元年(2019年)までの青年会の総会についての財務収支表です。
●資料名:春秋青年会当番賄控帳 川端組
●年代:昭和25年9月~令和2年3月
●大きさ:縦 33㎝ 横 12㎝ 厚さ 2.5㎝
戦後から令和にいたる、時代ごとの物価・品物・社会状況などを垣間見ることができる大変貴重な資料であり、「飲み物、食べ物の値段は70年でこんなに変わるものなのか」と改めて実感する事ができました。
上柳地区川端支部の皆さま、代々引き継がれる資料を寄贈いただき、ありがとうございました。
【常設展示】ビデオコーナーと体験コーナーを復帰しました
コロナウィルス感染防止のため一時中止しておりました、ビデオコーナーと体験コーナーにつきまして、安全対策が十分に行えるものに限り、復帰しました。
ビデオコーナーは、5名様まで、間隔を開けた状態で30分までに限り、ビデオ、DVDをご視聴いただけます。
体験コーナーには、次のものを復帰しました。つかいおわったおもちゃは元に戻さず、「つかったものを入れる箱」を用意しましたので、その中に入れてください。1日あけて、消毒した上で、もとに戻します。
・赤電話、黒電話(あかでんわ、くろでんわ)
・けんだま
・まんげきょう
・ぴょんぴょんカード
・パタパタ
・かみとんぼ
・かみてっぽう
・おてだま
・めんこ
・ぶんぶんごま
・かざぐるま
・レインスティック
郷土資料館ではコロナ感染症拡大防止のため、いくつかのお願いをしております。皆さまにはご迷惑をおかけしますが、ご協力いただきますようお願いいたします。
また郷土資料館にお越しの際は、ご無理のないようお気を付けください。
【配布してます】広報写真にみる1960年代の春日部
<ご注意ください。郷土資料館は6月13日(土)は臨時休館です。>
資料館では、6月2日より「KASUKABE1960s-1960年代の春日部」を実施する予定でしたが、コロナウイルス感染拡大防止のため、中止といたしました。楽しみにされていた皆様には、お詫び申し上げます。
かわりにではございませんが、資料館では現在、「広報写真からみる1960年代の春日部」と題した小冊子を配布しております。PDFを掲載いたしますので、ご覧いただければ幸いです。
広報写真にみる1960年代の春日部.pdf(1269KB)
冊子に掲載している写真は大部分が、郷土資料館サイト内の「かすかべデジタル写真館」に掲載しているものです。デジタル写真館では、1960年代に限らず、昔なつかしい写真を多数、掲載しておりますので、あわせてご覧ください。
郷土資料館ではコロナ感染症拡大防止のため、ご来館の皆さまにいくつかのお願いをしております。皆様にはご迷惑をおかけしますが、ご協力いただきますようお願いいたします。
また郷土資料館にお越しの際は、ご無理のないようお気を付けください。
【常設展】常設展示に米島貝塚出土黒浜式土器を2個体展示しています
常設展示で、これまで1個体を展示していた米島貝塚(こめじまかいづか)出土の黒浜(くろはま)式土器を2個体に増やしました。昨年の春の展示「指定文化財でめぐる春日部」で企画展示室に展示したもう1点の指定文化財の土器です。
米島貝塚出土黒浜式土器は、昭和36年(1961)に、住宅地造成に先立って行われた発掘調査で発見されたもので、平成20年に、優品2点が春日部市有形文化財に指定されました。
「黒浜式」は、蓮田市の黒浜貝塚群の出土土器をもとに設定された縄文時代前期の土器型式で、比較的粗い縄文が施されることが特徴です。また粘土に植物繊維を混入している痕跡が見られることから「繊維土器(せんいどき)」とも呼ばれます。「繊維土器」の手法は、黒浜式以前から確認されますが、黒浜式の次の「諸磯(もろいそ)a式」には見られなくなります。
米島貝塚では、黒浜式の中でも古段階の土器が出土する10号住居跡と黒浜式の繊維土器でありながら「諸磯a式」に近い文様をもつ土器が出土する2号住居跡が発見され、黒浜式土器の変遷を検討するきっかけになりました。
常設展示で、向かって左側に展示しているものが10号住居跡出土のもの、右側が2号住居跡出土のものです。10号住居跡出土土器は、米島貝塚の報告書では「g類」とされ、「器面全体が縄文(じょうもん)のみで覆われ」ています。一方、2号住居跡出土土器は「f類」とされ、「口縁部(こうえんぶ)に半截竹管具(はんさいちっかんぐ・半割りの竹)を用いて(中略)極めて幅の狭い文様帯(もんようたい)をもつもの」で、展示の土器にも、竹管具によるコンパス文と呼ばれる文様が描かれています。
現在の黒浜式土器の研究では、およそ古、中、新の3段階の変遷をたどるとされており、10号住居跡は古段階、2号住居跡出土土器は中段階に属すと考えられています。
しろのTシャツの少年、#クレヨンしんちゃん の記念スタンプをおす
6月5日夕方、「しろのTシャツを着た小学生が来ています」と、受付から連絡がありました。「しろのTシャツ」とは、白いTシャツではなく、クレヨンしんちゃんの愛犬「シロ」の図柄のTシャツのこと。色は青でしたから、シロの青いTシャツです。
先だっての再開後、 #春日部市郷土資料館 では、クレヨンしんちゃんの常設展示コーナーを開設していましたから、「これは再開後の一大ニュースだ!」ということで、しんちゃんの常設展示コーナーで記念に写真を撮らせてもらいました。話を聞くと、男の子は、市内在住のしんちゃんが大好きな小学3年生。好きなキャラクターは、しんちゃん、だそうです。
特製のスタンプも、何度もおしてくれました。当館では、スタンプは2種類用意していますが、しんちゃんとシロの絵柄のスタンプがお気に入りとのことで、とても喜んでくれました。
しんちゃんは、漫画やアニメだけでなく、春日部の郷土資料館でも子どもたちを笑顔にしてくれています。
ポツンと子どもの人形 新型コロナウイルスの終息と疫病除けを願って
郷土資料館展示室の片隅に、ポツンとおかれた子供の人形。
座敷童子(ざしきわらし)ではありません。
皆さま、当館に来館されたら、どこにいるか、探してみてください。
この子が羽織(はお)っているのは、80年くらい前に、市内の小学校に通っていた児童が、実際に着ていたものです。マスクをしているのは、もちろん今の新型コロナウイルスに感染しないよう、皆さまに注意を促すためです。
さて、この子は、何やら呪文のようなものが書かれた紙を、手に持っています。
よく見ると、この紙には「疱瘡神五人誤り證文事」と、タイトルが書いてあります。「ほうそうしん(がみ)ごにんあやまりしょうもんのこと」と読みます。
疱瘡(ほうそう)とは天然痘(てんねんとう)のこと。すでに40年前、地球上から根絶されたウイルスですが、強い感染力を持ち、致死率が高く、かつては恐ろしい流行病でした。科学的な知識が普及する前は、病は疫病神(やくびょうがみ)によってもたらされると人々に考えられていました。
江戸時代には、疱瘡神は、症状ごとに5柱に分かれており、この紙が貼ってある家には入りません、疱瘡神は取りつきませんと、疱瘡神たちが約束したものです。「疱瘡神の詫び証文(ほうそうしん(がみ)のわびしょうもん)」として、歴史学や民俗学の専門家の間では、よく知られている古文書です。
疱瘡神に対してこのような誓約書を書かせたとすることで、疱瘡を予防しよう、発病しても軽症にとどめてもらおうと、江戸時代の人々は考えたのです。この誓約書は、市内に伝わったもので、実際に使われたものなのでしょう。このような疱瘡神の詫び証文は各地に伝わっており、特に、子供のいる部屋の中に貼り付け、使われていた例が、これまでにわかっています。
新型コロナウイルスは、天然痘ではありませんが、同じ疫病であることから、疫病退散の意味を込めて、この子に持ってもらいました。
なお余談ですが、この誓約書の本文の最後に、「依而如件」と書かれています。「よってくだんのごとし」と読み、以上のとおりです、という意味の決まり文句ですが、この「件」という文字に由来する、半人半牛の姿の「件(くだん)」という妖怪がいました。「件」は疫病の流行や豊作などの人々にとっての吉凶を予言し、「件」の絵は疫除けとなると考えられていたそうです。
*疱瘡神の詫び証文については、時枝務氏の研究成果「呪符・守札と偽文書」(『偽文書学入門』2004年 柏書房)などに、妖怪「件」については、関口博巨氏「近世人の表現をめぐる試論―妖怪・昔話・芝居・偽文書など―」(『偽文書・由緒書の世界』2013年 岩田書院)によりました。
#アフターコロナ 郷土資料館再開 #クレヨンしんちゃん 登場など展示替
本日、令和2年6月2日(火)より #春日部市郷土資料館 が再開しました。十分な感染症対策を行った上での開館となり、ご利用の皆様に諸々のお願いをしております。今日は、再開後の資料館の様子をお伝えします。
館内に入ると、まず受付にビニールカーテンがつるされています。少し前でしたら異様でしたが、巷ではもうおなじみのビニールカーテン。飛沫感染を予防するためです。
入館される方には、皆様の安全を確保するため、お名前とご連絡先の記名やマスクの着用をお願いしています。
当館ではおなじみの、昔のおもちゃなどで遊べる体験展示コーナーですが、こちらも感染症予防のため大幅に展示物を撤去し、体験をご遠慮いただいております。
縮小につぐ縮小でご不便をおかけしておりますが、再開後の良いニュースもあります。
本来ならば、4月7日にお披露目する予定だった展示替「クレヨンしんちゃんと春日部」の展示が、ようやくお披露目することができました。ほんとに小さなスペースですが、春日部市で制作したクレヨンしんちゃんの関係資料や、春日部ゆかりののある作品などを展示しています。なかでもイチオシなのが、「郷土資料館オリジナルのしんちゃんスタンプ」です。世界で唯一のスタンプを、ぜひご利用ください。スタンプはこまめに消毒しておりますので、ご安心を。
また、地味ですが、①常設展示「江戸時代の村々」コーナーの古文書、②「水とのたたかい」コーナーの明治43年(1910)の水害記録「幸松村水害誌」を展示替えしました。①は、ちょうど300年前の水角村の古文書(年貢割付状)をくずし字が読めなくてもわかるように展示しました。②は、水害後の幸松村の産業についての報告記事を紹介しています。あわせてご覧ください。
今後、コロナウイルスの感染の収束状況により、展示替や各種イベントを再企画していく予定です。
庄和総合支所で展示替えを行いました
庄和総合支所1階ロビーで開催している「春日部市発掘調査速報展示」の展示替えを行いました。
今回の展示は、平成29年度の権現山(ごんげんやま)遺跡3次地点、令和元年度の鷲前(わしまえ)遺跡1次地点の発掘調査成果のお披露目となります。どちらも庄和地区の東中野(ひがしなかの)に所在する遺跡で、昨年度、整理作業が終了し全ての発掘調査を終えました。
権現山遺跡の調査では古墳時代が始まる頃の住居跡がみつかり、そこで発掘された土師器(はじき)という土器を展示しています。土師器は弥生土器と同じように素焼きで作られた土器で、古墳時代からみられるようになります。その一つには穴が開けられた土器もあり、展示ケース越しに確認してみてください。
鷲前遺跡の調査では約6000年前の縄文時代の住居跡がみつかり、そこで発掘された縄文土器と貝がらを展示しています。特に注目してほしいのはハマグリやアサリ、マテガイといった、海に生息するたくさんの種類の貝がらです。
この貝塚を伴う住居跡からは、現在は海なし県の埼玉県ですが、縄文時代は気温が高く、海水面が上昇していたことから、春日部市内にも海が広がっていたことがわかります。つまり、鷲前遺跡でみつかった貝がらは、遺跡の周辺で採れたものです。不思議な感覚ですが、「春日部産」のハマグリやアサリと言っても過言ではないでしょう。また展示した3個体の土器には細かな縄目(なわめ)がつけられ、まさに縄の芸術をみることができます。
新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言は解除されましたが、「密」にならず、お譲り合ってご覧いただければと思います。
令和2年6月2日から郷土資料館を再開します
新型コロナウイルス感染拡大防止のため令和2年4月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和2年6月2日(火曜日)から開館します。
なお、体験コーナーは利用できません。
<来館時のお願い>
・大人数での来館は控えてください。館内の状況により、入場制限を行う場合があります
・発熱などの風邪症状のある人は入館できません
・皆さんの安全確保のために、入館時に氏名・緊急連絡先の記入をお願いします
・入館時の手指の消毒にご協力をお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・滞在時間は、30分を目安にしてください
・会話を控えるとともに、他の来館者との十分な距離(おおむね2メートルを目安)をとってください
#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(最終回)
前回まで5回にわたってお送りしてきた、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)の #おうちミュージアム 。今回は最終回。牛島のフジに訪れた歴史上の人物について紹介します。
観光案内のパンフレットなどで、牛島のフジに訪れた著名人として、もっぱら語られるのは、詩人の三好達治。「何をうし島千歳ふじ はんなりはんなり」と詠んだ「牛島古藤花」は牛島のフジを象徴する詩として紹介されています。三好達治は著名な詩人ですし、彼が牛島のフジを題材にして詩を遺したことは春日部の誇るべき文化遺産だと思います。しかし、前々回の記事で紹介したように、牛島のフジが「国指定」天然記念物とされて以降、指定以前の由来や歴史が捨象されていく傾向がみられます。三好達治が牛島に訪れたのは昭和36年(1961)の春。古いようで、実は50年前の出来事、しかし新しいわけでもない。詩の世界に疎い展示担当者は、「牛島古藤花を詠んだ三好達治」と初めて聞いたとき、「三好達治って??」と正直思ってしまいました。
ミニ企画展「藤のまち春日部」では、三好達治に劣らない歴史上の著名人が牛島のフジに訪れたことをパネルで紹介しました。
さて、どんな人物が訪れたのか(ハードルあがっちゃいました)。
古くは、江戸時代の大名諸侯、慶応年間には日光山輪王寺門跡(のちの北白川宮能久)が訪れました。これについては初回の記事で紹介したところです。大名諸侯とありますので、近世史料を丹念に調査すれば、〇〇藩の御殿様が牛島のフジに来ていた!なんてこともわかるかもしれません。ちなみに北白川宮能久は、日清戦争の時に台湾に近衛師団長として出征し、現地でマラリアに罹り急死する人です。皇居外苑の北の丸公園内に馬上の姿の銅像があることでも知られます。
明治以降では、現在判明する限りでは、明治19年(1886)5月に跡見花蹊(跡見学園創始者)、同33年(1900)5月に幸田露伴(小説家)、松原二十三階堂(小説家)同35年(1902)5月に徳川昭武(徳川慶喜実弟)、同45年4月に渋沢栄一(実業家)が訪れています。また、訪れた年代は未詳ですが、清浦奎吾(総理大臣)、大和田建樹(詩人)、徳富蘇峰(思想家)、田山花袋(小説家)、大町桂月(詩人)、中野三允(俳人)なども訪れています。
大和田建樹についてはその2の記事で、田山花袋・大町桂月・清浦圭吾についてはその3の記事で紹介しました。
今回は、新紙幣1万円札の肖像になる渋沢栄一について少し紹介しましょう。渋沢が牛島のフジに訪れたのは明治45年(1912)4月28日のこと。旧制粕壁中学校(現・県立春日部高等学校)の講演会に招かれ、粕壁駅から人力車に乗り、牛島のフジを見学しています。ちなみに、渋沢は大正7年(1918)5月11日にも、町内の某家の敷地内にある碑文の除幕式に出席するため、粕壁に訪れています。
上述の著名人のほかにも、数多の政治家・文化人が牛島のフジに訪れたはずです。訪問したかどうかはわかりませんが、昭和の小説家太宰治の作品「斜陽」にも牛島のフジが登場しますし、平塚らいてうは牛島のフジに訪れようとしていたことが手記に記されています。「天国に一番近い島」で知られる森村桂さんの父で、旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)卒業の純文学作家豊田三郎は、晩年夫人と牛島のフジを見に行こうと約束していていましたが、残念ながら果たせなかったそうです。余談ですが、昭和43年放送のNHK朝の連続テレビ小説「あしたこそ」は、森村桂さんの家族がモデルです。昭和以前の文化人にとって、牛島のフジは間違いなく藤の名所だったことがうかがえます。今後も調査をすすめていけば、牛島のフジを彩る歴史上の人物たちが見いだされることになるに違いありません。
計6回にわたりお送りしてきた#エア博物館「藤のまち春日部」展は、今回が最終回になります。コロナのおかげで誰も観ることなく、バラされた展示会も無事「成仏」することができました。展示担当者としては、資料の原物をご覧いただき、皆さまからご意見・ご感想・お叱りをいただきたかったのですが、こうした形でWEB上に爪痕を遺すのも悪くないかなとも思っています。
最後に、「藤のまち春日部」のリバイバル展示ができること、そして皆様が牛島のフジをはじめとする春日部の藤により一層の親しみ・愛着を抱いていただくことを願い、擱筆させていただきます。最後までお付き合いいただきありがとうございました。
#エア博物館 春日部市内の遺跡
#おうちで博物館
考古学講座にむけて、今回は市内の遺跡をおおまかにみていきます。
春日部市域の地形をみると、西側には岩槻区方面から続く大宮台地、東側には野田市方面から続く下総台地があります。内牧や花積が大宮台地上、西親野井、塚崎、西宝珠花、西金野井、米島、東中野などが下総台地上に位置します。台地の間は、中川低地と呼ばれ、自然堤防という微高地が、河川の流れに沿って立地します。また埼玉県東部地域には、特徴的な地形である河畔砂丘(かはんさきゅう)が存在し、市内でも小渕、浜川戸、藤塚で確認することができます。市内の遺跡は、縄文時代までは台地上で展開しますが、弥生時代以降、低地にも遺跡がみられます。低地の発掘調査はまだ少なく、今後、低地においても縄文時代以前の遺跡が発見される可能性があります。
春日部市域で最も古い人間の痕跡は、約3万年前の旧石器時代のものです。慈恩寺原北(じおんじばらきた)遺跡(花積)、坊荒句(ぼうあらく)遺跡(内牧)、風早(かざはや)遺跡(西金野井)で、約3万年前の石器が発見されています。
縄文時代は、今から約6,000年前をピークとする縄文海進(じょうもんかいしん)により、春日部市域の中心部が海となり、その沿岸となる大宮台地、下総台地に、貝塚が多く残されます。海が最も入ってきた時期にあたる縄文時代前期の代表的な遺跡は、花積貝塚(花積)や町道(まちみち)遺跡(西宝珠花)、米島貝塚(米島)などが挙げられ、アサリやハマグリなど、海の貝で貝塚が形成されています。
今から約3,800年前、縄文時代後期には、神明貝塚(しんめいかいづか、西親野井)が営まれます。神明貝塚は、直径約150mの範囲にドーナツ状に貝が広がる貝塚で、貝の種類は、汽水に生息するヤマトシジミが実に99%を占めます。この時代には海が南へ下がり、春日部市域周辺には、淡水と海水がまじりあう汽水域が広がっていたことがヤマトシジミの出土量からわかります。貝塚では、貝からカルシウム成分が土壌に供給されることにより、本来であればなくなってしまう、人骨や獣骨、魚骨などが残されています。神明貝塚でも現在までに5体の人骨が発見されています。また、新潟県で採れるヒスイを素材にした装飾品など貴重な遺物も発見されています。2020年3月に国指定史跡になりました。
弥生時代は、埼玉県東部地域では遺跡数が非常に少なくなります。しかしながら、2001年に倉常の自然堤防上に立地する須釜(すがま)遺跡で、約2,000年前の再葬墓(さいそうぼ)と呼ばれる墓の跡が発見され、弥生時代の本格的な遺跡として認知されるとともに、低地においてさらなる弥生時代の遺跡発見の可能性が高まっています。再葬墓の「再葬」とは、人の遺体を土中などに一定期間埋葬したのちにとり出し、骨だけの状態に整えて土器に入れ、再度、埋葬することです。須釜遺跡では、2回目の埋葬の跡である11基の再葬墓と約30個体の完全な形に近い土器が発見されました。また、土器の表面に稲籾の痕跡が確認され、当時の春日部市域の人々はすでに米を知っていたと考えられます。
古墳時代になると、台地上では、風早(かざはや)遺跡、尾ヶ崎(おがさき)遺跡(西金野井)や香取廻遺跡(大衾)、権現山遺跡(東中野)で前期の集落が確認されています。権現山遺跡では、底部穿孔壺形土器(ていぶせんこうつぼがたどき)が出土し、県指定文化財になっています。低地では、沼廻(ぬままわり)遺跡(銚子口)、須釜遺跡(倉常)、浜川戸遺跡(浜川戸)で前期の遺物が出土しています。
古墳時代後期、6世紀前半から営まれる内牧の塚内(つかない)古墳群は、約20基の古墳から形成される市内の古墳時代を代表する遺跡です。塚内4号墳からは、直刀や鉄鏃(てつぞく)、ガラス小玉、人物埴輪などとともに、下総系と武蔵系の2種類の円筒埴輪が出土しています。一つの古墳から武蔵、下総2地域の円筒埴輪が出土している唯一の例であり、春日部の地が武蔵と下総の境界の地であったことがわかります。
古墳時代後期の集落は、台地上では、塚崎遺跡(塚崎)、貝の内遺跡、陣屋遺跡(西宝珠花)、宮前遺跡(東中野)、低地の自然堤防上では、小渕山下遺跡、小渕山下北遺跡(小渕)などで確認されています。
8~10世紀の奈良、平安時代となると、台地上では、貝の内(かいのうち)遺跡(西宝珠花)や塚崎遺跡(塚崎)、低地では、小渕山下遺跡(小渕)や浜川戸遺跡(浜川戸)、八木崎遺跡(八木崎)などで大規模な集落が営まれます。貝の内遺跡では、現在の千葉県市川市に所在した下総国分寺(しもうさこくぶんじ)で使われた軒平瓦(のきひらがわら)が出土し、当時、貝の内遺跡を含む春日部市の東部が、下総国の範囲であったことのみならず、下総国分寺と何らかのつながりがあったことを示します。小渕山下遺跡や浜川戸遺跡などは、低地の自然堤防上に営まれた集落で、多くの住居跡が集中的に立地しています。奈良、平安時代の遺跡から出土する道具には、土師器(はじき)や須恵器(すえき)といった土器のほかに、刀子(とうす)や鎌などの鉄製品があります。またこの時期には、日常的に広範囲の地域と流通があり、例えば須恵器は、埼玉県西部の比企地域や茨城県の新治地域の産地から運ばれたものが出土しています。土器や道具に書かれた文字資料も増加します。塚崎遺跡では、「春ア□□」(□は不明の字)と墨書された須恵器が出土しています。「ア」の字は「部」と解読でき、「春部」と読めることから「春日部」につながる文字である可能性があります。八木崎遺跡では、春日部高校の新校舎建設に先立つ発掘調査で、「奉念隋□道足」と刻まれた糸をつむぐための石製の紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土しています。
中世では、浜川戸遺跡の発掘調査で、堀や建物の跡、また板碑などが発見されています。春日部八幡神社には、周辺に館を構えた武士の春日部氏が鎌倉の鶴岡八幡宮から八幡神社を勧請(かんじょう)した由緒が伝わっており、発見された堀や建物の跡は春日部氏の館であった可能性が濃厚です。
遺跡は、その地に生きた名もない人々の生活を、飾ることなく伝えてくれます。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。