いつも目にする路傍の石仏なんて書いてあるの!?
先日、市民の方よりお問合せいただきました。割と「あるある」なレファレンスなのですが、春日部市では、残念ながら石造物の悉皆的調査ができておりません。即答できるか、内心いつもドキドキしています。 #かすかべプラスワン
問題の石仏は、最近開園した「県営春日部夢の森公園」のすぐそば。下大増新田地区に所在します。
この石造物、以前紹介した『埼葛の道しるべ』に辛うじて収録されており、道しるべとして機能していたことがわかりました。ただ、『埼葛の道しるべ』では道しるべとしての文字を解読するのみであり、石造物の全容がよくわかりません。お問合せも、道しるべではない部分について解読できないというものでした。
館では調べる手立てがないので、現地へ見に行ってきました。
交通量もそこそこある交差点にたたずんでいます(赤矢印)。
正面からみるとこのような感じです。
上の部分には仏さまがあしらわれています。摩滅して委細わかりませんが、おそらく地蔵菩薩ではないかと考えられます。問題の文字は下段の方形部分の正面と両側面に、以下の通り刻まれていました。
(正面)
文化三寅[ ]四日
観壽妙見信女 南 のじま
こしがや
秩父
奉納 西国 供養塔
坂東
紅月妙童信女 北 かすかべ
享和三亥[ ]廿二日
(左側面)
文化三寅四月廿四日
智玉童女 東 よこて
幻夢童女 のミち
文化三寅五月七日
(右側面)
文化四卯三月吉日
下大増邑
[(施主)]木村氏
以上から次のことがわかります。
- この石造物は、文化4年(1807)3月、下大増村(下大増新田)の木村氏により造立されたものである。
- 基本的な性格は、秩父33か所・西国34か所・坂東33か所の巡礼の供養塔である。
- 享和3年(1803)には紅月妙童信女、文化3年(1806)には観壽妙見信女、智玉童女、幻夢童女が亡くなっている。いずれも女性で、「童女」は女児であり、造立者木村氏の縁戚者とみられる。
- おそらく、相次いで縁戚者が亡くなったため、木村氏は諸国巡礼をし、供養塔を建てたと考えられる。
- 供養塔は村の辻に建てられたため、道しるべも兼ねた。正面には「北 かすかべ」(北方は粕壁宿)、「南 のじま こしがや」(南方は野島村・越ケ谷宿)、左側面には「東 よこて のミち」と方角が刻まれています。
石造物が方位を示す南北の道は、上大増新田、下大増新田のメインストリートで今も旧家が並んでいます。粕壁や越ヶ谷といった町場へ続く道でもありました。
ただ、よくわからなかったのが「東 よこて のミち」です。「よこて」とは、漢字では横手と書くのでしょうか。いろいろ調べましたが大増の周辺には横手という地名を見出せませんでした。「のミち」も「野道」なのか、「横手の道」と読むのか、わかりません。横手は「横の方」という意味があるようですので、村から横の方向へ行く(野)道というような意味になりましょうか。お分かりの方がいらっしゃいましたら、そっと教えてください。
今回の石造物からは、縁者の女性、女児が立て続けに亡くなるなかで、当時は命がけでもあった諸国巡礼をして彼らを供養しようとする下大増村(下大増新田)の先人の暮らしが読み取れました。「よこてのミチ」については謎ものこりましたが、現在もそこそこ交通量のある道が江戸時代の大増のメインストリートだったことを示しています。
何気なくたたずむ、路傍の石仏ですが、地域の歴史や庶民の暮らしを物語る貴重な資料です。見慣れた風景でも、石造物を丁寧に読み解くことで、また違って見えてくるのではないでしょうか。
市内の石造物を網羅しているわけではありませんが、路傍の石造物を調べる手はずとなる資料は以下の通りです。『埼葛の道しるべ』以外は市の図書館に架蔵されています。
- 『春日部の庚申塔』(春日部市教育委員会、昭和51年刊)
- 『春日部の板碑』(春日部市教育委員会、昭和53年刊)
- 『埼葛の道しるべ』(埼葛地区文化財担当者会、平成8年刊)
- 『春日部市の神社(上巻・下巻)』(春日部市教育員会、平成14・15年刊)
- 『庄和町史編さん資料十一 石造物Ⅰ』(庄和町教育員会、平成16年刊)
- 『庄和町史編さん資料十七 石造物Ⅱ』(春日部市教育員会、平成22年刊)
- 『庄和の百神~石仏伝説編』『同~石仏信仰編』(庄和高等学校地理歴史研究部、平成4年刊)