ほごログ
#蔵出し 懐かしい写真も展示(くらしのうつりかわり展)
10月3日(火)より、小学校地域学習展「くらしのうつりかわり」展を開催します。
展示では、約60年前の春日部の写真や道具を展示します。小学校第3学年の社会科単元に対応したものであり、また、大人の方には懐かしく感じていただける内容となっています。
今回は、テレビモニターを活用して、昭和45年(1970)前後の春日部市域の写真をスライドショーで紹介します。今回、はじめて公開する写真もたくさん用意しました。たとえばこんな写真。
昭和45年の春日部駅前(現東口)です。改札を出た正面にはお蕎麦屋さんがあったそうです。当時は、西口の開設がまだされておらず、文字通り春日部の玄関口であった頃の写真といえるでしょう。
昭和45年は、現在の春日部市庁舎が完成間近の年でした。
現在の市庁舎が完成したのは、昭和46年(1971)のこと。そののち、春日部駅に西口が開設されます。写真は、西口開設前の写真。
西口改札の開設後、何もなかった土地が、だんだん、いや急激に開発されていくことになるのです。
現在の市庁舎の完成の昭和45年ごろ、市庁舎の建設からはじまって、春日部駅と駅周辺が大きくかわり、春日部の市街地が急激に変化しました。くしくも、春日部も、先日、新しい市庁舎の工事が竣工し、駅前は高架工事のさなかです。今、まさに春日部は新たなまちづくりの転機を迎えているのかもしれません。
ともかく、懐かしくもあり、知らない人は驚くかもしれない、蔵出しの写真を用意していますので、ぜひご覧ください。スライドの写真は、少しずつ増やしていく予定です。
展示名:第40回小学校地域学習展「くらしのうつりかわり~なつかしのくらしの道具展~」
会 期:令和5年10月3日(火)~令和6年2月25日(日) 月曜・祝日・年末年始は休館
会 場:郷土資料館企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15 教育センター1階)
春日部の子どもたちと #関東大震災 (その3)
現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介しています。その3は被災後の生活。 #関東大震災100年
大きな揺れがあったとき、みなさんは何をしますか?
先日9月1日の防災の日には「シェイクアウト埼玉」という防災訓練キャンペーンが県内で実施されました。これによれば、「まず低く」「頭を守り」「動かない」という安全確保行動をとることが、大事なのだそうです。
それでは、粕壁町の人たちは関東大震災の大きな揺れが起きたとき、どのような行動をとったのでしょうか。いくつか、小学生の作文を引用してみましょう。
・・・それでなか(東武座)にはいっていますと、おとこのこが地震んだといって、せはぎ(騒ぎ)はじめました。それで私はいちまくさん(一目散)にかけてでました。そうして、でんしんばしらにつかまっていました。すると、あんちゃんがむかへにきました。(四年女子)
みんなでべんきゃうをしていました。するとおばさんが地震ですよといったので、みんながとびだしました。(四年女子)
・・・余震は後を絶へませんでした。其の度毎に桐の木(に脱か)つかまり、電柱につかまつたりしてゐました。(高等科男子)
粕壁町では、大きな揺れがあり、多くの建物が全壊・半壊しました。かろうじて崩れなかった家屋でも傾いていたり、つっかえ棒をして、かろうじて建っている家もあったり、小さな揺れが続いたため、建物の中に居ることは危険と判断されたようです。粕壁の人たちは、とっさに建物から飛び出し、町並みの「往還」(春日部大通り)には、電信柱が立っていましたので、町場の人は電信柱に、農村の地区や裏に庭がある家では大きな木につかまり、また竹藪などに逃げ込んで、揺れをしのいだようです。桐の木が登場するあたりが、桐ダンスや桐箱作りが盛んだった粕壁の特徴ともいえましょうか。
避難した人たちはその後、どのように生活をおくることになったのでしょうか。再び、小学生の作文をみてみましょう。
よるになると、じしんが来てつぶされてはいけまいとおもって、ねてゐられませんから、おもてへえんだいをもちだして、そとであそんでゐました。(四年男子)
えんだいをだして、ふとんとどてらをもってきてそとでねた(三年女子)
うすべりをしいて、その上にのっかっていました。(三年女子)
ほったて小屋をこしらえて、そこでねた(三年男子)
地震後の数日間は、外で過ごす人も多かったようです。ほったて小屋をつくって過ごす人もいましたが、作文で多いのは「えんだい」を置いて、その上で過ごしたというものです。「えんだい」とは腰掛けをする「縁台」のことでしょう。
かつて町場での市では、路地に「高見世」と呼ばれる板縁台を置いて、商売をしたといわれています(飯能市立博物館特別展図録『飯能縄市』)。「縁台」というとベンチ・腰掛けをイメージしますが、ここにみる「縁台」は商品を並べる陳列台を指しているものなのかもしれません。作文に「縁台」が多く登場するのは、粕壁も古くから市が開かれた宿場町だったから、かもしれません。
とはいえ、「縁台」のみならず、「薄縁」や「筵」をひいた家もありました。外では蚊帳(かや)をつって過ごしたことも作文に記されています。家が倒壊してしまった人たちは、知り合い・近所の家に泊めてもらったり、被害の少なかった百間(現宮代町)や内牧(市内)、徳力(現さいたま市岩槻区)の親戚の家に疎開する人もいたようです。
私どもは、二三日まい(前)の桐畑ニねました。(五年女子)
上の女の子は、桐畑で数日過ごしたようです。 数日間、家によっては一週間くらいは外で過ごす人もいたようです。
ここでも「桐」が登場。これまで文献ではよくわからなかった桐畑の存在が、子どもたちの作文に記され、町の産業を物語る史料としても重要です。
少し脱線してしまいましたが、作文では、地震の後の暮らしも詳しく記されています。10月8日(日)には、児童の作文を読み解く歴史文化講演会も準備しています。ぜひ、ご参加ください。
日時:令和5年10月8日(日)14時~16時
会場:春日部市教育センター
定員:80名(先着順・申込制)
費用:無料
申込:郷土資料館まで直接、または電話、または電子申請
考古学講座-基礎を学ぶ第1回を開催しました
本日は「考古学講座ー基礎を学ぶ」の第1回目を開催しました。
本日は、「考古学とは?」と「春日部のどこに遺跡があるか?」、「春日部の旧石器時代」についてお話いたしました。
「考古学とは何か?」では、「考古学とは痕跡・モノからその成り立ちを研究する」という定義とともに、海外と日本の考古学史をまとめました。
「春日部のどこに遺跡があるか?」では、市域には台地が4か所あって、台地上から主に遺跡が発見されているが、弥生時代以降は、低地の自然堤防からも遺跡が発見されていることをお話ししました。
「春日部の旧石器時代」は、時間が足りなくなってしまったのですが、常設展示の旧石器6点について、写真を使って解説しました。石器の実物を見ていただいたかと思いますので、次回、補足をしたいと思います。
また、夏季展示でに出展した権現山遺跡の底部穿孔土器の実物を会場でご覧いただきました。
アンケートでは、市内の地形がよくわかった、底部穿孔土器について皆さんとお話しできたことが良かったなどの感想をいただきました。
次回は10月29日、「第2回 発掘調査の方法・層位学/春日部の縄文時代」です。
*考古学講座は、定員に若干の余裕がございます。ご希望の方はご参加ください。
日程 令和5年10月29日、11月26日、12月24日、令和6年1月28日 午前10時30分~正午(すべて日曜日)
講師 郷土資料館職員
募集人数 30人
参加費 無料
申し込み 郷土資料館へ直接、電話(048-763-2455)
考古学講座-基礎を学ぶを開催します
今年度も考古学講座を開催します。
まだ参加人数に若干の余裕がございますので、ご希望の方はお申し込みください。
5回連続講座で9月から1月までの開催です。内容は下記のとおりです。
第1回 考古学とは?/春日部のどこに遺跡があるか・春日部の旧石器時代
第2回 発掘調査の方法・層位学/春日部の縄文時代
第3回 分類と型式学/春日部の弥生時代
第4回 年代の決定/春日部の古墳時代
第5回 春日部の奈良時代・平安時代/考古学講座のまとめ
毎回、考古学の基礎知識と時代ごとの春日部市内の考古学資料について半分ずつお話します。昨年度の内容とほぼ同じものを予定しています。
日程等の詳細は下記のとおりです。
日程 令和5年9月24日、10月29日、11月26日、12月24日、令和6年1月28日 午前10時30分~正午(すべて日曜日、全5回)
講師 郷土資料館職員
募集人数 30人
参加費 無料
申し込み 郷土資料館へ直接、電話(048-7632455)、電子申請で申し込み
*電子申請の申し込みは、9月23日17時15分までです。9月23日(土)は祝日のため、休館ですので、受領完了メールは、初回開催日当日9月24日(日)8時30分前後に送付します。
#博物館実習 の日誌を読んで
先日、令和5年度 #春日部市郷土資料館 の博物館実習が無事に終了しました。 #実習生 のみなさんは、日々の実習を日誌に記録していますが、最終日には、実習を終えて考えたことをまとめ、提出してくれました。 #かすかべプラスワン
私は、目下、提出された日誌を読みながら、日誌にコメントを書いています。コメント書きは6人分でも結構大変です。ただ、様々な意見に接する機会にもなり、気付かされることも少なくありません。実習生のコメント、もったいないと思いましたので、その一節を少し紹介させてもらいます。
「大きいから、綺麗だからそこが優れているということではないということを学んだ」
ただ、「某国立館のような魅力的な特別展がいい」とか「ポスターのデザインがかっこいいのがいい」とか「アニメやゲームとのコラボがいい」など、「キラキラした博物館」像に議論が集中しました。上のコメントを書いてくれた彼女も「キラキラした博物館」びいきの様子でした。(「キラキラした博物館」は担当者の造語です。「キラキラした博物館」が悪い・良くないという意味ではありません。)
しかし、当館は、せま~い展示室ですし、チラシ・ポスター・パネルは手作り。展示品は「優品」かといえばそうではなく、春日部が歩みを物語る、どちらかといえば地味な資料が多いです。謙遜ではなく、当館は「キラキラした博物館」ではないでしょう。「キラキラした博物館」でない当館の実習を経験して、「綺麗」=「優れている」のではない、そうでなくとも存在の意義があることに気付いてくれたのだと、受け止めました。
次のように、まとめた実習生もいました。
「できる範囲の中で工夫しながら多くの人に歴史の面白さ、古いものを実際に見ることのできる楽しさを伝えていくことが、学芸員をやっていく上で必要な考え方である」
今年の実習生の皆さんの日誌を読み返すと、8月2日の草加市立歴史民俗資料館と八潮市立資料館の見学が、もっとも印象に残った日だったようです。
草加・八潮の他館見学では、両館の学芸員さんの説明もあり、館の機能や特徴をはじめ、地域博物館に共通する問題として資料収蔵スペースの問題があることを考えてもらえました。
工夫をコツコツと積み重ね、一朝一夕では解決できない地域博物館の共通課題を、少しずつ改善していかねばならない。草加市立歴史民俗資料館さんと八潮市立資料館さんの活動をみて、このように考えくれたのだろう、と思っています。
わずか8日間でしたが、実習生の皆さんは自分の経験を活かしながら、主体的に考え、実習に臨んでくれました。館では、実習の成果や、皆さんの意見や指摘を真摯に受け止め、考え、よりよい工夫、活動、運営に結び付けられるよう、地べたを這いつくばって、進んでいきたいと思います。ぜひ、今後も来館者・利用者として春日部市郷土資料館を支えていただけると嬉しいです。
ありがとう、実習生。
【臨時休館のお知らせ】
9月16日(土)から9月19日(火)は、燻蒸作業を行うため郷土資料館は休館いたします。ご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどよろしくお願いします。
*16日(土)~18日(月)は、教育センター全館立ち入り禁止になりますのでご注意ください。
*19日(火)は、郷土資料館は休館となりますが、教育委員会事務局は業務を行っております。
春日部の子どもたちと #関東大震災 (その2)
現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。その2は粕壁の被害。 #関東大震災100年
粕壁町は関東大震災の埼玉県下三大被災地と称されるごとく、その被害は甚大なものでした。
当時の粕壁町の人口は5813名(世帯数1222世帯ー大正9年)で、南埼玉郡屈指の町でした。被災状況は、統計資料によれば、全壊305戸、半壊341戸で、死傷者は29名を数えました。東京や横浜と比べれば、その数字は少ないのですが、粕壁町は大きな火災がなく、直接の被害は地震の揺れのみでしたので、そう考えれば甚大な被害といえるのではないでしょうか。ただ、数字では伝わらない被害もあったはずです。粕壁小の震災文集は数字では語りきれない様々な被災状況を伝えてくれるのです。
では、地震発生の様子や、地震の被害を粕壁小学校の子どもたちは作文にどのように記したのでしょうか。
とある高等科二年生の男の子の記述を紹介してみましょう。
・・・ごはんだといったから、いこうとしたら、みしりみしりと、ゆれてきた。それ地震だといって、さきにとびだした。あとから、母といもうとと、あとからでてきた。母は、をはらいにいもうとをだいて、つぐんでしまった。私は母のかたに、つかまってゐた。小供はワァーとないて、その中に、ほこりがたってどこもみえなくなった。みちみちとおそろしい音がした。だんだんしづかになって、家の中を見ると、父とねいさんが、はいっていた。早くでた方がいいといって、前を見ると、家がたほれてゐる。又となりの家も、たほれてゐる。ゆれるたんびに小供がないて、人々はさはぎはじめる。となりのねいさんがあかんぼうーがでないとないてゐる。それからみつけはじめた。するとなきだしたから、まだいきているといってみつけてゐた。
この男の子は、粕壁の町中(町並)に住んでいたようです。ちょうどごはんを食べようとしたところ、大きな揺れがあり、お母さんと妹と慌てて外に飛び出ました。お母さんは、妹を抱いて、しゃがみこんでしまった。小さな子どもの鳴き声がして、あたりは倒壊した建物のホコリがたち、どこも見えなくなかったようです。また「みちみち」と恐ろしい音がした、といいますから、二度目の大きな揺れがあったのでしょうか。その後、だんだん静かになったが、お父さんと姉さんが家のなかにに居たため、早く出たほうがいいと声をかけました。家の周りは、前の家、隣の家が倒れていたといいます。揺れるたびに子どもが泣き、大人たちは慌てふためいていました。小さな揺れが続き、そのたびに建物の倒壊の恐れが生じたのでしょう。隣のお姉さんは、「あかんぼうーがでない」と言って泣いていたそうです。赤ちゃんが生き埋めになってしまったのでしょうか。その後、発見し、まだ生きているといっていますから、小さな命は助かったようです。
粕壁町では、昭和10年に『震災写真帖』という写真記録冊子を編さんし、写真で被害の状況を今に伝えています。
写真は、かすかべデジタル写真館でも紹介しているところですが、そのほかにも様々な写真がありますので、今回はそちらを紹介します。
まず、仲町裏通りと紹介される写真。上の作文の男の子が住んでいた近くの写真です。
次に上町表通りの写真。上町の被害は特にひどかったそうで、作文でも丸八から小松軒まで建物が将棋倒しになったと記されています。次は上町の裏通りの写真。
おそらく、古利根川沿いの新町橋のたもとのあたりの様子と思われます。
次は、新宿組の写真と紹介されています。
新宿組(現・本町、匠大塚付近)の写真は、建物につっかえ棒をしています。新宿組もとくに被害が大きく「一番ひどい」とも、作文に記されています。
以上は、粕壁町のメインストリートである国道6号の陸羽街道(現春日部大通り・旧日光道中)の写真でした。町の中心の商家、それも老舗の商家が軒並み倒れてしまったので、町の人たちは大変ショックだったことでしょう。
子どもたちが通う、小学校校舎も倒壊してしまいました。
当時の粕壁小学校は、現在は商工センター跡地となっている場所にありました。
ある子どもの作文にこのように記されています。
学校へ来て見ると、新しい方は、めちゃめちゃにこはれ、古い方は私等の教室の隣から、屋根がおちて、一階のやうであった。これは新しい方がつぶれるのに、ひっぱられたのだと、先生から聞いた。
当時、校舎は古い木造校舎と新しい木造校舎がありましたが、新しい校舎のほうが全壊し、古い方は上の部分がひっぱられるように屋根が落ちてしまったといいます。「情けない」と記す高学年の子もいましたが、2学期早々に校舎が壊れてしまい、子どもたちはショックを受けたことでしょう。
粕壁の被害は建物ばかりではありません。作文でこのように書いている子がいます。
前の畠を見れば、どうどうと水わいてゐた。井戸はくづれはぢまった。その後から、砂がふいて井戸がうつまった(高等科一年男子)
川久保、新宿は往来が二尺もさがってしまった。其の長は一町位も長くさがってしまった。又、井戸のむぐった家や、井戸のうまった家はたくさんあった。又井戸の水の赤い水が今度はきれいな水になった井戸もあった。(高等科男子)
粕壁の川久保や元新宿の付近、また古利根川沿いでは、地割れや土地の陥没が相次ぎました。作文にもみたように「往来」(国道6号、陸羽街道)は元新宿の付近で2尺(約60センチ)も陥没し、その長さは約100メートルに及んだといいます。国道の陥没は別サイトで写真を紹介しています。付近では、水が湧き、井戸が崩れ埋まり、砂の噴出も続出しました。関連する写真は次のようなものがあります。
これは、見返しの松の亀裂と説明があります。おそらく、街道沿いで武里村境に植わっていた松並木(現緑町付近)と考えられます。写真の男性の前に大きな地割れができているのがわかります。地割れは古利根川沿いで起こり、屋敷の生垣が最大5尺(約150センチ)動いたと報告されています(埼玉県地震調査報文)。
上の写真は「噴出した石塊」と説明が付されています。『埼玉県地震調査報文』によれば、元新宿・土井・川久保では水、砂が噴出し、元新宿では浮石が出てきたと報告されていますので、おそらくこの「浮石」を撮影したものと考えられます。
この現象は、武里村、幸松村、豊野村をはじめ、南埼玉郡、北葛飾郡域で広域に発生しています。陸地測量部(現国土地理院)の測量によれば、県内の低地では土地が広域に沈降したことが報告されています(「大正十二年関東震災地垂直変動要図」)。
小学校の作文や写真などの様々な資料は、人や建物の被害数ではわからない関東大震災の恐ろしさを、今に伝えてくれるのです。私たちは、数字ではなく具体的な状況を理解することで、歴史のなかの地震に向き合い、今後起こりうる災害に備えていかなければならないのかもしれません。
春日部の子どもたちと #関東大震災 (その1)
現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ第一弾。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。初回は子どもたちの日常。 #関東大震災100年
震災の経験により、粕壁尋常小学校に通う子どもたちは、その記憶をたどりながら、作文を記しました。もちろん、作文には、災害にあった家や町の様子が子どもたちの目線で記録されていますが、被害の状況ばかりでなく、地震に遭う直前の日常もわずかですが記されています。
地震が発生した9月1日、粕壁小学校では2学期の始業式が行われました。夏休みが終わり、学校を楽しみにしていた子も多かったようです。「先生のいふことを聞いた」と記す子もいます。2学期の始めなので、先生から訓話もあったのでしょう。学校が終わると、みな、足早に家に帰りました。
「学校からかえってるすをしていた」と留守番をする子や、家で本を読む子、写真絵葉書を見る子もいましたが、屋内で最も多いのは、「ごぜんをたべた」というものです。昼食中あるいは用意をしていたところ、地震に遭ったという子が多いようです。
だた、昼食をたべずに、遊びに行く子も多くいました。
どんな遊びをしたのか。男の子では魚釣りが多い印象です。友だちと古利根川で落ち合う約束をし、魚の餌になるみみずを掘っていたところ、地震に遭った子もいれば、魚を2、3匹釣ったところ、地震に遭ったという子もいます。
女の子では、近所の「種や」の赤ちゃんが誕生日できれいな着物を着るので、おぶせてもらったとか、友だちと「うつしえ」をしたという子がいます。
特定の催し物に集まる子どもたちも多くいました。その一つには、神明神社の境内に遊び場ができたので、そのお祝いを東武座で行うことにもなっていました。学校の先生が、上町に住む子どもたちに、東武座に集まるように呼びかけていたようで、東武座に集まる子も多くいたようです。そのほか、新町橋の上で、粕壁では珍しいガソリンポンプの試運転があり、これを見物に行く子も多くいたようです。
一方、汽車に乗って、浅草に遊びに行く子もおり、停車場で汽車を待っていたところ、地震が発生しました。
大地震が起きるまでの束の間の様子は、子どもたちによってさまざまですが、担当者が一番「ほっこり」した日常は次の3年生の女の子の文章です。
「私はおくにねそべっていもをたべてゐて、うちのおっかさんと、こうとう一年のこがひるねをしてゐました。そして私がそとへあそびにいかうとしたら、ぢしんがはじまりましたから」(以下略)
家の奥に寝そべりながらイモを食べ、お母さんと子ども(兄弟でしょうか?)が昼寝をしていたので、外に遊びにいこうとしたところ、地震が発生した、というのです。
ねそべっていもを食べているなんて、のんびりした時代だなぁ、と思わず( ̄ー ̄)ニヤリ
「おっかさん」という呼び方も、当時の情景が伝わってきます。
このように、震災の前の記述はわずかですが、子どもたちがさまざまな日常を過ごしていたことがうかがえます。子どもたちが普段何をしていたのか、どんな遊びをしたのかという日常は、記録には遺りにくいものです。その意味でも、震災児童文集は貴重な記録といえるでしょう。
歴史文化講演会「粕壁小児童文集から読み解く関東大震災」
#関東大震災100年 お知らせ第三弾は歴史文化講演会です。粕壁小の100年前の児童文集から関東大震災の実態を読み解く講座です。
講師は、大川明弘先生。粕壁地区出身で中学校で教鞭をとられ、現在春日部市市史編さん委員として、いつも春日部市の文化財行政にご助言いただいております。
今回は、関東大震災100年ということで、ミニ展示でも紹介する粕壁小の「文集」を委細に読み込み、粕壁町の町並みや子供たちの普段の生活、被災の状況について、詳しくお話しいただきます。
日時:令和5年10月8日(日)14時~16時
会場:春日部市教育センター
定員:80名(先着順・申込制)
費用:無料
申込:9月13日(水)より、郷土資料館まで直接、または電話、または電子申請
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】記念講演会、ミュージアムトークを開催しました
9月3日(日)、講師に横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長の古屋紀之先生をお招きし、記念講演会を開催しました。
古屋先生は、『古墳の成立と葬送祭祀』というご著書があり、古墳の成立とかかわりが大きい底部穿孔土器のご研究も精力的に行われています。
ご講演では、各地の弥生時代後期と古墳時代の底部穿孔土器をご紹介いただきました。
まず、弥生時代後期の方形周溝墓出土の土器では、底だけではなく、壺の肩の部分や胴部にも穿孔されたものがみられます。大田区の久ヶ原遺跡の方形周溝墓では、胴部の下方に穿孔された壺と穿孔具として使われたと思われる石が至近距離で出土しました。とりあげたのちに土器のあなに石をあててみたところ、石の形とあなの形がピタリとあったとのことです。
こういった出土例をもとに、大田区では講座で、古屋先生を講師として、実際に弥生土器の複製品に石であなをあけてみる実験をしたそうです。記念講演会では、その時の動画も放映していただき、意外と簡単に石で土器にあなをあけられることがわかりました。また、あなをあける際に、土器の外面から石をあてると、石が当たった部分を中心に内面の表面がはがれるという現象もご紹介いただきました。
古墳時代前期には、方形周溝墓や古墳の墳丘上に、複数の底部穿孔土器が墳丘を囲むようにおかれる 囲繞(いにょう・いじょう)配列がみられるようになります。溝の中から発見される底部穿孔土器も、墳丘上に置かれたものが転がり落ちたものと考えられます。
権現山遺跡で発見された底部穿孔壺は、やはり墳丘上におかれたものと考えられますが、権現山遺跡の底部穿孔壺は小さいものなので木製の台などの上に置かれた可能性も考えられるとのことです。
また権現山遺跡1次調査では、1辺が約8mある竪穴建物跡が発見されていますが、そういった大型の建物に住んでいた地域のリーダーのような人が葬られた墓なのではないかという推論もご提示されました。
日付が変わりまして、9月3日(日)は、午前、午後、ミュージアムトークを開催し、たくさんの方にご参加いただきました。最終日ということもあり、じっくりとご覧いただいた方も多かったようです。ありがとうございました。
さて、9月3日(日)に最終日をむかえた「あなのあいた壺」展ですが、返却日程の都合により、9月10日(日)まで、展示を継続します。まだ「あなのあいた壺」をご覧になっていない方は、この機会にぜひご来館ください。