「学校は今」

2016年7月の記事一覧

東中


Princepal2016/06/28 10:48:00(5票)

 修学旅行のエピソード第3弾は、「宿泊先の心遣い」です。宿泊先である「京の宿・洛兆」さんのご配慮・心遣い・気配りです。これも添乗員さん同様、「仕事だからでしょ。」「商売でしょ」「お客に対してはとうぜんでしょ」という言葉では済まされることのできない、心からの「おもてなし」を実感しました。
 早朝からの朝食の準備、配膳、到着や班行動の出発、帰着、そして、3日目の見送りまで、すべたにわたって生徒たちへの心配りを実感しました。感謝申し上げます。
では、その様子を写真でどうぞご覧ください。
まず、看板。                   そして、食の配膳です。(真中は初日、右は2日目です)
  
こちらは2日目の朝食の配膳。お膳をすべて運んでくださいました。掲示板の準備も。   館内には季節の花が飾られています。
  
 各階の廊下にもお花があります。そして、各階の廊下には、給水用のジャグが置かれてあります。水が飲めるようにしてあります。
  
 きわめつきは、3日目の見送りに「横断幕」をもって、堀川通りまで見送ってくださいました。感謝、感謝です。
 そして、宿泊先の洛兆さんからお手紙が届きましたので、最後にご紹介します。次のpdfをお開けください。
 京の宿・洛兆さんからの手紙.pdf

Princepal2016/06/24 09:33:36(9票)

 修学旅行エピソードの第2弾は、「添乗員の皆さんの献身」です。
 近畿日本ツーリスト株式会社 首都圏営業本部 埼玉教育旅行支店から、私たちの修学旅行に添乗員として同行してくださった3名の皆さんの献身的な働きは、修学旅行を土台から支えてくださいました。それは、
仕事だから当然だろう、お金を払っているのだから「当たり前」だ、と言って片づけてしまえるようなことではありません。
 乗車券等旅行に関する手配、チケットの購入、神社仏閣の拝観の団体受付等は、生徒を指導する合間に、私たち教職員でできることではありません。それをすべて請け負い、なおかつ、献身的に動き回ってくださった3名の添乗員さんに改めて感謝します。 
 出発式での紹介         実行委員会で送付する荷物の説明をしてくださいました。
  
生徒の夕食の間、班別行動で利用する京都1日乗車券を班ごとに仕分け
 
 また、先生や生徒のミスもたちどころにカバーしてくれました。
 土産を店に忘れてきても、財布をバスに忘れてきても、しおりをバスに忘れてきても、バス会社やお店にすぐ連絡をして、対応をしてくださいました。「あっぱれ」というしかありません。
 東中の修学旅行の成功は、この3名のかたがいらっしゃらなければ、なしえなかったことです。
 早朝から深夜まで、寝る時間もなかったであろう3名に、深い敬意と感謝を申し上げます。
 生徒たちのために、全力でお仕事をされる皆さんの熱意は、生徒たちの心を動かしています。
 ありがとうございました。
 
Princepal2016/06/22 11:45:42(12票)

 平成28年6月22日(水)多数のアクセス
 今日からしばらくは、修学旅行中には伝えきれなかった様々なエピソードをご紹介します。
 まずは「多数のアクセス」に感謝の意味で、次のようなことを紹介します。
 修学旅行中は、たくさんのアクセスに感謝いたします。とくに、「東中の今日」(中学校ブログ」)への投票数がいっきに増加しました。発信する立場として、うれしく、そして、ありがたい思いでいっぱいになりました。
 また、このサイト「東中コミュニティサイト」にも、多数のアクセスをありがとうございました。時間帯によっては、瞬時に250件を超えるアクセスが集中し、動きが鈍くなったり、アクセスに時間がかかたりしたのではないかと、想像いたします。ご迷惑をおかけしたことと思います。ご容赦ください。今後も情報提供を心がけますが、もう少し費用をかけて、ハード面の充実を図れると、より快適なサイトに進化できると思っています。ご協力をお願いいたします。
 まずは、御礼まで。

Princepal2016/06/20 22:44:19(28票)

 修学旅行のすばらしさはたくさんあります。でも、次の写真を見てください。これです。これが本物です。
 部屋のスリッパをそろえる姿です。これが、一人二人ではないのです。

 
 室長会も当然、こうなっています。
 
 これ以上の教育があるのだろうか、という思いです。
 誰のためでもありません。自分のためでもあり、みんなのためでもあり、集団全体、社会全体のためであり、もっと言うと、何らかの目的があって行う行為でもありません。だただた、ありのままに、そして、こうすることが自然になっている、これが人としての最上の姿でるということも、きっと意識はしていないと思います。そこが、「すごい」ことです。「すごい」と言葉で規定してしまってもいけないのかもしれません。
 足が満たされるのを、「満足」というのですが、その「満足」ということも、意識していないのかもしれません