ほごログ
【ロビーに展示中】手押し消防ポンプについて調べてみた
郷土資料館の展示室は狭いので、大型資料は展示できないので、教育センターのロビー展示しています。今回は、ロビー展示の、手押し消防ポンプ(腕用ポンプ・腕用喞筒)にスポットを当ててみましょう。 #かすかべプラスワン
この手押し消防ポンプは、粕壁地区の内出町内会から平成3年(1991)6月に寄託されたものです。
手押しの消防ポンプは、ガソリンなどを動力とする内燃機関が普及する以前のもので、明治時代後半から大正時代にかけて、各地方で主流となった消防ポンプでした。当時の言葉では「腕用喞筒」(わんようそくとう)と呼ばれていました。「腕用」は手動、「喞筒」はポンプの意味です。少しシャレた言い方では「腕用ポンプ」とか「ハンドポンプ」とも。以下、当日の言い方にならって「腕用ポンプ」と呼びたいと思います。
「腕用ポンプ」が台頭する以前、日本ではの放水器具は「龍吐水」(りゅうどすい)とよばれた複数人で動かす手押し式のポンプや、一人で使う水鉄砲型のポンプでした。「龍吐水」については、辰年ゆかりの資料として前に紹介しています。いずれも木製で、給水を水桶で行い、水圧が低かったため、放水量が少なかったとされています。当時の消火方法は、建物を破壊して延焼を防ぐ破壊消防が主流でした。江戸の火消たちが纏や梯子をつかったのも破壊消防のため。火消たちは鳶口や水桶などをもって火災現場に駆け付け、「龍吐水」は火事装束を湿らす程度だったといわれています。郷土資料館には、粕壁地区の内出町で使われた「龍吐水」や「纏」を常設展で展示しています。粕壁宿(町)でも、江戸時代から明治時代半ばにかけて、破壊消防による消火活動が行われていたことがうかがえます。
明治時代の初め、西洋式の腕用ポンプが本格的に輸入されると、国内でも金属製の腕用ポンプの製造がはじまりました。これまでの木製の龍吐水(在来の腕用ポンプ)は、水を桶で汲み、本体に入れなければなりませんでしたが、西洋式の腕用ポンプは、給水用のホースが備えられ、空気の圧力で、放水と給水を同時に行え、また、空気圧により安定した放水を可能としました。
市内に遺される腕用ポンプは、明治時代後半から大正時代にかけて製造されたもので、その時代に、春日部で腕用ポンプが普及していったようです。腕用ポンプの普及により、破壊消防による自然消火から放水による積極的な消火へと、消防のあり方が変わっていきました。
ロビーの腕用ポンプには、次のような銘板が付されています。
「製作所 東京神田通新石町 清水弥七」と刻まれています。清水弥七は、内出町で使用されていた明治17年の龍吐水の焼印にもあった名です。龍吐水に続き、腕用ポンプも内出町に販売していたようです。市内に遺される腕用ポンプは、いずれも「清水弥七」の製造のようですが、清水については今のところ詳しくは不明です(宿題とさせてください)。
台車にのるものがポンプです。
ポンプの側面には「内出町自警団」と記されています。
ポンプの四角い風呂桶のようなものは「水槽」(すいそう)というそうです。水槽のなかの複雑な機械がポンプの主要部分にあたります。真ん中にみえるのが、「空気室」(圧力タンク)です。その両側には「円筒」(シリンダー)があり、上の「搖桿」(ようかん・レバー)を上下することで、圧力がかかり、水を吸い上げるとともに、放水します。
水槽の側面の「警」の字の下には吸口(きゅうこう・吸水口)があり、これに「吸管」(きゅうかん)と呼ばれる給水ホースを取り付け、水源から給水します。
水槽の反対面にも「内出町自警団」とありますが、「警」の字の下のノズルが「放口」(ほうこう・放水口)になります。これに「水管」と呼ばれたホースをつけて、消火対象に放水するのです。
通常、腕用ポンプは、通常3名の消防員と、6~8名の「搖桿手」(ようかんしゅ、レバーを操作する人)が一組になり運用されました。使用にあたっては、台車からポンプ本体をおろし、給水ホース・放水ホースをつけ、「搖桿」(ようかん・レバー)の両先端に「木挺」(もくてい・レバーの持ち手)を1本ずつつけて、3~4名ずつ「木挺」を握り上下することで、圧力がかかり、ポンプが稼働します。
さて、「水槽」の後方には次のような文字がみえます。
「昭和十一年十一月塗替」昭和11年(1936)11月に、塗装をし直し、現在の外装になったようです。残念ながら、もともとの外装や、おそらく書かれていたであろう製造年月日は塗替えのため不明です。
ただ、なぜ昭和11年に塗り替えがされたのでしょうか。調べてみると、内出町のあった粕壁地区(粕壁町)の消防の歴史が、その背景にあるようです。
『消防発達史 第1編 埼玉県』によれば、粕壁町では、かつて町内を10部に分け、腕用ポンプを10台配備していましたが、大正13年(1924)10月24日、町営の消防組を設け、町内を4部編制としました。編制替えがされた背景は、おそらく、直前の関東大震災で県下三大被災地とされた粕壁町の事情があるかもしれません。4部編成の内訳は次の通りです。第一部は、上町、仲町、春日町、旭町、陣屋、内出、金山。第二部は、仲町の一部、富士見町、元町、新宿組、三枚橋、新々田、松の木、大砂、大下。第三部は川久保、元新宿、大池、内谷、太田。第四部は内出の一部、八幡前、八木崎、幸町、浜川戸。
すなわち、内出町は、第一部(もしくは第四部)に編成されました。4部編成を前後して、大正12年(1923)3月30日、第一部となる町内会では、ガソリンポンプを購入し、同14年(1925)4月2日には第二部でもガソリンポンプが購入されました。
ガソリンポンプは、その名の通り、ガソリンエンジンを搭載した消防ポンプで、当時の消火用具としては最新鋭のものでした。関東大震災が発生した大正12年9月1日にも、粕壁町では新町橋でガソリンポンプの運転が行われ、粕壁小の子どもたちをはじめ、多くの野次馬が見物をしています。ガソリンポンプの導入によって、手動で動かす腕用ポンプは、追いやられていったようです。また、かつて10部編制の消防組が4部編制となり、腕用ポンプがおのずと余分になっていったようです。そこで、町内会では、町内9か所に自警団を組織し、腕用ポンプを備え、自衛消防に備えるようになりました。
このように、大正時代には、粕壁町では、町営の消防組の組織や、町費で鉄塔の火の見櫓の建設など、町の消防設備・組織が整えられていく時代だったようです。町営の消防組で、消防用具の主力から追いやられた腕用ポンプは、町内会で組織した自警団により、再活用され、継承されていったものと考えられます。
ロビーにある「内出町自警団」の腕用ポンプは、このとき追いやられたものなのかもしれませんが、塗装されているため詳しくは不明です。しかし、いずれにしても、この腕用ポンプの存在は、内出町の自衛消防組織が、昭和時代になっても機能していたことを示すものといえましょう。
これまで、気の利いた説明キャプションもなく、ロビーにたたずんでいた腕用ポンプ。重量物で見栄えもしないので、文字通り「お荷物」だと思っていました。ところが、今回調べてみると、消防の歴史や、地域を自らの手で守り、継承していく町や町内会の歴史を物語る、大変重要な資料であることが(いまさら、恥ずかしながら)わかりました。
詳しいキャプションを付け、生き返らせたいと思いますので、ぜひ実物の腕用ポンプをみてやってください。
主な参考文献 横浜開港資料館編『横浜の大火と消防の近代史』(2019年)/消防発達史刊行協会編『消防発達史 第1編 埼玉県』(1933~1935年)/静岡県警察部保安課編『消防全書』(1926年)/嶋村宗正ほか「手押し式消防ポンプの構造と放水性能」『千葉科学大学紀要』6、2013年
2月25日に凧作り教室を開催します
昨年度開催し好評だった「凧作り教室」を2月25日(日)に開催します。
今回も、講師に春日部市「庄和大凧保存会」の方をお招きし、本格的な和凧を作ります。
凧作り教室(紙に骨をつける)
日程:令和6年2月25日(日曜日)午前10時~正午
講師:春日部市「庄和大凧文化保存会」の講師
募集人数:小学生 30人(申し込み順、保護者同伴、参加可)
材料費:一人500円
申し込み
郷土資料館に直接、電話(電話:763-2455)、春日部市電子申請で申し込み
凧作り教室電子申請入口(別ウインドウで開く)
申し込み後、下記の期間内に郷土資料館にご来館いただき、材料費(500円)をお支払いの上、凧紙をお受け取りください。
凧紙配付期間:令和6年1月10日(水曜日)~2月24日(土曜日)
(月曜日・祝日を除く午前8時30分から午後5時15分)
講座当日までに好きな絵や文字を書いてきてください。講座会場では、骨組みと糸付けを行います。
完成した凧(郷土資料館に展示しています)
【手作りおもちゃクラブ】からくり屏風を作ろう!
1月21日(日)に“手作りおもちゃクラブ”を開催します。
今年度最後の手作りおもちゃクラブです!お見逃しなく!
今回作るおもちゃは「からくり屏風」です。
“なにそれ?”と思う方も多いはず。
からくり屏風は2枚の板と紙を組み合わせて作る不思議なおもちゃなんです。
こちらはパンダの絵柄。
この面をたたんで、開くと・・・
ネコの絵柄になりました!
さらに、たたんで開くと・・・
さらにペンギン、ヒツジと2枚の板から合計4枚の絵柄が出現します!
そんな不思議なからくりおもちゃ、みんなで一緒に作ってみましょう♪
本講座はお申し込み不要、おもちゃの材料は資料館で用意しています。
当日の午前10時30分と午後2時からの計2回開催しますので、お時間までに郷土資料館にお越しください!
【手作りおもちゃクラブ】
日時:令和6年1月21日(日)午前10時30分~・午後2時~
場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)
内容:蓄音機と紙芝居の上演
おもちゃづくり(からくり屏風)
費用:無料
申込:不要(開催時間までに郷土資料館にお越しください)
謹賀新年 #辰年 ゆかりの資料
本年も春日部市郷土資料館、そして「ほごログ」をよろしくお願いいたします。 #かすかべプラスワン #辰年
新年一発目は、一昨年の寅、昨年の卯に引き続き、今年の干支にちなんで、展示室から #龍 に関するおめでたい資料を紹介します。
辰(龍、竜、ドラゴン)に関する資料あるかなぁと悩んでいたところ、灯台下暗し。常設展示にありました。「竜吐水」(りゅうどすい)です。
「竜吐水」とは、手押しの消防用ポンプ。放水する様子が竜が水を吐き出しているようなので、そのように呼ばれたとか。水鉄砲から発展した小型の手押しポンプを竜吐水と称する場合もあるようですが、小型のポンプよりも、水の勢いがよく、15mほど放水が可能だそうです。木製の手押しポンプは、明和元年(1764)、幕府より江戸の町火消組に下げ渡されて以後、江戸で普及していったといわれます。
常設展示の「竜吐水」には、いくつか銘があり、様々な情報が読み取れます。
まず、本体の水をためる部分には、「打出」「う組」と文字があしらわれています。
この資料は、粕壁地区の内出町会から寄託されているものですので、内出(町)の消防自衛組織を「う組」と呼んでいたものとみられます。
本体の側面には、次のようにあります。
「明治十七年七月」と大きく刻まれています。また写真右手には「テレキスイ」、写真では切れていますが左手には「請合」「本家 東京神田筋違通新石町 細工人清水弥七」の焼印がみえます。
この竜吐水は「テレキスイ」と呼ばれ、明治17年(1884)7月に、東京神田新石町の清水弥七の手によって製造されたことがわかります。「テレキスイ」は「手力水(てりきすい)」から転じて名付けられたといわれます。清水弥七は、神田新石町20番地で消防ポンプの製造・販売する職人だったようで、明治時代後半に普及していく、鉄製の腕用ポンプ(手押しの消防ポンプ車)の製造・販売にも携わっています。教育センターのロビーに展示している腕用喞筒(わんようそくとう)にも「清水弥七」製造の銘盤が付されています。喞筒(そくとう)とは、ポンプのことです。
市内に残されている消防用具をみると、おおよそ明治時代後半から大正時代初めを境に、鉄製の腕用喞筒に替わっていったことがわかります。このころ、各町村では消防組織を再編し、町村の予算で腕用ポンプ購入しているようで、粕壁町では、町内を十部に分けて自衛の消防組を組織していましたが、大正13年10月24日に町営消防の四部編制になり、各部でガソリンで駆動する消防喞筒を備えます。内出町が属した第一部(上町、仲町、春日町、旭町、陣屋、内出、金山)では、大正12年(1923)3月30日に「ガソリン喞筒(森田式)一台」を3200円で購入しています(『消防発達史 第1編 埼玉県』、昭和8年~10年刊)。
上に紹介した内出町の龍吐水(テレキスイ)が、どれだけ活躍したのかは詳しく知ることができませんが、ガソリンポンプが購入される大正12年(1923)までのわずか40年ほどの間しか、消防道具の主役として活躍されなかったのかもしれません。
この龍吐水の背景をみると、粕壁町=行政主体で消防を行う以前、つまり、地域主体で自分たちの地域を守るため、備えられた道具といえそうです。今日も、防災は自助、共助、公助の3つが連携しあうことで、災害を予防・軽減できるといわれています。龍吐水は、内出町の共助の歴史の証(あかし)ともなる資料といえましょう。
皆さまにとりましても、龍が勢いよく水を吐くように、繁栄の一年になりますようご祈念申し上げます。そして、本年も郷土資料館と「ほごログ」をよろしくお願いいたします。令和6年卯年 元旦
年末年始のお休み・年明けの開館日
郷土資料館は、12月29日~1月3日まで年末年始の休館日となります。
Kasukabe History Museum will be closed from December 29th to January 3rd.
新年は、1月4日から開館いたします。
Open from January 4th.
本年も「ほごログ」をご覧いただき、ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
考古学講座第4回を開催しました
12月24日に考古学講座第4回を開催しました。
今回は、1.年代の決定、2.春日部市の古墳時代の遺跡についてがテーマでしたが、古墳時代のお話はさわり程度で、前回途中になってしまっていた弥生時代についてのお話をしました。古墳時代については、また次回にお話ししたいと思います。
考古学が扱う年代には、大きな概念として「相対年代」と「絶対年代」があります。地層塁重の法則や型式学から導かれる遺構、遺物の新旧のことを相対年代といいます。これに対して、今から○○年前や西暦など、数字で表現される年代を絶対年代といいます。考古学で遺物などから絶対年代を求める場合、多くは科学的な方法が使われます。
現在、数多くの年代測定法が開発されていますが、今回は一番よく知られる放射性炭素年代測定法、年輪年代測定法をご紹介しました。
放射性炭素年代測定法は、アメリカのウィラード・フランク・リビーによって開発された方法で、ベータ線を放出しながら壊れていく炭素14を調べることによって年代を測定します。かつては放出されるベータ線から測定するベータ線計測法が用いられていましたが、近年は、少量の資料でも計測できる加速器質量分析法(AMS法)が主流となっています。AMS法は、炭素12、炭素13、炭素14が加速器により加速され、分析電磁石の中で曲がる際に、重量の違いから生じる遠心力によって曲がる方向が分かれ、3つの炭素がふり分けられます。
また放射性炭素年代測定法で導き出された年代は、炭素14年代の変動を示した暦年較正グラフによって誤差を修正する作業が行われます。グラフの傾きが鋭い部分は年代が絞り込みやすいですが、平らな部分は広い年代となってしまう特性があります。
年輪年代法は、伐採年がわかる複数の木材から作られた年輪の変動パターンを利用して、対象となる木材の年輪が合致する部分を特定し、年代を求める方法です。年輪年代法で年代がわかるのは、木材の伐採年であり、伐採年と資料が使用された年代に開きがある場合や、材木として加工されてしまい、樹皮に近い年輪が残っていない場合などは、年代測定の精度が下がります。
アンケートでは、放射性炭素年代測定の方法は難しくよくわからなかったというお声がありました。私自身もよく理解できていないところがあり、かえって難しく説明してしまったかもしれません。インターネット上でもたくさんの先生が、仕組みなどについての資料を公開していますので、検索してみてください。
さて、考古学講座では、毎回、博物館や資料館の考古学に関する特別展や企画展を紹介しています。詳細は各所のサイトをご確認いただくか、資料館でポスター掲示やチラシ配架なども行っていますのでご利用ください。
(展示会_閉会日順)
・ 埼玉県立歴史と民俗の博物館 11月14日(火)~1月14日(日)「縄文コードをひもとくー埼玉の縄文土器とその世界 」(新年は1/2から開館)
・岩槻郷土資料館 11月21日(火)~1月21日(日)「縄文時代のさいたま」
・川口市郷土資料館 11月3日(金)~2月25日(日)「縄文のナニコレコレミテ」
#春日部市役所 よ、さようなら(写真でみる現庁舎)
先日、春日部市役所の新庁舎が完成し、式典が行われました。いよいよ、新たな庁舎への移転が迫ってきましたが、同時に、現在の市庁舎とのお別れもカウントダウンです。
現在の庁舎での業務は、今年12月28日までです。新しい庁舎での業務開始は、来年1月4日からになります。ですから、現在の庁舎に入れるのは、残り1週間をきりました。
現在の市庁舎の建設の建設が決定したのは、昭和44年(1969)6月。当時の市役所は、大正13年(1924)に粕壁町役場として建築された建物で、庁舎が狭く、老朽化が激しかったと報告されています。今後の市の発展を見込み、春日部駅の西側に建設することになりました。建設予定地の写真(昭和44年当時)がこちら。
かつては、馬草場(ばくさば)と呼ばれていた農地に市役所が建設されることになったのです。
工事が始まったのは、昭和45年(1970)1月19日のこと(起工式)。
当時の春日部市の人口は、およそ8万人。高度経済成長の時代に人口がうなぎ登りに増加する一方、10万都市を目前にひかえ、都市のインフラ整備が市政の大きな課題となっていました。田中俊治市長(当時)は、「躍進する春日部市の象徴として、市民のアイドルとなるような市庁舎建設に努力」「近代的な市役所として窓口の一本化とともに一段と市民のサービスができるものと確信」と、年頭のあいさつで述べているように、「近代的な市役所として窓口の一本化とともに一段と市民サービスができる」庁舎として期待されました。
次の写真は、昭和45年10月、建設中の市役所です。周辺には建物がほとんどありません。
庁舎が完成したのは、昭和45年(1970)12月21日のこと。
翌46年1月8日には、関係者を招き、落成式が開催されました。
落成式では、記念の手ぬぐいが関係者に配布されたようです。その手ぬぐいがこちら。
建物の曲線美を見事に描いたイラストがあしらわれています。記念品が手ぬぐいというのが、当時の牧歌的な春日部市を象徴しているようです。ちなみに、この手ぬぐいのイラストを転用した郷土資料館の記念スタンプもあります。
当時の市の広報には、市庁舎の特徴は次のようにまとめられています(広報かすかべ168号)
建物の外部は、長く美しさが保てる暗褐色のタイルと白で統一し、室内は外部のおちついた色とは対象に、明るい色で装ったデラックス庁舎で、県下でもめずらしい優美な曲面の偉容を誇っています。
庁舎の特徴は、一階の部分に、広々とした市民ホールを設けたのをはじめ、窓口事務を必要とする各課が配置され、窓口にきた市民のみなさんが用件をスムーズに得られるようになっています。
広々とし、近代的な建築であることを誇り、「デラックス庁舎」(豪華な庁舎)と称しています。「デラックス」でありながらも、窓口が一本化され、スムーズな手続きができることも売りだったのです。当時、注目された建造物であったことは、以前の記事で紹介したことがあります。
1月9日、10日には、「お気軽においでください」と銘打って、市民公開がされました。そして、市役所の業務が始まるのは、翌46年(1971)1月18日から。出来立てほやほやの庁舎内の写真がいくつか残っています。
こちらは、市民ホール。
こちらは三階の事務室。現在は、総務部の事務室として使われていますが、当時は教育委員会が入っていたようです。こちらも、まだ雑然としていません。
とある元市職員の方は、近代的な春日部市の庁舎をみて「都会に来たな」と実感したとか。ここで働いてきた市の職員たちの思い出は尽きないでしょう。
庁舎に対する思い出は、職員だけではないでしょう。市民の皆さんも、出生届や婚姻届、転出・転入など一人ひとりの人生の岐路のなかでの諸手続きのため、市役所に訪れているはずです。
春日部市の人口は昭和47年(1972)9月1日に10万人を突破します。10万人の市民となった赤ちゃんは、市内の備後地区で生まれた女の子でした。庁舎の脇には、これを記念し植樹が行われました。下の写真がその時の模様。庁舎にもその周りにも市民・職員の思い、思い出がある、といえるでしょう。
春日部市役所は、市民や職員の思いとともに、春日部市政の歴史を刻み、今日にまで歩んできました。現代の春日部市の礎となった市役所に入れるのも、12月28日までです。それぞれが抱く思いを振り返りながら、市役所を訪ねてみてはいかがでしょうか。
現市庁舎の歴史を振り返ると、奇しくも現在の市庁舎移転と重なる部分もみえたような気がします。そして、歴史的にみると、市庁舎の建設は市政のエポックともいえそうです。市役所が歴史に幕を閉じ、新たな庁舎での業務が始まり、再び市政の転換期を迎えているといえるのかもしれません。
さようなら。そして、お疲れさま。春日部市役所。
郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました
令和5年12月17日(日)の午前・午後に体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました。
今年は会場の都合上、1日で2回開催という職員的には過密スケジュールです(笑)
講座の中でもお伝えしましたが、しめ縄の藁(わら)には事前の下拵えが必要です。
そんな準備風景を少し、、
農家さんにお願いして、9月末頃に稲わらの調達をするところから準備は始まります。
そして教育センターでは、物干しざおに結んだ藁(わら)をひっかけ1~2週間ほど干します。
そこから“藁すぐり”という藁のハカマをとる作業です。
講座で使える量はもらってきた藁(わら)の半分程度の量になります。
講座当日には藁を水につけてやわらかくする藁打ちをして準備完了です!
講座では、当館の館長より挨拶をさせていただいた後、春日部に伝わる伝説の紙芝居を1つ読ませていただきました。
アンケートをみると紙芝居に興味を持ってくれた方もいたようで、うれしい限り♪紙芝居は郷土資料館で貸し出しも行っているのでお気軽にお問い合わせください。
そしていよいよしめ縄作りに入ります。
まずは“紙垂(しで)”の作成から。しめ縄から垂れ下がっている稲妻のような形をしたアレです。半紙を切ったり折ったりしながら、割とスムーズに皆さん作れていました!
そして次が最大の難関“縄ない”です。
藁(わら)を撚(よ)って縄を編んでいくのですが、毎年この作業で皆さん悪戦苦闘します!しかしながら今年は、初めのほうこそ難しそうでしたが、コツをつかむのが早い方が多く、上手になえていました!
しめ縄の本体を作る作業では、ねじった束を組み合わせるときに、ねじりが緩まないようにするのが綺麗なしめ縄を作る秘訣です!
完成した品がこちら!
立派なしめ縄ができました!
講座後のアンケートでは毎年「大変だった」「難しかった」でも「楽しかった!」というご意見を多くいただきます!やりがいのある講座の証でしょうか♪
また来年も開催を予定していますが、しめ縄作りの講座は人気のがあり、募集早々に埋まってしまうこともあるため、募集開始日になりましたらお早めにご連絡ください!
皆さまご参加ありがとうございました♪
#民具 出張しました。
郷土資料館所蔵の民具。先人たちが、生活を営むために造った「身辺卑近」(身近でありふれているの意)の道具です。
本日、そうした民具のなかから、とある一つの民具にスポットがあたり、テレビ出演のために東京へ旅立っていきました。
手回し洗濯機です。今から60年ほど前に発売されました。
手回し洗濯機は、電気で動く洗濯機が販売される以前の洗濯機で、なかにお湯や水と洗剤(洗濯石鹸)を入れて、ふたをしてぐるぐる回すと、密閉して圧力がかかるので、洗濯物がきれいになるそう。
でも、洗濯をする人はちょっと大変です。なぜなら、ずーっと回さなければならないから。
そういうわけで、目新しく、それなりに効果もあったようですが、あまり普及しなかった(または利用されずに箱にしまい、とっておかれた)そうです。 詳しい解説は以前の記事を参照のこと。
当館所蔵の手回し洗濯機は、使用された形跡もあり、ふたが少し錆びています。現在は地域学習展に展示中。小学校の出張授業「でばりぃ資料館」にも出張する人気の道具です。
さて、当館の手回し洗濯機が、どういうわけか、東京のテレビ制作会社の方の目に留まり、本日、東京のテレビ局へと運ばれて行きました。学校の先生向けの資料活用ページがお目に留まったのでしょうか。地道に情報発信をしていてよかったと思える瞬間です。
手回し洗濯機は工業製品で、どこにでもある道具です。ですから、当館だけではなく、他の資料館・博物館でも所蔵されていることも少なくありません。しかし、本日お越しになった制作会社の方は、手回し洗濯機を見るなり、「やっと出会えた!」と感激されていました。貸出を許す博物館がなく困っていたそうなのです。
館蔵の民具の数は、リスト上だと3400件ありますが、実はまだ未整理のものも多くあり、その正確な数はわかりません。古いものでは江戸時代の道具、新しいものは最近のものまで、大きさ、形、重さ、素材、材質もさまざまで、一見、見栄えしませんが、文字・記録ではわからない郷土の人々の生活とその変遷を伝え、考える資料として、現代に生きる私たちにとって、大変重要なものです。
手回し洗濯機は、工業製品なので、厳密にいえば「民具」の定義から外れるかもしれませんが、テレビ出演によって、有名になって地元に帰ってきて、なかなか日の目をみることがない、民具への関心が高まることになれば、うれしいなぁと思っています。
テレビの番組名や放送予定日などは、告知が可能になり次第お知らせしたいと思います。
武里西小学校のみなさんから見学の感想をいただきました
10月31日に、郷土資料館を見学した武里西小学校の3年生のみなさんから、来館の感想を掲示できる形でいただきました。見学の様子はこちら
郷土資料館出口の外に掲示していますので、ごらんください。
武里西小学校のみなさん、ありがとうございました。
みなさんからは次のような感想をお寄せいただきました。
・お手玉がおもしろかった。
・縄文時代のくらしに興味を持った。
・むかしも家がちゃんとあった。
・縄文時代の本物のがいこつがあった。
・江戸時代は自転車や自動車がなかった。
・電気のない生活をイメージできた。
・ダイヤル式電話が気になった。
このほかに、「また行きたい」と書いてくれた人もいました。
ぜひ、ご家族とやお友達とまたいらしてください。