ほごログ(文化財課ブログ)

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市内各地域で伝統芸能が公開されました!!

 連日の猛暑が続いていますが、7月15日(土)、16日(日)には市内各所で埼玉県や春日部市の指定文化財(無形民俗文化財)が公開されました。コロナ渦でほぼ4年ぶりの公開となる伝統芸能もあり、地域の皆さまの不断のご協力とご支援のもと次世代の子供たちへ伝統の舞が継承されております。

 埼玉県の文化財に指定されているやったり踊りは15日午後8時スタート。大畑香取神社で小中学生の小若、成人の若衆による扇子踊りと手踊りが奉納されました。小若の中学生にとっても4年前は小学生低学年。当時の経験を思い起こしながら若衆の指導のもと、本番に臨むことができました。若衆のみなさんも連日の指導に加え自らの舞を仕上げてくれました。

 

市内東部、江戸川沿いの西金野井香取神社では、県指定の西金野井の獅子舞が16日(日)に公開されました。

 

午前からさんさんと照り付ける日差しでしたが、今年出産された女児双子ちゃんが太夫獅子からのお祓いをいただいていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西金野井の獅子舞では、春から練習を重ねている南桜井小学校の伝統芸能クラブの皆さまも祭礼に加わり、練習の成果を披露。暑い中、初めて獅子頭を被り、熱演してくれました。保存会の皆さまは午前10時前から夕刻までの長丁場、数々の演目を披露、最後には神社拝殿で注連縄を切る「注連切り」を舞い、終演となりました。

榎区の集会所では、市指定の榎の囃子神楽が公開され、軽快な祭り囃子と共に、女性の大黒さまと高校1年生による獅子舞が披露されました。獅子役の高校生はお父さんと役替りし太鼓を、祖父は笛を奏でると、親子三代で共演いただきました。

 

 豊野地区では、越谷市下間久里の獅子舞から伝承された2つの獅子舞が同日に奉納舞が行われました。4年ぶりの公開となった赤沼の獅子舞では、子ども獅子と女性の舞手が勇壮な舞に加わりました。そして太夫獅子による弓くぐりも行われ、五穀豊穣、疾病退散が祈願されました。

 

 そして赤沼と同系列の銚子口の獅子舞でも勇壮可憐な三匹獅子が披露。今夏でも女性の舞手が小獅子役を担い、優美な舞を演じていただきました。

市内の伝統芸能の夏季の公開はこの二日間、10月にも各所で奉納舞が公開されます。子供たち、そして女性と新たな世代の後継者が伝統の舞を受け継いでいますので、ぜひ、現地へ足を運んでみてはいかがでしょうか。  

 

 

【令和5年夏季展示予告その6】須釜遺跡の底部穿孔土器

須釜遺跡3号再葬墓出土底部穿孔土器

3号再葬墓出土底部穿孔土器の底

須釜遺跡3号再葬墓出土底部穿孔土器

 

須釜遺跡は、倉常の中川(庄内古川)左岸の水田地帯で、周りより1~2mほど標高が高い自然堤防と呼ばれる微高地に立地します。これまでに3回の発掘調査が行われ、1・2次調査では、古墳時代前期の竪穴状遺構や包含層、近世の屋敷跡が確認されています。3次調査は、平成13年(2001)に土地所有者が耕作作業をしている際に弥生土器が発見されたことがきっかけとなり行われました。弥生時代中期の11基の再葬墓と呼ばれる墓跡と、それに伴って約30点の完全な形に近い弥生土器が発見されました。須釜遺跡の出土遺物は平成17年に埼玉県の有形文化財に指定されました。

 

須釜遺跡の底部穿孔土器は3号、4号、6号、7号再葬墓から出土しています。壺以外に、甕や筒形の土器も穿孔されています。いずれも焼成後の穿孔です。底の外面(下側)に何かを当てた痕跡がないことから、内面(上側)からあなをあけているものと考えられます。

須釜遺跡7号再葬墓出土土器

須釜遺跡7号再葬墓出土土器底部

須釜遺跡7号再葬墓出土土器内面

須釜遺跡7号再葬墓出土土器(側面、底面、内面)

 

ほかの再葬墓の遺跡でも底部穿孔土器が出土することはあるものの、須釜遺跡のように多くの土器が穿孔されることはありません。須釜遺跡の再葬墓は、お墓の形が再葬墓から方形周溝墓に移り変わる時期に営まれたと考えられており、そういった時代背景から底部穿孔土器が多く出土している可能性も考えられます。

 

須釜遺跡については、下記の記事などもご覧ください。

【常設展】須釜遺跡出土土器を展示替えしました

須釜遺跡再葬墓出土遺物一括-指定文化財でめぐる春日部

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

 

#納涼 ミュージアム #スタンプラリー

暑い日が続きますね。暑い日は、お近くの博物館に涼みに。そして、ぜひご家族で近隣の博物館巡りをしてはいかがでしょうか。 #博物館 #かすかべプラスワン #クールオアシス #夏休み

画像:スタンプラリー台紙

7月15日から始まった「彩の国東部・北部ミュージアムスタンプラリー」は、春日部市郷土資料館を含む博物館24館園のスタンプラリー。中学生以下の方のみ参加可で、スタンプ3つ集めれば粗品。6つ集めればオリジナル埴輪貯金箱をプレゼント。最西端は神川町から、最南端は三郷市まで24館園が参加しています。24館園のなかには、まちのクールオアシスとして協力している博物館もありますので、涼みながら、各地域の特色を知り、学べます。 

スタンプの台紙はこちらからR5_埼博連スタンプラリー台紙.pdfダウンロード・ご利用できます。春日部市郷土資料館は、多種多様なスタンプを用意していますが、台紙におすのは1つまでなのでご注意を。

 

事業名:彩の国東部・北部ミュージアムスタンプラリー

主催:埼玉県博物館連絡協議会東・北部地域連絡協議会

期間:令和5年7月15日(土)から10月1日(日)景品がなくなり次第終了

参加加盟館園:埼玉県東・北部の博物館24館園

対象:中学生以下の方

【令和5年夏季展示予告その5】権現山遺跡の大口径羽口

奈良時代~平安時代の竪型炉に伴う大口径羽口

権現山遺跡で発見された大口径羽口(写真のように置いた時の縦の長さ19㎝)

 

昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査では、奈良時代から平安時代の大口径羽口(だいこうけいはぐち)が発見されています。羽口とは、鉄を加工する炉の内部に、火の力を強めるために空気を送り込むための送風管のことです。粘土で作られており、火を受けた跡や溶けた鉄が付着していることが確認できます。

今回ご紹介する羽口はとても大きいもので、大口径羽口と呼ばれています。大口径羽口は、砂鉄から鉄を作るための竪型炉(たてがたろ)に装着されたものです。権現山遺跡では、このほかにも、製鉄(製錬・せいれん)にともなう炉壁(ろへき)や鉄滓(てっさい)が、総量34435.2g出土しています。

 

竪型炉の本体は発見されておらず、資料が集中して出土した場所は、廃材を捨てる排滓場(はいさいば)であったと考えられます。大口径羽口などの特徴から、時代は、8世紀後半から9世紀前半と推定されています。

春日部市周辺では、製鉄(製錬)の工程に関する遺跡は現在のところ、この権現山遺跡のみです。鍛冶(鉄を製品にしあげる)の工程の遺跡は、松伏町の本郷遺跡や市内米島の吉岡遺跡、宝珠花の町道遺跡、小渕の小渕山下遺跡で発見されています。

この大口径羽口の出土により、権現山遺跡周辺で、砂鉄を原料とした製鉄を行っていたことが推定できます。

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

春日部市郷土資料館7月の休館日

休館日にご注意ください。Please note 请注意 주의해 주세요  #Closed #休馆日 #휴관일

7月の休館日は、3日(月)・10日(月)・17日(月・祝)・18日(火・祝日の翌日)・24日(月)・31日(月)です。

Closed Mondays and July 18

休馆日 周一 7月18日

휴관일 월요일 7월18일,

休館日に、外国の方がスタンプラリーで来館されていると聞いています。ご注意ください。

画像:うめわかおじぎ

伝統芸能の公開にむけて-やったり踊りの練習にうかがいました!!

 いよいよ夏季の例祭が各地で催されますが、7月8日(土)は埼玉県無形民俗文化財に指定されている”やったり踊り”の練習にうかがいました。

 

令和元年の公開以降、3年ぶりに小若の元気な舞と若衆による伝統を継承する勇壮な舞が戻ってきました。

 

 この日は本番同様、練り込みと呼ばれる西光寺から奉納舞を行う大畑香取神社境内まで、道中の所作をはじめ、小若低学年、高学年、若衆の順で「扇子踊り」と「手踊り」の仕上げが行われました。

 

 小若の低学年(小学生1~3年生)は初めての参加、さらに高学年の皆さんも3年のブランクを取り戻そうと、低学年時の経験を一生懸命に思い起こしています。境内での練習は本日が初めてで当初は戸惑いもみられましたが、若衆みなさんのアドバイスや励ましにより、低学年を引っ張ろう、舞を合わせようと、頑張ってくれました。

 この練習時には、小若は揃いの半被ですが、若衆は白地に鮮やかな青の染め抜きの浴衣、赤の鉢巻き、赤の鼻緒の草履という、特徴的な装束も見どころの「念仏踊り」とされる県内でも希少な無形民俗文化財です。

 全国的にもコロナ渦で中断が余儀なくされていた伝統芸能の再興にご苦労されています。是非、この夏の祭礼に足を運んで地域の伝統芸能を応援ください!

※やったり踊りの公開は、次週土曜日、7月15日(土)午後8時に西光寺を出発、約20分の練り込みにより大畑香取神社へ。午後8時30分ごろから奉納舞が公開されます。

 7月16日(日)は、西金野井の獅子舞、赤沼の獅子舞、銚子口の獅子舞、榎の囃子神楽も公開されます。詳しくは市公式ホームページをご覧ください。

展示替はじまっています

7月2日までの企画展の資料を撤収しました。素丸書の松尾芭蕉の肖像画の軸を巻き、まさにしまおうとしたところ、軸の表紙に目がとまりました。

軸の表紙

墨書や蔵書印があるのですが、注目は次の蔵書印です。

画像:蔵書印

鼎(かなえ)を模している印なのでしょうか。やかんでしょうか。形はよくわかりませんが、文字はちょっと読みづらいかもしれませんが、印には「宜春園(ぎしゅんえん)」と印刻されているようです。

宜春園とは、江戸中期の備後の文人・石井文龍が、師匠の溝口素丸から与えられた号です。素丸も宜春園を名乗っていたといい、文龍にとっては誉れ高き名跡だったはず。その後、宜春園の名跡は、地元の文人に継承されていきました。

詳しくは、松尾芭蕉の肖像が春日部に伝来した理由を参照してください。

つまり、芭蕉の肖像の軸に「宜春園」の蔵書印が捺されているということは、まぎれもなく石井文龍の持ち物だったといえるわけです。今後、「宜春園」の蔵書印に注目しながら、他の資料を検討していけば、何か新たな発見があるかもしれません。撤収のさなか気づいた今後の課題です。終わりは始まりなのです。

さて、撤収後、次の企画展示「あなのあいた壺」展の設営が始まりました。

写真:展示の設営

前の展示は、紙ものばかりでしたが、今度はうってかわって立体的な土器が並びます。資料の種別や特性によって、取り扱い方も全く違います。倒れないように、土器専用の台やテグスなどでしっかり固定しています。立体的な資料なのでどの部分を見せたいのか、担当の学芸員の個性が出るところでしょう。

終わりは始まり、ですが、展示の設営が始まったということは、これもいつか終わりを迎えるのです。

終わりは始まり、始まりは終わりなのです。

企画展示は期間限定ですので、お見逃しなく。

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その4】権現山遺跡の縄文時代晩期の土器

権現山遺跡晩期土器

 

権現山遺跡から出土した縄文時代晩期の土器(土器の高さ48.2㎝)

 

権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代晩期の土器を紹介します。

縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6時期に区分されていますが、春日部市域でもっとも遺跡数が多いのが縄文時代前期です。東京湾が北に広がった縄文海進がもっとも進んだ時期で、低地は海となり、陸地であった台地で人々は生活し、貝塚を残しました。縄文時代中期の遺跡も比較的多くみられます。縄文時代後期になると、遺跡数は少なくなりますが、神明貝塚のような大きな遺跡が確認されています。

縄文時代晩期は今から約3,300~2,500年前で、市内では今回ご紹介する権現山遺跡の深鉢形土器が、ほぼ唯一の資料です。

この土器は、昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査で、古墳時代前期までに埋まったとみられる埋没谷から発見されました。縄文時代晩期後半、中部地方から東北地方にみられる浮線文系土器群に属するものと考えられています。

口径(復元)34.5㎝、推定の高さ48.2㎝の大型のもので、口縁には、2個1組と1個の山形の突起を交互に5個つけています。浮線文系土器の文様は、網状文(あみじょうもん)とよばれる網目のような模様がよく見られますが、権現山の土器は、竹などの工具で平行に線が引かれる平行沈線(へいこうちんせん)が描かれており、浮線文系土器群のなかでも新しい特徴とみられています。

縄文時代早期の土器に続き、この晩期の土器も大変貴重な資料です。 

 

●春日部市郷土資料館 第68回企画展示

権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器

会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺

 

海外の方にも大人気! #クレヨンしんちゃん スタンプ

4月ごろから、郷土資料館に海外からのお客さんが見受けられるようになりました。「クレヨンしんちゃん 春日部スタンプ巡り」に参加されている皆さんです。

実は、4月16日(日)から2か月以上連続で海外の方の来館が続いており、ある日は来館者の半数以上が海外の方ということもありました。

春日部市郷土資料館で提供するしんちゃんのスタンプは、国指定特別天然記念物である牛島のフジ、国選択無形民俗文化財である大凧あげ、日光道中の宿場町、伝統工芸である桐ダンス・桐小箱をデザインした、春日部の魅力が詰まっているオリジナルスタンプです。

 

思いがけない反響に、資料館では、外国の方向けに多言語の案内表示を掲示しました。

画像:多言語化案内

また、常設展示のクレヨンしんちゃんの展示コーナーには、感謝の言葉も表示しました。

画像:感謝の多言語

これをきっかけに、江戸時代の宿場町や縄文人の家の模型を見学して、クレヨンしんちゃんが住む春日部の歴史文化に触れていただき、春日部市の魅力を知っていただきたいと、願うところです。

#家康 と春日部

#徳川家康 と春日部の関わりを紹介する春季展示は7月2日(日)まで。展示では家康が実は春日部に来ていたかも!?と紹介しています。 #かすかべプラスワン

展示も終盤なので、ネタバレで紹介します。家康が春日部に在陣することを示すのは、江戸幕府による官撰の系譜「寛政重修諸家譜」。戦国期には古河公方足利家の家来だった一色氏の系譜の記事のなかに見出せます。下の画像はその部分(国立公文書館所蔵)。

画像:寛政重修諸家譜

戦国末からの当主一色義直の記事は、次の通りです。

(前略)五年会津に御発向のとき、粕壁の駅に至りて拝謁し、台駕にしたがひたてまつらむ事を請といへとも、年老たるをもつて許し給はす、男照直を俱せらる、関原凱旋のゝち、参府して御気色をうかかふのところ、御前にめされ、義直老年ながら会津御陣の供奉をこひし事健気なりとの御感ありて、養老の料として下総国和歌領にをいて、千石の地をたまふ(後略)

慶長5年(1600)、家康は会津の上杉景勝の征伐のため、江戸城を立ちました。その途次「粕壁の駅」で一色義直は家康に拝謁し、軍勢に加わりたいと請願しますが、老齢のため家康の許しを得ることができず、嫡男の照直が供奉することになりました。

一色氏は、かつて幸手領(幸手市域から杉戸町・春日部市域の一部)を所領にしていた在地領主です(後に下総国相馬郡に所領を替えられ、現在の野田市の木野崎村に居住)。家康が関東に入部した後は、幸手に知行地5160石余を与えられ、徳川家の旗下となりました。慶長5年当時、義直は隠居の身でしたが、おそらく家康の軍勢が自らの所領幸手領を通行する直前の「粕壁の駅」で、挨拶のため拝謁したものと考えられます。

家康は、会津に向かう途中、小山で江戸に引き返したといい(小山評定)、そのまま関ケ原に向かいました(関ケ原の戦い)。

「諸家譜」はさらに続けて、関ケ原の戦いの後、一色義直は江戸城で家康に拝謁し、老年ながら会津征討に供奉したいと請願を「健気なり」と褒賞され、隠居料として下総国和歌領(現茨城県八千代町)に1000石の知行所を与えられました。

一色義直の「粕壁の駅」での拝謁については、残念ながら同時代の史料は残されていません。「諸家譜」のほか、一色家諸系譜(幸手市史編さん室編『幸手一色氏』)にも記されており、家に伝来した出来事であったと考えられますが、当時いわゆる「日光道中」が成立していたかは疑義が残り、「粕壁の駅」の位置や実態について詳しくはわかりません(後述)。

上杉征伐~小山評定~関ケ原の戦いは、大変ドラマチックな展開であり、その途次に「粕壁の駅」が登場するわけですが、近年は「小山評定はなかった」説も唱えられており、江戸からの行程、江戸までの行程も詳しくはわかりません。このあたりが大河ドラマでがどのように描かれるのか、注目されるところでもあります。

さて、肝心の「粕壁の駅」とは、何か。先日の「みゅーじあむとーく」でも、「粕壁の駅」とはどこなのか、当時粕壁に宿場町があったのか、など観覧者から鋭い質問をいただいたところです。

粕壁宿の名主文書によれば、いわゆる「日光道中粕壁宿」(現在の春日部大通り)の町割りがされたのは、慶長16年(1611)のこととされています。一方、天正18年(1590)9月には、岩槻城主高力清長が「糟壁新宿」に人を集め年貢を納めることを命じています。「糟壁新宿」はのちに元新宿と呼ばれた地区(現南・緑町)であり、いわゆる「日光道中粕壁宿」の成立以前の馬継場は同所にあったと考えられています(詳しくは以前紹介記事参照)。会津征伐の慶長5年は、この間の出来事。果たしてどこに「粕壁の駅」があったのか。はたまた、「粕壁の駅」はそもそもこの時期に存在したのか、今後の検討が必要です。

結論はでませんが、そうした家康と春日部の関わりを紹介している春季展示「かすかべ人物誌」は7月2日(日)まで。家康の朱印状も展示していますので、お見逃しなく。