ほごログ
古文書解読勉強会の成果(その6)
去る5月19日(土)に古文書解読勉強会を行いました。
引き続き、市内の神間地区に伝わった神間村文書(館蔵)を解読しています。
次回は、6月30日(土)14時~16時。教育センター4階にて、以前に配布した神間村文書の史料番号№40、№49を解読する予定です。
【史料番号14】
差上申詫書一札之事
此度私身上困窮ニおよび御年貢ハ不及申ニ諸払方ニ
差詰、無拠本家一同相談之上借金方江我等家持田地方
質物ニ差出し候処、御組合衆中ニ而夫々金主方江
御詫入引請被成下候処、右家田地売払申義不便ニ
御思召有之、本家りい方右地所家財共買置呉候様
又ハ本家組合出金致呉候歟、両様ニも御懸合
被成下候処、同人方ニ而一円取敢不申、無拠
組合一同相談之上御知行所取締之方迄伺
之上、有夫之家田地売払配分之趣ニ相成候処、此
節ニ至り、本家当人申合之上勝手合申出候処、
御組合一同より厚御利解御申被聞、一言返答無御座候、
依之同村名主源蔵殿唯々取縋歎相頼、厚御詫申入
候処、早速御聞済被成下忝存候、以来右躰
不埒之儀ハ堅相慎、此以後御組合御世話被成下候、右儀催促之儀ニ付而は
何様之御取斗ニ御座候共一言之儀申上間敷候、
依之為後日詫書差入申処如件
当人
本家
【ひとことメモ】
この史料は詫証文(わびしょうもん)といわれる種類の文書で、甲のある行為により乙が被害を受けたとき、甲が乙へ謝罪の意を表すために提出した文書である。下書であるため、いつ作成されたのか、差出の「当人」が誰なのか、宛所は誰なのかが判然とせず、文面も書き直されており意味は取りにくい。困窮のため経営が傾いた「当人」が「金主方」に田地を質に入れたところ、「当人」の組合の者が不憫に思い、「当人」の本家りい方に買い戻しを掛け合ったが、取り計らってもらえなかった。組合では、知行所(旗本の役所)にも伺ったりもしたが、最終的に名主源蔵に(金主方と当人との間を?)調停をしてもらった。この証文では、今後「不埒」な行いを慎むとしているので、「当人」は日頃の悪い素行によって田地を失ってしまったのかもしれない。
【史料番号22】
入置申替地議定証文之事
一、別紙本書証文之質地此度御請戻しニ相成候ニ付、
右地内に有之候我等居宅鋪何程之場所年来
住来候義ニ付、拝借致し度相願候処、格別之御慈悲
を以御相談御聞済被下忝存候、然ル上は替地
として右畝歩丈之外地所貴殿江相渡し置申候、
若向後何ヶ年過候とも右御地所御入用之節は
早速相戻、預ケ置御地所御請取可申御約
談、少も相違有之間鋪候、為後日組合
請印証文入置申候処、仍而如件
弘化四未年 下総国葛飾郡
十二月 神間村
久左衛門
同村 請人
源次郎
同国同郡同村
源太郎殿
(ひとことメモ)
神間村の源太郎は代金を支払って質地を取り戻した。同村の久左衛門は源太郎が取り戻した土地に屋敷を構え、長く暮らしていたので、その土地を源太郎から拝借することになった。この文書は、久左衛門が拝借する土地の代替地を、源太郎に預けることを契約したもの。冒頭に「別紙本書証文」とあるので、証文本紙の添付書類(添え証文)だったとみられる。
夏季展示の予告
神明貝塚(しんめいかいづか)は市内西親野井に位置する、3800年前の縄文時代の貝塚です。市では、この神明貝塚を後世へ伝えていくため、平成21年度から8年にわたり調査を実施しました。
写真でみるように、馬の蹄(ひづめ)のような形で貝がらや動物の骨が分布しています(写真は加工してあります)。
本展示会は、発掘された土器や装身具、人骨などを展示し、最新の調査成果をもとに、神明貝塚に暮らした縄文人の生活や文化、当時のムラの様子などを紹介します。
ただいま、埋蔵文化財担当の学芸員さんが、絶賛準備中です。お楽しみに。
夏季展示(第59回)「ここまで分かった!神明貝塚と縄文人のくらし」展
展示会概要
発見された縄文人の女性。右手首に腕輪を、右耳に耳飾りをしていました
市北東部の西親野井地区には、3,800年前につくられた縄文人のムラの跡である「
市では、この
本展示会は、発掘調査の写真や発見された土器や装身具、人骨、動植物遺体などを展示し、最新の調査成果をもとに、
この夏は、郷土資料館で、3,800年前の先人の暮らしをのぞいてみませんか。
神明(しんめい)貝塚の土器
会期
平成30年8月4日(土曜日)~9月16日(日曜日)
月曜日・祝日休館
会場
郷土資料館 企画展示室
(春日部市粕壁東3-2-15 教育センター1階)
南桜井小学校「伝統芸能クラブ」が始まりました
◆女子は囃子役に。まずは指の動きをレクチャー。
◆保存会の鈴木さんの指の動きをじっくりと観察!すんだ音色が教室中に響きました。
◆男子4名は染谷会長の笛に合わせて『芝舞』の練習。年間20回ほどの練習の積み重ねで例年「芝舞」を舞うことができるようになります。
本年も保存会のみなさま、ご指導よろしくお願いします。
貝の内遺跡出土の瓦と出土状況『新編図録春日部の歴史』からのご紹介46
瓦は、竪穴住居跡で煮炊きを行うカマドから発見され、長さ38.5㎝、重さ4.9㎏を測ります。軒平瓦は、屋根の一番下の軒(のき)の部分に、瓦の一辺が見えるように葺(ふ)かれますが、その部分に宝相華文(ほうそうげもん)と呼ばれる特徴的な模様がみられます。
この模様は、現在の千葉県市川市に奈良・平安時代に存在した下総国分寺の建物に使われた瓦と同じ文様で、文様を付けるために使用されている范型(はんがた)が下総国分寺で見つかっているものと共通します。
この瓦は、奈良・平安時代、貝の内遺跡と約40㎞離れた下総国分寺との間につながりがあったことを物語る貴重なで資料です。
「国分寺の造営と貝の内遺跡」『新編 図録 春日部の歴史』36ページ
貝の内遺跡出土の下総国分寺瓦
出土状況(文様部分を上にして縦に設置されている)
旧庄和村役場『新編図録春日部の歴史』からのご紹介45
庄和村は昭和29年(1954)7月1日、川辺村、南桜井村、富多村、宝珠花村の四村が合併して、人口14,725人をもって誕生しました。新村名の「庄和村」は「古来庄内領と称していたので、庄内領の一致和合、将来の発展を望む」として決定しました。
新しい役場は木造洋式2階建てで、正面中央に庄和村章を掲げました。新役場ができる前は、下柳にあった旧南桜井役場を役場として使用していました。
新しい役場で業務を開始した5年後の昭和39年(1964)、庄和村は町制施行し、庄和町となりました。
「昭和の大合併」『新編 図録 春日部の歴史』250ページ
旧庄和村役場(撮影年不詳)
庄和村章