ほごログ(文化財課ブログ)

ほごログ

土器作り教室と産直の里内牧体験 参加者募集!


縄文人の技術を用いて土器をつくります。
皆さんのご応募をお待ちしています。

日時:7月30日(日曜日)、8月20日(日曜日)全2回
(8月20日が雨天の場合は、8月27(日曜日)に順延)
いずれも、午前10時~午後4時
会場:教育センター(7/30)、内牧公園・内牧公園近隣農園(8/20)
※8/20の土器焼き、勾玉製作・火おこし体験のほか、近隣農園で収穫体験のメニューもご用意しております。
募集人数:50名(応募者多数の場合は、抽選。小学生以下は保護者同伴)
参加費:200円(予定、材料費)※収穫体験の費用は別途

【申し込み方法】
7月14日(金曜日・必着)までに直接(土・日曜日は、郷土資料館で受付)、はがき、またはメールで、参加者全員の住所・氏名・電話番号・生年月日・収穫体験参加の有無を記入し、下記あてにお申し込みください。
〒344-0062 粕壁東3-2-15 春日部市教育委員会文化財保護課
メールアドレス:
bunkazai@city.kasukabe.lg.jp
抽選結果は、7月21日(金曜日)までに応募者全員に通知します。

東不動院野神楽保存会が「地域の伝統文化分野」で助成が採択されました

市の無形民俗文化財に指定され、日頃、文化遺産の保存と継承に努められている「東不動院野神楽保存会」が、このたび、公益財団法人 明治安田クオリティオブライフ文化財団から平成29年度の助成が採択され、6月8日に目録贈呈式に出席されました。

贈呈式 
同保存会では、平成26年度から幸松小学校の放課後子ども教室にて月2回の頻度で”神楽教室”を開催しており、後継者養成と児童の地域学習にもご尽力されています。
今回、こうした後継者養成を目的とした太鼓類の新調や修繕への要望が認められ、助成の採択となりました。この教室では太鼓の代わりに古タイヤを使って練習していましたが、これで本物の音色が打ち響きわたることが期待されます。 
放課後子ども教室
東不動院野神楽保存会の皆さんは、7月15・16日に開催される春日部夏まつりでも山車の上でお囃子を奏でますので、是非、ご覧ください。

須恵器生産地別の特徴『新編図録 春日部の歴史』からのご紹介-その12

奈良時代、平安時代には”須恵器”と呼ばれる日常の食器がみられます。、現代のロクロのような回転する機械を使って成形され、密閉された登り窯で1200度という高温で焼かれた土器です。色は灰色のものが多く、硬い仕上がりとなり、たたくと金属音に近い音がします。

須恵器はその形や作り方、使われている粘土に含まれている物質の違いなどから、生産地が限定されることがあります。
春日部市内の奈良時代、平安時代の遺跡からは、茨城県土浦市周辺の新治窯跡(にいはりかまあと)や埼玉県寄居町周辺の末野窯跡(すえのかまあと)、鳩山町周辺の南比企窯跡(みなみひきかまあと)などの製品が確認されています。
そして同じ春日部市内でも、庄和地域の遺跡では新治窯跡などの春日部よりも東に位置する窯の須恵器が、春日部地域の遺跡では、末野窯跡や南比企窯跡などの西に位置する窯の須恵器が発見される割合が高くなります。

現在、庄和総合支所のエントランスで産地別の須恵器を紹介する展示を行っています。是非ご覧ください。

「土器の交易」『図録春日部の歴史』35ページ




新治窯産の須恵器(陣屋(じんや)遺跡;西宝珠花)
キラキラと光る雲母(うんも)という岩石の粒が含まれます



末野窯産の須恵器(小渕山下(こぶちやました)遺跡;小渕)
片岩(へんがん)という岩石の粒が含まれます。



南比企窯産の須恵器(小渕山下(こぶちやました)遺跡;小渕)
白色針状物質(はくしょくしんじょうぶっしつ)と呼ばれる針状の物質が含まれます

市民の方から資料を寄贈していただきました

「あなたの家にも眠っていませんか?」展で呼びかけているため?
・・・かどうかわかりませんが、
本日も市民の方から貴重な資料を寄贈していただきました。
武州粕壁町商売繁栄双六

いただいた資料は、「武州粕壁町商売繁栄双六」。
粕壁の町中の商店をマスにしたオリジナルの双六(すごろく)です。
年代は記されていませんが、内容から昭和初期に版行されたものと推定されます。
双六には、当時の商店や医院、銀行などの広告がマスに配され、
今でいうチラシとして、得意先などに配付されたもののようです。

実は、数年前、古書店の売り立て目録で、同様の粕壁町内の双六を目にしたことがあり、
本日、資料をみせていただいたとき、感激のあまり、声をあげてしまいました。
売り立て目録に掲載されていたものは、今回寄贈されたものとはまた別の図柄でした。
いくつかのバリエーションがあるようです。

この双六は、町や商家の歴史はもとより、当時の風俗を知るうえでも大変貴重な資料です。
双六なので、子どもたちに遊んでもらえます(もちろん複製物で)。

今後、調査研究して、ながく活用させていただきたいと存じます。
改めて、寄贈いただいた方にはお礼を申し上げます。

皆さんのお宅にも、こうした資料が眠っていませんか?

大学生政策提案コンテストの大学生の見学

春日部市「大学生政策提案コンテスト2017」に参加される大学生(共栄大学・日本工業大学)の皆さんが郷土資料館を見学されました。
大学生の見学1
今年度の政策提案コンテストは、「中心市街地の活性化」をテーマとしており、学生の皆さんは、粕壁宿の推定復元模型をご覧になり、春日部の市街地の特徴について、熱心に質問されていました。
このあと、実際に旧宿場町の町並みの現場を見学されるそうです。
春日部市にとっても、また学生の皆さんにとっても、有意義な提案がされることを期待しています。

第2次春日部市史編さん事業計画の策定

春日部市教育委員会では、このたび、第2次春日部市史編さん事業計画を策定しました。
これは市史編さん事業を市の歴史を分析し、総合編集したものを永く後世に残す文化的事業と位置付けた上で、地域資料を総合的に収集し、徹底した調査、整理、研究を行い編さんするための25年間にわたる計画です。
当面は、今まで収集した資料の整理と適正な保存を進めるための事業に取組みますが、平成35年(2024年)の自然誌-地形地質編を皮切りに、計10冊の市史を刊行する予定です。
どうぞ今後の市史編さん事業にご期待ください。


第2次春日部市史編さん事業計画.pdf

市民の方から資料を寄贈いただきました。

現在開催中の春季展示「あなたの家にも眠っていませんか?~意外に身近な郷土資料」展をご覧いただいた市民の方より、資料を寄贈していただきました。

今回、ご寄贈いただいたのは、最近すっかり見かけなくなったテレフォンカードです。
でも、ただのテレカではありません。
春日部市の特産品「押絵羽子板」のテレフォンカードです。

押絵羽子板のテレフォンカード
このテレフォンカードは、春日部市観光協会が製作したもののようで、
寄贈者のお話によれば、このテレカは、今から20~30年前くらい(平成のはじめ頃)に春日部夏祭りの折に観光協会で販売されていたものとのこと。年ごとにデザインが違って、毎年全2種類のテレカを買いあつめたものだそうです。
上の写真は、左から「弁慶」「藤娘」「奴凧」です。
このほか、「初舞」「道成寺」「板鼓」「鷺娘」「獅子」「静御前」「汐汲」「玉うさぎ」「かむろ」「浅妻船」「沢鷺坂伴内」「祭礼」「浅妻」「梶原」「那須与一」「滝夜叉」「舞玉」などの押絵羽子板のテレフォンカード。赤沼民俗文化財保存会製作の「赤沼の獅子舞」のテレフォンカード、合わせて27点を寄贈いただきました。
春日部ゆかりの特産品や民俗芸能のデザインのテレカということで、貴重な郷土資料として保存・活用させていただきます。
ご寄贈くださいました方には、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

こうした郷土資料が「あなたの家にも眠っているかも」しれません。
お心あたりのある方は気軽に郷土資料館までご一報ください。

小渕山下北遺跡の漆椀『新編図録 春日部の歴史』からのご紹介-その11

小渕山下北(こぶちやましたきた)遺跡は、小渕地区の北部に位置する遺跡です。この遺跡の井戸跡から「二引両紋(にひきりょうもん)」と呼ばれる家紋が赤漆で描かれた漆椀(うるしわん)が発掘されています。
この二引両紋は室町幕府を開いた足利氏の一族である幸手城主の一色氏(いっしきし)の家紋です。中世の小渕地区は一色氏が支配していた幸手領であったことから、一色氏との関係が深い不動院や浄春院といった寺院がありました。

今は無き不動院は、その開基(かいき)の秀円(しゅうえん)が三河出身で一色氏と同郷であったこと、二代目住職の頼長(らいちょう)の妻が一色氏の一族であったことなど、一色氏との関係が特に深かったようです。
中世以降、
不動院は一色氏を通じて、古河公方や後北条氏と結びつき、関東の修験(しゅげん)を支配していきます。

「不動院と修験」『新編図録 春日部の歴史』 66ページ

小渕山下北遺跡出土遺物

出張・旅行 日光街道を歩くツアーをご案内しました

郷土資料館には、「日光街道を歩く」団体ツアーや個人の方がしばしばお見えになられます。
本日、日本橋~日光まで日光街道を歩くツアーのお客様が来館され、粕壁宿の町並み模型の展示解説をしました。

模型の解説
本日のお客様は、市外・県外の方で、一ノ割から東武動物公園までの道程にお立ち寄りくださいました。17日にわたって日光街道を完歩されるそうです。
模型の解説
展示室では、宿場の景観の特徴や、春日部(粕壁)の地名の秘密などお話しました。なかでも、地名の由来や明治33年(1900)に徳川慶喜が来訪したことについて、皆さんご関心をお持ちいただいたようです。
模型の解説
暑くなってきましたので、旅人の皆さん、道中お気をつけて。

最勝院前から見た粕壁の町並み『新編図録 春日部の歴史』から-その10

明治40年(1970)ごろの粕壁宿を撮影した写真の絵葉書を紹介します。最勝院のご住職が栃木県大田原(おおたわら)にあてたものです。同じ陸羽(りくう)街道の宿駅(しゅくえき)でも、大田原より粕壁の方が道幅が広いと記されています。
東武鉄道が明治32年に北千住-久喜間で開通したことにより、人々の陸路交通は大きく変化しました。江戸時代には本陣(ほんじん)、脇本陣(わきほんじん)と旅籠(はたご)45軒を有した粕壁宿の宿泊施設は、明治35年には旅館3軒まで減少しました。

「宿場町粕壁と交通の変容」『新編図録 春日部の歴史』 160ページ

最勝院前から見た春日部の街並み