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春日部の子どもたちと #関東大震災 (その2)
現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。その2は粕壁の被害。 #関東大震災100年
粕壁町は関東大震災の埼玉県下三大被災地と称されるごとく、その被害は甚大なものでした。
当時の粕壁町の人口は5813名(世帯数1222世帯ー大正9年)で、南埼玉郡屈指の町でした。被災状況は、統計資料によれば、全壊305戸、半壊341戸で、死傷者は29名を数えました。東京や横浜と比べれば、その数字は少ないのですが、粕壁町は大きな火災がなく、直接の被害は地震の揺れのみでしたので、そう考えれば甚大な被害といえるのではないでしょうか。ただ、数字では伝わらない被害もあったはずです。粕壁小の震災文集は数字では語りきれない様々な被災状況を伝えてくれるのです。
では、地震発生の様子や、地震の被害を粕壁小学校の子どもたちは作文にどのように記したのでしょうか。
とある高等科二年生の男の子の記述を紹介してみましょう。
・・・ごはんだといったから、いこうとしたら、みしりみしりと、ゆれてきた。それ地震だといって、さきにとびだした。あとから、母といもうとと、あとからでてきた。母は、をはらいにいもうとをだいて、つぐんでしまった。私は母のかたに、つかまってゐた。小供はワァーとないて、その中に、ほこりがたってどこもみえなくなった。みちみちとおそろしい音がした。だんだんしづかになって、家の中を見ると、父とねいさんが、はいっていた。早くでた方がいいといって、前を見ると、家がたほれてゐる。又となりの家も、たほれてゐる。ゆれるたんびに小供がないて、人々はさはぎはじめる。となりのねいさんがあかんぼうーがでないとないてゐる。それからみつけはじめた。するとなきだしたから、まだいきているといってみつけてゐた。
この男の子は、粕壁の町中(町並)に住んでいたようです。ちょうどごはんを食べようとしたところ、大きな揺れがあり、お母さんと妹と慌てて外に飛び出ました。お母さんは、妹を抱いて、しゃがみこんでしまった。小さな子どもの鳴き声がして、あたりは倒壊した建物のホコリがたち、どこも見えなくなかったようです。また「みちみち」と恐ろしい音がした、といいますから、二度目の大きな揺れがあったのでしょうか。その後、だんだん静かになったが、お父さんと姉さんが家のなかにに居たため、早く出たほうがいいと声をかけました。家の周りは、前の家、隣の家が倒れていたといいます。揺れるたびに子どもが泣き、大人たちは慌てふためいていました。小さな揺れが続き、そのたびに建物の倒壊の恐れが生じたのでしょう。隣のお姉さんは、「あかんぼうーがでない」と言って泣いていたそうです。赤ちゃんが生き埋めになってしまったのでしょうか。その後、発見し、まだ生きているといっていますから、小さな命は助かったようです。
粕壁町では、昭和10年に『震災写真帖』という写真記録冊子を編さんし、写真で被害の状況を今に伝えています。
写真は、かすかべデジタル写真館でも紹介しているところですが、そのほかにも様々な写真がありますので、今回はそちらを紹介します。
まず、仲町裏通りと紹介される写真。上の作文の男の子が住んでいた近くの写真です。
次に上町表通りの写真。上町の被害は特にひどかったそうで、作文でも丸八から小松軒まで建物が将棋倒しになったと記されています。次は上町の裏通りの写真。
おそらく、古利根川沿いの新町橋のたもとのあたりの様子と思われます。
次は、新宿組の写真と紹介されています。
新宿組(現・本町、匠大塚付近)の写真は、建物につっかえ棒をしています。新宿組もとくに被害が大きく「一番ひどい」とも、作文に記されています。
以上は、粕壁町のメインストリートである国道6号の陸羽街道(現春日部大通り・旧日光道中)の写真でした。町の中心の商家、それも老舗の商家が軒並み倒れてしまったので、町の人たちは大変ショックだったことでしょう。
子どもたちが通う、小学校校舎も倒壊してしまいました。
当時の粕壁小学校は、現在は商工センター跡地となっている場所にありました。
ある子どもの作文にこのように記されています。
学校へ来て見ると、新しい方は、めちゃめちゃにこはれ、古い方は私等の教室の隣から、屋根がおちて、一階のやうであった。これは新しい方がつぶれるのに、ひっぱられたのだと、先生から聞いた。
当時、校舎は古い木造校舎と新しい木造校舎がありましたが、新しい校舎のほうが全壊し、古い方は上の部分がひっぱられるように屋根が落ちてしまったといいます。「情けない」と記す高学年の子もいましたが、2学期早々に校舎が壊れてしまい、子どもたちはショックを受けたことでしょう。
粕壁の被害は建物ばかりではありません。作文でこのように書いている子がいます。
前の畠を見れば、どうどうと水わいてゐた。井戸はくづれはぢまった。その後から、砂がふいて井戸がうつまった(高等科一年男子)
川久保、新宿は往来が二尺もさがってしまった。其の長は一町位も長くさがってしまった。又、井戸のむぐった家や、井戸のうまった家はたくさんあった。又井戸の水の赤い水が今度はきれいな水になった井戸もあった。(高等科男子)
粕壁の川久保や元新宿の付近、また古利根川沿いでは、地割れや土地の陥没が相次ぎました。作文にもみたように「往来」(国道6号、陸羽街道)は元新宿の付近で2尺(約60センチ)も陥没し、その長さは約100メートルに及んだといいます。国道の陥没は別サイトで写真を紹介しています。付近では、水が湧き、井戸が崩れ埋まり、砂の噴出も続出しました。関連する写真は次のようなものがあります。
これは、見返しの松の亀裂と説明があります。おそらく、街道沿いで武里村境に植わっていた松並木(現緑町付近)と考えられます。写真の男性の前に大きな地割れができているのがわかります。地割れは古利根川沿いで起こり、屋敷の生垣が最大5尺(約150センチ)動いたと報告されています(埼玉県地震調査報文)。
上の写真は「噴出した石塊」と説明が付されています。『埼玉県地震調査報文』によれば、元新宿・土井・川久保では水、砂が噴出し、元新宿では浮石が出てきたと報告されていますので、おそらくこの「浮石」を撮影したものと考えられます。
この現象は、武里村、幸松村、豊野村をはじめ、南埼玉郡、北葛飾郡域で広域に発生しています。陸地測量部(現国土地理院)の測量によれば、県内の低地では土地が広域に沈降したことが報告されています(「大正十二年関東震災地垂直変動要図」)。
小学校の作文や写真などの様々な資料は、人や建物の被害数ではわからない関東大震災の恐ろしさを、今に伝えてくれるのです。私たちは、数字ではなく具体的な状況を理解することで、歴史のなかの地震に向き合い、今後起こりうる災害に備えていかなければならないのかもしれません。
春日部の子どもたちと #関東大震災 (その1)
現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ第一弾。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。初回は子どもたちの日常。 #関東大震災100年
震災の経験により、粕壁尋常小学校に通う子どもたちは、その記憶をたどりながら、作文を記しました。もちろん、作文には、災害にあった家や町の様子が子どもたちの目線で記録されていますが、被害の状況ばかりでなく、地震に遭う直前の日常もわずかですが記されています。
地震が発生した9月1日、粕壁小学校では2学期の始業式が行われました。夏休みが終わり、学校を楽しみにしていた子も多かったようです。「先生のいふことを聞いた」と記す子もいます。2学期の始めなので、先生から訓話もあったのでしょう。学校が終わると、みな、足早に家に帰りました。
「学校からかえってるすをしていた」と留守番をする子や、家で本を読む子、写真絵葉書を見る子もいましたが、屋内で最も多いのは、「ごぜんをたべた」というものです。昼食中あるいは用意をしていたところ、地震に遭ったという子が多いようです。
だた、昼食をたべずに、遊びに行く子も多くいました。
どんな遊びをしたのか。男の子では魚釣りが多い印象です。友だちと古利根川で落ち合う約束をし、魚の餌になるみみずを掘っていたところ、地震に遭った子もいれば、魚を2、3匹釣ったところ、地震に遭ったという子もいます。
女の子では、近所の「種や」の赤ちゃんが誕生日できれいな着物を着るので、おぶせてもらったとか、友だちと「うつしえ」をしたという子がいます。
特定の催し物に集まる子どもたちも多くいました。その一つには、神明神社の境内に遊び場ができたので、そのお祝いを東武座で行うことにもなっていました。学校の先生が、上町に住む子どもたちに、東武座に集まるように呼びかけていたようで、東武座に集まる子も多くいたようです。そのほか、新町橋の上で、粕壁では珍しいガソリンポンプの試運転があり、これを見物に行く子も多くいたようです。
一方、汽車に乗って、浅草に遊びに行く子もおり、停車場で汽車を待っていたところ、地震が発生しました。
大地震が起きるまでの束の間の様子は、子どもたちによってさまざまですが、担当者が一番「ほっこり」した日常は次の3年生の女の子の文章です。
「私はおくにねそべっていもをたべてゐて、うちのおっかさんと、こうとう一年のこがひるねをしてゐました。そして私がそとへあそびにいかうとしたら、ぢしんがはじまりましたから」(以下略)
家の奥に寝そべりながらイモを食べ、お母さんと子ども(兄弟でしょうか?)が昼寝をしていたので、外に遊びにいこうとしたところ、地震が発生した、というのです。
ねそべっていもを食べているなんて、のんびりした時代だなぁ、と思わず( ̄ー ̄)ニヤリ
「おっかさん」という呼び方も、当時の情景が伝わってきます。
このように、震災の前の記述はわずかですが、子どもたちがさまざまな日常を過ごしていたことがうかがえます。子どもたちが普段何をしていたのか、どんな遊びをしたのかという日常は、記録には遺りにくいものです。その意味でも、震災児童文集は貴重な記録といえるでしょう。
歴史文化講演会「粕壁小児童文集から読み解く関東大震災」
#関東大震災100年 お知らせ第三弾は歴史文化講演会です。粕壁小の100年前の児童文集から関東大震災の実態を読み解く講座です。
講師は、大川明弘先生。粕壁地区出身で中学校で教鞭をとられ、現在春日部市市史編さん委員として、いつも春日部市の文化財行政にご助言いただいております。
今回は、関東大震災100年ということで、ミニ展示でも紹介する粕壁小の「文集」を委細に読み込み、粕壁町の町並みや子供たちの普段の生活、被災の状況について、詳しくお話しいただきます。
日時:令和5年10月8日(日)14時~16時
会場:春日部市教育センター
定員:80名(先着順・申込制)
費用:無料
申込:9月13日(水)より、郷土資料館まで直接、または電話、または電子申請
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】記念講演会、ミュージアムトークを開催しました
9月3日(日)、講師に横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長の古屋紀之先生をお招きし、記念講演会を開催しました。
古屋先生は、『古墳の成立と葬送祭祀』というご著書があり、古墳の成立とかかわりが大きい底部穿孔土器のご研究も精力的に行われています。
ご講演では、各地の弥生時代後期と古墳時代の底部穿孔土器をご紹介いただきました。
まず、弥生時代後期の方形周溝墓出土の土器では、底だけではなく、壺の肩の部分や胴部にも穿孔されたものがみられます。大田区の久ヶ原遺跡の方形周溝墓では、胴部の下方に穿孔された壺と穿孔具として使われたと思われる石が至近距離で出土しました。とりあげたのちに土器のあなに石をあててみたところ、石の形とあなの形がピタリとあったとのことです。
こういった出土例をもとに、大田区では講座で、古屋先生を講師として、実際に弥生土器の複製品に石であなをあけてみる実験をしたそうです。記念講演会では、その時の動画も放映していただき、意外と簡単に石で土器にあなをあけられることがわかりました。また、あなをあける際に、土器の外面から石をあてると、石が当たった部分を中心に内面の表面がはがれるという現象もご紹介いただきました。
古墳時代前期には、方形周溝墓や古墳の墳丘上に、複数の底部穿孔土器が墳丘を囲むようにおかれる 囲繞(いにょう・いじょう)配列がみられるようになります。溝の中から発見される底部穿孔土器も、墳丘上に置かれたものが転がり落ちたものと考えられます。
権現山遺跡で発見された底部穿孔壺は、やはり墳丘上におかれたものと考えられますが、権現山遺跡の底部穿孔壺は小さいものなので木製の台などの上に置かれた可能性も考えられるとのことです。
また権現山遺跡1次調査では、1辺が約8mある竪穴建物跡が発見されていますが、そういった大型の建物に住んでいた地域のリーダーのような人が葬られた墓なのではないかという推論もご提示されました。
日付が変わりまして、9月3日(日)は、午前、午後、ミュージアムトークを開催し、たくさんの方にご参加いただきました。最終日ということもあり、じっくりとご覧いただいた方も多かったようです。ありがとうございました。
さて、9月3日(日)に最終日をむかえた「あなのあいた壺」展ですが、返却日程の都合により、9月10日(日)まで、展示を継続します。まだ「あなのあいた壺」をご覧になっていない方は、この機会にぜひご来館ください。
【 #9月1日 】 #今日は何の日? in春日部
今から100年前、大正12年(1923)9月1日は #関東大震災 が発生した日です。春日部市域にも甚大な被害をもたらしました。 #かすかべプラスワン
#関東大震災100年 を迎えた今、郷土資料館ではミニ展示「1923.9.1関東大震災と春日部」展を開催しています。また、埼玉三大被災地とされた川口市・幸手市の郷土資料館と連携し、「埼玉の関東大震災100年を巡る」スタンプラリーを開催しています。
今回は、ミニ展示でも展示紹介する粕壁小の震災文集について、少し紹介してみましょう。
粕壁小学校に遺された震災文集は、正式には「大震災記念児童文集」といいます。
粕壁尋常小学校に通う子どもたちが記した作文がつづられています。
現存するものは、第3学年、第4学年、第5学年、高等科(1・2年)の計4冊です。
1・2年生の作成(編纂)されたかどうかも定かでありません。第6学年のものはおそらくあったと思われますが、現在、その所在は不明となっています。
4冊に綴られているのは、総計402名の児童の作文です。作文は、9月1日の震災の後、10月~11月にかけて執筆されているようです。小学生が記したもので、誤字や文意が通らない部分も多く、事実関係が確定できないことも多いのですが、震災前後の粕壁町の様子を伝える、きわめて貴重な資料です。あわせて、行政文書・記録等には記述されにくい子どもたちの暮らしや心情が読み取れる史料でもあります。文集から読み取れる詳しい内容は、ミニ展示に譲りたいと思います。
さて、埼玉県や春日部市域も、震災の被害を被りました。県内の被害の中心は、県の南東部にあたり、特に川口町・幸手町・粕壁町が甚大な被害をうけ、三大被災地とされています。被害の数字は、資料により異なるようですが、当時人口5813名・1180世帯の粕壁町では、全壊305戸、半壊341戸、死傷者29名の被害がありました。建物全体のおおよそ34%が倒壊したとされています。その様子は、「粕壁町震災写真帖」に所収される写真からうかがえます。写真は「かすかべデジタル写真館」でも紹介しています。
写真から、その凄まじさがわかります。将棋倒しになった建物もあったそうです。
住まいだけでなく、家族を失い、電気や食料の供給も不十分で、東京方面の空が真っ赤に燃え、焼け出された避難民が町の中を通過し、町は混乱・・・被害の数字は東京や横浜と比較すれば些細ですが、市域も、まさに非常事態だったといえるでしょう。
先に紹介した「文集」のうち、ある男の子の作文の文末には、ひときわ大きな字で、次のメッセージが記されています。
「わすれるな。九月一日」
この子は、地震発生当時、東武座にいて、「しぬかくご」で逃げ、「おうらい」(現春日部大通り)の建物は「たいていつぶれ」、夜には地震や様々な「さわぎ」で眠れなかったと記しています。子どもながら、辛く苦しい経験・記憶を思い出しながら、作文を書き、最後に自分に言い聞かすようにこの言葉を記したのではないでしょうか。100年後の私たちはこの子どものメッセージをどのように受け止めればよいのか。
9月1日は防災の日です。各地で防災訓練などが行われ、春日部市郷土資料館でも「シェイクアウト埼玉」という防災訓練が実施されます。そうした訓練から、防災意識・感覚を体に染みつかせ、防災意識を高めることは大変重要なことでしょう。
春日部市は「プラスワンのあるまち」ですから、この防災訓練にプラスワン!
身近な地元の災害の歴史、もとい「わすれるな。九月一日」というメッセージから、災害・防災について、他人事ではなく、自分事として考え、そして、地域の記憶を後世に伝えていく。関東大震災100年の今日が、そのような一日になれば、100年前の先人たちも喜ぶのではないでしょうか。
ミニ展示は10月8日まで開催しています。先人たちの声にぜひ耳を傾けに来てください。
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