ほごログ
【近隣館の紹介】幸手市郷土資料館
幸手市郷土資料館では企画展「彰義隊士横山光造の陣笠」展を開催しています。
当館のような小さな館は、近隣の博物館さんと助け合い、支え合いながら日々運営できています。その日ごろの感謝を込めて、少し新しい試みですが、今回は近隣館を紹介してみたいと思います。
幸手市郷土資料館さんは、平成30年10月に設置された比較的新しい施設です。
当館は、埼玉県博物館連絡協議会などで、日ごろからお世話になっており、先日打ち合わせと資料調査でお邪魔し、その折に企画展を拝見しました。
戊辰戦争で歴史の表舞台に登場する、幸手ゆかりの彰義隊隊士横山光造に焦点をあて、遺されたわずかな資料からその実像を紹介しています。
常設展示は、充実した『幸手市史』の成果により、体系的に幸手の通史が学べます。民具の展示を質量ともに圧巻されます。おすすめは常設展の「武蔵国絵図写」。「かすかべ」の記述もあり、いずれ借用・展示させていただきたいなぁと、目をつけています。まだ見学されたことのない方はぜひともお出かけください。
展示期間:令和3年5月25日(火曜日)から7月18日(日曜日)まで
開催場所:幸手市郷土資料館 歴史展示室内 企画展示エリア
詳しくは幸手市郷土資料館ホームページ
粕壁小学校6年生が郷土資料館を見学しました。
令和3年6月9日(水)、粕壁小学校第6学年の皆さんが、社会科の歴史単元「縄文のむらから古墳のくにへ」の学習のため郷土資料館を見学しました。
学芸員による縄文・弥生・古墳時代の解説を聞いたあと、児童各々は竪穴式住居原寸大模型や神明貝塚の出土品、須釜遺跡の土器、塚内古墳群の埴輪などをじっくり観察していました。縄文時代の土器や石器を触ってみたり、なかには匂いをかいでみる児童もいました。はたまた、神明貝塚の人骨と自分の顔を比べる児童もいました。自らの身体をフルに活用して郷土の縄文時代を体感してくれたようです。写真をブログに載せてほしいとリクエストをいただきましたので載せます。タイトルは「人骨と小学生」
目的の学習を終えると、粕壁宿の模型で自分の家の位置を確かめたり、粕壁小学校の木造校舎の写真や粕壁の昔の風景をみて、まちの移り変わりを考えたり、学芸員に詳しく話を聞いたりして、身近な物事に基づきながら、さまざまな時代について楽しみながら歴史の理解を深めてくれていたようでした。
なかでも、航空写真から自分の家や友達の家を探すことや、
「かすかべ弁」として掲示している県東部地域の方言の意味を考えることに夢中になっているようでした。
最近では、文化財保護課による出張授業や当館の「でばりぃ資料館」などの出張メニューも好評をいただいていますが、先史時代から現代まで、すべての時代の歴史を順を追って体感できるのは郷土資料館しかありません。6年生の皆さんには、江戸時代の参勤交代や宿場町を学習する単元でも、日光道中や粕壁宿の模型を身近な教材として活用していただき、もう一度社会科見学に来ていただけるといいなぁと思います。
千葉大学の博物館実習を受け入れました
昨年度に引き続き、千葉大学学芸員課程の博物館実習を受け入れ、14名の学生が郷土資料館に来館しました。
午前中は、ざざっと館の概要や館内をご案内したあと、小学生の体験授業で使用する稲わらを束ねてもらいました。実際に授業で小学生に体験してもらう「千歯こき」も皆さんに体験してもらいました。
千歯こきの体験
午後は、昨年度に引き続き、館蔵の資料整理にご協力いただきました。市内の商家からいただいた明治時代から平成初頭までの史料群の未整理の文書箱を開梱して、資料の概要調査の調書を作成してもらいました。千葉大学の皆さんには、ここ何年か連続してこの作業をしていただいており、昨年度の先輩が作成した調書を参考にしながら、今年も作業を進めました。
この資料は、解体される寸前の商家から、短時間で箱に詰めて資料館に収蔵したもので、どんな資料が入っているかを把握しきれていません。そのため毎年度、職員も含め、ワクワクしながら箱を開いています。
資料整理の様子
今年の作業では、明治時代初期の粕壁宿の絵図が見つかりました。この絵図は宿場の細部までしっかりと書かれており、今後、展示や研究などに大いに利用されていくものと思われます。
学生の皆さんに、歴史的な資料が発見される瞬間に立ち会っていただくことができました。
明治時代初期の粕壁宿絵図
1日という短い時間でしたが、みなさん熱心に見学され、また真剣に作業を進めていただきました。ありがとうございました。
【7/7まで新収蔵品展】上蛭田村の高札
7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。
「新収蔵品展」では、上蛭田(かみひるた)村に掲げられていた高札を展示しています。この高札は、享保6年(1721)に出されたもので、幕府の鷹場内で鉄砲をうつことや鳥をとることを禁じたものです。
(クリックすると大きな画像(271KB)がダウンロードされます)
高札は江戸時代から明治時代の初期、幕府からの法令などを示すために、人々が往来する場所や名主の屋敷内に掲げられました。墨で書かれた文字が薄くなった場合は、許可をとって墨入れをしますが、この高札も、最初に掲げられた年から122年を経た天保14年(1843)に墨入れしたと、裏面に記されています。
高札裏面の墨書
高札は、例えば粕壁宿では、高札場が日光道中と岩槻の方面への道が分岐する辻に建てられ、文化元年(1804)には下記のような高札が掲げられていたと記録されています。
①「親子兄弟夫婦を始」
②「切支丹宗門御制禁」
③「粕壁宿より駄賃并(ならびに)人足賃銭」
④「毒薬并(ならびに)似せ薬種」
⑤「駄賃并(ならびに)人足荷物之次第」
⑥「火を付るもの」
⑦「鷹番之義」
⑧「在々ニ而鉄砲打候もの」
⑨「何事によらすよろしからさる」
⑩「当未正月より来ル辰十二月迄拾ケ年駄賃壱割五分増」
⑪「当戌十月より来寅十月迄五ケ年之内賃銭三割増」
参考:春日部市郷土資料館収蔵資料紹介:鷹番廃止の高札
『春日部市史近世史料編Ⅱ』P.801~
また江戸時代、江戸の外縁部は、幕府の鷹場(たかば)に設定されており、春日部市域周辺は、鷹場の中でも「捉飼場(とらえかいば)」として、将軍の鷹を訓練する場所として使われていました。
春日部市域に鷹場に関するとりきめを記した高札が多く残るのは、このためです。
鷹番廃止の高札については、過去の記事でもとりあげました。
ほごログ過去の記事:鷹番廃止の高札『新編図録春日部の歴史』ーその75
上蛭田村高札の釈文、読み下しは以下の通りです。
(釈文)
定
在々にて若鉄炮打候
もの有之候ハヽ申出へし幷
御留場之内にて鳥を
取申もの捕候歟見出し
候ハヽ早々申出へし
急度御褒美可被
下置者也
享保六年二月
裏面
天保十四卯年正月書入
武州埼玉郡
上蛭田村
(本文部分の読みくだし)
さだめ
ざいざいにて、もしてっぽううちそうろう
ものこれありそうらわば、もうしいずべし、ならびに
おとめばのうちにてとりを
とりもうすものとらえそうろうか、みいだし
そうらわば、そうそうもうしいずべし
きっとおほうび
くだしおかるべきものなり
#庄和総合支所 で #南桜井 の歴史を紹介しています
庄和総合支所の1階ロビーの隅っこに、市内の文化財や歴史を展示・紹介するスペースがあるのをご存知ですか。
郷土資料館では、長らく、江戸川に関する古写真などを展示していましたが、このたび、南桜井の歴史を紹介するパネルを掲示しました。
南桜井周辺の古地図や航空写真、人口の移り変わりなどを掲示したもの、南桜井の文化財を紹介したもの、地名の由来や地区に伝わる伝説を紹介したものを掲示しています。
先日「大衾の歴史」を紹介した通り、地区の歴史については、掘り下げれば掘り下げるほど、本当にキリがありません。南桜井という一地域の歴史・文化も話せば長くなりますが、何とか掲示板一面に何とかおさめることができました。総合支所周辺の地域の歴史を感じていただければ幸いです。
なお、わずかですが、市内の遺跡から発掘した原物の資料を展示する「春日部市発掘調査速報展示」もありますので、あわせてご覧ください。