カテゴリ:郷土資料館
考古学講座-基礎を学ぶ第1回を開催しました
本日は「考古学講座ー基礎を学ぶ」の第1回目を開催しました。
本日は、「考古学とは?」と「春日部のどこに遺跡があるか?」、「春日部の旧石器時代」についてお話いたしました。
「考古学とは何か?」では、「考古学とは痕跡・モノからその成り立ちを研究する」という定義とともに、海外と日本の考古学史をまとめました。
「春日部のどこに遺跡があるか?」では、市域には台地が4か所あって、台地上から主に遺跡が発見されているが、弥生時代以降は、低地の自然堤防からも遺跡が発見されていることをお話ししました。
「春日部の旧石器時代」は、時間が足りなくなってしまったのですが、常設展示の旧石器6点について、写真を使って解説しました。石器の実物を見ていただいたかと思いますので、次回、補足をしたいと思います。
また、夏季展示でに出展した権現山遺跡の底部穿孔土器の実物を会場でご覧いただきました。
アンケートでは、市内の地形がよくわかった、底部穿孔土器について皆さんとお話しできたことが良かったなどの感想をいただきました。
次回は10月29日、「第2回 発掘調査の方法・層位学/春日部の縄文時代」です。
*考古学講座は、定員に若干の余裕がございます。ご希望の方はご参加ください。
日程 令和5年10月29日、11月26日、12月24日、令和6年1月28日 午前10時30分~正午(すべて日曜日)
講師 郷土資料館職員
募集人数 30人
参加費 無料
申し込み 郷土資料館へ直接、電話(048-763-2455)
考古学講座-基礎を学ぶを開催します
今年度も考古学講座を開催します。
まだ参加人数に若干の余裕がございますので、ご希望の方はお申し込みください。
5回連続講座で9月から1月までの開催です。内容は下記のとおりです。
第1回 考古学とは?/春日部のどこに遺跡があるか・春日部の旧石器時代
第2回 発掘調査の方法・層位学/春日部の縄文時代
第3回 分類と型式学/春日部の弥生時代
第4回 年代の決定/春日部の古墳時代
第5回 春日部の奈良時代・平安時代/考古学講座のまとめ
毎回、考古学の基礎知識と時代ごとの春日部市内の考古学資料について半分ずつお話します。昨年度の内容とほぼ同じものを予定しています。
日程等の詳細は下記のとおりです。
日程 令和5年9月24日、10月29日、11月26日、12月24日、令和6年1月28日 午前10時30分~正午(すべて日曜日、全5回)
講師 郷土資料館職員
募集人数 30人
参加費 無料
申し込み 郷土資料館へ直接、電話(048-7632455)、電子申請で申し込み
*電子申請の申し込みは、9月23日17時15分までです。9月23日(土)は祝日のため、休館ですので、受領完了メールは、初回開催日当日9月24日(日)8時30分前後に送付します。
#博物館実習 の日誌を読んで
先日、令和5年度 #春日部市郷土資料館 の博物館実習が無事に終了しました。 #実習生 のみなさんは、日々の実習を日誌に記録していますが、最終日には、実習を終えて考えたことをまとめ、提出してくれました。 #かすかべプラスワン
私は、目下、提出された日誌を読みながら、日誌にコメントを書いています。コメント書きは6人分でも結構大変です。ただ、様々な意見に接する機会にもなり、気付かされることも少なくありません。実習生のコメント、もったいないと思いましたので、その一節を少し紹介させてもらいます。
「大きいから、綺麗だからそこが優れているということではないということを学んだ」
ただ、「某国立館のような魅力的な特別展がいい」とか「ポスターのデザインがかっこいいのがいい」とか「アニメやゲームとのコラボがいい」など、「キラキラした博物館」像に議論が集中しました。上のコメントを書いてくれた彼女も「キラキラした博物館」びいきの様子でした。(「キラキラした博物館」は担当者の造語です。「キラキラした博物館」が悪い・良くないという意味ではありません。)
しかし、当館は、せま~い展示室ですし、チラシ・ポスター・パネルは手作り。展示品は「優品」かといえばそうではなく、春日部が歩みを物語る、どちらかといえば地味な資料が多いです。謙遜ではなく、当館は「キラキラした博物館」ではないでしょう。「キラキラした博物館」でない当館の実習を経験して、「綺麗」=「優れている」のではない、そうでなくとも存在の意義があることに気付いてくれたのだと、受け止めました。
次のように、まとめた実習生もいました。
「できる範囲の中で工夫しながら多くの人に歴史の面白さ、古いものを実際に見ることのできる楽しさを伝えていくことが、学芸員をやっていく上で必要な考え方である」
今年の実習生の皆さんの日誌を読み返すと、8月2日の草加市立歴史民俗資料館と八潮市立資料館の見学が、もっとも印象に残った日だったようです。
草加・八潮の他館見学では、両館の学芸員さんの説明もあり、館の機能や特徴をはじめ、地域博物館に共通する問題として資料収蔵スペースの問題があることを考えてもらえました。
工夫をコツコツと積み重ね、一朝一夕では解決できない地域博物館の共通課題を、少しずつ改善していかねばならない。草加市立歴史民俗資料館さんと八潮市立資料館さんの活動をみて、このように考えくれたのだろう、と思っています。
わずか8日間でしたが、実習生の皆さんは自分の経験を活かしながら、主体的に考え、実習に臨んでくれました。館では、実習の成果や、皆さんの意見や指摘を真摯に受け止め、考え、よりよい工夫、活動、運営に結び付けられるよう、地べたを這いつくばって、進んでいきたいと思います。ぜひ、今後も来館者・利用者として春日部市郷土資料館を支えていただけると嬉しいです。
ありがとう、実習生。
【臨時休館のお知らせ】
9月16日(土)から9月19日(火)は、燻蒸作業を行うため郷土資料館は休館いたします。ご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどよろしくお願いします。
*16日(土)~18日(月)は、教育センター全館立ち入り禁止になりますのでご注意ください。
*19日(火)は、郷土資料館は休館となりますが、教育委員会事務局は業務を行っております。
春日部の子どもたちと #関東大震災 (その2)
現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。その2は粕壁の被害。 #関東大震災100年
粕壁町は関東大震災の埼玉県下三大被災地と称されるごとく、その被害は甚大なものでした。
当時の粕壁町の人口は5813名(世帯数1222世帯ー大正9年)で、南埼玉郡屈指の町でした。被災状況は、統計資料によれば、全壊305戸、半壊341戸で、死傷者は29名を数えました。東京や横浜と比べれば、その数字は少ないのですが、粕壁町は大きな火災がなく、直接の被害は地震の揺れのみでしたので、そう考えれば甚大な被害といえるのではないでしょうか。ただ、数字では伝わらない被害もあったはずです。粕壁小の震災文集は数字では語りきれない様々な被災状況を伝えてくれるのです。
では、地震発生の様子や、地震の被害を粕壁小学校の子どもたちは作文にどのように記したのでしょうか。
とある高等科二年生の男の子の記述を紹介してみましょう。
・・・ごはんだといったから、いこうとしたら、みしりみしりと、ゆれてきた。それ地震だといって、さきにとびだした。あとから、母といもうとと、あとからでてきた。母は、をはらいにいもうとをだいて、つぐんでしまった。私は母のかたに、つかまってゐた。小供はワァーとないて、その中に、ほこりがたってどこもみえなくなった。みちみちとおそろしい音がした。だんだんしづかになって、家の中を見ると、父とねいさんが、はいっていた。早くでた方がいいといって、前を見ると、家がたほれてゐる。又となりの家も、たほれてゐる。ゆれるたんびに小供がないて、人々はさはぎはじめる。となりのねいさんがあかんぼうーがでないとないてゐる。それからみつけはじめた。するとなきだしたから、まだいきているといってみつけてゐた。
この男の子は、粕壁の町中(町並)に住んでいたようです。ちょうどごはんを食べようとしたところ、大きな揺れがあり、お母さんと妹と慌てて外に飛び出ました。お母さんは、妹を抱いて、しゃがみこんでしまった。小さな子どもの鳴き声がして、あたりは倒壊した建物のホコリがたち、どこも見えなくなかったようです。また「みちみち」と恐ろしい音がした、といいますから、二度目の大きな揺れがあったのでしょうか。その後、だんだん静かになったが、お父さんと姉さんが家のなかにに居たため、早く出たほうがいいと声をかけました。家の周りは、前の家、隣の家が倒れていたといいます。揺れるたびに子どもが泣き、大人たちは慌てふためいていました。小さな揺れが続き、そのたびに建物の倒壊の恐れが生じたのでしょう。隣のお姉さんは、「あかんぼうーがでない」と言って泣いていたそうです。赤ちゃんが生き埋めになってしまったのでしょうか。その後、発見し、まだ生きているといっていますから、小さな命は助かったようです。
粕壁町では、昭和10年に『震災写真帖』という写真記録冊子を編さんし、写真で被害の状況を今に伝えています。
写真は、かすかべデジタル写真館でも紹介しているところですが、そのほかにも様々な写真がありますので、今回はそちらを紹介します。
まず、仲町裏通りと紹介される写真。上の作文の男の子が住んでいた近くの写真です。
次に上町表通りの写真。上町の被害は特にひどかったそうで、作文でも丸八から小松軒まで建物が将棋倒しになったと記されています。次は上町の裏通りの写真。
おそらく、古利根川沿いの新町橋のたもとのあたりの様子と思われます。
次は、新宿組の写真と紹介されています。
新宿組(現・本町、匠大塚付近)の写真は、建物につっかえ棒をしています。新宿組もとくに被害が大きく「一番ひどい」とも、作文に記されています。
以上は、粕壁町のメインストリートである国道6号の陸羽街道(現春日部大通り・旧日光道中)の写真でした。町の中心の商家、それも老舗の商家が軒並み倒れてしまったので、町の人たちは大変ショックだったことでしょう。
子どもたちが通う、小学校校舎も倒壊してしまいました。
当時の粕壁小学校は、現在は商工センター跡地となっている場所にありました。
ある子どもの作文にこのように記されています。
学校へ来て見ると、新しい方は、めちゃめちゃにこはれ、古い方は私等の教室の隣から、屋根がおちて、一階のやうであった。これは新しい方がつぶれるのに、ひっぱられたのだと、先生から聞いた。
当時、校舎は古い木造校舎と新しい木造校舎がありましたが、新しい校舎のほうが全壊し、古い方は上の部分がひっぱられるように屋根が落ちてしまったといいます。「情けない」と記す高学年の子もいましたが、2学期早々に校舎が壊れてしまい、子どもたちはショックを受けたことでしょう。
粕壁の被害は建物ばかりではありません。作文でこのように書いている子がいます。
前の畠を見れば、どうどうと水わいてゐた。井戸はくづれはぢまった。その後から、砂がふいて井戸がうつまった(高等科一年男子)
川久保、新宿は往来が二尺もさがってしまった。其の長は一町位も長くさがってしまった。又、井戸のむぐった家や、井戸のうまった家はたくさんあった。又井戸の水の赤い水が今度はきれいな水になった井戸もあった。(高等科男子)
粕壁の川久保や元新宿の付近、また古利根川沿いでは、地割れや土地の陥没が相次ぎました。作文にもみたように「往来」(国道6号、陸羽街道)は元新宿の付近で2尺(約60センチ)も陥没し、その長さは約100メートルに及んだといいます。国道の陥没は別サイトで写真を紹介しています。付近では、水が湧き、井戸が崩れ埋まり、砂の噴出も続出しました。関連する写真は次のようなものがあります。
これは、見返しの松の亀裂と説明があります。おそらく、街道沿いで武里村境に植わっていた松並木(現緑町付近)と考えられます。写真の男性の前に大きな地割れができているのがわかります。地割れは古利根川沿いで起こり、屋敷の生垣が最大5尺(約150センチ)動いたと報告されています(埼玉県地震調査報文)。
上の写真は「噴出した石塊」と説明が付されています。『埼玉県地震調査報文』によれば、元新宿・土井・川久保では水、砂が噴出し、元新宿では浮石が出てきたと報告されていますので、おそらくこの「浮石」を撮影したものと考えられます。
この現象は、武里村、幸松村、豊野村をはじめ、南埼玉郡、北葛飾郡域で広域に発生しています。陸地測量部(現国土地理院)の測量によれば、県内の低地では土地が広域に沈降したことが報告されています(「大正十二年関東震災地垂直変動要図」)。
小学校の作文や写真などの様々な資料は、人や建物の被害数ではわからない関東大震災の恐ろしさを、今に伝えてくれるのです。私たちは、数字ではなく具体的な状況を理解することで、歴史のなかの地震に向き合い、今後起こりうる災害に備えていかなければならないのかもしれません。
春日部の子どもたちと #関東大震災 (その1)
現在開催中のミニ展示を少し詳しく紹介するシリーズ第一弾。粕壁小学校に遺された児童作文集から、100年前の子どもたちと関東大震災について紹介してみましょう。初回は子どもたちの日常。 #関東大震災100年
震災の経験により、粕壁尋常小学校に通う子どもたちは、その記憶をたどりながら、作文を記しました。もちろん、作文には、災害にあった家や町の様子が子どもたちの目線で記録されていますが、被害の状況ばかりでなく、地震に遭う直前の日常もわずかですが記されています。
地震が発生した9月1日、粕壁小学校では2学期の始業式が行われました。夏休みが終わり、学校を楽しみにしていた子も多かったようです。「先生のいふことを聞いた」と記す子もいます。2学期の始めなので、先生から訓話もあったのでしょう。学校が終わると、みな、足早に家に帰りました。
「学校からかえってるすをしていた」と留守番をする子や、家で本を読む子、写真絵葉書を見る子もいましたが、屋内で最も多いのは、「ごぜんをたべた」というものです。昼食中あるいは用意をしていたところ、地震に遭ったという子が多いようです。
だた、昼食をたべずに、遊びに行く子も多くいました。
どんな遊びをしたのか。男の子では魚釣りが多い印象です。友だちと古利根川で落ち合う約束をし、魚の餌になるみみずを掘っていたところ、地震に遭った子もいれば、魚を2、3匹釣ったところ、地震に遭ったという子もいます。
女の子では、近所の「種や」の赤ちゃんが誕生日できれいな着物を着るので、おぶせてもらったとか、友だちと「うつしえ」をしたという子がいます。
特定の催し物に集まる子どもたちも多くいました。その一つには、神明神社の境内に遊び場ができたので、そのお祝いを東武座で行うことにもなっていました。学校の先生が、上町に住む子どもたちに、東武座に集まるように呼びかけていたようで、東武座に集まる子も多くいたようです。そのほか、新町橋の上で、粕壁では珍しいガソリンポンプの試運転があり、これを見物に行く子も多くいたようです。
一方、汽車に乗って、浅草に遊びに行く子もおり、停車場で汽車を待っていたところ、地震が発生しました。
大地震が起きるまでの束の間の様子は、子どもたちによってさまざまですが、担当者が一番「ほっこり」した日常は次の3年生の女の子の文章です。
「私はおくにねそべっていもをたべてゐて、うちのおっかさんと、こうとう一年のこがひるねをしてゐました。そして私がそとへあそびにいかうとしたら、ぢしんがはじまりましたから」(以下略)
家の奥に寝そべりながらイモを食べ、お母さんと子ども(兄弟でしょうか?)が昼寝をしていたので、外に遊びにいこうとしたところ、地震が発生した、というのです。
ねそべっていもを食べているなんて、のんびりした時代だなぁ、と思わず( ̄ー ̄)ニヤリ
「おっかさん」という呼び方も、当時の情景が伝わってきます。
このように、震災の前の記述はわずかですが、子どもたちがさまざまな日常を過ごしていたことがうかがえます。子どもたちが普段何をしていたのか、どんな遊びをしたのかという日常は、記録には遺りにくいものです。その意味でも、震災児童文集は貴重な記録といえるでしょう。
歴史文化講演会「粕壁小児童文集から読み解く関東大震災」
#関東大震災100年 お知らせ第三弾は歴史文化講演会です。粕壁小の100年前の児童文集から関東大震災の実態を読み解く講座です。
講師は、大川明弘先生。粕壁地区出身で中学校で教鞭をとられ、現在春日部市市史編さん委員として、いつも春日部市の文化財行政にご助言いただいております。
今回は、関東大震災100年ということで、ミニ展示でも紹介する粕壁小の「文集」を委細に読み込み、粕壁町の町並みや子供たちの普段の生活、被災の状況について、詳しくお話しいただきます。
日時:令和5年10月8日(日)14時~16時
会場:春日部市教育センター
定員:80名(先着順・申込制)
費用:無料
申込:9月13日(水)より、郷土資料館まで直接、または電話、または電子申請
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】記念講演会、ミュージアムトークを開催しました
9月3日(日)、講師に横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長の古屋紀之先生をお招きし、記念講演会を開催しました。
古屋先生は、『古墳の成立と葬送祭祀』というご著書があり、古墳の成立とかかわりが大きい底部穿孔土器のご研究も精力的に行われています。
ご講演では、各地の弥生時代後期と古墳時代の底部穿孔土器をご紹介いただきました。
まず、弥生時代後期の方形周溝墓出土の土器では、底だけではなく、壺の肩の部分や胴部にも穿孔されたものがみられます。大田区の久ヶ原遺跡の方形周溝墓では、胴部の下方に穿孔された壺と穿孔具として使われたと思われる石が至近距離で出土しました。とりあげたのちに土器のあなに石をあててみたところ、石の形とあなの形がピタリとあったとのことです。
こういった出土例をもとに、大田区では講座で、古屋先生を講師として、実際に弥生土器の複製品に石であなをあけてみる実験をしたそうです。記念講演会では、その時の動画も放映していただき、意外と簡単に石で土器にあなをあけられることがわかりました。また、あなをあける際に、土器の外面から石をあてると、石が当たった部分を中心に内面の表面がはがれるという現象もご紹介いただきました。
古墳時代前期には、方形周溝墓や古墳の墳丘上に、複数の底部穿孔土器が墳丘を囲むようにおかれる 囲繞(いにょう・いじょう)配列がみられるようになります。溝の中から発見される底部穿孔土器も、墳丘上に置かれたものが転がり落ちたものと考えられます。
権現山遺跡で発見された底部穿孔壺は、やはり墳丘上におかれたものと考えられますが、権現山遺跡の底部穿孔壺は小さいものなので木製の台などの上に置かれた可能性も考えられるとのことです。
また権現山遺跡1次調査では、1辺が約8mある竪穴建物跡が発見されていますが、そういった大型の建物に住んでいた地域のリーダーのような人が葬られた墓なのではないかという推論もご提示されました。
日付が変わりまして、9月3日(日)は、午前、午後、ミュージアムトークを開催し、たくさんの方にご参加いただきました。最終日ということもあり、じっくりとご覧いただいた方も多かったようです。ありがとうございました。
さて、9月3日(日)に最終日をむかえた「あなのあいた壺」展ですが、返却日程の都合により、9月10日(日)まで、展示を継続します。まだ「あなのあいた壺」をご覧になっていない方は、この機会にぜひご来館ください。
【 #9月1日 】 #今日は何の日? in春日部
今から100年前、大正12年(1923)9月1日は #関東大震災 が発生した日です。春日部市域にも甚大な被害をもたらしました。 #かすかべプラスワン
#関東大震災100年 を迎えた今、郷土資料館ではミニ展示「1923.9.1関東大震災と春日部」展を開催しています。また、埼玉三大被災地とされた川口市・幸手市の郷土資料館と連携し、「埼玉の関東大震災100年を巡る」スタンプラリーを開催しています。
今回は、ミニ展示でも展示紹介する粕壁小の震災文集について、少し紹介してみましょう。
粕壁小学校に遺された震災文集は、正式には「大震災記念児童文集」といいます。
粕壁尋常小学校に通う子どもたちが記した作文がつづられています。
現存するものは、第3学年、第4学年、第5学年、高等科(1・2年)の計4冊です。
1・2年生の作成(編纂)されたかどうかも定かでありません。第6学年のものはおそらくあったと思われますが、現在、その所在は不明となっています。
4冊に綴られているのは、総計402名の児童の作文です。作文は、9月1日の震災の後、10月~11月にかけて執筆されているようです。小学生が記したもので、誤字や文意が通らない部分も多く、事実関係が確定できないことも多いのですが、震災前後の粕壁町の様子を伝える、きわめて貴重な資料です。あわせて、行政文書・記録等には記述されにくい子どもたちの暮らしや心情が読み取れる史料でもあります。文集から読み取れる詳しい内容は、ミニ展示に譲りたいと思います。
さて、埼玉県や春日部市域も、震災の被害を被りました。県内の被害の中心は、県の南東部にあたり、特に川口町・幸手町・粕壁町が甚大な被害をうけ、三大被災地とされています。被害の数字は、資料により異なるようですが、当時人口5813名・1180世帯の粕壁町では、全壊305戸、半壊341戸、死傷者29名の被害がありました。建物全体のおおよそ34%が倒壊したとされています。その様子は、「粕壁町震災写真帖」に所収される写真からうかがえます。写真は「かすかべデジタル写真館」でも紹介しています。
写真から、その凄まじさがわかります。将棋倒しになった建物もあったそうです。
住まいだけでなく、家族を失い、電気や食料の供給も不十分で、東京方面の空が真っ赤に燃え、焼け出された避難民が町の中を通過し、町は混乱・・・被害の数字は東京や横浜と比較すれば些細ですが、市域も、まさに非常事態だったといえるでしょう。
先に紹介した「文集」のうち、ある男の子の作文の文末には、ひときわ大きな字で、次のメッセージが記されています。
「わすれるな。九月一日」
この子は、地震発生当時、東武座にいて、「しぬかくご」で逃げ、「おうらい」(現春日部大通り)の建物は「たいていつぶれ」、夜には地震や様々な「さわぎ」で眠れなかったと記しています。子どもながら、辛く苦しい経験・記憶を思い出しながら、作文を書き、最後に自分に言い聞かすようにこの言葉を記したのではないでしょうか。100年後の私たちはこの子どものメッセージをどのように受け止めればよいのか。
9月1日は防災の日です。各地で防災訓練などが行われ、春日部市郷土資料館でも「シェイクアウト埼玉」という防災訓練が実施されます。そうした訓練から、防災意識・感覚を体に染みつかせ、防災意識を高めることは大変重要なことでしょう。
春日部市は「プラスワンのあるまち」ですから、この防災訓練にプラスワン!
身近な地元の災害の歴史、もとい「わすれるな。九月一日」というメッセージから、災害・防災について、他人事ではなく、自分事として考え、そして、地域の記憶を後世に伝えていく。関東大震災100年の今日が、そのような一日になれば、100年前の先人たちも喜ぶのではないでしょうか。
ミニ展示は10月8日まで開催しています。先人たちの声にぜひ耳を傾けに来てください。
過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版、3月14日版、3月27日版、4月28日版、6月2日版、6月3日版、6月10日版、7月31日版、9月16日版
過去の今日は何の日?in春日部シリーズは、のリンクからお読みいただけます。
埼玉の関東大震災100年を巡るスタンプラリー
関東大震災における #埼玉県下三大被災地 といわれた川口町、幸手町、粕壁町。 #関東大震災から100年 を迎えた今年、 #川口市 ・ #幸手市 ・ #春日部市 の #郷土資料館 が連携し、 #スタンプラリー を開催することになりました。
この企画では、川口市立文化財センター分館郷土資料館、幸手市郷土資料館、春日部市郷土資料館の3館で開催されている関東大震災に関する展示をめぐり、スタンプをあつめると、先着100名様にオリジナルマグネットをプレゼントするものです。期間は9月1日~10月8日まで。スタンプラリーの台紙は3館で配布しています。各館の情報は下記のとおりです。
- 川口市立文化財センター分館郷土資料館(川口市鳩ケ谷本町2-1-22 ℡048-283-3552)
ミニ企画展「関東大震災と川口」展 チラシ.pdf
会期:令和5年9月1日(金)~10月8日(日) ※休館日:月曜日・9月19日
見学には入場料が必要です(一般100円、小・中学生50円)
- 幸手市郷土資料館(幸手市下宇和田58-4 ℡0480-47-2521)
企画展「あれから100年 関東大震災と幸手」展 チラシ.pdf
会期:令和5年9月1日(金)~10月9日(月・祝) ※休館日:月曜日・9月19日
- 春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15 ℡048-763-2455)
ミニ展示「1923.9.1関東大震災と春日部」展 チラシ.pdf
会期:令和5年9月1日(金)~10月8日(日) ※休館日:月曜日・祝日・9月16日~19日
なお、景品はおひとりさま1つまで。景品がなくなり次第終了とさせていただいておりますので、ご了承ください。
9月1日の関東大震災100年。地元の歴史を通じて、他人事でなく、ぜひ自分事として考えていただければと思います。
事業名:三市郷土資料館連携スタンプラリー「埼玉の関東大震災100年を巡る」
主催企画:川口市立郷土資料館・幸手市郷土資料館・春日部市郷土資料館
期 間:令和5年9月1日(金)~10月8日(日)
参加方法:各館で配布するスタンプ台紙に三館のスタンプを押す。景品は先着100名。
ミニ展示「1923.9.1関東大震災と春日部」展
まもなく、大正12年9月1日に発生した #関東大震災 から #100年 を迎えます。 #春日部市郷土資料館 では、関東大震災に関する資料を紹介するミニ展示を開催します。 #県下三大被災地
今回の展示は、ミニ展示なので、常設展示の一角を展示替えするごくごく小さな展示です。
埼玉県内では、川口町、幸手町、粕壁町が県下三大被災地といわれており、粕壁町を含む市域でも甚大な被害をこうむりました。被災のデータは、県の行政文書などでわかりますが、今回その実態を資料として粕壁小学校に遺された「大震災記念児童文集」を展示します。
詳しくは、後日に期しますが、上のポスターの「あゝ呪わしき大正拾弐年九月壱日 どうして此を忘れられませうか」という文は「文集」に所収される小学校高等科の生徒の文章の一節です。
今回は、この「文集」を中心に、100年前の子どもたちが接した関東大震災を詳しく紹介します。
展示は小粒でも、内容は(まあまあ)重厚(と思っています)。
関連事業も準備しています。100年前の震災から、現代の災害や防災について考える機会としていただければ幸いです。
事業名 ミニ展示「1923.9.1関東大震災と春日部」展
日 時 令和5年9月1日(金)~10月8日(日)
休館日 月曜日、祝日、9月16日~19日は臨時休館
主 催 春日部市郷土資料館
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】塚内4号墳の円筒埴輪
今回の「あなのあいた壺」展では、内牧の塚内古墳群の4号墳から出土した円筒埴輪(えんとうはにわ)も展示しています。
円筒埴輪(えんとうはにわ)は、古墳の墳丘に立て並べ、エリアの区画や墳丘の装飾に用いられたと考えられる埴輪です。一般的に土管状に上下は貫通しており、側面にも透孔(とうこう)と呼ばれるあながあけられます。側面には突帯(とったい)と呼ばれる粘土ひもが貼り付けられ、この本数によって、2条突帯、3条突帯・・・と呼び分けられます。また、上部が花のように開くものがあり、朝顔形埴輪と呼ばれています。
塚内4号墳の古墳時代後期の円筒埴輪は、突帯が2本の武蔵(むさし)系のものと、突帯が3本の下総(しもうさ)系のものが発見されています。武蔵系と下総系の円筒埴輪が、同一の古墳から発見される事例は、現在のところ塚内4号墳のみで、武蔵と下総の地域の境界にあった春日部ならではの事例といえます。
塚内4号墳の下総系埴輪
塚内4号墳の武蔵系埴輪
塚内4号墳の下総系埴輪の底部
塚内4号墳の武蔵系埴輪の底部
円筒埴輪も一般的な古墳時代の土器などと同じように、粘土ひも(粘土板)を積み重ねていって形を作ります。ただし底の部分はつくらず、最下部は粘土ひも(粘土板)を輪の形に丸めただけで、容器としては使えません。
円筒埴輪は、現在の岡山県にあたる吉備(きび)地方で、弥生時代後期に、墓にそなえられた壺形土器とそれをのせる器台(きだい)が起源と考えられています。これらは特殊壺(とくしゅつぼ)、特殊器台(とくしゅきだい)と呼ばれています。特殊壺は底部が焼成前穿孔されているものが多く、特殊器台にも複雑な文様と、丸や三角のあながあけられます。時が進むにつれ、器台に壺をのせた形を表現した朝顔形埴輪や壺の部分を省略した円筒埴輪に変化するものと考えられています。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
<参加自由>ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】浅間下遺跡の墓に使われた土器
今回の展示では、主役は権現山遺跡の古墳時代前期の底部穿孔土器ですが、「墓に使われた土器」として浅間下遺跡の縄文時代中期の深鉢を展示しています。
浅間下遺跡航空写真(中央やや下の水色シートが写っている部分が浅間下遺跡、右側は江戸川、左上は神明貝塚、(埼玉県立さきたま史跡の博物館提供))
浅間下遺跡は、春日部市の北東部、西親野井の江戸川堤防沿いに位置します。千葉県からのびる宝珠花台地に立地します。遺跡の東側を流れる江戸川は近世に開削された河川で、もとは野田市側からの台地が続いていましたが、台地部分を掘削し、谷が接続されて一つの河川となりました。浅間下遺跡は、現在の堤防の下や、河川敷まで広がっている可能性があります。遺跡の標高は約10mです。西には、谷をはさんで縄文時代後期の国指定史跡、神明貝塚が立地しています。
浅間下遺跡では、これまで4回の発掘調査が行われています。縄文時代中期(約4500年前)の竪穴建物跡や小竪穴状遺構、縄文時代後期の竪穴建物跡、平安時代の竪穴建物跡、中世から近世の溝などが発見されています。
浅間下遺跡の土器の破片をしきつめた墓(埼玉県立さきたま史跡の博物館提供)
浅間下遺跡では、地面に穴をほり、床面に土器の破片をしきつめた縄文時代中期の墓が発見されています。しきつめられてた土器は、復元すると底部を欠いた2個体の土器になりました。2つの土器の破片はモザイク状にしかれています。この遺構は小竪穴状遺構を墓に転用したものと推定されています。浅間下遺跡の第4次発掘調査では小竪穴状遺構37基が確認されています。小竪穴状遺構は、下総台地で多く発見されており、一般的に竪穴建物が円状に分布する環状集落では、竪穴建物の円よりも内側に作られます。食料を保管する貯蔵穴として利用されたものが多いようです。
土器をしきつめた墓から発見された大木9式土器(埼玉県立さきたま史跡の博物館所蔵・提供)
大木9式土器の展開写真(埼玉県立さきたま史跡の博物館提供)
土器をしきつめた墓から発見された加曽利E式土器(埼玉県立さきたま史跡の博物館所蔵・提供)
加曽利E式土器の展開写真(埼玉県立さきたま史跡の博物館提供)
浅間下遺跡で発見された墓の跡にしかれていた土器は、東北地方の大木9式と関東地方の加曽利E式の土器で、東北地方と関東地方の土器型式の同時性を示しています。大木式は、大木囲貝塚(宮城県七ヶ浜町)で出土した土器をもとに設定されました。大木7a~10式が縄文時代中期に位置付けられています。加曽利E式は、加曽利貝塚(千葉県千葉市)のE地点で出土した土器をもとに設定された、関東一円の代表的な縄文時代中期の土器型式です。なお、2点とも底部の破片は確認できませんでした。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
<参加自由>ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。
郷土資料館体験ワークショップを開催しました
令和5年8月20日(日)の午前と午後各1回ずつ、郷土資料館体験ワークショップ「ストロー弓矢を作ろう」を開催しました。
体験ワークショップは、①蓄音機の上演、②春日部に伝わる伝説の紙芝居の上演、③おもちゃ作りの3本立てです!
作るおもちゃの種類によって、所要時間は40分から1時間程度となっています。
今日のワークショップは夏休みということもあってか、通常よりもたくさんの子どもたちが集まってくれました!
ワークショップで使用している蓄音機は100年ほど前に使われていたもので、今や貴重な一品。みなさん耳を傾けて、懐かしく珍しい音色を楽しんでいました!
本日の紙芝居は西金野井に伝わる伝説「江戸川を流れてきた獅子」です。みんな静かにしっかりと聞いてくれましたね♪
おもちゃは「ストロー弓矢」を作りました。ストロー弓矢は今年の新作おもちゃです!
ご家庭にある材料で簡単に作れます!今回は頑丈に作るために、弓の部分に分厚いラップの芯を使いましたが、ご家庭ではキッチンペーパーやトイレットペーパーの芯で代用可能です。
郷土資料館の企画展示室で土器をたくさん並べているので、ちょっと縄文時代や弥生時代を意識して“狩り体験”♪
よーく狙って・・・ドヒュンッ!
かなり勢いよく飛びます!
最後におまけの缶バッジづくり体験!
これが結構人気です♪毎回異なる絵柄をしているのでリピーターの子も喜んでくれます。
本日も暑い中お越しくださりありがとうございました!
次回の体験ワークショップは10月に開催予定です。詳しくは広報誌等でご覧ください。
お待ちしています!
体験講座みて!さわって!dokidoki音楽づくりを開催しました
8月12日(土)、春日部市郷土資料館恒例の体験講座「みて!さわって!dokidoki音楽づくり」を開催しました。
この講座は、国立歴史民俗博物館の中村耕作先生と國學院大學栃木短期大学の早川冨美子先生のご協力により、毎年夏休みに、郷土資料館で開催しており、今年で3回目になります。
縄文土器を観察し、文様のパターンやイメージなどをみたりさわったりしながら、縄文時代にも存在した自然素材を使って音で表し、グループで音楽を作る講座です。
縄文土器と中村先生
当日は、縄文時代の衣装を着て講座にのぞみました。
縄文時代の衣装
はじめに、時代の長さを紙の長さで表した年表で、縄文時代がいかに長い時代かをみんなで確認しました。
時代の長さを表した年表
その後、資料館の展示室で、竪穴住居模型や春日部の貝塚、縄文土器の展示を見学し、縄文時代について学びました。
展示室見学
講座会場に戻り、音楽づくりに使う自然素材を選びました。
用意された自然素材
早川先生に音の出し方や音楽の作り方をおしえてもらいました。
音楽の作り方を教えてもらっている様子
また実際の縄文土器をみて、文様の付け方を観察し、縄文を実際に粘土につけてみました。
縄文を粘土につけいている様子
最後にグループで2回音楽を作り、発表しました。
音楽を発表している様子
縄文土器をみながら、縄文時代にもあった自然素材を使って音を出してみるという、一風変わった講座でしたが、いかがだったでしょうか?
参加していただいたみなさん、ありがとうございました。
昨年度のものですが、講座の様子は下の動画でもみられますのでご覧ください。
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】杉戸町豊明神社古墳の底部穿孔壺
今回の「あなのあいた壺」では、周辺の底部穿孔壺形土器として、杉戸町豊明神社古墳で発見された底部穿孔壺形土器をお借りしています。
杉戸町大塚の豊明神社では、平成6年(1994)、擁壁(ようへき)工事などの際に古墳時代前期の底部穿孔土器が採集されたことにより、神社の敷地が古墳時代前期の方形周溝墓のような墳丘墓、あるいは古墳であると指摘され、「豊明神社古墳」と呼ばれるようになりました。
豊明神社古墳出土底部穿孔土器(杉戸町教育委員会所蔵・提供)
豊明神社古墳出土底部穿孔土器の穴(杉戸町教育委員会所蔵・提供)
はじめに採集された穿孔土器は、高さ28cm、底径6.6cmの首から上を失った壺で、底面に焼成前穿孔されています。
豊明神社古墳出土底部穿孔土器片1(杉戸町教育委員会所蔵)
豊明神社古墳出土底部穿孔土器片2(杉戸町教育委員会所蔵)
豊明神社古墳出土底部穿孔土器片3(杉戸町教育委員会所蔵)
豊明神社古墳出土底部穿孔土器片4(杉戸町教育委員会所蔵)
豊明神社古墳では、ほかに4点の焼成前底部穿孔がみられる底部の土器片が採集されています。権現山遺跡と同じように複数の底部穿孔土器が存在していることがわかります。
杉戸町豊明神社古墳(杉戸町教育委員会提供)
豊明神社古墳は、権現山遺跡からは直線距離で北西に約6km、中川低地の自然堤防上に立地します。この自然堤防は北東から南西にのびており、古墳時代当時、現在の渡良瀬川にあたる河川が、古利根川の方向へ流れていたことにより形成された自然堤防と推定できます。
この自然堤防の上流方面には、弥生時代の須釜(すがま)遺跡(春日部市倉常)、下流方面には古墳時代前期の東上(ひがしかみ)遺跡(杉戸町本郷)があり、遅くとも古墳時代前期には自然堤防上で人々が生活していたことがわかります。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
<参加自由>ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。
【体験ワークショップ】ストロー弓矢を作ろう!
8月20日(日)に体験ワークショップを開催します。
体験ワークショップでは、蓄音機の上演、紙芝居、昔のおもちゃづくりをします。
今回作る昔のおもちゃは「ストロー弓矢」です。
ストロー弓矢は今年の新作おもちゃです!
今夏、郷土資料館では土器をたくさんならべた企画展示を開催しています。縄文時代や弥生時代には、イノシシやシカなどの動物を狩っていました。そこで、ワークショップでもちょっとした“狩り体験”ということで今回のおもちゃを作成してみました!
楽しく遊べるように的も用意してあります!
みんなうまく当てられるでしょうか♪
ワークショップは申し込み不要、おもちゃの材料は資料館で用意しています。
当日の午前10時30分と午後2時からの計2回開催しますので、お時間までに郷土資料館にお越しください!
【体験ワークショップ】
日時:令和5年8月20日(日)午前10時30分~・午後2時~
場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)
内容:蓄音機と紙芝居の上演
おもちゃづくり(ストロー弓矢)
費用:無料
申込:不要(開催時間までに郷土資料館にお越しください)
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】野田市宮前遺跡の底部穿孔壺
宮前遺跡第1号方形周溝墓(野田市教育委員会提供)
今回の展示では、おとなりの野田市より、宮前遺跡で発見された底部穿孔壺形土器をお借りし展示しています。
宮前遺跡は、権現山遺跡からは、直線距離で南東に約10㎞、下総台地上に立地します。古墳時代前期の7基の方形周溝墓が確認され、このうち第1号方形周溝墓から2点の焼成後穿孔された底部穿孔壺形土器が出土しています。
いずれも口縁部は、粘土を帯状に用いて段をつくり出す複合口縁で、高さは約34㎝と約40㎝、土器の表面が赤彩されています。穿孔は、外側から打ち欠くようにあけられています。底面ではなく、胴部の最下方にあけているようです。周辺地域での同様なあなのあけ方として千葉県松戸市の富山遺跡で発見された底部穿孔壺形土器が挙げられます。(松戸市立博物館2021『古墳時代のマジカルワールド』)
宮前遺跡1号方形周溝墓の底部穿孔壺1(野田市教育委員会所蔵)
宮前遺跡1号方形周溝墓の底部穿孔壺1のあな
宮前遺跡1号方形周溝墓の底部穿孔壺2(野田市教育委員会所蔵)
宮前遺跡1号方形周溝墓の底部穿孔壺2のあな
野田市域では、この宮前遺跡のほかにも、堤台松山(つつみだいまつやま)遺跡、桜台高崎家前(さくらだいたかさきけまえ)遺跡で古墳時代前期の底部穿孔壺形土器が発見されています。特に堤台松山遺跡は、権現山遺跡から直線距離で南東に約3㎞の位置に所在し、2基の方形周溝墓が発見されています。権現山遺跡と同じく、「方形周溝墓」という用語が誕生する前に調査された遺跡です。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
<参加自由>ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。
博物館実習6日目資料調書・ディスカッション
本日は資料調書・整理と実習を振り返ったディスカッションを行いました。
午前は資料調書・整理をしました。
まず初めに資料整理と簡単な情報を書き出す作業をしました。紙が脆くなっているものや、結んである紐を解くと元に戻せなさそうな資料が多くあったので慎重に作業しました。
次に調書の封筒を筆記する作業をしました。
資料の絵や写真をよく見て情報を細かく記入します。資料と向き合う時間が楽しく、集中を欠かずに作業出来ました。
最後に実習を振り返ったディスカッションを行いました。
1日ずつ実習を振り返りました。また、5日間を振り返って春日部市郷土資料館をよりよくするにはどうすればいいのかを討論しました。初日も同じ内容で討論しましたが、今日の方が学芸員視点的に成長したと感じた討論でした。5日間で様々な学芸員が日々行っている業務を体験させてもらいました。とても良い学習であったとともに、この経験を忘れず邁進して行きたいです。
今年度の実習生による「ほごログ」はこれで最後ですが、8月12日体験講座と9月2日の第68回企画展示記念講演会にも参加します。残り僅かになりましたが、最後まで気を抜かずに頑張りたいです。
(令和5年度実習生)
博物館実習5日目・資料整理、教材研究
本日は市内の資料保管施設での資料整理、権現山遺跡の見学、教材研究を行いました。
午前は資料が収蔵されている施設に行き、今後展示に使われる予定の資料を運びました。昔の消火器から水車(みずぐるま)まで様々な資料が収蔵されていました。見たことのない資料がいくつもあり、どんな使われ方をしていたのかと思わず考えてしまいました。
その後、権現山遺跡に行きました。今は涼しげで気持ちのいい公園になっていました。ここから出土した穿孔(せんこう)土器は資料館に展示されているので、ぜひじっくりとみてみたいと思います。
午後は教材研究を行いました。
様々な教科の教科書から、資料を活用できそうな単元を探して活用法を考えました。理科や数学など、一見歴史資料と遠い関係にありそうな教科も、みんなで頭を捻って案を出していました。今日考えたものが、実際に使われる機会があればうれしく思います。
実習も後半に差し掛かってきました。残りの日も気を引き締めてしっかりと学んでいきたいと思います。
(令和5年度実習生)
博物館実習4日目・他館見学
本日は、他館見学として、草加市立歴史民俗資料館と八潮市立資料館の見学を行いました。
午前は草加市立歴史民俗資料館を見学しました。
非常に丁寧に解説をして頂き、小学生の利用者が多く、実際に触れて体験することが出来る展示方法を行っていることや、パネルの制作にも力を入れていることが分かりました。
午後に見学した八潮市立資料館では、古民家やマイクロフィルムの資料等、あまり触れたことがない資料についても詳しくお話を伺いました。また、水害や藍染に関する展示スペースからは、地域の特色を強く感じました。
皆、積極的に質問をしており、有意義で学びの多い時間を過ごすことが出来ました。
二つの資料館を見学したことで、地域について伝えるために意識していることや展示方法ついて学ぶことが出来ました。
実習もほぼ折り返しとなりました。残りの実習も一生懸命取り組んでいきたいと思います。
(令和5年度博物館実習生)
博物館実習3日目・資料取扱い実習
本日は資料の取扱いについて学びました。
午前は掛軸と巻物。学校の授業で実際に触ったことがある人も多かったようですが、持ち方や注意する点などはその時々によるため、慎重に扱わなければなりません。
実際に扱ってみると、しまい方の手順を飛ばしてしまったり、うまく巻けなかったりとなかなか難しく、皆真剣に手元を観察していました。
午後は考古資料、今回は資料を外に持ち出す想定で土器の梱包を行いました。
まずは梱包に必要な綿布団を用意します。そして、それを使って土器を包んでいくのですが、土器の形はものによってさまざま。大きいものもあれば、小さいものもあります。それらに合わせて適切な梱包方法を考え、丁寧に包んでいきます。
梱包・運送の際、どんな状態だと資料を傷つけてしまうのか、想像力の必要な作業であると思いました。
実習はまだまだ続きます。楽しみながらしっかり学んでいきたいと思います。
(令和5年度実習生)
実習2日目はワークショップと教材研究を行いました!
実習2日目は、お子様向けワークショップの補助と見学、そして小学校の教科書を用いた教材研究を行いました。
ワークショップでは、紙芝居「牛島の藤の伝説」の上演を3人ずつに分かれて行いました。紙芝居の読み聞かせは初めての経験でしたが、子どもたちは興味津々な様子で聞いてくれて、やりがいを感じました。おもちゃ作りにも楽しく参加していただき、無事にワークショップを終えることが出来ました。
また、蓄音機の上演を見学させていただきました。私自身、レコードから流れる音楽を生で聞く初めての経験だったので非常に印象に残りました。
教材研究では、小学校の全科目の教科書をじっくりと読み、博物館所蔵の資料と関連付ける方法を個人で考えまとめました。中には、アイディアの出づらい科目もあり、苦戦する場面もありました。博物館が学校と連携することにより、学びの幅を広げる博学連携の難しさを実感しました。
(令和5年度博物館実習生)
【臨時休館のお知らせ】8月5日(土)午後、6日(日)
令和5年8月6日(日)は、教育センターが埼玉県知事選挙の投票所として利用されます。そのため、準備を含め下記の日程で郷土資料館は休館となります。ご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします。
〈臨時休館日〉
令和5年8月5日(土)午後
令和5年8月6日(日)終日
※令和5年8月7日(月)は通常の休館日となります。
実習1日目「オリエンテーション」
令和5年度の博物館実習が始まりました。今年度は6人の実習生が参加しています。
初日の今日は、オリエンテーションを行いました。
午前中は、館内や収蔵庫の見学を行い、展示の仕方や展示内容、収蔵庫での保管法の工夫等を説明していただきました。常設展示では、春日部市のあゆみを知ることができ、来館者の方々に人気がある竪穴式住居や宿場町の模型も見ることができました。
また、初めて入った収蔵庫では、ドアの内側に網戸があること、書物の保管には中性紙の封筒が使われていることを学びました。スペースいっぱいに資料が置かれている光景は驚きでした。
午後は、まず明日行われる子ども向けのワークショップの準備を行いました。紙芝居の練習やペーパーローリングの作り方の確認をしました。明日は子どもたちが喜んでくれるように頑張りたいです。
その後は、博物館についてのディスカッションとして、理想の博物館や春日部市郷土資料館のメリット・デメリットについて意見を交わしました。理想の博物館としては、「学芸員が研究できる環境が整った館」や「自分の地域を知ることができる館」という意見が出ました。春日部市郷土資料館のメリットは「竪穴式住居が子どもにも印象深い」、「狭いスペースをうまく利用して展示している」という意見があり、デメリットとしては「パネルと展示物の順路に少しばらつきがある」、「パネルによって文字が読みづらいところがあった」という意見がありました。様々な意見が出て、とても有意義な時間になりました。
実習は計8日間あるので、体調には気をつけながら、たくさんの学びを得ていきたいと思います。
(令和5年度実習生)
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】展示解説講座をおこないました
本日は展示解説講座を開催し、30名の方にご来館いただきました。誠にありがとうございました。
展示解説講座では、一口に底にあなが開いているといっても、土器として焼かれる前にあなをあける焼成前穿孔(しょうせいぜんせんこう)と焼成後穿孔(しょうせいごせんこう)があることや、権現山遺跡の底部穿孔壺は、土器を横から見た時の形が2種類ある話などをしました。また「底にあなをあける」行為は、考古学では「非実用的なものとするため」といった説明がされますが、だれもが納得するような理由はまだ解明されていないことなどをお話ししました。展示後は、展示室で実物をみながら、解説をさせていただきました。
いただいた感想では、昔の人にも死者に対する深い思いがあったのではないか、穿孔壺のあなは壺にたましいが残らないようにあけたのではないか、などのご意見をいただきました。なぜ、あなをあけたのかについては、ぜひ皆さんも悩んでいただければと思います。
さて、展示の関連イベントは、このあとミュージアムトークと記念講演会が予定されています。どうぞご参加ください。
(関連イベント)
<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
<参加自由>ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。
【令和5年夏季展示_あなのあいた壺】昭和38年4月5日埼玉新聞の記事
権現山遺跡の第1次調査は、昭和38年4月2日から4日に行われました。埼玉新聞の取材を受け、翌4月5日には、旧大滝村(現・秩父市)三十場(みそば)で調査された遺跡と合わせ、紙面に大きく掲載されました。
記事では「底にあながあけられている」ことは明記されていませんが、「ハニワ(埴輪)ツボ」と表現され、実用のものではなく、埴輪のように祭祀に使われたものだと書かれています。
また、米島や西親野井、松伏町の築比地(ついひじ・記事中の「ついへじ」は誤り)、杉戸町豊岡でも遺跡が発見されていることが書かれており、これは米島は米島貝塚、西親野井は神明貝塚、杉戸町豊岡は目沼浅間塚古墳(めぬませんげんづか古墳)の調査を示しています。松伏町築比地の「昨年石オノ」との記述はどの遺跡かわかりませんが、築比地地区では、昭和29年(1954)に、栄光院貝塚の調査が行われています。
昭和38年4月5日埼玉新聞
(記事全文)
考古資料各地からぞくぞく 庄和村から発掘 土器など原型のままで
北葛庄和村で古墳時代の土器多数がほとんど原型のまま発掘され、考古学研究に貴重な資料がそろったと関係者を喜ばせている。出土したのは同村中野通称”権現山台地”で、同所農業、横川四郎さん(五五)ら六人の所有地六千平方メートルを畑にするため、さる三月末からブルドーザーでけずりとっていたところ、地表下一メートル前後のところから土器数個が出てきたので工事関係者が同村葛飾中、横川好富教諭(二五)=国学院大日本史学専攻=に連絡、国学院大の学生と同中学生数人の協力を得て、三日から現場の下調べをかねて出土品をとり集めた。
この結果四日までに土器と什(じゅう)器など二十余点がみつかったが、土器、什器とも素焼きのウツワで、大きいのは直径一〇センチ、平均七、八センチあり、ほとんど原型のまま出土した。同教諭はこれを県文化財保護委の柳田敏司係長にみせたが、土器は三、四世紀の古墳時代(今から千五、六百年前)のもので、土器のうちハニワ(埴輪)ツボは当時の住民が祭し(祀)用に使ったものと推定され、県下では松山についで二度目の出土器だという。
この近くの同村米島と西親野井では、さきに縄文(じょうもん)土器、松伏村築比地(ついへじ)では昨年石オノ、杉戸町豊岡では数年前に前方後円墳が発掘されており、住民がいたので、このほかにも考古学の資料が出土するのではないかと期待されている。
(昭和38年4月5日埼玉新聞)
<開催中>春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
<募集中>記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
<参加自由>ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要です!時間までに、企画展示室へお越しください。
【体験ワークショップ】ペーパーローリングを作ろう!
7月30日(日)に体験ワークショップを開催します。
体験ワークショップでは、蓄音機の上演、紙芝居、昔のおもちゃづくりをします。
今回作る昔のおもちゃは「ペーパーローリング」です。
昨年度の最後(令和5年1月)のワークショップで作ったおもちゃもペーパーローリングだったのですが、今年度は初回で作ることにしました。
というのも、ペーパーローリングは1980年代頃にお祭りや縁日で販売され大流行した商品とのことで、“お祭り”といえば“夏”という安直な発想から、この時期に作ってみようと思いました!
私も子供のころ、「不思議なおもちゃだなぁ~」と思いながらよく遊びました。
部屋の照明から垂れ下がっている紐を狙って“シュッ”っと。この感覚、今の子どもたち果たして伝わるでしょうか(笑)
簡単な作りなのに、ついついハマって遊んでしまうペーパーローリング!
一緒に作って遊んでみましょう♪
申し込み不要、おもちゃの材料は資料館で用意しています。
当日の午前10時30分と午後2時からの計2回開催しますので、お時間までに郷土資料館にお越しください!
【体験ワークショップ】
日時:令和5年7月30日(日)午前10時30分~・午後2時~
場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)
内容:蓄音機と紙芝居の上演
昔のおもちゃづくり(ペーパーローリング)
費用:無料
申込:不要(開催時間までに郷土資料館にお越しください)
【令和5年夏季展示】あなのあいた壺はじまりました
7月22日(土)より、権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」展が始まりました。
開催初日の本日は、午前、午後とミュージアムトークを行いました。ご参加いただいた方、ありがとうございました。
ポスターやチラシに載せている赤い壺は、権現山遺跡の底部穿孔の壺で、高さは13.7㎝です。ポスターやチラシでは、一見、大きそうに見えてしまうこともあり、実際、会場で実物をご覧いただいた方からは「かわいい壺」との感想を頂きました。ミュージアムトークはこのあと、8月19日(土)と9月3日(日)に予定しています。
また、「小さな壺に色を塗って大きな壺にはろう」というコーナーを設けています。実際の権現山遺跡の底部穿孔壺の実測図のコピーに、好きな色を塗って、同じ壺の大きな実測図に貼っていただくものです。
初日だけで、カラフルな壺がたくさん貼られました。
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「あなのあいた壺」展は、9月3日(日)までです。関連イベントも実施します。 ぜひご来館いただき、あなのあいた壺の実物をご覧ください。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)~9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
●記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00~16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
●展示解説講座
古墳時代の権現山遺跡出土底部穿孔土器を中心に、弥生時代の須釜遺跡の資料などについて、郷土資料館学芸員が解説します。
講師:郷土資料館学芸員
日時:7月29日(土)10:00~12:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員50人(申込順)
費用:無料
申し込み:受付中です!電話(048-763-2455)、直接、電子申請のいずれか
●ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:7月22日(土)、8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要
【令和5年夏季展示予告その6】須釜遺跡の底部穿孔土器
須釜遺跡3号再葬墓出土底部穿孔土器
須釜遺跡は、倉常の中川(庄内古川)左岸の水田地帯で、周りより1~2mほど標高が高い自然堤防と呼ばれる微高地に立地します。これまでに3回の発掘調査が行われ、1・2次調査では、古墳時代前期の竪穴状遺構や包含層、近世の屋敷跡が確認されています。3次調査は、平成13年(2001)に土地所有者が耕作作業をしている際に弥生土器が発見されたことがきっかけとなり行われました。弥生時代中期の11基の再葬墓と呼ばれる墓跡と、それに伴って約30点の完全な形に近い弥生土器が発見されました。須釜遺跡の出土遺物は平成17年に埼玉県の有形文化財に指定されました。
須釜遺跡の底部穿孔土器は3号、4号、6号、7号再葬墓から出土しています。壺以外に、甕や筒形の土器も穿孔されています。いずれも焼成後の穿孔です。底の外面(下側)に何かを当てた痕跡がないことから、内面(上側)からあなをあけているものと考えられます。
須釜遺跡7号再葬墓出土土器(側面、底面、内面)
ほかの再葬墓の遺跡でも底部穿孔土器が出土することはあるものの、須釜遺跡のように多くの土器が穿孔されることはありません。須釜遺跡の再葬墓は、お墓の形が再葬墓から方形周溝墓に移り変わる時期に営まれたと考えられており、そういった時代背景から底部穿孔土器が多く出土している可能性も考えられます。
須釜遺跡については、下記の記事などもご覧ください。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺
#納涼 ミュージアム #スタンプラリー
暑い日が続きますね。暑い日は、お近くの博物館に涼みに。そして、ぜひご家族で近隣の博物館巡りをしてはいかがでしょうか。 #博物館 #かすかべプラスワン #クールオアシス #夏休み
7月15日から始まった「彩の国東部・北部ミュージアムスタンプラリー」は、春日部市郷土資料館を含む博物館24館園のスタンプラリー。中学生以下の方のみ参加可で、スタンプ3つ集めれば粗品。6つ集めればオリジナル埴輪貯金箱をプレゼント。最西端は神川町から、最南端は三郷市まで24館園が参加しています。24館園のなかには、まちのクールオアシスとして協力している博物館もありますので、涼みながら、各地域の特色を知り、学べます。
スタンプの台紙はこちらからR5_埼博連スタンプラリー台紙.pdfダウンロード・ご利用できます。春日部市郷土資料館は、多種多様なスタンプを用意していますが、台紙におすのは1つまでなのでご注意を。
事業名:彩の国東部・北部ミュージアムスタンプラリー
主催:埼玉県博物館連絡協議会東・北部地域連絡協議会
期間:令和5年7月15日(土)から10月1日(日)景品がなくなり次第終了
参加加盟館園:埼玉県東・北部の博物館24館園
対象:中学生以下の方
【令和5年夏季展示予告その5】権現山遺跡の大口径羽口
権現山遺跡で発見された大口径羽口(写真のように置いた時の縦の長さ19㎝)
昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査では、奈良時代から平安時代の大口径羽口(だいこうけいはぐち)が発見されています。羽口とは、鉄を加工する炉の内部に、火の力を強めるために空気を送り込むための送風管のことです。粘土で作られており、火を受けた跡や溶けた鉄が付着していることが確認できます。
今回ご紹介する羽口はとても大きいもので、大口径羽口と呼ばれています。大口径羽口は、砂鉄から鉄を作るための竪型炉(たてがたろ)に装着されたものです。権現山遺跡では、このほかにも、製鉄(製錬・せいれん)にともなう炉壁(ろへき)や鉄滓(てっさい)が、総量34435.2g出土しています。
竪型炉の本体は発見されておらず、資料が集中して出土した場所は、廃材を捨てる排滓場(はいさいば)であったと考えられます。大口径羽口などの特徴から、時代は、8世紀後半から9世紀前半と推定されています。
春日部市周辺では、製鉄(製錬)の工程に関する遺跡は現在のところ、この権現山遺跡のみです。鍛冶(鉄を製品にしあげる)の工程の遺跡は、松伏町の本郷遺跡や市内米島の吉岡遺跡、宝珠花の町道遺跡、小渕の小渕山下遺跡で発見されています。
この大口径羽口の出土により、権現山遺跡周辺で、砂鉄を原料とした製鉄を行っていたことが推定できます。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
春日部市郷土資料館7月の休館日
休館日にご注意ください。Please note 请注意 주의해 주세요 #Closed #休馆日 #휴관일
7月の休館日は、3日(月)・10日(月)・17日(月・祝)・18日(火・祝日の翌日)・24日(月)・31日(月)です。
Closed Mondays and July 18
休馆日 周一 7月18日
휴관일 월요일 7월18일,
休館日に、外国の方がスタンプラリーで来館されていると聞いています。ご注意ください。
展示替はじまっています
7月2日までの企画展の資料を撤収しました。素丸書の松尾芭蕉の肖像画の軸を巻き、まさにしまおうとしたところ、軸の表紙に目がとまりました。
墨書や蔵書印があるのですが、注目は次の蔵書印です。
鼎(かなえ)を模している印なのでしょうか。やかんでしょうか。形はよくわかりませんが、文字はちょっと読みづらいかもしれませんが、印には「宜春園(ぎしゅんえん)」と印刻されているようです。
宜春園とは、江戸中期の備後の文人・石井文龍が、師匠の溝口素丸から与えられた号です。素丸も宜春園を名乗っていたといい、文龍にとっては誉れ高き名跡だったはず。その後、宜春園の名跡は、地元の文人に継承されていきました。
詳しくは、松尾芭蕉の肖像が春日部に伝来した理由を参照してください。
つまり、芭蕉の肖像の軸に「宜春園」の蔵書印が捺されているということは、まぎれもなく石井文龍の持ち物だったといえるわけです。今後、「宜春園」の蔵書印に注目しながら、他の資料を検討していけば、何か新たな発見があるかもしれません。撤収のさなか気づいた今後の課題です。終わりは始まりなのです。
さて、撤収後、次の企画展示「あなのあいた壺」展の設営が始まりました。
前の展示は、紙ものばかりでしたが、今度はうってかわって立体的な土器が並びます。資料の種別や特性によって、取り扱い方も全く違います。倒れないように、土器専用の台やテグスなどでしっかり固定しています。立体的な資料なのでどの部分を見せたいのか、担当の学芸員の個性が出るところでしょう。
終わりは始まり、ですが、展示の設営が始まったということは、これもいつか終わりを迎えるのです。
終わりは始まり、始まりは終わりなのです。
企画展示は期間限定ですので、お見逃しなく。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
【令和5年夏季展示予告その4】権現山遺跡の縄文時代晩期の土器
権現山遺跡から出土した縄文時代晩期の土器(土器の高さ48.2㎝)
権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代晩期の土器を紹介します。
縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6時期に区分されていますが、春日部市域でもっとも遺跡数が多いのが縄文時代前期です。東京湾が北に広がった縄文海進がもっとも進んだ時期で、低地は海となり、陸地であった台地で人々は生活し、貝塚を残しました。縄文時代中期の遺跡も比較的多くみられます。縄文時代後期になると、遺跡数は少なくなりますが、神明貝塚のような大きな遺跡が確認されています。
縄文時代晩期は今から約3,300~2,500年前で、市内では今回ご紹介する権現山遺跡の深鉢形土器が、ほぼ唯一の資料です。
この土器は、昭和63年(1988)に行われた権現山遺跡の第2次調査で、古墳時代前期までに埋まったとみられる埋没谷から発見されました。縄文時代晩期後半、中部地方から東北地方にみられる浮線文系土器群に属するものと考えられています。
口径(復元)34.5㎝、推定の高さ48.2㎝の大型のもので、口縁には、2個1組と1個の山形の突起を交互に5個つけています。浮線文系土器の文様は、網状文(あみじょうもん)とよばれる網目のような模様がよく見られますが、権現山の土器は、竹などの工具で平行に線が引かれる平行沈線(へいこうちんせん)が描かれており、浮線文系土器群のなかでも新しい特徴とみられています。
縄文時代早期の土器に続き、この晩期の土器も大変貴重な資料です。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓でつかわれた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺
海外の方にも大人気! #クレヨンしんちゃん スタンプ
4月ごろから、郷土資料館に海外からのお客さんが見受けられるようになりました。「クレヨンしんちゃん 春日部スタンプ巡り」に参加されている皆さんです。
実は、4月16日(日)から2か月以上連続で海外の方の来館が続いており、ある日は来館者の半数以上が海外の方ということもありました。
春日部市郷土資料館で提供するしんちゃんのスタンプは、国指定特別天然記念物である牛島のフジ、国選択無形民俗文化財である大凧あげ、日光道中の宿場町、伝統工芸である桐ダンス・桐小箱をデザインした、春日部の魅力が詰まっているオリジナルスタンプです。
思いがけない反響に、資料館では、外国の方向けに多言語の案内表示を掲示しました。
また、常設展示のクレヨンしんちゃんの展示コーナーには、感謝の言葉も表示しました。
これをきっかけに、江戸時代の宿場町や縄文人の家の模型を見学して、クレヨンしんちゃんが住む春日部の歴史文化に触れていただき、春日部市の魅力を知っていただきたいと、願うところです。
#家康 と春日部
#徳川家康 と春日部の関わりを紹介する春季展示は7月2日(日)まで。展示では家康が実は春日部に来ていたかも!?と紹介しています。 #かすかべプラスワン
展示も終盤なので、ネタバレで紹介します。家康が春日部に在陣することを示すのは、江戸幕府による官撰の系譜「寛政重修諸家譜」。戦国期には古河公方足利家の家来だった一色氏の系譜の記事のなかに見出せます。下の画像はその部分(国立公文書館所蔵)。
戦国末からの当主一色義直の記事は、次の通りです。
(前略)五年会津に御発向のとき、粕壁の駅に至りて拝謁し、台駕にしたがひたてまつらむ事を請といへとも、年老たるをもつて許し給はす、男照直を俱せらる、関原凱旋のゝち、参府して御気色をうかかふのところ、御前にめされ、義直老年ながら会津御陣の供奉をこひし事健気なりとの御感ありて、養老の料として下総国和歌領にをいて、千石の地をたまふ(後略)
慶長5年(1600)、家康は会津の上杉景勝の征伐のため、江戸城を立ちました。その途次「粕壁の駅」で一色義直は家康に拝謁し、軍勢に加わりたいと請願しますが、老齢のため家康の許しを得ることができず、嫡男の照直が供奉することになりました。
一色氏は、かつて幸手領(幸手市域から杉戸町・春日部市域の一部)を所領にしていた在地領主です(後に下総国相馬郡に所領を替えられ、現在の野田市の木野崎村に居住)。家康が関東に入部した後は、幸手に知行地5160石余を与えられ、徳川家の旗下となりました。慶長5年当時、義直は隠居の身でしたが、おそらく家康の軍勢が自らの所領幸手領を通行する直前の「粕壁の駅」で、挨拶のため拝謁したものと考えられます。
家康は、会津に向かう途中、小山で江戸に引き返したといい(小山評定)、そのまま関ケ原に向かいました(関ケ原の戦い)。
「諸家譜」はさらに続けて、関ケ原の戦いの後、一色義直は江戸城で家康に拝謁し、老年ながら会津征討に供奉したいと請願を「健気なり」と褒賞され、隠居料として下総国和歌領(現茨城県八千代町)に1000石の知行所を与えられました。
一色義直の「粕壁の駅」での拝謁については、残念ながら同時代の史料は残されていません。「諸家譜」のほか、一色家諸系譜(幸手市史編さん室編『幸手一色氏』)にも記されており、家に伝来した出来事であったと考えられますが、当時いわゆる「日光道中」が成立していたかは疑義が残り、「粕壁の駅」の位置や実態について詳しくはわかりません(後述)。
上杉征伐~小山評定~関ケ原の戦いは、大変ドラマチックな展開であり、その途次に「粕壁の駅」が登場するわけですが、近年は「小山評定はなかった」説も唱えられており、江戸からの行程、江戸までの行程も詳しくはわかりません。このあたりが大河ドラマでがどのように描かれるのか、注目されるところでもあります。
さて、肝心の「粕壁の駅」とは、何か。先日の「みゅーじあむとーく」でも、「粕壁の駅」とはどこなのか、当時粕壁に宿場町があったのか、など観覧者から鋭い質問をいただいたところです。
粕壁宿の名主文書によれば、いわゆる「日光道中粕壁宿」(現在の春日部大通り)の町割りがされたのは、慶長16年(1611)のこととされています。一方、天正18年(1590)9月には、岩槻城主高力清長が「糟壁新宿」に人を集め年貢を納めることを命じています。「糟壁新宿」はのちに元新宿と呼ばれた地区(現南・緑町)であり、いわゆる「日光道中粕壁宿」の成立以前の馬継場は同所にあったと考えられています(詳しくは以前紹介記事参照)。会津征伐の慶長5年は、この間の出来事。果たしてどこに「粕壁の駅」があったのか。はたまた、「粕壁の駅」はそもそもこの時期に存在したのか、今後の検討が必要です。
結論はでませんが、そうした家康と春日部の関わりを紹介している春季展示「かすかべ人物誌」は7月2日(日)まで。家康の朱印状も展示していますので、お見逃しなく。
郷土資料館の顔~その2 怒っている!?人物埴輪
郷土資料館の顔の第二回目は、常設展示の内牧の塚内4号墳の人物埴輪です。
人物埴輪の出土事例として、顔・かたちがわかるものは、市内ほぼ唯一のもののようです。また、人の顔のある考古遺物としても、市内でも稀有な資料。
人物埴輪の解説については、前に博物館実習生に記述してもらったことがあります。詳しくはこちらをご覧ください。
解説にもあるように、完全な形はとどめていませんが、この埴輪は男性をかたどったものです。首には玉の首飾り、髪型はかけていますが耳の横に美豆良(みずら)を下げています。顔には赤い模様も施されており、春日部に住んでいた(?)古代人の姿がうかがえます。
顔の表情をみると、目と口は直線状の穴で表現されています。鼻筋も通っており、切れ長の目で東洋人的な「しょうゆ顔」でしょうか。
そんなこの人物埴輪、面白いのが角度を替えて鑑賞すると全く違う表情を見せてくれるところです。
写真のように上から見ると、切れ長の目がつりあがり怒っている表情に見えます。ケースを下から見あげると、目が垂て悲しんでいる表情の様。あたかも、千円札を折って表情を変える野口英世のようです。
記述者が最初にみた写真は少し上から撮っていた写真だったようで、目がつりあがって怒っているイメージをもっていました。ところが、カメラの角度を替えると全く違う表情。埴輪に怒っているのかと語りかければ、「キレてないですよ」「俺をキレさせたらたいしたもんだ」と言われてしまいそうです。
人物埴輪を制作した人は、どういう表情を思い浮かべ、制作したのでしょうか。そんなことに思いを巡らせると、お馴染みの資料でも、まだ十分に楽しめる余地が生まれてきますし、資料にとっての正面とは何か、を考えさせる一品でもあります。
ぜひ原物の人物埴輪に会いに来て、さまざまな角度からお楽しみいただければと思います。
市内の指定文化財については、本ページのメニューからもご覧いただけます。
・市指定史跡・内牧塚内古墳群についてはこちら
・市指定有形文化財・塚内4号墳出土遺物についてはこちら
郷土資料館の顔~その1 石井文龍
春日部市郷土資料館の展示室は、とってもせま~いのですが、展示を見渡すと様々な「顔」があることに気づきました。絵やイラストでも、顔と認識されるモノは、人間の本能なのか目を引くようです。そんな郷土資料館の顔を紹介する新シリーズ。 #かすかべプラスワン
第一回目は、現在、春季展示「かすかべ人物誌」で展示中の、江戸時代の地域文人石井文龍の「顔」です。
石井文龍については、先日紹介しましたので、それに譲ります。
描かれた文龍は、74歳、晩年の時のもの。享年が74歳なので、亡くなる直前か、生前の姿を描いたもののようです。
文龍は、医者であり、若い時分から俳諧に傾倒してきた地域の文化人でもありました。白髪で穏やかなお顔付きで、やさしい眼差しをしています。好きなことを追究され、穏やかな晩年を過ごしたのではないか、そんなことが想像される「顔」です。
不定期ですが、郷土資料館の「顔」シリーズ。次回をお楽しみに。
#松尾芭蕉 の肖像画が #春日部 に伝来した理由
松尾芭蕉の肖像画などを展示する春季展示「かすかべ人物誌」も残すところあと1週間になりました。 #かすかべプラスワン
芭蕉の肖像画が、なぜ春日部に伝わったのか、前の記述では来てのお楽しみとしていましたが、ここで少し解説します。ネタバレですので、楽しみにされている方はご注意ください。
今回展示している松尾芭蕉の肖像の掛け軸は、備後の旧家と八丁目の仲蔵院に伝わったものです。
備後の旧家とは、代々在村医をつとめてきた石井家です。江戸時代中頃の石井家の当主文龍は、葛飾蕉門という江戸を中心とする俳諧の一派に加わり、当時の宗匠溝口素丸(幕臣)に師事し、俳諧に傾倒しました。葛飾蕉門は芭蕉の高弟山口素堂の系統を引く一派です。文龍の居住した備後村や周辺の村々では、18世紀半ばごろには地域の俳諧が盛んであり、この環境で幼少期・青年期を過ごした文龍が俳諧に傾倒したのは必然的であったのかもしれません。
文龍は素丸や兄弟子筋にあたる地域の俳人から俳諧を学び、師匠素丸の別号「宜春園」を継承して宗匠となり、地域の俳人に師事しました。その門人は数百人いたといわれています(石井敬三「東武地方武里の俳人石井文龍翁について」『武蔵野史談』1-2)。
前に紹介した芭蕉の肖像は、石井家に伝来したものです。文龍の師匠にあたる素丸自筆の芭蕉の句が書き込まれています。詳しい史料がなく、想像ですが、この肖像は、おそらく点取り俳諧などでよい成績を残した文龍に、師匠素丸が与えたものなのかもしれません。
文龍の生きた時代は、松尾芭蕉が「俳聖」として神格化される時代であり、「蕉風」を自称する俳諧サークルの活動が各地で活発になる時代でもありました。地域の文人たちは、芭蕉の命日を「芭蕉忌」として俳諧の場とし、これを俳題にもしながら、俳諧を創作したそうです。文龍の俳諧一派葛飾蕉門も「蕉門」と称しているように、芭蕉を敬慕し、その俳諧を継承していることを自負していました。文龍自身も西国巡礼の旅の途次に芭蕉の墓のある近江・義仲寺に立ち寄っていることから、「俳聖」芭蕉を敬慕していたものと考えられます。
文龍の肖像も遺されています(展示中です)。
晩年の文龍の姿ですが、茶人帽に頭陀袋。芭蕉に似せて描かれているようです。肖像の上には「散る柳 紅葉をねたむ 色もなし」は辞世の句です。彼の墓石にも彫られていました。この句は、師匠素丸から秀作と評されたもののようです。このように、文龍は、芭蕉を敬い、師匠からおそらく与えられたであろう芭蕉の肖像を大切に保管し、これが現代に伝わったのです。
実は、 八丁目の仲蔵院に伝来した芭蕉の肖像も同様です。時代は下りますが、明治から大正期にかけて、仲蔵院の住職平原寛圓は、雪中庵という俳諧一派に加わっていました。雪中庵は芭蕉の高弟服部嵐雪の系統を引く俳諧サークルです。詳しい履歴は調査が必要ですが、寛圓は竹堂凡子と号し、地域俳諧の宗匠であったようです。また、仲蔵院には近代の雪中庵歴代の宗匠が訪れていたことも分かっています(増田竜雨『竜雨俳話』昭和8年)。近代の地域の俳諧の拠点となった仲蔵院、そして竹堂の元に芭蕉の肖像が遺され、今に伝わったと考えられるのです。
江戸時代中頃以降、地域の俳諧・文人の交流のなかで芭蕉の肖像が生まれ、伝えられてきたこと。展示の担当者は、この点を強調しておきたいのです。
展示では、芭蕉の肖像画のみならず、石井文龍の作品などを一堂に会しています。文龍は俳諧のみならず詩や画も遺しました。下の画像はその一つ。
左手には猿回しの画とともに「世の中は つなてかなしも 猿回し」と詠んでいます。おそらく文龍の作品でしょう。
世の中は綱に繋がれた猿回しのようだ、という意味でしょうか。身分を超え俳諧に親しみながらも、身分制社会の桎梏を詠んでいるのでしょうか。本展の目玉資料の一つです。
展示はあと1週間。お見逃しなく。
【令和5年夏季展示予告その3】権現山遺跡の縄文時代早期の土器
権現山遺跡では、これまでに3回の発掘調査が行われています。今回は「あなのあいた壺」展で展示予定の権現山遺跡の縄文時代早期の土器を紹介します。
昭和63年(1988)に行われた第2次調査では、縄文時代早期(7,000~12,000年前)の屋外で煮炊きをしたと推定される炉穴(ろあな・ファイヤーピットとも言う)が10基発見され、全体の形がわかる深鉢(ふかばち)が出土しています。貝殻で土器の表面を調整した条痕文(じょうこんもん)と呼ばれる文様が見られ、条痕文系土器群とも呼ばれます。
土器の底部は非常に小さく、そのまま置いただけでは安定しないことから、炉穴などで底の先を土に埋めて使用したのではないかと考えられています。
縄文時代早期の条痕文系土器群は、破片では市内の遺跡から多く発見されますが、権現山遺跡で出土しているような、全体形がわかる個体は少なく、大変貴重な資料です。
権現山遺跡から出土した縄文時代早期の土器(土器の高さ28~45㎝)
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓で使われた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺
みゅーじあむとーく開催しました
6月18日(日)に春季展示「かすかべ人物誌」のみゅーじあむとーく(展示解説)を開催しました。 #かすかべプラスワン
午前の部、午後の部ともに、郷土の歴史に高い関心をお持ちの皆さんにお集まりいただき、質問を交えながら展示解説をしました。
西金野井香取神社に伝わる天正19年(1591)の徳川家康の朱印状については、実物を見ながら史料の内容や形状を解説。写真では家康の朱印が見づらいのですが、実物では家康の朱印が確かに捺されていることがわかります。皆さんには、2代将軍の徳川秀忠の朱印状(の写真)と比べて、家康の朱印状と何が違うのかを考えていただきました。
「色が違う!」と答える方がいらっしゃいましたが、写真の色が悪かったようで・・・すみません。
大きく異なる点は、家康の朱印状は、料紙を横半分に折った「折紙」という形態であるのに対し、秀忠のそれは、料紙全体を使用した「竪紙」という形態です。また、写真ではわかりにくいのですが、秀忠の朱印状は大高檀紙(おおたかだんし)とよばれる皴(しわ)の入った料紙を使っています。
一般的に「竪紙」という形態は「折紙」よりも厚礼な書式といわれています。天正19年の家康の寺社宛の朱印状は、①家康の花押が捺された竪紙のものと、②西金野井香取神社の例と同じ折紙で朱印が捺されるものの二通りに分けられます。①の例は領地100石を超える寺院宛のもので、より有力な寺社には厚礼な①の形式で朱印状を発給したようです。西金野井香取神社は、朱印状の形式から考えれば、広い地域まで勢力を及ぼす大きな寺社ではないが、北条氏の時代からの地域の有力な神社であったといえることができましょう。
天正19年(1591)、朱印状を発給した家康は、まだ豊臣政権下で関東地方の一大名にすぎませんでしたが、家康は、地域の有力な中小規模の寺社にも朱印状を与え、関東地方の地域支配を盤石なものにしていったのでしょう。
一方、秀忠の朱印状で使用される大高檀紙(おおたかだんし)は、豊臣秀吉が自らの朱印状で採用した料紙であり、天下人を象徴する料紙でした。秀忠の朱印状は、先代家康が寄進した領地を安堵(保障)する継目安堵の意味を持ちましたが、有力な寺院とともに西金野井香取神社のような地域の有力神社にも、竪紙の大高檀紙が使用されました。秀忠が朱印状を発給した元和3年(1617)は、豊臣氏は滅び、秀忠はすでに征夷大将軍となっていましたが、各地には有力な大名もあり、徳川政権を盤石なものにしていく過渡期でもありました。将軍の発給する文書の形式を整えて、政権・領国支配を安定させていく時期にあったので、継目の安堵もより厚礼なものにしていったのでしょう。
西金野井香取神社に伝わる家康の朱印状からは、当時の家康の政治的な立場を読み取ることができるのです。
本当は、秀忠の朱印状と並べて展示しようかと構想していたのですが、スペースの都合でお披露目は見送りました。またの機会をお楽しみに。とはいえ、家康の朱印状が見られるのも7月2日(日)まで。お見逃しなく。
【令和5年夏季展示予告その2】第68回企画展示ーあなのあいた壺
令和5年の夏季展示についてお知らせします。
春日部市東中野の権現山遺跡で、昭和38年(1963)に発掘調査が行われ、方形周溝墓から底部穿孔土器が出土しました。これらは「権現山遺跡方形周溝墓出土底部穿孔土器」の名称で埼玉県の有形文化財に指定されています。
今回の展示は、発掘調査60周年を記念し、普段は埼玉県立歴史と民俗の博物館で展示されている権現山遺跡の底部穿孔土器を中心に墓から出土した土器を展示します。
*埼玉県立歴史と民俗の博物館は、施設改修工事のため秋まで休館中です。
●春日部市郷土資料館 第68回企画展示
権現山遺跡発掘調査60周年記念「あなのあいた壺」権現山遺跡の底部穿孔壺と墓で使われた土器
会期:令和5年7月22日(土)から9月3日(日)
開館時間:午前9時から午後4時45分
休館日:毎週月曜日・祝日・8月5日(土)午後・8月6日(日)
会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)
(関連イベント)
●記念講演会「権現山遺跡の底部穿孔土器と葬送祭祀」
権現山遺跡出土底部穿孔土器について、古墳時代に見られる葬送祭祀がご専門の古屋氏をお招きし、ご講演いただきます。
講師:古屋紀之氏(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター所長)
日時:9月2日(土)14:00から16:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員100人(申込順)
費用:無料
申し込み:7月11日(火)から電話(048-763-2455)、直接、電子申請
●展示解説講座
古墳時代の権現山遺跡出土底部穿孔土器を中心に、弥生時代の須釜遺跡の資料などについて、郷土資料館学芸員が解説します。
講師:郷土資料館学芸員
日時:7月29日(土)10:00から12:00
場所:教育センター視聴覚ホール
対象:定員50人(申込順)
費用:無料
申し込み:7月11日(火)から電話(048-763-2455)、直接、電子申請
●ミュージアムトーク
企画展示会場で郷土資料館学芸員が展示解説を行います。
日時:7月22日(土)、8月19日(土)、9月3日(日)各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用:無料
申し込み:不要
権現山遺跡の底部穿孔土器については下記の記事もご覧ください。
春日部に伝来した #松尾芭蕉 の肖像
元禄2年(1689)3月27日、奥州の歌枕を訪ねる「奥の細道」の旅に出立した芭蕉は、その夜、弟子の曽良とともに「カスカヘ」に泊まりました。 #かすかべプラスワン
現在開催中の春季展示「かすかべ人物誌」では、春日部ゆかりの歴史上の人物として、徳川家康・松尾芭蕉について展示紹介しています。展示は7月2日(日)まで。6月18日(日)には展示解説(みゅーじあむとーく)を開催します。
今回は、展示中の松尾芭蕉ゆかりの資料を紹介します。松尾芭蕉と粕壁の関係についてはこちら。
上の画幅は、市内に伝来した松尾芭蕉肖像です。肖像自体は、芭蕉の墓所・近江の義仲寺で刷られたものです。近世中期ごろから、芭蕉を偲ぶ「芭蕉忌」という句会が芭蕉の命日に各地で開かれるようになりました。この肖像画も「芭蕉忌」に際して義仲寺で刷られたものなのかもしれませんが、担当者が調べる限りでは同じ肖像の資料は見つかってなさそうですので、詳しくは不明です。
注目されるのは画像の上の墨書です。「稲つまに悟らぬ人のたうとさよ」と芭蕉の著名な句が記されています。署名は「素丸書」とあります。墨書は、溝口素丸という人物が書いたものであることがわかります。
この素丸、近世中期にそこそこ名の知れた俳諧の宗匠。葛飾蕉門と呼ばれる江戸周辺の俳諧の一派のドン、其日庵(三世)の名跡を名乗ります。彼の自筆の芭蕉の句が記された芭蕉の肖像の軸がなぜ春日部に伝来したのでしょうか。
6月18日(日)の「みゅーじあむとーく」では、その事情について詳しく解説する予定です。上の写真の資料のほかにも芭蕉の肖像が2幅と1冊並んでいます。展示は7月2日(日)まで。お見逃しなく。
展示名:春日部市郷土資料館(第67回)春季展示「かすかべ人物誌」
会 期:令和5年5月20日(土)~7月2日(日) 開館時間:9時~16時45分
会 場:春日部市郷土資料館 企画展示室(春日部市粕壁東3-2-15教育センター内)
休館日:会期中の月曜日
入場料:無料
関連事業:みゅーじあむとーく 6月18日(日)10時30分~、15時~
展示替の裏話
絶賛、市指定有形文化財「北条氏政の感状」を常設展示に出展中ですが、その裏話をちょこっと。 #かすかべプラスワン #博物館の裏話 #博物館の裏事情
展示のきっかけは、市の広報誌の「かすかべ今昔絵巻」の記事でした。入稿時の文章の末尾は「郷土資料館でもパネルで紹介しています」的な文章でしたが、せっかくだから「期間限定で」原本を出しちゃおう、というノリで今回の出品に至りました。こうして、郷土資料館は日々かわってゆくのです。
もう一つ。今回出品したものがあるということは、それと引替えに展示から撤収したものもあるということです。
北条氏政の感状を入れたケースには、もともと江戸時代の道中双六(レプリカ)が展示されていました。双六は残そうということになり、別のケースへ。双六を展示したケースに入っていた粕壁宿の絵図(レプリカ)が押し出されることになりました。粕壁宿の絵図(レプリカ)は、長く展示していたもので、粕壁宿の推定復元模型のジオラマと比較してみていただこうと、展示していたものです。日光道中粕壁宿を一見できる良質な資料なので惜しいのですが、仕方ありません。
ところで、資料(レプリカ)を回収したところ、うっすらと長方形の跡が!
展示では、くずし字の文字を解読したキャプションを資料の上においていたのですが、長い年月展示していたたため、キャプションのの跡がついてしまったようです。照明は紫外線カットのフィルター付きのもの、LEDライトを当てているのですが、レプリカとはいえ、印刷物の一種ですから、長い時間照明を当てていると色落ちしてしまうのですね。
資料館にいらっしゃるお客様から、たまに「展示室が暗い」「もっと明るくならないのか」とご意見をいただくこともあります。展示を見やすくすることは大事なのですが、私たちの努めは、資料を後世に伝えるということでもあります。今回の例で明らかなように、光に曝されると、目視できませんが資料は傷んでしまうのです。観覧される皆様もその旨、ご理解いただけると幸いです。
【臨時休館のお知らせ】
令和5年6月10日(土)は教育センターの施設点検のため、郷土資料館は休館となります。
ご迷惑をおかけしますが、ご注意ください。
6月11日(日)は通常通り開館します。
常設展示にあの戦国大名が登場!?
市の広報紙に「北条氏政の感状」(市指定有形文化財)が紹介されたので、期間限定で常設展示に展示しています。 #かすかべプラスワン
市指定有形文化財「北条氏政の感状」は、永禄12年(1569)3月14日に多田新十郎に与えられたものです。古文書の中身については別に譲ることにしますが、春日部市としては、市内に伝わる数少ない中世(戦国時代)の古文書の原本の一つです。
おすすめは、氏政の花押(かおう)です。本文の文字は、おそらく大名の書記官にあたる家臣が書いている可能性が高いですが、花押は本人の自筆(のはず)です。
前近代の人たちにとって、文書に自署することは、自分自身を文書に投影させることを意味することもありました(ちょっと言い過ぎかもしれませんが)。北条氏政の感状は、まさに戦国大名北条氏政自身といえるわけです。写真では伝わらない古文書の風合いを、この機会に心ゆくまでご堪能ください。
展示期間は7月末までを予定しています。
【 #6月2日 】 #今日は何の日?in春日部
今から378年前の正保2年(1645)6月2日(旧暦)は、江戸川が完成し通水をした日です。 #かすかべプラスワン
埼玉県と千葉県境を流れる江戸川は、江戸幕府による関東地方の河川改修の一環で開削された人工の河川です。
江戸川がいつ成立したのか。これは古くから学術的な見解がわかれる問題です。成立の年代の諸説として、寛永12年(1635)説(吉田東伍)、寛永17年(1640)説(根岸門蔵)、寛永18年(1641)説(清宮秀堅)、寛永12年起工・18年竣工説(栗原亮輔)が唱えられてきました。江戸時代前期の寛永時代の基本的な文献が少なく、参照する史料の性格の相違や、江戸川の上流と下流でも時期がずれることも説が分かれる理由の一つです。
ところで、市域の江戸川流域、かつて庄内領と呼ばれた地域には、開削当時の伝承を伝える江戸時代の記録が伝わっています。著名なものでは市指定有形文化財でもある「小流寺縁起」もその一つです。「小流寺縁起」は明暦3年(1657)に小流寺の開基・開山の由来について記した寺の縁起で、そのなかに寛永17年(1640)2月に幕府代官伊奈忠治の家来が利根川(江戸川)の改修工事のため川を見分したことが記されています。開削された時代のわずか十数年後に具体的な工事についての記述がされているため、歴史研究の世界ではよく知られた史料として扱われてきました。
また、同じく市指定有形文化財でもある元禄12年(1699)閏9月「西金野井香取神社領替地につき覚書」にも、寛永17年(1640)に「新利根川」(江戸川)の堀り替え工事が行われたことが記されています。
江戸時代の後期、地域の有力者(村役人)などに共有された手控え「庄内領三拾五ケ村高反別控帳」(郷土資料館所蔵)には、次のような記述がみえます。
庄内新田古来之事
右庄内新田之儀 寛永寅年より伊奈半重郎様御家来小嶌庄右衛門様御取立
寛永十七辰年より江戸川関宿より今上村堀迄、親野台辰より午迄三ヶ年、夫より正保二酉年六月二日新川村成就 水流し申候、正保元申年庄内領何村 名除いたし、草訳相成、戌亥慶安元子丑五ヶ年之間無年貢、其節之御役人左之通り(後略)
これによれば、庄内領の新田は、寛永15年(1638)に代官伊奈半十郎の家来小島庄右衛門によ
り取立られ、同17年(1640)から関宿から今上村(現野田市)まで江戸川が開削、「親野台」(現市内西親野井、野田市東親野井か)では開削に3か年を要した。
正保2年(1645)6月2日に江戸川が通水。同元年(1644)には「名除」(名附の誤写か)し、同3年(1646)から慶安2年(1649)の5年間(ママ)の年貢免除を経て、新田村が成立した、という。
本史料は文化年間(1804-1818)ごろに書写されたもので、記述に疑問が残る部分もありますが、他史料にも同様の記事もみえることから、19世紀の庄内領における開削・開発の記憶・伝承を記した記録といえます。江戸川の開削は、庄内領の人々にとって、自分たちが住む村の成り立ちとも関わる関心事でした。地元の人たちは、寛永17年(1640)に関宿から今上の開削が終わり、正保2年(1645)6月2日に通水をしたと考えていたようです。ほかの史料とも共通するのは寛永17年。おそらく、春日部近辺では、寛永17年ごろに江戸川が開削されたのでしょう。
そして興味深いのが、正保2年(1645)6月2日の通水。なぜこの年のこの日付なのか、十分な説明はできませんが、寛永17年の開削と同様、通水した出来事・日付を地元で脈々と伝えてきたのではないかと考えられます。別の史料では正保3年(1646)に舟渡しが命ぜられたとあるので、正保時代に江戸川は整えられたことになりましょう。
江戸川は、流通を支えた川として、自動車の物流が盛んになる戦後まで、人々の暮らしを支えてきました。
写真は、昭和11~13年ごろの西金野井の河川敷で撮影されたもの。ポンポン船がはしっています。
郷土資料館では、現在、江戸川の開削を伝える資料を展示しています。ぜひご覧いただければと思います。
過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版、3月14日版、3月27日版、4月28日版、6月3日版、6月10日版、7月31日版、9月16日版
【春季展示】みゅーじあむとーくを開催しました
5月20日(土)から始まった「かすかべ人物誌」展の初日、学芸員による展示解説(みゅーじあむとーく)を開催しました。 #かすかべプラスワン
午前、午後ともに多くの皆さまにお集まりいただき、徳川家康や松尾芭蕉など歴史的な著名人物の人気ぶりがうかがわれました。
解説では、家康の朱印状の形式や、家康が粕壁に来ていたことを伝える後世の史料、松尾芭蕉の肖像画幅、葛飾蕉門とよばれる俳諧一派の活動について、重点的にお話しました。
とくに俳諧・文芸について紹介していることもあり、普段とはちがって、文化文芸に関心の高い皆さんにご参加いただけた模様です。
次回のみゅーじあむとーくは、6月18日(日)を予定しています。ご興味あれば、ご参集ください。
【事務職員は見た】展示はこうして作られる!
春日部市郷土資料館では、年間4回程度の企画展を開催しています。
今回は、その作業風景を少しご紹介したいと思います。
展示が開催されるまでには、実はたくさんの苦労があります。
テーマを決め、構成を考え、必要な資料を集め、他館に依頼してお借りする場合などは資料運搬に伴う各種事務作業、キャプションを作り、担当者は意図をもって展示品を並べます。また、パンフレット・チラシ・ポスターを作成し、期間中の各種講座の準備もしなければなりません。
また、パンフレットやキャプションを作るには、当然ながら知識の集積・研鑽も欠かせません。
正直、“展示ってただ物を並べてればいいんでしょ?”と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、展示テーマ・展示品の選定はもとより、展示品の数、使用するもののサイズ、レイアウトなど、実は展示は担当者の個性が映る発表会の場でもあるのです。当館だけでなく他館においてもきっとそうだと思います。
展示のテーマに興味を持たれてお越しくださる方も多いと思いますが、そういった個性の違いも味わってみてはいかがでしょうか!
春日部市郷土資料館春季展示『かすかべ人物誌』は7月2日(日)まで開催中!
7月下旬には弥生時代から古墳時代をテーマにした企画展を予定しています!
ぜひ、郷土資料館に足を運んでみてください!