校長室より

校長室より

人生の決定権は子供です(ある詩より)

最近、ある教育関係資料から素敵な詩に出会うことができました。
直ぐに、職員にもこの詩を紹介しました。
作者は、皆様もよくご存じの作詞家 秋元 康 さんです。
秋元さんは、あのAKB48をプロデュースした人でもあります。
ご本人は小さい頃から東大を出て官僚になろうと思っていたが、紆余曲折して私立大学を中退して放送関係のアルバイトをしながら、今は本業として芸能活動を続けている方です。
詩の題名は、「芽の出る早さはちがうから」です。
秋元さん自身の生き方からこの詩が生まれたと思います。
人生にはもちろん正解はありません。
大人は自分の人生が上手く行かなかったことや夢を自分自身の子供に押しつけていないでしょうか。もちろん子供の幸せを十分に考えてのことですが。・・・・・            
「人生の決定権を持っているのは本人だ。」「僕にできるのは少しでも選択肢を増やすこと。」
学校でも家庭でも、子供達自身に「あなたは、どうしたいの?」と問うて、あたながよく考えて決定し、結果についても本人に納得させていく。そうありたいと思います。                 色々と考えさせられた詩ですので、ご紹介します。


   「芽の出る早さは違うから」 作詞家 秋元 康

子供は花の種。
同じ花の種でも芽の出る早さはそれぞれ違う。
小学校の一時期にクラスで何番かなんて
長い人生には関係ない。
妻は娘の勉強に厳しいけれど
僕は「まあ、いいんじゃないの」と見守る。
誰も隣の人を見て息を吸うのが速いとか遅いとか考えない。
皆、自分の体に合わせて勝手に呼吸している。
呼吸するように自分のペースで生きればいい。
人生に正解なんてないんだから。

僕は正解がないような仕事をしているから
正解がないことはすごく大事だと思っている。
親や大人たちはどうしても正解を求めがちだ。
一番やってはいけないと思うのは
子供を親の人生の雪辱戦に使うこと。

自分が甲子園に行けなかったから
本当はサッカー好きな子に野球をやらせたり
親の反対で自分の夢が叶わなかったから
娘を宝塚に入れようとバレエを習わせたり。
それは違うと思う。
逆に失敗したり苦労するのを心配するあまり
子供の夢や希望に耳を傾けないで
親が先回りして無難な道を歩ませようとする。
それも違うと思う。

僕の両親はしつけにとても厳しかったけれど
僕の意思を尊重してくれた。

大学を辞めようが、どんな仕事をしようが
僕が自分で決めて行動したことを
黙って温かく見守ってくれた。
そんな仕事がいつまでも続くわけがないと
茨の道が見えていたのかもしれないけれど
「茨があるから行くな」とは言わなかった。
だから僕もそうしようと思う。

もし娘にやりたいことができて
僕の目には茨の道と映っても、黙って見守ろう。
否、頑張れぐらいは言おうか。
もしかしたら彼女は
たくましく茨を跨いでいくかもしれない。
賢く茨を避けてゆくかもしれない。
茨で傷ついたそのときは
黙って手当てしてあげればいい。

たった一度しかない人生
やりたいことをやらせてあげたい。
人生の決定権を持っているのは本人だ。
僕にできるのは少しでも選択肢を増やすこと。
漫画家の友人も小説家の友人も
その道に入ったきっかけは些細なことだった。
些細なことを子供の周りにたくさん集めれば
ピンボールのようにコンコンと当たって
どこかで必ずチーンと花開くと思うのだ。

 


「夢中になる子」

子供達を見ていて夢中になれることは素晴らしいと思います。

学校の中では日々、様々な子供の姿を目撃します。

「夢中になる子」「熱中する子」「情熱を傾ける子」「打ち込む子」「はまる子」「集中する子」「時間が経つのを忘れる子」「陶酔する子」「無我夢中になる子」「楽しんでいる子」・・・・・

 孔子は、次のようなことを言っています。

「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」

(よく知る人も、好む人には勝てない。好む人も、楽しむ人には勝てない)

現代を生き抜く子供には、いかに小さい頃より人と上手に関わる力を身に付けることができるかが大事だと思います。コミュニケーション能力と言っていいかも知れません。では、いかにこの人と関わる力を付けるかは、「体験と感動」が大事であると様々な先人達も述べてきております。私も全くもって同感であります。

 さて、冒頭の「夢中になる子」とは夢中になれる何かをしている状態です。何かに没頭していることです。これこそが楽しんでいることなのでしょう。

孔子の教えのとおりに考えると一番強い状態にあります。

子供達は、小さい頃は色々なことに興味を持てる状態にあります。好きなことに出逢って夢中になっている状態がいかに素晴らしいことかは、大人になれば分かることです。

集中力とは、この幼少時の「夢中になる経験」によって大きく育まれます。

学校での学習や部活動でも、また、習字・絵画・合唱・合奏等でも、集中力のある子供は本当に上手になっていくパターンをしばしば見ます。

 

お天道様が見ている

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

7日の3学期始業式で私は「お天道様が見ている」のお話をしました。今の子供達は恐らくこのお天道様という言葉自体をほとんど耳にしたことはないと思います。

私はこの言葉の影響から幼い頃は、いつもどこにいても空から神様が見ているんだと思っておりました。周りに誰一人いなくても自分なりに良いことをしていると思った時は「どうぞ、神様(お天道様)見ていて下さい。」と口ずさんだものです。また、悪いことをしそうになった時(実は色々と悪戯等は沢山しているのですが・・・)は、「どうぞ、お天道様許して下さいね。」と祈ったこともありました。

 私の体験談は、次のようなことです。

小学生の低学年のある日、田舎のお爺ちゃんの家に泊まりがけで遊びに行った時のことです。お爺ちゃんの家は農家でした。畑で野菜や花を大事に育てていました。私は、昼間夢中になって田舎の広い庭を走り回っていました。翌日の朝ご飯の時、お爺ちゃんから突然に「悟、お前はきのう畑で遊んでいたな。」「遊んでいたよ」「花を踏まなかったか」「うーん、わからない」と言いました。私は本当に花を踏んだかどうかは、夢中に走り回っていただけに自分でも分かりませんでした。そして、静かにこう言ったのでした。「爺ちゃんは見ていなくても、お天道様が見ているんだぞ」

私はお爺ちゃんの言っている意味が分からず、後で母親に聞きました。

「お母さん、お天道様が見ているってどういうこと」

「それはね、人間はみんな良い心と悪い心の両方を持っているのよ。もし、悪いことをした時に周りに誰もいなくても空の上の太陽、つまりお天道様は必ずあなたの行いをしっかりと見ているのよ。お天道様とは神様のことよ

私はこんなに怖いことはないと思いました。私の行いを全て見ているなんて。
 

あれから50年ちかく経ちました。

自分の中にもう一人自分を冷静に見つめる神様を作ることは大事だなと今でも思います。

一小の子供達には、「どんな時も神様が見ているから、神様に恥じない生き方をしていきたいですね」と最後に言って結びました。

 

捨てることも大切<いかだ理論>

12月に入りいよいよ年末に近づくと大掃除をして部屋にある様々な物を整理整頓される人が多いと思います。

整理整頓と言えば、数年前に有名になった「断捨離」が浮かびます。

「断」とは、入ってくる要らないものを断つ。

「捨」とは、家にずっとある要らない物を捨てる。

「離」とは、物への執着から離れる。

さて、今回のお話はある教育雑誌に掲載されていた大事であった物でも捨てることが必要という

内容です。どこまで納得されるかはこの話を読んだ人によって違うとは思いますが、大事な物を捨てることの罪悪感を少しでも消すには一つの有効な考え方だと私は思いました。

 

 「ある人が旅をしていたところ、橋はなく渡し船もない大きな川に行き当たった。もちろん、泳いで渡ることもできない。旅人の目的地は川を渡ったはるか先にあり、どうしてもこの川を渡らなければならなかった。そこで旅人は、付近にあった葦(あし)や木の枝などを集めていかだをつくり、そのいかだに乗って川を渡り、無事に向こう岸に着くことができたのだった。」

 

 さて、旅人はこのいかだをどうすることが正しいのでしょうか。

そのいかだが自分にとって大変役に立った大事な物だとしても、そのいかだを頭に乗せて目的地へ進んで行くべきなのでしょうか。

 これより先は、いかだを捨てて目的地へ向かうことが正しいのです。いかだを大事に持って旅を続けることではなく、いかだに執着しないで捨てることなのです。

 大事な物でも、それがいかだかどうかを考え、いかだと考えた場合は、気楽に捨てることができないでしょうか。

 時代はどんどん進化しています。

 私自身も過去のいかだがまだ押し入れの中にあります。数年間、押し入れの中に入れっぱなしでも困らない物はきっと現実的に必要ない物なのでしょう。しかし、思い出の品としてやはりどうしても残したい物もあります。難しい問題です。

いかだを捨てる時は、手を合わせて「今までありがとう」と感謝していきたいと思います。

 

 

守破離(しゅはり)の意味とは

「守破離(しゅはり)の意味とは」

 

守破離(しゅはり)は、日本での茶道・武道・芸術等における師弟関係のあり方の一つで、日本文化が発展・進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。我孫子市内の中学校の武道場にもこの守破離(しゅはり)を壁に大きく掲げている所もある。

「守る」

最初は、師匠に言われたことを徹底して受け継ぐ。

型を守ることである。型を守る修行を行うことから始めるのが肝心
 である。

「破る」

その後、受け継いだ型を自分と照らし合わせていく。

自分に合ったより良い型を造ることで、既存の型を破る。

自分流の誕生である。

「離れる」

師匠の型を破り、そして自分自身が造りだした型の上に立脚した個
 人は、
型から自由になり型から「離れて」自在になれる。

 

今、どの学校現場にも若い先生方が増えている。

長く培ってきた教育技術も正しく適正に受け継がれていってもらい
 たいと願う。

ベテランの先生方の持っている教育技術を守り(受け継ぐ・盗む)
 そして若い
先生方が自分の技術に造り替え(破り)、自分自身が造
 り出した技術に立脚した
個性的な教員(離れる)に将来なっていっ
 て欲しいものである。

 

我孫子第一小学校の歴史と教育(その1)

千浜宗一郎校長と太鼓・校歌

 

 我孫子第一小学校の南門を出て約5分の場所に、杉村楚人冠記念館があります。

 その記念館が今年度の冬期企画展として10月12日(土)より約3ヶ月間「みんなで育てた我孫子の学校」を開催します。

本校は創立141年目を迎え、明治6年の開校以来の貴重な書や資料があります。

我孫子第一小学校の歴史を見ながら我孫子の教育を考えてみようという趣旨でこの企画展が実施されるのを受け、全面協力することはもちろんのことですが、子供達にも是非この機会に学校の歴史と我孫子の文化を知って欲しいものです。

 今回は、毎年の運動会で使用される大きな太鼓の由来と本校の校歌がいかにして出来たかについて考えてみたいと思います。

太鼓が鳴るよ 青空に 向が原の丘の上 集えよよい子 我孫子第一 学びの庭に眉あげて」これは、我孫子第一小学校校歌の一番の歌詞です。太鼓の音がドーン・ドーンと鳴り響いていたことでしょう。実はこの太鼓が学校に実存しているのです。今でも張りのある低い音色を出します。戦後の昭和25年、作詞された高橋掬太郎氏は、栄町を散歩していると一小から授業の始業を告げる太鼓の音を聞きこのフレーズが浮かんだそうです。軍歌に代わる歌、運動会や遠足などでみんなが明るく元気に歌える校歌が欲しいということから現在の曲が誕生したそうです。太鼓は当時の千浜宗一郎校長が満州に視察されたことを記念して昭和19年に造られたものです。

その千浜校長も戦争末期の昭和19年11月、40名の先生方が湖北校から手賀東部校へ研修に向かうため手賀沼を船で移動中に転覆し、19名の方と共に亡くなりました。丁度、お昼時に3艘の渡し船に乗って漕ぎ出したところ、突然風が強くなり、千浜校長は「動くな!立つな!」と何度も叫んだそうですが若い女性の先生方が多く、着物を着ていたことで身動きが取れず、寒い北風が吹いていたこともあり悲劇が広がりました。

この事件は、手賀沼殉難事件として今でも語り継がれています。

 

子どもを見守るということ

「父さんが いつも言う 今日の学校どうだった 

毎日聞かれるこの一言

 めんどくさいけど ありがたい」

 

この詩は、文部科学省が主催している「親子で話そう!家族のきずな・我が家のルール」三行詩の中で、昨年度の優秀作品の一つです。

書いた人は、広島県に住む中学2年生の女子です。

子どもは身も心も段々と成長していきます。

それに伴い、親子のコミュニケーションの取り方、間合いが難しくなってきます。

学校で担任している先生も同じです。

子どもと大人(親・先生)の上手なコミュニケーションの例えとして、川とそこに置かれている水車の関係が使われることがあります。

川の水は子どもです。時や場所によって水の量や勢いが違います。

水車は大人です。水車の目的は効率的に回転することです。

もし、水の中にどっぷりと水車がまるごと浸かっていたら上手に回転するでしょうか。

また、川の表面にほんの僅かしか接してなかったら回転するでしょうか。

微妙な距離感・接点がポイントになります。

高学年になり大人っぽくなった時、大人があまり干渉しすぎると

「わかったよ。うるさいな。」「もう、いいから。」と子どもは逃げるようになります。

大事なことは、大人が「あなたのことはいつでも、どんな時でも見守っているよ。」のメッセージを出し続けることです

直接的なことを指摘しなくてもいいのです。子どもに安心感を与え続ければ、自力で解決できることもあります。

三行詩のように、子どもは親の心は分かっているものです。

成長途上の子どもには、彼らなりの照れもあるのです。

「親の言っていることは面倒くさいが、心の中では有り難い」と思っているのです。

自己を忘れること

2学期の始業式で子ども達に次のようなお話をしました。

「今年の夏は凄い猛暑でした。我孫子市でも8月11日に39.2度の最高気温を観測しました。今はこんなに暑い日々を送っていますが、1ヶ月後には涼しくなります。日本には四季があります。

この四季があることは、実は素晴らしいことであり日本独特のものなのです。

では、皆さんは春夏秋冬が毎年巡ってくる中でどの季節が好きですか。」

子ども達は、自由に自分の好きな季節に手を挙げました。

鎌倉時代の道元和尚は、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」と短歌に詠んでいます。四季それぞれを楽しみなさい。あまり好きとか嫌いとかは思わない方が人生は楽しいですよ。自分の固定観念を取り除いて物を見ることが大切だと説いています。

学校で子ども達の様子を見てみると、こだわりが強い子が多いです。食べ物やゲーム、そして友達までも好きか嫌いと直ぐに決めてしまいがちです。一つの価値観だけを強く持ち続けていたら新しいものはなかなか入りません。良い意味で頭を空っぽにして2学期から新しい自分づくりをすることも大切です。

「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。

・・・・・・・・・」自分自身を究明することが、自己をならうことであり、書物から学んだことも捨て去ることが大事だとも説いています。

飛ぶ鳥は、飛んだという痕跡を空に残さないところから「鳥道」(ちょうどう)と呼ぶそうです。

教室の中で子ども達は、「自分が○○したんだ。最初にやったのは、私なんだ!」と言う言葉を聞くこともよくあります。自己主張が強い子どももいます。自己を忘れて相手のためにやると、最後は巡り巡って自分の徳になることを少しずつ学ばせてあげたいと感じます。

 

学校での不易と流行

本校は、明治6年2月に我孫子小学校として開校し、今年で創立141周年を迎えます。その後、尋常小学校・中央国民学校・第一小学校と名前を変えながらも我孫子の町の変貌と共に地域の学校教育を担ってきました。

先日、ある方から昔の貴重な教育関係資料を頂きました。

東北地方の宮城県石巻市にあった石巻尋常高等小学校長の錦織玄三郎先生が書き記した「当校教員注意事項」に深く感銘しました。

今から104年前、石巻にある小学校教育における教員の心構えが、平成の現代でも十分に通用し、しかも含蓄のある教えなのです。不易とは千年経っても変わらないという意味だそうですが、100年後の今でもその本質は全く同じとしか言いようがありません。

全部で17項目ありますので、その中でも私が特に感動し感銘を受けた10項目を出します。私の個人的コメントもその後に添えます。

1 手ぶらで教えよ

・指導書や指導案を見ながら授業をするなということです。授業の
    流れ
は全てを頭の中に入れておく。この「手ぶらで」という言葉が
    いいで
す。何かに頼るのは不安や迷いがまだ有るからです。

2 対話的に教えよ

・講義形式の授業ではいけないということです。教師の一方的な説
     明的
授業では子どもは飽きます。主役は子どもです。子ども同士
     の討論的
な発言では大変中身が濃くなります。

3 劣等生を愛せよ

・今は劣等生という言葉はもちろん使いません。この意味するとこ
     ろ
は、勉強の遅れがちな子どもこそ大事にすべきである。原因を
     見極め
なさいとも言っています。先生の教え方に原因がある.
 4 教育のために勤めよ

・教育とは子どもの為に行われるものである。校長や教育委員会等
     から
高い評価を受けようと思ってはいけないとのことだそうで
     す。
 

5 言葉遣いを丁寧にせよ

・軍国時代であったにも関わらず軍隊で使うような威圧的な言葉を
     使って
はいけない。美しい心は美しい言葉から生まれます。 

6 児童と遊べ

・当たり前のようなことですが、子どもと遊ぶことで心が通い合う
     ことが
大事であると言っています。子どもが心を開くには先ず遊
     ぶことです。
 

7 全校に目を注げ

・学級担任であるが組織の一員でもある。常に学校全体を考えて行
     動する。
学級王国はダメであるとこの時代から諭されていたこと
     に感動です。
 

8 品格を保て

・出会う人が自然に尊敬したくなるような気品を持ちなさいとのこ
     とである。
教育で一番大事なことは信頼である。つまり教師の人
     間性である。
 
9 児童に負けるな
  
・この意味するところは、学習も生活習慣も簡単に身に付くもので
      はない。
習慣化するまでは子どもとの根気比べだということで
      す。
 
10 事務は第二にせよ
   ・今も100年前も同じです。教員にも事務仕事は山のようにあり
     ます。
どんなに忙しくても授業が第一であるとの教えです。

 


我孫子について

6月の全校朝会で「我孫子」についてお話をしました。

私は、昨年の夏休みに成田線に乗って我孫子駅に向かう電中で、

次のような会話を聞きました。

70歳位のご夫婦(お爺ちゃんとお婆ちゃん)と40歳位の息子さんが、スーツケースを持っていましたので、恐らく海外旅行から成田空港へ戻り東京方面へ帰る途中だと思いました。

我孫子駅のホームにつく直前に、車内のアナウンスがありました。

「次は、終点の我孫子(あびこ)でございます。」

その時、息子さんが「えー!あびことは読めないな。
どう見ても
ガソンシだ!」
と言いました。

私は、びっくりしました。

普段当たり前にあびこと読んでいたことが当たり前ではないこともあるのだ。

何代か前の我孫子市長さんも東京である会議に出た時に、あびこと呼んでくれずに同様にガソンシと読まれたと言っています。

この我孫子という地名は、全国的にも非常に珍しい名前なのです。

 

次にこの数字を読んでください。

「16」

では、この16という数と我孫子の名前とはどういう関係があると思いますか。

北は秋田県から、南は九州の長崎県まで日本全国に「あびこ」という地名がある場所の数です。

この珍しい「あびこ」の地名はなんと全国でも16カ所もあります。
千葉県では房総半島の長南町に我孫子という地名があるそうです。

 

次にこの数字を読んでください。

「1313」

いつの時代から、我孫子という地名が正式に使われたかです。

鎌倉時代の末期1313年の古文書に「しもふさのくに あひこのむら」と書かれています。

昔は「あびこ」ではなく「あひこ」と読んでいたようです。

本当は、もっと昔から呼ばれていたのかもしれません。

「あびこ」とはどういう意味かを調べてみると、

昔、天皇や貴族などの偉い人に食事係などの仕事をしていた人達を「あびこ氏」と言っていたそうです。

その人達が住んでいた所を「あびこ」と呼んでいたという説もあるそうです。

また、「網を引く、あびき」という職業の名前からついたという説もあります。

様々な説があり、あびこ学として熱心に研究している人もいるくらいです。

 

最後の数字です。次の数字を読んでください。

「3000」

全国にある人の名前で「あびこ」という名字の家族の数です。

約3000軒の家があるそうです。

ちなみに、今の我孫子第一小学校の皆さんの中には、「あびこ」という名前の人はいません。
現在は、我孫子市内でもほんの数軒だけだそうです。