校長室より

校長室より

チーム一小で一小っ子を育てる!

我孫子第一小学校に着任して一ヶ月が過ぎようとしています。566名の子ども達が学習や生活を
その学年なりにしっかりとスタートすることが出来ました。
先日行われた「総会」でもお話しましたが、今年度は、以下の重点に沿って教育活動を進めてまいり
ます。

「安心・安全」を大切に、「希望の登校・満足の下校」を心掛け、学校教育目標達成にために
47名の教職員が一丸となって、一小っ子を磨き鍛えます。

教育目標
   豊かな心でたくましく生きる子どもの育成
29年度
      「やる気 根気 元気 はたらき」4本の木を大きく成長させる。
そのため大切にすること
     教職員・・・ 1 わかって楽しい授業づくり     2 特別支援教育の充実
     児童・・・・ 1 あいさつ  2 清掃  3 歌声  4 靴と傘をそろえる
            5 時間を守る 6 外遊びをする    7 整理整頓

知・徳・体の重点については、今後少しずつお伝えしてまいります。
一小っ子の頑張りを少しずつアップしてまいりますので、給食の献立と共に「新着情報」を
ご覧下さい。

29年度ご協力の程、よろしくお願いします。
                              山口 祐子

ゲーム依存症

子どもがスマホに触れ始めた年齢は、47%が2歳以下である。

ほぼ毎日スマホに触っている子どもは、31%である。

3歳の子どもが、親の指の動きを見て覚え、画面ロックのパスを知った。

数日前の読売新聞の記事です。

母親が家事で忙しい時、子どもにスマホやタブレットを与えておくと家事がはかどります。

取り上げると癇癪を起こすのでなかなか取り上げることができなくなってしまうそうです。

 

電車の中でも、ほとんどの客は腰掛けてスマホを操作しています。

スマホをいじっていない人の方が圧倒的に少ないのが現実の大人の世界です。

「スマホを持ってないと仲間と繋がれない」のが中学生・高校生の現実です。

もう、私達は機械を利用しているのではなく、縛られているように思えます。

では、身近の子ども達の現実はどうでしょうか。

 

 我孫子市内の小中学校でも同じような問題は実際起きています。

スマホを使ってのゲームを毎日、何時間もする子どもがどの学校にもいます。

スマホのゲームが生活の中心となっている子です。

ゲーム依存症です。

ゲームなしではもう生きていられなくなってしまった子どもです。

中学生の中には、心療内科の病院に強制入院させて治療をしなければならない子も出てきました。

小学生でもゲームから引き離す為、キャンプに1週間参加させる子もいます。

この現実を私たち大人は、どう考えたらいいのでしょうか。

子どもの問題は、突き詰めれば大人の問題でもあります。

テレビのコマーシャルでは、新しいスマホゲームの宣伝がやたらと多いです。

あれだけテレビで宣伝され、仲間が楽しそうにやっていたら「やるな」と言う方が難しいです。

ゲームを始めると次第に夢中になります。ゲームを達成すると脳からドーパミンがどんどん出てきます。ワクワクし、高揚感に満ちてきます。

そして更に、脳がゲームの刺激を求めるようになります。

際限なく刺激を求めると同時に、他の活動(学習や運動、規則正しい生活等)への興味が薄れてきます。

ゲーム中毒の子どもの脳は、麻薬中毒の人の脳と似ているとも言われています。

 

アメリカで「スマホ18の約束」という文書があります。

ある母親とその子どもとの約束した内容です。

とても分かり易く書かれ、何が本当に大事なのかを考えさせられます。

一部を紹介します。

〇このスマホは私が買ったのよ。あなた(息子)に貸しているだけです。

〇パスワードは私が管理しますよ。

〇学校に持って行ってはいけません。メールする友達とは直接お話しなさい。

 会話は人生のスキルです。

〇お友達に面と向き合って言えない言葉はメールで送ってはダメよ。

〇時々、スマホは家に置いていきなさい。携帯は生き物でもあなたの一部でもないの。

 これなしでも暮らしていけるのよ。取り残されるのを恐れず、器の大きい人間になりなさい。

〇約束を守れなかったら没収します。もう一度使い方を話し合い、はじめからやり直しましょう。

 

 

もう一人の自分発見

 「座」という漢字をよくみて下さい。

この漢字は、土の上で人と人とが対面している様子を象形文字として描かれています。

一人は「現実の自分」であり、もう一人は「見えざる自分」が対面して座っているのです。人は常にもう一人の自分と対話しています。私など常に「これで本当にいいの」「まぁ、いいか!」「なんでもっとしっかり準備をしておかなかったのだろう」時には「速く忘れてしまおう」ともう一人の自分との会話が延々と続きます。本当の自分はどこにあるのかと思ってしまうこともあります。

 教育とは、もう一人の自分を発見させることにあるとも言われます。

子ども達は、まだまだ全ておいて未熟であり経験不足であり、自己確立ができていません。

小学校時代は、自分づくりに必死な時期だと思います。

自分は本当は頭がいいのか。やればできるのに努力をしていないだけなのか。

自分は本当は運動が好きなのか。上手だと煽てられていることに気づいていないのか。

自分は本当は性格がいいのか。他人から「いい人ね」と言われたいだけなのか。

 自分の中にもう一人の確かに信じられる自分を持っている人は、強いと思います。

もう一人とは、きっと「自分の中の見張り番」でもあるからです。

人は、自分のことを自分で管理しなければ生活できません。家や学校でも親や先生や友達に厳しくアドバイスをもらえる時はいいです。しかし、いつも見張り番がいるとは限りません。

人間は弱いです。

手を抜きたい。サボりたい。楽をしたいと思ってしまいます。

大人になるとは、厳しいもう一人の自分を作っていくことなのかな、とも思います。自分としっかり向き合い、もう一人の確かに信じられる自分と対話していく。

対話していく中で、価値ある本物の自分が作られていく。

心が成長することです。

 諺の一つに「人には優しく、自分には厳しく」があります。

まさしく、もう一人の厳しい自分が甘い自分を諫めているのです。

自分のことは、自分自身が一番分からないし、知らないとも言われます。

小学生の子どもには、日々の生活の中で「僕もやればできるんだなぁ!」「私にはこんな力が実はあったんだ!」「自分をうんと褒めたい!」という場面をいっぱい作ってあげることが大事だと感じています。そのために、数多くの色々な経験(学習・スポーツ・習い事等)をさせることがその第一歩のような気がします。

より多くの厳しい自分・意外性を持った自分・不思議な自分と出会えるような環境を作ってあげたいものです。

私は還暦を迎えて、「人生の尺度」を自分で持つことが必要だと感じています。

この歳になると、自分は自分、他人は他人と割り切ることの大切さも実感してきています。

 

 

人生100年の時代 ~子ども達の生き方~

2007年(平成19年)生まれの子どもの半数は、107歳以上生きると予想される調査結果が国連からでました。

今後、日本の小学生は、「本当に100歳まで生きる時代」だということです。

「人生100年」をどう過ごすか。

普段はあまり深く考えませんが、実に大事な問題でもあります。

 

そもそも日本人の寿命はいつ頃から延びてきたのでしょうか。

織田信長の時代は、「人生50年」と言われておりました。

でも実際には、

明治・大正時代でも、40歳台(42歳位)でした。

太平洋戦争後、昭和22年に始めて50歳を超えました。

私の生まれた1957年は、男性63歳、女性67歳でした。

そして今は、男性81歳、女性87歳の時代です。

こんなに長生きになったのは歴史的にみれば最近の話なのです。

日本人は、10年間で2年~3年位の割合で平均寿命が延び続けているそうです。

しかし、生物学的には今のところ110歳から120歳位でこの延びは止まるかもしれないみたいです。

 

1月10日の始業式で、子ども達に「人生100年」の話をしました。

「皆さんの大部分は、100歳以上生きられるようです。」

そして、次のような質問をしてみました。

「皆さんにとって、100歳以上の長生きが本当に得ですか。

それとも損ですか。

どちらかに手を上げてみて下さい。」

私の予想では、ほとんどの子どもは得だと思うに手を上げると思っていましたが、

高学年の子は、損だと思うに手を上げる子もおりました。

理由は、この後教室で担任の先生と話し合ってみて下さいと言って終わりました。

高学年で損だと思う子の理由は、

・病気になって長生きするのは辛い。

・仲間が死んでいるのに自分だけが生きているのは嫌だ。

・寝たきりの老人になるのは嫌だ。

・食べたり生活したりするのにお金が掛かる。

 

想像以上に現実的でした。

将来、子ども達が不幸なのは、

過去のモデル(長寿時代の経験則)がない時代になっていくことです。

先生方やお父さん・お母さんの生きてきた時代ではベストな生き方が、

長寿時代の未来を生きる子ども達にとってはベストではないかもしれないということです。

学ぶ(学校)、働く(職場)、引退する(余暇・生涯学習)のローテーションが今後どのように変化していくのでしょうか。

 

子どもは全力で走る(走ることの意味)

 12月7日(水)好天に恵まれました。本校の敷地内(グランドとグリーンウォール)で持久走大会を実施することができました。寒さが厳しい日でしたが、大勢の保護者も参観され子ども達に激励の拍手と歓声を頂きました。

緊張の中、スタートしました。走る距離は低学年750メートル、中学年1050メートル、高学年1350メートルです。時間にして速い子で4分から5分程度です。

目的は体力づくりの一環です。文部科学省の指導要領には、「無理のない速さで走る」と記されていますが、子ども達はスタートから全力で走ってしまいます。学校で昼休みの校庭を見ていると鬼ごっこやサッカー等で走り回っている子が大変多いです。大人は意味なく走ることはないですが、子どもは走るのです。廊下でも走ってしまい注意されます。日常的に走るのが好きな子どもでもこの持久走は嫌いと思っている子は結構います。

11月下旬、校内研究授業で2学年が、「タイムを意識し、自分の一定のペースを保ちながら走れるようにする」ことを目標においた体育授業が行われました。私は、大変に興味深く授業を見ました。グランド1周のタイムを3人組でお互いに記録します。自分の設定タイム(楽に走れるマイペース)を作り、それを守れていれば○が付き設定タイムより速かったり遅かったりすると×になります。全部に○がつく子はやはり少なかったです。自分のペースが上手に作れなかったり周りの子のペースに惑わされてしまったりするようでした。

12月5日(月)最後の全校持久走練習の時、私は子ども達に三つの事を話しました。

全員が必ず自分の目標を持って走ること。1位、10位以内、20位以内、昨年の順位より上、試走の順位より上、最後まで歩かない等です。本当なら時計を持って走るか、大きな電光掲示板でもあればそれを見ながら走るか、タイムを基準にして走らせたいところです。

苦しい時は頑張り、痛いときはやめる。当然、長い距離を走るので心臓や肺に負担がかかりますので苦しいのは当然です。しかし、膝の痛みや心臓等が痛いと感じたら即、勇気を持って走るのをやめるように言いました。何よりも安全が第一です。

スタートは要注意、前の人を押さない。スタート順は最前列より試走の結果で速い人から順に並んでいます。列の間隔を大きく取りスタート時に転倒して怪我人が出ないようにしました。

今回は、幸いにもスタート時での転倒はありませんでした。

低中高学年別に持久走大会の閉会式を体育館で行いました。10位以内の子ども達は表彰されました。悔しくて泣いている子、笑顔で満足している子、スタート直前に気分が悪くなり走れなかった子、様々なドラマがありました。


  高学年閉会式の校長挨拶で私は次のことを話しました。

毎年ノーベル文学賞候補者に挙がっている作家の村上春樹氏は、30年以上毎朝10キロ近く走っています。世界中のフルマラソンや100キロマラソンにも参加しており、「走ることについて語るとき、僕の語ること」という本で走る小説家としての想いを書いています。

村上氏が走る時の目標は、三つあります。歩かないこと。ゴールすること。レースを楽しむこと。

私自身も遅い市民ランナーの一人として、今までこの三つを目標に走ってきました。

本の中で、強く印象に残った言葉を引用します。

「苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。」

「本当に価値あるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。」

「どれくらいの充足感を持って42キロを走り終えられるか、どれくらい自分自身を楽しむことができるか、おそらくそれが、これから先より大きな意味を持ってくることになるだろう。」

 走ることとは、哲学なんだ・・・・と思いました。