ほごログ(文化財課ブログ)

2021年9月の記事一覧

資料館にとろ★りんが遊びにきました

9月17日(金)、とろ★りんチャンネルの取材をうけました。

「とろ★りん」は、「春日部やきそば」のイメージキャラクターで、キモカワ系ゆるキャラとして、2010年から活動しています。そして「春日部やきそば」は、あんかけやきそばに市の花「藤」をイメージしたしそふりかけをトッピングしたやきそばで、市内の多くのお店でいただくことができます。

 

さて、youtubeとろ★りんチャンネル(youtubeへリンク)の取材に、とろ★りんが資料館へやってきました。

 

「とろ★りんチャンネル」は、NPO法人春日部藤源郷(かすかべとうげんきょう・公式サイトへリンク)のみなさんが運営されています。2020年12月の開始以来、春日部の名所、名店、いいところを次々と紹介されています。

また、NPO法人春日部藤源郷は、「春日部やきそば」と「本格焼酎 かすかべ藤乃彩」を、市内外へ広く広めるために設立された団体です。

とろ★りん玄関前

 

とろ★りん入口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とろ★りんには、資料館の縄文時代の竪穴住居の模型と、江戸時代の粕壁宿のジオラマを見てもらいました。

ちなみに、日本でやきそばが現在のように一般に普及するのは昭和時代、終戦後のようです。 

とろ★りん竪穴住居前

とろ★りん宿場模型前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近日公開予定ですのでお楽しみに。

とろ★りんチャンネル 

「須釜遺跡の弥生土器」が埼玉県立歴史と民俗の博物館「埼玉考古50選」に出展

9月15日、埼玉県立歴史と民俗の博物館に須釜遺跡出土の弥生土器を貸し出しました。

埼玉県立歴史と民俗の博物館では、下記のとおり、10月9日(土)より「埼玉考古50選」展が開催されます。

須釜遺跡の弥生土器はこちらの展示会に出展されます。

●博物館開館50周年記念「埼玉考古50選」

埼玉考古50選チラシ

期間:令和3年10月9日(土)から11月23日(火・祝)

時間:9:00から16:30

会場:埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区高鼻町4-219)

*東武アーバンパークライン(野田線)大宮公園駅より徒歩5分

観覧料:一般600円 高校生・学生300円

埼玉考古50選(埼玉県立歴史と民俗の博物館サイト)

 

 

 

 

 

埼玉考古50選チラシ(チラシ画像をクリックするとPDFが開きます) 

 

須釜遺跡は市内北部の倉常に位置します。
「再葬墓」とは、縄文時代の終わりごろから弥生時代の中頃にかけて関東地方から東北地方において広まったお墓の形です。人が亡くなった際、一度、遺体をそのまま土に埋めたりして葬(ほうむ)りますが、一定の時間がたったのち、その遺体を掘り出して、さらに骨だけにし、再び葬るものです。「再び葬る」ことから「再葬墓」と呼ばれています。

この「再葬墓」が須釜遺跡では11基検出され、完全な形に近い弥生土器、総数29点が発見されています。埼玉県東部地域では、弥生時代の遺跡はあまり発見されていないことから、須釜遺跡の遺物は平成17年に「須釜遺跡再葬墓出土遺物一括」として埼玉県指定文化財となりました。

「埼玉考古50選」では、1号再葬墓と2号再葬墓から発見された土器が展示されます。土器の表面に残った稲籾の圧痕の説明などもあるようです。

埼玉県立歴史と民俗の博物館は、東武アーバンパークラインの大宮公園駅が最寄りとなります。コロナ対策を十分とっていただいて、お出かけいただければ幸いです。

須釜遺跡の土器

須釜遺跡再葬墓出土の土器

 

須釜遺跡については過去のブログでも紹介しております。

須釜遺跡再葬墓出土遺物一括-指定文化財でめぐる春日部

【常設展】須釜遺跡出土土器を展示替えしました

 

 

夏季展示が遺したもの

夏季展示「桐のまち春日部」展も終わり、ただいま資料返却の旅の最中です。資料をお貸しいただいた方々から、「いい展示だったね」「お役に立ててよかった」と感謝のお言葉をいただき、本当によかったなと思う毎日です。 #かすかべプラスワン

様々な方に巡り合い、お話しが聞けて、春日部の桐産業の理解が深まったこと、あるいはこれから深めていくきっかけになったことが、資料館として何よりの財産になったわけですが、ほかにも目に見える形で夏季展示を活かしていきます。今日は2点ほど、夏季展示を継承する成果を紹介します。

第一 桐箪笥のリーフレットを一新しました。

画像:新しくなった桐箪笥のリーフレット

今回の調査を受けて、より見やすく充実した内容に一新しました。まだ前の範の残部がありますので、在庫がなくなり次第配布します。小学校の地域学習の課題などにお役立てください。表紙には、桐箪笥から登場する郷土資料館あんない人の「うめわかくん」が!「うめかわくん」でなく「うめわかくん」です。

 

第二 桐箪笥のカンナくずを活用した体験講座の開発に着手しています。

桐箪笥屋さんから廃材となるカンナくずをご提供いただき、これを活かして何かできないかなと、展示期間中、職員一同頭をひねっていました。そして、たどり着いたのがカンナくずでつくったバラのブーケです。

 画像:カンナくずでつくったバラのブーケ

以前、実習生がしれっと紹介していましたが、もっと注目されてもいいモノだと思いますので、紹介させてください。

カンナくずを丁寧に折って花びらにし、これを組み合わせて「バラの花」に仕立てました。教育センターの清掃員の方からも大変好評です。先日、箪笥職人さんにもご披露したところ、大変喜んでくださいました。

春日部の象徴である「桐」の廃材を再利用して、美しいバラにする、まさにSDGs未来都市に相応しいといえましょうか。今はどのように事業化すればよいか思案しているところです。

これからも、展示の成果を郷土資料館の活動に活かしていきたいと思います。

【9月16日】 #今日は何の日? in春日部

今から74年前の9月16日は、カスリン台風による水害が発生した日です。 #かすかべプラスワン

昭和22年(1947)9月14日朝から降り出した雨は、15日には強くなりました。いわゆるカスリン台風(カスリーン・キャサリンとも)による豪雨です。台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつありましたが、台風の接近に先立って秋雨前線が活発化し、豪雨がもたらされました。この間の雨量は秩父で県内最高611ミリメートルを記録しました。

16日0時20分ごろには利根川流域の栗橋(久喜市)で水位が9メートル以上に達し、その10分後、埼玉県東村(現加須市)の新川通地先で、堤防が350メートルにわたり決壊、洪水は古利根川筋を南下しながら、埼玉県東部(中川低地)を飲み込み、東京都江東区まで進行しました。

当時の状況は『昭和22年9月埼玉県水害誌』(以下、『水害誌』)に詳しくまとめられています。

これによれば、春日部市内に利根川の洪水が実際に達したのは、9月16日の午後から夕方ごろのようです。東村の堤防決壊から半日あまり時間が経過していました。とはいえ、幸松村では、洪水が達する以前、午後2時頃から新倉松落や旧倉松落などの水路が相次いで決壊するなど、大雨による河川の逆流などもあり、被害が出ていたようです。

16日の夕刻を過ぎると、南桜井村・幸松村で浸水がはじまり、午後11時には春日部町境の隼人堀が氾濫し、内牧・梅田でも浸水が始まります。17日午前0時には宝珠花村の水田が濁流で浸水、午前5時には春日部町の川久保地先で古利根川が決壊し、町域の南部・町並の一部が浸水しました。午前10時には古利根川の春日橋が流失、午前11時には豊野村に幸松村方面から押し寄せた濁流により、全村浸水。同刻には武里村の字備後で古利根川が越水(午後1時決壊)。正午には川辺村の字水角・赤崎・飯沼・米崎、米島・中野(現東中野)の一部が濁流に覆われました。

利根川の洪水(濁流)の進行の経過は、『水害誌』所収の図に図示されています。古利根川や庄内古川を画して、濁流の進行状況が異なったことがうかがえます。赤い実線は16日、赤い破線は17日の洪水進行状況を示しています。読み取りづらい部分もありますが、市域では古利根川以東の地域の濁流進行が早く、豊春村・武里村では徐々に浸水が進行していったようです。また、台地や発達した自然堤防などの高台は浸水を免れたこともわかります。

 画像:浸水図

『水害誌』の付録である『附録写真帳』には当時の貴重な写真が掲載されています。下の写真は武里村で撮影されたものです。武里村の水防団が警戒する様子がみえます。このほかの市内の写真は「かすかべデジタル写真館」で紹介しています。

写真:武里村の状況

浸水位(深さ)は幸松村で「床上六尺以上」(床から約180cm)と報告されています。市内では6日以上湛水(水がひかない)地域もあり、高台や水塚(土盛りした建物)の上で生活する方も多く、1か月もの間避難する方もいました。農作物や橋の被害、家屋の浸水、流失・半壊する家も多くあり、大変な被害をもたらす災害となりました。また、水が引いた後の掃除も大変だったとの聞き取り記録もあります。

カスリン台風の発生から70数年が経過し、災害を経験した方も少なくなってきています。カスリン台風時には、明治43年(1910)の水害を経験した方がまだご存命で、その経験で助かった命も少なくないと聞いています。先人の経験をきちんと知り、伝え、それを学ぶことで、私たちやみなさんの暮らしの「備え」にきっとなるのではないかと思います。

春日部市では、最近「災害ハザードマップ」をリニューアルしました。こちらもぜひお目通しください。

 

参考文献 『昭和22年9月埼玉県水害誌』(埼玉県、1950年)、『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会、2013年)、カスリーン台風70年特集サイト(カスリーン台風70年実行委員会)

過去の今日は何の日?in春日部シリーズ→1月1日版3月26日版4月28日版

【常設展】プチ展示替しました【樋籠村の #村絵図 】

今回展示替したのは、常設展示室の最奥「江戸時代の村々」と「水とのたたかい」のコーナー。地味なコーナーですが、現代の春日部の暮らしに直結する重要な展示です。陳列したのは2点。いずれも近世文書です。しぶ~い展示ですが、どちらも新出史料で、史料集などに掲載されても不思議でない良き史料です。 #かすかべプラスワン

写真:展示風景

今回は、そのうちの「水とのたたかい」コーナーに展示した、武蔵国葛飾郡樋籠村の村絵図を少し紹介。地名は「ひろう」と読みます。

展示した資料は寛保元年(1741)9月の絵図です。中川低地に位置した、江戸時代の樋籠村の景観が見て取れ、低地の村落の人々が水害の脅威といかに対峙していたかが読み取れます。また、絵図中には、かつて葛西用水として利用されていた「悪水堀」「小古堀」が描かれ、村の西端に描かれた倉松落には「葛西用水堀」と注記され、江戸時代の中川低地の灌漑を支えた葛西用水の変遷を考える上でも重要な資料だと思います。

樋籠村絵図

大変興味深い資料ではありますが、これまで展示公開されたことがありませんでした。この機会にぜひご覧ください。

機会があれば古文書講座のテキストにして、市民の皆さんと読んでみたいとも思っています。

臨時休館のお知らせ

9月18日(土)から9月21日(火)は、燻蒸作業を行うため郷土資料館は休館いたします。

ご迷惑をおかけしますが、ご理解いただきますようお願いいたします。

*18日(土)~20日(月)は、教育センター全館立ち入り禁止になりますのでご注意ください。

*21日(火)は、郷土資料館は休館となりますが、教育委員会事務局は業務を行っております。 

 

 

【動画】「春日部市の昔と今」公開中!

郷土資料館ホームページの「かすかべデジタル写真館」の古写真が活用され、市の公式動画チャンネル「かすかべ動画チャンネル」に、動画「春日部市の昔と今」が公開されています。 #かすかべプラスワン

この動画は、令和3年度の敬老会の中止に伴い、高齢者支援課により制作・公開されたものです。古写真を現在のまちの様子と比較していて、さまざまな世代の皆さんがお楽しみいただけるものと思います。いよいよ、郷土資料館もyoutubeデビューです。出典元の「かすかべデジタル写真館」も合わせてご活用ください。

武里大枝公民館で「神明貝塚の巡回展示」を開催しています

9月7日(火曜日)より武里大枝公民館にて「神明貝塚の巡回展示」を開催しています。

 

武里地区においては県指定無形民俗文化財の「やったり踊り」(大畑)が馴染み深い地区ではありますが、前回の豊野地区同様に「遺跡」は確認されておらず、また神明貝塚の所在する西親野井地区とも市内の中でも遠いところに位置しています。

 しかし、市内にたくましく生きた縄文人のなりわい、食生活、そして国史跡になった大規模な貝塚を多くの市民の皆さまに知っていただきたく、土器や石器、貝類の実物、縮尺1/150のジオラマ、盛りだくさんの解説パネルを用意しました。 

今回の展示場所である武里大枝公民館は、かつて「東洋一の団地」とも称された武里団地の中に所在しています。武里地区での神明貝塚の知名度を上げるべく、是非多くの方々にご覧いただきたいと思いますが、その際には新型コロナウィルス感染拡大防止にご協力いただければと思います。

 

展示の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展示場所:武里大枝公民館 1階ロビー左手

展示期間:9/7(火)~12/19(日) ※月曜・祝日また選挙投票日等は休館 

開館時間:8:30~17:15

明日 #ミュージアムトーク やります

令和3年9月5日(日)をもって、夏季展示「桐のまち春日部」展もいよいよ最終日。最終日は、展示担当学芸員によりミュージアムトーク( #展示解説 )を開催します。 #かすかべプラスワン

時間は10時30分~と15時~の2回。「語り出したらキリがない」ので60分ほどになるかと思います。解説を聞きたい方、ご自分の体験談を聞いてほしい方、お付き合いいただける方をお待ちしています。もちろん予約不要、費用はかかりません。

元・桐材屋さんから資料を寄贈いただきました

おかげさまで「桐のまち春日部」展もたくさんの方にご覧いただき、なかには関係者の方もちらほら。先日、夏季展示「桐のまち春日部」展をご覧いただいた、市民の方から資料を寄贈いただきました。

お話をうかがったところ、以前、粕壁で桐材店を営んでいた方でした。

その昔、郷土資料館にも、桐材店に関連する道具を寄贈いただき、その一部は「桐のまち春日部」展でも展示しています。展示をご案内したところ、ご来館いただきました。ご来館された方は、桐材店の娘さんでしたので、直接ご家業に携わっていたわけではなかったようですが、展示資料をご覧いただき、「懐かしい」「○○さんという名前聞いたことがある」とお話しいただきました。

ご来館の折、ご持参いただいたのが今回ご紹介する資料です。資料は、昭和50年ごろに夏休みの自由研究の成果(模造紙)です。自由研究のテーマは「春日部桐箪笥のできるまで」。当時、小学生だった桐材店のご子息が家業の仕事の風景を写真で記録し、模造紙に貼り付けまとめたものです。桐材店のご子息が調べた内容もさることながら、とりわけ貴重なのは写真です。そこで、今回その写真を紹介します。

写真:桐の丸太

まずは、桐の丸太の写真です。工場には、大量の丸太が山積されていたそうです。

桐は丸太のまま乾燥させ、そのあと、製材・製板していくことになるようです。

写真:製板された桐材

次は、製板された桐材です。屋根が映り込んでいるので長い板であることがうかがえます。

板を乾燥させているところのようです。桐は雨ざらしにしてアク(シブ)を抜かないと製品になった後に変色してしまうそうです。板を斜めに立て掛ける干し方は、面積をとるため、広い敷地がないとできないと聞いたことがあります。

写真:木取り

つづいて、工場内部の写真。木取りをしている場面のようです。

丸鋸盤で板材を必要な寸法に切ります。木取りが箪笥を製造する上で重要なことは以前紹介しました。

写真:箪笥の枠組み

つづいても工場の中。箪笥のワクを組んでいるところです。

職人さんは、「アツイタ」とよばれる作業台の上で生地を組んでいきます。

ホゾを組むときや、木釘をうちつけるときには、木槌やトンカチ(ゲンノウ)が使用されます。

「トントントン」と、リズミカルで心地よい音が聞こえてくるようです。

ところで、最近の箪笥屋さんは、「箪笥屋さん、儲かるかい?」「トントントントン、トントンのカミ」というそうです。意味は、箪笥を一生懸命「トントン」と組んでも、儲けは「トントン」(差し引きゼロ)だということです。

かつては、「箪笥屋さんかい?神様かい?天皇陛下のオジサマかい?」といったほど、春日部の箪笥産業は盛んでしたが、近年は手間賃が安く箪笥屋さんの景気もあまりよくないとか。聞き取り調査の折に、こんな話をうかがったこともあります。

話は脱線しましたが、「桐のまち春日部」展は9月5日まで。あとわずかですが、春日部の桐産業について、まだまだ、わからないことが沢山ありますので、関係者の方、ぜひ教えてください。

小渕・観音院の聖徳太子立像

夏季展示「桐のまち春日部」展で展示中の聖徳太子立像(小渕・観音院所蔵)は、同展の目玉資料の一つです。今回は春日部の桐細工との関わりについて、ご紹介します。 #かすかべプラスワン

 写真:聖徳太子立像

小渕の観音院は、正式には小淵山正賢寺観音院といい、市内では現存する唯一の本山修験宗の寺院です。鎌倉時代中頃の正嘉2年(1258)建立とされ、市内最多の7躯の円空仏(小渕観音院円空仏群・県指定有形文化財)、元禄年間(1688-1704)建立と伝えられる小渕山観音院仁王門(市指定有形文化財)など、春日部のあゆみを理解する上で貴重な文化財を伝えています。イボ・コブ・アザなどにご利益のある「イボトリ観音」として古くから信仰され、5月の大型連休中に円空仏を開帳する「円空仏祭」や「四万六千日祭」(8月10日)などの年中行事に加え、近年はさまざまな催し物を織り交ぜたイベント「寺フェス」などを催し、寺院の新たな役割を模索しています。 

小渕の観音院に伝わる聖徳太子立像は、木造で厨子におさめられ、普段は本堂に安置されています。太子像は、髪を角髪(みずら)に結い、鳳凰丸紋(ほうおうまるもん)の朱華(はねず)の袍衣(ほうい)に袈裟(けさ)をかけ、柄香炉(えごうろ)を持っています。これは、父の用明天皇の病気平癒を祈った16歳の姿といわれ、孝養太子と呼ばれています。

観音院には、江戸時代、境内に太子堂があり、この中に安置されていたものと考えられます。

天保13年(1842)「小渕太子堂奉加帳」(市指定文化財)によれば、観音院の太子堂は、もともと宝暦5年(1755)に近隣の職人が講銭を集め、粕壁の八幡宮の宝殿に造営されたもののようです。経緯は不明ですが、その後、観音院に太子堂が移されたようです。天保13年、観音院と小渕村の職人たちは、この太子堂を修復するために近隣の職人などに寄付を募りました。この寄付台帳が「小渕太子堂奉加帳」です。奉加帳には、大工・木挽・建具屋など、市域周辺の250名余りの職人の名前が記録されています。このなかに、春日部の桐細工の起源とも考えられる、指物屋・箱屋の署名がみられます。箱屋と指物屋の区別は明確ではありませんが、いずれも木組みをして箱・長持・箪笥類を細工・製造した職人と考えられます。市域では、粕壁宿に箱屋9名、小渕村に箱屋1名・指物屋2名、樋籠村に指物屋1名、牛島村に指物屋3名、藤塚村に箱屋2名、指物屋1名、銚子口村に箱屋2名、備後村に箱屋1名が確認され、広範に職人が存在していたことがわかります。

写真:小渕太子堂奉加帳

聖徳太子は、四天王寺などを建立した事績から、各地で建築や木工の祖として崇められていました。春日部市域では残念ながらたどれませんが、県内では箪笥職人などが「太子講」という聖徳太子を信仰する講が組織される例があります。この「小渕太子堂奉加帳」により、観音院の聖徳太子像は、春日部の桐細工職人らに信仰されていたと考えられ、「講銭」が集められたという記述から、市域でも「太子講」に近い組織が存在していたことがうかがえます。

そういうわけで、観音院の聖徳太子立像は、春日部の桐細工の歴史に深く関わる資料といえます。桐細工の歴史を物語る資料は、紙の資料が大半を占めてしまいますが、数少ない立体の展示資料として、鮮やかな彩色も伴い、展示に華を添えています。

写真:聖徳太子

今回、観音院の「聖徳太子立像」と「小渕太子堂奉加帳」が初めて一同に会しています。展示室の照明の都合から、厨子から出した状態で「聖徳太子立像」を展示しています。像を単体で鑑賞いただけるのは、9月5日まで。あとわずかです。この機会に、ぜひともご覧ください。そういえば、今年は聖徳太子御遠忌1400年だそうです。

春日部の桐細工の起源と伝承について(その2)

気が付けば、夏季展示「桐のまち春日部」展の会期も最後の一週間です。引き続き、春日部の桐細工の起源と伝承について第二弾にして最終回。 #かすかべプラスワン

前回、紹介した通り、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播していきました

こうしたことは展示の企画段階から何となく把握していましたが、調査を進めるなかで新たな資料を見出すことになりました。それが、大正13年(1924)に発表された論文、緑川禄「埼玉の桐箱」です。この論文は、大日本山林会の会誌『大日本山林会報』498号に収載されるものです。ちなみに大日本山林会の会誌のバックナンバーはデジタル化されています。

緑川には『確実なる副業 檪、竹、桐、杞柳の実際的経営』という著書もあり、埼玉県技師であったことがわかっています。会誌『大日本山林会報』には、埼玉県内の林業・林政に関する緑川氏の文章がいくつも収載されており、緑川は埼玉県の林業に深く携わっていた人物であると考えられます。緑川のいう「桐箱」とは、いわゆる桐小箱だけではなく、大型の箱である桐箪笥や長持なども含んだ桐製の指物のことを指しており、関東大震災直後の埼玉の桐産業の状況を伝える貴重な文献です。埼玉の桐箱の起源についても次のように言及されています。表記は原文のママ。誤字は( )で注記した。

桐箱製造の起源は遠く後陽成帝の御宇慶長年間徳川家康江戸に開幕と共に、爾来家具の工匠を武州川越に住ましめ、将軍家の御用を仰付け、其後霊元帝の御代天和年間、に至り桐材を以て家具類を製作せしめたるに創るので、其当時は僅か十数人の工匠が大箱即ち箪笥、刀箪笥累の製作を主とし、尚ほ枕及硯箱をも工作したのであつた。

其後中御門帝の御宇正徳年間、北葛飾郡幸松村の人某川越に於て技術を習得し、自村に帰つて創業せるが、是粕壁地方に於ける桐箱製造の元祖である。(中略)幸松村に於て一般の需要に満たすべく製作を開始せるに、会々(津?)仙台公日光崇拝の途次粕壁町に於て御納戸硯箱を献じて技工の優秀なるを認められ、公儀御用商人住吉屋をして納入せし以来諸大名、家老近卿(郷か)々士にまで供給する様になつたのである。(以下略)

すなわち、埼玉の桐箱づくりは、徳川家康の入部とともに、城下町川越に移住させられた職人が直接の起源であり、春日部の桐細工の起源は、正徳年間に幸松村(明治22年以降の地名)の某氏が川越で技術を習得し、幸松村で創業したことに求められています。その後、諸大名の東照宮参詣などで日光道中の粕壁宿にて硯箱が大名に献上され、幕府の御用商人の住吉屋(おそらく江戸の箪笥問屋)に納入され、江戸の諸大名や武家らが用いるようになったと記されています。

緑川「埼玉の桐箱」は、春日部の桐細工の起源について言及した文献として、現在わかる範囲では最古のものです。最古であるからだけではなく、幸松村や住吉屋といった具体的な固有名詞が出て記述が、大変興味深いものとなっています。幸松村は、現在判明する範囲で最古の箪笥屋が所在する小渕も含まれた地域です。現在の箪笥屋の系譜では天明年間(1781-1788)までしか遡れませんが、幸松はそれよりも古くまで遡れる桐細工産業の発祥の地なのかもしれません。また、日光道中を利用した諸大名の目にとまり、住吉屋に卸されるようになったとの記事も大変興味深いです。住吉屋とは、近世の史料にも登場する江戸の京橋の箪笥商、明治初頭まであった実在する箪笥卸商であったようです。

こうした具体的な記述から、春日部の桐細工が、日光道中を起点にし、巨大都市江戸と関係を結びつきながら、歴史的に展開していったことが想像されます。日光道中沿いにあることから、いつのまにか「日光東照宮の工匠」に関する伝承が生まれていったのかもしれません。

しかし、残念なことに、緑川は明確な典拠を示していません。川越に技術を習いにいった人物も「某」とされており、よくわかりません。しかし、ほかの記事では、農商務省山林局編『木材ノ工芸的利用』(明治45年刊)にも近似する県内の桐箱製造者数のデータも掲載されており、緑川「埼玉の桐箱」は、なんらかの調査や資料に基づいて執筆されたと推察されます。担当者としては、緑川説は、「東照宮の工匠伝説」より、やや具体的であり、執筆者の立場からしても、歴史により桐産業を権威化する意図は感じられないので、信ぴょう性が高いのではないと考えています。

 

このように説明すると、「「東照宮の工匠伝説」は間違っているのか!?」「結局、どっちが正しいのか」「どちらも証拠がないのでは?」「起源なんてどうでもいいのでは?」と叱責されてしまいそうです。いずれも「伝承」「伝説」であり、担当者としては、どちらが正しい、間違っているのかを裁定するつもりは固よりありません。桐細工の起源説の検討から、強調しておきたいことは、以下のことです。

「伝説」「伝承」はさておき、今回の調査では、証拠のある具体的な歴史としては、春日部の桐細工は、古文書により、江戸時代半ばまで遡れる地場産業であること。そして、明治時代後期以降、産業として大きく飛躍し、その頃に、現代に伝統産業として継承される礎が築かれてきたことがわかりました。

今回わかってきた具体的な桐産業の歴史は、「東照宮の工匠伝説」のような華やかで箔をつけたかのような「起源」に比べれば、一見地味かもしれません。ただ、農間余業として始まり、その後に専業化し、春日部を「桐のまち」として支えていった一つ一つの歩みは、現代の私たちから見れば地味かもしれませんが、歴史の当事者や関係者たちにとって決して地味なものではなかったはずです。具体的な歴史をとらえ、それを一つ一つ見つめ直し、理解することこそが、先人たちや関係者の方々に敬意を表すことになる。展示担当者は、様々な資料や関係者への聞き取り調査のなかで、春日部の桐産業は、尚もまちの特徴であり、今後のまちの行く末を考えていく上でも、桐産業の具体的な歴史を考えることは重要だと改めて思いました。

皆様にも、雲をつかむような「東照宮の工匠伝説」ではなく、より具体的な春日部の桐産業の歴史を今一度見つめ直していただきたいと思います。そんな、春日部の桐産業の歴史を具体的に紹介する「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。