ほごログ(文化財課ブログ)

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【出張授業】「でばりぃ資料館」in備後小学校

令和3年5月7日(金)に備後小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

今年の3月にも3年生向けにでばりぃ資料館で訪問させていただきましたが、新年度となり3年生の顔ぶれも新たになりました。

 

今回のでばりぃ資料館は社会科ではなく、総合的な学習の時間「備後のカルタ作り」の一環として、身近な地域の様子を学習してもらうという趣旨でのご依頼でした。

また、GWあけということもあり、長期休暇から日常の授業へ急に戻るのではなく、体験的な楽しさを取り入れた授業を行うことで、緩やかに通常授業に戻してあげたいという先生の計らいでもあるようです!

 

紙芝居の上演

地域学習風景

授業は体育館と郷土資料室で行い、体育館では武里地区にまつわる伝説の紙芝居の上演や、

武里地区の航空写真、郷土かるたを用いながら身近な文化財について学びました。

 

郷土資料室風景

郷土資料室では、展示してある昔の生活道具を学芸員が解説し、自由時間には実際に触ったり、昔の体重計に乗ったりして体験学習をしました。

 

昨年度から実施しているでばりぃ資料館は、主に10月~3月の小学校第3学年向け社会科郷土学習のために生まれた事業ですが、社会科に限らず内容や日程の調整をさせていただければ随時受付可能です。

私どもとしても、児童にもっと郷土資料館を知ってほしい気持ちがありますので、ぜひお気軽にご相談ください!

小淵山観音院~県指定文化財~”円空仏”の公開

 本日、5月3日から5日まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館から年1回の里帰りとなります「円空仏祭」が小淵山観音院の本堂で開催されております。

 ”円空仏”の作者である円空さんは寛永9年(1632)に美濃国(現岐阜県)で生まれ、近畿地方から北海道にかけて各地を行御し、12万体の仏像を彫ることを祈念し、実行した修行僧・遊行僧として知られております。特に鉈彫(なたぼり)の仏像制作が特徴的でおよそ5千体以上の円空仏が全国で発見されています。

 さて、埼玉県は生誕の岐阜県、そして愛知県に次いで約200個体の作例が発見されており、特に霊山日光へ向かう日光道中沿いの越谷市や春日部市、蓮田市周辺で多くが確認されております。

▲本堂ではスケッチをしたり、何をモデルとして作られたのかを家族で話したり、本堂の静寂の中で様々な拝観の光景がみられました。もちろん、本堂の空間は「密」にならぬよう、人数を制限しながら、じっくりと円空仏を拝むことができます。

 

▲像高194㎝、一つの材から彫り出された円空仏では県内最大の「聖観音菩薩立像」

頭巾(ずきん)様の宝冠には阿弥陀如来もみられる

 

 

 

 

 

 

 

▲像高134㎝、両手で宝塔を捧げもつ「伝毘沙門天立像」

 ケープ状の頭巾(ずきん)には竜頭様の兜が描写されている

 

 

 

 

 

 このように円空仏には様々な彫り物がみられます。

このゴールデンウイークは、ゆっくりと静寂な時間の中、新緑が映える観音院本堂で円空が一心に鉈を振るった木造仏を拝観してみてはいかがでしょうか。

【4月28日】 #今日は何の日? in春日部

今から109年前の4月28日は、春日部に #渋沢栄一 が訪れた日です。 #かすかべプラスワン

明治45年(1912)4月28日、天気は晴れ。渋沢栄一は、粕壁中学校(現県立春日部高校)の父兄会より講演の依頼をうけ、粕壁に向かいました。その様子は、渋沢栄一伝記資料に詳しく記述されています。

これによると、栄一は朝6時に起床し、王子停車場から汽車に乗り、午前10時に粕壁駅に到着しました。「多数ノ人士来リ迎フ」と記録されており、大勢の人々に駅前で出迎えられました。その足で人力車に乗り牛島へ。

牛島には何をしにいったのかというと、藤を見に行きました。そう、かの有名な牛島のフジです。藤樹をみて渋沢は「頗ル大木ナリ、開花ハ未タ充分ナラサルモ、棚ノ広サ凡ソ二百坪アルヘク、真ニ稀ニ見ル所ナリ」と称賛しています。

東武鉄道の開通以後、牛島のフジは「粕壁の藤」と呼ばれ、関東地方で最も著名な藤の名所地として知られていました。渋沢も見たかったのか、それとも地元の人たちに請われ、見に行ったのか、わかりませんが、いずれにしても牛島のフジは、「渋沢栄一もみた春日部の藤」なのです。藤について詳しくは「渋沢栄一もみた春日部の藤」展をご覧ください。

さて、渋沢は「小亭ニ休憩シテ」とあり、園内の建物で休息をとり、その後、粕壁税務署で「地方人士」たちと昼食、懇談しました。当時の税務署の庁舎は完成して間もなかったようです。「地方人士」とは、おそらく粕壁の町中の有志たちでしょう。この点について少し補足しておきましょう。

さかのぼること10数年前、渋沢は男爵を授爵した明治33年(1900)に帝国ホテルで埼玉県の有志者90余名を集めて祝賀会を開いています。当日招待された名前をみると、市域からは粕壁の田村新蔵、練木市左衛門、山田半六、清水寿太郎といった粕壁の大店層の面々や、のちに「成金」として知られる鈴木久五郎、その一族で鈴木銀行役員の鈴木善五郎が招かれています。ですから、明治45年に粕壁税務署で会食した「地方人士」たちは、こうした渋沢と親交のあった人たちだったと考えられます。

さて、渋沢は午後2時に粕壁中学校に向かい、本来の目的である講演をします。「国家経済ト教育」に関する演題で話をし、聴講者は600~700名あり、盛会だったといいます。

午後5時40分、粕壁駅発の汽車に乗り、午後8時に王子停車場に到着しました。

以上の行程について、郷土資料館では「図説渋沢栄一の一日inかすかべ」というリーフレットを作りました。このときの渋沢の足跡が一目でわかるものです。このリーフレットは、観光ガイドさんにもご協力いただき、藤花園内でも配布していただき、牛島のフジに訪れたお客様から大変好評を得たと聞いています。ミニ展示のネタバレにもなってしまい、手前みそですがなかなかの出来栄えなので、「ほごログ」にもあげておきたいと思います。

画像:渋沢の足跡渋沢の足跡.pdf(1.1MB)

ところで、なんと渋沢はもう一度粕壁にやってきています。そのことについては、5月2日までのミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展でちょこっとだけ紹介しています。気になる方は、展示を見に来てくださいね。

ミュージアムトーク開催しました

令和3年4月25日(日)郷土資料館ミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展のミュージアムトークを開催しました。

写真:ミュージアムトーク

今回も多くの方にお集まりいただきました。渋沢栄一について詳しく話が聞けるものと、ご期待いただいた方も多くいらっしゃったようですが、展示解説の主題は「牛島のフジ」について、です。渋沢栄一ではなく、藤の展示なのです。牛島のフジのスゴさについては前にもブログで紹介しています。

牛島からお越しいただいた方によれば、花の最盛期には、藤の牛島駅から藤花園まで、長蛇の列で、行列が途切れなかったこともあるとか。また、最近、春日部に越してきたという方は、「春日部は住みやすい上に、歴史ある牛島のフジもあって誇らしい」と話していました。

先日22日(木)の定例教育委員会終了後、教育委員の皆さまにもご見学いただきました。「牛島のフジ」の新たなる側面をお楽しみいただけたようです。

写真:教育委員の見学

多くの方にご覧いただいた「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、5月2日(日)まで。4月26日(月)と4月29日(祝・木)は休館日なのでご注意ください。

4月22日開催の教育委員会で文化財が新たに指定されました!

 令和3年4月22日(木)開催の4月定例教育委員会の審議で、新たに文化財が指定されました。

この文化財は西宝珠花の小流寺に伝わる江戸時代、宝永8年(1711)に制作された「木造小島庄右衛門正重坐像(こじましょうえもんまさしげざぞう)」で、有形文化財(彫刻)となります。

▲教育委員による文化財の実見の様子

 小島庄右衛門正重は、江戸幕府の代官伊奈忠治の下で活躍した人物で、現在の庄和地域を含む庄内領の開発や江戸川の開削にも携わった人物としても広く知られています。像の形態からは市域の江戸時代肖像彫刻の基準作として、また、郷土の治水の開発に功績があった人物の彫像としても歴史的価値があることからも評価されたものです。本資料で市指定文化財は46件となりました。

▲ 新たに文化財に指定された「木造小島庄右衛門正重坐像」

 今後は郷土資料館での公開を予定しております。日程が決まりましたら、改めてお知らせいたします。ご期待ください!

#牛島のフジ がスゴイ件(最終回)

藤花園の牛島のフジは今まさに満開のようです。郷土資料館の近く、図書館・文化会館の藤・藤棚も盛りを迎えています。 #かすかべプラスワン #牛島の藤

画像:図書館・文化会館の藤棚

郷土資料館の最寄りの藤は、粕壁小学校校舎の裏に自生(?)しているものです。ほかの木に巻き付いて、ものすごく高いところに花をつけています。

写真:郷土資料館もよりの藤

 

さて、引き続き、あいうえお作文「牛島のフジがスゴイ件」の続き(最終回)です。

 

「の」飲みすぎ注意!酒と料理でおもてなし

牛島のフジの藤花園には、料亭があり、料理が提供されていることは、以前紹介しました。

当然、酒も提供されており、古利根川の川魚料理をアテに、女中さんが配膳してお酒をすすめてくださいます。

大正12年の句集には「寝る人も酔っているらし藤の花」という句が収録されています。

小説家・田山花袋(たやま かたい)は、大正12年(1923)刊『東京近郊一日の行楽』のなかで、「粕壁の藤花」という随筆をのこしています。これによれば、大町桂月(おおまち けいげつ)と田山が滞在していた羽生で落ち合い、酒を飲みながら汽車で粕壁に向かい、さらに藤花園で、牛島のフジを鑑賞しながら吸い物や煮つけをアテにしながら、競い合うように酒を酌み交わしたようです。

  …私達は何を話したらう。田舎の百姓家、藤の花を見せて客を引いて拙い酒と肴とを勧める田舎の百姓家―さういふものが不思議に私には思はれた。吸物はおとし玉子、肴は鰤か何かの煮附、酒はくさい地酒・・・。(略)何うして車夫に賃金を払つたか、また何うして汽車に乗つたか、それすれも分からないくらゐであつた。

あまりいいように書いてはくれていませんが、藤の聖地で、酒を飲みすぎてしまったことにかわりはないでしょう。

 

「ふ」フジの花房は最大9尺 愛称は「九尺藤」

牛島のフジは、よく樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えの藤だといわれます。しかし、戦後の新聞には、樹齢800年とか、戦国時代に戦死者を弔うため藤を植えたとか、その起源についてはつまびらかではありません。記録上では、江戸時代末には、すでに大名や公家等が賞賛した藤であったことは間違いないのですが。

いずれにしても、国内、いや世界でまれに見る藤の巨樹・古木であることにはかわりなく、明治時代末には、「関東一」、昭和3年(1928)の内務省天然記念物指定後には、「世界一」とも称されるようになります。なにが、「関東一」「世界一」なのか。天然記念物指定の事由をみると、学術的に確定できない樹齢を要件とするではなく、花房(かぼう)の長さを根拠としていることがわかります。その長さ、なんと「九尺」。1尺は約30センチですから、2.7メートルも花房があったといいます。だから、地元の愛称は「九尺藤」。

藤棚の広さ・規模は足利フラワーパークや市内のふじ通りに負けても、これだけの長さの花房をみせる藤は、日本、世界を捜しても牛島のフジだけです。戦前に天然記念物指定となったのも、戦後に特別天然記念物指定になったのも頷けますね。量より質です。

 

 「じ」地元かすかべの文化的サロン

これまで紹介してきたように、牛島のフジは、さまざまな文化人がおとずれたから、町・市のシンボルだから、地元の有力者や文化人たちもフジを囲んできました。藤花園という庭園が造られ、社交場としての「倶楽部」が設けられ、文化教養のある方たちが集い、句会などが催される。近代の春日部の華麗なる歴史は、牛島のフジとともに形成されてきたといっても過言ではありません。

 

以上、牛島のフジのスゴさを、あいうえお作文で紹介してきました。「牛島のフジがスゴイ件」のリーフレットは、郷土資料館で配布していますし、観光ボランティアさん・案内人の会さんにもご協力いただき、藤花園でも配布していただいています。

最後に蛇足ですが、こうした牛島のフジをめぐる歴史文化を調べていて、「渋沢栄一もみた春日部の藤」展の展示担当者として、考えたこと、気づいたことが二つほどあります。

一つは、これまで常にまちの人たちやかすかべに訪れる人たちを魅了してきた、囲まれてきたということ。しかし、現代は価値観の多様化のせいか、「かすかべisフジ」という理念が揺らぎつつあるように思えました。これからも、春日部のみなさんをはじめ、市外・県外の方たちからも愛される「牛島のフジ」であってほしいな、と願うばかりです。

もう一つは、「樹齢1200年以上!」とか「国の特別天然記念物です」とか、そんな陳腐な言葉では語りつくせない牛島のフジの歴史や文化があること。それこそが、牛島のフジのスゴさなのであり、春日部にとっては、それはもうpriceless(プライスレス)。藤だけに「不二」(二つとない)ものなのだと。おあとがよろしいでようで。

 

「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、5月2日(日)まで。4月25日(日)には、感染症対策にも配慮してミュージアムトーク(学芸員による展示解説)も実施します。10時30分~、15時~の二回。会期は残りわずかです。ぜひご来館ください。

【5/18~新収蔵品展】プリントゴッコをご寄贈いただきました

<郷土資料館では、令和3年5月18日(火)~7月4日(日)の期間で、第63回企画展示「かすかべのたからもの18新収蔵品展」を開催します。近年、資料館に寄贈、寄託された資料を展示します。> 

昨年、市内の方からプリントゴッコをご寄贈いただきました。次回の企画展示、5月18日(火)からの新収蔵品展にて展示します。平成5(1993)年、ロビンソン春日部店の文具売り場で購入されたとのことで、ロビンソンのスタンプが保証書に押されています。

プリントごっこPG-10

ご寄贈いただいたプリントゴッコPG-10と保証書

 

年賀状印刷などで、プリントゴッコを使われた方も多いと思いますが、発売元の理想科学工業株式会社が先日、インターネット上で「プリントゴッコ懐かしい展」を開始しました。

プリントゴッコ懐かしい展(理想科学工業株式会社サイト)

 

プリントゴッコは昭和52(1977)年に発売を開始、発売当初から大ヒットし、平成8(1996)年には売り上げ台数1,000万台に到達しました。平成12(2000)年以降、パソコンや家庭用プリンターの普及で需要が衰退し、平成20(2008)年に本体の販売停止、平成24(2012)年には関連する消耗品等の販売もおわり、事業終了となりました。

プリントゴッコは、「孔版(こうばん)印刷」という技術で印刷されます。仕組みと使い方は、まず、炭素を含んだ専用のペンで原稿を書き、マスターと呼ばれる版とともに機械にセットします。機械で付属のランプの光を一時的にあてることにより、原稿の炭素を発熱させ、その熱で原稿の炭素付着部分に対応する版の表面のフィルムを溶かし、孔を開けます。そして、この版にインクをのせ、用紙に圧着させると、孔からインクが原稿通りの形にしみ出し、同じものを何枚も印刷することができます。

文章で書くと難しそうですが、手順を覚えてしまえば手軽に年賀状などの大量印刷ができる機械です。イモでスタンプを作る芋版などが普通だった時代、プリントゴッコの登場は画期的でした。 

それにしても、大ヒットした平成8(1996)年から数えてもまだ35年ですが、とてもなつかしく感じられる方も多いのではないでしょうか?近年のパソコンやプリンター、また印刷技術の発達は、隔世の感があります。

#牛島のフジ がスゴイ件(2)

牛島のフジ(藤花園)の開園日でもあった令和3年4月17日(土) #春日部市郷土資料館 でミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展のミュージアムトークを開催しました。 #かすかべプラスワン

 写真:ミュージアムトークのようす

天気は雨の予報でしたが、多くの方にお集まりいただきました。ソーシャルディスタンス・感染症対策を十分にとった上で、渋沢栄一のこと、牛島のフジのことについての展示解説を聞いていただきました。参加された方からは「藤のトークめっちゃ面白かった!」「来てよかったです」などの感想をいただきました。「特別天然記念物」という冠だけでは語り切れない、牛島のフジの歴史文化について、ご理解を深めていただけたようでした。午後には、市内在住の歴史少年が「徳川昭武知っている!」と話し、熱心に牛島のフジで記念撮影をした写真をみていました。未来の学芸員を目指してほしいものです。トークの後、熱心に質問される方も多く、担当者として充実した一日となりました!

 

さて、一部では好評!?の、牛島のフジがスゴイ件のパート2です。

今日のミュージアムトークでも「これ考えたんですか!?」とお誉めいただきました。今回は、うしじまのふじの、「じ」「ま」について。

 

「じ」人力車・待合茶屋に、お土産でうるおう観光産業

東武鉄道の開通により、一躍有名になった牛島のフジ。最寄り駅が粕壁駅(現春日部駅)であったことから、当時は「粕壁の藤」と呼ばれることが多く、駅から藤花園まで観光客を運ぶ人力車が営業されていました。駅前には、汽車をまつ待合茶屋もありました。お土産は、「藤羊羹」「塩せんべい」。現在でも「かすかべフードセレクション」にも、藤をモチーフにした商品もありますね。その元祖といってもよいかもしれません。

大正12年の粕壁町の旭町を主体として開かれた句会の句集には、次のような句があります。

 付く汽車も又付く汽車も藤見哉 

 新道の普請成り立つ藤の花

花の盛りには、汽車でやってくる客が絶えなかったこと、観光客のため、藤の周辺に「新道」が整備されていったことがうかがえます。多くの方がやってくることで、町のインフラ整備もすすんでいったことがうかがえます。

 

「ま」まちづくりの中核に かすかべisフジ

牛島のフジが有名になる明治も、大正も、昭和も、そして春日部市がまちづくりに活用されはじめる高度経済成長期から現在に至るまで、フジと春日部は切っても切り離せない関係にあります。昭和48年には、市の花にフジが制定され、以後、日本一の規模の藤の街路樹ともいわれる藤通り、藤まつり、藤テラス、藤音頭、マンホールや文化会館の緞帳、市役所の立体駐車場の壁面…

まちのシンボルとして、まちの景観、住民どうしをつなぐイベントのなかに、常に「藤」「フジ」「ふじ」があります。

これも牛島のフジが天然記念物として知られ、明治時代からかすかべの観光産業・町のくらしを支え、町を代表する象徴的な樹木だからです。牛島のフジが春日部のくらし・行政に与えた影響は計り知れないものがあります。まだまだ思わぬところに「フジ」があるかもしれません。まちにある「フジ」の情報をぜひお寄せください。

 

本日より牛島のフジが(藤花園)が開園されました。ミュージアムトークでも「牛島のフジの開花状況は?」と質問され、答えられませんでしたが、開花状況は藤花園のホームページをご覧ください。展示と合わせて牛島のフジもお楽しみください!

(つづく)

#牛島のフジ がスゴイ件(1)

令和3年4月13日(火)から「渋沢栄一もみた春日部の藤」展が始まりました。この展示は、渋沢の足跡をたどりながら、春日部の藤の歴史文化を紹介するものです。#ビビる大木 さん、渋沢センパイは本当に春日部に来ているのですよ!

 写真:展示室の入り口

企画展示室の入り口は、手作りの藤のモニュメントで華やかに彩られました。藤の花言葉は「歓迎」だそうで、ご覧いただく皆さまを歓迎しています。

ところで、展示のための調査・準備の過程で、国指定特別天然記念物「牛島のフジ」が如何に「スゴイ」のかが明らかになってきました。でも、そのスゴさを知らない、気づいていない方も多いようです。

そこで、今回の展示では「牛島のフジがスゴイ件」というリーフレットを制作し、そのスゴさを「う・し・じ・ま・の・ふ・じ」の7文字をとって紹介しています。あいうえお作文です。

画像:牛島のフジがスゴイ件

「う」浮世を忘れさせるフジの聖地

「し」渋沢だけじゃない各界の著名人がやってきた

「じ」人力車・待合茶屋に、お土産でうるおう観光産業

「ま」まちづくりの中核に かすかべisフジ

「の」飲みすぎ注意!酒と料理でおもてなし

「ふ」フジの花房は最大9尺 愛称は「九尺藤」

「じ」地元かすかべの文化的サロン

 

今回は、あいうえお作文の「う」「し」について詳述します。

「う」浮世を忘れさせるフジの聖地

牛島のフジの庭園藤花園内には、紫雲館とよばれた料亭(貸席料理店)がありました。紫雲は藤の花を形容する表現のようで、後に総理大臣となる清浦圭吾(きようら けいご)が名付け、その扁額が飾ってあったそう。紫雲館では、料理が提供され、古利根川で獲れた川魚料理が提供され、「閑雅」な雰囲気だったといいます(小泉一郎『東武鉄道線路案内記』・明治37年刊)。また、最近発見した資料によれば、能登の和倉温泉の鉱泉を引き入れて、薬湯を開き、観藤客やその他一般にも入浴・宿泊できる施設があったとされます(昭和3年「史跡名勝天然記念物調査報告書」・埼玉県行政文書№昭15024)。東京からの訪れた来客は、見事な藤をみながら、日常では味わえない、しとやかで優雅のひと時をおくれたことでしょう。

 

「し」渋沢だけじゃない各界の著名人がやってきた

今回の展示会名称にもなっている、渋沢栄一は、粕壁に用件があった明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞しています。大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、埼玉の偉人とされることから、ご興味を惹かれた方も少なくないようですが、藤をみたのは「渋沢だけじゃない」のです。牛島のフジに訪れた著名人については、以前紹介したことがあります。ただ、これらはほんの一例にすぎません。様々な紀行文や新聞記事を調べると、まだまだ牛島のフジに関する記述がでてきます。

たとえば、明治38年(1905)5月23日には、伯爵会(華族会館に集うサークル)の例会として、華族の松平・徳川・真田などの諸氏が粕壁に遠足し、牛島のフジを鑑賞したそうです(「朝日新聞」明治38年5月25日号)。

牛島のフジは、太宰治(だざい おさむ)「斜陽」にも登場しますが、太宰が訪れたのかはわかっていません。様々な著名人が本当に訪れたのかを知るすべは限られていますが、近代(明治~昭和)の政治家や文化人にとって、牛島のフジは、私たちが思っているよりも有名だったととらえていただいて差し支えないでしょう。

こんな人も来ているという情報をお持ちの方は、ぜひご教示ください。

(つづく)

春日部と俳句 # 桜咲くかすかべ

# 桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。 

4月1日 古利根川 埼葛橋

  古利根川の遊歩道(古利根きらめき通り)には、いくつかの案内板があります。案内板の下半部に注目していただきますと、主に古利根川や春日部にちなんだ俳句が書かれています。すべてが当地で詠まれたものではありませんが、松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子、水原秋桜子、加藤楸邨等々の俳句は、川歩きをする人々へ心の彩りを与えてくれます。

 春日部来訪者で1、2を争う著名人といえる松尾芭蕉(1644~1694)は、同行していた弟子の曽良の日記によると、元禄2年(1689)『奥の細道』の行程で日光道中粕壁宿に一泊したと考えられています(今日は何の日)。芭蕉が当地で詠んだ作品はありませんが、案内板には、大和国で詠まれた「草臥て 宿かるころや 藤の花」が選ばれています。想像をたくましくして、藤の花で有名になった現代の春日部へ、もしも芭蕉が訪れたとすると、このように藤花を愛でて句を詠んだかもしれませんね。

4月1日 古利根川 春日橋方面 

 古利根川と古隅田川沿いを実際に歩いたのは、近代俳句では著名な2人の人物、水原秋桜子(1892~1981)と加藤楸邨(1905~1993)です。旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)へ昭和4年(1929)に新任で国語教師として赴任した加藤楸邨は、中学校の同僚教師に勧められて俳句を始め、安孫子医院(閉院)に月2回ほど東京から往診に来ていた水原秋桜子から俳句の指導を受けていました。句会が終了すると二人は古利根河畔を散歩して、俳句について論じあっていたといいます。加藤楸邨は、昭和12年に辞職し、俳句を志すため大学に進学し東京へと移ります。この間8年、夫人や子供たちとともに、古利根川と古隅田川の河畔を歩いたことでしょう。夫婦で散歩していて、生徒たちにからかわれたというエピソードも伝わっているようです。

郷土資料館第16回特別展パンフレット表紙

 *参考

平成6年 『第8回特別展 春日部ゆかりの文人たち(一)』パンフレット

平成10年 『第16回特別展 近代の俳人たちと粕壁 ~水原秋桜子・加藤楸邨と近代の俳人たち~』パンフレット

平成22年 『第41回夏季展示 俳人 加藤楸邨と粕壁』パンフレット

 

桜がつく地名 #桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。

桜川小学校の桜並木

桜川小学校の桜並木 (2021年3月28日)

 

春日部には、南桜井駅や南桜井小、桜川小など、桜がつく施設名があります。

「南桜井」という言葉は、明治22年(1889)、それまでの下柳村、上柳村、上金崎村、金崎村、西金野井村、大衾村、永沼村の7村が合併して南桜井村となったことによります。昭和29年(1934)に、川辺村、南桜井村、富多村、宝珠花村の4村が合併して庄和村になるまで使われた地名で、現在では、駅名や小学校名に残ります。

この「桜井」は、中世末期ごろから、中川周辺の村々がまとめられて「桜井郷」といわれたことにちなみます。同じく明治22年、春日部市北部から杉戸町、幸手市にかかる細野村、屏風(びょうぶ)村、椿村、深輪(ふかわ)村、倉常村、芦橋村、木崎村の7村が合併した際に、やはり「桜井郷」にちなみ桜井村としました。合併した下柳ほか6村は、この桜井村の南に位置したので村名を南桜井村としました。

桜井村は、現在の越谷市の北部の地区でも、やはり「桜井郷」にちなみ、明治22年に誕生しています。なぜ「桜井」の地名が流行したのか確かなことはわかりません。しかしながら、明治20年代は靖国神社や東京都内の公園などにソメイヨシノが多く植えられた時代だそうです。(佐藤俊樹2005『桜が創った『日本』-ソメイヨシノ 起源への旅 』岩波新書)

春日部や越谷の人も、桜を意識し始めた時代なのかもしれません。

 

ところで「桜川小」の「桜川」は、何がもとになっているのでしょうか。

桜川小学校は、昭和50年(1975)4月、南桜井小学校、川辺小学校の児童増加により、それまで葛飾中学校があった現在の桜川小学校の場所に校舎をそのままに新しく設置され、学校名は、南桜井小の「桜」と川辺小の「川」をとって桜川小学校としました。葛飾中学校は、現在の位置に移転しました。

 桜川小学校新設を伝える広報しょうわ昭和50年2月号

桜川小学校新設を伝える広報しょうわ昭和50年2月号

(クリックすると大きな画像がダウンロードされます)

 

ちなみに、現在の埼玉県内の「桜」がつく地名には、以下のものがあります。(角川日本地名大辞典編纂委員会1980『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店)

桜ヶ丘(深谷市)、桜木町(熊谷市、さいたま市、秩父市)、桜沢(寄居町)、桜町(熊谷市、行田市、川口市)

「桜」がつく地名は、意外と少なく貴重です。春日部市の「南桜井」や「桜川」は、現在は地名ではありませんが、♯桜咲くかすかべ には欠かせない名称だと思います。

「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。

3月28日、本来12月に行う予定でした「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。当日は、あいにくの雨模様でしたが、23名の方にご参加いただきました。

今回の考古学講座では、権現山遺跡の概要をお話ししたあと、実際に権現山遺跡の埋蔵文化財発掘調査報告書をみていただきながら、報告書の構成や図面の見方を説明させていただきました。何人かの方からは、「大変、勉強になった」とご感想をいただきました。

埋蔵文化財発掘調査報告書は、発掘調査成果の基礎的な情報が掲載されています。専門的な用語や図面がならぶので、最初に手に取った際は、なかなか読みにくい内容です。しかしながら、一定のルールに基づいて書かれているので、そのルールを覚えてしまえば、読み解くことが容易になります。

また、発掘調査報告書は、市立図書館や県立図書館、国立国会図書館などで閲覧することができますし、インターネット上で公開されているものや販売されているものもあります。ある遺跡のことをより深く知ろうと思った際には、発掘調査報告書をひも解くのが近道です。

 

考古学講座につきましては、新年度も定期的に開催する予定です。開催のお知らせは、こちらのほごログや広報かすかべでお伝えします。みなさまのご参加をお待ちしております。

 

講座の様子

#企画展 #渋沢栄一 もみた春日部の藤

#春日部市郷土資料館 では、令和3年4月13日(火)~5月2日(日)まで、ミニ展示(企画展)「渋沢栄一もみた春日部の藤」展を開催します。 #かすかべプラスワン

画像:ポスター

チラシはこちら(2.8MB)

市の広報誌4月号の「かすかべ今昔絵巻」でも、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞したことを紹介しましたが、実は意外と知られていなかったことなので、驚いた方も多いのではないでしょうか。

渋沢だけでなく、跡見花蹊(あとみ かけい・跡見学園創始者)、清浦圭吾(きようら けいご・内閣総理大臣)、徳川昭武(とくがわ あきたけ・徳川慶喜実弟)、田山花袋(たやま かたい・小説家)など、近現代の著名な政治家や文化人も牛島のフジに訪れています。昭武は渋沢とパリに渡欧した人物としても知られていますよね。

この展示では、春日部のフジをめぐる歴史、そして、現代のまちづくりの歴史について紹介します。実は令和2年4月に開催できなかった展示のリバイバルでもありますが、その後、資料調査を進め、内容は少しバージョンアップしています。

今年は、コロナウイルスの影響により、藤まつり、藤テラスといった大型イベントが中止になっています。感染症対策に十分気を付けていただきながら、ご来館いただき、渋沢の足跡や郷土の歴史文化をお楽しみいただければ幸いです。

 

会期:令和3年4月13日(火)~5月2日(日) 開館時間は9:00~16:45

会場:春日部市郷土資料館 企画展示室(教育センター内)

入館料:無料

休館日:月曜日・祝日

関連イベント:4月17日(土)・25日(日)にミュージアムトーク(展示解説)を開催します。両日とも10:30~、15:00~(30分程度。申込不要)

<ご注意ください>

 *新型コロナウイルス感染対策のため、皆さまの入館時にお名前と、連絡先のご記入をお願いしております。

 **展示室内の入館者数の制限(30名程度)をしております。

 ***今後の新型コロナウイルス感染症拡大の動向によっては、展示・イベントが延期・中止となる場合があります。

    市ホームページ、市教育委員会ホームページ、ほごログ等でお知らせします。

 

常設展プチ展示替その2ー貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました

郷土資料館再開にあわせ、先日、考古遺物の展示コーナーに、春日部市指定文化財の貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦(かいのうちいせきしゅつどしもうさこくぶんじのきひらがわら)を展示しました。

この瓦については、以前にもほごログでとりあげました。平成4年(1992)に行なわれた調査で発見された、下総国分寺で使われた瓦と同じ文様をもつ瓦です。

展示をご覧いただく際の注目ポイントは、上部表面の布目(ぬのめ)です。この瓦は「1枚作り」という技法で作られています。上部に凸部をもつ木製の台の上に粘土の板をのせ、上から木の板でたたきます。そうすることで、湾曲したしまりのある瓦をつくりあげています。台の上に粘土をのせる際、粘土と木製の台の間に布を敷きます。これは粘土を木製の台から離しやすくするためですが、その布のあとが、瓦の凹面についています。

 瓦作りの技術は、仏教の伝来とともに、6世紀ごろ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わりました。瓦ぶきの建物を建設するために、大量の瓦を生産する必要があることから、「1枚作り」や「桶巻きづくり」といった技法が用いられました。

ちなみに軒平瓦の文様(もんよう)の部分は、本体部分とは別に作成し接合しています。文様は、削り出した木製の型を使って付けられています。貝の内遺跡出土瓦の文様からは、型にキズがあることが想定でき、下総国分寺で出土しているものと共通しています。

下総国分寺は、現在の市川市にありました。なぜ、市川市から遠く離れた貝の内遺跡で下総国分寺軒平瓦が出土したのかなど、まだまだ謎が多く、研究の余地が大きい瓦です。ぜひ資料館でご見学ください。

古代の展示ケース

展示ケースに貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました。

瓦の布目

瓦についた布目

 

参考文献

潮見浩 1988 『図解 技術の考古学』有斐閣選書

【3月27日】 #今日は何の日? in春日部

今から332年前の3月27日(旧暦)は、元禄2年(1689) #松尾芭蕉 が #春日部 に宿泊した日です。 #かすかべプラスワン

3月27日の明け方、江戸深川を出立した、松尾芭蕉は、弟子の河合曽良(かわい そら)とともに春日部に宿泊します(といっても、3月27日は旧暦。令和3年の暦では、5月8日にあたるようです)。

弟子河合曽良が残した「曽良日記」には、「一(ひとつ)、廿七日夜カスカヘニ泊ル、江戸ヨリ九里余」(原文は読点なし)とあります。「廿七日」は27日です。「奥の細道」の旅の一泊目の地は「カスカヘ」だったことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

曽良の「随行日記」により、春日部に宿泊したことが広く知られるようになりましたが、実は「カスカヘ」のどこなのかは依然として謎です。一説には、粕壁の東陽寺に宿泊したといわれ、境内には「随行日記」の一説を刻んだ石碑が建てられています(現代に建てられたものです)。もう一つよく言われるのが、小淵の観音院に泊まったのではないかという説です。これは、境内に芭蕉の句碑が建てられていることを根拠として唱えられるものです。句碑には「ものいへば 唇さむし 秋の風」と芭蕉の句が刻まれていますが、建立年代などの銘文がなく、いつ誰が建てたのか不明でした。

最近、各地の芭蕉墳(句碑)を紹介する「諸国翁墳記」(しょこくおきなづかのき)という近世中ごろに出版された本に、観音院の句碑のことが記されていることを見出しました。ここには「はせを墳 日光道中糟壁杉戸間 小淵村観音仁王門前 葛飾老茄園四世不牛建 ものいへは 唇寒し 秋の風」と記されています。観音院の句碑が、葛飾老茄園四世不牛という人物により建てられたことが判明したのです。この人物は、不牛ではなく、正確には「不干」(ふかん)と名乗り、内牧村南蔵院の修験者であり、文化・文政期を中心に俳諧を能くした葛飾蕉門の俳人でもありました。彼は、文化12年(1815)3月に葛飾蕉門(かつしかしょうもん)の名跡である老茄園を継いでいますので、この句碑が建てられたのは文化12年以降ということになるでしょう。

というわけで、観音院の句碑も、松尾芭蕉が観音院に宿泊したという決定的な証拠にはならないということになります。ただし、芭蕉の句碑は芭蕉を慕った津々浦々の人々によって、ゆかりの地などに「墳」(墓)とみなすものとして建てられ、碑とともにゆかりの品を埋納することもあったようです。観音院はどうだったのか、謎はますます深まるばかりですが、春日部市内のどこかに泊まったことは間違いないと思います。

 

前置きが長くなりましたが、長い臨時休館の間に収蔵資料を再整理する機会に恵まれ、館蔵のなかにも松尾芭蕉ゆかりの資料があることがわかりました。2つあるのですが、今回はその1つを紹介。

 写真:芭蕉句碑拓本

この軸は、荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本です。碑文には、「奥の細道」の矢立はじめの有名な一節、芭蕉の座像が刻まれています。文政3年(1820)10月12日に芭蕉忌に際して、書家として著名な亀田鵬斎(かめだ ほうさい)が銘文を、千住宿の文人建部巣兆(たけべ そうちょう)が座像を手がけたものです。この石碑は、現在は剥落がひどかったため、平成7年に復刻されているそうです。

碑文は、欧米では「フライング・ダンス」と称される、鵬斎独特の空を舞うような字体で書かれます。収蔵資料にも鵬斎書の薬種問屋の看板があります。石碑には、次のように書かれています。

「千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみだ

 行はるや鳥啼き魚の目ハなみたをそゝく   はせを翁

 巳友巣兆子翁の小影をうつし

 またわれをしてその句を記せしむ 鵬斎老人書」

 

この拓本は、近世中期に地域の俳人として活躍した石井文龍(ぶんりゅう)を輩出した家に伝来したものです。文龍は、葛飾蕉門の門人となり、寛政10年(1798)に二世「宜春園」の名跡を継いでいます。文政2年(1819)74歳で亡くなります。この拓本・軸は、直接文龍に関わるものではないようですが、「カスカヘ」に泊まった芭蕉の足跡や、後の蕉風俳諧の流行を伝える資料といえるでしょう。常設展示にすぐにでも出したいのですが、展示のスペースがないのが残念。

いつか、原物をご覧いただける機会を設けたいと思います。

  

参考文献 齊藤諒「『諸国翁墳記』研究ー諸本の出版年代について」『東洋大学大学院紀要』52、2015年

古利根~3つの名前を持つ河川~ # 桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。

3月24日古利根川・埼葛橋

 

「古利根川(ふるとねがわ)」。

 何ともノスタルジックな名前です。語義の通り、‘古い利根川’という意味です。利根川の変遷については、以前このブログで簡単にお話いたしました(春日部 利根川紀行)。

 いったいいつから「古」となったのか、庄内古川の整備や江戸川の誕生など「新利根川」の誕生と関連があると思われますが、はっきりとした年代はわかっておりません。ただし通説では、上流に土手を築きしめ切ってしまうことで古利根川が利根川本流から切り離されていったのは、戦国時代末から江戸時代前期にかけての時期であると考えられています。

 さて、この古利根川、国土地理院の地図を見ると「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」と書かれています。また、別名「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。古利根川の名称については、よく皆さまからご質問を受けますので、ここで簡単に説明いたします。

 大落古利根川は、「大落」と「古利根川」の2つの名前を一括りにしたものです。「大落」とは、大きな落とし水、すなわち農業排水路のことです。江戸時代には「悪水路」とも呼ばれました。具体的には、江戸時代以降の河川改修により、古利根川は、騎西領、羽生領、向川辺領(いずれも、現加須市・羽生市・久喜市付近)の水田の落とし水(農業排水)を集めて水源としていたことから、「大落堀」と呼ばれていました。

 「古利根川」はかつての利根川という意味ですが、正確にいつから「古」になったのかは、先述のように不明です。

 一方で、古利根川は「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。聞きなれない方も多いと思いますが、「葛西用水」は、本来は、現葛飾区・江戸川区などにあたる葛西地域の水田へ、農業用の水を供給するため整備された農業用水路です。川俣(現羽生市)で利根川から水路を引き込み、はるばる東京の農地まで水を供給していました。春日部付近では、古利根川は長大な葛西用水の一部分として利用されていました。

 春日部から下流に行くと、松伏溜井(まつぶしためい 現松伏町・越谷市 古利根堰)というダムがあり、夏季には用水を貯水していました。今でも夏季に古利根川の水位が上がるのは、このためです。こうした葛西用水の体系が確立したのは、江戸時代中ごろ、享保期のことでした。

 このように、春日部付近の古利根川は、かつての利根川であり、上流からの農業排水路であり、下流への農業用水路でもあり、用水を確保するための貯水ダムでもありました。古利根川が持つ3つの名前は、こうした川の由来や機能を表したものなのです。

3月24日古利根川・春日橋と古利根公園橋方面

*参考 平成13年『第23回特別展(合同葛西用水展)古利根川の歴史と文化』パンフレット

 

再開初日。常設展プチ展示替

令和3年3月23日より、 #春日部市郷土資料館 が再開しました。 #かすかべプラスワン

再開初日、さっそく団体見学のお客様がお見えになり、約3か月ぶりに展示室がにぎわいました。

写真:団体見学の様子

 

再開初日から常設展示もプチ展示替。

テーマは「遺らなかったかもしれない歴史~襖下張り文書の世界」と題して、収蔵資料の襖下張り文書(ふすましたばりもんじょ)を紹介しています。

昨年10月に福島県いわき市の方から電話をいただいたことが、この展示替のきかっけです。その方によれば、いわき市内の親戚の家を解体した際、襖の下から古文書が出てきたといいます。字は筆で書かれていてよく読めないが、「粕壁町」と書いてあるものが多いので、春日部市の郷土資料館に寄贈したいと申し出ていただきました。郵便で送付いただいたところ、粕壁町の公印や、町役場の罫紙を使用したものが多く、大半は明治時代の粕壁町役場の文書であることが判明しました。

紙が貴重だった時代、屏風や襖は、元の役割を終えた書類を再利用した反故紙(ほごし)が下張りに使用されました。下張りに使用されなければ、この世には存在しない「遺らなかったかもしれない歴史」だったかもしれません。

寄贈していただいた襖の下張りには、粕壁町の文書のほか、須賀村(現宮代町)役場のものや、福島県内の文書も混じっていました。おそらく、粕壁町や埼玉県内のくず紙が福島県方面に流通し、福島県の経師屋(きょうじや)によって襖が仕立てられたものと考えられます。寄贈していただいた方は、下張りをみて「貴重な史料だ」と思い、一枚一枚丁寧にはがしたそうです。「郷土の歴史のために地元で役立ててほしい」とメッセージをいただきました。

今回のプチ展示替は、福島県から届いた熱い想いをみなさんにご披露するものです。下張り文書は断片的で、ちょっとマニアックですが、これまでわからなかった歴史の一端を確実に伝える貴重な資料です。

写真:展示の様子

暖かくなり、古利根川や粕壁宿の町並みを散策される方も増えてきているようです。町並みを散策される前に、郷土資料館にお立ちよりいただければ、まちの歴史や文化を知ってプラスワンな散歩になるのではないでしょうか。ぜひご覧ください。

令和3年3月23日から郷土資料館を再開します

新型コロナウィルス感染拡大防止のため令和3年1月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和3年3月23日から開館します。

なお、体験コーナーは一部利用できません。

 

3月28日(日)10:00から(当初予定12月26日(土)の振り替え)の考古学講座「権現山遺跡を探る」は、予定通り実施します。

春日部 利根川紀行 # 桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。 

 

古利根川 桜(つぼみ)と埼葛橋

 

 春日部には、北から南に古利根川(ふるとねがわ)、庄内古川(中川)、江戸川が流れており、私たちに水の恵みをもたらしています。

 こうした河川は、少なくとも歴史時代にはいずれも利根川であり、特に戦国時代の末から江戸時代の初めころ、おおよそ400年前ごろに行われたといわれる河道変更によって、利根川は銚子(現千葉県)へと流れるようになりました。庄内古川、江戸川は、いずれも利根川と称されていた時期があったようです。江戸川は、当初「新利根川」ともいわれていました。

 また、利根川が国境であったことの名残りとして、武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)の国境、埼玉郡と葛飾郡の郡境は、時代によって変化していきました。

 

春日部市内の河川略図

 

  今日、桜を愛でることができる古利根川や古隅田川(ふるすみだがわ)は、古代・中世には利根川・隅田川であったと考えられています。当時の利根川は小渕付近で西側に折れ、おおむね現在の古隅田川筋を流れて、岩槻(現さいたま市)方面の元荒川へ流れていたと想定されています。今私たちの見る古隅田川の流れと真逆ですね。

 この古隅田川や古利根川が国境・郡境であったことは、南北朝時代と室町時代の古文書で確認できます。約700年前、今の粕壁地区付近は春日部郷といわれており、市域の大半は下総国に属していました。江戸時代には、庄内古川(中川)を境に武蔵国に変わっています。

  春日部では、このように時代によって違っていた利根川をまとめて見られます。川沿いにお花を見ながら、利根川の悠久の歴史を感じていただけると幸いです。 

*参考 平成7年『第11回特別展 埼葛の歴史』展パンフレット

    平成26年『第49回夏季展示 江戸川』展パンフレット     

川沿いの桜 #桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。 

河川や水路が多い春日部市では、水辺に沿って桜が植えられ、お花見スポットになっている場所が多くあります。平成7年刊行の『春日部昔むかし』では、季節行事の「花見」の紹介にあたり、俳句の巨匠、加藤楸邨が句を詠んだ古利根川と古隅田川の合流地点のほか、古利根川の藤塚橋付近、八幡橋付近、古隅田川の南栄町付近を桜がみられる場所としてとりあげています。平成17年に庄和町と合併した現在では、庄和道の駅さくら公園から始まる庄内領悪水路沿いの桜並木も、川沿いの人気がある桜スポットです。

 

ところで、市内の川沿いの桜はいつ頃植えられたのでしょうか?過去の広報をひも解いてみました。植えられた時期が広報からはっきり読み取れたのは、「藤塚橋付近の桜」と、「庄内領悪水路沿いの桜」で、いずれも昭和60年であることがわかりました。

 広報かすかべ昭和60年5月号

 広報かすかべ昭和60年5月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)

「藤塚橋付近の桜」は、記事に「桜並木を復活させよう」とあるので、新しく植えなおしたことがわかります。

広報庄和平成4年3月号

 広報しょうわ平成4年3月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)

 

 このほか、「古隅田川と古利根川合流地点の桜」は、古隅田川沿いと最勝院境内に、昭和29年の市制施行を記念して当時の商工会によって「観光桜」として植えられたものもあるそうです。(「かすかべ市議会だより」第28号 昭和52年5月)現在は、合流地点の桜は無く、十文橋西側の最勝院から春日部中学校裏に巨木が残ります。

古隅田川合流点の桜(平成4年ごろ_古隅田川土地改良区記念誌)

古隅田川合流点の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)

十文橋西側の桜(平成4年ごろ_古隅田川土地改良区記念誌)

十文橋西側の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)

 

「南栄町の古隅田川沿いの桜」は、内牧工業団地が昭和46年竣工なので、そのころに植えられたものでしょうか。

その他の桜は、植えられた年代がはっきりしません。しかしながら、広報をみていると、昭和62年に市民の方が「春日部には珍しい花見に出会いました。」(広報かすかべ昭和62年2月号)という文章を写真とともに寄稿しています。現在のように、市内のいたるところで桜の花がみられるようになるのは、意外と最近のことのようです。

ちなみに桜は樹齢約50年たつと、木の高さ約15m、幹の直径が約80㎝になるそうです。

 

この春は市内で、川沿いの風情ある立派な桜をどうぞお楽しみください。

 

参考文献 

古隅田川土地改良区 1992 『古隅田川土地改良区記念誌』