ほごログ(文化財課ブログ)

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【延期】12月26日考古学講座を延期します

12月26日(土)に予定しておりました考古学講座「権現山遺跡を探る」ですが、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため延期することといたしましたので、以下の通り、お知らせします。

 

考古学講座「権現山遺跡を探る」

日程 12月26日(土)→【延期】3月28日(日)

時間 午前10時から12時

本日までにすでにお申し込みの方につきましは、3月28日もお申込みいただいているものとして取り扱います。

考古学講座のご案内(日程は3月28日です。ご注意ください)

武里のオリジナルソング(広報補足・その8・最終回)

いよいよ、広報かすかべ10月特集号の補足も最終回です。今回は、 #武里 の #オリジナルソング #たけさと音頭 について。 #かすかべプラスワン

今年はコロナウィルスの影響で軒並み中止になってしまいましたが、近年、春日部市では「かすかべ音楽祭」や「ブラスジャンボリー」など、音楽のイベントが定着しつつあり、「音楽のまち春日部」とも称されています。しかし、そうした「歌や音楽で盛り上がろう!地域で一つになろう!」という取り組みは、実は最近の始まったものではありません。

「春日部のご当地ソング」ともいえる歌は、世に知られているだけでも19曲もあります(『春日部の歌と歩み』による)。以下、曲名・発表年を時代順に列挙します。

粕壁小唄 昭和7年(1932)以前/和楽音頭 昭和13年(1938)以前/春日部音頭 昭和25年(1950)/幸松音頭 昭和29年(1954)/新春日部音頭 昭和31年(1956)/古利根しぐれ 昭和31年(1956)/大凧音頭 昭和36年(1961)/たけさと音頭 昭和50年(1975)/小渕音頭 昭和52年(1977)/小渕小唄 昭和52年(1977)/庄和音頭 昭和55年(1980)/春日部藤音頭 昭和57年(1982)/春日部踊り 昭和60年(1985)/庄和町・町民憲章の歌 昭和61年(1986)/新大凧音頭 昭和61年(1986)/春日部サンバ 平成元年(1998)/庄和大凧ばやし 平成2年(1990)/心の空 平成27年(2015)

以前紹介した「春日部藤音頭」、大凧あげ祭りで流れる「新大凧音頭」、チェリッシュでおなじみの「春日部サンバ」、夏祭りで披露される「新春日部音頭」「古利根しぐれ」、夕刻のチャイムで流れる「心の空」など、おなじみの歌も多い一方、今では音源を入手できない歌もあります。それぞれの歌や制作の経緯や背景については、ふれあい大学34期生桐組6班の皆さんが執筆・編集された『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)に詳しく述べられています。

さて、このなかで、ひと際異彩を放つのが「たけさと音頭」です。「たけさと音頭」は、昭和50年(1975)武里団地入居10周年を記念して「団地の子どもたちに、ふるさと感覚を」としてつくられました(※広報では昭和52年としましたが、正しくは昭和50年のようです)。歌詞の作詞は、団地の住民に募りました。十数篇の応募があり、入選したのは文筆家の高木圀夫氏。氏は著書『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)のなかで次のように述懐しています。

「私の地元が子供たちにふるさと感覚を持たせる一つのアイデアとして祭り用の音頭を募集していたのであった。(略)なにげなしに原稿用紙の端に言葉を並べてみた。それが入選したのだ。考えられなかった。」

高木氏によれば、詞は決まったものの、作曲が問題となり、高木氏が高木東六の甥であることから、地元の人たちに取り次ぎを懇願され、高木東六が作曲をすることになったそうです。高木東六は、高名なピアニスト・作曲家で、TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてもおなじみでした。「たけさと音頭」は、オペラの作曲家がつくった唯一の民謡として生まれたのです。お披露目となったのは昭和50年(1975)8月1日、大場小学校体育館でたけさと音頭発表会が開催されました。当時の県知事も招待されたそうです。貴重な写真が武里団地の自治会報「たけさと」111号に掲載されています。

 写真:たけさと音頭発表会

異彩を放つのは、高木東六作曲だからではありません。上にあげた春日部のご当地ソングには、古利根川・江戸川・藤の花・大凧揚げなど、春日部を象徴する風景などが歌詞に織り込まれています。しかし、「たけさと音頭」には「郷土」を感じられるワードはわずかに「藤の花びら」だけです。『春日部の歌と歩み』では「「春日部」や「武里」といった地名が一切出てこず、「ふるさと音頭」とうたっているのが地域の歌としてはとてもユニークです」と的確に評しています。

曲ができた当時、春日部市はベッドタウンして人口が激増していた時代でした。武里団地は市のベッドタウン化の先駆けともなった地区です。そうした武里団地発の「たけさと音頭」の歌詞は、子どもたちになじみやすい言葉でつづられ、よく言えば「ユニーク」ですが、土臭さ、泥臭ささのような「郷土」的な個性がないように感じます。その理由はおそらく、それぞれ異なる「郷土」をもつ住民(親世代)たちが、新たな「ふるさと」を想像し、制作されたからではないでしょうか。「武里団地夏祭り」、そしてその場で流されてきた「たけさと音頭」(盆踊り)は、ベッドタウン化した春日部らしいイベント・ご当地ソングといえるのかもしれません。 

昭和49年武里団地夏祭り

ただ、残念なことに、郷土資料館では「たけさと音頭」のレコードを入手できておりません。春日部の現代史資料として極めて貴重だと思います。お持ちの方はご一報いただけると幸いです。

 

以上、市制15周年を機に、8回にわたり市内八地区の身近な歴史ネタを紹介させていただきました。それぞれの歴史はそれぞれ人の思いやさまざまな経緯が折り重なり、紡がれてきたものです。そうしたことをもう一度顧みることで、新たな「春日部らしさ」=まちの良さに気付き、そして春日部が歩む未来がみえてくるのではないでしょうか。

参考文献 ふれあい大学34期生桐組6班『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)、高木圀夫『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)

軍需工場・時計工場のまち南桜井(広報補足その7)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #南桜井駅 北側にあった #軍需工場 について。 #かすかべプラスワン

庄和地域の玄関口、南桜井駅。現在は市街地化され、駅前はにぎわっています。実は、南桜井駅周辺の市街地化のきっかけは、昭和戦中の軍需工場の疎開に求められます。
昭和18年夏ごろ、精工舎は東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう、伝達を受け、同19年3月より東京太平町の工場の一部の疎開を開始します。精工舎とは、東洋の時計王ともよばれた服部金太郎が創業した服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の製造・開発部門です。
昭和18年12月までに、南桜井村大字金野井、大字大衾、川辺村大字米島、大字新宿新田に、約6万坪の工場、約9万坪の厚生施設の敷地が強制買収されました。
当時の南桜井駅近辺はうっそうとした森で、松林などが生い茂り、「大衾山」、あるいは「オバケの森」とよばれていたそうです。こうした森林を敷地にするため、南桜井や周辺の青年団や粕壁中学校(現県立春日部高校)の生徒などが勤労奉仕として木の根堀りや建材の運搬作業に動員されました。なかには、大きな木は素人になかなか切れないので、シャリキとよばれる職人が大勢雇われ、木を切ったそうです。

この軍需工場は、服部時計店南桜井工場と命名され、昭和18年11月6日に資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅に貨物専用の米島仮停車場が設置され、その北側隣接地に工場・男子寄宿舎、南側に女子寄宿舎、武州川辺駅の南側に社宅が建設されました。当時、南桜井村の人口は3625人、川辺村は2424人(いずれも昭和15年国勢調査)でしたが、南桜井工場の疎開によって、3000人以上ともいわれる人が移住してきましたので、敷地内には医務室(診療所・病棟)や学校(私立服部南桜井青年学校)両村は景観も住民構成も大きくかわることになりました。

南桜井工場で製造されたのは、高射砲の弾丸の頭につけ爆発を誘発する部品で、45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管でした。高スピード、高回転のなかで正確に動かなければならないので時計製作よりも高い技術が必要だったといわれています。工場がフルに操業を開始したのは昭和19年10月で、最初の製品が完成したのは昭和20年1月のことといわれています。

また、昭和20年5月には、同年3月・4月の東京大空襲で被害を受けた東京第一陸軍造兵廠の第三製造所が、南桜井工場の北部の未利用地に疎開しました。精工舎の南桜井工場と混同を防ぐため江戸川工場と名付けられました。江戸川工場は軍直属の官営工場で、風船爆弾の信管を製造しました。

終戦となり、軍需工場は操業をとりやめ、閉鎖されます。南桜井工場はおよそ1年弱、江戸川工場は3か月半で幕を閉じることになりました。その後、工場の建物25万坪、機械2000台は大蔵省の管理下におかれましたが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと全国農業会の支援を後ろ盾に施設設備は転用され、昭和21年3月28日に株式会社農村時計製作所が発足します。農村時計では、目覚まし時計などを製造していましたが、品質はあまり良くなかったといわれます。経営難のためからバリカンや地震計の製造もしたこともありました。しかし、戦後の経済政策もあり、農村時計は昭和25年10月に事業を停止します。
農村時計の末期、順調な売れ行きをみせていた「リズム」という商標の時計がありました。昭和25年11月3日、この商標を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足し、農村時計の事業は継承されることになります。南桜井駅周辺は、平成9年(1997)年9月に工場が東京都墨田区に移転するまで、リズム時計の南桜井工場とともに戦後を歩んでいくことになりました。
リズム時計の工場はご記憶がある方も多いのではないでしょうか。写真も残っています。

写真:昭和49年南桜井駅と北側のリズム時計工場

昭和49年(1974)南桜井駅と北側のリズム時計工場

写真:昭和49年南桜井駅南側

昭和49年(1974)リズム時計工場からみた南桜井駅の南側

南桜井駅周辺は、その後ショッピングモールや住宅地として再開発され、軍需工場や時計工場の面影はほとんど残っていません。しかし、青年学校の跡地には葛飾中学校(のち移転。現桜川小学校)、医務室の跡地には子供の町として利用されるなど、道路・住宅の区画などは軍需工場以来の名残りがあります。また、ショッピングモールの敷地内に、リズム時計の創業地の記念時計塔が立てられています(シティーセールス広報課撮影)。

写真:南桜井の時計塔

昭和時代の南桜井駅周辺は軍需工場・時計工場とともに歩んできたといっても過言ではありません。ですが、終戦のときに関係資料が廃棄されてしまったため、戦中の軍需工場・時計工場については資料が少なく、詳しくわからない部分が多いのです。今回、気の利いた図版がないのもそのためです。

平成のはじめ、県立庄和高校地理歴史研究部は、資料が少ないなかで、地域住民の方々、関係者の方々に聞き取りをするなど丹念に調査をし、上述したことを明らかにしています。その成果は『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』という私家版にまとめられています。今から30年前だから聞けた話がふんだんに詰め込まれ、南桜井の歴史を知るうえで必読の書です。

長文になってしまいましたが、庄和高校のみなさんが明らかにされたことは、上のことにとどまりません。入手困難な図書なのですが、『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』も合わせてご覧いただけると幸いです。

次回は最終回です。クライマックスは、武里地区の「たけさと音頭」について。

参考文献 庄和高等学校地理歴史研究部『むかし庄和町に軍需工場があった』(1991年)、同『賀川豊彦と農村時計』(1991年)、同『南桜井村戦後史』(1989年)、『春日部市史 庄和地域 近代・現代』(春日部市、2013年)
     

郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました

令和2年12月13日(日)に、郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました。

毎年12月に開催しているしめ縄作り、本年はマスクの着用をお願いしたうえで、多く方にご参加いただきました!

体験講座しめ縄作り

 

まず半紙を使って紙垂(しで)を作り、その後しめ縄を作成しました。

しめ縄編み込み作業風景

しめ縄作りは意外と力のいる作業です。

「汗が出てきた!」とおっしゃる方もいたほど!

ですが、皆さん協力しながら頑張って作ってくださいました。

 

しめ縄仕上げ風景

丹精込めて編み上げ、立派なしめ縄ができました!

 

お帰りの際には「来てよかった」「また来年も来たい」というお言葉もいただきました。

楽しんでいただけたようで何よりです!

 

郷土資料館では、今後も感染防止策を徹底しながら講座などの企画を行っていく予定です。

広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!

 

12/26(土)「考古学講座ー権現山遺跡を探る」

12月号の広報かすかべでお知らせしました「考古学講座ー権現山遺跡を探る」につきましては、多くの方にご応募いただき、本日で当初定員の24名に達してしまいましたので、会場を変更し、定員を増やします。日程等については下記のとおりです。

日時:令和2年12月26日(土)10時から12時

場所:春日部市教育センター(粕壁東3-2-15)2階視聴覚ホール

内容:東中野の古墳時代の遺跡「権現山遺跡」について埋蔵文化財発掘調査報告書などを使って学ぶ

定員:54名(申込順)

申込:春日部市郷土資料館に直接、またはお電話(048-763-2455)でお申し込みください。

*12月10日から申込を受け付け、11日午前11:00現在、26名の方にお申し込みいただいております。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器

権現山遺跡出土底部穿孔壺形土器

(埼玉県指定文化財、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で常設展示中)

 

権現山遺跡については、こちらの記事もご参照ください。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器『新編図録春日部の歴史』からーその8

 

暮れの押し迫った時期の開催ですが、大掃除の合間などにぜひご来館いただければ幸いです。

 

【12/8~12/12武里地区公民館出張展示】一ノ割から武里の流路跡と自然堤防

12月8日(火)~12日(土)、武里地区公民館の会場をお借りして「武里のむかし・春日部のむかし」と題し、出張展示を行います。

概要は以下の通りです。

郷土資料館出張展示「武里のむかし・春日部のむかし」

日時:令和2年12月8日(火)~12日(土)9時~17時

*最終日の12日(土)は14時まで

会場:武里地区公民館3階研修室2

*12月10日(木)、10時と15時から、資料館学芸員が展示解説を行います。(先着15名様)

◎期間中、武里地区公民館は「たけさとBunkaウィーク」が開催され、各種行事が行われます。

武里地区公民館ブログ から、パンフレットなどをご確認ください。

 

さて、出張展示の会場となる武里地区公民館の北西側の道は、一ノ割駅南側から武里駅北側まで続く自然堤防に沿って走っています。

武里地区公民館北西の道路

武里地区公民館北西の道路 

国土地理院発行の治水地形分類図をみると、この道の西~南側には、古利根川がかつて大きくカーブしながら流れた流路跡の存在がわかります。

 治水地形分類図

国土地理院発行の治水地形分類図(更新版)に加筆

青の斜線部分が流路跡、黄色の部分が自然堤防

(*治水地形分類図は、「地理院地図(https://maps.gsi.go.jp)」からインターネット上で確認できます。)

一ノ割から武里に続く流路跡や自然堤防は、実際にその地形の現地を歩いてみると、道路がわずかな坂道となっていたりすることでわかります。今回の武里地区公民館の展示では、この流路跡と自然堤防についてのパネルも用意して、皆様にご紹介します。

どうぞ、ご来場ください。

 

武里地区公民館西側の道路

武里地区公民館西側の道路(写真中央が流路で武里地区公民館方面へ向かってわずかな坂になっている)

 

豊野・藤塚橋は歴史ある橋(広報補足その6)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #古利根川 に架かる #藤塚橋 について。 #かすかべプラスワン

藤塚橋の架橋が計画されたのは、昭和6年(1931)11月のこと。大正15年(1926・昭和元年)10月に一ノ割駅が開業し、駅と豊野村を結ぶ架橋の要望が高まったことが直接の背景でした。昭和8年(1933)5月8日に架設されます。

藤塚橋は、木造の橋で、幅は3.63mしかなく、当然大型の車両は通行できませんでした。当時の貴重な写真が伝わっています(藤塚小郷土資料室所蔵)。

 写真:昭和17~18年藤塚橋

昭和17~18年藤塚橋

写真:昭和25年ごろ藤塚橋

昭和25年ごろ藤塚橋

 

藤塚橋は当時、賃取橋(ちんとりばし)といって、有料の橋でした。現代的な感覚では、橋を渡るのに、なぜお金がかかるのか、と思いますが、当時は橋は地元の人たちが私費を投じて架橋した公共物でないものが多く、橋の維持管理費を賄うため、通行料を徴収する必要がありました。

その後、藤塚橋は、昭和29年(1954)の市制施行のときに春日部市に買収され、公共物となり、無料で渡れる橋となり、昭和40年(1965)にコンクリート製の橋に架け替えられ、現在に至ります。昭和40年の渡り初めの時の写真がこちらです。ちなみに、藤塚橋のたもとには、昭和40年の架け替えを記念し、橋の由来を刻んだ石碑が建てられています。

写真:藤塚橋開通

橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。

市内を見渡すと、江戸川・庄内古川・古利根川・古隅田川のいずれにも、もともとは渡船場で、その後継として橋が架けられる例が散見されます。以前紹介した、江戸川の宝橋(西宝珠花ー東宝珠花・宝珠花の渡し)のほか、古隅田川の十文橋(粕壁ー梅田・十文渡し)、古利根川の八幡橋(粕壁ー八丁目)、古利根川橋(赤沼ー平方・戸崎の渡し)、庄内古川の永沼橋(藤塚ー永沼・永沼の渡し)、倉田橋(赤沼ー赤崎・倉田の渡し)などです。このほか、古くからの橋も元々渡河点だった可能性があります。

車優先社会の現代にあっては、交通渋滞を緩和させるため、幹線道路が整備され、いとも簡単に新たな橋が架けられ、私たちは橋に対してありがたみをあまり感じることが少なくなっています。藤塚橋を含め、現在も残る歴史ある橋は、河川で地理的に隔てられた両岸の人々の交流の結節点=渡船場の後継として架橋されたものといえるでしょう。地元の方々が架橋や維持に苦心され、両岸の人々をつないできた歴史ある橋であることを知れば、少々渋滞してもイライラしないかもしれません。

次回は、南桜井の時計工場について紹介します。

参考文献 『歴史の道調査報告書 利根川の水運』(埼玉県教育委員会、1989年)

【常設展示変更】神明貝塚組合せ土器ほかの展示を変更しました。

郷土資料館の神明貝塚展示コーナーでは、神明貝塚から出土した「ヒスイ製丸玉」、「貝輪」、「土偶」と市指定文化財の「堀之内式組合せ土器」を展示しております。

このたび、これらの展示品が、行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館で12月12日(土)から行われる「最新出土品展ー地中からのメッセージ」にて展示されることになりました。展示の概要は下記の通りです。ぜひお出かけください。

<令和2年度最新出土品展ー地中からのメッセージ>

日時:令和2年12月12日(土)~令和3年2月7日(日)

会場:さきたま史跡の博物館(行田市埼玉4834、048-559-1111)

開館時間:午前9時~午後4時30分(入館は4時まで)

休館日:月曜日(祝日、振替休日を除く)、12月29日~1月3日

埼玉県立さきたま史跡の博物館サイト

 

さて、貸出しに伴い、神明貝塚の展示ケースの展示品の一部を入れかえ、お馴染みの縄文時代、江戸時代の人骨とともに、写真の神明貝塚出土の鉢形土器を展示しました。

この鉢形土器は、昭和36年(1961年)、埼玉県立浦和第一女子高校の郷土研究部の調査で出土したものです。

口径(口の直径)が約24㎝、高さが17㎝、口の部分に突起がつき、胴の部分は、縄文の上に棒のような道具でレンズ状の文様を描いています。組合せ土器と同様、神明貝塚で多く出土する堀之内式に分類されます。

郷土資料館ご来館の際は、ぜひご覧ください。

神明貝塚鉢形土器

粕壁・大池のひみつ(広報補足その5)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #釣り堀 だった #粕壁 地区の #大池 について。 #かすかべプラスワン

広報誌では次のように紹介しました。

大池に観光客が殺到!?

昭和34年、東武鉄道株式会社に粕壁の大池(現大池親水公園)を貸し出し、つりの家が新築されました。つりの家は、その名の通り、東武鉄道が運営する釣り堀で、池には桟橋が架けられ、釣り客でにぎわいました。

 

大池は、記録の上では、少なくとも江戸時代から存在していた池です。大池の東側を南北に通る「大池通り」は、江戸時代には「蝦夷堤」(「江曽堤」・えそつつみ・えぞつつみ)と呼ばれた堤防と認識され、古来の古利根川の堤防と考えられています。大池の起源は、洪水時にこの堤防が切れ、できた水たまり(押堀・オッポリ)であると考えられ、古利根川が現在の河道になる以前(近世以前)に成立したと考えられます。次の江戸時代中期、安永3年(1774)の絵図写は、大池を描いた最古の資料です。

画像:大池 安永絵図

粕壁(宿)には、大池のほかに、赤堀池(現コミュニティーセンター敷地内)、二ツ池(浜川戸の鹿島池・金池、現存しない)と呼ばれた池がありました。大池は、これらの池のなかでもひときわ大きな池だったので「大池」と名付けられたのでしょう。天明6年(1786)の大洪水のときには、岸の柳に大蛇がいた、という逸話もあり、池のほとりには水神様が祀られています。

大池は、昭和8年(1932)「粕壁町地図」などにも、池沼として描かれています。池の周囲に水路があり、排水や遊水地として利用されていたものとみられます。

写真:昭和8年大池

 

戦後の空中写真(昭和24年。空中写真は国土地理院提供、以下同じ)でも、なんの変哲もない池であることがみてとれます。

写真:昭和24年空中写真

しかし、大池史上、大きな転機となったのが、冒頭に触れた、東武鉄道による大池つりの家建設。池のほとりに「つりの家」を建設し、大池は釣り堀施設として利用されることになりました。昭和41年(1966)のつりの家の写真がこちらです。

写真:昭和41年つりの家 写真:昭和50年空中写真

池のなかに桟橋をかけ、釣り客が釣りを楽しめるようにしていたようです(昭和50年空中写真)。

昭和40年ごろ製作されたと考えられる春日部市のパンフレットにも「観光」スポットとして大池つりの家が紹介されています。

画像:パンフ表紙写真:春日部市パンフレット

このパンフレットをみると、古利根川の花火大会、市内の神社仏閣に並んで大池つりの家が紹介されています。パンフレットの表紙も、藤、桐箪笥、麦わら帽子にならんで、釣りのイメージが描かれています。東武鉄道は、鉄道利用者を増やすために沿線に観光スポットを造り、大池を釣り堀として整備したのでしょう。当時、釣りは春日部市を代表する観光の目玉として押し上げられていったと考えられます。

画像:パンフレット拡大

写真:大池つりの家

その後、春日部市では宅地化がすすみ、人口が増えていきました。昭和50年ごろから、釣り堀以前は大池に落とされていた排水が、線路沿いや大池のまわりに溜まり、悪臭をはなっていると問題視されるようになっていきました。また、昭和50年代後半には、つりの家の管理者が不在になり、荒廃していると報告され、東武鉄道から早期に返還して、市民憩いの場にとの声が高まっていきました。

昭和63年の空中写真をみると、

写真:昭和63年空中写真

昭和末年には桟橋が取り外され、現状復帰されていったものとみられます。

そして、平成2年(1990)4月、大池憩いの家がオープンします。現在は、珍しい野鳥も訪れる市民憩いの場として利用されています。池での釣りは禁止されています。 

詳しい資料がなく、釣りの家の時代・市に返還されるまでの過程がよくわかりませんが、釣り客でにぎわったのは、昭和30~40年代にかけての短い期間だったと考えられます。おそらく、春日部のベッドタウン化・宅地開発の波にのみこまれていったのではないでしょうか。

次回は、豊野・藤塚橋の話題です。

緑小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

 

令和2年11月20日(金)に緑小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

 

学芸員から昔の暮らしや道具について説明を受けていると、児童が「これに載ってた!」と言って開いたものが「たんけんシート」。

これは郷土資料館から市内の小学校3年生あてに配布したもので、事前によく見てきてくれたようです。

 緑小学校館内見学写真

見たことはあっても、名前を知らない昔の道具たち。今日は名前も覚えていきましょう!

 

緑小学校竪穴式住居見学写真

自由見学の時間に竪穴式住居の前にいた児童からは

「よく見るとイノシシの皮だ!」と、人物の下に敷いてある物が何の動物かまで気が付きました。

見るだけでなく、“観察する目”が育ってきていますね♪

 

緑小学校体験コーナー写真

昔のおもちゃコーナーでは、紙鉄砲でいい音を鳴らす児童からは

「ストレス解消になった!」という言葉も(笑)

 

とっても元気で、反応が豊かな緑小学校3年生でした!

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。

感染拡大防止策を徹底しながらお待ちしておりますので、皆様もストレス解消にぜひご来館ください。

 

 

郷土資料館体験ワークショップを開催しました

令和2年11月14日(土)に、郷土資料館体験ワークショップ「パタパタをつくろう」を開催しました。

 

まずは蓄音機でレコード鑑賞をしました。基本的にワークショップの時限定で使用しているこの蓄音機。今年度初お披露目です♪

体験ワークショップ蓄音機写真

回転の速さによって高くなったり、低くなったりする音を聴いてとても楽しそうでした。

 

昔のおもちゃづくりでは「パタパタ」を作りました。

作り方が少し難しいおもちゃですが、職員の話をよく聞いて、みんな上手に作れていました。

体験ワークショップおもちゃ制作写真

1週間前から今日を楽しみにしていたとのことで、職員一同感激です♪

 

最後は記念の缶バッジづくり。

体験ワークショップ缶バッジ制作写真

今日のために用意したオリジナル缶バッジ作り体験も大変好評でした!

 

郷土資料館では、今後も感染防止策を徹底しながら講座などの企画を行っていく予定です。

次回の体験ワークショップは令和3年1月24日(日)に開催予定です。広報誌等でお知らせもいたしますので、ぜひご確認ください。

おもちゃは紙鉄砲とぴょんぴょんカエルを作るのでお楽しみに!

 

【常設展】須釜遺跡出土土器を展示替えしました

郷土資料館常設展示の弥生時代のコーナーでは、須釜遺跡の再葬墓から出土した弥生時代中期(約2,000年前)の土器を展示しています。

須釜遺跡の概要についてはこちら→須釜遺跡再葬墓出土遺物一括-指定文化財でめぐる春日部

これまでは、遺跡発見のきっかけとなった1号再葬墓の土器を展示していましたが、このたび4号再葬墓から出土した土器に展示替えしました。

4号再葬墓は、須釜遺跡でも変わった再葬墓で、ほかの再葬墓では複数の土器が1つの穴から出土したのに対し、4号再葬墓では、今回展示する土器、1つだけが出土しました。

出土した土器は壺形で、やや高い位置に最大径をもつプロポーションがとても整った土器です。胴の部分には、縄文をつけた上に、棒の先のようなもので、花のように、円から四方向に楕円形がのびるモチーフが4つみられます。

底には穴があけられ(底部穿孔:ていぶせんこう)、墓に使う土器として、日常の土器とは区別されました。さらに、割れた部分を再度つなげるために使う穴(補修孔:ほしゅうこう)もみられます。

土器の表面には籾(もみ)がはりついていたあと(籾圧痕:もみあっこん)があります。(展示では籾圧痕の部分にシールを貼っています。)

制作途中の弥生土器の表面に籾がつき、土器を焼いた後にそれが圧痕として残ることは、考古学では古くから知られていました。近年、圧痕と思われる穴にシリコンを入れ型どりしたレプリカを作成し、それを電子顕微鏡で観察することにより、何によってできた穴かを調べる「レプリカ法」が考古学でも積極的に使われています。レプリカ法により籾だけでなく、植物の種、茎など、さまざまなものが土器に圧痕として形を残していることがわかってきています。

須釜遺跡では、4号再葬墓の土器のほかにも籾や玄米の圧痕が残された土器が6個体出土しており、弥生時代の春日部には、確実に米が存在していたことを示しています。

ぜひご来館いただき、実物をお確かめください。

4号再葬墓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4号再葬墓出土状況

4号再葬墓出土土器底

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器の底の穴(底部穿孔)

4号再葬墓出土土器籾圧痕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器表面の籾のあと(籾圧痕)

4号再葬墓出土土器

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器

 

 

緑小学校で出張授業を行いました

11月7日(土)に緑小学校の6年生を対象に縄文体験教室の出張授業を行いました。約3か月ぶりの出張授業は、土曜授業の日となりました。

子どもたちによると、社会科の授業は江戸時代の徳川家光の頃まで進んでいるとのことで、縄文時代がどんな時代だったかと聞いてみるも、苦笑いで答えに詰まる様子もあり、授業での印象も遠のいていたようにも感じられました。

授業の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲春日部市内にも縄文時代の遺跡があることを知り、真剣に授業を受けてくれました

石器体験の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

▲石器のコーナーでは切れ味の体験だけでなく、石器の原料となる石材がどこからやってきたのか学びます。遠いところとの交易によってもたらされたものと知り、驚く様子もみられました。

 

子どもたちも授業が終わるころには、だんだんと縄文時代について学んだことを思い出した様子で、問いかけにも応じてくれました。本日のように平日だけでなく土曜授業の場合でも出張授業に対応しますので、ご依頼お待ちしています。

花積って思いのほか有名な地名です(広報補足その4)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #考古学 をかじった人は必ず知っている「花積」の #縄文土器 について。 #かすかべプラスワン

 

広報の記事では、次のように紹介しました。

花積って有名な地名

花積は、考古学をかじった人は必ずしっている地名です。なぜなら花積下層式土器という「花積」の地名がつけられた今から約7千年前の土器の型式になっているからです。

花積には貝塚があり、周辺に比べて小高いため、東京湾が春日部まで広がっていた時代に陸地だったことが実感できます。

 

花積には、花積貝塚という、県内では数少なく、学術上欠くことのできない縄文時代の貝塚が所在します。なぜ学術上欠くことができないのか。それは、花積下層式土器(はなづみかそうしきどき)の標式遺跡だからです。標式とは、聞きなれない言葉ですが、考古学で一つの型式を的確に示すことのできる典型的な遺跡・遺物を指すものです。考古学上、花積下層式土器という土器の型式を決定づけた遺跡ということです。

花積貝塚は、明治時代中頃には既に貝塚として知られていましたが、広く知られるようになったのは、昭和3年の大山史前学研究所による発掘以後になります。大山史前学研究所は、軍人であり考古学者でもある公爵・大山柏が邸宅内に設置した遺跡の調査研究機関です。

大山史前学研究所の発掘調査により、花積貝塚の貝層は中間に土層を隔てて二層あり、上部貝層から勝坂式土器が多く出土したのに対し、下部貝層からは蓮田式土器が出土しました。のち、後者の蓮田式土器は細分類され、花積貝塚の下層からはじめて発見された土器型式は甲野勇により「花積下層式土器」と命名され、縄文時代前期初頭の土器型式と定められます。

 

花積下層式土器は、胎土中に繊維を多量に含み、羽状縄文(右撚りと左撚り縄をつなげて文様をつけたもの)や、撚糸(よりいと)が「の」の字形に押し付けられた文様が施されている特徴があります。 

大山史前学研究所が発掘した花積下層式土器はこちら。

写真:花積下層式土器(春日部市史考古資料編)

花積貝塚では戦前の調査でも、その後の調査でも花積下層式土器は破片のみの出土であり、完全な形の花積下層式土器は発見されていません。素人考えだと、完形の土器が出土していないのに、なぜ花積下層式土器はかくも有名なのだろうか、と思うところですが、戦前、大山史前学研究所を中心とする考古学者たちが、小さな土器片であっても、資料に基づき実証的に土器研究を積み重ねてきたため、現在も花積下層式土器という土器型式名称が学術用語として使われ、広く知られているのです。

残念ながら、大山史前学研究所は昭和20年5月の空襲に遭い、収蔵していた貴重な資料は焼失・散逸してしまいました。花積下層式土器の命名の基になった写真の土器は、失われてしまいました。

花積下層式土器は、縄文時代早期と前期を結ぶ学術上重要な土器型式であり、今後の研究も期待されているようです。と同時に、考古学と春日部を結ぶ重要な土器でもあります。

郷土資料館でも、縄文土器について詳しいお客様から、花積貝塚・花積下層式土器についての展示が貧弱だと、たまにお叱りをいただきます。花積貝塚・市内の遺跡から展示に耐え得る花積下層式土器の出土例が乏しい事情をお話して、陳謝することもありますが、「花積」の名が付いた土器から、春日部に興味をもってくださる方もいらっしゃるのです。

次回は、粕壁の大池についてです。

 

参考文献 『春日部市史 考古資料編』、阿部芳郎『失われた史前学 公爵大山柏と日本考古学』(岩波書店、2004年)

懐かしい暮らしで元気に

11月8日(日)市内の高齢者施設の方々が #春日部市郷土資料館 を見学されました。 #かすかべプラスワン

みなさん、高度経済成長前後の生活道具をご覧になって、「若いころちゃぶ台を使っていた」とか「炭を使って、アイロンを使った」など、昔のことを懐かしんでお楽しみいただけたようです。

写真:高齢者施設の方々

郷土資料館はデイサービスなど、高齢者施設の方々の見学も歓迎しています。

なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。団体でご見学を希望される場合は、事前にご相談いただければ幸いです。

郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました

令和2年11月7日(土)に、郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました。

江戸打ち紐を使い、10㎝程度の小さなぞうりを編み込んでいくもので、毎年参加者の方にはご好評いただいている企画です♪

 

体験講座紙芝居朗読写真

ミニぞうり作成前には、郷土の歴史に親しんでいただくため、職員が春日部市域にまつわる伝説の紙芝居を朗読しました。

 

体験講座ミニぞうり制作写真

職員の説明を聞きながら、皆さん丁寧に編み込んで綺麗なミニぞうりを完成させていました。

講座終了後のアンケートには、難しかったけど楽しかったというご意見をたくさんいただき、充実した時間を過ごしていただけたようで私共もうれしい限りです。

 

ミニぞうり写真

こちらはミニぞうりの見本です。飾りにぴったりミニサイズ♪

 

郷土資料館では、今後も新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底しながら、講座などの企画を行っていく予定です。

広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!

 

 

【体験ワークショップ】埼玉県民の日(11月14日)パタパタをつくろう

11月14日(土)の埼玉県民の日、体験ワークショップをおこないます。

体験ワークショップでは、手作りのおもちゃを作ったり、蓄音機(ちくおんき)でレコードの音楽をきいたりします。

今回作るおもちゃは「パタパタ」です。板返しとも言って、上から下へ板がパタパタと音を立てて裏返っていく、ちょっと不思議なおもちゃです。

申し込みはいりません。午前10時30分と午後2時からそれぞれおこないます。

県民の日は、郷土資料館でおもちゃを作って、たのしく遊びましょう。

 

体験ワークショップ「パタパタをつくろう」

日時:令和2年11月14日(土)午前10時30分~・午後2時~

場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)

作るおもちゃ:パタパタ(板返し)

蓄音機の上演もあります。

費用:無料

申し込み:不要。予定の時間に郷土資料館におこしください。

*参加者多数の場合、人数制限をさせて頂く場合がございます。当日、会場で検温させていただきますが、体調の悪い方は参加をお控えください。またマスクの着用をお願いします。

 

ワークショップパタパタ

 

放送大学の方が、郷土資料館を見学しました

令和2年11月1日(日)に放送大学の学生の方が、面接授業「埼玉の街道」の一環として郷土資料館を見学

されました。

 

放送大学館内見学写真

皆さん歴史に興味のある方なので、学芸員の解説に深く頷きながら聴いている方や、メモを取られる方、常設展示のパンフレットを手に取る方も多くいらっしゃいました。

 

放送大学宿場模型見学写真

 資料館を見学した後は、粕壁宿の現在の街並みを見学に行かれました。

 

今回は20名の幅広い年齢層の方にお越しいただきました。

郷土資料館が皆さんの学びの一端となれば幸いです。

 

郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡の上、ぜひご来館ください。

「1960年代の春日部」の写真を掲示しています

 

夏季展示でご好評いただいた「1960年代の春日部」展で使用した写真を、資料館入口横の掲示板に展示しています。

しばらくの間、定期的に入れ替えながら展示します。

教育センターにお越しの際は、ぜひご覧ください。

また展示する写真を掲載した展示図録は、下記のリンクからPDFをご覧になれます。

(PDF)1960年代の春日部(春日部市郷土資料館)(2.4MB)

 

 

1960年代の春日部展示コーナー

船も車も通れる橋(広報補足 その3)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は庄和北部の西宝珠花の、江戸川に架けられていた橋「宝橋」について。川舟を並べ、その上に板を渡して橋にした船橋でした。 #かすかべプラスワン

写真:宝橋

人工の河川である江戸川は、その開削以来、舟運が大変盛んな河川であり、西宝珠花は河岸場の町として賑わった集落でした。宝珠花は、中世以来の郷村であり、江戸川が開削されたため、西宝珠花と東宝珠花(千葉県野田市)に「分断」された地域でもありました。そのため、江戸川に隔てられていても、東西の交流は盛んで、渡船場もあったようです。

しかし、明治時代以降の河川改修により、江戸川の川幅が広がり、堤防もかさ上げされ、さらには、東武鉄道の粕壁駅や杉戸駅に連絡する自動車の交通量が増加してきてことにより、架橋への要望が高まっていきます。

大正13年(1924)、西宝珠花の有志が宝橋組合を結成し、県内でも珍しい船橋を架橋しました。永久橋でなく、船橋とした理由は、未だ舟運業が盛んであり、蒸気船や和船の航行を妨げないためでした。郷土資料館では、宝橋組合の資料を保存していますが、そのなかに、次のような宝橋の設計図面があります。

写真:宝橋の青焼き図面

図面から読み取れるように、合計11艘の舟が板橋を支え、中央部の舟が旋回することで、幅11.2mの舟が通過できる航路をつくりました。

宝橋の架橋によって、舟運業を妨げず、自転車・自動車・リヤカー・人力車など、渡船では向こう岸に渡りづらかった車両も通行することが可能となりました。橋の維持管理のため、通行料が必要な有料の橋でした。通行の回数券や定期券も発行されていたようです。

写真:宝橋回数券

戦後、自動車輸送が普及し、江戸川の舟運が衰退していくと、県道の整備にあわせて、宝橋を永久橋に架け替えすることが計画され、昭和33年(1958)3月、鉄筋コンクリート製の宝珠花橋が架橋されました。橋開きの当日には、西宝珠花・東宝珠花の両岸の住民が押し寄せ、混雑した様子がうかがえる古写真もあります。

写真:昭和33年の橋開き

「船も車も通れた」というのが、舟運と陸運が共存していた当時の市域の交通事情を象徴しているようです。わたしたちが、普段は何気なく渡っている橋にも、そこに橋が架けられた経緯があると思いを巡らせると、ワクワクするのは私だけ!?

次回は、豊春地区の花積、花積下層式土器の話です。