ほごログ
【広報かすかべ】まちのことを知ってみよう!補足(その1)
令和2年10月1日、春日部市は市制施行15周年を迎えました。10月1日は春日部市民の日です。 #かすかべプラスワン
市の広報誌「広報かすかべ」10月号では、市制15周年の記念して、特集記事「まちのこと知って、まちのことを発信してみよう!」が組まれました。
郷土資料館では、2面・3面の記事の内容を監修(?)しました。記事の内容は、市内8地区の意外に知らない、身近な歴史ネタを紹介したものです。郷土の歴史は「春日部らしさ」。なので、市制15周年を機に、身近にある「春日部らしさ」を再発見してもらいたいと願い、記事を書きました。
紙面に限りもありましたので、言葉足らずだった部分もありますので、この場を借りて補足説明をさせていただきます。今回はその第一弾「内牧編」です。
記事は次の通りです。
春日部唯一!?古代人の顔
内牧の塚内古墳群(市指定史跡)は、6世紀~7世紀につくられた約20基の古墳からなる古墳群です。このうち塚内4号墳からは、市内でも数少ない、人の形をした埴輪(はにわ)が発見されています。※古墳は全て私有地に所在し、一般公開はされていません。
埴輪の性別は男性です。郷土資料館で展示中。
郷土資料館ではおなじみの人物埴輪を紹介しました。顔を側面に、美豆良(みずら)とよばれる男性の髪型を模った造形の痕跡がありますので、男性の埴輪とされています。
市内では、内牧の塚内古墳群のほか、庄和南部の東中野地区の向之内塚山古墳の二地区に古墳が認められます。塚内古墳群は20数基確認され、向之内塚山古墳と合わせて、多くの埴輪片が出土しています。しかし、人や馬などを模った形象埴輪はわずかで、さらに人の形の埴輪は、紹介した人物埴輪が「唯一!?」です。実は、この「!?」がミソです。
人物埴輪の出土例は、塚内古墳群で数点確認されます。その一部が下の写真です。
首から肩・胸にかけての、人物埴輪の部分です。丸いものは首飾りを模っているのでしょうか。
残念ながら、顔面は失われており、どんな顔だちなのか不明です。このほかにも、人の形の埴輪の部位と考えられる欠片がいくつか発見されていますが、肝心のお顔は見つかっていません。
ですから、塚内4号墳は、顔だちがわかる埴輪としては市内唯一ですが、人の形の埴輪として「唯一」ではないのです。今後、新たに発見されるかもしれません。そうした期待も込めて、「唯一」ではなく「唯一!?」とした次第です。
長くなりましたが、補足説明でした。次回は、幸松編・競馬場の話を予定します。
【台風】古文書講座(初級編・中級編)中止します
令和2年10月10日(土)に開催予定の古文書講座(初級編・中級編)について、台風14号の接近が予想されていますので、受講者の皆さんの安全のため、中止といたします。
初回は、11月14日(土)となりますので、ご承知おきください。
皆さまのご理解のほど、よろしくお願いいたします。
【はじまりました】「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具」展
令和2年10月6日(火)より、小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」がはじまりました。
この展示では、今から約60年前の、道具やくらしの変化、そしてまちのうつりかわりを紹介するものです。小学校第3学年の社会科地域学習単元に対応した内容になっていますので、お子様でも楽しく学べる内容になっています。ご家族でぜひご利用ください。大人の方は、昔を懐かしんでいただける内容として、お楽しみいただけます。
この展示会は、毎年恒例なのですが、コロナ禍にあってハンズオン展示が難しいということもあり、今回は大幅に展示物や陳列方法を見直してみました。
担当者のおすすめは、新設した「切手と収蔵品でたどる20世紀」のコーナーです。
平成11年・12年に発売された20世紀デザイン切手を軸に、切手の図柄に描かれるゆかりの収蔵品を合わせて並べてみました。しかし、数万点はくだらない当館の収蔵品でも、昭和40・50年代の資料は乏しく、頭を悩ませました。
そこで、粕壁のレコード店に駆け込み、当時流行したレコードを捜し、陳列することにしました。ピンク・レディー「UFO」、ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」、山口百恵「秋桜」などがそれです。担当者は同時代を知りませんが、レコードジャケットの風合いが懐かしさを醸し出していると思います。そのほかにも、時代を象徴する出来事にゆかりの資料を展示していますので、ぜひご覧ください。
展示名:小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」
会期:令和2年10月6日(火)~令和3年3月21日(日)
休館日:月曜日・祝日・年末年始
入館料:無料
「1960年代の春日部」パンフレットPDF版
第62回企画展示「1960春日部」は7月7日に、無事終了いたしました。
ご来館いただいた皆様、誠にありがとうございました。
会場で配布しておりました「1960年代の春日部」パンフレットをPDFにて掲載いたします。どうぞご利用ください。
*インターネット掲載にあたり、8ページ(3.1967年埼玉国体)の記述を一部修正しました。
誤:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。
正:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)と軟式野球(牛島球場)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。
*12月1日(火)修正:1ページ、谷原中の開校年を下記のとおり修正しました。
誤:(1976・昭和51年)→正:(1975・昭和50年)
*12月16日(水」)修正:2ページ「武里団地起工式」の年を下記の通り修正しました。
誤:武里団地起工式(1964年)→正:武里団地起工式(1965年)
東洋一のマンモス団地
9月13日(日)まで企画展「1960年代の春日部」を開催しています。
「東洋一のマンモス団地」とは、どこの団地を指しているのでしょうか?という質問をいただきました。
草加市の草加松原団地は、1962年入居開始、竣工時戸数は5,926戸を誇ります。
草加市歴史民俗資料館では、10月4日まで、「草加×東洋一のマンモス団地展(草加市歴史民俗資料館サイトにリンク)」が開催されています。
わが春日部市の武里団地は、1966年入居開始で、竣工時の戸数が賃貸、特別分譲を合わせて6,119戸です。武里団地と草加松原団地は、埼玉県内のみならず全国的にも、規模が大きい団地です。
最大規模の団地は、UR都市機構のサイト(該当サイトにリンク)によると、東京都板橋区の高島平団地(1972年入居開始)で、総戸数10,170戸と、UR都市機構(旧日本住宅公団)が手がけた最大の団地とのことです。
国立国会図書館サーチ(該当サイトにリンク)で「東洋一 マンモス団地」という言葉で検索してみると、1962年7月1日号の週刊現代の記事がヒットします。この記事では、「夢の東洋一マンモス団地の誕生」と題し、大阪府の「千里丘陵ニュータウン」を採りあげています。千里ニュータウンは、大阪府営住宅、大阪府住宅供給公社、UR都市機構の住宅で構成され、3万戸の住宅にピーク時には約13万人が居住しました。
作家の藤井青銅氏は、2005年に『東洋一の本』を著し、日本中の「東洋一」を集め、考察されています。「東洋一」という言葉は、戦前から戦中の1926~1940年ごろと1951~1965年ごろの2度、新聞記事の見出しに多く使われたようです。武里団地や草加松原団地が完成した1960年代は、2回目の「東洋一」が多く使われる時期にあたります。また「東洋」という言葉は、確定的な範囲を示すものではなく、「西洋」に対して誕生した言葉であるようです。
藤井氏は、「東洋一」という言葉は、『エジプト旅行記』(ドミニク・ビバン・ドゥノン著、1802年)や福沢諭吉の『世界国尽』(1869年)が初出ではないかと推察されています。そして仮説として「西洋>東洋」という図式を意識した明治期の日本人が、「東洋一」であれば、西洋に認められると考え、多用し始めたのではないかとしています。
また高度経済成長期は、奇跡的に経済復興を果たした日本が、「東洋一」を名乗りやすくなり、規模の大きさなどを示す「東洋一」が数多く生まれたとしています。
ちなみに『東洋一の本』に掲載されている「日本全国『東洋一』物件リスト」には、大阪府の香里団地が「東洋一の団地」と呼ばれたことがあるとして掲載されています。
「東洋」の範囲を確定できない以上、真の「東洋一のマンモス団地」は残念ながらわかりませんが、1960年代の人々が「東洋一」と胸を張って誇った団地の歩みを、後世にも受け継いでいきたいものです。
武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)
参考文献
日本住宅公団20年史刊行委員会 1975 『日本住宅公団20年史』 日本住宅公団
千里ニュータウン情報館サイト https://senri-nt.com/
藤井青銅2005『東洋一の本』株式会社小学館