校長室より
人と猿の違いとは?映画「猿の惑星」から
あけましておめでとうございます。
3学期の始業式、私は全校の子ども達に言いました。
「今年の干支は何でしょう。何年でしょうか。」
「猿・・・」
「そうですね。今年は申(サル)年です。」
「では、人と猿はどこが違うと思いますか。私達人間と動物の猿はどこが違うのかを考えて下さい。
今から1分間あげますので隣や近くの人と話し合ってみて下さい。」
子ども達は直ぐに一所懸命に考えてそれぞれ話し合っていました。
「人は言葉を使える。人は火を台所で使うことができる。道具を使う。二本足で歩ける。・・・」
「では、人と猿とでは、どちらが優れているのでしょうか。どちらが賢いでしょうか。」
今から48年前の1968年、私が小学校5年生の時に「猿の惑星」というアメリカの映画が上映されており友達と一緒に見に行きました。
当時、子ども心ながら凄いショックを受けたことを覚えています。
あらすじは次のようなものです。
アメリカのケネディー宇宙センターから打ち上げられた宇宙船が、長い宇宙飛行を続けており4人の宇宙飛行士は、光と同じ位に早いスピードの宇宙船に乗っておりました。
そのために、4人は冬眠装置の中に入って冬眠状態で眠っており、地球の時間で言えば約2千年も過ぎてしまっていたのです。
ある時、宇宙船がトラブルに見舞われて近くの惑星に不時着しました。
男性3人は冬眠から覚めて無事でしたが、仲間の女性宇宙飛行士は、冬眠装置がこわれていて既にミイラになってしまっていました。
男性3人の宇宙飛行士は、何とか宇宙船から脱出して初めて見る惑星を歩き続けました。
砂漠地帯をやっと通り過ぎると、緑の森がありました。
しかし、そこで見たものとは・・
猿の兵隊が、馬に乗って裸の人間を鉄砲で撃ちながら、追い詰めて捕まえているのです。
3人も逃げ切れず、2人は猿に殺されます。主人公も首に玉が当たり気を失います。
この星では、人間と猿の逆転現象が起こっていたのです。
猿の方が賢くて、弱い人間は捕まると檻の中に入れられてしまっていたのです。
主人公のチャールトン・ヘストンが馬に乗って、波打ち際の海岸線を逃げているとついに彼が見たものとは、
海岸の砂浜に胸まで埋まっていたニューヨークに建っていた自由の女神像でした。
彼は、「オーマイ ゴッド!」と叫び、ここは地球だったのだ。ここは故郷だったのだ。
本当にやってしまった。バカども。このザマは何だ。
皆、地球で苦しめ。
と言って映画は終わります。
私は、冬休みにもう一度DVDでこの映画を見ることにしました。
分かっているとは言え、ラストの衝撃はやはり凄いものがありました。
始業式で、子ども達には「どうして人と猿が逆転してしまったのか?考えてみて下さい。」
と言って終わりました。私からは答えらしきものは何も言っていません。
始業式の数日前に、折しも北朝鮮が水爆の実験が成功したという重大ニュースが流れていました。
約50年前に皮肉を込めて寓話として撮った映画が、今も真実味を帯びているとしか言いようがありません。
映画の中では、優秀な猿の科学者が、「人間の知恵は愚かさと同居している。感情が理性を支配し、戦いを好む動物だ。自分を含むすべての者と戦う。」と人間のことを評価しています。
現在、核兵器を持っている国は10ケ国あります。
原子爆弾・水素爆弾等の核弾頭の数は、1万7千発あるそうです。
地球何百個分を破壊する武器を私達人間は持っています。
過去に人間が作った武器は、必ず使用してきた歴史があります。
申年に思うこと。
本当に、私達 人間は賢い動物なのでしょうか。
今も生きる吉田松陰の教育と言葉
「今日よりぞ幼心(おさなごころ)を打ち捨てて、人と成りにし道を踏めかし」
「志を立ててもって万事の源となす」
これらの言葉は、現在も山口県萩市にある市立明倫小学校で、毎朝、各教室で子ども達が全員で朗唱(ろうしょう)をしています。上の言葉はなんと小学校1年生の1学期に声に出して暗記する言葉です。子ども達は学期に一つ朗唱し、卒業するまでに18の言葉を覚えることになります。
江戸時代の末期、長州藩士であり将来を嘱望されながら30歳の若さで亡くなった吉田松陰は、教育に関する言葉を数多く残しています。
私はこの夏に、山陽山陰地方を旅行してきました。
昔から機会があれば一度は行きたかった場所の一つが萩です。
折しも現在放映されているNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台にもなっています。
この番組は毎回欠かさず楽しみに観ています。
城下町の萩を歩くと、必ず訪れる場所が松下村塾です。吉田松陰は、江戸で投獄された後、生まれ故郷の萩に帰されて幽囚生活をしますが、約1年間囚人の身でありながら多くの逸材を育てます。彼の門下生には、高杉晋作・久坂玄端・伊藤博文・山形有朋など明治維新の原動力となった人物がいます。
松下村塾の記念館を訪れて、私が感動してメモを取った言葉があります。
教育の本質として、「学は人たる所以を学ぶなり。」人間としての自覚を促し、更に当時、世界の中の日本人として自覚を高める必要性を説いています。
志を大変に重んじた人で、「士規七則」の中に、特に大事な三つを挙げています。
1 立志(志を立てる)
2 択交(たくこう・多くの人と交わる)
3 読書(多くの本を読み学ぶ)
今、第一小学校ではアクティブラーニングの研究をしているところです。いかにして、教師主導型の教育を子ども中心の学びに変えられるかです。
そんな折、この江戸時代末期にこの松下村塾での教育方針に更に感動したのです。
立志を核にした個性伸張の実践教育が基本である。
授業では、会読・対読が中心となる。
討論会・野外活動を通して対話や意見交換を重んじる。
まさに、私達が取り組もうとしている教育の姿がこの時代に既に実現されていたのだと
驚かされました。
新しいこととは、昔を知ることなのかとつくづく思いました。
温故知新です。
「人を育てる・プロ野球選手と職人」
今年のプロ野球シーズンも終了し、ストーブリーグに入り小学生の多くが「将来の夢」であるプロ野球の選手になれるドラフト会議も10月に行われました。毎年約100人近くの新人選手が晴れてプロ野球の道に入ります。小学生の頃から全国各地のリトルリーグ等で人一倍練習をして試合でも大活躍をしてやっと掴んだ夢だと思います。
ある新聞の特集テーマで「運命のドラフト会議」を読みました。スカウトは有望な高校生や大学生、社会人野球の金の卵を何年間も追い続けています。特定の選手への思い入れは人一倍だと思います。大会や練習を何度も視察して「本当にプロで活躍できるか」を見定めるそうです。投球フォームや打撃センスなど様々な技術的な面から考察していきます。
しかし、何よりも一番重視するのは、「努力できる才能」を持っているかを見極めることだそうです。例えば、早めにグラウンドに来て練習の準備をしているか、個人練習に取り組んでいるか、帰宅後にランニングをしているかを観察しているそうです。一人で練習できない選手はプロ野球では埋もれてしまう場合が多いからです。後の大スター選手でも学生野球の頃は、陰で人知れず2時間素振りをしているのをスカウトが見て、惚れ直したこともあるそうです。
この秋、ある研修会で感動する講演を聴く機会がありました。
「一流の職人を育てるには、人間性を高めることです。」
それは、入社3~4年目の若い社員が技術オリンピックの大会で金・銀・銅メダルを独占している秋山木工グループ社長の秋山利輝氏の話でした。
秋山木工の特注家具は、国会議事堂や迎賓館、宮内庁、有名ホテル等で使用されている知る人ぞ知る手作り高級家具です。又、秋山社長は若手職人を育てる独自の研修制度でも注目を集めておりテレビで取り上げられ映画も作成されています。
現在でも丁稚(でっち)制度を取り入れ、全員住み込みで携帯電話・恋愛は一切禁止、男子は勿論のこと20歳前後の女子でも丸坊主になります。丁稚の期間中は仕事のみに没頭できる環境を徹底するとのことです。社長自身が入社希望者の実家を訪れ、両親や祖父母等とじっくり話をしながら家族と本人の覚悟を確かめて、入社を決めるそうです。愛情溢れる家庭環境でないと4年間もの辛い修行に我慢できず、辞めてしまうことが多い。大事なお子様を住み込みで預かるのは、相撲部屋にも似ているなと感じました。
秋山社長が考えた「職人心得30箇条」を丁稚奉公人全員が暗記するそうです。
「挨拶のできた人から現場に行かせてもらえます。」
「明るい人から現場に行かせてもらえます。」
「返事をきっちりできる人から現場に行かせてもらえます。」
「時間を気にできる人から現場に行かせてもらえます。」
「感謝できる人から現場に行かせてもらえます。」
これらのことは技術よりも人として大事なことが中心です。
人は心が一流になれば、後から技術も必ず一流になれると言われました。このことは、どの道どの職業でも同じことが言えるのかもしれないと思いました。
アクティブラーニングとは何?
数年前、アメリカの学者が未来予測を発表してかなりの衝撃がありました。
「今の小学校に入学した子ども達は、大学卒業時にはなんと、65%の人は今現在、存在していない職業に就くだろう」というセンセーショナルなものでした。
それだけ、現代は劇的な変化をしていく時代に突入したことを改めて実感しました。
現在でも少し前まではなかった文明機器を私達は利用しています。
例えば、お掃除ロボット・音声認識ソフト・電車や車の無人運転(ゆりかもめ)・車の自動運転・スーパーの無人レジ・スマートフォンでの買い物等です。
実に様々なものが機械化されるようになってきています。
では、今の子ども達に本当に必要な力とは何でしょうか。
学校ではどのような学力を付けさせればこれからの時代を生き抜くことができるのかが問われています。
暗記するだけの勉強は、簡単にスマホで検索して調べられる時代になりました。
私自身も今やほとんど辞書を引く機会がなくなりました。
スマホの音声認識アプリを活用して、スマホにボソボソと語りかけることが増えました。
これからの社会で求められる人材とは、どういう人でしょうか。
新しいアイデアを出せる人
他の人同士を結び繋げる人
適切に判断できる人
プレゼンが上手い人
論理的に考えて、他者に分かり易く表現できる力、汎用的能力が求められるようになります。
本校は今年度より3年間に渡り文部科学省の指定を受けて、「アクティブ・ラーニング」の研究を推進していきます。
課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習です。
全国で10地域が指定されました。
千葉県では我孫子市の我孫子第一小学校と我孫子中学校です。
アクティブラーニングの実践フィールド校として「深い学び」「対話的な学び」「主体的な学び」を第一小学校のやり方で追究していこうとしているところです。
第一小学校の職員は、私も含めて全員が大変重責を感じているしだいです。
私たち教員は、文部科学省が出す「学習指導要領」に則って、日々の授業をしています。これは、約10年毎に改定をしてきています。時代の変化と共に指導内容も変わってきます。
数年後に学習指導要領が改定されますが、今までと大きく違う所は、今までは何学年では何を教えるといった教科の指導内容が中心でしたが、次は指導方法も明示する点です。
学校の先生方は、授業は自分流での教え方・その学校流の教え方で指導してきました。
これからの我孫子一小では、「子供中心の学び」を中心に授業を展開していきます。
「何を教えるか」「どのように学ぶか」です。
先生方のチョーク&トーク、教師主導の一斉指導とは異なる指導方法になります。
アメリカで面白い調査結果があります。
「学習定着率」です。一度覚えた学習内容を半年後にどれくらいの子供が覚えているか。
先生中心の講義は5%、グループでの話し合いは50%、体験活動は75%そして、子供同士の教えあいは90%です。
学んだことを自分だけの知識にしないで、グループや仲間に伝え合うことで飛躍的に学習理解が深まります。
学び合いは大変に優れた学習なのです。
伝え合うには、先ず人の話を最後まできちんと聴けることが大事になります。
そのような「我孫子一小の聞き方名人」あいうえおをしっかりと身につけさせていくことも学力向上の柱になると思います。
この秋は本校でも校内研究会が沢山実施されます。
そして、県内外からも沢山のお客様が参観に来られます。
「全ては子ども達のために」・・・一歩一歩着実に歩みたいと思います。
家族とは何だろう・・・
作家の下重 暁子(しもじゅう あきこ)氏は、「親は子を、子は親を知っているか」についての文章を掲載されていました。読み進めるうちにかなりの衝撃を受けてしまいました。殺人事件そのものは減ってきているが、唯一増え続けているのが親子間の事件であるということである。私が生まれた1950年代は年間3千件あった殺人事件の数は、現在は1千件まで減少している。しかし親子間の殺人事件が最も多い現状があるそうです。
なぜだろう。そんなにしてまで親子間で憎しみあうのか。
下重氏は「家族という病」という本を出しておりベストセラーにもなりました。
私もこの機会にこの本を読んでみました。
テレビやドラマのCMでは親子、家族の愛情ほど深いものはない。家族は仲良くなければならないという錯覚で自分を縛ってしまうものだと下重氏は言っています。
又、下重氏は次のようなことも書いています。
家族間では、親と子の間では全てを分かり合っていると思い込んでいるから始末が悪い。
実はもっとも知っているようで知らないのが家族なのだ。他人なら例えば友達、知人と付き合う時は客観的に観察し理解しようと努力する。ところが、家族間では理より情が先に立って、分かっているものと思っているから努力しようとしない。その結果、誤解がたまりたまってある日爆発する。
私の父母は、既にこの世を去ってしまっていますが、生前どれだけ本当に父と母を理解していたかは甚だ疑問です。今では本当は良く知ってはいなかったのではないかと思います。
自分は両親に沢山甘えて育ち、幼い頃から自分のことをもっと分かってくれ、もっと褒めてくれと自己中心主義で成長したのではないかと感じています。
中学生から高校生の時は、父母にかなり反抗的な態度を取っていたことも事実です。
成長とは何かというと、自分の目の前にある権威を一つずつ乗り越えることである。
先ず一番身近にある権威が親である。それと戦ってそれを乗り越える。学校の権威は先生である。社会に存在する大人への反発、それを一般に反抗期という。反抗期のない子どもが増えているというが、こんな気持ち悪いことはない。と同じく下重氏は言っています。
親は子どものことをもっと知る努力をする。そして、自分の両親のことも知る努力をする。
兄弟がいても一人ひとり個性が違います。同じ家族の一員としても決して比べてはいけないものなのです。それぞれの違いを認めて、個として独立してけるように強く願って育てていければ大きく曲がらないのではないでしょうか。
学校の子ども一人ひとりを知る努力を保護者の方と共に真剣に続けていきたいと思います。
家族とは何だろう。子どもとは何だろう。・・・
戦後70年 戦時下の第一小学校
今年は、戦後70年を迎える節目の年でもあります。
先輩の一人が、授業の最後に「世界平和のために、みんなは何をしなければいけないと思いますか。」と聞きました。6年生男子は、「今日、先輩から習ったことを僕たちが次に伝えていかなければいけないと思う。」と答えました。これぞリレー講座だと実感しました。自分の言葉で人に伝えることの重みを先輩も後輩の6年生も共に学びました。
昭和20年、東京も大空襲を受けており庶民の生活も著しく貧しい状態でした。戦時下の学校では、全学徒は夏休みを返上して動員作業をしていまいしたから当然夏休みはありませんでした。
空襲が一層激しさを増してくると、児童の集団疎開が実施されるようになりました。
この我孫子にも疎開児童が増えてきました。戦争末期は、1年間で250名もの児童が第一小学校に転入してきました。この子ども達は、家を焼け出され遠い縁故を頼って来た子が多く、食料難や土地に慣れない為に学校ではかなり多くの困難を味わったようです。
学校では急な児童の増加で、授業も午前組と午後組の二部授業にしなければならない状況でした。我孫子では空襲そのものはありませんでしたが、我孫子駅付近では敵機の機銃掃射を受けたこともありました。空襲警報は頻繁にあったので、学校の側に防空壕を掘ったり、子の神の森へ逃げる訓練をしたりしていました。低学年は田んぼに行ってイナゴを取ったり芋畑を作ったりと毎日の作業がありました。高学年は航空燃料用の松根堀りや農家へ出向いて勤労奉仕をしていました。
終戦の秋のある日、第一小学校の校庭にアメリカ軍の兵隊さんが乗った車が突然現れました。子ども達は、初めて見るアメリカ兵の姿に肝をつぶしました。校庭を横切って来ると、いきなりパンパンと空に銃を撃ちました。MPの腕章をした背の高い血色の良いピンク色した若い兵隊を先頭に、ぞろぞろと軍隊の靴のまま土足で廊下を歩きました。当時、第一小学校の廊下は、ヌカ拭きまでして丹念にピカピカになるまで磨き上げていました。戦勝国のアメリカ兵が銃を持って、その廊下を泥についた靴のまま傲然と歩いている。
この姿に子ども達はかなりショックを受け、強い印象に残っていました。
<我孫子第一小学校百年史より一部抜粋>
私はこの夏休みに、映画「日本のいちばん長い日」を2度見ました。戦争を終結させるだけで政府や軍部内でもこんなにも葛藤があった事実を改めて知りました。特に、感銘を強く受けたのは、陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ これちか)でした。ポツダム宣言を受諾し陸軍内部でも戦争継続派(本土決戦)と和平派とに分かれていました。天皇の玉音放送のあった8月15日未明に自宅で腹を切って自決したのでした。私と同じ58歳です。
鈴木貫太郎総理は、「そうか、腹を切ったのか。阿南というのは本当にいい男だった。」と涙ながらに語ったそうです。合掌。
平和の時代、守ることは何かを真剣に考えた猛暑の夏でした。
命とは何でしょうか。時間とは何でしょうか。
人はこの世に赤ちゃんとして誕生する時、全員に砂時計がプレゼントされるのだそうです。そして、砂時計をひっくり返して中の砂が一定の速さで下へ落ち始めます。この落ちる砂が、その赤ちゃんの命そのものです。砂時計の大きさは一定ではなく、大きな砂時計もあれば小さいものもあります。自分にプレゼントされた砂時計の砂の量は誰にも分かりません。
でも、今も確実に一定の速さで落ち続けています。
小学生の子ども達には、砂時計を見たことがない子も多いかもしれません。
ですから、この話を直接子ども達にしたことはありません。
砂時計の砂が流れ落ちていくのを真面目に黙って、見続けた体験がある大人なら分かります。
自分自身の砂が落ちている事実を真正面から受けとめるなら、時間を無駄にできないと思います。ましてや、自分のせいで他人の砂時計の砂を無駄に落とさせてはいけないのではないでしょうか。
時間を守ることの大切さの一つはここにあるような気がします。
今年104歳になった医者である日野原重明先生は、「命とはどこにあると思いますか。」と子ども達に質問しました。
子ども達は、素直に自分の体を指しながら「心臓」「頭」「体ぜんぶ」などの様々な答えがでてきました。
日野原先生は「命とは君たちの持っている時間です。」と言っています。
「これから生きていく時間。それが、君たちの命なのです。」
世の中、お金で買えるものと買えないものがあります。
お金では絶対に買えないものも結構あるものです。
その人の価値観にもよりますが、この命と時間は今のところお金では買えないものだと私は思っています。
時間を大切にしよう。と人はよく言います。
きっと深い意味ではなくこの言葉を遣っているのだと思います。
人生は永遠に続くものだと思っている人にとっては、時間も永遠にあるような錯覚に陥っているのでしょう。私もそうです。
過去に死に面したことがある人、病気で死を意識せずにはいられない人、家族で大変重篤な病人がいる人、そのような大変な経験をお持ちの人は、命と時間の重みがまるっきり違うのだと思います。
未来ある子ども達、これからは人生100年の時代になっていきます。
小学生にとっては、意識しないでも時間は永遠にあるように思っているのかもしれません。
命とは何でしょう。
時間とは何でしょう。
家族で、この夏休み期間中にこの命題を話題にして頂けるとありがたいです。
アリと集団の話
運動会も終わりいよいよ6月に入りました。夏間近でプール開きも間もなくです。
今回は夏でも良く働くアリの話をします。
暑い夏の日も、木々の下ではアリが行列を作り、一生懸命に餌を運んで働いている光景を目にします。私は、今までアリの全部が黙々と働いていると思っていました。
ところがアリの面白い研究があることを知り驚きました。実は、働かないアリがいるのです。
北海道大学大学院で研究した結果によると、
約2割のアリは、餌を運びもしないで仲間の周りをさも働いているかのように動いているだけだそうです。労働とは無縁なのです。働くことが代名詞のようなアリですが、アリの集団の中にも、必ずサボる奴がいるのです。
アリの集団を勤勉さの度合いで分けると、働かないアリが2割、普通に働くアリが6割、よく働くアリが2割だそうです。面白いことに、このような働き度別の割合は、集団が違ってもだいたい同じだといいます。
では、よく働くアリだけを全部集めて一つの集団にすると最強軍団ができそうなものですが、実は違うのです。その集団の中では、やはり働かないアリが2割出てくるのです。
反対にサボっているアリだけを集めてみると、全部がサボってしまい集団の危機が生じてしまうと思われますが、その中から奮起して働くアリが2割出てくると言うから不思議なものです。
集団とは何でしょうか。
俗に言う一流企業と呼ばれる会社でも全員がよく働くかといえばどうなのでしょうか。
また、優秀な人材確保が厳しい数多ある零細企業でも素晴らしい実績を上げる人物はいるでしょう。人は自分の存在価値を見いだしたいものです。働く中で自己実現をしたいものです。
ある研究者は、アリも働かないことで、自分の存在意義を示している可能性があると指摘しています。
学校ではお昼休み後に、清掃活動があります。
一生懸命に黙々と雑巾や箒を持って教室を綺麗にしようとして働く子がいます。
掃除の時間なので、役割分担に従って働く子がいます。
箒を持ってフラフラと歩いて、掃いているふりをしている子もいます。
おしゃべりに夢中になって何もしていない子も時々見かけます。
実に様々です。
アリの世界では労働面でより効率的なのは、色々なグループが混じった混合集団だそうです。公立小学校では、基本的には学区内に住んでいる適齢児童ならば誰でも教育が受けられますから、色々な子どもの集団となります。
小中学校の別、年度の学級編制(クラス分け)、異年齢の部活動、地域スポーツ活動等で、
子ども達は様々な集団に入り、又解散して、新たな集団に入ることを繰り返しています。
是非、集団の中で良い意味で働く(活躍できる)存在になって欲しいと願います。
教師の力
我孫子第一小学校で約20年前、私が尊敬している校長先生がお話された言葉です。
当時の校長先生が職員室やPTA会議等で話された内容をノートにメモしていました。
又、教師は子どもの心の教育を一番大切にすることを熱心にお話されていました。
医者ではないのですが、先生と呼ばれる一人として子どもの心をどれだけ本当に理解しているのか胸に突き刺さったことを覚えています。
医者は診断して、患者に処方箋を施します。
教師は子どもの悩みを知り、共感し、学校で具体的対応策を講じてあげなければなりません。
日々、子どもが本当のことを話してくれる信頼関係を築き、場の空気をしっかりと読んで、悩みを解決できる糸口を探してあげたいものです。
イギリスの有名な教育学者である、ウィリアム・アーサー・ワードは「優れた教師は」の中で、次のように述べています。
●凡庸な教師は、ただしゃべる。
●少しましな教師は、理解させようと努める。
●優れた教師は、自らやってみせる。
●本当に優れた教師は、生徒の心に火を点ける。
私達教師は、子ども自身がやる気を持てるように仕向ける技術を身につける必要があると思います。それも、その子の個性に合った方法で真剣に語ることが大事です。子どもは、
教師が上辺で言っているのかを見抜きます。
明治生まれの森信三(しんぞう)先生は、「生を教育に求めて」の著書の中で、教師の力について辛口に述べています。
例えば、校長の挨拶のあり方については、
朝の挨拶は、部下はもとより子ども達にも、否、用務員さんにもこちらから先手を打たねばなるまい。全校朝会などで、「まだ朝の挨拶が良くないから、みんなしっかりやるように。
・・・・」などと間抜けたお説教を繰り返している程度の校長に、一体何が出来るというのであろうか。
なんとも鋭い指摘であります。
教育について、極めつけの重い言葉があります。
「教育とは流水に文字を書くような果てない業である。
だが、それを岩壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ。」
学校立て直しの定石として、最初に打つべき三つの具体的な事柄もあげています。
①朝のあいさつ
②学校内外の紙クズがなくなること
③靴箱の靴のかかとが一直線に揃うこと
まさしく、率先垂範のみです。毎日の私達の言動こそが教育だと戒めたいと思います。
少年は必要とされてはじめて大人になる
6年生3クラスでと3月の第2週に「校長とのお別れ授業」をしました。
今回のテーマは、「言葉の力」です。
ボランティア発祥の地イギリスで、有名な言葉があります。「少年は、必要とされて、はじめて大人になる。」という言葉です。6年生には、「必要とされて」の部分を提示しないで、
グループごとに自由に創造して書いてもらいました。
・20歳になって ・自立して ・苦労して ・沢山の経験をして ・お酒を飲んで等面白い内容を含め色々な言葉がでました。
今回はイギリスのジャーナリストの第一人者であるアレック・ディクソンが大事にしている出会いの美しいエピソードを紹介します。
ロンドンの下町にマイコルという無気力で心が荒れ果てている16歳の少年がいました。
他人に暴力を振るい、車や店のショーウィンドーを破壊して、間もなく少年鑑別所に入れる準備をしていました。
そんな時に、あるボランティアコーディネーターがこう言いました。
「実は、あなたと同じ年の目の不自由な女の子がいます。その女の子は、あなたに、是非水泳を教えて欲しいと言っているのです。」
少年の心は少し動きました。目の不自由な女の子が、自分を必要としてくれている。しかも、なんと同じ年の女の子なんだ。水泳を教えることくらいなら、自分にもボランティアはできる。
ところが、コーディネーターは、すでに女の子と会っていたのでした。その少女は、目が不自由で、しかも家族が心配するほどの心が塞ぎがちな性格でした。なぜなら、いつも一人ぼっちで、孤独だったのです。同じ年の女の子達は、友人も多く、自由にパーティーを楽しんだり、男の子にデートに誘われたりしている。自分には誰の誘いもない。誰にも必要とされていない自分が悲しかった。
コーディネーターは、少女に問いかけた。
「実は、あなたと同じ年の男の子がいるのです。彼は友達もできずに孤独な毎日を過ごしています。でも水泳がとっても得意です。あなたは、水泳を教えてもらうボランティアをしてくれませんか。」
少女の心も動いたのです。男の子が心を閉ざし、自分を必要としてくれている。しかも、なんと同じ年の男の子なんだ。水泳を教えてもらうことくらいなら自分にもボランティアはできる。
このようにして、二人は、お互いがボランティアとして出会った。
やがて、二人ともしだいに自分が、他者や社会に必要とされている、かけがえのない存在であることを知っていきます。
「少年は、必要とされて、はじめて大人になる。」
二人は、意味ある他者の出現によって、意味ある自分を発見することができたのである。
この話は、私が40歳代に勤務していた「さわやかちば県民プラザ」で生涯学習センターのボランティア担当として知ったお話です。
自分の存在価値は、周りの他者や社会から「あなたは、必要な人なのです。」と認められてこそ成り立つものだと認識しました。
学校でも教室内でも、「君は、クラスで必要な人です。」と毎日のように先生や友達から何度でも言われる環境を作りたいと思います。
「幸せとは何だろう?」
3月2日の全校朝会で子ども達に「幸せとは何だろう?」というお話をしました。
最初に、「皆さんに聞きます。幸せという意味を知っていますか?」
国語辞典には、運が良いこと・幸福と書いてあります。
「では、皆さんにとって幸せなことはどんなことでしょうか?」
「目を瞑って、思い浮かんだ幸せなことを指で折りながら五つ考えてみて下さい。」
どんなことが思い浮かんだでしょうか。
例えば、食べている時・寝ている時・好きなスポーツをしている時・ゲームをしている時・趣味の物を集めている時・お友達とおしゃべりをしている時などがあるかもしれませんね。
でもそういう自分自身の好きなことだけで幸せと感じるのは、一瞬であり長くは続かないかもしれません。
今日は、皆さんに次のような言葉を紹介します。
6年生は1学期に職場体験の事前学習会の時にお話をしたので覚えていることでしょう。
「幸せとは、幸せを探し続けることである」
さて、この意味が分かるでしょうか。
例えば、
宝くじに当たって何億円も突然ももらい大金持ちになった人は幸せになったかな?
オリンピックで金メダルを取った人は幸せになったかな?
人間は、突然に大きなお金が入ると幸せになったように思いますが、家族でもめてしまいケンカが起きたり、生活が贅沢になったり、最後はお金が無くなり哀しい結果になることもあります。
又、オリンピックで優勝して金メダルを取って一躍有名になっても、その後、記録が伸びずにどんどん若い人に抜かれてしまい苦しむ人も多いようです。
では、本当に幸せになれるにはどうすればいいのでしょうか?
私は、三つのことがあると思います。
・一つ目は、満足しないことです。
あることを追い求めることです。極めることです。辛いことに勝つことも幸せです。
・二つ目は、自分以外の物に求めないことです。
物は飽きます。キリがないです。いつか壊れるかもしれません。
・三つ目は、人の為に役立つことです。
感謝されます。褒められます。自分のことよりも他人の為に何かをするのです。
人は人として生まれたからには、やはり誰でも不幸になりたいとは思わないでしょう。
幸せは、人によって違うと思います。
三番目の人の役に立つ幸せは、将来の仕事にしてもいいし一番大事なことかもしれません。
一小の皆さんにもぜひ、自分の本当の幸せとは何かを考え続けて欲しいと思います。
開校記念日(142年前の第一小学校)
開校記念式で、開校当時のことを「第一小学校百年史」を参考にしながら子ども達に話しました。
今から142年前の明治6年2月20日、延寿院(えんじゅいん)とうお寺を使って学校がスタートしました。このお寺は現在のイトーヨーカドーの近くにありました。教師は杉山 英(えい)先生一人で子どもの数は、82名の一クラスでした。
当時は、5歳から14歳までの適齢児童が我孫子小学校に通うことができました。学区は今よりもかなり広く、我孫子宿・高野山村・久寺家村・柴崎村等でした。実は、我孫子第一小学校に通える学区内にいた子どもの数は、約1千人もいたそうです。
では、なぜ1千人の子ども達が学校に通わなかったのでしょうか。
明治初期の小学校では、村からの寄付金や家からの授業料があり、貧しい農家では家の手伝いや子守、留守番等で子どもを学校に通わせる余裕がなかったそうです。我孫子近郊の村は大変に貧しい農家も多く就学率は低かった記録が残っています。
又、杉山英先生のお給料も大変安くて、初めてのお給料が3円50銭だったそうです。軍人(少尉)さんが50円もらっていたそうですから、学校の先生のお給料がいかに安かったが分かります。
授業は、読書・算術・習字がありました。高学年になると地理や歴史等も習いました。その後、音楽や体操もやっと行われるようになりました。
実は、学校の名前も時代と共に変遷しています。
「我孫子小学校」「草麻尋常小学校」「我孫子尋常小学校」「我孫子第一尋常小学校」「我孫子尋常高等小学校」「我孫子町中央国民学校」そして、戦後の昭和22年に「我孫子市立我孫子第一小学校」となりました。
沢山の先人達の素晴らしい努力の上に今の我孫子第一小学校が存在していることがよく分かります。この良き伝統を引継ぎながら、未来に活躍できる子ども達を教えていきたいと思います。
寿命100年の時代をどう生きる
今から30年後、2045年の日本人の平均寿命は100歳になると言われています。
NHKの「ネクストワールド」のテレビ番組でもその話題が取り上げられていました。織田信長の時代は、「人生50年」でした。明治時代でも平均寿命は男女共に45歳位、戦後の1947年初めての全国調査でも男性50歳、女性53歳です。私が生まれた1957年は、男性63歳、女性67歳です。定年までどんなに一生懸命働いてもその後の余生は、数年間という時代でした。本当に哀しい時代だと感じます。昔の人の楽しみは何だったのだろうと思います。短い人生を潔く散っていったのでしょうか。
2015年の現在、男性80歳、女性86歳の時代となりました。1日平均で5時間ずつ寿命が延びているそうです。60歳定年後、平均寿命までの約20年間、寝る食べる以外の余暇時間は10万時間あるとも言われています。定年後にもう一つの新しい人生が始まると思っていいのかもしれません。生涯現役で働く、生涯学習をする、趣味に生きる、地域貢献する、ボランティア活動をする等の幅広い選択肢があります。定年後、いきなり新しい仕事や趣味は恐らくリスクが高いことが予想されます。現役の時代に少しずつ慣れておくことの方が良いと老後に備える様々な指南書には書かれています。
長生きが本当の意味で「幸せ」に繋がるには、健康が大前提かもしれません。健康寿命は平均寿命より10歳位前倒しの状態です。どうしたら頭も体も健康でいつづけることができるのでしょうか。若い世代の人にとっては更に大事な問題です。
6年生を対象にした「思春期講座」を1月に実施しました。講師は、助産師さん2名の方です。「大人に向かって、見つめ直そう体・命・心」のお話をして頂きました。子ども達全員が授業後の感想文を書きました。その中である男子は、「どれだけ命が貴重か分かった」「このようなことを真剣に教えてくれる人達がいるのはありがたいと思った」ある女子は、「赤ちゃんが産まれる時には、自分も母親も頑張っていることを聞いて少し自分が誇らしくなりました。あのビデオを見て私も産みたいと思いました」又、感想で多かったのは、「自分の命は自分の物ではなく、その他にもお父さんお母さんや自分に関わっている人の物なのだと思いました」
子ども達は、命の具体性を今回の性教育で学んだことと思います。
自分のことを好きになり、自分の命を大切にできる子どもに育つような支援を続けていきたいと思います。
自分の命を大切にできることが、他人の命のことも本当に大切にできることに繋がると思います。
3人のレンガ職人
新年あけましておめでとうございます。
2015年のスタートです。今年もどうぞよろしくお願いします。
本日の始業式で、私は全校児童に次のような話をしました。
今日から、いよいよ平成27年になり3学期が始まりました。
西暦で言うと2015年になります。
日本が戦争をしてその戦争に負けてどん底の時代から今年で70年になります。
「戦後70年」という言葉を今年は色々なところで聞くことが多いと思います。私達は二度と戦争をしてはいけません。
さて皆さんにとっては、今年はどんな年にしたいですか。
この後、教室に戻ったら担任の先生と是非話し合ってみてください。
今日は、イソップ童話から「3人のレンガ職人」のお話をします。
世界中を旅している人が、ヨーロッパのある町に来ました。
そこでは、教会の大聖堂を造っていました。
旅人が1人目のレンガを積んでいる男に尋ねました。
「ここで何をしているのですか?」
すると、男はこう答えました。
「見れば分かるだろう。親方に言われてレンガを積んでいるのさ。
毎日毎日同じ事をしているだけだ。全くついていない。」
旅人がしばらく歩くとまた2人目のレンガを積んでいる男に会いました。
「ここで何をしているのですか?」
すると、男はこう答えました。
「俺はね、ここで大きな教会の壁を造っているんだよ。
この仕事でお金をもらい家族を養っているんだ。
大変だなんて言ったらばちが当たるよ!」
旅人が更に歩き続けるとまた3人目のレンガを積んでいる男に会いました。
「ここで何をしているのですか?」
すると、男はこう答えました。
「俺は、歴史に残る立派な大聖堂を造っているんだ。
この大聖堂ができれば町中の人が喜ぶだろうな。素晴らしいだろう。
俺は、この仕事を誇りにしているよ。」
さて、第一小学校の皆さんは、何番目のレンガ職人でしょうか。
同じレンガ積みの仕事をしているのに、なぜ、こんなにも違うことを言うのでしょうか。
その人の心の持ち方次第で全然意味が違ってしまいます。
皆さんが毎日やっている勉強、掃除、係活動、挨拶、高学年の部活動はどうですか。
どういう気持ちで取り組んでいますか。
「何のためにやっているのか」
「誰のためにやっているのか」
「本気でやっているのか」
やらされているのか。
ただやっているのか。
自信と誇りを持ってやっているのか。
同じことをやるなら、3人目のレンガ職人のように目的意識を持って生き生きとして自分のやっていることに自信と誇りを持ちたいと思います。
お手伝いは「できる大人」への第一歩
私の子ども時代は、お手伝いはどの家庭でも当たり前のことであり自然とやるべきことだと感じていたし抵抗感もそうなかった気がします。風呂洗い、買い物、弟妹の面倒、ガラス磨き、掃除、料理等があったものです。小学生だった私が今でも一番覚えているのが、保育園に通っていた妹をよく迎えに行き引き取ったことです。今なら小学生に渡すことは、あり得ないかもしれませんが、「お兄ちゃんが迎えに来たよ!」と保育士さんが大きな声で妹に言っている場面を思い出します。
さて、お手伝いを日常的にしていると、失敗もそれを乗り越えて褒められる経験も増えるので、子どもの自信に繋がり少々の失敗は恐れない心の強さを育みます。また、お手伝いは手伝う相手への気遣いも必要です。大人になって周囲への気遣いができるかどうかは、社会人として仕事を円滑に進めるのに欠かせない能力となります。つまり、お手伝いは将来必要となる「仕事力」の原点でもあります。
更に、お手伝いを通して一度やると決めたら最後までやる「責任感」、お手伝いを継続する「持続性」、お手伝いを終わらせる「計画性」を育てることにも繋がります。この責任感・持続性・計画性は、学力を上げる大切な要素であり、お手伝いの内容によっては応用力や活用力を育みます。与えられた情報や条件を整理して、自分なりに答えを導き出す「考える力」が養えます。
例えば、「食器を並べる」お手伝いを頼んだとします。すると、子どもは、先ずテーブルの上を片付け、拭いて、食器を並べるという段取りを思い浮かべ(イメージ)なくてはなりません。そうした経験を積み重ねることで、子どもは少しずつ「段取り力」を身につけていくのです。
特に心を育ててくれるお手伝いは、「食器を並べる」から一歩進んだ「料理」であると思います。料理する時は、家族の好みや健康を考えなければいけません。工夫を凝らし準備をして、食べた家族が喜ぶ顔を見たり感謝されたり、遠慮のない意見を聞いたりして人の心にふれることが出来ます。
このように、子どもはお手伝いを通して、責任を持ってやり遂げる力や相手を気遣う心、段取りを考えて物事を進める力などを養うことができ、将来の「できる大人」へと成長していくことと思います。
【お手伝いをさせる時の心構え】
① 良いところは褒める
よくできたら、きちんと褒めてあげる。それだけで子どもには自信がつき、愛情を確認し、またやろうという気になります。
② 待ちの姿勢が大切
先回りせず、子ども自身が気づくまで待つ。挨拶なら「こんなときは何て言うんだっけ?」と自分で気づかせる言葉かけが大切です。
③ 「叱る」と「教える」を区別する
上手にできなかったら叱るのではなく、その都度教えればいいだけです。叱るのは危険なことをした時だけにする。
手賀沼殉難教育者慰霊式
手賀沼殉難教育者慰霊式(70周年)に参加して
平成26年11月22日(土)、我孫子市立湖北小学校にて手賀沼殉難教育者慰霊式が無事に執り行われました。
当日は穏やかな快晴の中、午前9時に関係者一同で中里の慰霊碑に献花をしてきました。
その後、湖北小学校図書室にご遺族を始め我孫子市長・柏市長・両市の教育委員長・我孫子市教育長、両市校長会・教頭会、退職校長会長、県会議員、市会議員等の関係者約70名が参列しました。
私は今回の慰霊式で主催者として、又我孫子市校長会の一人として11月4日の第一小学校の全校朝会で、子ども達にこの哀しい事件のことを話したことを伝えました。本校の千浜宗一郎校長(当時49歳)と中村良子先生(当時17歳)のお二人が私達にとって身近な手賀沼で尊い命を落としたことは本当に辛い事実であると更に実感した日でもありました。
本校の校歌の一番は、次のような歌い始めになっています。
「太鼓が鳴るよ青空に 向ヶ原の丘の上
集えよよい子 我孫子第一
学びの庭に 眉上げて」
最初の太鼓が鳴るとは、千浜校長先生が昭和17年5月に満州(今の中国)と朝鮮(今の韓国)に教育視察に行かれたことを記念して造られた大きな太鼓の音のことです。
当時、授業の始まりと終わりはチャイムの代わりに太鼓を叩いて音を鳴らしていたそうです。
作詞家の髙橋菊太郎先生が、戦後に何とか明るい一小校歌を創ろうと栄地区を歩きながら考えていた時、この太鼓の音が突然聞こえてきて歌い始めの言葉に使ったそうです。
海外視察記念の太鼓(昭和17年5月制作)
6年生の子ども達全員が、全校朝会で私の話を聞いた感想を書いてくれました。
当日の慰霊式で読み上げた女の子の文章を原文のまま掲載致します。
(本人と保護者の了解を頂いております)
手賀沼殉難事件の感想
私は手賀沼が、昔とても綺麗で、みんなの遊び場だったという事しか知らなかったから、手賀沼でそんな悲しい事があったという事は知りませんでした。
戦争中で苦しい時に、更に、こんな事故があったなんて可哀想と言うよりも、なんて苦しくて切ない時代だったのだろうと思いました。
今の時代は、命の大切さを理解してきているけれど、この時代の人達にとっては、命とは何だったのだろう?と思いました。もう二度と悲しみで溢れないようになって欲しいです。
我孫子で育った限り、この事故を忘れずに、命の重みを感じて生きていこうと思いました。
6年生の子ども達は真剣にこの事件のことを考えてくれたと思いました。
その他にも数名の子を抜粋して掲載します。
〇凄く若い女性の方もこの事故で亡くなっていると聞き、とても悲
しい日本だと思います。
戦争などしていなければ若い女性の方が、先生になって働くということもなかったのにとても残念です。
〇事故の二日後に葬儀をする予定が空襲警報が発令されてできなくなったこともとても悲しいことだと思います。そのことからも戦争は絶対にいけないと思います。
〇・・・・・私は千浜校長先生のことも中村良子先生を含む18名の先生方のことも、そしてこの悲しい事件のことも決して忘れません。いつまでもいつまでもこの悲しい事件を忘れません。
私達は、現在、平和な時代に生きて子ども達の教育をいております。70年前に起こった「手賀沼殉難事件」の哀しい出来事を忘れることなく、今後も子ども達に語り継いでいきたいと思います。
ご遺族及び関係者の方には、心より哀悼の意をお伝え致します。
手賀沼殉難事件について
昭和19年11月22日、その日は西風の強い日であった。手賀沼はもうすっかり冬景色となっていた。東部女教員相互視察研究会が湖北国民学校と手賀東部国民学校で開かれた。
その頃は若壮年の男子教員はほとんど出征して行って、若い女子教員がどこの学校でも半数以上を占めるといった有様であった。その若い女子教員を対象に研究会は開かれたのであった。
我孫子中央国民学校(現在の我孫子第一小学校)からは、千浜宗一郎校長以下、椎名芳子、湯下光代、浅倉ふさ、香取好子、吉元アツ、中村良子の7名が参加していた。
午前中は湖北校を視察し、授業や閲兵分列を見学したあと、午後は沼向こうの手賀東部校に行くことになっていた。一行40名は、午前11時30分、中里の渡しから船に乗った。
風は強かったが、こちら側は危険を感じさせるほどではなかった。しかし、一艘ずつでは危ないので分乗した三艘の舟を横に並べて綱で結び合わせた。
沼に出ると風が一層強くなり、波のうねりが高まってきた。湖の真ん中まで来ると、繋ぎ合わせた綱がゆるみ始めた。舟と舟の間があき、そこから水しぶきが吹き上げてきた。若い女性の先生方は着ている着物を気にして声を上げながら体をよける。そのたびに舟はぐらりと傾いた。
「動いてはいけない。動いては危険だから、じっとしていなさい。」
千浜校長がたしなめた。
舟があと三分の一で対岸に着くところであった。水しぶきが上がり、本能的に皆が身を寄せた時、西からの突風が襲い、あっという間もなく三艘の舟が一緒に波に呑まれ、全員が湖に投げ出された。悲鳴が波に消された。
沼には農民の藻取り舟が出ていたのだが、丁度昼休みでみんな岸に上がって休んでいた。
それも不幸であった。
急報はあちこちへ飛んだ。
我孫子中央国民学校では田口教頭が残っていた。その日、生徒は早めに下校していた。
「千浜校長危篤、すぐ医者を連れてこい」
田口教頭にもたらされた報せはこのようなものであった。使いの人に聞いても、詳しいことは分からない。田口教頭は直ぐに学校医である山下先生、矢口先生の二人に連絡を取ったが、二人とも不在であった。自転車を飛ばして日立精機の診療所へ行き、診療所の医者を自転車の荷台に乗せて現場へ急いだ。
対岸へ駆けつけた時は、事件の発生から一時間も経っており、すでに引き揚げられた遺体が土手に並べられていた。その中に我孫子中央国民学校の千浜宗一郎校長と中村良子准訓導の悲しい姿があった。18名の教員や学生等が犠牲になった。殉難者は寒さと厚着のために水中で体の自由を奪われたのであった。
その夜、全職員が両家に分かれて行き、しめやかに通夜を営んだ。
11月24日千浜校長の葬儀が行われた。5年生以上の児童と全職員が会葬するため、正午に校庭に集まっていると空襲警報が発令された。そのため全員を下校させ、田口教頭が代表して参列した。
名校長と仰がれ、我孫子小学校に「千浜時代」を作った校長の戦時教育に殉じた哀しい最後であった。
26日には中村良子先生の葬儀が柴崎の分教場で行われ、受け持ちの4年生男子組と柴崎青山分教場の4年生以上の児童と職員が参列した。
児童の一人は、「おっかない先生が死んだ。」と思い、四角いお棺の真っ白な被いをぼんやりと見ていた印象を語る。お棺はリヤカーで墓地まで運ばれた。
12月2日は、千浜校長と中村先生の町葬が執行された。22日には郡教育会の主催で、殉難教員の合同慰霊祭が行われた。
手賀沼殉難事件の慰霊碑は、今は干拓農地となっている中里の渡しを見下ろす小高い丘に、ひっそりと建っている。
私達我孫子第一小学校の先輩教員であるお二人の哀しい事件から、今年は丁度70年を迎えることになりました。
戦争も遠い昔のような感じとなりましたが。この時代に起こった「手賀沼殉難事件」を語り継ぎ、戦争のない平和な時代に感謝し、学校で学んでいる児童の安全を地域の方と共に、しっかりと守っていきたいと切に思います。
平成26年11月22日(土)、我孫子市立湖北小学校にて手賀沼殉難教育者慰霊式
(殉難70年にあたり)が執り行われる予定です。
我孫子市長・教育長、柏市長・教育長、両校長会・教頭会等の関係者が参列します。
ご遺族の方には心よりご冥福を申し上げます。
11月4日の全校朝会では、校長の話としてこの哀しい事件のことを児童全員に伝えます。子ども達は、学区にあり身近に感じていた手賀沼で、過去にこのような哀しい事件が起きたことを知る機会になります。合掌。
手賀沼殉難事件の慰霊碑にて献花
(平成26年10月24日)
自然は恐い 御嶽山の噴火
10月の全校朝会で子ども達に次のようなお話をしました。
皆さんも既にテレビや新聞等で見ているように長野県にある御嶽山(おんたけさん)が、9月27日午前11時52分噴火しました。
この御嶽山は、3067メートルもある高い山で、昔から信仰の山として修行したり初心者も気軽に登れたり近年は特に登山客に人気があったようです。突然の噴火により楽しく山登りをしていた人が50名以上も亡くなったり大けがをしたりしました。
小学校5年生の女子も犠牲になるなど大惨事となりました。
自然の怖さについて、私達は色々と経験しています。
身近なものとしては、台風と地震、そして雷や急な大雨等があります。
台風は今年も既に19号が発生し、日本各地に被害をもたらしました。
地震も経験したことありますね。
3年前には東日本大震災があり第一小学校も大きく揺れて体育館の壁が崩れました。
幸いにもケガ人が出なかったことに感謝したいです。
では、火山の噴火を経験したことある人はいますか。
この中には、恐らくいないでしょう。自然災害については、小学生でも多くを経験しているのですが、火山噴火についてはテレビ等のニュースでしかその恐怖はなかなか分かりません。
我達は大きな地球に住んでいます。
この地球が誕生したのが、今から約45億年前であり、宇宙にある隕石という石がぶつかり合って、どんどん温度を上げていき、ついには真っ赤な「炎の星」になりました。
やがて、この地球に雨が降り炎だった地球は「水の星」へと変わりました。
しかし、地球の中はマグマという大変熱くてドロドロしたものがあります。
それが、時々火山などの山で今でも爆発して地表に出てきます。
私達の住んでいるこの日本は、その火山が大変に多く集まっている国です。
いつ噴火してもおかしくない「活火山」が、なんと110もあるそうです。
3776メートルもある日本一高い富士山も実は「活火山」の一つです。
最後の噴火は、今から約300年前です。
江戸時代の1707年、宝永(ほうえい)の大噴火と言って、東京の町まで白い灰は降り平均で約2センチに達し、多いところでは5センチから10センチも積もったそうです。
まるで雪が降っているようだと、当時の人々は日記に書いています。
もし今、富士山が噴火したとしたら東京の町はどうなるのでしょうか。
私は、改めて今回の御嶽山の噴火で、地球は生きているのだ。
日本は、火山の国なのだ。
北海道から九州まで至るところに火山があることを再認識しました。
そして、自然の力は偉大であり、恐いものだと思いました。
人間の力では到底どうにもならないものの存在を感じました。
親と教師について・・・二つの詩から
子どもは常に親から学んでいると「子は親の鏡」の作者であるアメリカの詩人ドロシー・ロー・ノルト氏は語っています。子どもは親の言葉ではなく、親の生き方や喜怒哀楽の姿から良いことや悪いことも含めて吸収しています。
次の詩は、戦後の1954年に書かれた詩ですが、世界中で翻訳されています。
「子は親の鏡」 ドロシー・ロー・ノルト
けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、
子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨(うらや)んでばかりいると、
子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思って
しまう
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉(ほ)めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりを持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば
、
子どもは、この世はいいところだと思えるようになる
私達が出来ることは、最後の一行にもある「この世はいいところだ」と子ども達に思ってもらえるような家庭、学校、社会を作ることだと思います。
子どもを励ましましょう。誉めて育てていきましょう。
「優れた教師は」 ウイリアム・アーサー・ワード
凡庸な教師は、ただしゃべる
少しましな教師は、理解させようと努める
優れた教師は、自らやってみせる
本当に優れた教師は、生徒の心に火を点ける
私達教師は、学校で様々なことを日々教えています。学習も勿論大事な指導事項です。生活態度や友達への思いやりも教えていきます。でも、一番大事な教えとは、子ども自身が本気でやる気になることです。いつも先生にやらされている感があっては、伸び代に限界があります。「生徒の心に火を点ける」ことは、大前提として先生のことを尊敬して、自分も一生懸命に頑張り、そして先生に認められたいと願っていることです。
人を以て鏡と為す
一つ目は、水泳に関することです。
晴れた日はプールで水泳学習をしていますが、子どもである今のうちに25メートルを泳げるように頑張りましょう。泳げることと自転車に乗れることは大変似ています。
最初から自転車に上手に乗れる人はいませんね。みんな必死に練習して、失敗して転んで、やっと自転車を一人で乗れるようになるのです。家族の方の協力があったことでしょう。
自分の体の左右のバランスとスピードコントロールを自然と体が覚えていったのです。
でも一度自転車に心地良く乗れると一生涯乗ることができます。
水泳も同じです。高等動物である人間は、犬などの動物と違って練習をしないと水の中では泳ぐことはできません。腕と足の動かし方のバランス、呼吸の仕方、リラックス等の技術を学べば25メートルは泳ぐことができます。後は、持久力と体力を付ければもっと長く泳ぐことができるようになります。一度泳げると一生涯プールや川や海で泳ぐことができます。
二つ目は、尊敬する人を持ち(目標の人)その人を手本として頑張ることが大事であるということです。
皆さんは、「尊敬する人」はいますか。・・・・・・・・
尊敬する人とは、立派だなと思う人のことです。
心から偉いなと感じる人のことです。
お父さんですか? お母さんですか? 担任の先生ですか?
塾や習い事の先生ですか? 歴史上の人物ですか?
友達にも尊敬する人はいますか?
皆さんは柔道というスポーツを知っていますね。
柔道は、日本で生まれて全世界に広まりオリンピック競技までになった立派なスポーツです。
この柔道を作ったのが「柔道の父」とも呼ばれている嘉納治五郎です。
日本人が尊敬する人の一人かもしれません。
江戸時代の末期、1860年に今の兵庫県の神戸で生まれました。
なんと身長は、158センチと大変小柄な男性でした。
小さくてしかも体も丈夫でなかった治五郎は真剣に強い人間になりたいと思い当時の「柔術」を習うようになりました。
運動だけでなく勉強も人一倍頑張ったそうです。
一生懸命勉強して今の東京大学を卒業して、文部科学省に勤めます。
柔術を発展させた柔道を作り、「講道館」という道場を開き世の中に柔道を広めました。
その後、東京高等師範学校(今の筑波大学)の校長先生にもなった嘉納治五郎は、明治44年に、我孫子の手賀沼の畔(アビスタの付近)に別荘を作りました。
そして、近くにあるこの我孫子第一小学校にも訪れて立派な「書」を送られました。
そこには、こう書かれていました。
「人を以って 鏡と 為す」
本物は、職員玄関に掲げてあります。
書道家としても有名だった嘉納治五郎は、全国に様々な書を数多く残しています。
「人を以って 鏡と 為す」
この意味は、分かりますか。
鏡とは鑑であり(お手本・模範)のことです。
尊敬する人を持ち、そして、その人を良きお手本として頑張りなさい
という意味です。
自分が生きていくお手本やモデルとなるべき人を見つけると、生きる意味や理想とする姿が分かります。そして新たな目標が生まれます。
小学生の今から、生きる目標となる人を是非見つけて下さい。