ほごログ(文化財課ブログ)

2021年5月の記事一覧

【7/7まで新収蔵品展】亀田鵬斎書の看板

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。

「新収蔵品展」では、かすかべ大通りのカネコ薬局さんから頂いた亀田鵬斎(かめだぼ(ほ)うさい)書の看板を展示しています。「家伝 たんせきのくすり 鵬斎老人書」と書かれ、亀田鵬斎が金子家宿泊のお礼に書いたものと伝わります。

*亀田鵬斎書の看板については、郷土資料館サイトの収蔵資料紹介もご覧ください。また、亀田鵬斎書の荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本については、ほごログの過去記事「【3月27日】 #今日は何の日? in春日部」もご覧ください。

亀田鵬斎(宝暦2(1752)年~文政9(1826)年)は江戸時代の儒学(じゅがく)者であり、文人です。書にも長け、空中に飛び回るような豪快な書風は「フライング・ダンス」とも形容され、全国に書や碑を残しています。

宝暦2(1752)年に、江戸の神田で生まれた(一説には上五箇村(かみごかむら・群馬県千代田町))鵬斎は、明和2(1765)年、13歳のころから、儒者の井上金峨(きんが)に学び、安永3(1774)年、赤坂山王社(現千代田区)のそばに私塾を開きました。天明5(1785)年には、私塾を駿河台(現千代田区)に移し、「育英堂」と名付けました。鵬斎の私塾には多くの入門者が集まりました。しかしながら、寛政2(1790)年、幕府の老中、松平定信(まつだいらさだのぶ)により「寛政の改革」の一環として「寛政異学の禁」が出されると、儒学の中でも朱子学(しゅしがく)を正当とし、鵬斎が教えた折衷学派(せっちゅうがくは)は「異学」とされ、多くの門人を失うことになりました。その後は私塾を閉じ、50歳ごろより各地を旅しました。鵬斎は豪放な性格で、また大の酒好きでもあったことから多くの逸話を残しています。酒井抱一(さかいほういつ)、谷文晁(たにぶんちょう)、大田南畝(おおたなんぽ)らと交流がありました。文政9(1826)年、74歳でその生涯を閉じ、今戸(現台東区)の称福寺に葬られました。

鵬斎が春日部に滞在した正確な時期はわかっていません。大正12年の東京日日新聞によれば、「寛政異学の禁」のあと、千住あたりで散々遊んだ後に粕壁宿にたどりつき、しばらく宿泊しているうちに金子薬店の主人夫妻と仲良くなり、居候になったと伝えています。居候中は、子どもに書の手本を書いて教えたり、帳場の帳面をつけたりしながら、患っていた梅毒の治療をしてもらいました。このお礼に、今回展示している「家伝たんせきのくすり」という看板と六双の屏風を書きました。また、世話になった金子薬店の主人が亡くなった際には旅先から駆け付け、その位牌を書きました。

久喜には、遷善館(せんぜんかん)という代官早川八郎左衛門正紀(はやかわはちろうざえもんまさとし)が、享和3年(1803)に設立した郷学(ごうがく・武士のための藩校と一般庶民のための寺子屋の中間に位置する官民一体となった教育機関)がありましたが、鵬斎は早川に招かれて、講師をつとめました。地方での講演が最も多く行われたのが久喜の遷善館であったと弟子が書き残しています。鵬斎は、粕壁や久喜といった埼玉県東部地域の町々とも深く関わりがあったことがうかがえます。

なお、金子家の当主は、代々「七右衛門」と名乗り、元禄時代に初代七右衛門が薬屋を開業しました。大正時代には、粕壁に国立薬草園が開園しましたが、この誘致や創設に、12代七右衛門がたずさわりました。

 

(参考文献)

久喜市公文書館1999『第11回企画展 遷善館』

東京日日新聞 1923「鵬齋の居候ぶり(上)(下)」大正12年8月8日、9日

 

【7/7まで新収蔵品展】ミュージアムトークを開催しました

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています

5月22日(土)、第63回企画展示「新収蔵品展」の会場にてミュージアムトークを開催しました。

「新収蔵品展」は、近年、郷土資料館に寄贈や寄託いただいた資料をご紹介するもので、中世の板碑(西暦1367年のもの)から現代のプリントゴッコ(西暦1993年のもの)まで、26種類76点の資料を並べています。展示では「小流寺の文化財」、「春日部の中世」、「春日部の学校」、「村の行政」、「春日部のまち」、「1964東京オリンピック」、「プリントゴッコ」の7つのコーナーを作り資料を展示しています。

本日はあまり天気が良くなったこともあり、ご来館者は決して多くありませんでしたが、バラエティ豊かな資料を展示していることから、皆様のご興味も様々で、多くのご質問やご感想をいただきました。

ミュージアムトークの様子

展示資料につきましては、こちらのほごログでも、順次ご紹介してまいります。(ちなみにプリントゴッコについては、こちらでご紹介しました。)

 

ミュージアムトークは、この後、6月27日(日)、7月7日(水)の10時30分からと15時からそれぞれ30分程度を予定しております。事前の申込みは不要です。ぜひご来館ください

市内の桐箪笥屋さん・桐小箱屋さんの調査をしています

5月18日(火)より「新収蔵品展」がはじまりましたが、次回、夏季展示の準備も進めているところです。今夏の展示は桐箪笥づくり、桐小箱づくりを中心に、春日部の伝統産業である桐産業の歴史を紹介する展示です。

とはいえ、郷土資料館として桐箪笥や桐小箱について、これまで十分な調査がされていませんでした。今回は、展示の準備のため、市内の桐材屋さん、桐箪笥屋さん、桐小箱屋さん、家具屋さんなどにご協力いただき、各所の歴史の聞き取り調査、製造工程の記録・取材を進めています。

先日、調査させていただいたのは、豊野地区の飯島桐箪笥製作所さんです。

桐の板材から、箪笥の各部材の板をとる「木取」(きどり)の工程をみせていただきました。

写真:木取

丸太から切り出した大きな板材から、箪笥の板に適した木目の部分だけを、丸鋸盤で切り出します。大きな材からとれる板は、わずかで、切り落とした部分はおが屑屋に回収してもらうそうです。

その後、木取した板材の木目をみながら、各部材の寸法の板を合わせます(幅寄せ)。

写真:木取

これらの工程を「木取」と呼ぶそうです。丸太を切り出した板材から各部材を切り出す、この工程は、瞬時に木目などを判別し、箪笥出来栄えや等級にもかかわる重要なものなので、昔から親方の仕事とされてきたそうです。

さらに、「組手づくり」の工程もみせていただきました。

ケビキとノミをつかって、箪笥の棚板を組みあわせる「ホゾ」を切り、ホゾサライと呼ばれる小刀で整えていきます。

写真:組手づくり

資料館でもケヒキやノミを所蔵しているところですが、実際に職人さんが使っているところを初めて見たので、大変感動しました。道具は使われてナンボなのですね。

このほか、塗装の工程も見学する予定でしたが、あいにくの雨なので作業は見合わせに。けれども、ウツギと呼ばれる木釘や、箪笥の塗料の原料ヤシャの実なども、お分けいただきました。

このほかにも、厚川産業さん、松田桐箱さん、古谷桐箱さん、山田桐箱さん、飛鳥馬製作所さん、遠藤木工さん、猪瀬桐材さん、山田箪笥さんなど、様々な業者さん、また残念ながら現在は廃業されてしまった方にもお話しを聞いて回っています。みなさん、突然の調査にも関わらず暖かくお迎えいただき、聞き取りの話が尽きません。ありがたい限りです。

これらの調査の成果については、展示でお披露目できればと思っています。市内には、まだまだ桐箪笥、桐小箱の事業者さんはたくさんおり、どこまでお話しが聞けるのか、わかりませんが、できる限り、多くの方のご協力をいただきたいと考えています。桐箪笥・桐小箱・家具業者の皆さんには、引き続きご協力いただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています

本日より7月7日(水)まで第63回企画展示「かすかべの宝もの18 新収蔵品展」を開催しています。

市民の方々からご寄贈、ご寄託いただいた市にゆかりの資料を約90点展示しています。

展示の概要は以下の通りです。

どうぞ、みなさまお誘いあわせの上、ご来場ください。

 

<第63回企画展示 かすかべの宝もの18 新収蔵品展>

期日:令和3年5月18日(火)から7月7日(水)

会場:春日部市郷土資料館企画展示室

(関連事業)

・展示解説講座「春日部の板碑」

新収蔵品展出展の板碑を中心に、春日部市内の中世板碑の状況を郷土資料館学芸員が解説します。
日時:令和3年7月3日(土曜日)午後1時30分~午後3時
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:令和3年6月15日(火曜日)から直接、または電話で郷土資料館へ(電話:048-763-2455)

・ミュージアムトーク

企画展示会場で、郷土資料館学芸員の展示解説を行います。
日時:令和3年5月22日(土曜日)、6月27日(日曜日)、7月7日(水曜日)
各日午前10時30分~、午後3時~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申し込み不要

第63回企画展示チラシ

豊野地区公民館で「神明貝塚の巡回展示」を開催しています

5月11日より豊野地区公民館にて、「神明貝塚の巡回展示」を開催しています。

豊野地区は「赤沼の獅子舞」や「銚子口の獅子舞」といった無形民俗文化財の継承が盛んな一方、埋蔵文化財、いわゆる「遺跡」がほとんど確認されていない地区で、貝塚や遺跡について、あまり馴染みがないといった方々が多いのではないでしょうか。

そこで今回は公民館事業ではありますが、展示解説も兼ねた講演会を現在、企画しています。このブログでも情報を再度告知させていただきますが、日時、内容、定員等の詳細な情報は6月の豊野地区公民館報に掲載されますので、そちらをご覧ください。

展示の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、限られたスペースですが、春日部市で初めての”国史跡”の特徴と魅力をご覧いただければと思います。

 

展示場所:豊野地区公民館 1階ロビー

展示期間:5/11(火)~9/5(日) ※月曜・祝日は休館

開館時間:8:30~17:15

常設展示に「牛島のフジ」の解説コーナーをつくりました

明治44年「粕壁の藤花」

  ▲明治44年(1911)絵葉書 「粕壁の藤花」(個人蔵)

 4月13日(火)から5月2日(日)まで開催しておりましたミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、ご好評をいただき、無事終了いたしました。ご協力いただいた方々、ご来館いただいた皆さま、ありがとうございました。

 せっかくですので、常設展示の中に特別天然記念物「牛島のフジ」について紹介する一角を設けました。

 館内が狭いためほんとに小さなものですが、下の写真のように、かつて「九尺藤」といわれた3メートル近い花房を原寸大で再現してみた折り紙の藤花も参考として展示しています。お近くにお越しの際には、ちょっとお立ち寄りいただけますと幸いです。

常設展示追加の「牛島のフジ」のコーナー

【春日部の地区小史】大衾の歴史

以前、『方言漢字 埼玉県編』に市内の地名「大衾」(が紹介されたことをお伝えしましたが、方言漢字がさまざまなメディアにとりあげられ、大変反響がありました。地名「大衾」がフィーチャーされていますので、改めて、春日部市の大衾の歴史を概観してみたいと思います。

大衾は、近世以降に確認される地名です。近世には「大衾村」といい、下総国葛飾郡庄内領に属し、近世を通じて幕府の直轄領(天領)として支配された村でした。『武蔵国郡村誌』によれば、寛永年間(1624-1643)以後に開発された村とされています。ただし、大衾の古寺・蓮花院には、天正11年(1583)の銘のある位牌があるほか、大衾には中世の板石塔婆も遺されていることから、大衾に人々が定住しはじめたのは、戦国期まで遡れると考えられます。正風館の西側の香取廻(かとりまわり)というあたりからは、縄文時代中期・後期、古墳時代前期の住居跡や遺物が発掘されており、大衾の人々の暮らしはさらに遡れるかもしれません。

さて、大衾という地名の語義について、『埼玉県地名誌』には次のように説明されています。

フスマはフシミ(伏見)と同語である。フシミとは、うつむいて見ること。されば大衾は見下ろすことができる傾斜地なので、その名をえたものとみられる。

たしかに、大衾は下総台地の突端に位置するため、台地と低地の高低差が坂道になっており、起伏のある地形になっています。正風館の前の通りの坂道が、まさに台地と低地の高低差といえば、イメージしやすいでしょうか。古くから地元の方は台地上の高台を「ノガタ」(野方)、低地を「シタヤ」(下谷)と呼んでいたそうです(『庄和町史編さん資料13 民俗Ⅲ』)。大衾村は、『武蔵国郡村誌』によれば、田は4反余、畑は28町8反余、宅地は1町2反余あり、耕地のうち約94%が畑地の畑がちの村であったことがわかります。ノガタに位置し、台地上を畑として耕作していたのでしょう。

旧庄和町域(庄和地域)では、江戸川が開削され、耕地の開発が安定する正保(1644-1647)や慶安(1648-1651)の頃に「シタヤ」に村が開かれていきます、大衾を含めた「ノガタ」に立地する村は、これ以前から存立していたようです。次の絵図は、国立公文書館所蔵の正保期の下総国絵図の写とされるもの(松平乗命本)の部分です。

正保下総国図(松平乗命本)

この絵図には、中世以来の集落があった宝珠花・金野井・小田辺(現・東中野)のほか、「米嶋」そして「大衾」の俵型がみられます。この絵図では俵型は村落(集落)を表現していますので、江戸川が開削されて間もない正保期にはすでに「大衾村」が存在していたことを示すことになるでしょう。また、緑色の地帯は「や」、黄色の地帯は「田」「あし」などと記述されており、緑は台地、黄は低地を表現しているようです。「大衾村」が台地上に位置していたことがよくわかります。

このように、大衾村は、比較的古い近世の村であることがうかがえます。しかし、大衾地区に伝来したであろう古文書や古記録はいまだに見出されておらず、近世の村の状況は詳しくはわからないのが現状です。

明治時代以降、大衾村は、明治6年(1873)には千葉県、同8年(1875)には埼玉県に所属します、明治12年(1879)には中葛飾郡に所属し、明治22年(1889)に永沼村・下柳村・上柳村・金崎村・上金崎村・西金野井村・大衾村が合併し、南桜井村となります。以降、「大衾」は南桜井村、昭和29年(1954)からは庄和村、昭和39年(1964)からは庄和町、平成17年(2005)からは春日部市の「大字」としての地名となります。

資料館収蔵資料のなかに、明治前期の大衾村が発行した古文書がありました。古文書の内容は、林畑の地券を2枚預かったことを証明するものですが、「大衾邨役場」とあり、公印には「大衾村役場證」と印文がみえます。

写真:大衾の地名がみえる史料写真:大衾村役場の印

この古文書に「林畑」とあるように、大衾にはうっそうとした雑木林があったようです。明治前期の物産は「薪」とされ、隣村の西金野井にはシャリキとよばれる杣(そま)職人が集住していたそうです(『庄和町史編さん資料10 民俗Ⅰ』)。記録が残されていないので推測にすぎませんが、おそらく「薪」の生産が盛んだった大衾にもシャリキ職人がいたのではないでしょうか。

そうした大衾の暮らし、景観が大きく変化するのは、昭和のはじめの頃だと思われます。昭和5年(1930)に総武線(現東武野田線)が開通し、南桜井駅が開業し、昭和18年(1933)に軍需工場が南桜井駅付近に疎開してきました。

軍需工場の疎開については、前に詳しく紹介しましたが、工場の敷地を造成するため、雑木林を切り開いていきました。その時に活躍したのがシャリキだったともいわれています。大衾の雑木林は「大衾山」と呼ばれていたそうで、地元の方は「オバケの森」といったとも。今では想像もできませんが、それだけうっそうとした森林だったのでしょう。戦後も多少雑木林が遺っていたようですが、高度経済成長期以降の宅地開発により今は見る影もありません。

大衾の人口も明治初めは、115人(20世帯)でしたが、昭和45年(1970)には973人、昭和55年(1980)には2898人(873世帯)、平成2年(1990)には3078人(917世帯)、同12年(2000)には3277人(1092世帯)、同22年(2010)には3333人(1241世帯)と、高度経済成長期に大きく変わっていったことがわかります(『武蔵国郡村誌』、国勢調査による)。

「大衾」の歴史については、地域にのこされた記録が少なくまだよくわからないことも多いのですが、以上のようになるでしょうか。

ところで、5月20日(木)11:10~40分頃、NHKのFMラジオ(85.1MHz)「ひるどき!さいたま~ず」(生放送)で、方言漢字「衾」について紹介されるそうです。「大衾」についても言及されるかもしれません。大衾にお住まい方も、そうでない方もお聞き逃しなく。

【出張授業】「でばりぃ資料館」in備後小学校

令和3年5月7日(金)に備後小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

今年の3月にも3年生向けにでばりぃ資料館で訪問させていただきましたが、新年度となり3年生の顔ぶれも新たになりました。

 

今回のでばりぃ資料館は社会科ではなく、総合的な学習の時間「備後のカルタ作り」の一環として、身近な地域の様子を学習してもらうという趣旨でのご依頼でした。

また、GWあけということもあり、長期休暇から日常の授業へ急に戻るのではなく、体験的な楽しさを取り入れた授業を行うことで、緩やかに通常授業に戻してあげたいという先生の計らいでもあるようです!

 

紙芝居の上演

地域学習風景

授業は体育館と郷土資料室で行い、体育館では武里地区にまつわる伝説の紙芝居の上演や、

武里地区の航空写真、郷土かるたを用いながら身近な文化財について学びました。

 

郷土資料室風景

郷土資料室では、展示してある昔の生活道具を学芸員が解説し、自由時間には実際に触ったり、昔の体重計に乗ったりして体験学習をしました。

 

昨年度から実施しているでばりぃ資料館は、主に10月~3月の小学校第3学年向け社会科郷土学習のために生まれた事業ですが、社会科に限らず内容や日程の調整をさせていただければ随時受付可能です。

私どもとしても、児童にもっと郷土資料館を知ってほしい気持ちがありますので、ぜひお気軽にご相談ください!

小淵山観音院~県指定文化財~”円空仏”の公開

 本日、5月3日から5日まで、埼玉県立歴史と民俗の博物館から年1回の里帰りとなります「円空仏祭」が小淵山観音院の本堂で開催されております。

 ”円空仏”の作者である円空さんは寛永9年(1632)に美濃国(現岐阜県)で生まれ、近畿地方から北海道にかけて各地を行御し、12万体の仏像を彫ることを祈念し、実行した修行僧・遊行僧として知られております。特に鉈彫(なたぼり)の仏像制作が特徴的でおよそ5千体以上の円空仏が全国で発見されています。

 さて、埼玉県は生誕の岐阜県、そして愛知県に次いで約200個体の作例が発見されており、特に霊山日光へ向かう日光道中沿いの越谷市や春日部市、蓮田市周辺で多くが確認されております。

▲本堂ではスケッチをしたり、何をモデルとして作られたのかを家族で話したり、本堂の静寂の中で様々な拝観の光景がみられました。もちろん、本堂の空間は「密」にならぬよう、人数を制限しながら、じっくりと円空仏を拝むことができます。

 

▲像高194㎝、一つの材から彫り出された円空仏では県内最大の「聖観音菩薩立像」

頭巾(ずきん)様の宝冠には阿弥陀如来もみられる

 

 

 

 

 

 

 

▲像高134㎝、両手で宝塔を捧げもつ「伝毘沙門天立像」

 ケープ状の頭巾(ずきん)には竜頭様の兜が描写されている

 

 

 

 

 

 このように円空仏には様々な彫り物がみられます。

このゴールデンウイークは、ゆっくりと静寂な時間の中、新緑が映える観音院本堂で円空が一心に鉈を振るった木造仏を拝観してみてはいかがでしょうか。