ほごログ(文化財課ブログ)

カテゴリ:郷土資料館

元・桐材屋さんから資料を寄贈いただきました

おかげさまで「桐のまち春日部」展もたくさんの方にご覧いただき、なかには関係者の方もちらほら。先日、夏季展示「桐のまち春日部」展をご覧いただいた、市民の方から資料を寄贈いただきました。

お話をうかがったところ、以前、粕壁で桐材店を営んでいた方でした。

その昔、郷土資料館にも、桐材店に関連する道具を寄贈いただき、その一部は「桐のまち春日部」展でも展示しています。展示をご案内したところ、ご来館いただきました。ご来館された方は、桐材店の娘さんでしたので、直接ご家業に携わっていたわけではなかったようですが、展示資料をご覧いただき、「懐かしい」「○○さんという名前聞いたことがある」とお話しいただきました。

ご来館の折、ご持参いただいたのが今回ご紹介する資料です。資料は、昭和50年ごろに夏休みの自由研究の成果(模造紙)です。自由研究のテーマは「春日部桐箪笥のできるまで」。当時、小学生だった桐材店のご子息が家業の仕事の風景を写真で記録し、模造紙に貼り付けまとめたものです。桐材店のご子息が調べた内容もさることながら、とりわけ貴重なのは写真です。そこで、今回その写真を紹介します。

写真:桐の丸太

まずは、桐の丸太の写真です。工場には、大量の丸太が山積されていたそうです。

桐は丸太のまま乾燥させ、そのあと、製材・製板していくことになるようです。

写真:製板された桐材

次は、製板された桐材です。屋根が映り込んでいるので長い板であることがうかがえます。

板を乾燥させているところのようです。桐は雨ざらしにしてアク(シブ)を抜かないと製品になった後に変色してしまうそうです。板を斜めに立て掛ける干し方は、面積をとるため、広い敷地がないとできないと聞いたことがあります。

写真:木取り

つづいて、工場内部の写真。木取りをしている場面のようです。

丸鋸盤で板材を必要な寸法に切ります。木取りが箪笥を製造する上で重要なことは以前紹介しました。

写真:箪笥の枠組み

つづいても工場の中。箪笥のワクを組んでいるところです。

職人さんは、「アツイタ」とよばれる作業台の上で生地を組んでいきます。

ホゾを組むときや、木釘をうちつけるときには、木槌やトンカチ(ゲンノウ)が使用されます。

「トントントン」と、リズミカルで心地よい音が聞こえてくるようです。

ところで、最近の箪笥屋さんは、「箪笥屋さん、儲かるかい?」「トントントントン、トントンのカミ」というそうです。意味は、箪笥を一生懸命「トントン」と組んでも、儲けは「トントン」(差し引きゼロ)だということです。

かつては、「箪笥屋さんかい?神様かい?天皇陛下のオジサマかい?」といったほど、春日部の箪笥産業は盛んでしたが、近年は手間賃が安く箪笥屋さんの景気もあまりよくないとか。聞き取り調査の折に、こんな話をうかがったこともあります。

話は脱線しましたが、「桐のまち春日部」展は9月5日まで。あとわずかですが、春日部の桐産業について、まだまだ、わからないことが沢山ありますので、関係者の方、ぜひ教えてください。

小渕・観音院の聖徳太子立像

夏季展示「桐のまち春日部」展で展示中の聖徳太子立像(小渕・観音院所蔵)は、同展の目玉資料の一つです。今回は春日部の桐細工との関わりについて、ご紹介します。 #かすかべプラスワン

 写真:聖徳太子立像

小渕の観音院は、正式には小淵山正賢寺観音院といい、市内では現存する唯一の本山修験宗の寺院です。鎌倉時代中頃の正嘉2年(1258)建立とされ、市内最多の7躯の円空仏(小渕観音院円空仏群・県指定有形文化財)、元禄年間(1688-1704)建立と伝えられる小渕山観音院仁王門(市指定有形文化財)など、春日部のあゆみを理解する上で貴重な文化財を伝えています。イボ・コブ・アザなどにご利益のある「イボトリ観音」として古くから信仰され、5月の大型連休中に円空仏を開帳する「円空仏祭」や「四万六千日祭」(8月10日)などの年中行事に加え、近年はさまざまな催し物を織り交ぜたイベント「寺フェス」などを催し、寺院の新たな役割を模索しています。 

小渕の観音院に伝わる聖徳太子立像は、木造で厨子におさめられ、普段は本堂に安置されています。太子像は、髪を角髪(みずら)に結い、鳳凰丸紋(ほうおうまるもん)の朱華(はねず)の袍衣(ほうい)に袈裟(けさ)をかけ、柄香炉(えごうろ)を持っています。これは、父の用明天皇の病気平癒を祈った16歳の姿といわれ、孝養太子と呼ばれています。

観音院には、江戸時代、境内に太子堂があり、この中に安置されていたものと考えられます。

天保13年(1842)「小渕太子堂奉加帳」(市指定文化財)によれば、観音院の太子堂は、もともと宝暦5年(1755)に近隣の職人が講銭を集め、粕壁の八幡宮の宝殿に造営されたもののようです。経緯は不明ですが、その後、観音院に太子堂が移されたようです。天保13年、観音院と小渕村の職人たちは、この太子堂を修復するために近隣の職人などに寄付を募りました。この寄付台帳が「小渕太子堂奉加帳」です。奉加帳には、大工・木挽・建具屋など、市域周辺の250名余りの職人の名前が記録されています。このなかに、春日部の桐細工の起源とも考えられる、指物屋・箱屋の署名がみられます。箱屋と指物屋の区別は明確ではありませんが、いずれも木組みをして箱・長持・箪笥類を細工・製造した職人と考えられます。市域では、粕壁宿に箱屋9名、小渕村に箱屋1名・指物屋2名、樋籠村に指物屋1名、牛島村に指物屋3名、藤塚村に箱屋2名、指物屋1名、銚子口村に箱屋2名、備後村に箱屋1名が確認され、広範に職人が存在していたことがわかります。

写真:小渕太子堂奉加帳

聖徳太子は、四天王寺などを建立した事績から、各地で建築や木工の祖として崇められていました。春日部市域では残念ながらたどれませんが、県内では箪笥職人などが「太子講」という聖徳太子を信仰する講が組織される例があります。この「小渕太子堂奉加帳」により、観音院の聖徳太子像は、春日部の桐細工職人らに信仰されていたと考えられ、「講銭」が集められたという記述から、市域でも「太子講」に近い組織が存在していたことがうかがえます。

そういうわけで、観音院の聖徳太子立像は、春日部の桐細工の歴史に深く関わる資料といえます。桐細工の歴史を物語る資料は、紙の資料が大半を占めてしまいますが、数少ない立体の展示資料として、鮮やかな彩色も伴い、展示に華を添えています。

写真:聖徳太子

今回、観音院の「聖徳太子立像」と「小渕太子堂奉加帳」が初めて一同に会しています。展示室の照明の都合から、厨子から出した状態で「聖徳太子立像」を展示しています。像を単体で鑑賞いただけるのは、9月5日まで。あとわずかです。この機会に、ぜひともご覧ください。そういえば、今年は聖徳太子御遠忌1400年だそうです。

春日部の桐細工の起源と伝承について(その1)

夏季展示「桐のまち春日部」展が、新聞各紙に取り上げられ、少なからぬ反響をいただきました。そこで数回にわけて春日部の桐細工の起源の伝承について、補足説明させていただきます。 #かすかべプラスワン

以前にも紹介したとおり、春日部の桐細工の起源については、史料的には安永7年(1778)以前には遡ることができません。

現在、『春日部市史 民俗編』が言及するように、江戸時代初期に東照宮造営に加わった工匠たちが、帰りに粕壁に住み着いたことが始まりという伝承がほぼ定説として扱われています。ただ、日光東照宮の工匠を起源とする言説は、あくまで「伝承」「伝説」であり、確固たる証拠がありません。

今回の展示にあたり、この「東照宮の工匠伝説」がいつ頃までさかのぼれるのかを検討してみました。春日部の桐産業が大きくなる明治後期以降の様々な資料を博捜しましたが、管見の限り「東照宮の工匠伝説」の初見は、どうやら『春日部市の史跡と観光』(昭和42年・春日部市観光協会発行)という冊子で、次のような記述がみえます(以下引用。誤字等の表記は原文のママ)。

春日部の桐箪笥  県内の桐タンスは春日部と川越が主産地になっております。春日部のタンスの発祥は遠く徳川時代大名の参勤交代の砌衣装入れとして桐長持を使用していた。その頃京都から移住せる工匠があり長持に工夫をこらして引出しをつけたものを作成した。これが箪笥の初めと伝えられている。(以下略)

桐小箱 徳川時代関西方面から日光山造営に参加した工匠の一部が当地に溜り、小道具の整理箱、箱枕等の製造をタンスの不用材を利用して初められたのが起源であって、明治に至りライオン歯磨本舗考案の桐製歯磨箱の登場により容器箱として新しく飛躍し、(以下略)

しかし、興味深いのは、桐箪笥が「京都からの工匠の移住説」であるのに対し、桐箱は「日光山造営の工匠の移住説」とされている点です。桐箪笥の起源については、同じ昭和40年代の資料にも「京都からの工匠の移住説」が唱えられており、おそらく戦後~高度経済成長期にかけて、桐箪笥業界では「京都からの工匠の移住説」が有力もしくは定説化されていたのだろうと考えられます。

その後、昭和50年3月に春日部市で発行した『春日部の特産品』という冊子では、その起源について、次のように説明されてます。

桐箪笥 春日部タンスといえば東京タンス、東京タンスといえば総桐タンス。いまでこそ全国にその名をとどめているこの春日部のタンスも、発祥の歴史をたどれば300余年前のむかしにさかのぼる。日光東照宮のご造営がおこなわれたおり、全国各地から名うての工匠たちがかり出された。そのころ、京都からやってきた一人の工匠が春日部の桐材を利用して長持ちをつくり、工夫をこらして引出しを加えた。これが大変な好評を博し、その後、春日部にタンスの生産が定着することとなる。(後略)

桐箱木工品 桐材を利用した小箱類などの木工品が春日部に発祥した由来とその時期は、桐タンスと全く同じくする。すなわち、日光東照宮造営の徳川期に工匠の一部木工関係者が春日部に住みつき、桐材でつくる家具調度品の残木を生かして、庶民階級向けの小さな日用品をつくったのである。硯箱、文庫、整理箱、箱枕などがそれである。(後略)

おおざっぱにいえば、昭和50年代以降、桐箱で語られていた「日光東照宮の工匠の移住説」が、桐箪笥の起源としても伝播し、採用されます。図書によっては、3代将軍家光の時であるとか、5代将軍綱吉の時であるとか、説明するものも現れていきます。

なぜ、「東照宮工匠伝説」が伝播していったのか、理由は定かではありませんが、昭和40年代以降、日本人の生活様式が変化していくなかで、桐箪笥の需要が伸び悩み、職人さんたちが桐箪笥づくりの「伝統」を自覚・自負するなかで、「伝説」が語られ、広まっていったのだろうと考えられます。

「東照宮工匠伝説」については、関連史料がないことから、真偽はまったく不明です。ただ、桐細工との関係は不明ですが、市内に東照宮造営の図面を伝える旧家があったことや、伊勢神宮のある伊勢国を本貫地とする旧家があることなど、今後検討されなければならない課題もあります。東照宮の関連史料や旧日光街道沿いに伝わる類似の「伝説」についても、あわせて検証が必要です。

次回は、「東照宮工匠伝説」を揺るがした(!?)、新発見の大正13年の論文について紹介し、春日部の桐細工の起源について、さらに検討してみたいと思います。

関連する企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展は9月5日(日)まで。お見逃しなく。

博物館実習6日目

本日の午前中は、「資料の取扱い」について館長からご指導いただきました。まず、資料を取り扱う上での学芸員として重要な考え方を学び、実際に和装本と巻子本と掛軸の取扱いを行いました。

写真:輪になって説明を聞く実習生

貴重な資料を扱うことに緊張しながらも、一つひとつの工程を丁寧に行うことを意識して取り組むことが出来たと思います。

また、実習生の半数は掛軸を扱ったことはありましたが、和装本と巻子本は扱った人がいませんでした。和装本や巻子本も含め、様々な資料の扱い方法を学ぶ貴重な経験となりました。

写真:掛軸の扱い方の説明中

そして午後には、桐の貯金箱の体験講座の準備と講座を受ける方への対応を行いました。受付や検温など、感染防止対策をしながら各自手分けして行い、スムーズに講座ができるような対応ができたと思います。講座では、参加者は熱心に話を聞き、おもいおもいの貯金箱を作ることができました。

写真:桐の貯金箱できました!

写真:熱心に講座を受けています

その後、昨日製作したフトンを使って実際に土器の梱包を行いました。昨日学んだ説明を踏まえ、2人1組で作業を分担して行いました。実際に資料に触れながら、土器に負荷をかけないような梱包の仕方を肌で体験することができました。この経験を土器だけではなく、それぞれの資料に合わせた梱包にも活かしていきたいです。

写真:土器の梱包中

(令和3年度実習生)

博物館実習5日目

午前中は、土器の取扱い方と梱包の仕方ついて学びました。

資料を扱う際の注意点や、布団という梱包材のつくり方を中心に説明を受けて、実際に製作しました。貴重な資料を守るための大切な作業なので、ポイントをしっかりと押さえて臨みました。

写真:布団をつくっている様子

また、午後の講座で使用するものや会場の準備をしました。感染症の流行もあり、道具をひとつひとつ消毒し、対策をしました。

写真:道具を消毒する様子

午後は、縄文文化をもとにした音楽づくりの体験講座を実施し、実習生たちは受講者として参加しました。國學院大學栃木短期大学の中村耕作先生(考古学)と早川冨美子先生(音楽教育)、及び音楽教育の教科指導で著名な石上則子先生のご指導のもと、春日部で出土した土器の文様からイメージした音楽をつくりました。小学生の参加者と共に、土器文様を観察して、縄文時代にあったであろう自然素材を用いて、文様のイメージした音の表現しようとしました。想像を膨らませてたくさんの音を作っていく過程はとても楽しかったです。

写真:文様を観察する様子

写真:使用した道具 

(令和3年度実習生)