ほごログ(文化財課ブログ)

カテゴリ:郷土資料館

3月の近隣博物館・資料館の考古学情報

3月の近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。

見学の際は、休館日等、よくご確認の上お出かけください。

(展示会_閉会日順)

・4月21日(日)まで 取手市埋蔵文化財センター 「祈りのかたち―出土品から見る先史時代の祭祀―」

・5月12日(日)まで 杉並区立郷土博物館分館 「発掘された弥生時代」

・7月7日(日)まで 宮代町郷土資料館「土器でみる一万年 宮代と縄文」

 

なお現在、春日部市郷土資料館で開催中の「花の彩り春日部」展では、花積内谷耕地遺跡出土の縄文時代の関山式土器と貝の内遺跡(西宝珠花)出土の7世紀後半の常陸型甕を展示しております。あわせてごらんください。

「みゅーじあむとーく」開催しました

3月24日(日)、企画展「*花の彩り*春日部*」展のみゅーじあむとーくを実施しました。 #かすかべプラスワン

写真:みゅーじあむとーくの様子 

ご来館いただいたのは、わずか3名と少人数でしたが、時折ご質問いただきなが解説をしました。春日部が桃や牡丹の名所であったことや、西宝珠花や花積の特徴的な歴史についてご理解いただけたようです。

昭和6年のデータをみると、埼玉県内での桃の出荷額第1位・第2位が、幸松村(現・幸松地区)・豊野村(現・豊野地区)なのですが、出荷された桃は、どのような販路にのったのか、というご質問をいただきました。具体的には、同じ県内の千疋村(現・越谷市)を発祥とする某高級フルーツ店に卸されたのか、と。最盛期の幸松や豊野の桃は、水蜜桃という中国原産の桃で、戦後に洋桃も出荷されたようですが、具体的な消費の動向はわかっていません。今後の課題にさせていただきます。

それから、国史跡の神明貝塚について、ご質問もいただきました。神明貝塚は、西宝珠花のお隣の西親野井地内にありますが、それだけ期待が高いということだと思います。史跡の保存と活用を計画的にすすめているところです。これからもご支援のほどよろしくお願いいたします。

ご参加された方には、花積村の地租改正絵図パネル、西宝珠花の町並み図のパネルの印刷物を配布しました。「図をみて花積を散策したいと思います」と話してくださいました。

春の花々をはじめ、「花」の文字にまつわる地元の歴史も楽しんでいただければ幸いです。

次回のみゅーじあむとーくは、4月20日(土曜日)の予定です。人が少ないと淋しいので、よろしくお願いします。

明日3/24に「みゅーじあむとーく」やります

明日3月24日、企画展「*花の彩り*春日部*」のみゅーじあむとーく(展示解説)を実施します。 #かすかべプラスワン

郷土資料館の「みゅーじあむとーく」は展示担当の学芸員が、展示室で展示内容を解説するもの。かつては、「ギャラリートーク」と呼び、近年は「ミュージアムトーク」と呼んでいます。展示の解説があったほうが理解が深まるとの声からはじめたものです。

しかし、「ギャラリートーク」は市教育委員会の「市展」でも出品される美術作品の審査員の先生方が解説するものとして実施されるようになり、また、郷土資料館は「ギャラリーなのか」という疑問も生じ、郷土資料館のギャラリートークは「ミュージアムトーク」に改称するに至りました。その後、カタカナよりもひらがなのほうが柔らかさが醸し出されるので「みゅ~じあむと~く」に発展。「みゅ~」を「みゅー」にするか、またはカタカナ表記か、ひらがな表記かは、担当者の好みですが、最近は「みゅーじあむとーく」で定着しつつあります。考えてみれば、「ギャラリートーク」は市展でもできますが、春日部市内にミュージアムは郷土資料館だけですから、市内の「みゅーじあむとーく」は郷土資料館でしか名乗れない事業かもしれませんね。

さて、「みゅーじあむとーく」は10時30分~、15時~、それぞれの時間に実施します。費用や申込は不要です。お買い物のついでに、お散歩のついでに、お時間がありましたら、お立ち寄りください。担当者は、一人で話しすぎる悪い癖があるので、話は控えめにして、堅苦しくなく、皆さんと一緒に、春日部の「花」の歴史と文化について考えたいと思っています。といってもどんな話をしようか、鼻息を荒くして構想しています。

画像:企画展チラシ

みゅーじあむとーく

日時:令和6年3月24日(日曜日)・4月20日(土曜日)午前10時30分~、午後3時~(各30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
内容:展示担当の学芸員が、展示室で展示内容を解説します
費用・申し込みは不要です。所定の時間にお集まりください

「かすかべ人物史」公開しました

サイト内に市域の歴史的人物を紹介する「かすかべ人物史」を作成・公開しました。 #かすかべプラスワン

このブログの左もしくは下にあるメニュー「郷土資料館」から「かすかべ人物史」をクリックしてください。

現在掲載しているのは、埼玉の偉人として埼玉県が普及啓発している、岩井 弥一郎(いわい やいちろう)・加藤 楸邨(かとう しゅうそん)・栗原 伝三郎(くりばら でんざぶろう)・小島 正重(こじま まさしげ)・ 豊田 三郎(とよだ さぶろう)・原 又右衛門(はら またえもん)・三上 於菟吉(みかみ おときち)・見川 喜蔵(みかわ きぞう)の8名です。

まだ、関連する情報は少ないのですが、地元ならではの関連する資料・スポットなど、今後情報を充実していきたいと考えています。さらには、史料的に事績が明らかにしにくく「偉人」としては括りがたい、春日部ゆかりの歴史的な関連人物も増やしていくつもりです。

あんな人やこんな人も思い浮かびます。ご期待ください。

歴史文化講演会 砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査を開催しました

本日、越谷市の莵原雄大先生をお招きして歴史文化講演会「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」を開催しました。多くの方にご来場いただき、誠にありがとうございました。また莵原先生には、大量のスライドを作成いただいて、大変わかりやすくご講演いただきました。ありがとうございました。

砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査

海道西遺跡は、3月12日の記事でも触れましたが、北越谷駅の北西側、宮内庁埼玉鴨場近くにあり、令和4年に発掘調査が行われ、平安時代の竪穴建物跡や近世の遺構・遺物が検出されました。遺跡は、大林河畔砂丘上に立地しています。

講義の中でも紹介されました通り、発掘調査報告書は、全国遺跡報告総覧でPDFが公開されています。

海道西遺跡発掘調査報告書(全国遺跡報告総覧)

 

ご講演では、大林河畔砂丘の範囲が、幅20~30mとかなり限定的であることや、海道西遺跡では9世紀後半~10世紀初頭に少し砂丘の形成が始まった段階で竪穴住居が構築され、その後砂丘が堆積し、15~16世紀の火葬土坑が構築されたころには砂丘の形成が終わっていたとの考察が模式図で紹介されました。

このうち河畔砂丘形成年代の推定について、年代を推定するにあたっては考古遺物や寺社仏閣の立地などが用いられています。たとえば小渕河畔砂丘では、砂丘下から古墳時代後期から奈良時代の須恵器の大甕が発見され、砂丘上には15世紀に開山された浄春院が立地しているので、この間に砂丘が形成されたということはご講演でもご紹介いただきました。

しかしながら、砂丘の形成年代の決定にあたっては、最大の年代幅であることに注意が必要です。つまり小渕河畔砂丘は、古墳時代後期から奈良時代以降のいずれかの時点で砂丘形成が始まり、15世紀以前のいずれかの年代で形成が終わったということです。「形成年代=古墳時代後期~奈良時代」、「終了年代=15世紀」とは言い切れないのです。

本日のテーマであった大林河畔砂丘と海道西遺跡では、「砂丘の形成が少し始まった時点」で竪穴住居が作られたということが、重要な調査成果です。竪穴住居の9世紀後半~10世紀初頭に非常に近い時点で砂丘の形成が始まっていることがよくわかります。砂丘の形成年代の研究に新たな事実をもたらしたことになります。

 

このほかご講演では、越谷市内の平安時代を代表するものとして国指定文化財「浄山寺の地蔵菩薩立像」(越谷市サイトにリンク)や、大道遺跡、一番遺跡、越谷警察署前遺跡、西口遺跡などが紹介されました。

また海道西遺跡で出土した遺物もおもちいただき、会場で展示しました。

海道西遺跡遺物展示

越谷市と春日部市は、自然堤防や河畔砂丘、低地の遺跡など、考古学上のできごとを考える上で共通することがたくさんあります。今後も職員間で情報交換をしながら、連携した事業を展開していきたいと思います。