ほごログ(文化財課ブログ)

カテゴリ:郷土資料館

#かすかべ地名の話 (2) #粕壁

#かすかべプラスワン #地名の由来

一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」

第2回目は「春日部」と「粕壁」の話です。

前回、ご紹介したように「春日部」(かすかべ)の地名の由来はいくつかの説がありますが、どれも決定打がなく、ナゾなのです。

市民の方ならばご存じのとおり、「かすかべ」という地名は、「春日部」と「粕壁」の二つの表記が用いられています。「春日部」と「粕壁」の違いは何なのでしょうか。

まずは、「春日部」と「粕壁」の違いを考えるため、古い文献から地名表記の変遷をたどってみましょう。

「かすかべ」の地名の初見は、南北朝時代。延元元年(1336)の後醍醐天皇の綸旨といわれています。この古文書は後醍醐天皇が春日部重行(かすかべ しげゆき)という武士に、「上総国山辺南北」と「下総国春日部郷」の地頭職(じとうしき)を認めるため発給されたものです。当時、春日部重行が「下総国春日部郷」を治めていたことを示すとともに、「春日部郷」(かすかべのごう)という集落が下総国に所在していたことが明らかになります。埼玉県は武蔵一国なんて言われることもありますが、実は埼玉県には下総国も含まれているのです。

 

次の画像は、延文6年(1361)ないし、応永22年(1415)に作成されたと考えられる「市場之祭文」という史料の一部です(国立公文書館所蔵「武州文書」より)

画像:市場之祭文写

ここにも「下総州春日部郷可市祭成之」とみえます。

その後も様々な中世の文献に「春日部郷」が散見されます。

中世には「春日部」と表記される地域に、人々が定住していたことが明らかになるのです。「春日部郷」は現在の市域の浜川戸近辺を中心とする集落だったと考えられています。

というわけで、古い文献にみえる「かすかべ」の地名は「春日部」となるのです。

時代が下り、時は戦国時代。

元亀4年(1573)の北条氏繁感状(写)は、関根図書助(ずしょのすけ)の戦功を賞した古文書ですが、このなかに「糟ケ辺」(かすかべ)の地名がみえます。関宿(千葉県野田市)からの軍勢が北条家の軍勢と衝突したのが、この「糟ケ辺」の地だったようです。

さらに時代が少し下り、天正17年(1589)3月の北条氏房朱印状(写)には、「御領所糟壁」と地名がみえます。この古文書は、岩付城主北条氏房が所領である「糟壁」に対して、諸役(労働役)を免除する代わりに、人を集め、耕地の開発に励むよう命じたものです。当時、「糟壁」が岩付城の城付の所領であったことがうかがえるとともに、地名としては「糟壁」という表記が用いられていたことがわかります。

しかし、古くは「春日部」と表記されていた地名が、なぜ「糟ケ辺」や「糟壁」という字句が当てられるようになったのかは残念ながら不明です。

さらに、天正18年(1590)と比定されている高力清長印判状(写)には、「糟壁新宿」という地名がみえます。この古文書は、岩付城主となった徳川譜代家臣の高力清長が、「糟壁新宿」の図書・弾正に対して、諸役を免除するかわりに人を集め年貢を納めるよう命じたものです。

江戸時代には、地名の表記としてはもっぱら「糟壁」が用いられるようになり、17世紀後半以降は「粕壁」という表記が増えていくことになります。ですから、日光道中の宿場町としての「かすかべ」は「糟壁(町)」や「粕壁(宿)」と表記され、時代が下るにつれ、「粕壁(宿)」が定着していくようになりました。

なお「粕壁」の表記は、宿場町の土蔵が「荒壁」であったから、または造り酒屋の「酒粕」に由来するという説もありますが、実際のところはよくわかっていません。

ただ、江戸時代の記録を細かくみると、「粕壁」ではなく「春日部」「春日辺」と表記することもあったようです。戦国時代から江戸時代にかけてみられる「糟ケ辺」「糟壁」「粕壁」という表記は、「かすかべ」という音を、漢字に当て、読みやすくしたものだけであり、漢字の字義は関係ないのかもしれません。

さて、明治時代、町村制が施行されると「粕壁宿」は「粕壁町」となり、東武鉄道を利用して藤の町・麦わら帽子の町・桐たんすの町として賑わいました。

その後、昭和19年(1944)戦時下での町村合併により、粕壁町は隣村の内牧村と合併し、「春日部町」が誕生します。「春日部」は後醍醐天皇を支えた南朝方の武士春日部氏の苗字であったため「春日部」の表記が選択されたようです。

上述の表記の変遷でみてきた通り、地名としては最も古い表記「春日部」が再び使われることになりましたので、地名「春日部」が復活したともいえるでしょう。

そして、昭和29年(1954)春日部町と武里村・豊春村・幸松村・豊野村の1町4町が合併し、春日部市が誕生します。

春日部町・春日部市の成立によって、東武鉄道の粕壁駅は春日部駅、旧制粕壁中学校は春日部高校と、公共的な施設等には「春日部」という地名が使用されるようになりました。今でも春日部市域全体を指す場合は「春日部」という表記が用いられます。

「春日部」が市域を覆う一方、「粕壁」表記も併用されています。粕壁は、江戸時代の宿場町だった区域の地名として使用され、「粕壁地区」「粕壁東」などと表記されます。春日部市立粕壁小学校は、現在は春日部市が設置した粕壁地区の小学校で、両方の表記が併用される伝統の小学校です。

以上のように、表記の変遷としては、「春日部」が最も古く、紆余曲折をへて「粕壁」が生まれ、そして「春日部」が再び登場するという過程をたどり、現在の用法としては「春日部」は市や町全体を指す地名、「粕壁」は春日部のなかの粕壁地区を指す地名として併用されいる、とまとめられます。

長くなりましたので、次回は粕壁のなかの小さな地名について、紹介したいと考えています。不定期ですが、お付き合いください。

「かすかべ地名のはなし」バックナンバー

粕壁小学校の3年生が郷土資料館を見学しました

令和6年3月1日(金)に粕壁小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。

この日は、企画展示室の「くらしのうつりかわり」展を中心として“昔の生活の様子”を学び、残りの時間を自由時間にして館内全体を見学してもらいました。

 

企画展示室での解説風景

企画展示室での昔の生活の解説時には、昔の炊事や洗濯などは手作業によるものが多いことから、児童からも「たいへんだねぇ~」という声が。
時間の流れが速く、複雑化した現代では何事も機械に頼らなければならず、昔と同じ作業をして生活することはとても難しいことでしょう。

 千歯扱き体験!

千歯扱き(せんばこき)を使った脱穀は各クラス代表5人に体験してもらいました。
体験の光景を眺める児童の中には“自分もやりたかった~”と残念がる子も普段は多いのですが、「やりたいけどがまん!!」と自分を律する子がいたのには驚きでした!えらい!

 

昔の粕壁小の机と椅子を体感

桐箪笥 開けるとそこには・・・

自由見学の時間では、かつて粕壁小学校で使っていた机や椅子などに腰掛ける児童や、桐箪笥に興味を持つ児童の姿が!実はこの桐たんすの中にも資料やクイズか仕掛けられていて、発見した児童は楽しそうにチャレンジしていました♪

 

ちなみに粕壁小は1~4時間目を利用して、1クラスずつ入れ替わりで見学するスタイルでの実施でした。というのも、粕壁小学校と郷土資料館(教育センター)は隣に位置しており、校内で教室移動をするのとさほど変わらない速さで来られてしまうからです!
お家が近い児童も多く、郷土資料館に来たことのある子もほかの学校と比べて多いようです。「この前来た!」と言ってくる子もいるほど!
せっかく近くにある郷土資料館です。これからもたくさん遊びに来てくださいね♪

2月の近隣博物館・資料館の考古学情報

2月の近隣博物館・資料館の考古学情報をお届けします。

見学の際は、休館日等、よくご確認の上お出かけください。

(現地説明会)

・3月8日(金)13:30~ 清水遺跡(茨城県境町) 公益財団法人茨城県教育財団

 

(展示会_閉会日順)

・3月3日(日)まで  埼玉県立嵐山史跡の博物館 「武蔵武士の食と信仰―食べて 祈って 戦って―」
・3月24日(日)まで 本庄早稲田の杜ミュージアム 「弥生時代の児玉・深谷地域」

・5月12日(日)まで 杉並区立郷土博物館分館 「発掘された弥生時代」
・4月21日(日)まで 取手市埋蔵文化財センター 「祈りのかたち―出土品から見る先史時代の祭祀―」

 

また3月16日(土)には、春日部市郷土資料館で「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」と題し、越谷市教育委員会生涯学習課の莵原雄大先生にご講演いただきます。

まだ定員に余裕がありますので、ご希望の方は、下記の通りお申し込みください。

●莵原雄大先生「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」
日程 令和6年3月16日(土曜日)午前10時~正午
場所 教育センター
講師 莵原 雄大(うはら ゆうた)先生(越谷市教育委員会生涯学習課職員)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み

緑小学校の3年生が郷土資料館を見学しました

令和6年2月29日(木)に緑小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。
1組と2組が同時に来館のため、クラスごとに常設展示室と企画展示室に分かれての解説です。今日は社会科の調べ学習ということで、児童たちもメモを取る気満々でした!

 

常設展示室での解説風景

常設展示室では、竪穴式住居や日光道中の模型を見ながら学芸員の解説を聞きました。竪穴式住居は原寸大の迫力が、日光道中の模型はミニチュアの繊細さがあり、見るだけでも楽しめますね♪

 

企画展示室での解説風景

企画展示室では、昔の家庭で使っていた道具である“羽釜”や“洗濯板”など、現代の電気を動力とした道具との違いを学びました。
たくさんある展示を前に、子どもたちは「めったに見れないものがたくさんある!」と嬉しそうでした!

 

見学者多数で賑わう展示室

実はこの日は、同じ時間に他にも団体見学のお客様や、海外からの旅行者の方も来館するなど、午前中の資料館は大賑わいでした!

 

自由見学の時間

ここぞとばかりに楽しむ子どもたち

自由見学の時間には展示品をよく観察したり、スタンプを押したり、おもちゃで遊んだりと満喫してくれました!


見学終了の時間になっても、まだまだ帰りたくない様子の緑小3年生でした♪
郷土資料館は土日も開館しているのでぜひまた遊びに来てください!

凧作り教室を開催しました

2月25日(土)、春日部市「庄和大凧文化保存会」の方々を講師にお招きし、3回目の凧作り教室を開催しました。当日は、小学生を中心に17名に参加いただきました。

最初の説明

骨付け

 

第1回目第2回目の様子や凧の作り方はリンク先をご覧ください。

糸目中心を合わせる

さて、今回は、保存会の方にも教えていただいた凧の「糸目中心」について考えてみます。

今回、凧の糸目(凧とあげ糸を結ぶ糸)は、凧の上側の両角と、凧の中心に3本の糸を結び付け、凧の上から14㎝のところで円板の金具でおさえ、3本を結び合わせました。凧の全長は約60㎝で上半分が30㎝となるので、やや上によった位置に糸目中心を設定したことになります。

この糸目中心の位置によって、飛んでいるとき凧の角度が変わります。より上に中心を設定すれば、上につけた糸目がさらに短くなり、凧は地面と平行に近くなります。逆に、より下に糸目中心を設定すれば、上につけた糸目が長くなり、地面と垂直に近い角度に近づきます。これらにより、凧にあたる風の強さが変わります。

この力と、地面から凧を引っ張る力がうまくつりあえば、凧は安定して飛びますが、ずれるとくるくる回ったりしていしまいます。今回の凧作り教室では、糸目をほどけるように結んでいますので、糸目の中心をいろいろ変えてみて実験してみてくださいと、保存会の方はお話しされていました。

 

さて、5月3日と5日に行われる大凧あげまつりでは、5日の午前中に、創作凧揚げ大会として会場で自分で作った凧をあげることができるそうです。ぜひ5月5日の午前中に大凧あげ祭りの会場で凧をあげてみてください。

大空に夢を飛ばそう!!創作凧あげ大会2024~君の夢が空を舞う

とき 令和6年5月5日 午前9時から11時

場所 春日部市西宝珠花江戸川河川敷

参加方法 自作オリジナル凧にて自由参加

【出張授業】でばりぃ資料館in川辺小学校

令和6年2月27日(火)に川辺小学校に出向き、第3学年の児童に向けて「でばりぃ資料館」を開催しました。

 生活科室での展示

図書室での展示

川辺小学校は郷土資料館からやや遠くに位置しており、なかなか当館への来館が難しい学校の一つかもしれません。
だからこその“でばりぃ資料館”です!以前もでばりぃ資料館を活用していただいたことがあり、今回もご用命をいただきました!

 

今日は図書室と生活科室を利用しました。
生活科室では昔の学校の様子と、昔の農業(脱穀)体験をしました。

 昔の川辺小周辺についての解説

学校の道具を自由に見学

床面に広げた1960年代の空中写真には、まだ存在しいない学校も多いのですが、川辺小学校の開校は1874年(明治7年)のため、写真から探すことができました!
この空中写真の時代には、春日部にはララガーデンもイオンもなく、コンビニもなかったことでしょう。川辺小学校は歴史ある学校なんです!
また、1917年の川辺小学校の写真を保有していたため、児童にみせたところ、“白黒の写真”“机のない教室”“木造作りの校舎”などに驚いたようで「信じられない!!」という声が聞こえてきました(笑)

 

図書室では昔の家庭の道具を解説です。

 昔の家庭の道具解説

昔の家庭の道具を自由に見学

炭を動力としたアイロンや七輪、竈でご飯を炊くための羽釜など、今では当然のようにある電気やガスが昔は当たり前ではなかったことを学んでもらいました。
生まれた時から周囲にあるものは、こういった授業などであえて意識しなければ、意外と気づくことができません。昔を知ることで、今の生活のありがたさも、一方で起こる弊害も児童に知ってもらえたらと思います。

 

今日は各ブース20分と若干短くせわしなかったかと思いますが、その分児童は飽きる暇もなく充実した時間を過ごしてくれた様子でした!
来年もまたでばりぃ資料館のご依頼お待ちしております!

【出張授業】でばりぃ資料館in上沖小学校~延長戦~

令和6年2月22日(木)に上沖小学校に出向き、第3学年の児童に向けて「でばりぃ資料館」を開催しました。

生活科室展示風景①

生活科室展示風景②

つい先日8日にも上沖小にはお邪魔したのですが、実はその時1クラス学級閉鎖になっていたため、でばりぃ資料館を体験することができなかったのです。

そこで今回は、前回体験できなかった1クラスのために出張って来ました!せっかくの特別授業ですから、ぜひ楽しんでいってください!

 

今回は生活科室を利用して、内容は前回と同じく「昔の学校の道具・60年前の春日部」「昔の家の道具」になります。

昔の学校で使われていた道具解説風景

モノクロ写真の給食風景をみながら説明を受けます

「昔の学校の道具・60年前の春日部」のコーナーでは、空中写真から昔の上沖小の周辺の様子を探ったり、昔の学校で使われていた道具に触れる体験をしました。

 

「昔の家の道具」のコーナーでは、黒電話や手回し洗濯機などの道具の説明や、今と昔との違いについて解説を行いました。

昔の家庭の道具の解説風景

テレビにも映った手回し洗濯機を体験!

炭火アイロンの説明の時にはこんなやりとりが、

職員「どうして炭を使ってアイロンを温めたのかな?」

児童「電気がなかったから!」

職員「そうですね、電気がまったくなかったわけじゃないけど、あんまり普及してなかったということです。今は、電気のアイロンとかね、アイロンじゃないのもあると思うけど・・・」

児童「ファブ〇ーズ!!」

確かに、シワ取り効果を謳っているものもあるようで、意外かつ現代的な回答でした(笑)

 

自由時間には見学、体験、そして疑問に思ったことを質問してきてくれました。

話を聞くときはしっかりと聞き、楽しむときは思いっきり楽しむ3年1組でした!

 

これにて上沖小3年生、4クラスすべてがでばりぃ資料館受講完了です!

先生としては1クラスのためにまた来てもらうのが申し訳ないようでしたが、そんなことはございません!日程の都合等は要相談ではありますが、子どもたちの学習のために、今後もぜひ郷土資料館をお役立てください♪

八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました

令和6年2月16日(金)に八木崎小学校の3年生が郷土資料館を見学しました。

 

今日は校外学習ということで、強風の中、30分くらい歩いて郷土資料館まで来てくれました!

約60年ほど前の生活から現在に至るまでの「くらしのうつりかわり」についての学習がメインということで、今企画展示室の「くらしのうつりかわり~なつかしの暮らしの道具~」展の解説とともに、資料館内にある模型を中心とした解説も併せて行いました。

 

竪穴式住居模型の見学風景

まずは竪穴式住居の模型を見ながら、約5000年前の縄文時代の生活について解説です。

郷土資料館に入ると目に飛び込んでくるのが、縄文時代の竪穴式住居!子どもたちからも「リアルだ・・・」という声が漏れてきます(笑)

竪穴式住居の中には、「木の実」「魚」「貝」などの当時食べていたものや、「炉(ろ)」「土器」など生活道具が見て取れます。ちなみにこの土器の中で煮られているのは「かき」です。現在でも食卓に並ぶものが5000年前も食べられていることは大きな発見だったようです!

 

粕壁宿模型の見学風景

続いては日光道中粕壁宿の模型を見ながら、約200年前の春日部について解説です。

日光道中は江戸時代に日本橋から日光に向かうために作られた道です。その宿場の一つとして作られたのが粕壁宿。おかげで春日部に“まち”ができたんですね!

 

企画展示室での解説風景

そして企画展示室では、約60年前の生活についての解説をしました。

洗濯板やアイロンなど、現在は電気で動くものも、当時は手作業であったり、電気以外の動力(炭など)を使用していました。

手作業の一つとして、千歯扱き(せんばこき)を使った脱穀の体験もしてもらいました!

 

戦時中の絵手紙を読む子どもたち

クロックノールで遊ぶ子どもたち

自由見学の時間には、たくさんの展示と遊べるおもちゃなどで、存分に資料館を満喫している様子!

今日はたくさんの“昔”を学ぶことができましたね♪

 

今日は風が強くて歩いてくるのが大変だったかもしれませんが、郷土資料館は土日も開館しています(祝日は休館)ので天気のいい日にまた遊びに来てください!

3月3日、16日に歴史文化講演会を開催します

郷土資料館では3月に2本の歴史文化講演会を開催します。

どちらもただいま参加受付中です。お申し込みはお電話、電子申請からどうぞ。

みなさま、お誘いあわせの上ご参加ください。

●郷土資料館歴史文化講演会 平野明夫先生「徳川家康の関東入国と岡部氏」
関東地方の歴史に大きな影響を及ぼした徳川家康の移封と、それに伴い野田に入り、本市域にも所領があった岡部氏について、中世史がご専門の先生にわかりやすく解説していただきます。
日程 令和6年3月3日(日曜日)午後2時~4時
場所 教育センター
講師 平野 明夫(ひらの あきお)先生(國學院大學兼任講師 日本中世史)
募集人数 80人(申し込み順)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み

 

●莵原雄大先生「砂丘と遺跡ー大林河畔砂丘と越谷市海道西遺跡の調査」
砂丘から発見された平安時代の遺跡について、調査を担当した越谷市職員を講師に迎え、わかりやすく解説していただきます。
日程 令和6年3月16日(土曜日)午前10時~正午
場所 教育センター
講師 莵原 雄大(うはら ゆうた)先生(越谷市教育委員会生涯学習課職員)
募集人数 80人(申し込み順)
参加費 無料
申し込み 直接、電話(048-763-2455)、電子申請(別ウインドウで開く)で申し込み

 

#かすかべ地名のはなし (1) #春日部 の由来

#かすかべプラスワン #地名の由来

一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」

第1回目は、地名「春日部」の由来の話です。

「春日部」という地名は、現在でも市の名称、駅の名称、県立高等学校の名称など、公共施設や民間業者の名称にも使われています。自動車のナンバープレートにも採用されているので、「春日部」の地名は県外の方にもお馴染みのようです。

「春日部」の字義や意味については、いくつかの説があります。

第一には、今から1400年以上前、大和時代の安閑天皇(あんかんてんのう)の皇后である「春日山田皇女」(かすがのやまだひめみこ)など、春日の名がつく皇后・皇女に仕える人々が所在した「御名代部」(みなしろべ)であったという説です。「春日」の「御名代部」であるから「春日部」となったというものです。この説は「春日部」という字義を説明している点では、有効ですが、いかんせん大和時代という資料が限られている時代に起源を求める説であるため、様々な疑義が残ります。また、「春日」の「御名代部」は、全国に数十か所あったといわれており、現に兵庫県丹波市(旧春日町)には、「春日部」という地名があり、「春日部小学校」という小学校もあります。埼玉県の春日部が本当に大和時代の「御名代部」だったのか、想像は膨らませられますが、証拠がなく、謎に包まれています。

「春日部」の意味の第二の説は、古くから大きな河川が流れこむ当地の地形や立地にその起源を求める説です。「カス」は水が浸った不毛な土地、「スカ」は川沿いに堆積した微高地、「カワベ」は川のほとり。そうした言葉が組み合わさり、当地が「かすかべ」と呼ばれるようになったというものです。この説は、読み方・音に着目した説となりますが、なぜ「春日部」(あるいは「粕壁」)と漢字で表記するのかは説明できません。ただし、古くから川とともに暮らしてきた当地の歴史的な特徴をとらえており、近隣にも「スカ」(須賀)や「カワベ」(川辺)、あるいは河川に由来する地名もあることから、説得力があるように思えます。

漢字に注目すれば「御名代部」説。読み方や音に注目すれば地形起源説。二者択一で決定づけることはできず、春日部の地名の由来は謎(定説はない)なのです。

 さて、地名の由来として、よく言われる「春日部氏」説にも触れておきましょう。

当地には、平安時代末ごろから春日部氏という武士が住んでいました。そのことから、春日部氏を地名の由来に求める説が、かつては唱えられていました。春日部氏は、もともと京都の貴族である紀氏の流れをくむ一族で、大井氏、品川氏ほか、現在の東京都品川区・大田区付近に同族が土着していました。彼らは、その土地に土着するにあたり、自分たちの苗字を「大井」「品川」と名乗った一族でした。春日部氏も一時は「大井」を名乗り、その後「春日部」に苗字を改めたようです。したがって、春日部氏は、すでに「春日部」と呼ばれていた当地にやってきて、「春日部」と名乗ったと考えるべきでしょう。春日部氏を地名の由来とする説は成り立たないということになるのです。

が、いまでも「春日部氏地名起源説」が語られることも少なくありません。この説が根強いのは、老若男女に分かりやすいことと、春日部氏を英雄視する歴史の見方が背景にあるように思えます。また、「御名代部」説、地形起源説に決定力が欠けるということも原因なのかもしれません。

結論的にいえば、

「春日部の地名の由来は謎ですが、「春日部氏地名起源説」だけは違う」

このことだけ、強調しておきたいと思います。

 

少し長くなりましたので、続きは次回に。次回は、地名かすかべの表記について。

かすかべの地名は現在でも「春日部」「粕壁」の二つの表記が用いられています。

それはなぜでしょうか?

また表記として古いのは、「春日部」or「粕壁」?

そんな話を書きたいと思います。