校長室より

校長室より

手賀沼殉難事件について

昭和19年11月22日、その日は西風の強い日であった。手賀沼はもうすっかり冬景色となっていた。東部女教員相互視察研究会が湖北国民学校と手賀東部国民学校で開かれた。

その頃は若壮年の男子教員はほとんど出征して行って、若い女子教員がどこの学校でも半数以上を占めるといった有様であった。その若い女子教員を対象に研究会は開かれたのであった。

我孫子中央国民学校(現在の我孫子第一小学校)からは、千浜宗一郎校長以下、椎名芳子、湯下光代、浅倉ふさ、香取好子、吉元アツ、中村良子の7名が参加していた。

午前中は湖北校を視察し、授業や閲兵分列を見学したあと、午後は沼向こうの手賀東部校に行くことになっていた。一行40名は、午前11時30分、中里の渡しから船に乗った。

風は強かったが、こちら側は危険を感じさせるほどではなかった。しかし、一艘ずつでは危ないので分乗した三艘の舟を横に並べて綱で結び合わせた。

 沼に出ると風が一層強くなり、波のうねりが高まってきた。湖の真ん中まで来ると、繋ぎ合わせた綱がゆるみ始めた。舟と舟の間があき、そこから水しぶきが吹き上げてきた。若い女性の先生方は着ている着物を気にして声を上げながら体をよける。そのたびに舟はぐらりと傾いた。

「動いてはいけない。動いては危険だから、じっとしていなさい。」

千浜校長がたしなめた。

 舟があと三分の一で対岸に着くところであった。水しぶきが上がり、本能的に皆が身を寄せた時、西からの突風が襲い、あっという間もなく三艘の舟が一緒に波に呑まれ、全員が湖に投げ出された。悲鳴が波に消された。

 沼には農民の藻取り舟が出ていたのだが、丁度昼休みでみんな岸に上がって休んでいた。

それも不幸であった。

 急報はあちこちへ飛んだ。

 我孫子中央国民学校では田口教頭が残っていた。その日、生徒は早めに下校していた。

「千浜校長危篤、すぐ医者を連れてこい」

 田口教頭にもたらされた報せはこのようなものであった。使いの人に聞いても、詳しいことは分からない。田口教頭は直ぐに学校医である山下先生、矢口先生の二人に連絡を取ったが、二人とも不在であった。自転車を飛ばして日立精機の診療所へ行き、診療所の医者を自転車の荷台に乗せて現場へ急いだ。

 対岸へ駆けつけた時は、事件の発生から一時間も経っており、すでに引き揚げられた遺体が土手に並べられていた。その中に我孫子中央国民学校の千浜宗一郎校長と中村良子准訓導の悲しい姿があった。18名の教員や学生等が犠牲になった。殉難者は寒さと厚着のために水中で体の自由を奪われたのであった。

 その夜、全職員が両家に分かれて行き、しめやかに通夜を営んだ。

 11月24日千浜校長の葬儀が行われた。5年生以上の児童と全職員が会葬するため、正午に校庭に集まっていると空襲警報が発令された。そのため全員を下校させ、田口教頭が代表して参列した。

 名校長と仰がれ、我孫子小学校に「千浜時代」を作った校長の戦時教育に殉じた哀しい最後であった。

 26日には中村良子先生の葬儀が柴崎の分教場で行われ、受け持ちの4年生男子組と柴崎青山分教場の4年生以上の児童と職員が参列した。

 児童の一人は、「おっかない先生が死んだ。」と思い、四角いお棺の真っ白な被いをぼんやりと見ていた印象を語る。お棺はリヤカーで墓地まで運ばれた。

 12月2日は、千浜校長と中村先生の町葬が執行された。22日には郡教育会の主催で、殉難教員の合同慰霊祭が行われた。

 手賀沼殉難事件の慰霊碑は、今は干拓農地となっている中里の渡しを見下ろす小高い丘に、ひっそりと建っている。
(我孫子第一小学校 百年史より抜粋)

 

 私達我孫子第一小学校の先輩教員であるお二人の哀しい事件から、今年は丁度70年を迎えることになりました。

 戦争も遠い昔のような感じとなりましたが。この時代に起こった「手賀沼殉難事件」を語り継ぎ、戦争のない平和な時代に感謝し、学校で学んでいる児童の安全を地域の方と共に、しっかりと守っていきたいと切に思います。

 平成26年11月22日(土)、我孫子市立湖北小学校にて手賀沼殉難教育者慰霊式

(殉難70年にあたり)が執り行われる予定です。

我孫子市長・教育長、柏市長・教育長、両校長会・教頭会等の関係者が参列します。

ご遺族の方には心よりご冥福を申し上げます。

 11月4日の全校朝会では、校長の話としてこの哀しい事件のことを児童全員に伝えます。子ども達は、学区にあり身近に感じていた手賀沼で、過去にこのような哀しい事件が起きたことを知る機会になります。合掌。 

手賀沼殉難事件の慰霊碑にて献花
(平成26年10月24日)