校長室より

校長室より

チーム一小で一小っ子を育てる!

我孫子第一小学校に着任して一ヶ月が過ぎようとしています。566名の子ども達が学習や生活を
その学年なりにしっかりとスタートすることが出来ました。
先日行われた「総会」でもお話しましたが、今年度は、以下の重点に沿って教育活動を進めてまいり
ます。

「安心・安全」を大切に、「希望の登校・満足の下校」を心掛け、学校教育目標達成にために
47名の教職員が一丸となって、一小っ子を磨き鍛えます。

教育目標
   豊かな心でたくましく生きる子どもの育成
29年度
      「やる気 根気 元気 はたらき」4本の木を大きく成長させる。
そのため大切にすること
     教職員・・・ 1 わかって楽しい授業づくり     2 特別支援教育の充実
     児童・・・・ 1 あいさつ  2 清掃  3 歌声  4 靴と傘をそろえる
            5 時間を守る 6 外遊びをする    7 整理整頓

知・徳・体の重点については、今後少しずつお伝えしてまいります。
一小っ子の頑張りを少しずつアップしてまいりますので、給食の献立と共に「新着情報」を
ご覧下さい。

29年度ご協力の程、よろしくお願いします。
                              山口 祐子

ゲーム依存症

子どもがスマホに触れ始めた年齢は、47%が2歳以下である。

ほぼ毎日スマホに触っている子どもは、31%である。

3歳の子どもが、親の指の動きを見て覚え、画面ロックのパスを知った。

数日前の読売新聞の記事です。

母親が家事で忙しい時、子どもにスマホやタブレットを与えておくと家事がはかどります。

取り上げると癇癪を起こすのでなかなか取り上げることができなくなってしまうそうです。

 

電車の中でも、ほとんどの客は腰掛けてスマホを操作しています。

スマホをいじっていない人の方が圧倒的に少ないのが現実の大人の世界です。

「スマホを持ってないと仲間と繋がれない」のが中学生・高校生の現実です。

もう、私達は機械を利用しているのではなく、縛られているように思えます。

では、身近の子ども達の現実はどうでしょうか。

 

 我孫子市内の小中学校でも同じような問題は実際起きています。

スマホを使ってのゲームを毎日、何時間もする子どもがどの学校にもいます。

スマホのゲームが生活の中心となっている子です。

ゲーム依存症です。

ゲームなしではもう生きていられなくなってしまった子どもです。

中学生の中には、心療内科の病院に強制入院させて治療をしなければならない子も出てきました。

小学生でもゲームから引き離す為、キャンプに1週間参加させる子もいます。

この現実を私たち大人は、どう考えたらいいのでしょうか。

子どもの問題は、突き詰めれば大人の問題でもあります。

テレビのコマーシャルでは、新しいスマホゲームの宣伝がやたらと多いです。

あれだけテレビで宣伝され、仲間が楽しそうにやっていたら「やるな」と言う方が難しいです。

ゲームを始めると次第に夢中になります。ゲームを達成すると脳からドーパミンがどんどん出てきます。ワクワクし、高揚感に満ちてきます。

そして更に、脳がゲームの刺激を求めるようになります。

際限なく刺激を求めると同時に、他の活動(学習や運動、規則正しい生活等)への興味が薄れてきます。

ゲーム中毒の子どもの脳は、麻薬中毒の人の脳と似ているとも言われています。

 

アメリカで「スマホ18の約束」という文書があります。

ある母親とその子どもとの約束した内容です。

とても分かり易く書かれ、何が本当に大事なのかを考えさせられます。

一部を紹介します。

〇このスマホは私が買ったのよ。あなた(息子)に貸しているだけです。

〇パスワードは私が管理しますよ。

〇学校に持って行ってはいけません。メールする友達とは直接お話しなさい。

 会話は人生のスキルです。

〇お友達に面と向き合って言えない言葉はメールで送ってはダメよ。

〇時々、スマホは家に置いていきなさい。携帯は生き物でもあなたの一部でもないの。

 これなしでも暮らしていけるのよ。取り残されるのを恐れず、器の大きい人間になりなさい。

〇約束を守れなかったら没収します。もう一度使い方を話し合い、はじめからやり直しましょう。

 

 

もう一人の自分発見

 「座」という漢字をよくみて下さい。

この漢字は、土の上で人と人とが対面している様子を象形文字として描かれています。

一人は「現実の自分」であり、もう一人は「見えざる自分」が対面して座っているのです。人は常にもう一人の自分と対話しています。私など常に「これで本当にいいの」「まぁ、いいか!」「なんでもっとしっかり準備をしておかなかったのだろう」時には「速く忘れてしまおう」ともう一人の自分との会話が延々と続きます。本当の自分はどこにあるのかと思ってしまうこともあります。

 教育とは、もう一人の自分を発見させることにあるとも言われます。

子ども達は、まだまだ全ておいて未熟であり経験不足であり、自己確立ができていません。

小学校時代は、自分づくりに必死な時期だと思います。

自分は本当は頭がいいのか。やればできるのに努力をしていないだけなのか。

自分は本当は運動が好きなのか。上手だと煽てられていることに気づいていないのか。

自分は本当は性格がいいのか。他人から「いい人ね」と言われたいだけなのか。

 自分の中にもう一人の確かに信じられる自分を持っている人は、強いと思います。

もう一人とは、きっと「自分の中の見張り番」でもあるからです。

人は、自分のことを自分で管理しなければ生活できません。家や学校でも親や先生や友達に厳しくアドバイスをもらえる時はいいです。しかし、いつも見張り番がいるとは限りません。

人間は弱いです。

手を抜きたい。サボりたい。楽をしたいと思ってしまいます。

大人になるとは、厳しいもう一人の自分を作っていくことなのかな、とも思います。自分としっかり向き合い、もう一人の確かに信じられる自分と対話していく。

対話していく中で、価値ある本物の自分が作られていく。

心が成長することです。

 諺の一つに「人には優しく、自分には厳しく」があります。

まさしく、もう一人の厳しい自分が甘い自分を諫めているのです。

自分のことは、自分自身が一番分からないし、知らないとも言われます。

小学生の子どもには、日々の生活の中で「僕もやればできるんだなぁ!」「私にはこんな力が実はあったんだ!」「自分をうんと褒めたい!」という場面をいっぱい作ってあげることが大事だと感じています。そのために、数多くの色々な経験(学習・スポーツ・習い事等)をさせることがその第一歩のような気がします。

より多くの厳しい自分・意外性を持った自分・不思議な自分と出会えるような環境を作ってあげたいものです。

私は還暦を迎えて、「人生の尺度」を自分で持つことが必要だと感じています。

この歳になると、自分は自分、他人は他人と割り切ることの大切さも実感してきています。

 

 

人生100年の時代 ~子ども達の生き方~

2007年(平成19年)生まれの子どもの半数は、107歳以上生きると予想される調査結果が国連からでました。

今後、日本の小学生は、「本当に100歳まで生きる時代」だということです。

「人生100年」をどう過ごすか。

普段はあまり深く考えませんが、実に大事な問題でもあります。

 

そもそも日本人の寿命はいつ頃から延びてきたのでしょうか。

織田信長の時代は、「人生50年」と言われておりました。

でも実際には、

明治・大正時代でも、40歳台(42歳位)でした。

太平洋戦争後、昭和22年に始めて50歳を超えました。

私の生まれた1957年は、男性63歳、女性67歳でした。

そして今は、男性81歳、女性87歳の時代です。

こんなに長生きになったのは歴史的にみれば最近の話なのです。

日本人は、10年間で2年~3年位の割合で平均寿命が延び続けているそうです。

しかし、生物学的には今のところ110歳から120歳位でこの延びは止まるかもしれないみたいです。

 

1月10日の始業式で、子ども達に「人生100年」の話をしました。

「皆さんの大部分は、100歳以上生きられるようです。」

そして、次のような質問をしてみました。

「皆さんにとって、100歳以上の長生きが本当に得ですか。

それとも損ですか。

どちらかに手を上げてみて下さい。」

私の予想では、ほとんどの子どもは得だと思うに手を上げると思っていましたが、

高学年の子は、損だと思うに手を上げる子もおりました。

理由は、この後教室で担任の先生と話し合ってみて下さいと言って終わりました。

高学年で損だと思う子の理由は、

・病気になって長生きするのは辛い。

・仲間が死んでいるのに自分だけが生きているのは嫌だ。

・寝たきりの老人になるのは嫌だ。

・食べたり生活したりするのにお金が掛かる。

 

想像以上に現実的でした。

将来、子ども達が不幸なのは、

過去のモデル(長寿時代の経験則)がない時代になっていくことです。

先生方やお父さん・お母さんの生きてきた時代ではベストな生き方が、

長寿時代の未来を生きる子ども達にとってはベストではないかもしれないということです。

学ぶ(学校)、働く(職場)、引退する(余暇・生涯学習)のローテーションが今後どのように変化していくのでしょうか。

 

子どもは全力で走る(走ることの意味)

 12月7日(水)好天に恵まれました。本校の敷地内(グランドとグリーンウォール)で持久走大会を実施することができました。寒さが厳しい日でしたが、大勢の保護者も参観され子ども達に激励の拍手と歓声を頂きました。

緊張の中、スタートしました。走る距離は低学年750メートル、中学年1050メートル、高学年1350メートルです。時間にして速い子で4分から5分程度です。

目的は体力づくりの一環です。文部科学省の指導要領には、「無理のない速さで走る」と記されていますが、子ども達はスタートから全力で走ってしまいます。学校で昼休みの校庭を見ていると鬼ごっこやサッカー等で走り回っている子が大変多いです。大人は意味なく走ることはないですが、子どもは走るのです。廊下でも走ってしまい注意されます。日常的に走るのが好きな子どもでもこの持久走は嫌いと思っている子は結構います。

11月下旬、校内研究授業で2学年が、「タイムを意識し、自分の一定のペースを保ちながら走れるようにする」ことを目標においた体育授業が行われました。私は、大変に興味深く授業を見ました。グランド1周のタイムを3人組でお互いに記録します。自分の設定タイム(楽に走れるマイペース)を作り、それを守れていれば○が付き設定タイムより速かったり遅かったりすると×になります。全部に○がつく子はやはり少なかったです。自分のペースが上手に作れなかったり周りの子のペースに惑わされてしまったりするようでした。

12月5日(月)最後の全校持久走練習の時、私は子ども達に三つの事を話しました。

全員が必ず自分の目標を持って走ること。1位、10位以内、20位以内、昨年の順位より上、試走の順位より上、最後まで歩かない等です。本当なら時計を持って走るか、大きな電光掲示板でもあればそれを見ながら走るか、タイムを基準にして走らせたいところです。

苦しい時は頑張り、痛いときはやめる。当然、長い距離を走るので心臓や肺に負担がかかりますので苦しいのは当然です。しかし、膝の痛みや心臓等が痛いと感じたら即、勇気を持って走るのをやめるように言いました。何よりも安全が第一です。

スタートは要注意、前の人を押さない。スタート順は最前列より試走の結果で速い人から順に並んでいます。列の間隔を大きく取りスタート時に転倒して怪我人が出ないようにしました。

今回は、幸いにもスタート時での転倒はありませんでした。

低中高学年別に持久走大会の閉会式を体育館で行いました。10位以内の子ども達は表彰されました。悔しくて泣いている子、笑顔で満足している子、スタート直前に気分が悪くなり走れなかった子、様々なドラマがありました。


  高学年閉会式の校長挨拶で私は次のことを話しました。

毎年ノーベル文学賞候補者に挙がっている作家の村上春樹氏は、30年以上毎朝10キロ近く走っています。世界中のフルマラソンや100キロマラソンにも参加しており、「走ることについて語るとき、僕の語ること」という本で走る小説家としての想いを書いています。

村上氏が走る時の目標は、三つあります。歩かないこと。ゴールすること。レースを楽しむこと。

私自身も遅い市民ランナーの一人として、今までこの三つを目標に走ってきました。

本の中で、強く印象に残った言葉を引用します。

「苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。」

「本当に価値あるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。」

「どれくらいの充足感を持って42キロを走り終えられるか、どれくらい自分自身を楽しむことができるか、おそらくそれが、これから先より大きな意味を持ってくることになるだろう。」

 走ることとは、哲学なんだ・・・・と思いました。

 

 

日本と欧米の教育の違い

 11月に入り週末毎、私の教え子達がクラス会を催してくれました。

流山の初任で受け持った45歳、我孫子第一小の35歳、33歳の年代になった卒業生達であります。立派な大人に成長した子ども達との再会は、本当に嬉しく懐かしさでいっぱいでした。皆さん、お忙しいところありがとうございました。

35歳になるある女の子がイギリスから日本に帰国してクラス会に参加してくれました。10年以上前にイギリス人男性と結婚し、今はロンドン郊外で生活しています。現地での生活や日本文化との違いの話は、本当に興味深く後日、校長室に来てもらい再度ゆっくりと話を聞くことができました。

まず日本の教育ですが、これは教育基本法に明記されているように「人格の完成」にあります。私達教師をしている人間なら全員が知っていることです。日本人は、昔から和を大事にする価値観が根底にあります。「私は、あなたとの関係性の中で私がある。」のです。

一方、イギリス等の欧米の教育は「自己の確立」にあります。「私は私であり、あなたとの関係性から私があるのではない。」のです。欧米の教育が「絶対」を求めるのに対して、日本の教育が個人に対して「相対」を求めていることを意味します。

欧米の子ども達は、小さい頃から自己主張を学ぶそうです。仕事でもはっきりと自分の意見を言えることが大切なのです。常に、他と違うカラーが求められ、他と違うことによってのみ自己の確立が保証され、人々から賞賛を得ることができます。逆に、自己主張できない人は、つまらない人、取るに足りない人として学校や社会で認識される可能性が高いのです。

日本の子ども達は、私達がそうであったように小さい頃から他者との協調性を学びます。常に、周りと同じ行動がきちんとできているかが大事なのです。つまる所、トイレさえも一緒に行くような雰囲気があります。集団行動や連帯責任等が起こりうる環境があります。他と同じことによってのみ、人格の形成が保証され、人々から賞賛されるのです。逆に、他者と協調できない人は、困った人、変わり者として認識されてしまいます。

 一小の子ども達の中には、大人になって欧米の国々を相手にした仕事をする人もいると思います。その時、はっきりと自己主張をしないと相手はパートナーとして認めてくれないかもしれません。

 日本の教育の素晴らしさ、欧米の教育の良さの両面を広く持ち合わせたバランスのある人に成長してもらいたいものです。

 

本当に大事なことは目に見えない

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは、目に見えないんだよ。」
「肝心なことは、目に見えない。」
と、王子様は、忘れないように繰り返しました。

作家サン・テグジュペリの「星の王子さま」の中の一文です。

 

 私たちは、つい表面的な美しさばかりに目を奪われてしまいます。例えば、綺麗な花でも土の中には目に見えない根という存在を忘れがちです。「根本」「根源」「根拠」という言葉には、目に見えない根の重要さを示しています。目に見えない部分が充実していれば、目に見える部分も自らそれが表れてくるものです。

 では、勉強面ではどうでしょう。見える部分と見えない部分とを分けて考えてみます。

テストの点数などの知識力や理解力を「見える学力」と呼びます。思考力・判断力・表現力・学習意欲を「見えない学力」と呼びます。テスト等の花である「見える学力」を向上させるには、実は根っこである学習意欲や考える力をつけていくことが大事なのです。一時のテストの点数ばかりを気にしていては学力が大きく伸びることは厳しいかもしれません。読書や新聞を読む習慣、人前で堂々と自分の考えを発表する態度、批判的に思考するものの見方等を養っておくことが肝心なのです。それが根っこを大きくさせて、立派な花を咲かせていくことと思います。

 普段の生活面ではどうでしょう。

日常生活でも目に見えないものは、実は大事なことが多いものです。人の心は目に見えませんが、「心遣い」「気配り」は目に見えます。行動や態度として表すこともできるのです。

これも普段から心を磨いておかないと機転の利いた心遣いや気配りはできないと思います。

 

私は小さい頃、祖父から「お天道様が見ている。」と教えられました。誰が見てなくても空の上から神様(太陽)は必ず見ているということです。だから悪いことは周りに人がいなくても決してしてはいけないと教え込まれました。心の目がそこに存在しているのでしょう。

心で見るとは、心が純粋であり汚れがないことを意味しています。

先ずは大人がそのような心でいたいと思います。

肝心なことは目に見えないそうです。

 

 

 

昔と今の運動会

  今月末の9月24日、我孫子第一小学校は運動会を実施します。

例年は春(5月下旬)に行っていますが、アクティブ・ラーニングの公開研究会を6月に開催したため、今年度に限り秋の開催となりました。

 

今回のテーマは、昔と今の運動会です。

本校で最初に運動会を行ったのは、明治41年11月でした。今から100年以上も前のことです。当時は、校庭が運動目的に整備されてなかったので利根川の河川敷(青山河原)で実施されました。しかも本校だけでなく近隣の富勢小や湖北小との連合運動会でした。

地面には、草が生い茂りその中を子ども達は、着物に裸足で競い合いました。主な種目は、徒競走・障害物競走・玉ころがし・おたまじゃくし競争であったと「一小百年史」に記載されています。

明治時代から始められた運動会。文部大臣が全国の学校に実施する旨の訓令を出した事で校庭がなかった多くの学校はピンチに立たされました。そこで、学校は地域にある神社やお寺等の広い境内を借りて運動会を行ったそうです。境内を借りるためには、氏子や檀家等の理解と協力が必要となり、一緒に子ども達と楽しんでもらうために娯楽性の高い「パン食い競争」や「大玉ころがし」等を行いました。運動会は最初から子ども達だけの競技ではなく、参加するお祭りの要素があったわけです。又、運動会の場所が学校や家から遠い所もあり、お弁当を作って持って行くスタイルになったようです。遠足気分の面もありました。

 本校の運動会種目に「かっぱ音頭」があります。毎年、午前の部最後に校庭の真ん中に太鼓を出して子ども達と保護者・地域の方が一緒になって大きな輪を作り踊ります。農作業が盛んだった昔、運動会当日に夏祭りや秋祭り等の盆踊りも一緒に行いました。その名残が今でもあるのです。きっと日本全国の地域によって踊りも様々なのでしょう。

 

さて、今の運動会です。今年のスローガンは「全力 団結 運動会 努力と希望のバトンパス」です。児童会が中心となって決めました。教師側の指導の重点は、「勝ち負けよりも態度が大事」です。これには私の強い想いがあります。運動会は、「負ける練習の場(教育の場)」の一つと捉えています。大人になれば当然分かることですが、人生は勝つことよりも負けることの方が多いのがふつうです。挫折体験は小さいうちから経験して、そこから子どもがどう乗り越えるかが大事なことです。負け方を本当に身に付けた人は、他人の悲しみや苦しみを心の底から理解できる優しく温かい人になれます。競技に勝った子どもが、どういう態度を取ればより立派なのか。負けた子・転んだ子・失敗した子が、どういう態度を取れば立派なのか。学校は心を教える場所でもあります。運動会は、子ども達が必死に練習し、全員ができれば全部に勝ちたいと思う真剣勝負の場でもあります。こういう機会こそ、「人としての道」を大人は教えたいと考えます。

負けた時こそ学ぶことは山ほどあります。数年前、6年生の応援団の女子が閉会式後、校庭の片隅で肩を寄せ合って号泣していました。感動的な光景でした。本当に今まで頑張ってきたことが十分に分かります。貴重な体験をしたと思います。世の中、どんなに頑張っても時として結果が残せないこともあるのだという事実を学んだ瞬間です。

さて、今年の運動会は紅白のどちらが優勝し応援賞を取るのでしょうか。

私は、当日までの練習過程を一緒に見届けることで、子ども達の想いを少しでも共有したいと思います。今週は長雨で外での練習はあまりできませんでした。

子ども達の努力が何らかの形で報われることを願います。

運動会の日、晴天の下で実施できるよう祈ります。

天気だけはどうしようもありません。

 

絵本から学ぶこと

 私は全校朝会で「読み聞かせ」をしています。私の思いを絵本に託して、全校の子ども達と思いを共有できる時間です。前の学校の時から学期に数回目標にして、自分が気に入った絵本・自分が好きな作家の絵本・こんな話をしたいと思わせる絵本にピアノ伴奏を付けて読んできました。

本校でも読み聞かせボランティア団体「おひさま」が、子ども達の為に一生懸命活動しております。木曜日の朝、約10分の時間ですがどのクラスを覗いても子ども達は真剣に聴いています。身を乗り出して、頷きながら笑いながら驚きながら聴いています。素晴らしい時間だと思います。

 8月23日、我孫子市の教職員の講演会がありました。今回は第一小学校が当番校なので会場準備から講師依頼等、裏方を運営委員や本校職員とやりながら当日を迎えました。

今年は有名な絵本作家こんのひとみ先生の貴重なお話なので、個人的にも本当に楽しみにしておりました。勿論、先生の代表作「くまのこうちょうせんせい」を読んだことはあります。

その絵本の中で、特に好きな言葉の一節があります。

 

「先生ね、病気になって分かったことがあるんだよ。大きな声を出そうと思っても、出せない時があるんだね。出来なくなって、初めて分かったんだ。ひつじ君、大きな声を出そうねって、いっぱい言って、本当に悪かったね。」

 

私達大人は、子どもは明るく元気が一番と思い込んでいます。しかし、子どもは小さくて弱いものです。様々な家庭環境に置かれている子ども達が登校してきます。私が朝、校門に立って子ども達に挨拶しても全員が元気に返事をしてくれるとは限りません。泣いて来る子、走って通り過ぎる子、家での話をする子、子どもは様々です。3年掛かってやっとある女の子が小さい声で「おはよう。」と言ってくれたこともあります。嬉しくて担任の先生には、直ぐにお話をしました。

子ども達の痛みを分かることが大人の役目なのかもしれません。

明日から、2学期が始まります。全員が明るく元気で登校して欲し
 いですが、きっと心の中は複雑で様々なのだと思います。子ども達
  の心に少しでも寄り添いたいです。

本校卒業生がリオオリンピック出場

 4年に1度のオリンピックが、8月5日からブラジルのリオデジャネイロで開かれます。世界から206の国と地域が参加します。
こんなに大きなイベントは他にはありません。

このオリンピックに実は、我孫子第一小学校出身の先輩が出ることになりました。

平井康翔(やすなり)さんです。現在26歳、朝日ネット所属です。

種目は、「オープンウォータースイミング」です。

ご本人の経歴は、我孫子第一小学校・我孫子中学校・市立船橋高校・明治大学そして社会人となった現在も第一線で活躍している水泳選手です。

インターネットで競泳をどんなに検索しても「オープンウォータースイミング」はヒットしません。

競泳とは全く違うスポーツなのです。

「海のマラソン」と呼ばれ、海や湖、川などを10キロと長く泳ぐ競技なのです。

泳ぐ速さだけではなく、天候や水温の変化、クラゲに刺されたり選手同士が激突したりするアクシデントを乗り越える体と精神力、そして潮の流れを読み取る頭脳、もちろんコースロープはありませんから方向を見失わないようにしなければなりません。

この種目は、2008年の北京オリンピックから正式種目となりました。

平井選手は、前回のロンドンオリンピックで初出場できました。
この時は15位という結果でした。

今年の6月にポルトガルで開催されたリオ五輪世界最終予選会で日本人1位(世界で8位)となり連続出場を決めました。

今回の五輪のプレ大会では、なんと2位に入る好記録を出しています。メダルも夢ではありません。もうメダルに手が届くところまできています。

 

実は、私の手元に平成10年3月24日に作成された「なかよし」という文集があります。

平井選手が本校の1年生だった時に作られた学年文集です。

この文集の中で、オリンピック出場の夢を書いていたのです。

私の前の校長である氏田青津子先生が、1年生の時の彼の担任の先生でした。

貴重な文集を先日持って来て下さいました。

この話は、本校の職員にも読んで伝え、7月の終業式では子ども達にもこの文集を読みました。

「夢は努力すれば実現する」と感じ取った子どもも多かったです。

 

「ぼくは大きくなったら、水えいでオリンピックにでてリレーとじぶんがでるしゅもくで1いになって、しんきろくをだして、金メダルをとりたいです。」(後半略)

 

私は、子ども達に「スポーツで頑張ることは、心を鍛える、心を強くすることです。だから、平井選手は体も心も日本で一番立派に鍛えて、この分野で日本人1位になりました。そして2大会連続でオリンピックに出場できることになりました。」と伝えました。

 

来月8月16日の夜にオープンウォータースイミングの競技が始まります。

是非、本校の先輩である平井選手の活躍を応援したいと思います。