ほごログ(文化財課ブログ)

2025年3月の記事一覧

【 #3月7日 】 #今日は何の日? in春日部

いまから254年前の明和8年(1771)3月7日(旧暦)は、粕壁ゆかりの俳諧師増田眠牛の命日です。

増田眠牛は、今年の大河ドラマ「べらぼう」の時代=江戸時代半ばの江戸の俳諧点者です。粕壁の山中観音は眠牛ゆかりのお堂で、粕壁宿の歴史スポットとして知られています。しかし、当時の歴史資料はほとんどなく、粕壁との関わりは伝承・逸話として伝わるのみです。今回はその伝承・逸話の元になっているものを紹介しましょう。

眠牛について、紹介する文献のうち、最も古いと思われるのが、粕壁尋常高等学校編『郷土の研究』(昭和8年ごろ刊)です。同書は、私家版で発行された小冊子で、個人のお宅に伝来する史料として伝わったものです。担当者も恥ずかしながら、未だかつて原本をみたことがありません。

同書は、当時の粕壁町の社会経済的な統計のほか、伝承・伝説など、大正末から昭和初期にかけての郷土史研究の成果として重要なもので、このなかに「増田眠牛の事」という項目が立てられ、次のように記されています。一部コピーが不鮮明で読めない箇所は【 】で記しました。

増田眠牛とは今より凡そ百六七十年前、六部姿にて背に千手観音を負ひ、風雅の道をもとめて漂然と我が春日部の宿にたどりつきたる俳人の名なり。時は徳川時代の中頃宝暦の頃なりしと伝へらる。当時、今の練木市左衛門の本家なる家を伊勢平といひ、米問屋をなし、一家俳諧を好む。即ち眠牛これを聞きて旅のわらじをこの家の軒にとく。しかして暫しこの家の人々と起居を共にす。それより明和八年三月、六十余才で没するに至るまでの年月を此所に落ち付きて俳味豊かな彼の晩年を送る。

伊勢平当時米問屋にて常に江戸に出でゝ米の仕切勘定をなす。一夜或宿屋にて囲碁をなす。打つ手置く石せはしく石の黒白に天下を争ふうち、その手の思ふやうにならぬ折から思はず「下手だなあ、拙いなあ」を連発すと。隣座敷にて当時俳書【    】俳談に余念なき時なり、近頃ものせるものなりとて

 五月雨や 或る夜ひそかに 松の月 蓼太

なる句を示して、その批評を請ひしに、隣の部屋より「下手だなあ、拙いなあ」の連発が聞こえてくる。これを聞き手嵐雪忽ち血相が【  】部屋にふみ入りて、如何なる点が拙きかと談判に及ぶ。伊勢平【 】に驚きて拙なりとは御身の句の事にあらず、全く碁の手の拙き故なりとしきりに弁明すれど、聞き入れず、困じ果て対に一策を案じ、即ち之を家に奇遇せる眠牛にはからんとせるなり、「然らばそ【 】答を暫くまたれよ」とて暫くその場をのがれて帰宅をなし【  】眠牛に打ちあけてその助力を請う。眠牛やがて嵐雪と会見してその句の非を指摘して伊勢平の難をすくふ。俳聖嵐雪【  】批評も得たるを思へば眠牛は相当の技量と見解をもちたる俳人なる如し

その辞世の句として

 かかれぬぞもういのち毛の土筆

とあり。今尚山中観音(眠牛の背負ひ来れる)の堂前に石にきざみてあり。即ち眠牛は六十余才にてこの地に終りし故、附近の人びとによりその負ひ来れる千手観音は山中観音としてまつられ、眠牛の用ひし杖なども保存せらるゝと。観音堂は今より四十余年前附近の人々無尽講に入りてあたり金を以て建立せるものにて、今毎月十七日には観音経をあげらる。なほ眠牛の墓が伊セ平菩提寺なる成就院にありしによりてもその史実は証せらる。

上の文章からは、次のことがわかります。(1)俳諧師の眠牛は、粕壁宿の米問屋伊勢平に寄宿し、晩年を過ごし、粕壁で亡くなったこと。(2)伊勢平が別の俳諧師と口論になった折りに、眠牛が俳諧の評価を下し、間を取り持ったことで伊勢平が助かったとこと(途中は読めない部分があるので、事実関係は検討が必要ですが)。(3)眠牛が背負ってきた観音は、粕壁の山中観音として祀られ、今にいたること。(4)かつて、眠牛の墓は伊勢平の墓所にあったこと。(5)山中観音のお堂は40年ほど前(明治末期か)に地域の人たちの無尽講により建てられたもので、観音経を唱える講中(観音講か)が組織されたこと。

ところで、増田眠牛は、どのような俳諧師だったのでしょうか。断片的ですが、江戸の俳諧書を辿ってみると、眠牛の名は割と多くみえます。近現代に出版される俳諧の系統図にも、眠牛は談林派の俳諧師として、笠家旧室の系統をひく者としてみえます。俳諧書の「西山家連俳系図」には、談林派俳諧の笠家旧室の弟子として眠牛の名がみえ、「増田匍匐庵、明和八年辛卯三月六日没、歳五十三、葬武州糟壁駅成就院」とあります。また、明和5年(1768)刊とされる「誹諧觽初篇」には、「当時旅行」「蒼狐門」とありますので、笠家旧室の系統を組む小菅蒼狐の門となり、すでに江戸を離れていたようです。同書には「強弱交るべし、恩愛の句に手柄あり、とかく短句に高点多し、是はといへる道具なし、句を軽く仕立べし」と、点者としての評判も記述されています。俳諧に親しんだ江戸の人びとに、俳諧の点者として知られていたことがわかります。

『郷土の研究』では、没年を「六十余才」としていますが、同時期の俳諧書では没年を「五十三才」としています。命日は、江戸俳諧書では「三月六日」としますが、山中観音の墓石には「三月七日」と刻まれています。

また、『郷土の研究』は、伊勢平が中心となって眠牛と関わり、その後地域の無尽講によりお堂が建てられたと読めますが、戦後に粕壁と眠牛について記されたものには、「やまご」を商標にする清水家が眠牛を世話したとの言説がみられます。

たとえば、『春日部市史通史編』では、春日部市教育委員会編『春日部市の文化財』(昭和54年初版)を引用し、「この堂(山中観音)は、伊勢平に代わって眠牛の世話をしていた醤油醸造家清水家(やまご)が眠牛の菩提を弔うために建立したものである」と記しています。同様の言説は、岩井幸作『春日部秘史』(昭和46年刊・私家版)にもみられます。清水家は、伊勢平の後に眠牛を世話し、宅地の隅に居宅を用意した(『春日部市の文化財』)とも、伊勢平なきあとにお堂を管理した(『春日部秘史』)とも、眠牛やお堂との関わりは曖昧です。清水家は、栃木屋勝右衛門を代々名乗る江戸時代以来の粕壁(仲町)の商家です。通称「栃勝」と呼ばれました。醤油醸造家とされていますが、諸資料から確認すれば、醤油醸造をはじめたのは明治時代以降とみられ、もともとは木綿買次商を営んでいました。

私見ですが、醤油醸造の栃勝は極めて近代的なイメージとみられますので、清水家が山中観音と深く関わるのは、明治以降のことではないかと考えらえます。とはいえ、『郷土の研究』の逸話をはじめ、没年や命日、清水家との関わりなど、関連史料がないため、今となっては確かめるすべがないのが現状です。

さて、眠牛が背負ってきた観音の軸は、現在も山中観音の本尊として祀られているそうです。昭和初期には成就院にあったという眠牛の墓石は観音堂の敷地に移設されています。

画像:眠牛の墓石

墓石には、眠牛の戒名「諦誉華岳眠牛居士」と命日「明和八辛卯年三月七日」、そして「かかれぬぞもういのち毛の土筆」という辞世の句が刻まれています。

現在の山中観音堂は平成初めの区画整備事業により、平成4年に元のお堂の一部を移築されています。

画像:山中観音

当館では、移築に伴い、お堂のなかのものの一部、眠牛が背負ってきたという笈(下の画像)などを保管しています。

画像:山中観音笈

浅学な担当者は、これまで増田眠牛について、それほど著名ではない俳人と勝手に思い込んでいましたが、デジタルアーカイブなどで各機関の関係史料を瞥見するなかで、意外に著名であることにたどり着きました。史料の関係で、粕壁でのエピソードを深めるのは難しそうですが、粕壁宿や山中観音の価値を高める上で、眠牛についてもう一度見直し、再評価する必要があるのかもしれないと、眠牛の命日に思うのでした。

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