ほごログ(文化財課ブログ)

2020年12月の記事一覧

軍需工場・時計工場のまち南桜井(広報補足その7)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #南桜井駅 北側にあった #軍需工場 について。 #かすかべプラスワン

庄和地域の玄関口、南桜井駅。現在は市街地化され、駅前はにぎわっています。実は、南桜井駅周辺の市街地化のきっかけは、昭和戦中の軍需工場の疎開に求められます。
昭和18年夏ごろ、精工舎は東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう、伝達を受け、同19年3月より東京太平町の工場の一部の疎開を開始します。精工舎とは、東洋の時計王ともよばれた服部金太郎が創業した服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の製造・開発部門です。
昭和18年12月までに、南桜井村大字金野井、大字大衾、川辺村大字米島、大字新宿新田に、約6万坪の工場、約9万坪の厚生施設の敷地が強制買収されました。
当時の南桜井駅近辺はうっそうとした森で、松林などが生い茂り、「大衾山」、あるいは「オバケの森」とよばれていたそうです。こうした森林を敷地にするため、南桜井や周辺の青年団や粕壁中学校(現県立春日部高校)の生徒などが勤労奉仕として木の根堀りや建材の運搬作業に動員されました。なかには、大きな木は素人になかなか切れないので、シャリキとよばれる職人が大勢雇われ、木を切ったそうです。

この軍需工場は、服部時計店南桜井工場と命名され、昭和18年11月6日に資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅に貨物専用の米島仮停車場が設置され、その北側隣接地に工場・男子寄宿舎、南側に女子寄宿舎、武州川辺駅の南側に社宅が建設されました。当時、南桜井村の人口は3625人、川辺村は2424人(いずれも昭和15年国勢調査)でしたが、南桜井工場の疎開によって、3000人以上ともいわれる人が移住してきましたので、敷地内には医務室(診療所・病棟)や学校(私立服部南桜井青年学校)両村は景観も住民構成も大きくかわることになりました。

南桜井工場で製造されたのは、高射砲の弾丸の頭につけ爆発を誘発する部品で、45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管でした。高スピード、高回転のなかで正確に動かなければならないので時計製作よりも高い技術が必要だったといわれています。工場がフルに操業を開始したのは昭和19年10月で、最初の製品が完成したのは昭和20年1月のことといわれています。

また、昭和20年5月には、同年3月・4月の東京大空襲で被害を受けた東京第一陸軍造兵廠の第三製造所が、南桜井工場の北部の未利用地に疎開しました。精工舎の南桜井工場と混同を防ぐため江戸川工場と名付けられました。江戸川工場は軍直属の官営工場で、風船爆弾の信管を製造しました。

終戦となり、軍需工場は操業をとりやめ、閉鎖されます。南桜井工場はおよそ1年弱、江戸川工場は3か月半で幕を閉じることになりました。その後、工場の建物25万坪、機械2000台は大蔵省の管理下におかれましたが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと全国農業会の支援を後ろ盾に施設設備は転用され、昭和21年3月28日に株式会社農村時計製作所が発足します。農村時計では、目覚まし時計などを製造していましたが、品質はあまり良くなかったといわれます。経営難のためからバリカンや地震計の製造もしたこともありました。しかし、戦後の経済政策もあり、農村時計は昭和25年10月に事業を停止します。
農村時計の末期、順調な売れ行きをみせていた「リズム」という商標の時計がありました。昭和25年11月3日、この商標を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足し、農村時計の事業は継承されることになります。南桜井駅周辺は、平成9年(1997)年9月に工場が東京都墨田区に移転するまで、リズム時計の南桜井工場とともに戦後を歩んでいくことになりました。
リズム時計の工場はご記憶がある方も多いのではないでしょうか。写真も残っています。

写真:昭和49年南桜井駅と北側のリズム時計工場

昭和49年(1974)南桜井駅と北側のリズム時計工場

写真:昭和49年南桜井駅南側

昭和49年(1974)リズム時計工場からみた南桜井駅の南側

南桜井駅周辺は、その後ショッピングモールや住宅地として再開発され、軍需工場や時計工場の面影はほとんど残っていません。しかし、青年学校の跡地には葛飾中学校(のち移転。現桜川小学校)、医務室の跡地には子供の町として利用されるなど、道路・住宅の区画などは軍需工場以来の名残りがあります。また、ショッピングモールの敷地内に、リズム時計の創業地の記念時計塔が立てられています(シティーセールス広報課撮影)。

写真:南桜井の時計塔

昭和時代の南桜井駅周辺は軍需工場・時計工場とともに歩んできたといっても過言ではありません。ですが、終戦のときに関係資料が廃棄されてしまったため、戦中の軍需工場・時計工場については資料が少なく、詳しくわからない部分が多いのです。今回、気の利いた図版がないのもそのためです。

平成のはじめ、県立庄和高校地理歴史研究部は、資料が少ないなかで、地域住民の方々、関係者の方々に聞き取りをするなど丹念に調査をし、上述したことを明らかにしています。その成果は『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』という私家版にまとめられています。今から30年前だから聞けた話がふんだんに詰め込まれ、南桜井の歴史を知るうえで必読の書です。

長文になってしまいましたが、庄和高校のみなさんが明らかにされたことは、上のことにとどまりません。入手困難な図書なのですが、『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』も合わせてご覧いただけると幸いです。

次回は最終回です。クライマックスは、武里地区の「たけさと音頭」について。

参考文献 庄和高等学校地理歴史研究部『むかし庄和町に軍需工場があった』(1991年)、同『賀川豊彦と農村時計』(1991年)、同『南桜井村戦後史』(1989年)、『春日部市史 庄和地域 近代・現代』(春日部市、2013年)