春日部にあった競馬場(広報補足 その2)
前回に引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足説明です。今回は、春日部市幸松地区小渕にあった競馬場のこと。 #かすかべプラスワン
戦前の競馬は、富国強兵のため軍馬資源の確保・産馬の奨励といった国策のために行われたものが主でした。春日部市内の競馬場は、「春日部競馬」と呼ばれ、昭和15年(1940)9月から昭和22年(1947)まで、小渕の地で開催されました。
当時の競馬は、軍馬資源保護法による「鍛錬競馬」であり、軍用保護馬と指定された馬のみ出走が許されたものでした。埼玉県では、羽田競馬・川崎競馬と並んで三大競馬と称された大宮競馬場が隆盛していましたが、昭和13年(1938)の軍需工業動員法により飛行場の用地とされ廃止され、新たに春日部の小渕の地が、当時県内唯一の競馬場として選定されました。
施設は、大宮競馬場の古材で建て、投票券の印刷、出馬表の印刷などは、毎朝浦和からオート三輪で運び、番組編成員は八丁目の仲蔵院でガリ版切りなどをやったと伝えられています。
ただ、売り上げは不振で出走頭数、入場人員も最低。昭和18年(1933)末には軍需工場に貸与され、競馬は一時中断されるに至りました。
戦後、鍛錬競馬の元になった軍馬資源保護法が廃止されると、俗にいう「ヤミ競馬」が始まります。春日部では2回延べ8日間、開催されました。
昭和21年(1946)11月に地方競馬法が制定されると、県内唯一の春日部競馬で地方競馬が1回延べ6日間開催されました。しかし、売り上げが悪く、また浦和の熱心な競馬場誘致もあって、昭和23年(1948)に浦和競馬に移転され、春日部競馬場の歴史は幕を下ろします。
残念ながら、当時のことを示す資料は、昭和23年(1948)の埼玉県庁の火災により、焼失したといわれ、詳しいことはよくわかりません。地元小渕の方によれば、お父さんが農閑の合間に馬券販売の手伝いをしたと話す方もいますが、競馬場があったという記憶は薄れつつあります。ちなみに、春日部競馬ではなく、「粕壁競馬」と書く文献もありますが、当時の一次史料が見出されていないため不明です。今回は、『埼玉県競馬史』にならい、「春日部競馬」としました。
広報かすかべにも掲載しましたが、春日部競馬場を物語る資料の一つに、航空写真があります。
戦後(昭和22年)に米軍が撮影したもののほか、昭和20年代の写真には、古利根川沿いの小渕一帯に、楕円形の馬場の跡が認められます。下の写真参照(国土地理院空中写真より)。この場所は、小渕の河畔砂丘が分布するところで、砂地を利用したダート馬場であったことが想像されます。競馬場が選定された当時、食糧を生産する農地をつぶすことは困難だったため、砂丘と桃畑の果樹園を走路として1000mの馬場がつくられたそうです。
昭和35年(1960)競馬場跡地にはアンデスハムの工場が建設され、現在も国道16号沿いの工場として利用されています。
現在、競馬場の跡はありませんが、古利根川沿いの小渕周辺には、河畔砂丘と呼ばれる内陸型の砂丘の痕跡があり、高齢者施設の幸楽荘の敷地や、近隣の寺社の境内などは砂地になっています。砂丘の地に足を運んでいただき、かつて競馬場であったことに思いをはせてみてはいかがでしょうか。
次回は、西宝珠花の船橋・宝橋について紹介する予定です。
参考文献 田辺一夫編『埼玉県競馬史』(埼玉県競馬主催者協議会、1965年)