船も車も通れる橋(広報補足 その3)
引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は庄和北部の西宝珠花の、江戸川に架けられていた橋「宝橋」について。川舟を並べ、その上に板を渡して橋にした船橋でした。 #かすかべプラスワン
人工の河川である江戸川は、その開削以来、舟運が大変盛んな河川であり、西宝珠花は河岸場の町として賑わった集落でした。宝珠花は、中世以来の郷村であり、江戸川が開削されたため、西宝珠花と東宝珠花(千葉県野田市)に「分断」された地域でもありました。そのため、江戸川に隔てられていても、東西の交流は盛んで、渡船場もあったようです。
しかし、明治時代以降の河川改修により、江戸川の川幅が広がり、堤防もかさ上げされ、さらには、東武鉄道の粕壁駅や杉戸駅に連絡する自動車の交通量が増加してきてことにより、架橋への要望が高まっていきます。
大正13年(1924)、西宝珠花の有志が宝橋組合を結成し、県内でも珍しい船橋を架橋しました。永久橋でなく、船橋とした理由は、未だ舟運業が盛んであり、蒸気船や和船の航行を妨げないためでした。郷土資料館では、宝橋組合の資料を保存していますが、そのなかに、次のような宝橋の設計図面があります。
図面から読み取れるように、合計11艘の舟が板橋を支え、中央部の舟が旋回することで、幅11.2mの舟が通過できる航路をつくりました。
宝橋の架橋によって、舟運業を妨げず、自転車・自動車・リヤカー・人力車など、渡船では向こう岸に渡りづらかった車両も通行することが可能となりました。橋の維持管理のため、通行料が必要な有料の橋でした。通行の回数券や定期券も発行されていたようです。
戦後、自動車輸送が普及し、江戸川の舟運が衰退していくと、県道の整備にあわせて、宝橋を永久橋に架け替えすることが計画され、昭和33年(1958)3月、鉄筋コンクリート製の宝珠花橋が架橋されました。橋開きの当日には、西宝珠花・東宝珠花の両岸の住民が押し寄せ、混雑した様子がうかがえる古写真もあります。
「船も車も通れた」というのが、舟運と陸運が共存していた当時の市域の交通事情を象徴しているようです。わたしたちが、普段は何気なく渡っている橋にも、そこに橋が架けられた経緯があると思いを巡らせると、ワクワクするのは私だけ!?
次回は、豊春地区の花積、花積下層式土器の話です。