校長室より

校長室より

「幸せとは何だろう?」

3月2日の全校朝会で子ども達に「幸せとは何だろう?」というお話をしました。

最初に、「皆さんに聞きます。幸せという意味を知っていますか?」

国語辞典には、運が良いこと・幸福と書いてあります。

「では、皆さんにとって幸せなことはどんなことでしょうか?」

「目を瞑って、思い浮かんだ幸せなことを指で折りながら五つ考えてみて下さい。」

どんなことが思い浮かんだでしょうか。

例えば、食べている時・寝ている時・好きなスポーツをしている時・ゲームをしている時・趣味の物を集めている時・お友達とおしゃべりをしている時などがあるかもしれませんね。

でもそういう自分自身の好きなことだけで幸せと感じるのは、一瞬であり長くは続かないかもしれません。

今日は、皆さんに次のような言葉を紹介します。

6年生は1学期に職場体験の事前学習会の時にお話をしたので覚えていることでしょう。

「幸せとは、幸せを探し続けることである」

さて、この意味が分かるでしょうか。

例えば、

宝くじに当たって何億円も突然ももらい大金持ちになった人は幸せになったかな?

オリンピックで金メダルを取った人は幸せになったかな?

人間は、突然に大きなお金が入ると幸せになったように思いますが、家族でもめてしまいケンカが起きたり、生活が贅沢になったり、最後はお金が無くなり哀しい結果になることもあります。

又、オリンピックで優勝して金メダルを取って一躍有名になっても、その後、記録が伸びずにどんどん若い人に抜かれてしまい苦しむ人も多いようです。

では、本当に幸せになれるにはどうすればいいのでしょうか?

私は、三つのことがあると思います。

・一つ目は、満足しないことです。

あることを追い求めることです。極めることです。辛いことに勝つことも幸せです。

・二つ目は、自分以外の物に求めないことです。

物は飽きます。キリがないです。いつか壊れるかもしれません。

・三つ目は、人の為に役立つことです。

感謝されます。褒められます。自分のことよりも他人の為に何かをするのです。

人は人として生まれたからには、やはり誰でも不幸になりたいとは思わないでしょう。

幸せは、人によって違うと思います。

三番目の人の役に立つ幸せは、将来の仕事にしてもいいし一番大事なことかもしれません。

一小の皆さんにもぜひ、自分の本当の幸せとは何かを考え続けて欲しいと思います。

開校記念日(142年前の第一小学校) 

2月20日、我孫子第一小学校は開校142周年を迎えました。

開校記念式で、開校当時のことを「第一小学校百年史」を参考にしながら子ども達に話しました。
今から142年前の
明治6年2月20日延寿院(えんじゅいん)とうお寺を使って学校がスタートしました。このお寺は現在のイトーヨーカドーの近くにありました。教師は杉山 英(えい)先生一人で子どもの数は、82名の一クラスでした。

当時は、5歳から14歳までの適齢児童が我孫子小学校に通うことができました。学区は今よりもかなり広く、我孫子宿・高野山村・久寺家村・柴崎村等でした。実は、我孫子第一小学校に通える学区内にいた子どもの数は、約1千人もいたそうです。
では、なぜ1千人の子ども達が学校に通わなかったのでしょうか。
明治初期の小学校では、村からの寄付金や家からの授業料があり、貧しい農家では家の手伝いや子守、留守番等で子どもを学校に通わせる余裕がなかったそうです。我孫子近郊の村は大変に貧しい農家も多く就学率は低かった記録が残っています。

又、杉山英先生のお給料も大変安くて、初めてのお給料が3円50銭だったそうです。軍人(少尉)さんが50円もらっていたそうですから、学校の先生のお給料がいかに安かったが分かります。
授業は、読書・算術・習字がありました。高学年になると地理や歴史等も習いました。その後、音楽や体操もやっと行われるようになりました。
実は、学校の名前も時代と共に変遷しています。
「我孫子小学校」「草麻尋常小学校」「我孫子尋常小学校」「我孫子第一尋常小学校」「我孫子尋常高等小学校」「我孫子町中央国民学校」そして、戦後の昭和22年に「我孫子市立我孫子第一小学校」となりました。
沢山の先人達の素晴らしい努力の上に今の我孫子第一小学校が存在していることがよく分かります。この良き伝統を引継ぎながら、未来に活躍できる子ども達を教えていきたいと思います。


寿命100年の時代をどう生きる

今から30年後、2045年の日本人の平均寿命は100歳になると言われています。

NHKの「ネクストワールド」のテレビ番組でもその話題が取り上げられていました。織田信長の時代は、「人生50年」でした。明治時代でも平均寿命は男女共に45歳位、戦後の1947年初めての全国調査でも男性50歳、女性53歳です。私が生まれた1957年は、男性63歳、女性67歳です。定年までどんなに一生懸命働いてもその後の余生は、数年間という時代でした。本当に哀しい時代だと感じます。昔の人の楽しみは何だったのだろうと思います。短い人生を潔く散っていったのでしょうか。

 2015年の現在、男性80歳、女性86歳の時代となりました。1日平均で5時間ずつ寿命が延びているそうです。60歳定年後、平均寿命までの約20年間、寝る食べる以外の余暇時間は10万時間あるとも言われています。定年後にもう一つの新しい人生が始まると思っていいのかもしれません。生涯現役で働く、生涯学習をする、趣味に生きる、地域貢献する、ボランティア活動をする等の幅広い選択肢があります。定年後、いきなり新しい仕事や趣味は恐らくリスクが高いことが予想されます。現役の時代に少しずつ慣れておくことの方が良いと老後に備える様々な指南書には書かれています。

 長生きが本当の意味で「幸せ」に繋がるには、健康が大前提かもしれません。健康寿命は平均寿命より10歳位前倒しの状態です。どうしたら頭も体も健康でいつづけることができるのでしょうか。若い世代の人にとっては更に大事な問題です。

 6年生を対象にした「思春期講座」を1月に実施しました。講師は、助産師さん2名の方です。「大人に向かって、見つめ直そう体・命・心」のお話をして頂きました。子ども達全員が授業後の感想文を書きました。その中である男子は、「どれだけ命が貴重か分かった」「このようなことを真剣に教えてくれる人達がいるのはありがたいと思った」ある女子は、「赤ちゃんが産まれる時には、自分も母親も頑張っていることを聞いて少し自分が誇らしくなりました。あのビデオを見て私も産みたいと思いました」又、感想で多かったのは、「自分の命は自分の物ではなく、その他にもお父さんお母さんや自分に関わっている人の物なのだと思いました」

子ども達は、命の具体性を今回の性教育で学んだことと思います。

自分のことを好きになり、自分の命を大切にできる子どもに育つような支援を続けていきたいと思います。

自分の命を大切にできることが、他人の命のことも本当に大切にできることに繋がると思います。

 

3人のレンガ職人

新年あけましておめでとうございます。
2015年のスタートです。今年もどうぞよろしくお願いします。
本日の始業式で、私は全校児童に次のような話をしました。
今日から、いよいよ平成27年になり3学期が始まりました。

西暦で言うと2015年になります。

日本が戦争をしてその戦争に負けてどん底の時代から今年で70年になります。

「戦後70年」という言葉を今年は色々なところで聞くことが多いと思います。私達は二度と戦争をしてはいけません。

さて皆さんにとっては、今年はどんな年にしたいですか。

この後、教室に戻ったら担任の先生と是非話し合ってみてください。

 

今日は、イソップ童話から「3人のレンガ職人」のお話をします。

 

世界中を旅している人が、ヨーロッパのある町に来ました。

そこでは、教会の大聖堂を造っていました。

旅人が1人目のレンガを積んでいる男に尋ねました。

「ここで何をしているのですか?」

すると、男はこう答えました。

「見れば分かるだろう。親方に言われてレンガを積んでいるのさ。

 毎日毎日同じ事をしているだけだ。全くついていない。」

 

旅人がしばらく歩くとまた2人目のレンガを積んでいる男に会いました。

「ここで何をしているのですか?」

すると、男はこう答えました。

「俺はね、ここで大きな教会の壁を造っているんだよ。

 この仕事でお金をもらい家族を養っているんだ。

 大変だなんて言ったらばちが当たるよ!

 

旅人が更に歩き続けるとまた3人目のレンガを積んでいる男に会いました。

「ここで何をしているのですか?」

すると、男はこう答えました。

「俺は、歴史に残る立派な大聖堂を造っているんだ。

この大聖堂ができれば町中の人が喜ぶだろうな。素晴らしいだろう。

俺は、この仕事を誇りにしているよ。」

 

さて、第一小学校の皆さんは、何番目のレンガ職人でしょうか。

同じレンガ積みの仕事をしているのに、なぜ、こんなにも違うことを言うのでしょうか。

その人の心の持ち方次第で全然意味が違ってしまいます。

皆さんが毎日やっている勉強、掃除、係活動、挨拶、高学年の部活動はどうですか。

どういう気持ちで取り組んでいますか。

「何のためにやっているのか」

「誰のためにやっているのか」

「本気でやっているのか」

やらされているのか。
ただやっているのか。
自信と誇りを持ってやっているのか。

同じことをやるなら、3人目のレンガ職人のように目的意識を持って生き生きとして自分のやっていることに自信と誇りを持ちたいと思います。

 

お手伝いは「できる大人」への第一歩

  最近の様々な研究から、お手伝いがしっかりできるということは「できる大人への第一歩」だと言われるようになってきています。

 私の子ども時代は、お手伝いはどの家庭でも当たり前のことであり自然とやるべきことだと感じていたし抵抗感もそうなかった気がします。風呂洗い、買い物、弟妹の面倒、ガラス磨き、掃除、料理等があったものです。小学生だった私が今でも一番覚えているのが、保育園に通っていた妹をよく迎えに行き引き取ったことです。今なら小学生に渡すことは、あり得ないかもしれませんが、「お兄ちゃんが迎えに来たよ!」と保育士さんが大きな声で妹に言っている場面を思い出します。

 さて、お手伝いを日常的にしていると、失敗もそれを乗り越えて褒められる経験も増えるので、子どもの自信に繋がり少々の失敗は恐れない心の強さを育みます。また、お手伝いは手伝う相手への気遣いも必要です。大人になって周囲への気遣いができるかどうかは、社会人として仕事を円滑に進めるのに欠かせない能力となります。つまり、お手伝いは将来必要となる「仕事力」の原点でもあります。

 更に、お手伝いを通して一度やると決めたら最後までやる「責任感」、お手伝いを継続する「持続性」、お手伝いを終わらせる「計画性」を育てることにも繋がります。この責任感・持続性・計画性は、学力を上げる大切な要素であり、お手伝いの内容によっては応用力や活用力を育みます。与えられた情報や条件を整理して、自分なりに答えを導き出す「考える力」が養えます。

 例えば、「食器を並べる」お手伝いを頼んだとします。すると、子どもは、先ずテーブルの上を片付け、拭いて、食器を並べるという段取りを思い浮かべ(イメージ)なくてはなりません。そうした経験を積み重ねることで、子どもは少しずつ「段取り力」を身につけていくのです。

 特に心を育ててくれるお手伝いは、「食器を並べる」から一歩進んだ「料理」であると思います。料理する時は、家族の好みや健康を考えなければいけません。工夫を凝らし準備をして、食べた家族が喜ぶ顔を見たり感謝されたり、遠慮のない意見を聞いたりして人の心にふれることが出来ます。

 このように、子どもはお手伝いを通して、責任を持ってやり遂げる力や相手を気遣う心、段取りを考えて物事を進める力などを養うことができ、将来の「できる大人」へと成長していくことと思います。

 

【お手伝いをさせる時の心構え】

  良いところは褒める

 よくできたら、きちんと褒めてあげる。それだけで子どもには自信がつき、愛情を確認し、またやろうという気になります。

  待ちの姿勢が大切

 先回りせず、子ども自身が気づくまで待つ。挨拶なら「こんなときは何て言うんだっけ?」と自分で気づかせる言葉かけが大切です。

  「叱る」と「教える」を区別する

 上手にできなかったら叱るのではなく、その都度教えればいいだけです。叱るのは危険なことをした時だけにする。

手賀沼殉難教育者慰霊式

手賀沼殉難教育者慰霊式(70周年)に参加して

 

 平成26年11月22日(土)、我孫子市立湖北小学校にて手賀沼殉難教育者慰霊式が無事に執り行われました。

当日は穏やかな快晴の中、午前9時に関係者一同で中里の慰霊碑に献花をしてきました。

その後、湖北小学校図書室にご遺族を始め我孫子市長・柏市長・両市の教育委員長・我孫子市教育長、両市校長会・教頭会、退職校長会長、県会議員、市会議員等の関係者約70名が参列しました。

私は今回の慰霊式で主催者として、又我孫子市校長会の一人として11月4日の第一小学校の全校朝会で、子ども達にこの哀しい事件のことを話したことを伝えました。本校の千浜宗一郎校長(当時49歳)と中村良子先生(当時17歳)のお二人が私達にとって身近な手賀沼で尊い命を落としたことは本当に辛い事実であると更に実感した日でもありました。

本校の校歌の一番は、次のような歌い始めになっています。

太鼓が鳴るよ青空に 向ヶ原の丘の上

 集えよよい子 我孫子第一 

 学びの庭に 眉上げて」

最初の太鼓が鳴るとは、千浜校長先生が昭和17年5月に満州(今の中国)と朝鮮(今の韓国)に教育視察に行かれたことを記念して造られた大きな太鼓の音のことです。

当時、授業の始まりと終わりはチャイムの代わりに太鼓を叩いて音を鳴らしていたそうです。

作詞家の髙橋菊太郎先生が、戦後に何とか明るい一小校歌を創ろうと栄地区を歩きながら考えていた時、この太鼓の音が突然聞こえてきて歌い始めの言葉に使ったそうです。
            職員玄関に置いてある千浜校長先生の
     海外視察記念の太鼓(昭和17年5月制作)

           

 6年生の子ども達全員が、全校朝会で私の話を聞いた感想を書いてくれました。

当日の慰霊式で読み上げた女の子の文章を原文のまま掲載致します。

(本人と保護者の了解を頂いております)

手賀沼殉難事件の感想

                   6年2組  田中 真愛

 

 私は手賀沼が、昔とても綺麗で、みんなの遊び場だったという事しか知らなかったから、手賀沼でそんな悲しい事があったという事は知りませんでした。

戦争中で苦しい時に、更に、こんな事故があったなんて可哀想と言うよりも、なんて苦しくて切ない時代だったのだろうと思いました。

 今の時代は、命の大切さを理解してきているけれど、この時代の人達にとっては、命とは何だったのだろう?と思いました。もう二度と悲しみで溢れないようになって欲しいです。

 我孫子で育った限り、この事故を忘れずに、命の重みを感じて生きていこうと思いました。

 

6年生の子ども達は真剣にこの事件のことを考えてくれたと思いました。

その他にも数名の子を抜粋して掲載します。

 〇凄く若い女性の方もこの事故で亡くなっていると聞き、とても悲 
  しい日本だと思います。

  戦争などしていなければ若い女性の方が、先生になって働くということもなかったのにとても残念です。

〇事故の二日後に葬儀をする予定が空襲警報が発令されてできなくなったこともとても悲しいことだと思います。そのことからも戦争は絶対にいけないと思います。

〇・・・・・私は千浜校長先生のことも中村良子先生を含む18名の先生方のことも、そしてこの悲しい事件のことも決して忘れません。いつまでもいつまでもこの悲しい事件を忘れません。

私達は、現在、平和な時代に生きて子ども達の教育をいております。70年前に起こった「手賀沼殉難事件」の哀しい出来事を忘れることなく、今後も子ども達に語り継いでいきたいと思います。
 

ご遺族及び関係者の方には、心より哀悼の意をお伝え致します。

手賀沼殉難事件について

昭和19年11月22日、その日は西風の強い日であった。手賀沼はもうすっかり冬景色となっていた。東部女教員相互視察研究会が湖北国民学校と手賀東部国民学校で開かれた。

その頃は若壮年の男子教員はほとんど出征して行って、若い女子教員がどこの学校でも半数以上を占めるといった有様であった。その若い女子教員を対象に研究会は開かれたのであった。

我孫子中央国民学校(現在の我孫子第一小学校)からは、千浜宗一郎校長以下、椎名芳子、湯下光代、浅倉ふさ、香取好子、吉元アツ、中村良子の7名が参加していた。

午前中は湖北校を視察し、授業や閲兵分列を見学したあと、午後は沼向こうの手賀東部校に行くことになっていた。一行40名は、午前11時30分、中里の渡しから船に乗った。

風は強かったが、こちら側は危険を感じさせるほどではなかった。しかし、一艘ずつでは危ないので分乗した三艘の舟を横に並べて綱で結び合わせた。

 沼に出ると風が一層強くなり、波のうねりが高まってきた。湖の真ん中まで来ると、繋ぎ合わせた綱がゆるみ始めた。舟と舟の間があき、そこから水しぶきが吹き上げてきた。若い女性の先生方は着ている着物を気にして声を上げながら体をよける。そのたびに舟はぐらりと傾いた。

「動いてはいけない。動いては危険だから、じっとしていなさい。」

千浜校長がたしなめた。

 舟があと三分の一で対岸に着くところであった。水しぶきが上がり、本能的に皆が身を寄せた時、西からの突風が襲い、あっという間もなく三艘の舟が一緒に波に呑まれ、全員が湖に投げ出された。悲鳴が波に消された。

 沼には農民の藻取り舟が出ていたのだが、丁度昼休みでみんな岸に上がって休んでいた。

それも不幸であった。

 急報はあちこちへ飛んだ。

 我孫子中央国民学校では田口教頭が残っていた。その日、生徒は早めに下校していた。

「千浜校長危篤、すぐ医者を連れてこい」

 田口教頭にもたらされた報せはこのようなものであった。使いの人に聞いても、詳しいことは分からない。田口教頭は直ぐに学校医である山下先生、矢口先生の二人に連絡を取ったが、二人とも不在であった。自転車を飛ばして日立精機の診療所へ行き、診療所の医者を自転車の荷台に乗せて現場へ急いだ。

 対岸へ駆けつけた時は、事件の発生から一時間も経っており、すでに引き揚げられた遺体が土手に並べられていた。その中に我孫子中央国民学校の千浜宗一郎校長と中村良子准訓導の悲しい姿があった。18名の教員や学生等が犠牲になった。殉難者は寒さと厚着のために水中で体の自由を奪われたのであった。

 その夜、全職員が両家に分かれて行き、しめやかに通夜を営んだ。

 11月24日千浜校長の葬儀が行われた。5年生以上の児童と全職員が会葬するため、正午に校庭に集まっていると空襲警報が発令された。そのため全員を下校させ、田口教頭が代表して参列した。

 名校長と仰がれ、我孫子小学校に「千浜時代」を作った校長の戦時教育に殉じた哀しい最後であった。

 26日には中村良子先生の葬儀が柴崎の分教場で行われ、受け持ちの4年生男子組と柴崎青山分教場の4年生以上の児童と職員が参列した。

 児童の一人は、「おっかない先生が死んだ。」と思い、四角いお棺の真っ白な被いをぼんやりと見ていた印象を語る。お棺はリヤカーで墓地まで運ばれた。

 12月2日は、千浜校長と中村先生の町葬が執行された。22日には郡教育会の主催で、殉難教員の合同慰霊祭が行われた。

 手賀沼殉難事件の慰霊碑は、今は干拓農地となっている中里の渡しを見下ろす小高い丘に、ひっそりと建っている。
(我孫子第一小学校 百年史より抜粋)

 

 私達我孫子第一小学校の先輩教員であるお二人の哀しい事件から、今年は丁度70年を迎えることになりました。

 戦争も遠い昔のような感じとなりましたが。この時代に起こった「手賀沼殉難事件」を語り継ぎ、戦争のない平和な時代に感謝し、学校で学んでいる児童の安全を地域の方と共に、しっかりと守っていきたいと切に思います。

 平成26年11月22日(土)、我孫子市立湖北小学校にて手賀沼殉難教育者慰霊式

(殉難70年にあたり)が執り行われる予定です。

我孫子市長・教育長、柏市長・教育長、両校長会・教頭会等の関係者が参列します。

ご遺族の方には心よりご冥福を申し上げます。

 11月4日の全校朝会では、校長の話としてこの哀しい事件のことを児童全員に伝えます。子ども達は、学区にあり身近に感じていた手賀沼で、過去にこのような哀しい事件が起きたことを知る機会になります。合掌。 

手賀沼殉難事件の慰霊碑にて献花
(平成26年10月24日)


 

自然は恐い 御嶽山の噴火

 10月の全校朝会で子ども達に次のようなお話をしました。

皆さんも既にテレビや新聞等で見ているように長野県にある御嶽山(おんたけさん)が、9月27日午前11時52分噴火しました。

この御嶽山は、3067メートルもある高い山で、昔から信仰の山として修行したり初心者も気軽に登れたり近年は特に登山客に人気があったようです。突然の噴火により楽しく山登りをしていた人が50名以上も亡くなったり大けがをしたりしました。

小学校5年生の女子も犠牲になるなど大惨事となりました。

 

自然の怖さについて、私達は色々と経験しています。

身近なものとしては、台風と地震、そして雷や急な大雨等があります。

台風は今年も既に19号が発生し、日本各地に被害をもたらしました。

地震も経験したことありますね。

3年前には東日本大震災があり第一小学校も大きく揺れて体育館の壁が崩れました。

幸いにもケガ人が出なかったことに感謝したいです。

 

 では、火山の噴火を経験したことある人はいますか。

この中には、恐らくいないでしょう。自然災害については、小学生でも多くを経験しているのですが、火山噴火についてはテレビ等のニュースでしかその恐怖はなかなか分かりません。

 

 我達は大きな地球に住んでいます。

この地球が誕生したのが、今から約45億年前であり、宇宙にある隕石という石がぶつかり合って、どんどん温度を上げていき、ついには真っ赤な「炎の星」になりました。

やがて、この地球に雨が降り炎だった地球は「水の星」へと変わりました。

しかし、地球の中はマグマという大変熱くてドロドロしたものがあります。

それが、時々火山などの山で今でも爆発して地表に出てきます。

私達の住んでいるこの日本は、その火山が大変に多く集まっている国です。

いつ噴火してもおかしくない「活火山」が、なんと110もあるそうです。

3776メートルもある日本一高い富士山も実は「活火山」の一つです。

最後の噴火は、今から約300年前です。

江戸時代の1707年、宝永(ほうえい)の大噴火と言って、東京の町まで白い灰は降り平均で約2センチに達し、多いところでは5センチから10センチも積もったそうです。

まるで雪が降っているようだと、当時の人々は日記に書いています。

もし今、富士山が噴火したとしたら東京の町はどうなるのでしょうか。

 

私は、改めて今回の御嶽山の噴火で、地球は生きているのだ。

日本は、火山の国なのだ。

北海道から九州まで至るところに火山があることを再認識しました。

そして、自然の力は偉大であり、恐いものだと思いました。

人間の力では到底どうにもならないものの存在を感じました。

親と教師について・・・二つの詩から

子どもは常に親から学んでいると「子は親の鏡」の作者であるアメリカの詩人ドロシー・ロー・ノルト氏は語っています。子どもは親の言葉ではなく、親の生き方や喜怒哀楽の姿から良いことや悪いことも含めて吸収しています。

次の詩は、戦後の1954年に書かれた詩ですが、世界中で翻訳されています。


  「子は親の鏡」        ドロシー・ロー・ノルト


けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、


子どもは、みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨(うらや)んでばかりいると、


子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思って


しまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない

誉(ほ)めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ

認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりを持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ

和気あいあいとした家庭で育てば

子どもは、この世はいいところだと思えるようになる

 

私達が出来ることは、最後の一行にもある「この世はいいところだ」と子ども達に思ってもらえるような家庭、学校、社会を作ることだと思います。

  子どもを励ましましょう。誉めて育てていきましょう。

 

 

 「優れた教師は」      ウイリアム・アーサー・ワード

 

 凡庸な教師は、ただしゃべる

 少しましな教師は、理解させようと努める

 優れた教師は、自らやってみせる

 本当に優れた教師は、生徒の心に火を点ける

 

私達教師は、学校で様々なことを日々教えています。学習も勿論大事な指導事項です。生活態度や友達への思いやりも教えていきます。でも、一番大事な教えとは、子ども自身が本気でやる気になることです。いつも先生にやらされている感があっては、伸び代に限界があります。「生徒の心に火を点ける」ことは、大前提として先生のことを尊敬して、自分も一生懸命に頑張り、そして先生に認められたいと願っていることです。

 

 

人を以て鏡と為す

7月1日の全校朝会では、私は二つのお話をしました。
 一つ目は、水泳に関することです。
晴れた日はプールで水泳学習をしていますが、子どもである今のうちに25メートルを泳げるように頑張りましょう。泳げることと自転車に乗れることは大変似ています。

最初から自転車に上手に乗れる人はいませんね。みんな必死に練習して、失敗して転んで、やっと自転車を一人で乗れるようになるのです。家族の方の協力があったことでしょう。

自分の体の左右のバランスとスピードコントロールを自然と体が覚えていったのです。

でも一度自転車に心地良く乗れると一生涯乗ることができます。

水泳も同じです。高等動物である人間は、犬などの動物と違って練習をしないと水の中では泳ぐことはできません。腕と足の動かし方のバランス、呼吸の仕方、リラックス等の技術を学べば25メートルは泳ぐことができます。後は、持久力と体力を付ければもっと長く泳ぐことができるようになります。一度泳げると一生涯プールや川や海で泳ぐことができます。

 

 二つ目は、尊敬する人を持ち(目標の人)その人を手本として頑張ることが大事であるということです。

皆さんは、「尊敬する人」はいますか。・・・・・・・・

尊敬する人とは、立派だなと思う人のことです。

心から偉いなと感じる人のことです。

お父さんですか? お母さんですか? 担任の先生ですか?

塾や習い事の先生ですか? 歴史上の人物ですか?

友達にも尊敬する人はいますか?

 

皆さんは柔道というスポーツを知っていますね。

柔道は、日本で生まれて全世界に広まりオリンピック競技までになった立派なスポーツです。

この柔道を作ったのが「柔道の父」とも呼ばれている嘉納治五郎です。

日本人が尊敬する人の一人かもしれません。

江戸時代の末期、1860年に今の兵庫県の神戸で生まれました。

なんと身長は、158センチと大変小柄な男性でした。

小さくてしかも体も丈夫でなかった治五郎は真剣に強い人間になりたいと思い当時の「柔術」を習うようになりました。

運動だけでなく勉強も人一倍頑張ったそうです。

一生懸命勉強して今の東京大学を卒業して、文部科学省に勤めます。

柔術を発展させた柔道を作り、「講道館」という道場を開き世の中に柔道を広めました。

その後、東京高等師範学校(今の筑波大学)の校長先生にもなった嘉納治五郎は、明治44年に、我孫子の手賀沼の畔(アビスタの付近)に別荘を作りました。

そして、近くにあるこの我孫子第一小学校にも訪れて立派な「書」を送られました。

そこには、こう書かれていました。

「人を以って 鏡と 為す」

本物は、職員玄関に掲げてあります。

書道家としても有名だった嘉納治五郎は、全国に様々な書を数多く残しています。

「人を以って 鏡と 為す」

この意味は、分かりますか。

鏡とは鑑であり(お手本・模範)のことです。

尊敬する人を持ち、そして、その人を良きお手本として頑張りなさい

という意味です。

自分が生きていくお手本やモデルとなるべき人を見つけると、生きる意味や理想とする姿が分かります。そして新たな目標が生まれます。

小学生の今から、生きる目標となる人を是非見つけて下さい。