ほごログ(文化財課ブログ)

タグ:#かすかべプラスワン

#ハルカイト で #ミュージアムトーク

8月8日、大凧文化交流センターこと「ハルカイト」で、ミュージアムトークを実施しました。 #かすかべプラスワン

今回は、小学生を中心としたお子さんたちが対象で、前半は大凧文化展示室、後半は歴史民俗展示室を案内しました。

前半は、大凧文化交流センターの職員が、大凧揚げの概要や展示室を説明。ドローンで撮影した大凧揚げの様子をビデオで視聴したり、大凧の材料として使用される小川和紙を実際に触ったり、ちぎったりして和紙=大凧の強度を確かめたりしました。

写真:展示室の様子

後半は、資料館の学芸員の出番。

写真:見学の様子

先日、博物館実習生が作成してくれた「ハルカイトマスターへの道」というリーフレットを用いながら、郷土資料館で手掛けた展示室を一巡り。リーフレットはクイズつきのワークシート。

たとえば、「宝珠花小学校で飼育していた動物はなに?」のように、卒業生はわかるかもしれないが、そうでないと知らない問題も、展示資料や展示室・施設内にある様々なモノを探し、よく観察すれば、だれでも解けるものになっています。参加者は、2階の展示室、1階の宝珠花サロン、はたまた、旧昇降口、あるいは建物の外をくまなく、楽しんで(?)見学していただけました。

なかでも、学芸員の特別メニューとして実施した「唐箕の体験」はそこそこ好評だったようです。普段は展示台に陳列され触れない道具を、実際に触って、動かしてもらいました。

写真:唐箕の体験

わずか小一時間、ワークシートに取り組むだけで、本当に、宝珠花地区の歴史を理解するひと時になったのか、心もとないのですが、楽しんでいただけたのでしたら、よかったと思います。

9月には、大人の方を対象にしてミュージアムトークを開催するそうです。お楽しみに。

宮代町郷土資料館見学と体験講座の準備を行いました

本日の午前は宮代町郷土資料館を訪問し、館内を見学させていただきました。

写真:宮代町郷土資料館入口
宮代町は台地ということもあって資料が多く残っており、常設展は迫力のある展示となっていました。個人的には日本独自の技法で作られた仏像が印象に残っています。やわらかい雰囲気をまとっていて、死後の極楽の世界はどんなところなのかという想像がふくらみました。
企画展では宮代町出身の島村盛助について、広報で連載した記事を中心に展示されていました。彼は岩波英和辞典を編集・刊行した人物で、彼がいなければ私たちは今ほど英語が分からなかったかもしれません。
資料館の敷地内にある旧加藤家住宅・旧斎藤家住宅・進修館も見学し、当時の名主が住んでいた家の内部を見ることができました。そこに住んでいた人がいると考えると不思議な気持ちでした。

写真:旧加藤家住宅

写真:旧齋藤家住宅

写真:旧進修館
また、収蔵庫の中も見せていただきました。収蔵能力を超えるほどある資料をどうするかが課題とのことだったのですが、これは春日部市郷土資料館にも共通する点でした。

午後には春日部に戻って、8月10日に行われる体験講座の事前準備を行いました。

写真:準備の様子
縄文土器の文様を使って音楽を作るという珍しい体験講座であり、当日は私たち実習生も参加予定です。
その後は今日までの実習を通して感じたこと、理想の博物館について考え方が変わった部分について話し合いました。

写真:話し合い風景
私自身は、理想を実現するためには現実の様々な試練を乗り越えていかなければならないことを痛感しました。

資料の調書作成・取り扱いについて学びました #博物館実習

本日は午前に寄贈された資料の調書作成、午後には博物館資料の取り扱いと写真撮影について学びました。
調書作成では、先の大凧文化交流センター「ハルカイト」オープンの動きに合わせて以前大凧あげを行う下若組として活動していた市民の方からいただいた資料の調書を作成しました。

調書作成の様子

午後には博物館資料の取り扱い方を実際の美術品や資料を用いて展示の仕方から写真の撮影、資料の梱包方法に至るまで様々なことを学びました。

写真:掛軸の取り扱いについて
写真:巻物の取り扱いについて

写真:資料撮影の様子
写真:資料梱包の様子

本日行った実習は博物館の資料を正確に把握することと、所蔵している資料をいかに美しく見せるか、保存状態を損ねることなく未来へ残せるかという部分につながる重要な事柄であるため、今回実習で学ぶことができて本当に良かったです。
写真:一眼レフで撮影した資料

#大凧文化交流センター 「 #ハルカイト 」オープン

本日8月1日より、旧宝珠花小学校跡地に「ハルカイト」がオープンしました。 #かすかべプラスワン

市民の皆さん、地域の皆さんが交流する施設として、また、西宝珠花に伝わる大凧揚げを紹介する大凧会館の後継機能をもつ施設として、期待されています。

郷土資料館では、西宝珠花や旧庄和地域の歴史民俗を紹介する展示室の設営に関わりました。郷土資料館では展示しきれない大型の資料や、旧大凧会館でも展示していた考古資料や民俗資料、庄和北部地域の木崎出身の大衆作家三上於菟吉のこと、また、国史跡神明貝塚について、資料を余すところなく展示・紹介しています。

展示室の状況は、一昨日昨日の博物館実習生のブログにも一部紹介されています。思いがけず、先を越されてしまった感が強いので、展示室の紹介については、後日展示設営の秘話を交えながら、追々詳しく紹介したいと思います。

今回のミソは、この施設がかつて宝珠花小学校として使われていたこと。

写真:かつての宝珠花小学校

宝珠花小学校は、明治初期に開校した伝統ある小学校でしたが、平成31年(令和元年)に江戸川小中学校に統廃合されました。

大凧文化交流センターには、小学校の名残り、形跡が各所にみられます。全部なかったことにして、施設を綺麗にしてしまう。綺麗な施設、使いやすい施設に造り替えることは、望ましいことで、簡単ではありますが、子どもたちが通い、賑わっていたことを知れば知るほど、どこかむなしく、そして悲しく思います。むしろ、小学校であったことを活かさない手はない、というのが郷土資料館のスタンスです。

ということで、小学校であったことを感じられ、楽しんでいただける仕掛けもありますので、小難しい歴史が苦手な方もお楽しみいただけるものとなっています。

ぜひ、遊びにいらしてください。

写真:現在のハルカイト

彩の国東・北部ミュージアムスタンプラリーはじまる

今年もやります。ミュージアムスタンプラリー。埼玉県東部・北部の博物館をめぐって、オリジナルグッズをもらおう。

埼玉県博物館連絡協議会の加盟館のうち、埼玉県の東部地区、北部地区の博物館(開催館は以下の通り)でスタンプラリーを実施します。

R6_埼博連スタンプラリー台紙(両面印刷用).pdf画像:スタンプラリー台紙

期間は、令和6年8月1日(木曜日)~令和6年9月29日(日曜日)(期間中でも景品がなくなり次第、終了します)。

夏休みの企画なので、参加は中学生以下の方に限りますのでご注意を。

スタンプの台紙は、実施館で配布するほか、こちら(R6_埼博連スタンプラリー台紙(両面印刷用).pdf)から印刷して参加しても大丈夫。
景品は、スタンプ3個で、シャープペンシル。スタンプ5個で、オリジナルトートバック。

開催館は次の25館です。
春日部市郷土資料館、三郷市立郷土資料館、宮代町郷土資料館、ミニ博物館”地球&宇宙”、草加市立歴史民俗資料館、八潮市立資料館、久喜市立郷土資料館、日本工業大学工業技術博物館、白岡市立歴史資料館、蓮田市文化財展示館、幸手市郷土資料館、行田市郷土博物館、埼玉県立さきたま史跡の博物館、さいたま水族館、(公財)長島記念館、立正大学博物館、羽生市立郷土資料館、埼玉県立川の博物館、鉢形城歴史館、熊谷市立熊谷図書館 美術・郷土資料展示室、本庄早稲田の杜ミュージアム、早稲田大学考古資料館、上里町立郷土資料館、神川町文化財展示室 

手づくりおもちゃクラブを行いました #博物館実習

7月28日(日)は、午前、午後に手づくりおもちゃクラブを行いました。ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。
蓄音機を聞いている場面


今回のおもちゃクラブでは、私たち博物館実習生の3人も設営・補助に加わりました。私たち実習生は、参加いただいた皆さまに、春日部市飯沼にまつわる伝説の紙芝居を読み聞かせを行いました。読み聞かせは前日から練習を行った成果が出て、話すスピードや声量、読み聞かせ最中の目線の意識など参加した皆さまに最も良い結果で披露できたのではないかと思います。

写真:読み聞かせしているところ
その後の手づくりおもちゃ・缶バッジの作成では、参加した皆さまは、みんな笑顔でケガをすることなく無事に終えることができました。重ねまして、本日ご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました。
写真:手づくりおもちゃの制作

写真:缶バッチの制作

令和6年度博物館実習初日の活動

令和6年度の博物館実習が始まりました。今回のブログは実習生が担当いたします。
実習初日の午前中は、明日の子供向けワークショップに向けての準備を行いました。他の実習生や指導してくださった郷土資料館の学芸員の方と共におもちゃの作成や明日行う紙芝居の練習をしました。

写真:ぶんぶんゴマの作成の様子

特にぶんぶんゴマの遊び方には意外と苦戦しましたが、明日のワークショップでは子どもたちのいい体験になるように楽しんで帰れるように頑張りたいと思います。

午後には、まず、収蔵庫の見学を行い、資料の収蔵までのプロセスや保管方法について説明して頂きました。

写真:収蔵庫見学の様子

収蔵庫には、実際に春日部郷土資料館の展示でみられる資料よりも多くの資料が保管されており、なかなか見られることのない資料館の裏側が見られてとても貴重な体験になったと思います。

その後は、博物館に関するディスカッションを行いました。

写真:ディスカッションの様子

ディスカッションでは、理想の博物館について、そして春日部郷土資料館についてどう考えるかというテーマで話し合いました。
理想の博物館については、「地域を身近に感じることができる館」が理想であるという考えが多く出ました。
一方で、春日部市郷土資料館については、「体験的なワークショップが行われている点が良い」「狭いスペースでありながらも地域についてわかりやすい展示がされている」といった意見が出ました。
郷土資料館での実習期間を通して、地域を身近に感じられる、地域を知ることができる博物館とはどのような博物館であるのか。そのような博物館を作り上げていくには自分たちはどのようにしていくべきなのかを考えられたらと考えています。

#夏休み #自由研究 のお手伝い

いよいよ夏休み。多くの子どもたちが初日を迎えた7月20日。早速、郷土資料館に夏休みの自由研究のお問い合わせが。。。宿題をすぐにやるタイプですね。素晴らしい。 #かすかべプラスワン

問い合わせの一つは、自分の先祖調べ。身近な歴史を調べるという、学校の夏休みの宿題が出されたそう。昔の地図や絵図の調べ方、先祖の調べ方について、簡単にレクチャーしました。

もう一つは、自分の住んでいる地区の形(境界)がなぜそのようになっているのか、というもの。非常に難しいのですが、多くの場合は、江戸時代の検地(土地丈量・測量)に境界が定められ、こんにちに至っていると考えられます。水路や道が境界となったり、村に属する人(家)の所持地が境界となる場合もあります。近代や現代の開発などによって、境界が再設定されることもあるようですが、個別のケースを追跡するのは、限界があります。が、境界について考える資料を提供することができました。

夏休みの自由研究は、理科的分野がテーマとして設定されることが多いようです。たしかに、実験とか観察とか楽しいですからね。

けれども、夏休みにおうちの方といっしょに、自分のルーツ、住んでいる土地のルーツを調べてみるのも、悪くないと思います。そうした学習は「調べ学習」とか「郷土学習」とか言われ、地味で、大変そうですが、自分のルーツについて深く知ることで、ルーツについて誇りをもち、2学期を迎えることができるのではないでしょうか。

そうした「調べ学習」「郷土学習」に対するお問い合わせ、レファレンスに、郷土資料館は力を惜しみませんので、自由研究を何にしようか悩んでいるあなた、ぜひ挑戦してみてください。ただし、資料がなく、わからないこともあります(それが人文学の醍醐味ですが)。その点、ご了解ください。

#展示替 100年前の春日部夏祭り

週末は、夏の恒例 #春日部夏祭り というわけで、常設展の一部を展示替しました。 #かすかべプラスワン

写真:展示ケース

といっても、せま~いので、ケース一つ分です。企画展示の展示替えもあり、急遽、スペースができたので、構想と準備は半日、という突貫展示です。

春日部夏祭りは、もともと、粕壁宿(町)の牛頭天王社(八坂神社)の祭礼を起源とします(詳しくは以前の記事参照)。古くは江戸時代の記録もありますが、資料館収蔵品には、大正10年(1921)の古写真や記録があり、すでに知られている写真絵葉書も一同に会します。そして、初公開の資料も。

写真:大正10年上町子どもたち

この写真は、大正10年の上町の子どもたちの集合写真です。みな、着飾って、女の子は化粧をしています。

上町の「油米」「永庄」「厚見本店」などの半纏を着た保護者(?)が後方に立っており、粕壁町を代表とする上町の商家の子息たちのようです。初公開です。

夏季の期間には展示していますので、夏祭りを楽しむ方(事後・楽しんだ方)は要チェック。資料館に涼みに来たついでにご覧ください。

企画展が終わりました(反省)。そして、次期展示へ。

7月7日(日)で「まちをみつめて50年」展が終了しました。次期の企画展示がまもなく始まりますので、企画展示室を早速撤収しました。 #かすかべプラスワン #展示の反省

設営のときは、あーでもない、こーでもないと試行錯誤をしながら時間に追われ展示していくのですが、撤収はあっという間に終わります。

写真:からっぽの展示ケース

撤収作業のなかで、今回の企画展について、いろいろと顧みながら、反省もしました。

今回は、旧春日部市の市制施行70周年の区切りの年であり、新しい庁舎で業務が始まった年でありましたので、おおよそ70年間の市政の歩みについて紹介する企画でした。とくに、昨年度閉庁した旧庁舎にスポットをあて、市制の周年事業を柱にたてながら、展示を構成しました。

郷土資料館としては、企画展「1960年代の春日部」以来の現代史の展示になりましたが、1960年代の春日部にも重なる部分も多く、展示資料に苦労しましたし、昭和30年代から平成初頭に至るまでの資料が限られ、『広報かすかべ』の縮刷版が頼りであることや、縮刷版が出ていない平成10年代は資料がさらに限られており、現代史としての市政の歴史を見ていく限界を感じながら、展示をつくりました。

市政の歩みについては、油断すれば、市役所の建設に象徴されるように、建物(ハコモノ)やインフラの整備が進んだこと自体に目が移りがちになってしまいます。市が作成した市政の各種の年表も、おおざっぱにいえば、ハコモノやインフラの建設年表になっています。

資料館の展示としての目指すべき理想像は、市政に関わる人・人の顔がわかるような展示ですが、これも広報縮刷版や、わずかな行政資料では限界があり、また現代の方々のプライバシーなどに配慮すべきこともあり、展示ではうまく表現ができませんでした。また、何よりも市政の歴史的に歴史的な評価を下すことが難しい。現在にモロに直結する現代史の難しさを痛感しました。

そういうわけで展示は、旧庁舎と周年事業を柱立てにして構成しました。というより、せざるを得なかったというべきでしょう。暗澹たる思いで準備をはじめましたが、腹をくくって、市制40周年の「かすかびあん」にスポットを当てようと密かに画策して展示を設営しました。

「かすかびあん」については、前にも触れた通りですが、今年で「かすかびあん」誕生からちょうど30年の年でもありました。様々なグッズがあるなかで、実際に展示するなかで、おっ!と思ったのはこちら。

画像:ティッシュボックス

市制施行40周年で特産品協議会が制作したこのティッシュボックス。

正面には「かすかびあん」が。

この箱は、当然、春日部市の特産品である桐箱です。

だけど、ポピュラーな印籠蓋ではない。背面をみると・・・

写真:背面

なんと、茶道具や木彫などを入れる「オトシド」と呼ばれる技法の蓋になっています。

手がかかっているといえるでしょう。

さらに、天板と側面もよくみると・・・

写真:天板と側面

ティッシュの出し口は麦わら帽子の形で、縁には麦わら真田が付されています。

「かすかびあん」もよくみると、少しモッコリしています。これは、押絵羽子板の押絵の技法で作られています。

いわずもがな、麦わら帽子も押絵羽子板も、春日部市の特産品です。

何気ない周年グッズだと思いきや、特産品の技術が集約されたティッシュボックス。市制の資料としても、伝統工芸の資料としても、春日部市を象徴するとても良い資料です。展示室が広ければ、常設展示に出してもおかしくない、「優品」です。

 

といった具合に、展示の準備をしながら、様々な発見が今回もありました。資料を実見していると、当時の人たちの思いや考えがヒシヒシと伝わってきます。市政の歩みとは、過去の人たちの様々な思いの積み重なりである、と改めて実感しました。展示で、その思いが皆さんに伝わったかどうかはわかりませんが、ご覧いただいた方には、過去の市政の歩みを振り返りながら、今の春日部市について考えていただく機会に少しでもなったのならば幸甚です。ただ、現代史の展示は、しばらくは勘弁してほしいなぁというのが本音ですが。

 

長くなりましたが、次期展示は絶賛準備中。ご期待ください。

春日部市郷土資料館 第70回企画展示

東部地区文化財担当者会40周年記念リレー展示「都鳥が見た古代ー埼玉県東部地区の奈良時代・平安時代」

会期:令和6年7月20日(土)から9月1日(日)

開館時間:午前9時から午後4時45分

休館日:毎週月曜日・祝日

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15・048-763-2455)

共催:東部地区文化財担当者会

#かすかべ地名の話 (4) 花のつく地名 #花積 #西宝珠花

市内の地名の話題。今回は企画展でも紹介している花のつく地名について。 #かすかべプラスワン #地名の由来

市内の「花」のつく地名は、住居表示でも使用されている「花積」「西宝珠花」です。

花積、西宝珠花はともに春日部市域の端っこにあたりますが、それぞれ大宮台地と下総台地の突端に位置しています。そのため、原始時代から先人たちの暮らしていた痕跡=遺跡が検出される地区であります。また、歴史時代において、特に中世の記録史料にも花積・宝珠花の地名が確認されます。中世の記録等に市域の地名が確認される例は、数えるほどしかありませんので、花積、宝珠花は中世の春日部市域を考える上でも重要です。

しかし、なぜ「花」という言葉が地名についているのでしょうか。花積・宝珠花の地名の由来については、様々な説があります。諸説については花積と西宝珠花の「地名のはなし」の回に譲ることにしますが、「はな」という言葉の語義を調べてみると、「突端」や「先端」を意味するそうです。それが転じて「はなわ(塙)」は台地などの高くなっている土地を指すそうです。顔の「鼻」も顔のなかで突起している部分、あるいは先端ですし、フラワーの「花」も植物の先端に付きます。つまり、「花」とは「突端」「先端」あるいは「台地」の上を意味すると解せます。

翻って、花積と宝珠花の地形をみると、台地の突端に位置しています。地名の由来の定説を決定づけることは難しいですが、おそらく春日部市の「花」は「突端」「先端」あるいは「台地」を意味するものと理解されます。

ちなみに、庄和地区の金崎には「字花輪下(あざ はなわした)」という地名があります。ちょうど国道16号のハンバーガーチェーン店のあたりとなり、南桜井駅周辺に張り出した台地の縁辺にあたります。おそらく、「花輪」はこの台地を指し、その「下」に位置するので「花輪下」と呼ばれたのでしょう。

なお、「花」の地名は、台地が張り出している市域のみならず、他所にもあります。「鼻」の漢字があてられる場合もあるようです。

西宝珠花では、5月3日、5日大凧揚げ祭りが開催されます。「花」の地形も意識しながら、西宝珠花を散策すると、より大凧揚げ祭りも楽しめるかもしれませんよ。

今年もやってきた藤の季節

桜はとっくに散り、春日部市内の藤の花が見ごろを迎えています。 #かすかべプラスワン #藤 #牛島のフジ

春日部人(かすかびあん)なら、桜よりも藤の花、のはず。粕壁小の敷地に自生している謎の藤の花も見ごろ。郷土資料館から見え、甘い香りがします。

写真:粕壁小の藤

かつて「世界一のフジ」と称された、牛島のフジ(国特別天然記念物)も、この数日間が見ごろのようです。

最近のニュースなどでは、他地域のフジの花が紹介されているのを見かけます。牛島のフジの歴史・文化性は唯一のもの。あの新一万円札男・渋沢栄一も見に来ているのだから、もっと紹介されてもいい、と個人的に思います。

春日部駅西口側では、藤通りの藤棚が見ごろのようで、藤テラス(4月21日)、藤まつり(4月28日)。藤まつりウィークと称し、とイベントが目白押しです。

郷土資料館では「*花の彩り*春日部*」展で、藤をめぐる春日部の歴史も紹介していますので、観藤のついでにお立ち寄りください。

#博物館実習 受け入れています

#春日部市郷土資料館 は、今年度も #博物館実習生 を受け入れています。 #かすかべプラスワン

と、告知すると、博物館がお好きな一般の方からお問い合わせがありそうですが、博物館実習とは、大学で博物館学芸員の資格取得を目指す学生が、一定期間、博物館の現場で実際の業務を経験すること。ですから、基本的に未来の学芸員を志す学生さん(市内在住の方優先)に限られます。

当館の博物館実習は、例年7月末から8月にかけて、実施しています。毎年、実習生に「ほごログ」にて実習の模様を報告してもらうのも恒例になってきました。どんな実習をするのかは、下のタグの「博物館実習」「実習生」「実習生の記録」をクリックしてみてください。

実習の受け入れ・申し込みについて、詳しくは、市ホームページをご覧ください。

 

#円空仏祭 のチラシ

春日部の #GW の恒例行事「 #円空 仏祭」。今年も小渕・観音院にて、県指定文化財「小渕観音院円空仏群」(7躯)が公開されます。観音院のご住職様のご厚意で、チラシをいただきましたので、郷土資料館で配架・配布させていただきました。

画像:円空仏祭パンフレット

このチラシ、ただのチラシじゃありません。

蛇腹折りになっており、経典などでつかわれる折本の仕様になっています。

ジグザグに折ったまま立てると、あたかも円空仏の屏風のよう。

写真:屏風のようなチラシ

・・・カッコいい。

写真がうまく撮れず、チラシの良さが伝わりづらいので、ぜひお手にとってみてください。

そして、円空仏祭は、5月3・4・5・6日に開催されます。ぜひ実物の円空仏を間近でご覧ください。

詳しくは観音院のサイトへ。

#かすかべ地名の話 (3) #粕壁 の #小名

忘れたことにやってくる、市内の地名の話題。今回は粕壁地区の小さな地名について。 #かすかべプラスワン #地名の由来

市内の場合、現在使用されている住居表示は、江戸時代の宿・村の地名であることが多いですが、普段つかっている地名のなかに小さな地名があります。そうした地名は、一般に、小名(こな)とか、小字(こあざ)と呼ばれています。

まずは、昭和11年(1936)に刊行された『粕壁町誌』の付図「粕壁町略図」をみてみましょう。

画像:粕壁町略図

かつての粕壁町は、現在の粕壁、粕壁東だけでなく、中央、浜川戸、八木崎町、緑町、南、大沼(一部)、南栄町(一部)、豊町(一部)が含まれるエリアでした。上の地図をみると、浜川戸(はまかわど)、八木崎(やぎさき)、馬草場(ばくさば)、内出(うちで)、町並(まちなみ)、町裏(まちうら)、井戸棚居(いどたない)、川久保(かわくぼ)、川久保新田(かわくぼしんでん)、土井(どい)、草刈場(くさかりば)、新宿(しんじゅく)、内谷(うちや)、立沼(たてぬま)という地名がみえます。これらが昭和11年当時の粕壁の小字ということになるでしょう。

明治8~9年の「武蔵国郡村誌」には次のような小字が記載されています。

金山(かねやま)、内出(うちで)、寺町(てらまち)、横町、上町(かみまち)、中町(なかまち)、新宿組(しんじゅくぐみ)、三枚橋(さんまいばし)、新々田(しんしんでん)、下組(しもぐみ)、大砂組(だいすなぐみ)、川久保(かわくぼ)、元新宿(もとしんじゅく)、大池(おおいけ)、内谷(うちや)、太田(おおた)、松の木(まつのき)、裏町(うらまち)、前山中(まえやまなか)、上山中(かみやまなか)、陣屋(じんや)、八木崎(やぎさき)、浜川戸(はまかわど)、土井(どい)、井土棚居(いどだない)、草刈場(くさかりば)、馬草新田(ばぐさしんでん)

小字・小名には、①町・村のなかのコミュニティ(現在の町内会)を意味するもの、②土地を小分けした地名を意味するもの、③①と②の両方が混在しているもの、の3通りがあるようです。

粕壁でいえば、寺町、上町などの「町」の付くもの、新宿組や大砂組など「組」が付くものは、コミュニティの名称として使用されますが、草刈場、馬草新田などは、土地の地名として使われています。しかし、これらも人々の生活の移り変わりとともに、土地の名前がコミュニティの名前として使われるようになったり、あるいは、地名自体が消えてしまったりするものもあります。

粕壁は、江戸時代に日光道中が造られてから宿場町として古利根川縁辺の街道沿い(現在の春日部大通り)が町場となっていました。粕壁の人たちは、街道のことを「オーカン(往還)」などと呼んでいたようで、往還沿いは、古利根川境から、寺町、横町、上町(宿・組)、中町(宿・組)、新宿(組)、三枚橋、新々田、下(組)と称されていました。江戸時代後期には、上町・中町・新宿・三枚橋は「宿内四ケ町」とされ、宿場の業務と取り決めを行う町の中心の組となっていたように、これらの小名はコミュニティとしての名称でした。江戸時代の人々は街道沿いの土地を、昭和11年「粕壁町略図」にもみえる「町並」(まちなみ)と称していたようです。

時代を経て、粕壁の人々の生活領域が広がるなかで、最勝院をはじめ寺院が集まる地帯(寺町)、新町橋の手前の地帯(横町)、東陽寺や源徳寺の周辺(新々田)の往還沿い、さらには町並の裏や往還の脇道にも町場が広がっていきました。おそらく、「山中」「裏町」(現在の元町)「陣屋」「松の木」「大砂組」などの、町並のなか、あるいは町の場末にもあたるこれらの地名は、町場が広がり、新たなコミュニティがつくられていくなかで、徐々に小名として定着したものと考えられます。昭和初期ごろ(正確にはわかりません)には、「東町」「旭町」「富士見町」「宮本町」「本町(新宿組)」「一宮町」「春日町」「元町(裏町)」「幸町」などの町内会が成り立ち、住所として併記されることもありました(昭和の終わり頃までか)。

一方、江戸時代に粕壁地内の土地を示した絵図には次のような地名がみえます。

「川久保耕地」「井戸棚居耕地」「内出耕地」「内谷耕地」「八木崎耕地」「浜川戸耕地」「新宿前耕地」「草苅場耕地」「馬草新田」(「井戸棚居」は「井戸田苗」、「馬草新田」は「馬草場耕地」と記されるものもあります)。

これらの地名は、江戸時代の粕壁宿の土地台帳である元禄10年(1697)の検地帳にもみえる地名です(元禄の検地帳には、「内出」「井土棚居」「川窪」「浜川戸」「内屋」「草刈場」「八木崎」「新宿前」「馬草新田」「内田沼」「油戸沼」「立沼」の小名がみえます)。かつ昭和11年の粕壁町略図の農地が広がる地名にほぼ対応し、「耕地」とされることからも、主に土地の名称、とくに田畑・耕作地を指すものとして使われていた小名であるようです。

小字・小名について、どんな意味があるのか、はたまたいつ頃に生まれた地名なのかは、はっきりとわからないものが多いのですが、小さな地名は、土地に刻まれた歴史に思いをはせる糸口になるのではないかでしょうか。

「かすかべ人物史」公開しました

サイト内に市域の歴史的人物を紹介する「かすかべ人物史」を作成・公開しました。 #かすかべプラスワン

このブログの左もしくは下にあるメニュー「郷土資料館」から「かすかべ人物史」をクリックしてください。

現在掲載しているのは、埼玉の偉人として埼玉県が普及啓発している、岩井 弥一郎(いわい やいちろう)・加藤 楸邨(かとう しゅうそん)・栗原 伝三郎(くりばら でんざぶろう)・小島 正重(こじま まさしげ)・ 豊田 三郎(とよだ さぶろう)・原 又右衛門(はら またえもん)・三上 於菟吉(みかみ おときち)・見川 喜蔵(みかわ きぞう)の8名です。

まだ、関連する情報は少ないのですが、地元ならではの関連する資料・スポットなど、今後情報を充実していきたいと考えています。さらには、史料的に事績が明らかにしにくく「偉人」としては括りがたい、春日部ゆかりの歴史的な関連人物も増やしていくつもりです。

あんな人やこんな人も思い浮かびます。ご期待ください。

【出張授業】令和5年度でばりぃ資料館を振り返る

コロナ禍により小学校の団体見学が見込めなくなった年にはじまった「でばりぃ資料館」。おかげさまで、今年度は市内9校、10件のご依頼をいただき、無事終えることができました。

画像:川辺小学校のプレゼント

各校の様子については、「ほごログ」で紹介してきたところです。上のメダルは川辺小学校の皆さんからいただいたものです。今回は、お礼の紹介も含めて、今後のために、今年度の「でばりぃ資料館」を振り返りたいと思います。

「でばりぃ資料館」は、郷土資料館に様々な事情で出向けない子どもたちに、資料館にいるのと同じように学習・体験してもらうことをコンセプトにしています。ただ、資料館のすべてのモノを持っていくことはできませんので、普段ケースに入っている資料を触ったり、体験してもらい、春日部の昔を身近に感じてもらえるようにしています。

授業や体験の内容については、小学校の先生方のオファーに可能な限り応えるよう努めていますが、主要な単元は第3学年の社会科「くらしのうつりかわり」です。メニューは、昔の家庭の道具、昔のまち、昔の農業、昔の学校、昔の遊びを柱に立てていますが、オファーは道具、まちの移り変わりが多く、次に学校、農業に集中する傾向にあります。農業については、市街地化が進んだ学校では、カットされる傾向があるようですし、総合的な学習で稲作体験をする学校もあるようなので、「でばりぃ資料館」では敢えてカットされているようです。

先生、そして子どもたちから人気があるのが、昔の家庭の道具。とくに、手回し洗濯機やダイヤル式の黒電話が強く印象にのこるようです。いずれも、自分でまわして動かす、というのが身体的に初めての体験となるため、印象に残るようです。

また、昔の農業のメニューでは、千歯こきをつかった稲の脱穀体験を必ず実施しています。これは稲の本数の都合で全員が体験できるものではないのですが、見学する子どもたちから歓声があがるほど、人気の体験メニューです。「でばりぃ資料館」では、さらに籾摺りの体験をメニューにくわえ、自由時間に籾から玄米にする作業、玄米から白米にする作業を体験してもらっています。これも身体を動かす体験なので、人気です。

昔の学校については、石板、昔の教科書、給食の食器・献立表などを用意し、説明、子どもたちにみたり、さわったりしてもらっています。道具が動いたり、何かできたりする道具とは違い、どちらかといえば、見る・触る体験になるため、なかなか子どもたちの印象に残りにくい模様。ただ、今年度は、3年生の国語の教材「ちいちゃんのかげおくり」を意識して、戦前の子どもたちの暮らしと道具を「ちいちゃんの時代」のモノ・コトと説明してみました。そうした話をすると、戦争の悲惨さについて学んでいた子どもたちは、真剣な面持ちで話を聞いてくれているようでした。また、年度の途中から、小学生の集合写真をパネルにして持参したところ、子どもたちのなかには、昔の小学生の姿や服装をじっくり観察する子も見受けられました。祖父母や父母の世代の子どもたちが自分たちとどんな風に違うのか、興味をもつ子もいたようです。

昔のまちについては、1960年代の空中写真をラミネートにした大きなシートを敷いて、子どもたちに見てもらっています。しかし、地図の見方がまだ覚束ない3年生にとっては少し難しいようです。ただ、自分の学校があるのか、自分の家があるのか、身近なショッピングモールは60年代にあったのか、などわかりやすい問いを立てることで、学校・地区の様子のうつりかわりを考えてくれているようでした。アンケートに「クイズをやってほしい」と書いてくれる子が散見されるのも、「クイズ」がとっつきやすいということなのかもしれません。

今年度、担当者は、昔の学校・昔のまちについて説明する機会が多かったのですが、手回し洗濯機や黒電話、千歯こきに人気負けした印象を強く抱きました。何が面白く感じるのかは人それぞれですが、昔の学校・まちについても、身体をつかって体験・学習できるような方法をもっと鍛えていかなければならないと考えています。これは今後の課題としたいと思っています。

「でばりぃ資料館」を依頼していただいた学校には、「たんけんシート」という学習シートを事前に配布しました。シートの問題を解きながら、学習してもらうもので、「くらしのうつりかわり」の学習に少しは寄与できたように思いますが、わかりづらい箇所もあるので、学校の先生の要望を踏まえて、少しずつ改善していきたいと考えています。子どもたちは「ギガスクール」により、一人一台タブレット端末を使っています。「たんけんシート」的なものも、タブレットで使えたり、見れたりできるとよいなと思いますが、今後研究が必要です。

 

「でばりぃ資料館」が増える一方、昔と変わらず、団体見学として利用していただく学校もあります。団体見学では「くらしのうつりかわり」展を中心に説明をし、数名の方に千歯こきの体験をしてもらっています。「でばりぃ資料館」では触れることのできる資料がガラスケースに入ってしまっているため、昔の道具などの印象は薄いようです。

しかし、団体見学の小学生たちをみていると、竪穴住居模型や粕壁宿町並模型、昔のおもちゃなどの体験コーナーなど様々な資料に興味をひき、社会科の学習単元以外の学習機会にもなっているようです。また、団体見学に来てくれた子どもたちは、週末などにご家族を連れてもう一度見に来てくれる場合が多いようです。団体見学には、子どもたちの興味関心を広げるメリットがあり、郷土資料館としてもリピーターの獲得のために良いのですが、学校は「でばりぃ資料館」を選択する傾向にあります。されど「でばりぃ資料館」は、所詮「出前」です。郷土資料館の全てをお届けできるわけではありません。団体見学をみて、今後は、「でばりぃ資料館」で出会った子どもたちに郷土資料館に来てもらう取り組みを構築する必要があると確信しました。これも来年度の課題とします。

来年度の備忘ため、課題や所感を長々と書きましたが、博物館と学校教育(博学連携)も取り組んでみるとなかなか奥が深いなぁと思う次第です。学校の先生方からの要望を汲み上げながら、郷土資料館は、今後も春日部でしかできない学びを子どもたちに提供できるよう、精進してまいります。

#かすかべ地名の話 (2) #粕壁

#かすかべプラスワン #地名の由来

一部の方にご期待いただいている「かすかべ地名のはなし」

第2回目は「春日部」と「粕壁」の話です。

前回、ご紹介したように「春日部」(かすかべ)の地名の由来はいくつかの説がありますが、どれも決定打がなく、ナゾなのです。

市民の方ならばご存じのとおり、「かすかべ」という地名は、「春日部」と「粕壁」の二つの表記が用いられています。「春日部」と「粕壁」の違いは何なのでしょうか。

まずは、「春日部」と「粕壁」の違いを考えるため、古い文献から地名表記の変遷をたどってみましょう。

「かすかべ」の地名の初見は、南北朝時代。延元元年(1336)の後醍醐天皇の綸旨といわれています。この古文書は後醍醐天皇が春日部重行(かすかべ しげゆき)という武士に、「上総国山辺南北」と「下総国春日部郷」の地頭職(じとうしき)を認めるため発給されたものです。当時、春日部重行が「下総国春日部郷」を治めていたことを示すとともに、「春日部郷」(かすかべのごう)という集落が下総国に所在していたことが明らかになります。埼玉県は武蔵一国なんて言われることもありますが、実は埼玉県には下総国も含まれているのです。

 

次の画像は、延文6年(1361)ないし、応永22年(1415)に作成されたと考えられる「市場之祭文」という史料の一部です(国立公文書館所蔵「武州文書」より)

画像:市場之祭文写

ここにも「下総州春日部郷可市祭成之」とみえます。

その後も様々な中世の文献に「春日部郷」が散見されます。

中世には「春日部」と表記される地域に、人々が定住していたことが明らかになるのです。「春日部郷」は現在の市域の浜川戸近辺を中心とする集落だったと考えられています。

というわけで、古い文献にみえる「かすかべ」の地名は「春日部」となるのです。

時代が下り、時は戦国時代。

元亀4年(1573)の北条氏繁感状(写)は、関根図書助(ずしょのすけ)の戦功を賞した古文書ですが、このなかに「糟ケ辺」(かすかべ)の地名がみえます。関宿(千葉県野田市)からの軍勢が北条家の軍勢と衝突したのが、この「糟ケ辺」の地だったようです。

さらに時代が少し下り、天正17年(1589)3月の北条氏房朱印状(写)には、「御領所糟壁」と地名がみえます。この古文書は、岩付城主北条氏房が所領である「糟壁」に対して、諸役(労働役)を免除する代わりに、人を集め、耕地の開発に励むよう命じたものです。当時、「糟壁」が岩付城の城付の所領であったことがうかがえるとともに、地名としては「糟壁」という表記が用いられていたことがわかります。

しかし、古くは「春日部」と表記されていた地名が、なぜ「糟ケ辺」や「糟壁」という字句が当てられるようになったのかは残念ながら不明です。

さらに、天正18年(1590)と比定されている高力清長印判状(写)には、「糟壁新宿」という地名がみえます。この古文書は、岩付城主となった徳川譜代家臣の高力清長が、「糟壁新宿」の図書・弾正に対して、諸役を免除するかわりに人を集め年貢を納めるよう命じたものです。

江戸時代には、地名の表記としてはもっぱら「糟壁」が用いられるようになり、17世紀後半以降は「粕壁」という表記が増えていくことになります。ですから、日光道中の宿場町としての「かすかべ」は「糟壁(町)」や「粕壁(宿)」と表記され、時代が下るにつれ、「粕壁(宿)」が定着していくようになりました。

なお「粕壁」の表記は、宿場町の土蔵が「荒壁」であったから、または造り酒屋の「酒粕」に由来するという説もありますが、実際のところはよくわかっていません。

ただ、江戸時代の記録を細かくみると、「粕壁」ではなく「春日部」「春日辺」と表記することもあったようです。戦国時代から江戸時代にかけてみられる「糟ケ辺」「糟壁」「粕壁」という表記は、「かすかべ」という音を、漢字に当て、読みやすくしたものだけであり、漢字の字義は関係ないのかもしれません。

さて、明治時代、町村制が施行されると「粕壁宿」は「粕壁町」となり、東武鉄道を利用して藤の町・麦わら帽子の町・桐たんすの町として賑わいました。

その後、昭和19年(1944)戦時下での町村合併により、粕壁町は隣村の内牧村と合併し、「春日部町」が誕生します。「春日部」は後醍醐天皇を支えた南朝方の武士春日部氏の苗字であったため「春日部」の表記が選択されたようです。

上述の表記の変遷でみてきた通り、地名としては最も古い表記「春日部」が再び使われることになりましたので、地名「春日部」が復活したともいえるでしょう。

そして、昭和29年(1954)春日部町と武里村・豊春村・幸松村・豊野村の1町4町が合併し、春日部市が誕生します。

春日部町・春日部市の成立によって、東武鉄道の粕壁駅は春日部駅、旧制粕壁中学校は春日部高校と、公共的な施設等には「春日部」という地名が使用されるようになりました。今でも春日部市域全体を指す場合は「春日部」という表記が用いられます。

「春日部」が市域を覆う一方、「粕壁」表記も併用されています。粕壁は、江戸時代の宿場町だった区域の地名として使用され、「粕壁地区」「粕壁東」などと表記されます。春日部市立粕壁小学校は、現在は春日部市が設置した粕壁地区の小学校で、両方の表記が併用される伝統の小学校です。

以上のように、表記の変遷としては、「春日部」が最も古く、紆余曲折をへて「粕壁」が生まれ、そして「春日部」が再び登場するという過程をたどり、現在の用法としては「春日部」は市や町全体を指す地名、「粕壁」は春日部のなかの粕壁地区を指す地名として併用されいる、とまとめられます。

長くなりましたので、次回は粕壁のなかの小さな地名について、紹介したいと考えています。不定期ですが、お付き合いください。

「かすかべ地名のはなし」バックナンバー

ヨデハタキって何? #民具 の世界

先日、市民の方から資料をご寄贈いただきました。寄贈資料のなかから民具を一つ紹介します。

この民具は何をする道具でしょうか。

画像:ヨデハタキ

道具の名前は「ヨデハタキ」です。柄の長さは83センチ。すべて木製です。

名前を聞いても、都市化された春日部で生活する我々はピンときませんね。

「ヨデハタキ」は、田んぼの「クロツケ」の時に使う道具です。

「クロ」とは、田んぼと田んぼの間の境にある畝(うね)のことで、「クロツケ」とは畝(畦あぜ)をつくる作業のことです。

ご寄贈いただいた庄和地区の方は「ヨデツケ」ともお話しされていました。春日部あたりでは、畝や畦のことを「ヨデ」とも呼んだようです。

「ヨデハタキ」は、先端の平らな部分で畦をたたいたり押したりして、平らにするための道具のようです。ご寄贈いただいた方(80代)の方によれば、子どものころ「ヨデツケ」を手伝わされたそうです。畦がわれたり、ヒビわれたりしないように、「ヨデハタキ」に水をつけて畦の土を滑らかにしていくそうです。畦を「羊羹みたいにする」とお話しされていました。「羊羹」は、みずみずしく水分が含まれていて滑らかな感じがします。土を「羊羹」のようにするという表現がとても印象的でした。

さて『庄和町史編さん資料13 民俗Ⅲ』によれば、「クロの土に厚いところと薄いところがあるといけない。クロの上部を平らにし、真っすぐにしないといけない。百姓は境(畦境)にうるさい」との聞き取りがあります。「クロツケ」「ヨデツケ」が用水や排水の関係や耕地の境界を整える重要な作業だったことがうかがえます。

しかし、現在はトラクターでできる作業なので、この道具も不要になってしまいました。一見すると、お風呂のかき混ぜ棒(これも見なくなりました)のようですが、春日部の農業の発展の一端を担ってきたものであることには間違いありません。

ただ、ご寄贈いただいた方にこの道具の名前を聞いたとき、はじめは「なんだっけ?」とお話しされていました。とっさに「ヨデハタキ」ですか?と聞いたら、「たしかそう」というご返答。以前、他の方から「ヨデハタキ」をいただき、思い出せたのですが、本当に「ヨデハタキ」と呼んでいたのか、実は不安です。

ご寄贈をいただくとき、その道具(民具)に付随する情報(名称・時代・使用経歴などの情報)をきちんと聞き取り、記録しておかなければ、無用の長物になってしまいます。道具を実際に使っていた方も、道具の名前だったり、いつ頃使っていたか、記憶があいまいになってしまいがちなのですが。。。

民具は時代や地域によって、名称・形状・使い方に差異が生まれます。事例を蓄積して、時代・地域の差異を検討していくことで、民具研究は進展していくといわれています。民具の世界は奥深いです。

これは、本当に「ヨデハタキ」でよいのか。またほかの地域では何と呼んでいるのか。「ヨデハタキ」に関してご存知の方、いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。

でばりぃ資料館へのお礼のお手紙をいただきました(豊春小のお手紙)

1月末から2月にかけて、絶賛展開中の「でばりぃ資料館」(出張授業)。 #かすかべプラスワン

学校では体験・経験できない授業だった、授業後も子どもたちは目を輝かせていたと、先生方からも大変ご好評いただいています。うかがった小学校の皆さんからお礼のお手紙をいただくこともしばしばあります。お礼のお手紙を書くことが学習の振り返りになるのでしょうか。学習の一環とはいえ、率直な意見・感想、何が印象に残ったコト・モノだったのかがわかり、大変興味深く拝読させていただいています。今回は、1月23日のでばりぃ資料館で訪れた豊春小学校のみなさんからいただいたお礼のお手紙を紹介します。

皆さん、イラストをまじえながら、お礼を書いていただいています。

画像:手紙1

60年前の豊春小学校には、豊春中学校が併設されていたこと、きちんと覚えていてくれたようです。また、昔の農業の道具「千歯こき」の画期的な脱穀を目の当たりにし、衝撃を受けた模様です。

当日、でばりぃ資料館の準備のさなか、豊春小学校の校章に「稲穂」があしらわれていることに、私たち担当者どもは気づきました。千歯こきの体験をしたり、昔の豊春小の周りは田んぼばかりだったことを説明しながら、「豊春小のマークにも「稲穂」があるよね!」「みんなの名札や通学帽をみてね」なんてお話ししました。

その話題が心に刺さったのか、豊春小の校章を描いてくれた子もいました。

画像:豊春小の校章

お手紙の裏面まで、かわいらしいイラストとメッセージを描いてくれた子もいました。

「でばりぃ資料館」という言葉が先行しがちなので、郷土資料館から来たということがわからない子もいるようです。郷土資料館の人たちとわかってくれたようで、よかったです。今度、遊びに来てくださいね。

画像:お礼のお手紙裏面

次のイラストは、 皆さんのお手紙を綴った表紙です。でばりぃ資料館の全体を俯瞰する見事なイラストで、すべての道具や体験したことを網羅したイラストになっています。全部覚えていてくれてありがとう!

画像:手紙の表紙

 

今回、もっとも感銘を受けたお手紙を紹介します。

画像:手紙

1月23日は、おせわになりました。そして今と昔がよくわかりました。

でばりぃしりょうかんのみなさんが、いっぱいいてほしいです。体に気をつけて行動してください。

ぼくも大人になったらでばりぃしりょうかんになりたいです。昔と今をみせてくれてありがとうございます。

でばりぃ資料館が「いっぱいいてほしい」とは、もっと充実してほしいという要望でしょうか。けれども、物足りなかったというわけではなさそうで、満足してくれたようです。

それは「大人になったらでばりぃ資料館になりたい」という一文からもうかがえます。まさか「でばりぃ資料館になりたい」という感想をいただけるとは!

でばりぃ資料館は、出張授業なので、人ではないのですが、想像を膨らませれば、学芸員になりたいということでしょうか。

昔と今、今と昔。昔が今につながっていて、今も昔につながっているという、えらい大人の人でもわからないことに興味をもち、そうなりたいと感じてくれたならば、でばりぃ資料館の私たちはうれしいです。

でばりぃ資料館になりたい君へ。まずは、郷土資料館に遊びに来てください。