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かすかべの牡丹と成金鈴久

春日部市郷土資料館にて、令和元年7月23日(火)から開催予定の「元祖!成金鈴木久五郎」展の準備を進めています。今回は展示資料を少しご紹介します。

春日部は古くから「藤のかすかべ」と称されてきたように、国特別天然記念物の「牛島の藤」を筆頭として、藤の花は市のシンボルとして現在も親しまれています。今回は「藤だけじゃなかった!」というお話です。

「粕壁の牡丹」といっても、今は知る方もほとんどいないのかもしれませんが、戦前には東京近郊の名所として知られていました。
はじめに、市域で牡丹が有名になったのは、備後村の医師石井家です。石井家は牡丹栽培で著名な人で、明治14・15年に牡丹の接木技法を発明したといい、同家の庭園では、接ぎ分けを望む人が近隣や東京からも訪れたといいます。
この牡丹を株分けしたのが、幸松村の鈴木兵右衛門(久五郎の実兄)です。邸宅に造られた牡丹園は政治家を招く社交の場として利用されました。五月からその末にかけては、毎日のように、粕壁の町に用はなくても、牡丹園があるがために東京から「政客」がやってきたそうです。警察の定員が増え、町にいいお茶ができたのも、鈴木邸の牡丹園のおかげだといわれました。鈴木邸は粕壁町の近在であったため、「粕壁の牡丹園」と呼ばれました。
しかし、鈴木銀行が破たんに追い込まれ、大正7年(1918)に屋敷・牡丹園は売却されると、粕壁の古刹最勝院に牡丹が株分けされ、境内に牡丹園が開園しました。
最勝院の牡丹園は、一般の客でも自由に出入りができたようで、「粕壁町春日部牡丹園」と呼ばれます。最勝院の牡丹園は古い写真絵葉書があり、当時の様子がうかがえます。

写真:粕壁の牡丹園
絵葉書の裏面には「大正七年五月」とメモ書があり、牛島の藤とセットで巡った方の持ち物だったようです。
その後の牡丹園の足跡はよくわかりません。しかし、かすかべの観光名所には藤だけでなく牡丹があり、そして牡丹には成金鈴久の生家鈴木家が深くかかわっていたこと、牡丹の栽培名人が武里にいたことも「粕壁の牡丹園」の成立の背景にあったことが、鈴木久五郎を調べるなかで明らかになってきました。

そんな、鈴木久五郎について紹介する、展示会は、令和元年7月23日(火)~9月8日(日)まで。乞うご期待。