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カテゴリ:郷土資料館

博物館実習二日目

 実習二日目となる今日は、体験学習の研究として「藍の生葉染め」と「かんなくずを利用した花づくり」を行いました。

 春日部市では、少なくとも明治時代には、藍が工芸作物として栽培されていたようです。また、備後・小渕・下柳などでも、かつて紺屋という布や糸を藍で染める仕事がありました。このような「春日部の歴史」を踏まえた上で体験講座は考えられています!

写真:藍葉の剪定

 藍で染めると抗菌・防臭・防火作用が得られるとされます。現在の企画展「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」に展示されている印半纏も藍色に染められています。ご来館の際はぜひ思い出してご覧ください。また、藍の生葉染では、植物性繊維である木綿や化学繊維のポリエステルは染まらず、動物性繊維である絹や羊毛を染めることができます。今回は絹を用いました!

藍の生葉染め体験では、慣れない環境に苦心しながらも、鮮やかな藍色を表現しようと真剣に黙々と作業する実習生の姿を見ることが出来ました。絹を漬けるために、入念に藍の葉をもみ込み、色を出すのが一番大変な工程でした。

写真:藍の生葉染め

写真:染めた布を空気になじませる

生木染めは藍の育つ季節にだけ体験できるもので、一年の中でこの時期にしか体験できない貴重な経験です。

写真:染めた後に干す

 午後のかんなくずを利用した花づくり体験では、崩れやすいかんなくずに悪戦苦闘する実習生の姿が見受けられ、これから体験講座を受ける人がより分かりやすい体験をするにはどうすればよいか想像を膨らませ、改善点を模索していました。

写真:かんなくずを使った工作

参加する受講者がけがをしにくい方法を考える人、出来栄えや作業のやり易さを追求する人と考え方は人それぞれでした。完成したかんなくずの花はどれも個性のある作品となりました!

写真:かんなくずを使った造花

 コロナ禍で当初の予定にあった他館見学は中止になってしまいましたが、未経験のことにチャレンジすることができ、童心に帰ったかのように楽しむことができました。

 残りの実習も楽しみつつ、一生懸命に取り組んでいこうと思います。

(令和三年度博物館実習生)

博物館実習が始まりました

春日部市郷土資料館で #博物館実習 が始まりました。今年は10名の大学生が実習生として館務実習にのぞみます。

初日の本日は、館内の見学と博物館について討論をしてもらいました。

午前中は、展示室やバックヤードを見学してもらいました。展示資料の解説というより、館の成り立ち・運営や展示法をまじえた解説で、皆さん、当館の特長を深めてもらえたようです。

写真:常設展示室の見学

写真:企画展示室

午後は、館の見学をふまえて、博物館のあるべき姿・理想像について話し合ってもらいました。みなさん、博物館学を学修されていて、「放課後博物館」とか「市民博物館」とか、市民・住民参加型の博物館の理想像を持っているようでした。また、当館の実状をふまえて、春日部市郷土資料館の方向性やキャッチコピーをグループ討論し、発表してもらいまいした。討論から提案されたキャッチコピーは「春日部の歴史を照らす」「春日部って何?」というもので、いずれも当館の評価点を伸ばしながら、ウィークポイントを改善するコンセプトになっていました。

館の職員一同、的を射た指摘に感心させられるとともに、今後の運営に大変参考になる発表だったと思います。みなさんの意見をふまえ、ウイルス対策、暑さ対策など健康管理にも十分注意しながら、8日間の実習にのぞんでいただければと思います。

写真:グループワーク

桐のまち春日部展に野原ひろし登場!

「語りだしたらキリがない!桐のまち春日部」展の開催を期して、 #クレヨンしんちゃん でお馴染みの #野原ひろし の限定記念スタンプをご用意しています。

画像:野原ひろしのスタンプ

浴衣姿のひろし(しんちゃんのお父さん)と春日部の特産品「桐タンス」「桐箱」とをデザインした郷土資料館オリジナルのスタンプです。先日、来館してくれた市内在住の小学生は、「ひろしのスタンプだー!かっこいい」と喜んでたくさん押してくれていました。春日部市民にとって、野原一家は誰もが知っているまちの有名人です。

ところで、「桐のまち春日部」展は、桐タンス・桐箱の製造、産業のあゆみを紹介する企画展示で、内容はちょっと大人向き。けれども、お子様向けに体験コーナー「キリに親しむ」も用意しています。木材を見て、さわって、臭いをかいで桐材を探すものや、春日部産の桐箱と中国産の桐箱を見極める体験です。また、桐タンス・桐箱の製造工程をご覧いただける映像コーナーも用意しています。

小さなお子様も、みて・きいて・さわって・かいで「桐のまち春日部」を楽しみいただけると思います。そして、お子様に決め手は、やはり「野原ひろし」のスタンプ。「ひろし」を介して春日部の特産品を知ってもらえれば、担当者としてこんなに幸せなことはありません(実は担当者の名もひろしだったりします)。このほかに、しんちゃんやみさえのオリジナルスタンプもあります。ご家族で夏の思い出にどうぞ。

幸手市郷土資料館の博物館実習生が見学に来ました

8月5日、幸手市郷土資料館で博物館実習に参加している実習生2名が、春日部市郷土資料館に見学に訪れました。展示室から収蔵庫などのバックヤードまで、とても熱心に見学していただきました。

博物館実習は、大学の学芸員課程において学芸員資格をとるために必須の課程です。しかしながら、受け入れ側の博物館、資料館では、人数などの都合でどうしてもお断りせざるを得ないことがあり、学芸員資格をとりたい学生たちは、往々にして実習受入れ先の館を探すことに苦労します。幸手市郷土資料館では、今年度より実習を開始したとのことで、近隣館で受入れ先が増えたことは、当館にとっても大変ありがたいものです。

当館でも、新型コロナウイルス感染症対策を徹底して、今年度は8月の後半から10名の実習生を受け入れて、約1週間の日程で博物館実習を行う予定です。こういった機会に、少しでも多くの資料館の仕事を経験してもらい、今後の人生に役立ててもらいたいと思っています。

実習の内容は、期間中に実習生に書いてもらうほごログでお伝えしていきます。昨年度のものも掲載していますので、ぜひご覧ください。

幸手市郷土資料館実習生見学

幸手市郷土資料館は、過去の記事(【近隣館の紹介】幸手市郷土資料館)でも触れたことがありますが、平成30年にオープンした新しい館です。

9月5日(日曜日)まで2つの企画展が同時開催されています。ぜひお出かけください。

幸手市郷土資料館令和3年度企画展『幸手の海でとれた貝』(幸手市郷土資料館サイトへリンク)

幸手市郷土資料館 令和3年度企画展『渋沢栄一と幸手』(幸手市郷土資料館サイトへリンク)

#春日部の桐箱 あなどるなかれ!

8月4日(水)、桐のまち春日部展の #ミュージアムトーク (展示解説)を行いました。うだるような暑さの平日にも関わらず、ご関心をお持ちの皆さまにお集まりいただきました。 #かすかべプラスワン

写真:桐箱の説明 

写真は、春日部の桐箱の品質について解説しているところです。春日部の桐箱をあなどるなかれ。一般の桐箱と比べると、春日部の桐箱の品質のよさは一目瞭然です。箱を比べるコーナーも用意していますので、ぜひお手に取ってご覧ください。ひとつひとつ職人さんの技術で丁寧につくっている春日部の桐箱。これからは大切なものは春日部の桐箱にしまうことにいたしましょう。

展示解説の後、参加者の方から様々なご質問をいただきました。今日もおじいさん・お父さんが桐箱職人だったという方がいらっしゃいました。へその緒の箱やにんべんの鰹節の箱を作っていたそうです。来館者の方に新たな情報を教えていただくこともミュージアムトークのだいご味だったりもします。

 写真:展示解説

次回の、ミュージアムトークは残すところあと1回。展示会の最終日9月5日(日)です。

イベントはともかく、この夏、桐細工の展示をお見逃しなく。

#ミュージアムトーク 展示解説をしました

7月31日(土)桐のまち春日部展のミュージアムトーク(展示解説)を実施しました。多くの皆さまにお集まりいただき、解説は30分を予定していましたが、約60分お付き合いいただきました。

 写真:展示解説のもよう

午前の部には、お父さんが桐箪笥職人だった方がご来館され、板削りを手伝ったお話や、親戚の箪笥職人の方のお話を教えていただきました。展示準備の聞き取り調査では、桐箱職人が血縁関係から広がっていったことが明らかになりましたが、箪笥職人もまた、血縁関係のなかで広がりをみせていったことがうかがえる貴重なお話でした。

 

午後の部には、調査の折に大変お世話になった桐箪笥職人さんがご来館されました。

写真:桐箪笥の資料解説

職人さんの前で桐箪笥の構造や鑑賞の仕方について解説をしました。まさに釈迦に説法。かなり緊張しました。解説の後、職人さんからは色々とアドバイスをいただき、「展示はよくまとまっている」とお褒めの言葉をいただきました。展示会が開催できてよかったと思えた瞬間でした。

また、午後には桐箪笥の元職人さんとご友人という方もおり、元職人さんにお取り次ぎいただきました。まだまだ調査を継続し、色々なお話を集めなければならない、と実感した一日でもありました。

皆さま、ご来館いただきありがとうございました。

次回のミュージアムトークは、8月4日(水)10:30~、15:00~となります。桐箪笥・桐小箱にゆかりのある方も、ぜひおいでください。

郷土資料館は開館しております

新型コロナウイルス感染拡大防止に向け、政府の緊急事態宣言に伴う埼玉県の協力要請を受けた対応として、8月3日(火曜日)以降も徹底した感染防止対策を講じた上で制限付き開館を継続し、イベントも開催します。

なお体験コーナーは一部利用できません。 

<来館時のお願い>
・大人数での来館は控えてください。館内の状況により、入場制限を行う場合があります
・発熱などの風邪症状のある人は入館できません
・皆さんの安全確保のために、入館時に氏名・緊急連絡先の記入をお願いします
・入館時の手指の消毒にご協力をお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・滞在時間は、30分を目安にしてください
・会話を控えるとともに、他の来館者との十分な距離(おおむね2メートルを目安)をとってください

 

9月5日まで「語りだしたらキリがないー桐のまち春日部」展を開催しています。

 

夏季展示はじまりました。展示解説講座も

#かすかべプラスワン 7月20日より夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまっています。ご来館いただいた方には展示パンフレットを差し上げています。ぜひご来館ください。

写真:展示室風景

7月25日には、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」も開催しました。

写真:展示解説講座の様子

展示担当の学芸員による今回の解説講座では、近世から現代の春日部の桐産業に関する史料を読み解きました。これまでの春日部の桐産業の歴史は、どちらかといえばあいまいにされてきた部分も多くありましたので、今回は史料に基づいて、近世から近代の桐産業の展開をたどってみました。史料とは文献・文字資料のことで、上の写真のスライドにもみえるように、くずし字の古文書も含まれます。ちょっと小難しかったかもしれませんが、受講者も講師もレジュメと終始にらめっこ。一言一句解説をしながら、受講者の皆さまと史料を解釈しました。

内容については夏季展示でも紹介しているところですが、少しだけ講座の内容を紹介。

春日部の桐産業の起源は、史料的には、天明元年(1781)までしか遡れません。天明元年の銚子口村年貢割付状(埼玉県立文書館収蔵銚子口区有文書)に、「一、戌新規 永百文 箱指冥加永」(ひとつ いぬしんき えいひゃくもん はこさしみょうがえい)とある記事が、現在判明する限りで最も古い桐産業の起源を示すものとなります。

「戌新規」とは、安永7年(1778)の戌年から新規にという意味。銚子口村では安永7年から「箱指冥加永」を「永百文」を毎年幕府に上納しているという記述です。「冥加永」とは、営業税の一種で、「箱指」とは箱・指物づくりをする職人のことを指しています。「箱指冥加永」を別の史料では「箱屋運上」と言い換えている史料もあります。同様に「箱指冥加永」を支払っている市内の村は、粕壁宿・備後村(当初は藤塚村も)であったこともわかっており、粕壁宿では、「永五十文」を毎年幕府に上納していたことが、市指定有形文化財の粕壁宿文書(埼玉県立文書館収蔵)から判明します。また、粕壁宿・備後村・銚子口村の箱指(箱差)はいずれも「農間箱指」「農業之間指物細工」などと表現された農業の合間の生業として、箱・指物づくりに従事していたこともわかります。

 実は桐細工であるかどうかはわからないのですが、このように桐箪笥・桐箱づくりの起源は、史料的には天明元年(1781)のものが最古で、安永7年(1778)より以前、市域において「箱指」がどのように存在していたのか、わからないのです。

となると、よくいわれている「江戸時代の日光東照宮に加わった工匠たちが春日部に移り住んで桐箪笥や桐箱の製造をはじめた」という起源の話は、いったいどうなるのでしょうか。解説講座では、この東照宮の工匠伝説についても言及しました。この点については夏季展示でも紹介しいるところですし、ミュージアムトーク(展示解説)でもお話する予定です。

気になる方は、ぜひ展示を見に来てください。

【プレ夏季展示最終回】常設展とロビーにハミ出し展示

いよいよ7月20日から始まる夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展のプレ展示第3弾(事実上の最終回)です。まもなく、夏季展示が始まるので、今回は大きくハミ出しました。まず、常設展の展示ケースを展示替えです。夏季展示の関連資料を陳列しました。

写真:常設展のケース

 テーマは「桐箪笥・桐箱の流通・消費を考える」です。

今回の企画展示では、製造の工程や春日部の桐産業の展開を中心に紹介しています。これまでの成果も基本はその大枠を出るものではなかったと思います。生産量が増え、「桐のまち」へと成長していくのは自明のことですが、ではその需要はどこにあったのか。このハミ出し展示では、桐箪笥・桐箱の流通・消費のあり方を考える様々な史料を展示しました。ハミ出しており、一見、企画展示の本筋ではないようですが、実は本展示の核心的なテーマだったりします。資料の都合上、明治以降が中心となりますが、江戸時代にも遡って考えられるのではないか、と考えています。お見逃しなきよう。

もう一つは、ロビーのパネル展。

写真:ロビーのパネル展

ここには、「語り出したらキリがない、けど語らせて」と題し、今回の聞き取り調査、資料調査で得た「小咄」をコラム的に紹介しています。以前、紹介した藤塚橋の桐の木など、ちょっとした小ネタを余すところなく紹介しています。ミュージアムトークのネタが無くなってしまうかもしれません。企画展示室内にも同様のコーナーがありますが、パネルに貼りきれなかったので、ハミ出しました。

今回は、職人さんをはじめ、色々な方にご協力をいただいたので、手前味噌ですが本当に充実しています。展示は7月20日(火)から、いよいよ始まります。ご期待ください。

なお、開会後、最初の催し物として、展示解説講座「史料にみる春日部の桐産業」を以下の通り開催します。あわせてご利用ください。

日時:令和3年7月25日(日)午前10時~12時

会場:春日部市教育センター2階 視聴覚ホール

定員:30名

費用:無料

申込:郷土資料館へ直接、または電話。

【プレ夏季展示第2弾】常設展の桐タンスの解説がグレードアップ!?

7月20日から始まる夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展プレ展示第2弾です。今回も夏季展示をハミ出して、常設展に展示中の桐箪笥・用箪笥の解説パネルを更新しました。

写真:常設展の桐箪笥・用箪笥

これまで、常設展示の桐箪笥の解説パネルには、資料名「桐箪笥」と使用推定年代だけ表示していましたが、これを一新。今回の夏季展示の調査で、職人さんや関係者の方に教えていただいた箪笥の見方を踏まえて、キャプションを記述してみました。

写真下段の箪笥は、上段に板戸付きの箪笥、下段には2つ抽斗(ひきだし)の箪笥の二つ重ねの箪笥で、「二つ重ね上開き箪笥」(戸開二重箪笥)と呼ばれています。この形は、近世の草双紙にも描かれるもので、関東地方では近世から明治時代にかけて多く製作されたようです。

画像:二つ重ね上開き箪笥が描かれる近世の版本

この挿絵は、寛政元年(1789)刊『炉開噺口切』(国立国会図書館デジタルコレクションより)に掲載されるもので、武家の屋敷に戸開きの箪笥がみえます。

展示中の箪笥は、粕壁の旧家(商家)から寄贈されたものです。形からみて、幕末から明治時代頃の箪笥だと考えられれます。箪笥は使用される部材によって等級や価格が変わるのですが、この箪笥は厚さ六分(18mm)の板を使っていますが、人目につかない部分は薄い板になっています。こうした製法を「上羽(うわば・上端)」といいます。どこが薄いのかは原物をぜひ見てください。「材をまけて、見栄えがよいように作る」職人のワザなんだと思います。

もうひとつ。箪笥の上に置いている小型の箪笥は、用箪笥(ようだんす)といいます。「ヨウダンス」という言葉は、一部の国語辞典にも掲載される「洋箪笥」(洋服をつるして収める箪笥)と同じ発音・イントネーションでもあり、また製造数も少ないため、「用箪笥」は過去の遺物になりつつあります。用箪笥は「サカ」と呼ばれ、引戸(ひきど)のないものを「一寸サカ」。引戸(ひきど)があるものを「二寸サカ」といい、この用箪笥は七つの抽斗(ひきだし)があるので「七ツ割」であり、製造する職人は「七ツ割一寸坂」と呼んだのではないと考えられます。用箪笥は、桐箱よりも大きく、箪笥や長持(ながもち)よりも小ぶりなため、本箱や硯箱(すずりばこ)とともに「中箱(ちゅうばこ)」ともいわれました。明治時代後期、粕壁周辺には「中箱」製造を得意とする職人「中箱師」が300人もいたといいます。現在は、春日部の特産品の桐製品は、桐箪笥、桐箱に二極化していますが、元来は、箪笥と箱の中間があったようです。なぜ、用箪笥を「サカ」と呼んだのか、わかりませんでしたので、どなたか知っている方がいたら教えてください。

作った職人が違うとはいえ、桐箪笥も用箪笥も、前面がきれいに整った柾目(まさめ)の板材を使っています。柾目とは平行で均質に整った木目のことで、箪笥等の家具に好まれる部材です。一本の丸太からとれる柾目の板は限られているため、希少な部材です。どのように柾目の板をつくるのか、箪笥が作られるのか、これについては夏季展示でも解説するところですので、展示の「予習」として桐箪笥や用箪笥をぜひご覧ください。もちろん、夏季展示の会期中にも展示する予定です。

 奥深いぞ!春日部の桐産業

新収蔵品展のパンフレットを掲載します

春日部市郷土資料館かすかべの宝もの18新収蔵品展パンフレット.pdf(582KB)

7月7日ギャラリートークの様子

7月7日のミュージアムトーク

7月7日(水)をもちまして、「第63回企画展示 かすかべの宝もの18 新収蔵品展」は終了しました。期間中は、多くの方にご来館いただき、誠にありがとうございました。また、資料をご寄贈、ご寄託いただいた方、ご協力者の方に深くお礼を申し上げます。

会期中のイベント、展示解説講座「春日部の板碑」、ミュージアムトークにつきましても、盛況のうちに開催することができました。

通常の日程ですと、当館の企画展示は、日曜日までの会期が多いのですが、今回は、7月7日に春日部で聖火リレーが行われるということで、会期を7月7日水曜日までとしました。聖火リレーも無事行われ、ご来場いただいたお客様の中には、帰りに資料館にお立ち寄り頂いた方もいらっしゃいました。

さて、会期中、展示室でお配りした企画展示のパンフレットのPDFを掲載します。

春日部市郷土資料館新収蔵品展パンフレット.pdf(582KB)

(掲載資料:小流寺縁起、木造小島庄右衛門正重坐像、聖徳太子像、板碑、小学読本巻四、尋常小学習字本、粕壁中学校通知表、粕壁中学校会報、葛飾中学校椅子、上蛭田村高札、南桜井村議会議案、南桜井村報、亀田鵬斎カネコ薬局看板、5玉そろばん、往診用薬箱と道具、一円紙幣、田畑小作取立簿、粕壁町八坂神社祭典記念絵葉書、一般用米穀類購入通帳、1964年オリンピック審判補助員制服、日本オリンピック委員会バッジ、東京五輪ピンバッジ、1964年東京五輪組織委員会参加記念バッジ、1980年モスクワオリンピック公式記念メダル、プリントゴッコ)

 

7月20日(火)からは、「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展を開催します。引き続き換気・消毒等新型コロナウイルス感染症対策を実施しながら開館いたしますので、皆さまぜひご来館ください。

語り出したらキリがない!桐のまち春日部展チラシ

 

【プレ夏季展示】常設展の粕壁宿模型が桐のまちに!?

7月20日から春日部市郷土資料館の夏季展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展がはじまります。

画像:展示チラシ

今回の展示は、桐箪笥や桐箱の業者さんに聞き取り調査をし、その成果を紹介し、秘蔵の資料や資料館の収蔵品を展示するものです。調査を進めていく過程で、本当にいろいろなお話しがうかがえ、春日部の桐産業の奥深さが徐々にわかってきました(現在進行形です)。常設展示にも桐箪笥・桐箱が展示されていますが、これまでの展示方法、解説のキャプションは何も説明できていないことを痛感させられた次第です。担当者が思ったのは、「桐のまち」と言われるだけあり、本当に語り出したらキリがありません。ですから、おそらく当館の手狭な企画展示室には収まりきらないでしょう。

ということで、今回の夏季展示では、常設展示にも桐に関連する資料を陳列することが濃厚です。チラシの「展示室をハミ出して桐のまちの魅力をお届けします」とは、これを所以としています。

さて、今回はハミ出し展示の第一弾、展示を先取りした「プレ夏季展示」として、江戸時代の粕壁宿推定復元模型に、桐箪笥や桐箱の職人・問屋がいた地点に表示を立ててみました。

写真:粕壁宿の模型

模型のなかで特に密集しているのが、源徳寺の周辺で三枚橋や新々田と呼ばれたあたり。昭和32年の『商工名鑑』によると箱屋さん、箪笥屋さんが数件集まっています。ここには、老舗の箪笥問屋として島村箪笥製作所が所在します。同店は、創業者の島村忠太郎が大正7年(1918)に粕壁に転住し、箪笥製造と仲買を始めた店とされており、後の島忠家具(島忠ホームズ)の前身にもなります。現在の学校通り沿いに店舗があったことをご記憶の方も多いと存じますが、粕壁における最初の店舗は三枚橋に所在したようです。

このほかにも、日光街道沿いのこの模型の中に確認できる場所に立て札を置いています。桐箪笥職人や問屋の所在地が確認できるのは、明治時代以降となりますので、模型の想定年代とはずれるのですが、いかに春日部(粕壁)が桐のまちであったかがよくわかるのではないかと思います。

皆様には展示の前の「予習」としてご覧いただければ幸いです。もちろん、会期中も展示予定です。

【7/7まで新収蔵品展】1964年東京オリンピック時に使用した横断幕

新収蔵品展は、いよいよ7月7日(水)までです。最終日7月7日には、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。

◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要

みなさまのご来館をお待ちしております。

 

さて、新収蔵品展では、市民の方からいただいた1964年東京オリンピック時に使用した横断幕を展示しております。1964年東京オリンピック横断幕

 この横断幕は、幅約40㎝、長さ約520㎝、オリンピックの5色のライン上に白で抜く形で「WELCOME TO TOKYO 1964」の文字が書かれます。1964年の東京オリンピック時、オリンピックの海外選手の練習会場となった東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)に掲げられたものです。

駒場キャンパスでは、現在もある陸上競技場や野球場、ラグビー場が、全面的に陸上競技の練習会場になりました。またキャンパス内の現在「トレーニング体育館」と呼ばれる施設では、当時はまだめずらしかったウエイトトレーニングをすることができました。駒場キャンパスは、オリンピックによって、スポーツ施設の整備が急速に進められました。

横断幕の特に裏側をみてみると、布にペンキのようなもので5色のラインを引いています。既製品ではなく、手作りの横断幕で海外からの選手を歓迎したことがわかります。 

  

参考

教養学部報第561号 1964年東京五輪と駒場キャンパス(東京大学サイト)

日本のオリンピックを支えた東京大学の施設|オリパラと東大。(東京大学サイト)

【7/7まで新収蔵品展】兌換制度と一円札

新収蔵品展は、いよいよ7月7日(水)までです。みなさまのご来館をお待ちしております。

さて、新収蔵品展では、市民の方から寄贈頂いた武内宿禰(たけうちのすくね)の肖像と「日本銀行兌換銀券(だかんぎんけん)」と印字された1円札を展示しています。

武内宿禰1円札

貨幣(かへい)は、商品の交換手段であり、それ自体が価値をもつ金、銀が金貨、銀貨として使われていました。しかし商品の流通が拡大すると、貨幣が不足します。これに対応するため、中央銀行が、金貨、銀貨の準備金を用意し、兌換(だかん・紙幣と金銀の交換)をおこなうことを保証することで、紙幣が金銀と同じ価値をもち、信用力が上がります。兌換紙幣(だかんしへい)はいっせいには金銀に交換されないため、準備金を超える紙幣が発行でき、その増減をはかることができます。金に兌換する紙幣が流通することを金本位制、銀に兌換する紙幣が流通することを銀本位制といいます。

日本の明治時代から昭和時代はじめまでは、近代的な兌換制度が採り入れられた時代であり、明治22(1889)年からから昭和17(1942)年まで発行された武内宿禰(たけうちのすくね)の銀兌換の一円紙幣はその象徴的な存在でした。

明治政府は、明治4(1871)年、近代的な貨幣制度を整えるため、大阪に造幣局(ぞうへいきょく)を作り、新貨条例(しんかじょうれい)を発布(はっぷ)して、金1.5gを1円と定め、円、銭(せん)、厘(りん)の単位による十進法(じっしんほう)の通貨制度を採用、金貨、銀貨、銅貨を発行しました。明治5(1872)年、国立銀行条例が制定され、金兌換(きんだかん)の国立銀行券が発行されました。

ところで、この貨幣制度と国立銀行を準備して整えたのは、当時明治政府の大蔵省で働いていた渋沢栄一です。こうした縁もあり、渋沢栄一は令和6(2024)年から一万円札の肖像として採用されています。なお、このとき成立した国立銀行は、国の法律や制度によって成立した民間の銀行といった意味で、今の日本銀行ではなく、第一銀行から第百五十三銀行まで番号を付されていました。

明治15(1882)年、松方正義(まつかたまさよし)により日本銀行が設立し、明治18(1885)年、日本銀行から銀兌換(ぎんだかん)紙幣が発行されました。当時、中国や東南アジア諸国、メキシコ等、銀本位国との貿易が盛んになっており、日本も準備金を銀で用意していたことから、銀本位制が採用されました。明治22(1889)年には、武内宿禰があしらわれた銀兌換の一円紙幣が発行され、番号が漢数字で書かれます。

日清戦争(にっしんせんそう)後、多額の賠償金を得た日本政府は、明治30(1897)年、貨幣法を交付し、金本位制を採用しました。世界的に金の価値が高まっていたことから、これまでの倍の価値となる金0.75gが1円に変更されました。しかしながら、一円紙幣については、兌換される金貨が製造されなかったため、銀兌換券の発行が続けられることになりました。大正5(1916)年から発行された一円紙幣は、それまでの一円紙幣と武内宿禰を用いたデザインは共通するものの、番号がアラビア数字で書かれ、昭和17(1942)年まで発行されました。実に53年間、同じデザインの1円紙幣が発行されました。

このころ、写真技術の発達とともに紙幣の偽造が横行し、その対策として、すかし技術や写真に撮影しづらい淡い色合いで印刷する技術が発展しました。

 昭和6(1931)年、金貨兌換停止、昭和17(1942)年金本位制廃止、翌昭和18年、不換紙幣の発行により、日本は管理通貨制度へ移行しました。

 参考文献

新出隆久2019 「近代の貨幣制度と銀本位制の確立まで」『日本史かわら版』第7号 帝国書院

新出隆久2019 「金本位制の確立と展開」『日本史かわら版』第8号 帝国書院

松村記代子2012「日本紙幣の沿革」『日本印刷学会誌』第49巻第2号

 ○7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。

◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要

 

【7/7まで新収蔵品展】米穀類購入通帳

ミュージアムトーク6月27日(日)、新収蔵品展2回目のミュージアムトークを開催しました。ミュージアムトークは、7月7日(水)展示最終日にも開催いたします。10時30分~、15時~の2回で、いずれも30分程度の予定です。申込み不要ですので、お気軽にご来館ください。

 

 

 

 

 

 

 

さて、新収蔵品展では、市民の方から寄贈頂いた一般用米穀類購入通帳(べいこくるいこうにゅうつうちょう)を展示しています。

米穀類購入通帳

太平洋戦争中は、食料や物資のさまざまなものが不足し、割り当てられた量しか買うことができない配給制や切符制となりました。米などの米穀類は昭和17年(1942)2月、食料管理法が定められ、配給される米を購入するときには、米穀類購入通帳を提示し、購入する量などを記入、市町村長の印を受ける形となりました。戦時中の米の大人1人の1日の配給量は330gでした。
戦後、すぐは食糧難が続き、配給制も続けられました。しばらくすると好転し、昭和30年ごろには米穀類購入通帳が無くても米が買えるようになっていたそうです。

 

お米のキロ単位配給

昭和34年(1959)2月号の広報かすかべには、「お米のキロ単位配給」の記事が掲載されています。これは、当時1日1人365グラム、月あたり5キロ475グラムであった配給を5キロか6キロの配給とし、年間を通じてキログラム未満部分を調整して配給するものです。

展示している米穀類購入通帳の昭和44年(1969)の時点では、大人1人、1か月の配給量が15㎏でした。すでに通帳がなくても米は買えたようですが、米穀類購入通帳は、市町村長の公印が押されていることで、身分証明書としても使用されました。

米穀類購入通帳は、昭和44年に自主流通米制度が創設されると形骸化し、昭和56年(1981)に廃止されました。

ところで、7月3日(土)13:30より、新収蔵品展で展示している貞治6年の板碑を中心に、市内の板碑の概要などについての展示解説講座を教育センターで開催します。また繰り返しになりますが、7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。

◆展示解説講座「春日部の板碑」
日時:7月3日(土)13:30~
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:直接、または電話(048-763-2455)で郷土資料館まで。

◆ミュージアムトーク
日時:7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要

市の木「キリ」はどこにある?

「春日部は桐細工が盛んだけれど、桐の木はどこにあるのか」と、よく聞かれます。桐の木(キリ)は、市の木として春日部市のシンボルの一つでもありますが、たしかに、市内で桐の木を目にすることはほとんどありません。

現在、いくつかの公園や市内の学校などにキリが植樹されているようです。春日部市役所の敷地内にも、枝が選定され貧相ですがキリが植わっています。下の写真は、五月初旬に花を咲かせた様子を職員が撮影したものです。

写真:市役所敷地のキリ

果たして、春日部には桐の木が繁茂していたのでしょうか。

企画展「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展の調査のなかで、戦前生まれの桐箪笥職人、桐箱職人の方にお話しをうかがうことができました。

粕壁にお住まいの桐箪笥職人さんによれば、昭和22年以前、最勝院の裏から古隅田川の縁辺にかけての敷地はみな桐林だったとのことです。ですから、現在の春日部中学校が桐林だったらしいです。また、幸松にお住まいの桐箱職人さんによれば、樋籠の柳原団地と呼ばれる住宅地は、その昔桐林だったそうです。昭和22年撮影の航空写真をみると、すでに畑地もしくは更地になっており、残念ながら写真では確認できませんでした。『春日部市史』によれば、戦後の食糧増産政策により、多くの桐の木が切り倒されていったとされます。

大正時代の資料によれば、埼玉県の南部にあたる入間・比企・北足立・南埼玉・北葛飾5郡には優良な桐材の産地だったとされています。県南部なので「南部桐」と称し、岩手・青森県の南部桐とも混同・混用されてたともされています。多くの桐材が産出されていたことは確実のようです。ただし、職人さんにいわせれば、県内の桐の質はあまりよくなく、桐の木があっても使うことはなかっただろうともお話しいただきました。

調査を続けるなかで春日部市内の古い桐林の写真が見つけました!これについては企画展示でお披露目したいと思います。

さて、キリの木の情報を方々から聞き取るなかで、一風変わったキリの話を教えてもらいました。なんでも藤塚橋の人道橋の水道管の上に生えたキリの木があるとのこと。早速、確認しにいってみました。

写真:藤塚橋のキリ

教えていただいた方によれば、キリが生えてから15年は経過しているとのこと。春先には花も咲かせているそうです。キリは苗ほどの大きさまで成長してしまえば、強く育つ植物のようで、藤塚橋の水道管の隙間に積もった土で生きるようです。ただ、土が少なく根を広げることができないので、これ以上は大きくならないとか。

アスファルトに咲く花ならぬ、「橋桁に植わるキリ」として注目してはいかがでしょうか。そんな話題も踏まえて、企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展、目下準備中です。お楽しみに。

【出張授業】「でばりぃ資料館」in桜川小学校

令和3年6月24日(木)に桜川小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

今回は社会科“わたしたちのまち みんなのまち”の授業の一環として、桜川小周辺にある文化財の紹介や、航空写真を利用して町の様子を学習しました。

 

 文化財解説

桜井小のすぐ近くにある県指定有形文化財の花蔵院の四脚門や、同じく県指定有形文化財の香取神社本殿を写真で紹介させてもらいました。

児童からも「見たことある!」「知ってる!すぐそこ!」などの声が聞こえ、身近に文化財があることを知ってもらえた様子。児童にとって「文化財」という言葉はまだ聞きなれないものですが、歴史のある貴重なものだということは伝えられたかと思います。

 

紙芝居

紙芝居では“生きている彫り物”という花蔵院の四脚門に纏わる伝説の読み聞かせをしました。みんなじっくりと集中して聞いてくれましたね。

 

地図での学習

航空写真を広げて、桜川小や自宅、周辺の施設など色々なものを探しました。航空写真を読み取るために方角を意識するようにもしましたね!

目印となるところにシールをペタペタ貼るのも楽しかったようです。

 

自由時間

自由時間には児童自ら紙芝居の読み聞かせ!

なかなか感情を込めて読む児童もいました。将来は役者さんでしょうか♪

みんな楽しそうに学習してくれたようで何よりです!

 

多くの学校からご好評いただき、おかげさまで“でばりぃ資料館”もだんだんと認知度が増してまいりました!

これからも随時ご依頼、ご相談お待ちしております!

 

桐の企画展示やります!

先日、調査の経過を報告しましたが、7月20日(火)から、春日部市郷土資料館で企画展示「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展を開催します。展示のチラシができましたので、お披露目したいと思います。

画像:チラシ表面

今回の展示は、春日部の特産品である桐箱と桐箪笥を中心に、桐細工産業の歴史を紹介するものです。

チラシには、江戸時代の桐細工職人が信仰した小渕・観音院の聖徳太子立像、昭和34年に皇太子殿下御成婚記念の献上品の桐箪笥、昭和40年代後半の市内箱屋の出荷風景の写真を掲載しました。背景は、桐箪笥の開き戸の錠前と帯金具です。「桐」の文字は、明治期の市内の箪笥職人の帳面からトレースしてみました。チラシは順次、市内の施設などで配布します。

展示の内容やこぼれ話などは、このブログで追々紹介していければと思っています。お楽しみに。

 

事業名:春日部市郷土資料館夏季展示(第64回)「語り出したらキリがない!桐のまち春日部」展

会期:令和3年7月20日(火)~9月5日(日) 月曜祝日休館

会場:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15 教育センター内)

入館料:無料

関連イベントもあります。詳しくはチラシ(PDF約4MB)をご覧ください

【7/7まで新収蔵品展】貞治6年銘の板碑

新収蔵品展では、金崎の方から寄贈された、板碑(いたび)を展示しています。板碑は、板石塔婆(いたいしとうば)とも呼ばれ、中世に、死者の供養などのために建てられました。日本全国で確認されるものの、埼玉県はとりわけ数が多く、約27,000基の板碑が確認されています。
春日部市内には、486本(『埼葛の遺跡』)の板碑の存在が確認されており、資料館に収蔵されているもののほか、地域のお寺や住宅などで、信仰の対象として大切に保管されています。これら板碑のうち、浜川戸遺跡から出土したもの(郷土資料館常設展示)が市指定文化財に、西親野井の大王寺別院に安置されているものが県指定文化財に指定されています。貞治6年の板碑

埼玉県周辺でみられる板碑は、緑泥片岩(りょくでいへんがん)という、長瀞町や小川町でとれる石を使っています。青い色が目立つ石であることから「青石塔婆(あおいしとうば)」と呼ばれることもあります。形は、板状に整形され、頭部を三角に整えます。上部より、二条線、梵字(ぼんじ)で表された主尊(しゅぞん)、蓮台(れんだい)、花瓶(けびょう)などを刻みます。梵字は古代インドのブラーフミー文字から発展した文字で、仏教と結びつきが強く、仏教の仏を1字で表すことができます。板碑に彫られる梵字は、キリークという阿弥陀如来(あみだにょらい)を示す梵字が最も多く見られます。

板碑の多くには、このほかに供養者名や建てた年号などが刻まれます。建てられた具体的な年号を知ることができ、展示している板碑にも貞治(じょうじ)6年(1367)の年号と「八月廿八(にじゅうはち)日」という日付が刻まれています。

西暦1367年当時は、朝廷が北朝と南朝に分かれた南北朝時代でした。年号も北朝、南朝それぞれで定めており、この「貞治」という年号は、北朝の年号です。埼玉県周辺の板碑に刻まれる年号は、北朝の年号のものが多いようです。

一方で、春日部市内には、「元弘(げんこう)」という南朝で1331~1334年に使われた年号をもつものが4本あり、春日部にかかわりの深い武士の春日部氏が南朝側についたからではと考えられています。

さて、7月3日(土)13:30より、今回ご紹介した貞治6年の板碑を中心に、市内の板碑の概要などについての展示解説講座を教育センターで開催します。また、6月27日(日)と7月7日(水)は、展示室内の展示解説「ミュージアムトーク」を開催します。開催要項は以下のとおりです。ぜひご参加ください。

 

◆展示解説講座「春日部の板碑」
日時:7月3日(土)13:30~
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:直接、または電話(048-763-2455)で郷土資料館まで。

◆ミュージアムトーク
日時:6月27日(日)、7月7日(水)
各日10:30~、15:00~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申込不要

 

参考文献

埼玉県立歴史と民俗の博物館展示解説シート 『第6室 板碑ー武士の心』

埼葛地区文化財担当者会 2007 『埼葛の遺跡』埼葛地区文化財担当者会報告書第6集

春日部市教育委員会 1994 『春日部市史第6巻 通史編1』P.372~P.395

春日部市史編さん委員会 2012『春日部市史 庄和地域 原始古代中世近世』P.239~P.241

 

【7/7まで新収蔵品展】小流寺の聖徳太子像

新収蔵品展では、小流寺の文化財として、令和3年4月22日に市指定文化財となった「木造小島庄右衛門正重座像(もくぞうこじましょうえもんまさしげざぞう)」、「小流寺縁起(しょうりゅうじえんぎ)」(春日部市指定文化財)、そして今回ご紹介する「聖徳太子像」を展示しています。

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。

小流寺小流寺

小流寺は、浄土真宗の寺院で、現在は西宝珠花に所在します。もとは上吉妻にあり、昭和28年(1953)、江戸川改修工事に伴い、現在地に移転しました。坐像になっている小島庄右衛門正重は、小流寺の開祖であり、江戸時代、庄内領と呼ばれた現在の庄和地区の新田開発にたずさわりました。

聖徳太子像は、ながく小流寺でまつられてきたもので、江戸川を漂流してきたものと伝わります。像の高さは約90㎝、髪を中央で分け、両手に柄香炉(えごうろ)をもち、袈裟を身に着けています。髪型は本来は、長い髪を耳のわきで結ぶ角髪(みずら)であったようですが、結ばれていたであろう部分は欠損しています。表情はやや険しく、私たちがよく知っている旧1万円札の聖徳太子とは違う印象を受けます。制作年代は不明ですが、江戸時代の早い時期と考えられます。

この像の形は、孝養像(きょうようぞう)と呼ばれ、聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気快復を願って祈る姿と言われます。「孝養」とは、「こうよう」とも読むようですが、子が親に孝行をすることを表します。

柄香炉の持ち方は、浄土真宗本願寺派の勤式指導所のサイトによれば、作法としては「保持の仕方は、右手で上から柄の端の曲がっている部分を持ち、左手は下から柄の中央部より少し香炉寄りを持つ」とのことです。小流寺の聖徳太子像は、左右逆に持っており、これは手の部分を本体から抜くことができるため、誤って取り付けられた可能性もあります。しかしながら各地の聖徳太子像や絵画をみてみると、右手側に香炉をもつ小流寺の聖徳太子像と同じものもあるので、一概に間違っているとは言えないようです。

聖徳太子像

日本に仏教を取り入れた聖徳太子への信仰は、日本の仏教史とともに歩んできました。奈良時代の歴史書『日本書紀』では、生まれながらの聖人であったことが記されました。平安時代から中世には、様々な太子の伝記が書かれ、文学、芸能、美術など、さまざまな面で聖徳太子への信仰が関わりました。

鎌倉時代には鎌倉新仏教と呼ばれる新しい宗派が生まれ、各宗派を始めた祖師たちは、やはり聖徳太子を敬います。とりわけ小流寺の宗派である浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)は、聖徳太子を大変尊敬しており、浄土真宗のお寺には、聖徳太子像など、聖徳太子にかかわるものがまつられることが多いようです。小流寺に伝わる「小流寺縁起」にも、聖徳太子の事績を書く部分があります。

江戸時代には、聖徳太子が、四天王寺(大阪府)や法隆寺(奈良県)の建設にたずさわったことから、大工や左官、鍛冶屋、桶屋などの職人の信仰が盛んになりました。太子が亡くなった日に集まって、太子像などをまつる太子講が広まりました。

小渕の観音院にも、聖徳太子像が伝えられていますが、太子像がおさめられていた太子堂の修理のために、市域周辺の大工などの職人たちがお金を出し合った記録「小渕太子堂奉加帳」(春日部市指定文化財)が残されています。

小渕太子堂奉加帳と観音院の聖徳太子像は、7月20日から9月5日まで開催される「語り出したらキリがない桐のまち春日部」に出展予定ですのでお楽しみに。

西暦2021年の今年は、聖徳太子の亡くなったといわれる622年から1400年であり、4月には法隆寺で100年に1度の大法要が営まれました。このような特別な年に、偶然にも2回続けて「聖徳太子像」を企画展に出展する春日部市郷土資料館にぜひおこしください。

 

参考文献

武田佐和子 1993 『信仰の王権 聖徳太子 太子像をよみとく』 中央公論社

石井公成 2016『聖徳太子ー実像と伝説の間』春秋社

【近隣館の紹介】幸手市郷土資料館

幸手市郷土資料館では企画展「彰義隊士横山光造の陣笠」展を開催しています。

当館のような小さな館は、近隣の博物館さんと助け合い、支え合いながら日々運営できています。その日ごろの感謝を込めて、少し新しい試みですが、今回は近隣館を紹介してみたいと思います。

幸手市郷土資料館さんは、平成30年10月に設置された比較的新しい施設です。

写真:幸手市郷土資料館

当館は、埼玉県博物館連絡協議会などで、日ごろからお世話になっており、先日打ち合わせと資料調査でお邪魔し、その折に企画展を拝見しました。

写真:展示風景

戊辰戦争で歴史の表舞台に登場する、幸手ゆかりの彰義隊隊士横山光造に焦点をあて、遺されたわずかな資料からその実像を紹介しています。

常設展示は、充実した『幸手市史』の成果により、体系的に幸手の通史が学べます。民具の展示を質量ともに圧巻されます。おすすめは常設展の「武蔵国絵図写」。「かすかべ」の記述もあり、いずれ借用・展示させていただきたいなぁと、目をつけています。まだ見学されたことのない方はぜひともお出かけください。

 

展示期間:令和3年5月25日(火曜日)から7月18日(日曜日)まで

開催場所:幸手市郷土資料館 歴史展示室内 企画展示エリア

詳しくは幸手市郷土資料館ホームページ

粕壁小学校6年生が郷土資料館を見学しました。

令和3年6月9日(水)、粕壁小学校第6学年の皆さんが、社会科の歴史単元「縄文のむらから古墳のくにへ」の学習のため郷土資料館を見学しました。

写真:竪穴式住居を見学する

学芸員による縄文・弥生・古墳時代の解説を聞いたあと、児童各々は竪穴式住居原寸大模型や神明貝塚の出土品、須釜遺跡の土器、塚内古墳群の埴輪などをじっくり観察していました。縄文時代の土器や石器を触ってみたり、なかには匂いをかいでみる児童もいました。はたまた、神明貝塚の人骨と自分の顔を比べる児童もいました。自らの身体をフルに活用して郷土の縄文時代を体感してくれたようです。写真をブログに載せてほしいとリクエストをいただきましたので載せます。タイトルは「人骨と小学生」

写真:人骨と小学生

目的の学習を終えると、粕壁宿の模型で自分の家の位置を確かめたり、粕壁小学校の木造校舎の写真や粕壁の昔の風景をみて、まちの移り変わりを考えたり、学芸員に詳しく話を聞いたりして、身近な物事に基づきながら、さまざまな時代について楽しみながら歴史の理解を深めてくれていたようでした。

なかでも、航空写真から自分の家や友達の家を探すことや、

写真:航空写真をみる小学生

「かすかべ弁」として掲示している県東部地域の方言の意味を考えることに夢中になっているようでした。

写真:方言を考える小学生

最近では、文化財保護課による出張授業当館の「でばりぃ資料館」などの出張メニューも好評をいただいていますが、先史時代から現代まで、すべての時代の歴史を順を追って体感できるのは郷土資料館しかありません。6年生の皆さんには、江戸時代の参勤交代や宿場町を学習する単元でも、日光道中や粕壁宿の模型を身近な教材として活用していただき、もう一度社会科見学に来ていただけるといいなぁと思います。

千葉大学の博物館実習を受け入れました

昨年度に引き続き、千葉大学学芸員課程の博物館実習を受け入れ、14名の学生が郷土資料館に来館しました。

午前中は、ざざっと館の概要や館内をご案内したあと、小学生の体験授業で使用する稲わらを束ねてもらいました。実際に授業で小学生に体験してもらう「千歯こき」も皆さんに体験してもらいました。

 千歯こき体験

 

 

 

 

 

 

 

 

  

千歯こきの体験 

午後は、昨年度に引き続き、館蔵の資料整理にご協力いただきました。市内の商家からいただいた明治時代から平成初頭までの史料群の未整理の文書箱を開梱して、資料の概要調査の調書を作成してもらいました。千葉大学の皆さんには、ここ何年か連続してこの作業をしていただいており、昨年度の先輩が作成した調書を参考にしながら、今年も作業を進めました。

この資料は、解体される寸前の商家から、短時間で箱に詰めて資料館に収蔵したもので、どんな資料が入っているかを把握しきれていません。そのため毎年度、職員も含め、ワクワクしながら箱を開いています。

資料整理

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資料整理の様子

 今年の作業では、明治時代初期の粕壁宿の絵図が見つかりました。この絵図は宿場の細部までしっかりと書かれており、今後、展示や研究などに大いに利用されていくものと思われます。

学生の皆さんに、歴史的な資料が発見される瞬間に立ち会っていただくことができました。

明治時代初期の粕壁宿絵図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治時代初期の粕壁宿絵図 

1日という短い時間でしたが、みなさん熱心に見学され、また真剣に作業を進めていただきました。ありがとうございました。

【7/7まで新収蔵品展】上蛭田村の高札

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。

「新収蔵品展」では、上蛭田(かみひるた)村に掲げられていた高札を展示しています。この高札は、享保6年(1721)に出されたもので、幕府の鷹場内で鉄砲をうつことや鳥をとることを禁じたものです。

上蛭田村高札 上蛭田村享保16年高札

(クリックすると大きな画像(271KB)がダウンロードされます)

高札は江戸時代から明治時代の初期、幕府からの法令などを示すために、人々が往来する場所や名主の屋敷内に掲げられました。墨で書かれた文字が薄くなった場合は、許可をとって墨入れをしますが、この高札も、最初に掲げられた年から122年を経た天保14年(1843)に墨入れしたと、裏面に記されています。

高札裏面の墨書

 

 

 

 

 高札裏面の墨書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高札は、例えば粕壁宿では、高札場が日光道中と岩槻の方面への道が分岐する辻に建てられ、文化元年(1804)には下記のような高札が掲げられていたと記録されています。

①「親子兄弟夫婦を始」

②「切支丹宗門御制禁」

③「粕壁宿より駄賃并(ならびに)人足賃銭」

④「毒薬并(ならびに)似せ薬種」

⑤「駄賃并(ならびに)人足荷物之次第」

⑥「火を付るもの」

⑦「鷹番之義」

⑧「在々ニ而鉄砲打候もの」

⑨「何事によらすよろしからさる」

⑩「当未正月より来ル辰十二月迄拾ケ年駄賃壱割五分増」

⑪「当戌十月より来寅十月迄五ケ年之内賃銭三割増」 

参考:春日部市郷土資料館収蔵資料紹介:鷹番廃止の高札

『春日部市史近世史料編Ⅱ』P.801~

 

また江戸時代、江戸の外縁部は、幕府の鷹場(たかば)に設定されており、春日部市域周辺は、鷹場の中でも「捉飼場(とらえかいば)」として、将軍の鷹を訓練する場所として使われていました。

春日部市域に鷹場に関するとりきめを記した高札が多く残るのは、このためです。

 

鷹番廃止の高札については、過去の記事でもとりあげました。

 ほごログ過去の記事:鷹番廃止の高札『新編図録春日部の歴史』ーその75

 

上蛭田村高札の釈文、読み下しは以下の通りです。

(釈文) 

在々にて若鉄炮打候

もの有之候ハヽ申出へし幷

御留場之内にて鳥を

取申もの捕候歟見出し

候ハヽ早々申出へし

急度御褒美可被

下置者也

享保六年二月

 

裏面

天保十四卯年正月書入

武州埼玉郡

上蛭田村

 

(本文部分の読みくだし)

さだめ

ざいざいにて、もしてっぽううちそうろう

ものこれありそうらわば、もうしいずべし、ならびに

おとめばのうちにてとりを

とりもうすものとらえそうろうか、みいだし

そうらわば、そうそうもうしいずべし

きっとおほうび

くだしおかるべきものなり

 

 

#庄和総合支所 で #南桜井 の歴史を紹介しています

庄和総合支所の1階ロビーの隅っこに、市内の文化財や歴史を展示・紹介するスペースがあるのをご存知ですか。

郷土資料館では、長らく、江戸川に関する古写真などを展示していましたが、このたび、南桜井の歴史を紹介するパネルを掲示しました。

南桜井周辺の古地図や航空写真、人口の移り変わりなどを掲示したもの、南桜井の文化財を紹介したもの、地名の由来や地区に伝わる伝説を紹介したものを掲示しています。

先日「大衾の歴史」を紹介した通り、地区の歴史については、掘り下げれば掘り下げるほど、本当にキリがありません。南桜井という一地域の歴史・文化も話せば長くなりますが、何とか掲示板一面に何とかおさめることができました。総合支所周辺の地域の歴史を感じていただければ幸いです。

写真:掲示物の様子

なお、わずかですが、市内の遺跡から発掘した原物の資料を展示する「春日部市発掘調査速報展示」もありますので、あわせてご覧ください。

【7/7まで新収蔵品展】亀田鵬斎書の看板

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています。

「新収蔵品展」では、かすかべ大通りのカネコ薬局さんから頂いた亀田鵬斎(かめだぼ(ほ)うさい)書の看板を展示しています。「家伝 たんせきのくすり 鵬斎老人書」と書かれ、亀田鵬斎が金子家宿泊のお礼に書いたものと伝わります。

*亀田鵬斎書の看板については、郷土資料館サイトの収蔵資料紹介もご覧ください。また、亀田鵬斎書の荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本については、ほごログの過去記事「【3月27日】 #今日は何の日? in春日部」もご覧ください。

亀田鵬斎(宝暦2(1752)年~文政9(1826)年)は江戸時代の儒学(じゅがく)者であり、文人です。書にも長け、空中に飛び回るような豪快な書風は「フライング・ダンス」とも形容され、全国に書や碑を残しています。

宝暦2(1752)年に、江戸の神田で生まれた(一説には上五箇村(かみごかむら・群馬県千代田町))鵬斎は、明和2(1765)年、13歳のころから、儒者の井上金峨(きんが)に学び、安永3(1774)年、赤坂山王社(現千代田区)のそばに私塾を開きました。天明5(1785)年には、私塾を駿河台(現千代田区)に移し、「育英堂」と名付けました。鵬斎の私塾には多くの入門者が集まりました。しかしながら、寛政2(1790)年、幕府の老中、松平定信(まつだいらさだのぶ)により「寛政の改革」の一環として「寛政異学の禁」が出されると、儒学の中でも朱子学(しゅしがく)を正当とし、鵬斎が教えた折衷学派(せっちゅうがくは)は「異学」とされ、多くの門人を失うことになりました。その後は私塾を閉じ、50歳ごろより各地を旅しました。鵬斎は豪放な性格で、また大の酒好きでもあったことから多くの逸話を残しています。酒井抱一(さかいほういつ)、谷文晁(たにぶんちょう)、大田南畝(おおたなんぽ)らと交流がありました。文政9(1826)年、74歳でその生涯を閉じ、今戸(現台東区)の称福寺に葬られました。

鵬斎が春日部に滞在した正確な時期はわかっていません。大正12年の東京日日新聞によれば、「寛政異学の禁」のあと、千住あたりで散々遊んだ後に粕壁宿にたどりつき、しばらく宿泊しているうちに金子薬店の主人夫妻と仲良くなり、居候になったと伝えています。居候中は、子どもに書の手本を書いて教えたり、帳場の帳面をつけたりしながら、患っていた梅毒の治療をしてもらいました。このお礼に、今回展示している「家伝たんせきのくすり」という看板と六双の屏風を書きました。また、世話になった金子薬店の主人が亡くなった際には旅先から駆け付け、その位牌を書きました。

久喜には、遷善館(せんぜんかん)という代官早川八郎左衛門正紀(はやかわはちろうざえもんまさとし)が、享和3年(1803)に設立した郷学(ごうがく・武士のための藩校と一般庶民のための寺子屋の中間に位置する官民一体となった教育機関)がありましたが、鵬斎は早川に招かれて、講師をつとめました。地方での講演が最も多く行われたのが久喜の遷善館であったと弟子が書き残しています。鵬斎は、粕壁や久喜といった埼玉県東部地域の町々とも深く関わりがあったことがうかがえます。

なお、金子家の当主は、代々「七右衛門」と名乗り、元禄時代に初代七右衛門が薬屋を開業しました。大正時代には、粕壁に国立薬草園が開園しましたが、この誘致や創設に、12代七右衛門がたずさわりました。

 

(参考文献)

久喜市公文書館1999『第11回企画展 遷善館』

東京日日新聞 1923「鵬齋の居候ぶり(上)(下)」大正12年8月8日、9日

 

【7/7まで新収蔵品展】ミュージアムトークを開催しました

7月7日(水)まで、かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています

5月22日(土)、第63回企画展示「新収蔵品展」の会場にてミュージアムトークを開催しました。

「新収蔵品展」は、近年、郷土資料館に寄贈や寄託いただいた資料をご紹介するもので、中世の板碑(西暦1367年のもの)から現代のプリントゴッコ(西暦1993年のもの)まで、26種類76点の資料を並べています。展示では「小流寺の文化財」、「春日部の中世」、「春日部の学校」、「村の行政」、「春日部のまち」、「1964東京オリンピック」、「プリントゴッコ」の7つのコーナーを作り資料を展示しています。

本日はあまり天気が良くなったこともあり、ご来館者は決して多くありませんでしたが、バラエティ豊かな資料を展示していることから、皆様のご興味も様々で、多くのご質問やご感想をいただきました。

ミュージアムトークの様子

展示資料につきましては、こちらのほごログでも、順次ご紹介してまいります。(ちなみにプリントゴッコについては、こちらでご紹介しました。)

 

ミュージアムトークは、この後、6月27日(日)、7月7日(水)の10時30分からと15時からそれぞれ30分程度を予定しております。事前の申込みは不要です。ぜひご来館ください

市内の桐箪笥屋さん・桐小箱屋さんの調査をしています

5月18日(火)より「新収蔵品展」がはじまりましたが、次回、夏季展示の準備も進めているところです。今夏の展示は桐箪笥づくり、桐小箱づくりを中心に、春日部の伝統産業である桐産業の歴史を紹介する展示です。

とはいえ、郷土資料館として桐箪笥や桐小箱について、これまで十分な調査がされていませんでした。今回は、展示の準備のため、市内の桐材屋さん、桐箪笥屋さん、桐小箱屋さん、家具屋さんなどにご協力いただき、各所の歴史の聞き取り調査、製造工程の記録・取材を進めています。

先日、調査させていただいたのは、豊野地区の飯島桐箪笥製作所さんです。

桐の板材から、箪笥の各部材の板をとる「木取」(きどり)の工程をみせていただきました。

写真:木取

丸太から切り出した大きな板材から、箪笥の板に適した木目の部分だけを、丸鋸盤で切り出します。大きな材からとれる板は、わずかで、切り落とした部分はおが屑屋に回収してもらうそうです。

その後、木取した板材の木目をみながら、各部材の寸法の板を合わせます(幅寄せ)。

写真:木取

これらの工程を「木取」と呼ぶそうです。丸太を切り出した板材から各部材を切り出す、この工程は、瞬時に木目などを判別し、箪笥出来栄えや等級にもかかわる重要なものなので、昔から親方の仕事とされてきたそうです。

さらに、「組手づくり」の工程もみせていただきました。

ケビキとノミをつかって、箪笥の棚板を組みあわせる「ホゾ」を切り、ホゾサライと呼ばれる小刀で整えていきます。

写真:組手づくり

資料館でもケヒキやノミを所蔵しているところですが、実際に職人さんが使っているところを初めて見たので、大変感動しました。道具は使われてナンボなのですね。

このほか、塗装の工程も見学する予定でしたが、あいにくの雨なので作業は見合わせに。けれども、ウツギと呼ばれる木釘や、箪笥の塗料の原料ヤシャの実なども、お分けいただきました。

このほかにも、厚川産業さん、松田桐箱さん、古谷桐箱さん、山田桐箱さん、飛鳥馬製作所さん、遠藤木工さん、猪瀬桐材さん、山田箪笥さんなど、様々な業者さん、また残念ながら現在は廃業されてしまった方にもお話しを聞いて回っています。みなさん、突然の調査にも関わらず暖かくお迎えいただき、聞き取りの話が尽きません。ありがたい限りです。

これらの調査の成果については、展示でお披露目できればと思っています。市内には、まだまだ桐箪笥、桐小箱の事業者さんはたくさんおり、どこまでお話しが聞けるのか、わかりませんが、できる限り、多くの方のご協力をいただきたいと考えています。桐箪笥・桐小箱・家具業者の皆さんには、引き続きご協力いただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

かすかべの宝もの18新収蔵品展を開催しています

本日より7月7日(水)まで第63回企画展示「かすかべの宝もの18 新収蔵品展」を開催しています。

市民の方々からご寄贈、ご寄託いただいた市にゆかりの資料を約90点展示しています。

展示の概要は以下の通りです。

どうぞ、みなさまお誘いあわせの上、ご来場ください。

 

<第63回企画展示 かすかべの宝もの18 新収蔵品展>

期日:令和3年5月18日(火)から7月7日(水)

会場:春日部市郷土資料館企画展示室

(関連事業)

・展示解説講座「春日部の板碑」

新収蔵品展出展の板碑を中心に、春日部市内の中世板碑の状況を郷土資料館学芸員が解説します。
日時:令和3年7月3日(土曜日)午後1時30分~午後3時
場所:教育センター
対象:定員50人(申し込み順)
費用:無料
申し込み:令和3年6月15日(火曜日)から直接、または電話で郷土資料館へ(電話:048-763-2455)

・ミュージアムトーク

企画展示会場で、郷土資料館学芸員の展示解説を行います。
日時:令和3年5月22日(土曜日)、6月27日(日曜日)、7月7日(水曜日)
各日午前10時30分~、午後3時~(30分程度)
場所:郷土資料館企画展示室
費用無料、申し込み不要

第63回企画展示チラシ

常設展示に「牛島のフジ」の解説コーナーをつくりました

明治44年「粕壁の藤花」

  ▲明治44年(1911)絵葉書 「粕壁の藤花」(個人蔵)

 4月13日(火)から5月2日(日)まで開催しておりましたミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、ご好評をいただき、無事終了いたしました。ご協力いただいた方々、ご来館いただいた皆さま、ありがとうございました。

 せっかくですので、常設展示の中に特別天然記念物「牛島のフジ」について紹介する一角を設けました。

 館内が狭いためほんとに小さなものですが、下の写真のように、かつて「九尺藤」といわれた3メートル近い花房を原寸大で再現してみた折り紙の藤花も参考として展示しています。お近くにお越しの際には、ちょっとお立ち寄りいただけますと幸いです。

常設展示追加の「牛島のフジ」のコーナー

【春日部の地区小史】大衾の歴史

以前、『方言漢字 埼玉県編』に市内の地名「大衾」(が紹介されたことをお伝えしましたが、方言漢字がさまざまなメディアにとりあげられ、大変反響がありました。地名「大衾」がフィーチャーされていますので、改めて、春日部市の大衾の歴史を概観してみたいと思います。

大衾は、近世以降に確認される地名です。近世には「大衾村」といい、下総国葛飾郡庄内領に属し、近世を通じて幕府の直轄領(天領)として支配された村でした。『武蔵国郡村誌』によれば、寛永年間(1624-1643)以後に開発された村とされています。ただし、大衾の古寺・蓮花院には、天正11年(1583)の銘のある位牌があるほか、大衾には中世の板石塔婆も遺されていることから、大衾に人々が定住しはじめたのは、戦国期まで遡れると考えられます。正風館の西側の香取廻(かとりまわり)というあたりからは、縄文時代中期・後期、古墳時代前期の住居跡や遺物が発掘されており、大衾の人々の暮らしはさらに遡れるかもしれません。

さて、大衾という地名の語義について、『埼玉県地名誌』には次のように説明されています。

フスマはフシミ(伏見)と同語である。フシミとは、うつむいて見ること。されば大衾は見下ろすことができる傾斜地なので、その名をえたものとみられる。

たしかに、大衾は下総台地の突端に位置するため、台地と低地の高低差が坂道になっており、起伏のある地形になっています。正風館の前の通りの坂道が、まさに台地と低地の高低差といえば、イメージしやすいでしょうか。古くから地元の方は台地上の高台を「ノガタ」(野方)、低地を「シタヤ」(下谷)と呼んでいたそうです(『庄和町史編さん資料13 民俗Ⅲ』)。大衾村は、『武蔵国郡村誌』によれば、田は4反余、畑は28町8反余、宅地は1町2反余あり、耕地のうち約94%が畑地の畑がちの村であったことがわかります。ノガタに位置し、台地上を畑として耕作していたのでしょう。

旧庄和町域(庄和地域)では、江戸川が開削され、耕地の開発が安定する正保(1644-1647)や慶安(1648-1651)の頃に「シタヤ」に村が開かれていきます、大衾を含めた「ノガタ」に立地する村は、これ以前から存立していたようです。次の絵図は、国立公文書館所蔵の正保期の下総国絵図の写とされるもの(松平乗命本)の部分です。

正保下総国図(松平乗命本)

この絵図には、中世以来の集落があった宝珠花・金野井・小田辺(現・東中野)のほか、「米嶋」そして「大衾」の俵型がみられます。この絵図では俵型は村落(集落)を表現していますので、江戸川が開削されて間もない正保期にはすでに「大衾村」が存在していたことを示すことになるでしょう。また、緑色の地帯は「や」、黄色の地帯は「田」「あし」などと記述されており、緑は台地、黄は低地を表現しているようです。「大衾村」が台地上に位置していたことがよくわかります。

このように、大衾村は、比較的古い近世の村であることがうかがえます。しかし、大衾地区に伝来したであろう古文書や古記録はいまだに見出されておらず、近世の村の状況は詳しくはわからないのが現状です。

明治時代以降、大衾村は、明治6年(1873)には千葉県、同8年(1875)には埼玉県に所属します、明治12年(1879)には中葛飾郡に所属し、明治22年(1889)に永沼村・下柳村・上柳村・金崎村・上金崎村・西金野井村・大衾村が合併し、南桜井村となります。以降、「大衾」は南桜井村、昭和29年(1954)からは庄和村、昭和39年(1964)からは庄和町、平成17年(2005)からは春日部市の「大字」としての地名となります。

資料館収蔵資料のなかに、明治前期の大衾村が発行した古文書がありました。古文書の内容は、林畑の地券を2枚預かったことを証明するものですが、「大衾邨役場」とあり、公印には「大衾村役場證」と印文がみえます。

写真:大衾の地名がみえる史料写真:大衾村役場の印

この古文書に「林畑」とあるように、大衾にはうっそうとした雑木林があったようです。明治前期の物産は「薪」とされ、隣村の西金野井にはシャリキとよばれる杣(そま)職人が集住していたそうです(『庄和町史編さん資料10 民俗Ⅰ』)。記録が残されていないので推測にすぎませんが、おそらく「薪」の生産が盛んだった大衾にもシャリキ職人がいたのではないでしょうか。

そうした大衾の暮らし、景観が大きく変化するのは、昭和のはじめの頃だと思われます。昭和5年(1930)に総武線(現東武野田線)が開通し、南桜井駅が開業し、昭和18年(1933)に軍需工場が南桜井駅付近に疎開してきました。

軍需工場の疎開については、前に詳しく紹介しましたが、工場の敷地を造成するため、雑木林を切り開いていきました。その時に活躍したのがシャリキだったともいわれています。大衾の雑木林は「大衾山」と呼ばれていたそうで、地元の方は「オバケの森」といったとも。今では想像もできませんが、それだけうっそうとした森林だったのでしょう。戦後も多少雑木林が遺っていたようですが、高度経済成長期以降の宅地開発により今は見る影もありません。

大衾の人口も明治初めは、115人(20世帯)でしたが、昭和45年(1970)には973人、昭和55年(1980)には2898人(873世帯)、平成2年(1990)には3078人(917世帯)、同12年(2000)には3277人(1092世帯)、同22年(2010)には3333人(1241世帯)と、高度経済成長期に大きく変わっていったことがわかります(『武蔵国郡村誌』、国勢調査による)。

「大衾」の歴史については、地域にのこされた記録が少なくまだよくわからないことも多いのですが、以上のようになるでしょうか。

ところで、5月20日(木)11:10~40分頃、NHKのFMラジオ(85.1MHz)「ひるどき!さいたま~ず」(生放送)で、方言漢字「衾」について紹介されるそうです。「大衾」についても言及されるかもしれません。大衾にお住まい方も、そうでない方もお聞き逃しなく。

【出張授業】「でばりぃ資料館」in備後小学校

令和3年5月7日(金)に備後小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

今年の3月にも3年生向けにでばりぃ資料館で訪問させていただきましたが、新年度となり3年生の顔ぶれも新たになりました。

 

今回のでばりぃ資料館は社会科ではなく、総合的な学習の時間「備後のカルタ作り」の一環として、身近な地域の様子を学習してもらうという趣旨でのご依頼でした。

また、GWあけということもあり、長期休暇から日常の授業へ急に戻るのではなく、体験的な楽しさを取り入れた授業を行うことで、緩やかに通常授業に戻してあげたいという先生の計らいでもあるようです!

 

紙芝居の上演

地域学習風景

授業は体育館と郷土資料室で行い、体育館では武里地区にまつわる伝説の紙芝居の上演や、

武里地区の航空写真、郷土かるたを用いながら身近な文化財について学びました。

 

郷土資料室風景

郷土資料室では、展示してある昔の生活道具を学芸員が解説し、自由時間には実際に触ったり、昔の体重計に乗ったりして体験学習をしました。

 

昨年度から実施しているでばりぃ資料館は、主に10月~3月の小学校第3学年向け社会科郷土学習のために生まれた事業ですが、社会科に限らず内容や日程の調整をさせていただければ随時受付可能です。

私どもとしても、児童にもっと郷土資料館を知ってほしい気持ちがありますので、ぜひお気軽にご相談ください!

【4月28日】 #今日は何の日? in春日部

今から109年前の4月28日は、春日部に #渋沢栄一 が訪れた日です。 #かすかべプラスワン

明治45年(1912)4月28日、天気は晴れ。渋沢栄一は、粕壁中学校(現県立春日部高校)の父兄会より講演の依頼をうけ、粕壁に向かいました。その様子は、渋沢栄一伝記資料に詳しく記述されています。

これによると、栄一は朝6時に起床し、王子停車場から汽車に乗り、午前10時に粕壁駅に到着しました。「多数ノ人士来リ迎フ」と記録されており、大勢の人々に駅前で出迎えられました。その足で人力車に乗り牛島へ。

牛島には何をしにいったのかというと、藤を見に行きました。そう、かの有名な牛島のフジです。藤樹をみて渋沢は「頗ル大木ナリ、開花ハ未タ充分ナラサルモ、棚ノ広サ凡ソ二百坪アルヘク、真ニ稀ニ見ル所ナリ」と称賛しています。

東武鉄道の開通以後、牛島のフジは「粕壁の藤」と呼ばれ、関東地方で最も著名な藤の名所地として知られていました。渋沢も見たかったのか、それとも地元の人たちに請われ、見に行ったのか、わかりませんが、いずれにしても牛島のフジは、「渋沢栄一もみた春日部の藤」なのです。藤について詳しくは「渋沢栄一もみた春日部の藤」展をご覧ください。

さて、渋沢は「小亭ニ休憩シテ」とあり、園内の建物で休息をとり、その後、粕壁税務署で「地方人士」たちと昼食、懇談しました。当時の税務署の庁舎は完成して間もなかったようです。「地方人士」とは、おそらく粕壁の町中の有志たちでしょう。この点について少し補足しておきましょう。

さかのぼること10数年前、渋沢は男爵を授爵した明治33年(1900)に帝国ホテルで埼玉県の有志者90余名を集めて祝賀会を開いています。当日招待された名前をみると、市域からは粕壁の田村新蔵、練木市左衛門、山田半六、清水寿太郎といった粕壁の大店層の面々や、のちに「成金」として知られる鈴木久五郎、その一族で鈴木銀行役員の鈴木善五郎が招かれています。ですから、明治45年に粕壁税務署で会食した「地方人士」たちは、こうした渋沢と親交のあった人たちだったと考えられます。

さて、渋沢は午後2時に粕壁中学校に向かい、本来の目的である講演をします。「国家経済ト教育」に関する演題で話をし、聴講者は600~700名あり、盛会だったといいます。

午後5時40分、粕壁駅発の汽車に乗り、午後8時に王子停車場に到着しました。

以上の行程について、郷土資料館では「図説渋沢栄一の一日inかすかべ」というリーフレットを作りました。このときの渋沢の足跡が一目でわかるものです。このリーフレットは、観光ガイドさんにもご協力いただき、藤花園内でも配布していただき、牛島のフジに訪れたお客様から大変好評を得たと聞いています。ミニ展示のネタバレにもなってしまい、手前みそですがなかなかの出来栄えなので、「ほごログ」にもあげておきたいと思います。

画像:渋沢の足跡渋沢の足跡.pdf(1.1MB)

ところで、なんと渋沢はもう一度粕壁にやってきています。そのことについては、5月2日までのミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展でちょこっとだけ紹介しています。気になる方は、展示を見に来てくださいね。

ミュージアムトーク開催しました

令和3年4月25日(日)郷土資料館ミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展のミュージアムトークを開催しました。

写真:ミュージアムトーク

今回も多くの方にお集まりいただきました。渋沢栄一について詳しく話が聞けるものと、ご期待いただいた方も多くいらっしゃったようですが、展示解説の主題は「牛島のフジ」について、です。渋沢栄一ではなく、藤の展示なのです。牛島のフジのスゴさについては前にもブログで紹介しています。

牛島からお越しいただいた方によれば、花の最盛期には、藤の牛島駅から藤花園まで、長蛇の列で、行列が途切れなかったこともあるとか。また、最近、春日部に越してきたという方は、「春日部は住みやすい上に、歴史ある牛島のフジもあって誇らしい」と話していました。

先日22日(木)の定例教育委員会終了後、教育委員の皆さまにもご見学いただきました。「牛島のフジ」の新たなる側面をお楽しみいただけたようです。

写真:教育委員の見学

多くの方にご覧いただいた「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、5月2日(日)まで。4月26日(月)と4月29日(祝・木)は休館日なのでご注意ください。

#牛島のフジ がスゴイ件(最終回)

藤花園の牛島のフジは今まさに満開のようです。郷土資料館の近く、図書館・文化会館の藤・藤棚も盛りを迎えています。 #かすかべプラスワン #牛島の藤

画像:図書館・文化会館の藤棚

郷土資料館の最寄りの藤は、粕壁小学校校舎の裏に自生(?)しているものです。ほかの木に巻き付いて、ものすごく高いところに花をつけています。

写真:郷土資料館もよりの藤

 

さて、引き続き、あいうえお作文「牛島のフジがスゴイ件」の続き(最終回)です。

 

「の」飲みすぎ注意!酒と料理でおもてなし

牛島のフジの藤花園には、料亭があり、料理が提供されていることは、以前紹介しました。

当然、酒も提供されており、古利根川の川魚料理をアテに、女中さんが配膳してお酒をすすめてくださいます。

大正12年の句集には「寝る人も酔っているらし藤の花」という句が収録されています。

小説家・田山花袋(たやま かたい)は、大正12年(1923)刊『東京近郊一日の行楽』のなかで、「粕壁の藤花」という随筆をのこしています。これによれば、大町桂月(おおまち けいげつ)と田山が滞在していた羽生で落ち合い、酒を飲みながら汽車で粕壁に向かい、さらに藤花園で、牛島のフジを鑑賞しながら吸い物や煮つけをアテにしながら、競い合うように酒を酌み交わしたようです。

  …私達は何を話したらう。田舎の百姓家、藤の花を見せて客を引いて拙い酒と肴とを勧める田舎の百姓家―さういふものが不思議に私には思はれた。吸物はおとし玉子、肴は鰤か何かの煮附、酒はくさい地酒・・・。(略)何うして車夫に賃金を払つたか、また何うして汽車に乗つたか、それすれも分からないくらゐであつた。

あまりいいように書いてはくれていませんが、藤の聖地で、酒を飲みすぎてしまったことにかわりはないでしょう。

 

「ふ」フジの花房は最大9尺 愛称は「九尺藤」

牛島のフジは、よく樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えの藤だといわれます。しかし、戦後の新聞には、樹齢800年とか、戦国時代に戦死者を弔うため藤を植えたとか、その起源についてはつまびらかではありません。記録上では、江戸時代末には、すでに大名や公家等が賞賛した藤であったことは間違いないのですが。

いずれにしても、国内、いや世界でまれに見る藤の巨樹・古木であることにはかわりなく、明治時代末には、「関東一」、昭和3年(1928)の内務省天然記念物指定後には、「世界一」とも称されるようになります。なにが、「関東一」「世界一」なのか。天然記念物指定の事由をみると、学術的に確定できない樹齢を要件とするではなく、花房(かぼう)の長さを根拠としていることがわかります。その長さ、なんと「九尺」。1尺は約30センチですから、2.7メートルも花房があったといいます。だから、地元の愛称は「九尺藤」。

藤棚の広さ・規模は足利フラワーパークや市内のふじ通りに負けても、これだけの長さの花房をみせる藤は、日本、世界を捜しても牛島のフジだけです。戦前に天然記念物指定となったのも、戦後に特別天然記念物指定になったのも頷けますね。量より質です。

 

 「じ」地元かすかべの文化的サロン

これまで紹介してきたように、牛島のフジは、さまざまな文化人がおとずれたから、町・市のシンボルだから、地元の有力者や文化人たちもフジを囲んできました。藤花園という庭園が造られ、社交場としての「倶楽部」が設けられ、文化教養のある方たちが集い、句会などが催される。近代の春日部の華麗なる歴史は、牛島のフジとともに形成されてきたといっても過言ではありません。

 

以上、牛島のフジのスゴさを、あいうえお作文で紹介してきました。「牛島のフジがスゴイ件」のリーフレットは、郷土資料館で配布していますし、観光ボランティアさん・案内人の会さんにもご協力いただき、藤花園でも配布していただいています。

最後に蛇足ですが、こうした牛島のフジをめぐる歴史文化を調べていて、「渋沢栄一もみた春日部の藤」展の展示担当者として、考えたこと、気づいたことが二つほどあります。

一つは、これまで常にまちの人たちやかすかべに訪れる人たちを魅了してきた、囲まれてきたということ。しかし、現代は価値観の多様化のせいか、「かすかべisフジ」という理念が揺らぎつつあるように思えました。これからも、春日部のみなさんをはじめ、市外・県外の方たちからも愛される「牛島のフジ」であってほしいな、と願うばかりです。

もう一つは、「樹齢1200年以上!」とか「国の特別天然記念物です」とか、そんな陳腐な言葉では語りつくせない牛島のフジの歴史や文化があること。それこそが、牛島のフジのスゴさなのであり、春日部にとっては、それはもうpriceless(プライスレス)。藤だけに「不二」(二つとない)ものなのだと。おあとがよろしいでようで。

 

「渋沢栄一もみた春日部の藤」展は、5月2日(日)まで。4月25日(日)には、感染症対策にも配慮してミュージアムトーク(学芸員による展示解説)も実施します。10時30分~、15時~の二回。会期は残りわずかです。ぜひご来館ください。

【5/18~新収蔵品展】プリントゴッコをご寄贈いただきました

<郷土資料館では、令和3年5月18日(火)~7月4日(日)の期間で、第63回企画展示「かすかべのたからもの18新収蔵品展」を開催します。近年、資料館に寄贈、寄託された資料を展示します。> 

昨年、市内の方からプリントゴッコをご寄贈いただきました。次回の企画展示、5月18日(火)からの新収蔵品展にて展示します。平成5(1993)年、ロビンソン春日部店の文具売り場で購入されたとのことで、ロビンソンのスタンプが保証書に押されています。

プリントごっこPG-10

ご寄贈いただいたプリントゴッコPG-10と保証書

 

年賀状印刷などで、プリントゴッコを使われた方も多いと思いますが、発売元の理想科学工業株式会社が先日、インターネット上で「プリントゴッコ懐かしい展」を開始しました。

プリントゴッコ懐かしい展(理想科学工業株式会社サイト)

 

プリントゴッコは昭和52(1977)年に発売を開始、発売当初から大ヒットし、平成8(1996)年には売り上げ台数1,000万台に到達しました。平成12(2000)年以降、パソコンや家庭用プリンターの普及で需要が衰退し、平成20(2008)年に本体の販売停止、平成24(2012)年には関連する消耗品等の販売もおわり、事業終了となりました。

プリントゴッコは、「孔版(こうばん)印刷」という技術で印刷されます。仕組みと使い方は、まず、炭素を含んだ専用のペンで原稿を書き、マスターと呼ばれる版とともに機械にセットします。機械で付属のランプの光を一時的にあてることにより、原稿の炭素を発熱させ、その熱で原稿の炭素付着部分に対応する版の表面のフィルムを溶かし、孔を開けます。そして、この版にインクをのせ、用紙に圧着させると、孔からインクが原稿通りの形にしみ出し、同じものを何枚も印刷することができます。

文章で書くと難しそうですが、手順を覚えてしまえば手軽に年賀状などの大量印刷ができる機械です。イモでスタンプを作る芋版などが普通だった時代、プリントゴッコの登場は画期的でした。 

それにしても、大ヒットした平成8(1996)年から数えてもまだ35年ですが、とてもなつかしく感じられる方も多いのではないでしょうか?近年のパソコンやプリンター、また印刷技術の発達は、隔世の感があります。

#牛島のフジ がスゴイ件(2)

牛島のフジ(藤花園)の開園日でもあった令和3年4月17日(土) #春日部市郷土資料館 でミニ展示「渋沢栄一もみた春日部の藤」展のミュージアムトークを開催しました。 #かすかべプラスワン

 写真:ミュージアムトークのようす

天気は雨の予報でしたが、多くの方にお集まりいただきました。ソーシャルディスタンス・感染症対策を十分にとった上で、渋沢栄一のこと、牛島のフジのことについての展示解説を聞いていただきました。参加された方からは「藤のトークめっちゃ面白かった!」「来てよかったです」などの感想をいただきました。「特別天然記念物」という冠だけでは語り切れない、牛島のフジの歴史文化について、ご理解を深めていただけたようでした。午後には、市内在住の歴史少年が「徳川昭武知っている!」と話し、熱心に牛島のフジで記念撮影をした写真をみていました。未来の学芸員を目指してほしいものです。トークの後、熱心に質問される方も多く、担当者として充実した一日となりました!

 

さて、一部では好評!?の、牛島のフジがスゴイ件のパート2です。

今日のミュージアムトークでも「これ考えたんですか!?」とお誉めいただきました。今回は、うしじまのふじの、「じ」「ま」について。

 

「じ」人力車・待合茶屋に、お土産でうるおう観光産業

東武鉄道の開通により、一躍有名になった牛島のフジ。最寄り駅が粕壁駅(現春日部駅)であったことから、当時は「粕壁の藤」と呼ばれることが多く、駅から藤花園まで観光客を運ぶ人力車が営業されていました。駅前には、汽車をまつ待合茶屋もありました。お土産は、「藤羊羹」「塩せんべい」。現在でも「かすかべフードセレクション」にも、藤をモチーフにした商品もありますね。その元祖といってもよいかもしれません。

大正12年の粕壁町の旭町を主体として開かれた句会の句集には、次のような句があります。

 付く汽車も又付く汽車も藤見哉 

 新道の普請成り立つ藤の花

花の盛りには、汽車でやってくる客が絶えなかったこと、観光客のため、藤の周辺に「新道」が整備されていったことがうかがえます。多くの方がやってくることで、町のインフラ整備もすすんでいったことがうかがえます。

 

「ま」まちづくりの中核に かすかべisフジ

牛島のフジが有名になる明治も、大正も、昭和も、そして春日部市がまちづくりに活用されはじめる高度経済成長期から現在に至るまで、フジと春日部は切っても切り離せない関係にあります。昭和48年には、市の花にフジが制定され、以後、日本一の規模の藤の街路樹ともいわれる藤通り、藤まつり、藤テラス、藤音頭、マンホールや文化会館の緞帳、市役所の立体駐車場の壁面…

まちのシンボルとして、まちの景観、住民どうしをつなぐイベントのなかに、常に「藤」「フジ」「ふじ」があります。

これも牛島のフジが天然記念物として知られ、明治時代からかすかべの観光産業・町のくらしを支え、町を代表する象徴的な樹木だからです。牛島のフジが春日部のくらし・行政に与えた影響は計り知れないものがあります。まだまだ思わぬところに「フジ」があるかもしれません。まちにある「フジ」の情報をぜひお寄せください。

 

本日より牛島のフジが(藤花園)が開園されました。ミュージアムトークでも「牛島のフジの開花状況は?」と質問され、答えられませんでしたが、開花状況は藤花園のホームページをご覧ください。展示と合わせて牛島のフジもお楽しみください!

(つづく)

#牛島のフジ がスゴイ件(1)

令和3年4月13日(火)から「渋沢栄一もみた春日部の藤」展が始まりました。この展示は、渋沢の足跡をたどりながら、春日部の藤の歴史文化を紹介するものです。#ビビる大木 さん、渋沢センパイは本当に春日部に来ているのですよ!

 写真:展示室の入り口

企画展示室の入り口は、手作りの藤のモニュメントで華やかに彩られました。藤の花言葉は「歓迎」だそうで、ご覧いただく皆さまを歓迎しています。

ところで、展示のための調査・準備の過程で、国指定特別天然記念物「牛島のフジ」が如何に「スゴイ」のかが明らかになってきました。でも、そのスゴさを知らない、気づいていない方も多いようです。

そこで、今回の展示では「牛島のフジがスゴイ件」というリーフレットを制作し、そのスゴさを「う・し・じ・ま・の・ふ・じ」の7文字をとって紹介しています。あいうえお作文です。

画像:牛島のフジがスゴイ件

「う」浮世を忘れさせるフジの聖地

「し」渋沢だけじゃない各界の著名人がやってきた

「じ」人力車・待合茶屋に、お土産でうるおう観光産業

「ま」まちづくりの中核に かすかべisフジ

「の」飲みすぎ注意!酒と料理でおもてなし

「ふ」フジの花房は最大9尺 愛称は「九尺藤」

「じ」地元かすかべの文化的サロン

 

今回は、あいうえお作文の「う」「し」について詳述します。

「う」浮世を忘れさせるフジの聖地

牛島のフジの庭園藤花園内には、紫雲館とよばれた料亭(貸席料理店)がありました。紫雲は藤の花を形容する表現のようで、後に総理大臣となる清浦圭吾(きようら けいご)が名付け、その扁額が飾ってあったそう。紫雲館では、料理が提供され、古利根川で獲れた川魚料理が提供され、「閑雅」な雰囲気だったといいます(小泉一郎『東武鉄道線路案内記』・明治37年刊)。また、最近発見した資料によれば、能登の和倉温泉の鉱泉を引き入れて、薬湯を開き、観藤客やその他一般にも入浴・宿泊できる施設があったとされます(昭和3年「史跡名勝天然記念物調査報告書」・埼玉県行政文書№昭15024)。東京からの訪れた来客は、見事な藤をみながら、日常では味わえない、しとやかで優雅のひと時をおくれたことでしょう。

 

「し」渋沢だけじゃない各界の著名人がやってきた

今回の展示会名称にもなっている、渋沢栄一は、粕壁に用件があった明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞しています。大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、埼玉の偉人とされることから、ご興味を惹かれた方も少なくないようですが、藤をみたのは「渋沢だけじゃない」のです。牛島のフジに訪れた著名人については、以前紹介したことがあります。ただ、これらはほんの一例にすぎません。様々な紀行文や新聞記事を調べると、まだまだ牛島のフジに関する記述がでてきます。

たとえば、明治38年(1905)5月23日には、伯爵会(華族会館に集うサークル)の例会として、華族の松平・徳川・真田などの諸氏が粕壁に遠足し、牛島のフジを鑑賞したそうです(「朝日新聞」明治38年5月25日号)。

牛島のフジは、太宰治(だざい おさむ)「斜陽」にも登場しますが、太宰が訪れたのかはわかっていません。様々な著名人が本当に訪れたのかを知るすべは限られていますが、近代(明治~昭和)の政治家や文化人にとって、牛島のフジは、私たちが思っているよりも有名だったととらえていただいて差し支えないでしょう。

こんな人も来ているという情報をお持ちの方は、ぜひご教示ください。

(つづく)

春日部と俳句 # 桜咲くかすかべ

# 桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。 

4月1日 古利根川 埼葛橋

  古利根川の遊歩道(古利根きらめき通り)には、いくつかの案内板があります。案内板の下半部に注目していただきますと、主に古利根川や春日部にちなんだ俳句が書かれています。すべてが当地で詠まれたものではありませんが、松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子、水原秋桜子、加藤楸邨等々の俳句は、川歩きをする人々へ心の彩りを与えてくれます。

 春日部来訪者で1、2を争う著名人といえる松尾芭蕉(1644~1694)は、同行していた弟子の曽良の日記によると、元禄2年(1689)『奥の細道』の行程で日光道中粕壁宿に一泊したと考えられています(今日は何の日)。芭蕉が当地で詠んだ作品はありませんが、案内板には、大和国で詠まれた「草臥て 宿かるころや 藤の花」が選ばれています。想像をたくましくして、藤の花で有名になった現代の春日部へ、もしも芭蕉が訪れたとすると、このように藤花を愛でて句を詠んだかもしれませんね。

4月1日 古利根川 春日橋方面 

 古利根川と古隅田川沿いを実際に歩いたのは、近代俳句では著名な2人の人物、水原秋桜子(1892~1981)と加藤楸邨(1905~1993)です。旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)へ昭和4年(1929)に新任で国語教師として赴任した加藤楸邨は、中学校の同僚教師に勧められて俳句を始め、安孫子医院(閉院)に月2回ほど東京から往診に来ていた水原秋桜子から俳句の指導を受けていました。句会が終了すると二人は古利根河畔を散歩して、俳句について論じあっていたといいます。加藤楸邨は、昭和12年に辞職し、俳句を志すため大学に進学し東京へと移ります。この間8年、夫人や子供たちとともに、古利根川と古隅田川の河畔を歩いたことでしょう。夫婦で散歩していて、生徒たちにからかわれたというエピソードも伝わっているようです。

郷土資料館第16回特別展パンフレット表紙

 *参考

平成6年 『第8回特別展 春日部ゆかりの文人たち(一)』パンフレット

平成10年 『第16回特別展 近代の俳人たちと粕壁 ~水原秋桜子・加藤楸邨と近代の俳人たち~』パンフレット

平成22年 『第41回夏季展示 俳人 加藤楸邨と粕壁』パンフレット

 

桜がつく地名 #桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

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桜川小学校の桜並木

桜川小学校の桜並木 (2021年3月28日)

 

春日部には、南桜井駅や南桜井小、桜川小など、桜がつく施設名があります。

「南桜井」という言葉は、明治22年(1889)、それまでの下柳村、上柳村、上金崎村、金崎村、西金野井村、大衾村、永沼村の7村が合併して南桜井村となったことによります。昭和29年(1934)に、川辺村、南桜井村、富多村、宝珠花村の4村が合併して庄和村になるまで使われた地名で、現在では、駅名や小学校名に残ります。

この「桜井」は、中世末期ごろから、中川周辺の村々がまとめられて「桜井郷」といわれたことにちなみます。同じく明治22年、春日部市北部から杉戸町、幸手市にかかる細野村、屏風(びょうぶ)村、椿村、深輪(ふかわ)村、倉常村、芦橋村、木崎村の7村が合併した際に、やはり「桜井郷」にちなみ桜井村としました。合併した下柳ほか6村は、この桜井村の南に位置したので村名を南桜井村としました。

桜井村は、現在の越谷市の北部の地区でも、やはり「桜井郷」にちなみ、明治22年に誕生しています。なぜ「桜井」の地名が流行したのか確かなことはわかりません。しかしながら、明治20年代は靖国神社や東京都内の公園などにソメイヨシノが多く植えられた時代だそうです。(佐藤俊樹2005『桜が創った『日本』-ソメイヨシノ 起源への旅 』岩波新書)

春日部や越谷の人も、桜を意識し始めた時代なのかもしれません。

 

ところで「桜川小」の「桜川」は、何がもとになっているのでしょうか。

桜川小学校は、昭和50年(1975)4月、南桜井小学校、川辺小学校の児童増加により、それまで葛飾中学校があった現在の桜川小学校の場所に校舎をそのままに新しく設置され、学校名は、南桜井小の「桜」と川辺小の「川」をとって桜川小学校としました。葛飾中学校は、現在の位置に移転しました。

 桜川小学校新設を伝える広報しょうわ昭和50年2月号

桜川小学校新設を伝える広報しょうわ昭和50年2月号

(クリックすると大きな画像がダウンロードされます)

 

ちなみに、現在の埼玉県内の「桜」がつく地名には、以下のものがあります。(角川日本地名大辞典編纂委員会1980『角川日本地名大辞典11 埼玉県』角川書店)

桜ヶ丘(深谷市)、桜木町(熊谷市、さいたま市、秩父市)、桜沢(寄居町)、桜町(熊谷市、行田市、川口市)

「桜」がつく地名は、意外と少なく貴重です。春日部市の「南桜井」や「桜川」は、現在は地名ではありませんが、♯桜咲くかすかべ には欠かせない名称だと思います。

「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。

3月28日、本来12月に行う予定でした「考古学講座ー権現山遺跡を探る」を開催しました。当日は、あいにくの雨模様でしたが、23名の方にご参加いただきました。

今回の考古学講座では、権現山遺跡の概要をお話ししたあと、実際に権現山遺跡の埋蔵文化財発掘調査報告書をみていただきながら、報告書の構成や図面の見方を説明させていただきました。何人かの方からは、「大変、勉強になった」とご感想をいただきました。

埋蔵文化財発掘調査報告書は、発掘調査成果の基礎的な情報が掲載されています。専門的な用語や図面がならぶので、最初に手に取った際は、なかなか読みにくい内容です。しかしながら、一定のルールに基づいて書かれているので、そのルールを覚えてしまえば、読み解くことが容易になります。

また、発掘調査報告書は、市立図書館や県立図書館、国立国会図書館などで閲覧することができますし、インターネット上で公開されているものや販売されているものもあります。ある遺跡のことをより深く知ろうと思った際には、発掘調査報告書をひも解くのが近道です。

 

考古学講座につきましては、新年度も定期的に開催する予定です。開催のお知らせは、こちらのほごログや広報かすかべでお伝えします。みなさまのご参加をお待ちしております。

 

講座の様子

#企画展 #渋沢栄一 もみた春日部の藤

#春日部市郷土資料館 では、令和3年4月13日(火)~5月2日(日)まで、ミニ展示(企画展)「渋沢栄一もみた春日部の藤」展を開催します。 #かすかべプラスワン

画像:ポスター

チラシはこちら(2.8MB)

市の広報誌4月号の「かすかべ今昔絵巻」でも、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が明治45年(1912)4月28日に牛島のフジを鑑賞したことを紹介しましたが、実は意外と知られていなかったことなので、驚いた方も多いのではないでしょうか。

渋沢だけでなく、跡見花蹊(あとみ かけい・跡見学園創始者)、清浦圭吾(きようら けいご・内閣総理大臣)、徳川昭武(とくがわ あきたけ・徳川慶喜実弟)、田山花袋(たやま かたい・小説家)など、近現代の著名な政治家や文化人も牛島のフジに訪れています。昭武は渋沢とパリに渡欧した人物としても知られていますよね。

この展示では、春日部のフジをめぐる歴史、そして、現代のまちづくりの歴史について紹介します。実は令和2年4月に開催できなかった展示のリバイバルでもありますが、その後、資料調査を進め、内容は少しバージョンアップしています。

今年は、コロナウイルスの影響により、藤まつり、藤テラスといった大型イベントが中止になっています。感染症対策に十分気を付けていただきながら、ご来館いただき、渋沢の足跡や郷土の歴史文化をお楽しみいただければ幸いです。

 

会期:令和3年4月13日(火)~5月2日(日) 開館時間は9:00~16:45

会場:春日部市郷土資料館 企画展示室(教育センター内)

入館料:無料

休館日:月曜日・祝日

関連イベント:4月17日(土)・25日(日)にミュージアムトーク(展示解説)を開催します。両日とも10:30~、15:00~(30分程度。申込不要)

<ご注意ください>

 *新型コロナウイルス感染対策のため、皆さまの入館時にお名前と、連絡先のご記入をお願いしております。

 **展示室内の入館者数の制限(30名程度)をしております。

 ***今後の新型コロナウイルス感染症拡大の動向によっては、展示・イベントが延期・中止となる場合があります。

    市ホームページ、市教育委員会ホームページ、ほごログ等でお知らせします。

 

常設展プチ展示替その2ー貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました

郷土資料館再開にあわせ、先日、考古遺物の展示コーナーに、春日部市指定文化財の貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦(かいのうちいせきしゅつどしもうさこくぶんじのきひらがわら)を展示しました。

この瓦については、以前にもほごログでとりあげました。平成4年(1992)に行なわれた調査で発見された、下総国分寺で使われた瓦と同じ文様をもつ瓦です。

展示をご覧いただく際の注目ポイントは、上部表面の布目(ぬのめ)です。この瓦は「1枚作り」という技法で作られています。上部に凸部をもつ木製の台の上に粘土の板をのせ、上から木の板でたたきます。そうすることで、湾曲したしまりのある瓦をつくりあげています。台の上に粘土をのせる際、粘土と木製の台の間に布を敷きます。これは粘土を木製の台から離しやすくするためですが、その布のあとが、瓦の凹面についています。

 瓦作りの技術は、仏教の伝来とともに、6世紀ごろ、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わりました。瓦ぶきの建物を建設するために、大量の瓦を生産する必要があることから、「1枚作り」や「桶巻きづくり」といった技法が用いられました。

ちなみに軒平瓦の文様(もんよう)の部分は、本体部分とは別に作成し接合しています。文様は、削り出した木製の型を使って付けられています。貝の内遺跡出土瓦の文様からは、型にキズがあることが想定でき、下総国分寺で出土しているものと共通しています。

下総国分寺は、現在の市川市にありました。なぜ、市川市から遠く離れた貝の内遺跡で下総国分寺軒平瓦が出土したのかなど、まだまだ謎が多く、研究の余地が大きい瓦です。ぜひ資料館でご見学ください。

古代の展示ケース

展示ケースに貝の内遺跡出土下総国分寺軒平瓦を加えました。

瓦の布目

瓦についた布目

 

参考文献

潮見浩 1988 『図解 技術の考古学』有斐閣選書

【3月27日】 #今日は何の日? in春日部

今から332年前の3月27日(旧暦)は、元禄2年(1689) #松尾芭蕉 が #春日部 に宿泊した日です。 #かすかべプラスワン

3月27日の明け方、江戸深川を出立した、松尾芭蕉は、弟子の河合曽良(かわい そら)とともに春日部に宿泊します(といっても、3月27日は旧暦。令和3年の暦では、5月8日にあたるようです)。

弟子河合曽良が残した「曽良日記」には、「一(ひとつ)、廿七日夜カスカヘニ泊ル、江戸ヨリ九里余」(原文は読点なし)とあります。「廿七日」は27日です。「奥の細道」の旅の一泊目の地は「カスカヘ」だったことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

曽良の「随行日記」により、春日部に宿泊したことが広く知られるようになりましたが、実は「カスカヘ」のどこなのかは依然として謎です。一説には、粕壁の東陽寺に宿泊したといわれ、境内には「随行日記」の一説を刻んだ石碑が建てられています(現代に建てられたものです)。もう一つよく言われるのが、小淵の観音院に泊まったのではないかという説です。これは、境内に芭蕉の句碑が建てられていることを根拠として唱えられるものです。句碑には「ものいへば 唇さむし 秋の風」と芭蕉の句が刻まれていますが、建立年代などの銘文がなく、いつ誰が建てたのか不明でした。

最近、各地の芭蕉墳(句碑)を紹介する「諸国翁墳記」(しょこくおきなづかのき)という近世中ごろに出版された本に、観音院の句碑のことが記されていることを見出しました。ここには「はせを墳 日光道中糟壁杉戸間 小淵村観音仁王門前 葛飾老茄園四世不牛建 ものいへは 唇寒し 秋の風」と記されています。観音院の句碑が、葛飾老茄園四世不牛という人物により建てられたことが判明したのです。この人物は、不牛ではなく、正確には「不干」(ふかん)と名乗り、内牧村南蔵院の修験者であり、文化・文政期を中心に俳諧を能くした葛飾蕉門の俳人でもありました。彼は、文化12年(1815)3月に葛飾蕉門(かつしかしょうもん)の名跡である老茄園を継いでいますので、この句碑が建てられたのは文化12年以降ということになるでしょう。

というわけで、観音院の句碑も、松尾芭蕉が観音院に宿泊したという決定的な証拠にはならないということになります。ただし、芭蕉の句碑は芭蕉を慕った津々浦々の人々によって、ゆかりの地などに「墳」(墓)とみなすものとして建てられ、碑とともにゆかりの品を埋納することもあったようです。観音院はどうだったのか、謎はますます深まるばかりですが、春日部市内のどこかに泊まったことは間違いないと思います。

 

前置きが長くなりましたが、長い臨時休館の間に収蔵資料を再整理する機会に恵まれ、館蔵のなかにも松尾芭蕉ゆかりの資料があることがわかりました。2つあるのですが、今回はその1つを紹介。

 写真:芭蕉句碑拓本

この軸は、荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社に建てられている碑文の拓本です。碑文には、「奥の細道」の矢立はじめの有名な一節、芭蕉の座像が刻まれています。文政3年(1820)10月12日に芭蕉忌に際して、書家として著名な亀田鵬斎(かめだ ほうさい)が銘文を、千住宿の文人建部巣兆(たけべ そうちょう)が座像を手がけたものです。この石碑は、現在は剥落がひどかったため、平成7年に復刻されているそうです。

碑文は、欧米では「フライング・ダンス」と称される、鵬斎独特の空を舞うような字体で書かれます。収蔵資料にも鵬斎書の薬種問屋の看板があります。石碑には、次のように書かれています。

「千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみだ

 行はるや鳥啼き魚の目ハなみたをそゝく   はせを翁

 巳友巣兆子翁の小影をうつし

 またわれをしてその句を記せしむ 鵬斎老人書」

 

この拓本は、近世中期に地域の俳人として活躍した石井文龍(ぶんりゅう)を輩出した家に伝来したものです。文龍は、葛飾蕉門の門人となり、寛政10年(1798)に二世「宜春園」の名跡を継いでいます。文政2年(1819)74歳で亡くなります。この拓本・軸は、直接文龍に関わるものではないようですが、「カスカヘ」に泊まった芭蕉の足跡や、後の蕉風俳諧の流行を伝える資料といえるでしょう。常設展示にすぐにでも出したいのですが、展示のスペースがないのが残念。

いつか、原物をご覧いただける機会を設けたいと思います。

  

参考文献 齊藤諒「『諸国翁墳記』研究ー諸本の出版年代について」『東洋大学大学院紀要』52、2015年

古利根~3つの名前を持つ河川~ # 桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。

3月24日古利根川・埼葛橋

 

「古利根川(ふるとねがわ)」。

 何ともノスタルジックな名前です。語義の通り、‘古い利根川’という意味です。利根川の変遷については、以前このブログで簡単にお話いたしました(春日部 利根川紀行)。

 いったいいつから「古」となったのか、庄内古川の整備や江戸川の誕生など「新利根川」の誕生と関連があると思われますが、はっきりとした年代はわかっておりません。ただし通説では、上流に土手を築きしめ切ってしまうことで古利根川が利根川本流から切り離されていったのは、戦国時代末から江戸時代前期にかけての時期であると考えられています。

 さて、この古利根川、国土地理院の地図を見ると「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」と書かれています。また、別名「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。古利根川の名称については、よく皆さまからご質問を受けますので、ここで簡単に説明いたします。

 大落古利根川は、「大落」と「古利根川」の2つの名前を一括りにしたものです。「大落」とは、大きな落とし水、すなわち農業排水路のことです。江戸時代には「悪水路」とも呼ばれました。具体的には、江戸時代以降の河川改修により、古利根川は、騎西領、羽生領、向川辺領(いずれも、現加須市・羽生市・久喜市付近)の水田の落とし水(農業排水)を集めて水源としていたことから、「大落堀」と呼ばれていました。

 「古利根川」はかつての利根川という意味ですが、正確にいつから「古」になったのかは、先述のように不明です。

 一方で、古利根川は「葛西用水(かさいようすい)」とも呼ばれています。聞きなれない方も多いと思いますが、「葛西用水」は、本来は、現葛飾区・江戸川区などにあたる葛西地域の水田へ、農業用の水を供給するため整備された農業用水路です。川俣(現羽生市)で利根川から水路を引き込み、はるばる東京の農地まで水を供給していました。春日部付近では、古利根川は長大な葛西用水の一部分として利用されていました。

 春日部から下流に行くと、松伏溜井(まつぶしためい 現松伏町・越谷市 古利根堰)というダムがあり、夏季には用水を貯水していました。今でも夏季に古利根川の水位が上がるのは、このためです。こうした葛西用水の体系が確立したのは、江戸時代中ごろ、享保期のことでした。

 このように、春日部付近の古利根川は、かつての利根川であり、上流からの農業排水路であり、下流への農業用水路でもあり、用水を確保するための貯水ダムでもありました。古利根川が持つ3つの名前は、こうした川の由来や機能を表したものなのです。

3月24日古利根川・春日橋と古利根公園橋方面

*参考 平成13年『第23回特別展(合同葛西用水展)古利根川の歴史と文化』パンフレット

 

再開初日。常設展プチ展示替

令和3年3月23日より、 #春日部市郷土資料館 が再開しました。 #かすかべプラスワン

再開初日、さっそく団体見学のお客様がお見えになり、約3か月ぶりに展示室がにぎわいました。

写真:団体見学の様子

 

再開初日から常設展示もプチ展示替。

テーマは「遺らなかったかもしれない歴史~襖下張り文書の世界」と題して、収蔵資料の襖下張り文書(ふすましたばりもんじょ)を紹介しています。

昨年10月に福島県いわき市の方から電話をいただいたことが、この展示替のきかっけです。その方によれば、いわき市内の親戚の家を解体した際、襖の下から古文書が出てきたといいます。字は筆で書かれていてよく読めないが、「粕壁町」と書いてあるものが多いので、春日部市の郷土資料館に寄贈したいと申し出ていただきました。郵便で送付いただいたところ、粕壁町の公印や、町役場の罫紙を使用したものが多く、大半は明治時代の粕壁町役場の文書であることが判明しました。

紙が貴重だった時代、屏風や襖は、元の役割を終えた書類を再利用した反故紙(ほごし)が下張りに使用されました。下張りに使用されなければ、この世には存在しない「遺らなかったかもしれない歴史」だったかもしれません。

寄贈していただいた襖の下張りには、粕壁町の文書のほか、須賀村(現宮代町)役場のものや、福島県内の文書も混じっていました。おそらく、粕壁町や埼玉県内のくず紙が福島県方面に流通し、福島県の経師屋(きょうじや)によって襖が仕立てられたものと考えられます。寄贈していただいた方は、下張りをみて「貴重な史料だ」と思い、一枚一枚丁寧にはがしたそうです。「郷土の歴史のために地元で役立ててほしい」とメッセージをいただきました。

今回のプチ展示替は、福島県から届いた熱い想いをみなさんにご披露するものです。下張り文書は断片的で、ちょっとマニアックですが、これまでわからなかった歴史の一端を確実に伝える貴重な資料です。

写真:展示の様子

暖かくなり、古利根川や粕壁宿の町並みを散策される方も増えてきているようです。町並みを散策される前に、郷土資料館にお立ちよりいただければ、まちの歴史や文化を知ってプラスワンな散歩になるのではないでしょうか。ぜひご覧ください。

令和3年3月23日から郷土資料館を再開します

新型コロナウィルス感染拡大防止のため令和3年1月4日から臨時休館していましたが、十分な感染症対策を行った上で、令和3年3月23日から開館します。

なお、体験コーナーは一部利用できません。

 

3月28日(日)10:00から(当初予定12月26日(土)の振り替え)の考古学講座「権現山遺跡を探る」は、予定通り実施します。

春日部 利根川紀行 # 桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。 

 

古利根川 桜(つぼみ)と埼葛橋

 

 春日部には、北から南に古利根川(ふるとねがわ)、庄内古川(中川)、江戸川が流れており、私たちに水の恵みをもたらしています。

 こうした河川は、少なくとも歴史時代にはいずれも利根川であり、特に戦国時代の末から江戸時代の初めころ、おおよそ400年前ごろに行われたといわれる河道変更によって、利根川は銚子(現千葉県)へと流れるようになりました。庄内古川、江戸川は、いずれも利根川と称されていた時期があったようです。江戸川は、当初「新利根川」ともいわれていました。

 また、利根川が国境であったことの名残りとして、武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)の国境、埼玉郡と葛飾郡の郡境は、時代によって変化していきました。

 

春日部市内の河川略図

 

  今日、桜を愛でることができる古利根川や古隅田川(ふるすみだがわ)は、古代・中世には利根川・隅田川であったと考えられています。当時の利根川は小渕付近で西側に折れ、おおむね現在の古隅田川筋を流れて、岩槻(現さいたま市)方面の元荒川へ流れていたと想定されています。今私たちの見る古隅田川の流れと真逆ですね。

 この古隅田川や古利根川が国境・郡境であったことは、南北朝時代と室町時代の古文書で確認できます。約700年前、今の粕壁地区付近は春日部郷といわれており、市域の大半は下総国に属していました。江戸時代には、庄内古川(中川)を境に武蔵国に変わっています。

  春日部では、このように時代によって違っていた利根川をまとめて見られます。川沿いにお花を見ながら、利根川の悠久の歴史を感じていただけると幸いです。 

*参考 平成7年『第11回特別展 埼葛の歴史』展パンフレット

    平成26年『第49回夏季展示 江戸川』展パンフレット     

川沿いの桜 #桜咲くかすかべ

#桜咲くかすかべ

郷土資料館では、「桜咲くかすかべ」に協力しています。 

河川や水路が多い春日部市では、水辺に沿って桜が植えられ、お花見スポットになっている場所が多くあります。平成7年刊行の『春日部昔むかし』では、季節行事の「花見」の紹介にあたり、俳句の巨匠、加藤楸邨が句を詠んだ古利根川と古隅田川の合流地点のほか、古利根川の藤塚橋付近、八幡橋付近、古隅田川の南栄町付近を桜がみられる場所としてとりあげています。平成17年に庄和町と合併した現在では、庄和道の駅さくら公園から始まる庄内領悪水路沿いの桜並木も、川沿いの人気がある桜スポットです。

 

ところで、市内の川沿いの桜はいつ頃植えられたのでしょうか?過去の広報をひも解いてみました。植えられた時期が広報からはっきり読み取れたのは、「藤塚橋付近の桜」と、「庄内領悪水路沿いの桜」で、いずれも昭和60年であることがわかりました。

 広報かすかべ昭和60年5月号

 広報かすかべ昭和60年5月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)

「藤塚橋付近の桜」は、記事に「桜並木を復活させよう」とあるので、新しく植えなおしたことがわかります。

広報庄和平成4年3月号

 広報しょうわ平成4年3月号(画像をクリックするとPDFがダウンロードされます)

 

 このほか、「古隅田川と古利根川合流地点の桜」は、古隅田川沿いと最勝院境内に、昭和29年の市制施行を記念して当時の商工会によって「観光桜」として植えられたものもあるそうです。(「かすかべ市議会だより」第28号 昭和52年5月)現在は、合流地点の桜は無く、十文橋西側の最勝院から春日部中学校裏に巨木が残ります。

古隅田川合流点の桜(平成4年ごろ_古隅田川土地改良区記念誌)

古隅田川合流点の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)

十文橋西側の桜(平成4年ごろ_古隅田川土地改良区記念誌)

十文橋西側の桜(平成4年ごろか、古隅田川土地改良区記念誌)

 

「南栄町の古隅田川沿いの桜」は、内牧工業団地が昭和46年竣工なので、そのころに植えられたものでしょうか。

その他の桜は、植えられた年代がはっきりしません。しかしながら、広報をみていると、昭和62年に市民の方が「春日部には珍しい花見に出会いました。」(広報かすかべ昭和62年2月号)という文章を写真とともに寄稿しています。現在のように、市内のいたるところで桜の花がみられるようになるのは、意外と最近のことのようです。

ちなみに桜は樹齢約50年たつと、木の高さ約15m、幹の直径が約80㎝になるそうです。

 

この春は市内で、川沿いの風情ある立派な桜をどうぞお楽しみください。

 

参考文献 

古隅田川土地改良区 1992 『古隅田川土地改良区記念誌』

臨時休館延長のお知らせ

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火曜日)から3月21日(日曜日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(3月7日までとしていたものを延長します。)休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、3月22日(月曜日)は通常の休館日です。今後の新型コロナウィルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を変更する場合があります。ご理解、ご協力をお願いします。

休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。

休館に伴い、下記のイベント、講座は中止します。

3月13日(土)・27日(土)古文書講座初級編・中級編

3月21日(日)体験ワークショップ 蓄音機で音楽を聴いて昔のおもちゃを作ってみよう

第37回小学校地域学習展「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」(会期 令和3年3月21日(日)まで)

【出張授業】「でばりぃ資料館」in備後小学校

令和3年3月4日(木)に備後小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

備後小学校では教室、低学年学習室、高学年学習室の3つの教室を利用して、それぞれ「60年前の春日部+昔の学校の道具」「昔の家の道具」「昔の農業」のコーナーを展開して開催しました。

 

60年前の春日部+昔の学校の道具コーナー

「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーでは、近年と60年前の航空写真を用いて、現在の備後小学校の周りやイオンの周辺が、60年前にはどうなっていたかなどを比較しながら学習しました。

 

昔の家の道具写真

昔の家の道具コーナー

こちらは「昔の家の道具」コーナーです。

児童には黒電話や手回し洗濯機がいつも人気なのですが、アンケートを見ると意外にも「火のし」が印象に残ったと書いてあることも多いのです。「火のし」は穴に木炭を入れて金属部を熱し、現在のアイロンのように布のしわ伸ばしに使われていた道具です。

上の写真の左から2番目の道具が「火のし」なのですが、水をくむための柄杓にみえるという児童が多いようで、アイロンと同じ役割だったという意外性が印象に残るようですね。

 

昔の農業コーナー

「昔の農業」コーナーでは昔の米作り体験です。

稲の状態から手作業で玄米・白米にするには昔はどのようにしていたかを説明し、千歯扱きを使った脱穀体験や、籾摺り・米つき作業を簡易的に体験をしてもらいました。

 

「でばりぃ資料館」はまだまだ受付可能となっております!

早いもので今年度も残り1か月となり、学校の方も年度末で忙しい時期かとは思いますが、お電話と簡単な書類のやり取りのみで大掛かりな準備をしていだだく必要はございませんので、ぜひともご用命ください!

 

【出張授業】「でばりぃ資料館」in中野小学校

令和3年2月26日(金)に中野小学校へ出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

中野小学校では図書室を利用して「昔の家の道具」「昔の農業」の2コーナーを、3年生の各教室を利用して「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーを展開して開催しました。

 

昔の道具コーナー写真

図書室の「昔の家の道具」コーナーですが、道具のみならず、60年前・80年前の小学3年生の平均身長と比べられるパネルも持っていきました。背比べをしてみると、パネルよりやや大きい児童が多いようですね。

 

昔の農業コーナー写真

「昔の農業」コーナーでは、昔の米作り体験をしました。

説明の中で現代の米作りについて触れる部分もあったのですが、すでに学習済みの内容を含んでいるため、思い出してもらって復習することもできました。

でばりぃ資料館も開催後にアンケートをお願いしているのですが、やはり一度学習したことを思い出すことで記憶や知識の定着に繋がるので、復習する機会を与えることも大切にしていきたいと思っております。

 

昔の学校の道具コーナー写真

教室での「60年前の春日部+昔の学校の道具」コーナーは、2時間目は3年2組、3時間目は3年1組、といった具合で休み時間に資料を移動させて各教室で開催しました。

教室を活かして黒板に板書しながら解説し、耳から聞くだけでは頭で整理することが難しいことも、黒板に書いてあることで理解しやすくなったようです。

 

先生方からも「見学に行くのと違い、資料館が出張に来てくれることで、次の時間の授業がすぐに始められる」など感謝の言葉もいただき、ありがたい限りです!

コロナの関係で学校としても授業時間の確保が難しいことかと思います。だからこそ、“1時間でできる資料館体験”「でばりぃ資料館」をぜひご活用ください!

 

【出張授業】「でばりぃ資料館」in川辺小学校

令和3年2月19日(金)に川辺小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

川辺小学校では図書室を利用して「昔の家の道具」「60年前の春日部+昔の学校の道具」の2コーナーを、生活科室を利用して「昔の農業」コーナーを展開して開催しました。

 

昔の学校の道具展示写真

図書室では机を移動していただき、空きスペースに60年前の春日部の航空写真を、移動した机をそのまま昔の学校の道具の展示台として活用しました。

今の児童が使うノートは紙でできていますが、昔は石板(せきばん)といって、まるで小さな黒板のようなものでした。石板は一回一回消しながら使うので、記録として残すことができず、復習をするのが難しかったかもしれません。

 

昔の家の道具展示写真

こちらも図書室です。長机をご用意いただき、昔の家の道具を展示・解説しています。

児童は職員の解説で印象に残ったことをメモしながらしっかり聞いていました。

自由時間になると、手回し洗濯機や黒電話など、回して体験できるものが大人気でした。

 

昔の農業体験写真

昔の農業は生活科室で体験しました。

児童からは「昔の苦労を知った」「こんなにいろいろ体験できると思わなかった!」という声が聞こえ、学習効果も満足度も高かった様子でした。

 

ありがたいことに、各学校から「でばりぃ資料館」のご予約を次々にいただいております!

体育館や、空き教室を3つご用意いただくのが難しい場合でも、今回のように、図書室などの広めの特別教室で2コーナーを展開して行うことも可能ですので、ぜひご相談ください!

資料も出張って活躍しています

先日、緑小学校では、1年生の国語「たぬきの糸車」の学習が行われました。子どもたちは、実物の「糸車」をみて、昔のくらしを想像しながら、楽しく作品の理解を深めてもらえたとのことです。

「でばりぃ資料館」が徐々に浸透・定着しつつあり、大変ありがたいことに、各学校に職員がお邪魔することが続いています。今回、緑小に出張ったのは「糸車」です。職員は付添いませんでしたから、いわば「糸車の一騎がけ」です。

意外と知られていないようですが、郷土資料館では、「糸車」のみならず、各種資料の貸し出しも(細々と)やっております。

「郷土資料館は狭くて展示資料も少なく活かせるものがないよ」とお思いの先生方もいらっしゃるようです。実は郷土資料館には展示室よりも広い収蔵庫には未だ展示しきれない資料が山ほどあります。なかには、学校の教材用としてご寄贈いただいたものもあります。詳しくは、ホームページの「学校の先生方へ」「学校教材用貸出リスト」をご覧いただきたいのですが、ここに掲載している資料だけではなく、多彩な資料が本当にまだまだたくさんあります。たとえば戦時期の資料でも、海軍帽、配給切符、訓練用の手りゅう弾、出征時のタスキ・日の丸寄せ書き、軍の水筒、慰問の手紙、千人針などなど(ホームページの更新が望まれるところですね)。

写真:戦時期の資料

学校にお邪魔して感じるところですが、子どもたちの成長過程や様子がわからず、不慣れな私どもがゲリラ的に授業をするよりも、先生方が資料を自在に自由に扱って授業を組み立てたほうが効果的な学習になるのではと思ったりもします。

学芸員や資料館が主たる「博学連携」は、とかく社会科学習に偏る傾向があります。資料館には「たぬきの糸車」のように様々な教科にもご活用いただける資料がまだ眠っています。そういう意味で、郷土資料館の潜在能力は未知数だと思います。私たちが思ってもみない資料の活用を提案・実践されることを期待しています。気軽にご相談いただければ幸いです。

【出張授業】「でばりぃ資料館」in桜川小学校

令和3年2月16日(火)に桜川小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

でばりぃ資料館は、5つのテーマの中から学校の要望に合わせて3つを組み合わせて展示・解説を行う方式が基本の形です。

今回は、「60年前の春日部」「昔の家の道具」そして「昔のおもちゃ体験」を選んでいただきました。“おもちゃ”と聞くと、学習として活用しにくいと思われがちですが、実は児童自身が自分の経験と一番照らし合わせ易く、今と昔の違いを感じるにはもってこいのテーマといえるのです。

 昔のおもちゃブース写真

 

桜井小の先生は昔のおもちゃブースを見て、「これがもう資料なんですね」と呟いていました。

お気持ちよく分かります(笑)

 

全体解説写真

今回は体育館での開催です。約60年前の道具と、今の家庭で使用している道具を比べて、機能や形状の違い、また動力の違いなどを解説しました。

 

昔の家の道具ブース写真

昔の学校の道具ブース写真

紙鉄砲製作写真

車のトランクに若干の余裕があったため、昔の学校の道具も持って行かせてもらいました。

また、昔のおもちゃブースでは、学校でご用意いただいた新聞紙を使い、「紙鉄砲」の製作体験をしました。

今は遊びといえばもっぱらテレビゲームという児童も多いですが、からくりおもちゃを触ると大興奮!アナログなおもちゃにも子供心をくすぐる要素はたくさんあるものです。

 

賑やかでとても楽しそうな姿が印象的な桜川小学校3年生でした!

 

『でばりぃ資料館』のご予約はまだまだ受け付けております。新型コロナウイルス感染拡大防止対策をして開催いたしますので、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!

エア博物館 ぬりえがふえました

#エア博物館 #おうちで博物館 #ぬりえ

きょうどしりょうかんの、ぬりえがふえました。

おうちで、ぬりえをたのしんでください。

エア博物館 おうちでぬりえをしませんか(これまでのぬりえはこちら)

 

くりっくすると、PDF(ぴーでぃーえふ)ふぁいるをだうんろーどします。いんさつして、つかってください。

 

20神馬貝塚のくらし20神明貝塚のくらし

 

21神明貝塚と水辺のようす21神明貝塚と水辺のようす

 

22東中野の獅子舞22東中野の獅子舞

 

23西金野井の獅子舞23西金野井の獅子舞

 

24榎の囃子神楽24榎の囃子神楽

 

25倉常の神楽囃子25倉常の神楽囃子

 

26西金野井香取神社本殿26西金野井の香取神社本殿

 

27五ヶ門樋27五ヶ門樋

 

【出張授業】「でばりぃ資料館」in南桜井小学校

 

令和3年2月5日(金)及び2月9日(火)に南桜井小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

今回のでばりぃ資料館は、なんと2日間開催!

1日目の2月5日には各クラスで航空写真や古写真を利用しながら、昭和時代の南桜井小学校周辺について学びました。

 

南桜井小出張授業風景

昭和前期の小学校の写真をみて、今と違うところを探してもらうと、建物の作りが現在と異なることや、服装・髪型の違いに気づき、とても驚いた様子。さらには、その写真が昔の南桜井小学校だと知ると、「えっ!?えっ!?」「これが!?」と大盛り上がりでした。

また、昭和40年の南桜井駅の写真では、駅舎に2階がなく、階段を上って別のホームに行くことができないことに注目してもらい、実は昔は反対のホームに行くには電車が来ていないときに線路を渡って反対側のホームに行っていたことなど、今の暮らしと比較しながら学んでもらいました。

 

2日目の2月9日には体育館で昔の暮らしや道具について解説を行い、その後、児童が4つに分かれた展示エリアを自由に見学しました。

昔の学校の道具ブース

こちらはでばりぃ資料館では今回が初出展となる昔の学校の道具ブースです。

教科書やランドセルの大きさが今とは異なります。また、昔の小学1年生の教科書はひらがなではなく、カタカナから習っていたことに驚いた様子でした。

読んでみて、触ってみて体験型の学習ですね!

 

昔の農業ブース

昔の春日部航空写真

昔の家の道具ブース

ちゃぶ台の前では「ご飯だよ~」という声が!

昔の雰囲気・・・出てます!(笑)

 

南桜井小学校では2時間いただけたことで、より時間をかけてじっくりと学んでもらえたかと思います。

私たちも、毎回反省を重ねながら、よりよい資料館体験をしてもらえるよう思案しております。そのせいか、回を重ねる毎に少しずつ持ち運ぶ教材が増えていき、移動用の車に乗せることが困難になってきました(苦笑)

 

今回はテレビや新聞の取材もあり、コロナの中でも試行錯誤して教育を進める学校や行政の取り組みを紹介する良い機会となりました。

 

『でばりぃ資料館』のご予約はまだまだ受け付けております。新型コロナウイルス感染拡大防止対策をして開催いたしますので、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!

臨時休館延長のお知らせ

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火曜日)から3月7日(日曜日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(2月7日までとしていたものを延長します。)休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、3月8日(月曜日)は通常の休館日です。今後の新型コロナウィルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を変更する場合があります。ご理解、ご協力をお願いします。

休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。

休館に伴い、下記のイベント、講座は中止します。

2月13日(土)古文書講座初級編・中級編

2月20日(土)体験講座「縄文土器から音楽を作るチャレンジ」

2月21日(日)体験ワークショップ 蓄音機で音楽を聴いて昔のおもちゃを作ってみよう

大衾(おおぶすま)って珍しい地名!?

言葉に地域差があるのと同様に、漢字にも特定の地域だけで通用する「方言漢字」がある

と紹介する『方言漢字 埼玉県編』(リーフレット)に、市内の地名「大衾」(おおぶすま)が紹介されました。

画像:方言漢字リーフレット

このリーフレットは、「八潮の地名から学ぶ会」という団体が発行するもので、県内で使用される「方言漢字」を紹介するものです。

同会によれば、「衾」のつく地名は県内でも数例あるそうですが、住居表示では「春日部市大衾」が県内唯一だそうです。

大衾の地名の由来については、つまびらかでありませんが、一説には「フスマ」は「フシミ(伏見)」と同語で、「フシミ」とは「うつみて見ること」。大衾は、下総台地から中川低地を見下ろすことのできる傾斜地なので、「大衾」と名付けられたといわれています(埼玉県地名誌)。

「大衾」の意味の真偽はともかく、地名がその土地の風土・環境、歴史・文化を体現していることは、いうまでもありません。そういえば、以前「中央」という地名がつくられ、古い地名が失われたことを紹介しました。

『方言漢字 埼玉県編』を発行された同会は、地名は土地の記憶であり、地域固有の宝、まちづくりに活かせるのだと提唱され、幅広く活動されています。このたび、同会のご厚意により『方言漢字 埼玉県編』をお分けいただき、郷土資料館に配架させていただくことになりました(なお、現在、郷土資料館は臨時休館中ですので、入り口付近のチラシラックに配架しています)。

ご興味がある方は、無料で配布していますので、ぜひお手にとってご覧ください。一風変わった「方言漢字」や珍しい地名が、県内でも多用されていることに驚かされますヨ。

【出張授業】「でばりぃ資料館」in牛島小学校 4年生

令和3年2月3日(水)、牛島小学校に出向き、第4学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 写真:牛島小4年授業

今回のでばりぃ資料館は、社会科の県内の伝統・文化を学習する単元にお邪魔して、市内に伝わる古い建物や民俗芸能などを、写真や映像をつかって紹介しました。

 

授業では、まず、牛島小学校周辺のお寺や神社について、お寺と神社って何が違うのか、身近な寺社にも古くから伝わる貴重なモノが遺っていることを紹介しました。牛島に所在する女体神社や宝光院は通学路や家の近所の子どもたちが多くいました。女体神社は、なぜ女体という名前が付けられているか、よくわかっていないと話すと、自分たちで調べてみたいと話す子どもたちもいました。

つづいて、市内に伝わる獅子舞や神楽、指定文化財の建造物を紹介。市内とはいえ、いったことも聞いたこともない地区に伝わる文化財でも、郷土かるたの絵札になっているため、知っている子たちも多くいました。授業では、不動院野の神楽や倉常の神楽囃子のDVDを鑑賞し、長い年月をかけて、地域の人たちが伝えてきた民俗芸能の様子も見てもらいました。

写真:牛島小4年授業

こうした伝統的な民俗芸能、古い建造物であっても、失われてしまったものもあることを紹介しました。下の写真の下蛭田の獅子舞は、豊春地区の下蛭田に伝来した獅子舞でしたが、昭和39年(1964)を最後に舞われることはなくなり、平成6年(1994)に一度復活しましたが、現在では行われていません。なくなってしまったことは、誰かが悪いわけではなく、みんなの関心がなくなったり、価値を知らない人が増えたためです。失われていく文化財がある話題は、子どもたちにとって少しショッキングだったようです。

写真:下蛭田の獅子舞

講師となった学芸員は、最後に「地元に獅子舞や神楽、古い建造物等があることを知り、興味を持ち続けてもらうことが、未来へと地域の文化を守り、伝えていくことになる」、と文化財保護課の職員らしいメッセージを伝え、授業を終えました。

少し難しかったかもしれませんが、「楽しかった」とか「詳しく調べてみたい」と話す子どもたちもおり、地元を見つめなおすきっかけになったのならば幸いです。

今回は、4年生の社会科の授業にお邪魔しましたが、新型コロナウイルス感染拡大防止対策をとったうえで開催いたしますので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!

【出張授業】「でばりぃ資料館」in幸松小学校

令和3年2月2日(火)に幸松小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

今回のでばりぃ資料館は、図書室で「60年前の春日部」、幸松ルームで「昔の家の道具」、理科室で「昔の農業」とテーマを分けて行いました。

使用する教室が3つとも特別教室なこともあって、児童もちょっといつもと違う気分で授業を受けられたのではないでしょうか。

 幸松ルームは、幸松小学校がある地区の由来や古写真、歴史、伝説を紹介している、幸松小学校のオリジナルルームです。郷土資料館でお手伝いさせていただいて、平成27年(2015)に郷土資料室として整備いたしました。昔のコメ作りや生活の道具などの実物の資料も展示してあり、大人の方でも楽しめる部屋です。

60年前の春日部授業風景

60年前の春日部がテーマの図書室では、巨大航空写真や昔の春日部の風景写真だけでなく、人口データなどの数字も用いて、今と昔を比較しながら学習しました。

 

昔の家の道具授業風景

昔の家の道具がテーマの幸松ルームは郷土資料室として数多くの民具を設置してあり、今回、郷土資料館から手持ちした昔の民具も合わせて見どころたっぷりの教室になりました。

 

昔の農業授業風景

昔の農業がテーマの理科室では、機械化以前の米作りについて、どんな道具を使って米を白くしていたかを職員が説明しました。体験も取り入れて、頭だけでなく体も使って学んでもらいました。

 

児童に伝えたいことがたくさんあり、どうしても時間が足りなくなってしまうことも多いのですが、限られた時間でも工夫して学びを深めてもらえるよう、私どもも努力してまいります!

 

でばりぃ資料館をご利用いただいた学校には、児童へのアンケートのご協力をお願いしているのですが、アンケートには「また来てほしい」「資料館にも行ってみたい」という声も多数いただきました!

新型コロナウイルス感染拡大防止対策をとったうえで開催いたしております。まだまだ受付中ですので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!

 

 

 

【出張授業】「でばりぃ資料館」in牛島小学校

令和3年1月27日(水)に牛島小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

 

今回のでばりぃ資料館は、教室で「60年前の春日部」、学習室1で「昔の家の道具」、学習室2で「昔の農業」とテーマを分け、3つの教室を使用し、児童がグループ毎に巡回する形式で開催しました。

 

「60年前の春日部」授業風景

60年前の春日部がテーマの教室では、航空写真を観察し、目印になるポイントにシールを貼りながら、当時の春日部市域の様子を学びました。

 

「昔の家の道具」授業風景

昔の家の道具がテーマの学習室1では、今ではほとんど目にする機会がなくなった“火のし”や、“黒電話”など、懐かしい家の道具を展示しました。

大人が見たら懐かしい道具も、児童にとってはむしろ新鮮に感じられたようです。

各学校に配布させていただいた「たんけんシート」で、しっかりと学びも深めてくれました。

 

「昔の農業」授業風景

昔の農業がテーマの学習室2では、稲についた籾の状態から手作業で白米にする体験を行いました。本来の精米の工程で使用していた道具とは異なる道具を使用していますが、体験をすることで、楽しさと昔の苦労も感じ取ってくれました。

 

各教室で体験を終え、満足そうに教室を出ていく児童を見ると、私どもも“来てよかったなぁ”と心から思います♪

 

現在、郷土資料館は臨時休館中ですが、ありがたいことに『でばりぃ資料館』のご相談をたくさんいただいております!今回はミニコミ誌の取材もあり、これから話題沸騰の予感です!

新型コロナウイルス感染拡大防止対策をとったうえで開催いたしますので、各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!

 

【出張授業】「でばりぃ資料館」in八木崎小学校

令和3年1月22日(金)に八木崎小学校出向き、第3学年の児童に向けた、『でばりぃ資料館』を開催しました。

ちなみに、『でばりぃ資料館』とは、郷土資料館での展示や体験をお届けする出張授業のことです。

 

体育館換気中

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、室内の換気、マスクの着用、適宜手指の消毒を行いながら授業をしました。

 

八木崎小学校出張授業風景

授業の前半は学芸員が児童全体に向けて昔の暮らしや道具について解説を行い、後半は児童が3つに分かれた展示エリアを自由に見学しました。

 

千歯扱き風景

千歯扱きによる脱穀や、手作業での精米体験、約60年前の春日部を映した航空写真や、昔の生活の道具など、児童たちは楽しんで学びを深めてくれました。

千歯扱き体験では「気持ちよかった」「僕もやりたい」など昔の農作業を“楽しいもの”と感じた児童が多かったようです。

ただ、学芸員が「でもこの作業(脱穀)を1日中やるとしたら?」という質問になると、「大変そう」「かわいそう」といった意見も。

今と昔の便利さの違いを、感じ取ってくれたみたいです。

 

農業ブース風景

航空写真ブース風景

授業の最後には、児童から「楽しかったけど、もっと時間がほしかった」など、まだまだ体験し足りないといった声も聞こえ、興味・関心の高さを窺わせてくれました。

 

郷土資料館が臨時休館中の今だからこそ生まれた『でばりぃ資料館』!

今回の八木崎小学校では体育館を会場に使用させていただきましたが、各種教室や図書室等でも可能です。各学校の先生方も、日程、会場、内容など、ぜひご相談ください!

 

【休館中だからこそ打って出る】でばりぃ資料館はじめました

感染症拡大防止のため市の各施設では「休館」「中止」「延期」の文字が踊る昨今。郷土資料館も、2月7日(日)まで臨時休館、この期間の様々なイベントも中止となりました。仕方がないことですが、教育委員会のブログにも「休館」「中止」「延期」の言葉が並び、ちょっと暗い雰囲気。

例年1・2月は、市内の小学3年生が連日、郷土資料館に団体見学で訪れるのですが、受け入れもままなりません。

そこで、郷土資料館では「でばりぃ資料館」と称し、小学校に館内展示資料と学芸員を出張させ、新型コロナ感染防止対策を十分に行ったうえで、子どもたちに館内見学を疑似体験してもらう試みを新たに企画してみました。

「でばりぃ資料館」の「でばりぃ」とは、和語の「出張(でばり)と英語の「delivery(デリバリー)」を掛け合わせた造語です。学芸員が学校に出張り、資料と資料館での体験をお届けすることを意味しています。子どもたちに親しみやすいように名づけました。「出張(でばり)」とは現在では「しゅっちょう」の読み方が一般化し、あまり読み慣れませんが、「戦いのために他の地域、場所へ出向くこと」の意もあります。コロナ禍で不透明な情勢が続いておりますが、郷土資料館は児童が地域の歴史や昔のくらしを学ぶ機会を確保するため、コロナ禍であっても攻めていきたい、との願いを込め命名したものです。

肝心の中身ですが、実は至って普通の出張授業です。ですが、授業に学芸員が出張するのでなく、あくもでも、資料と資料館での体験をお届けすることを主眼とし、郷土資料館を知ってもらうことをねらいとしています。児童のみなさんには楽しみながら学んでいただき、郷土に関心を持つきっかけになればと考えています。

「でばりぃ資料館」では、あんな資料やこんな資料を持ってきてほしい、こんな体験をやってみたい、など、ご要望にできる限り応えます。以前の出張授業はこんな感じでした。

写真:資料を説明する学芸員 

持参する資料としては、こんなものを考えています。

 写真:火のし写真:七輪写真:手回し洗濯機

もちろん、感染症対策は徹底しますので、ご安心ください。

ぜひとも、学校の先生方には、資料と資料館をご活用いただけますよう、ご相談いただけると幸いです。

【臨時休館】令和3年1月5日(火)から2月7日(日)まで休館を延長します

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火)から2月7日(日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。(1月17日までとしていたものを延長します。)なお、2月8日(月)は通常の休館日です。

休館中は、展示室にご入館いただけません。今後の新型コロナウイルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を延長する場合があります。ご迷惑をお掛けいたしますが、ご理解、ご協力をお願いします。

 

休館に伴い、以下のイベントを中止します。

1月16日(土)古文書講座初級編/中級編

1月24日(日)体験ワークショップ

 

なお休館中も、電話、メールでのレファレンスは、受け付けております。

【今年もよろしくお願いいたします】今日は何の日

あけましておめでとうございます。本年もかわりなく「ほごログ」、そして春日部市の文化財行政と郷土資料館のお引き立てのほどよろしくお願いいたします。新年一発目の一月一日の今日は、春日部でどんな出来事があったのか、紹介してみたいと思います。

今からちょうど50年前の昭和46年(1971)1月1日は、旧春日部市の市民憲章が制定されました。当時の市民憲章と、市役所から春日部駅西口の風景を撮影したなつかしい写真がありましたので、掲出してみます。

写真:昭和46年春日部駅西口

市民憲章は、よりよいまちづくりへの関心を高めるために、昭和30年代頃から各市町村で制定されていきました。各自治体の市民自らが知恵を結集させ、自分たちのまちを自分たちによって住みよいすばらしいまちにしていくため、まちづくりへの願いやまちへの理想像、それに向けた行動目標、努力目標、決まり事などを掲げる目的があります(「春日部市市民憲章市民会議News Letter」1)。改めて、旧市民憲章を読むと、「公害」「清潔」「交通道徳」など、現在ではあまり使われないキーワードが掲げられ、当時の行政や住民のモラルに何が求められていたがうかがえます。背景となる写真は、実は以前も紹介したものですが、のちに春日部市の「中央」として開発されていく、のどかな「字馬草場」の風景をカラー写真で記録している貴重な資料でもあります。

ちなみに、旧庄和町では、昭和56年(1981)3月19日に町民憲章が制定されています(以下の通り)。

朝日にまちなみが光輝くとき————それは、幸多い1日のはじまりです。
庄和をふるさととする私たちは、人の心を信じ、だれもが夢と希望に満ちた朝を迎えられるよう、明日の町づくりの願いを込めて、この憲章を定めます。
1 私たちは、互いに心をふれあい、助けあい、そして励ましあい、共に生きる連帯感を育てます。
1 私たちは、澄んだ青空、さわやかな緑、そしてきれいな水を愛し、自然と環境を守ります。
1 私たちは、教育、スポーツ、そして香り高い文化を尊重し、豊かな教養を身につけ健康に心がけます。
1 私たちは、お年寄り、子供たち、そしてからだの不自由な方々をいたわり、思いやりの心を大切にします。
1 私たちは、実りある労働、やすらぎのある生活、そしてすべての人々の平和を願い明るい未来を築きます。

同日、町の花「ショウブ」、町の木「モクセイ」も制定されました。旧庄和町の町民憲章で特記すべきことは、昭和61年(1986)12月に町民憲章の歌が制作されたことです。町民憲章を歌にしたことは当時、全国で初めてのことだったそうです(広報しょうわ№280)。春日部のご当地ソングについてはこちら。

ところで、本日も市民憲章にゆかりのある日です。令和3年1月1日は、新たな春日部市民憲章の制定日です。春日部市制15周年を迎えた今年度、新市となった春日部市においても、市民の連帯感やまちに対する愛着、誇りを深め、「住んで良かった」と思えるまちを実現するため、市民共通の道しるべとして新たに制定されました。前の旧春日部市の市民憲章が制定されてからちょど50年となります。過去の市民(町民)憲章、新たな市民憲章を比べると、時代背景やキーワードは違えども、わがまちを愛し、よりよくしていこうという、意気込み・主旨は変わりません。年新たに、新たな市民憲章のもと、皆さまも地元春日部でステイ・ホームタウン、身近な家族とステイ・ホームでお過ごしください。

画像:30周年記念バッチ

年末より繰り返しお知らせしておりますが、当館、新型コロナウイルスの影響により、新年1月17日(火)まで臨時休館となっております。皆様にはご不便をおかけしますが、本年も変わらず、文化財行政・郷土資料館のお引き立ての程よろしくお願いもうしあげます。

【臨時休館】令和3年1月5日(火)から1月17日(日)休館します

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、令和3年1月5日(火)から1月17日(日)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。なお、1月4日(月)、1月18日(月)は通常の休館日です。

休館中は、展示室にご入館いただけません。今後の新型コロナウイルス感染拡大状況によっては、臨時休館の期間を延長する場合があります。

ご迷惑をお掛けいたしますが、ご理解、ご協力をお願いします。

【延期】12月26日考古学講座を延期します

12月26日(土)に予定しておりました考古学講座「権現山遺跡を探る」ですが、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため延期することといたしましたので、以下の通り、お知らせします。

 

考古学講座「権現山遺跡を探る」

日程 12月26日(土)→【延期】3月28日(日)

時間 午前10時から12時

本日までにすでにお申し込みの方につきましは、3月28日もお申込みいただいているものとして取り扱います。

考古学講座のご案内(日程は3月28日です。ご注意ください)

武里のオリジナルソング(広報補足・その8・最終回)

いよいよ、広報かすかべ10月特集号の補足も最終回です。今回は、 #武里 の #オリジナルソング #たけさと音頭 について。 #かすかべプラスワン

今年はコロナウィルスの影響で軒並み中止になってしまいましたが、近年、春日部市では「かすかべ音楽祭」や「ブラスジャンボリー」など、音楽のイベントが定着しつつあり、「音楽のまち春日部」とも称されています。しかし、そうした「歌や音楽で盛り上がろう!地域で一つになろう!」という取り組みは、実は最近の始まったものではありません。

「春日部のご当地ソング」ともいえる歌は、世に知られているだけでも19曲もあります(『春日部の歌と歩み』による)。以下、曲名・発表年を時代順に列挙します。

粕壁小唄 昭和7年(1932)以前/和楽音頭 昭和13年(1938)以前/春日部音頭 昭和25年(1950)/幸松音頭 昭和29年(1954)/新春日部音頭 昭和31年(1956)/古利根しぐれ 昭和31年(1956)/大凧音頭 昭和36年(1961)/たけさと音頭 昭和50年(1975)/小渕音頭 昭和52年(1977)/小渕小唄 昭和52年(1977)/庄和音頭 昭和55年(1980)/春日部藤音頭 昭和57年(1982)/春日部踊り 昭和60年(1985)/庄和町・町民憲章の歌 昭和61年(1986)/新大凧音頭 昭和61年(1986)/春日部サンバ 平成元年(1998)/庄和大凧ばやし 平成2年(1990)/心の空 平成27年(2015)

以前紹介した「春日部藤音頭」、大凧あげ祭りで流れる「新大凧音頭」、チェリッシュでおなじみの「春日部サンバ」、夏祭りで披露される「新春日部音頭」「古利根しぐれ」、夕刻のチャイムで流れる「心の空」など、おなじみの歌も多い一方、今では音源を入手できない歌もあります。それぞれの歌や制作の経緯や背景については、ふれあい大学34期生桐組6班の皆さんが執筆・編集された『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)に詳しく述べられています。

さて、このなかで、ひと際異彩を放つのが「たけさと音頭」です。「たけさと音頭」は、昭和50年(1975)武里団地入居10周年を記念して「団地の子どもたちに、ふるさと感覚を」としてつくられました(※広報では昭和52年としましたが、正しくは昭和50年のようです)。歌詞の作詞は、団地の住民に募りました。十数篇の応募があり、入選したのは文筆家の高木圀夫氏。氏は著書『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)のなかで次のように述懐しています。

「私の地元が子供たちにふるさと感覚を持たせる一つのアイデアとして祭り用の音頭を募集していたのであった。(略)なにげなしに原稿用紙の端に言葉を並べてみた。それが入選したのだ。考えられなかった。」

高木氏によれば、詞は決まったものの、作曲が問題となり、高木氏が高木東六の甥であることから、地元の人たちに取り次ぎを懇願され、高木東六が作曲をすることになったそうです。高木東六は、高名なピアニスト・作曲家で、TBS「家族そろって歌合戦」の審査員としてもおなじみでした。「たけさと音頭」は、オペラの作曲家がつくった唯一の民謡として生まれたのです。お披露目となったのは昭和50年(1975)8月1日、大場小学校体育館でたけさと音頭発表会が開催されました。当時の県知事も招待されたそうです。貴重な写真が武里団地の自治会報「たけさと」111号に掲載されています。

 写真:たけさと音頭発表会

異彩を放つのは、高木東六作曲だからではありません。上にあげた春日部のご当地ソングには、古利根川・江戸川・藤の花・大凧揚げなど、春日部を象徴する風景などが歌詞に織り込まれています。しかし、「たけさと音頭」には「郷土」を感じられるワードはわずかに「藤の花びら」だけです。『春日部の歌と歩み』では「「春日部」や「武里」といった地名が一切出てこず、「ふるさと音頭」とうたっているのが地域の歌としてはとてもユニークです」と的確に評しています。

曲ができた当時、春日部市はベッドタウンして人口が激増していた時代でした。武里団地は市のベッドタウン化の先駆けともなった地区です。そうした武里団地発の「たけさと音頭」の歌詞は、子どもたちになじみやすい言葉でつづられ、よく言えば「ユニーク」ですが、土臭さ、泥臭ささのような「郷土」的な個性がないように感じます。その理由はおそらく、それぞれ異なる「郷土」をもつ住民(親世代)たちが、新たな「ふるさと」を想像し、制作されたからではないでしょうか。「武里団地夏祭り」、そしてその場で流されてきた「たけさと音頭」(盆踊り)は、ベッドタウン化した春日部らしいイベント・ご当地ソングといえるのかもしれません。 

昭和49年武里団地夏祭り

ただ、残念なことに、郷土資料館では「たけさと音頭」のレコードを入手できておりません。春日部の現代史資料として極めて貴重だと思います。お持ちの方はご一報いただけると幸いです。

 

以上、市制15周年を機に、8回にわたり市内八地区の身近な歴史ネタを紹介させていただきました。それぞれの歴史はそれぞれ人の思いやさまざまな経緯が折り重なり、紡がれてきたものです。そうしたことをもう一度顧みることで、新たな「春日部らしさ」=まちの良さに気付き、そして春日部が歩む未来がみえてくるのではないでしょうか。

参考文献 ふれあい大学34期生桐組6班『春日部の歌と歩み』(私家版・市内図書館に架蔵)、高木圀夫『高木東六ファンタジア』(文園社、2002)

軍需工場・時計工場のまち南桜井(広報補足その7)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #南桜井駅 北側にあった #軍需工場 について。 #かすかべプラスワン

庄和地域の玄関口、南桜井駅。現在は市街地化され、駅前はにぎわっています。実は、南桜井駅周辺の市街地化のきっかけは、昭和戦中の軍需工場の疎開に求められます。
昭和18年夏ごろ、精工舎は東京第一陸軍造兵廠から陸軍関係時計信管部門を南桜井村に疎開するよう、伝達を受け、同19年3月より東京太平町の工場の一部の疎開を開始します。精工舎とは、東洋の時計王ともよばれた服部金太郎が創業した服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)の製造・開発部門です。
昭和18年12月までに、南桜井村大字金野井、大字大衾、川辺村大字米島、大字新宿新田に、約6万坪の工場、約9万坪の厚生施設の敷地が強制買収されました。
当時の南桜井駅近辺はうっそうとした森で、松林などが生い茂り、「大衾山」、あるいは「オバケの森」とよばれていたそうです。こうした森林を敷地にするため、南桜井や周辺の青年団や粕壁中学校(現県立春日部高校)の生徒などが勤労奉仕として木の根堀りや建材の運搬作業に動員されました。なかには、大きな木は素人になかなか切れないので、シャリキとよばれる職人が大勢雇われ、木を切ったそうです。

この軍需工場は、服部時計店南桜井工場と命名され、昭和18年11月6日に資材・製品輸送のために、現在の南桜井駅に貨物専用の米島仮停車場が設置され、その北側隣接地に工場・男子寄宿舎、南側に女子寄宿舎、武州川辺駅の南側に社宅が建設されました。当時、南桜井村の人口は3625人、川辺村は2424人(いずれも昭和15年国勢調査)でしたが、南桜井工場の疎開によって、3000人以上ともいわれる人が移住してきましたので、敷地内には医務室(診療所・病棟)や学校(私立服部南桜井青年学校)両村は景観も住民構成も大きくかわることになりました。

南桜井工場で製造されたのは、高射砲の弾丸の頭につけ爆発を誘発する部品で、45秒時計信管、55秒時計信管とよばれた時限信管でした。高スピード、高回転のなかで正確に動かなければならないので時計製作よりも高い技術が必要だったといわれています。工場がフルに操業を開始したのは昭和19年10月で、最初の製品が完成したのは昭和20年1月のことといわれています。

また、昭和20年5月には、同年3月・4月の東京大空襲で被害を受けた東京第一陸軍造兵廠の第三製造所が、南桜井工場の北部の未利用地に疎開しました。精工舎の南桜井工場と混同を防ぐため江戸川工場と名付けられました。江戸川工場は軍直属の官営工場で、風船爆弾の信管を製造しました。

終戦となり、軍需工場は操業をとりやめ、閉鎖されます。南桜井工場はおよそ1年弱、江戸川工場は3か月半で幕を閉じることになりました。その後、工場の建物25万坪、機械2000台は大蔵省の管理下におかれましたが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦の構想のもと全国農業会の支援を後ろ盾に施設設備は転用され、昭和21年3月28日に株式会社農村時計製作所が発足します。農村時計では、目覚まし時計などを製造していましたが、品質はあまり良くなかったといわれます。経営難のためからバリカンや地震計の製造もしたこともありました。しかし、戦後の経済政策もあり、農村時計は昭和25年10月に事業を停止します。
農村時計の末期、順調な売れ行きをみせていた「リズム」という商標の時計がありました。昭和25年11月3日、この商標を由来とする新会社「リズム時計工業株式会社」が発足し、農村時計の事業は継承されることになります。南桜井駅周辺は、平成9年(1997)年9月に工場が東京都墨田区に移転するまで、リズム時計の南桜井工場とともに戦後を歩んでいくことになりました。
リズム時計の工場はご記憶がある方も多いのではないでしょうか。写真も残っています。

写真:昭和49年南桜井駅と北側のリズム時計工場

昭和49年(1974)南桜井駅と北側のリズム時計工場

写真:昭和49年南桜井駅南側

昭和49年(1974)リズム時計工場からみた南桜井駅の南側

南桜井駅周辺は、その後ショッピングモールや住宅地として再開発され、軍需工場や時計工場の面影はほとんど残っていません。しかし、青年学校の跡地には葛飾中学校(のち移転。現桜川小学校)、医務室の跡地には子供の町として利用されるなど、道路・住宅の区画などは軍需工場以来の名残りがあります。また、ショッピングモールの敷地内に、リズム時計の創業地の記念時計塔が立てられています(シティーセールス広報課撮影)。

写真:南桜井の時計塔

昭和時代の南桜井駅周辺は軍需工場・時計工場とともに歩んできたといっても過言ではありません。ですが、終戦のときに関係資料が廃棄されてしまったため、戦中の軍需工場・時計工場については資料が少なく、詳しくわからない部分が多いのです。今回、気の利いた図版がないのもそのためです。

平成のはじめ、県立庄和高校地理歴史研究部は、資料が少ないなかで、地域住民の方々、関係者の方々に聞き取りをするなど丹念に調査をし、上述したことを明らかにしています。その成果は『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』という私家版にまとめられています。今から30年前だから聞けた話がふんだんに詰め込まれ、南桜井の歴史を知るうえで必読の書です。

長文になってしまいましたが、庄和高校のみなさんが明らかにされたことは、上のことにとどまりません。入手困難な図書なのですが、『むかし庄和町に軍需工場があった』『賀川豊彦と農村時計』も合わせてご覧いただけると幸いです。

次回は最終回です。クライマックスは、武里地区の「たけさと音頭」について。

参考文献 庄和高等学校地理歴史研究部『むかし庄和町に軍需工場があった』(1991年)、同『賀川豊彦と農村時計』(1991年)、同『南桜井村戦後史』(1989年)、『春日部市史 庄和地域 近代・現代』(春日部市、2013年)
     

郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました

令和2年12月13日(日)に、郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました。

毎年12月に開催しているしめ縄作り、本年はマスクの着用をお願いしたうえで、多く方にご参加いただきました!

体験講座しめ縄作り

 

まず半紙を使って紙垂(しで)を作り、その後しめ縄を作成しました。

しめ縄編み込み作業風景

しめ縄作りは意外と力のいる作業です。

「汗が出てきた!」とおっしゃる方もいたほど!

ですが、皆さん協力しながら頑張って作ってくださいました。

 

しめ縄仕上げ風景

丹精込めて編み上げ、立派なしめ縄ができました!

 

お帰りの際には「来てよかった」「また来年も来たい」というお言葉もいただきました。

楽しんでいただけたようで何よりです!

 

郷土資料館では、今後も感染防止策を徹底しながら講座などの企画を行っていく予定です。

広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!

 

12/26(土)「考古学講座ー権現山遺跡を探る」

12月号の広報かすかべでお知らせしました「考古学講座ー権現山遺跡を探る」につきましては、多くの方にご応募いただき、本日で当初定員の24名に達してしまいましたので、会場を変更し、定員を増やします。日程等については下記のとおりです。

日時:令和2年12月26日(土)10時から12時

場所:春日部市教育センター(粕壁東3-2-15)2階視聴覚ホール

内容:東中野の古墳時代の遺跡「権現山遺跡」について埋蔵文化財発掘調査報告書などを使って学ぶ

定員:54名(申込順)

申込:春日部市郷土資料館に直接、またはお電話(048-763-2455)でお申し込みください。

*12月10日から申込を受け付け、11日午前11:00現在、26名の方にお申し込みいただいております。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器

権現山遺跡出土底部穿孔壺形土器

(埼玉県指定文化財、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で常設展示中)

 

権現山遺跡については、こちらの記事もご参照ください。

権現山遺跡の底部穿孔壺形土器『新編図録春日部の歴史』からーその8

 

暮れの押し迫った時期の開催ですが、大掃除の合間などにぜひご来館いただければ幸いです。

 

【12/8~12/12武里地区公民館出張展示】一ノ割から武里の流路跡と自然堤防

12月8日(火)~12日(土)、武里地区公民館の会場をお借りして「武里のむかし・春日部のむかし」と題し、出張展示を行います。

概要は以下の通りです。

郷土資料館出張展示「武里のむかし・春日部のむかし」

日時:令和2年12月8日(火)~12日(土)9時~17時

*最終日の12日(土)は14時まで

会場:武里地区公民館3階研修室2

*12月10日(木)、10時と15時から、資料館学芸員が展示解説を行います。(先着15名様)

◎期間中、武里地区公民館は「たけさとBunkaウィーク」が開催され、各種行事が行われます。

武里地区公民館ブログ から、パンフレットなどをご確認ください。

 

さて、出張展示の会場となる武里地区公民館の北西側の道は、一ノ割駅南側から武里駅北側まで続く自然堤防に沿って走っています。

武里地区公民館北西の道路

武里地区公民館北西の道路 

国土地理院発行の治水地形分類図をみると、この道の西~南側には、古利根川がかつて大きくカーブしながら流れた流路跡の存在がわかります。

 治水地形分類図

国土地理院発行の治水地形分類図(更新版)に加筆

青の斜線部分が流路跡、黄色の部分が自然堤防

(*治水地形分類図は、「地理院地図(https://maps.gsi.go.jp)」からインターネット上で確認できます。)

一ノ割から武里に続く流路跡や自然堤防は、実際にその地形の現地を歩いてみると、道路がわずかな坂道となっていたりすることでわかります。今回の武里地区公民館の展示では、この流路跡と自然堤防についてのパネルも用意して、皆様にご紹介します。

どうぞ、ご来場ください。

 

武里地区公民館西側の道路

武里地区公民館西側の道路(写真中央が流路で武里地区公民館方面へ向かってわずかな坂になっている)

 

豊野・藤塚橋は歴史ある橋(広報補足その6)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #古利根川 に架かる #藤塚橋 について。 #かすかべプラスワン

藤塚橋の架橋が計画されたのは、昭和6年(1931)11月のこと。大正15年(1926・昭和元年)10月に一ノ割駅が開業し、駅と豊野村を結ぶ架橋の要望が高まったことが直接の背景でした。昭和8年(1933)5月8日に架設されます。

藤塚橋は、木造の橋で、幅は3.63mしかなく、当然大型の車両は通行できませんでした。当時の貴重な写真が伝わっています(藤塚小郷土資料室所蔵)。

 写真:昭和17~18年藤塚橋

昭和17~18年藤塚橋

写真:昭和25年ごろ藤塚橋

昭和25年ごろ藤塚橋

 

藤塚橋は当時、賃取橋(ちんとりばし)といって、有料の橋でした。現代的な感覚では、橋を渡るのに、なぜお金がかかるのか、と思いますが、当時は橋は地元の人たちが私費を投じて架橋した公共物でないものが多く、橋の維持管理費を賄うため、通行料を徴収する必要がありました。

その後、藤塚橋は、昭和29年(1954)の市制施行のときに春日部市に買収され、公共物となり、無料で渡れる橋となり、昭和40年(1965)にコンクリート製の橋に架け替えられ、現在に至ります。昭和40年の渡り初めの時の写真がこちらです。ちなみに、藤塚橋のたもとには、昭和40年の架け替えを記念し、橋の由来を刻んだ石碑が建てられています。

写真:藤塚橋開通

橋が架けられる以前、藤塚橋を挟んで上流には「三蔵の渡し」、下流には「藤塚の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。古利根川と庄内古川に挟まれた豊野村にはこのほかに、古利根川には「地蔵坊の渡し」「彦太(平方)の渡し」「戸崎の渡し」が、庄内古川には「永沼の渡し」「水角の渡し」「倉田の渡し」という渡船場がありました。藤塚橋より下流の「地蔵坊の渡し」は、古利根川右岸に地蔵が祀られていたことにちなんだもので、渡し舟は藤塚村本田下組の人々の寄付で造船され、村の人たちによって管理されていたそうです。渡し賃は下組の人は無賃、組以外の人からは一銭くらいをもらっていたそうです。藤塚橋が架橋される昭和初めまで渡し舟があったといわれています(『春日部市昔むかし』)。藤塚橋は、一ノ割駅に直接通ずる橋として利用されましたが、「三蔵の渡し」「藤塚の渡し」の中間点にあたり、事実上、二つの渡船場を継承する橋として架けられたともいえるでしょう。

市内を見渡すと、江戸川・庄内古川・古利根川・古隅田川のいずれにも、もともとは渡船場で、その後継として橋が架けられる例が散見されます。以前紹介した、江戸川の宝橋(西宝珠花ー東宝珠花・宝珠花の渡し)のほか、古隅田川の十文橋(粕壁ー梅田・十文渡し)、古利根川の八幡橋(粕壁ー八丁目)、古利根川橋(赤沼ー平方・戸崎の渡し)、庄内古川の永沼橋(藤塚ー永沼・永沼の渡し)、倉田橋(赤沼ー赤崎・倉田の渡し)などです。このほか、古くからの橋も元々渡河点だった可能性があります。

車優先社会の現代にあっては、交通渋滞を緩和させるため、幹線道路が整備され、いとも簡単に新たな橋が架けられ、私たちは橋に対してありがたみをあまり感じることが少なくなっています。藤塚橋を含め、現在も残る歴史ある橋は、河川で地理的に隔てられた両岸の人々の交流の結節点=渡船場の後継として架橋されたものといえるでしょう。地元の方々が架橋や維持に苦心され、両岸の人々をつないできた歴史ある橋であることを知れば、少々渋滞してもイライラしないかもしれません。

次回は、南桜井の時計工場について紹介します。

参考文献 『歴史の道調査報告書 利根川の水運』(埼玉県教育委員会、1989年)

【常設展示変更】神明貝塚組合せ土器ほかの展示を変更しました。

郷土資料館の神明貝塚展示コーナーでは、神明貝塚から出土した「ヒスイ製丸玉」、「貝輪」、「土偶」と市指定文化財の「堀之内式組合せ土器」を展示しております。

このたび、これらの展示品が、行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館で12月12日(土)から行われる「最新出土品展ー地中からのメッセージ」にて展示されることになりました。展示の概要は下記の通りです。ぜひお出かけください。

<令和2年度最新出土品展ー地中からのメッセージ>

日時:令和2年12月12日(土)~令和3年2月7日(日)

会場:さきたま史跡の博物館(行田市埼玉4834、048-559-1111)

開館時間:午前9時~午後4時30分(入館は4時まで)

休館日:月曜日(祝日、振替休日を除く)、12月29日~1月3日

埼玉県立さきたま史跡の博物館サイト

 

さて、貸出しに伴い、神明貝塚の展示ケースの展示品の一部を入れかえ、お馴染みの縄文時代、江戸時代の人骨とともに、写真の神明貝塚出土の鉢形土器を展示しました。

この鉢形土器は、昭和36年(1961年)、埼玉県立浦和第一女子高校の郷土研究部の調査で出土したものです。

口径(口の直径)が約24㎝、高さが17㎝、口の部分に突起がつき、胴の部分は、縄文の上に棒のような道具でレンズ状の文様を描いています。組合せ土器と同様、神明貝塚で多く出土する堀之内式に分類されます。

郷土資料館ご来館の際は、ぜひご覧ください。

神明貝塚鉢形土器

粕壁・大池のひみつ(広報補足その5)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #釣り堀 だった #粕壁 地区の #大池 について。 #かすかべプラスワン

広報誌では次のように紹介しました。

大池に観光客が殺到!?

昭和34年、東武鉄道株式会社に粕壁の大池(現大池親水公園)を貸し出し、つりの家が新築されました。つりの家は、その名の通り、東武鉄道が運営する釣り堀で、池には桟橋が架けられ、釣り客でにぎわいました。

 

大池は、記録の上では、少なくとも江戸時代から存在していた池です。大池の東側を南北に通る「大池通り」は、江戸時代には「蝦夷堤」(「江曽堤」・えそつつみ・えぞつつみ)と呼ばれた堤防と認識され、古来の古利根川の堤防と考えられています。大池の起源は、洪水時にこの堤防が切れ、できた水たまり(押堀・オッポリ)であると考えられ、古利根川が現在の河道になる以前(近世以前)に成立したと考えられます。次の江戸時代中期、安永3年(1774)の絵図写は、大池を描いた最古の資料です。

画像:大池 安永絵図

粕壁(宿)には、大池のほかに、赤堀池(現コミュニティーセンター敷地内)、二ツ池(浜川戸の鹿島池・金池、現存しない)と呼ばれた池がありました。大池は、これらの池のなかでもひときわ大きな池だったので「大池」と名付けられたのでしょう。天明6年(1786)の大洪水のときには、岸の柳に大蛇がいた、という逸話もあり、池のほとりには水神様が祀られています。

大池は、昭和8年(1932)「粕壁町地図」などにも、池沼として描かれています。池の周囲に水路があり、排水や遊水地として利用されていたものとみられます。

写真:昭和8年大池

 

戦後の空中写真(昭和24年。空中写真は国土地理院提供、以下同じ)でも、なんの変哲もない池であることがみてとれます。

写真:昭和24年空中写真

しかし、大池史上、大きな転機となったのが、冒頭に触れた、東武鉄道による大池つりの家建設。池のほとりに「つりの家」を建設し、大池は釣り堀施設として利用されることになりました。昭和41年(1966)のつりの家の写真がこちらです。

写真:昭和41年つりの家 写真:昭和50年空中写真

池のなかに桟橋をかけ、釣り客が釣りを楽しめるようにしていたようです(昭和50年空中写真)。

昭和40年ごろ製作されたと考えられる春日部市のパンフレットにも「観光」スポットとして大池つりの家が紹介されています。

画像:パンフ表紙写真:春日部市パンフレット

このパンフレットをみると、古利根川の花火大会、市内の神社仏閣に並んで大池つりの家が紹介されています。パンフレットの表紙も、藤、桐箪笥、麦わら帽子にならんで、釣りのイメージが描かれています。東武鉄道は、鉄道利用者を増やすために沿線に観光スポットを造り、大池を釣り堀として整備したのでしょう。当時、釣りは春日部市を代表する観光の目玉として押し上げられていったと考えられます。

画像:パンフレット拡大

写真:大池つりの家

その後、春日部市では宅地化がすすみ、人口が増えていきました。昭和50年ごろから、釣り堀以前は大池に落とされていた排水が、線路沿いや大池のまわりに溜まり、悪臭をはなっていると問題視されるようになっていきました。また、昭和50年代後半には、つりの家の管理者が不在になり、荒廃していると報告され、東武鉄道から早期に返還して、市民憩いの場にとの声が高まっていきました。

昭和63年の空中写真をみると、

写真:昭和63年空中写真

昭和末年には桟橋が取り外され、現状復帰されていったものとみられます。

そして、平成2年(1990)4月、大池憩いの家がオープンします。現在は、珍しい野鳥も訪れる市民憩いの場として利用されています。池での釣りは禁止されています。 

詳しい資料がなく、釣りの家の時代・市に返還されるまでの過程がよくわかりませんが、釣り客でにぎわったのは、昭和30~40年代にかけての短い期間だったと考えられます。おそらく、春日部のベッドタウン化・宅地開発の波にのみこまれていったのではないでしょうか。

次回は、豊野・藤塚橋の話題です。

緑小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

 

令和2年11月20日(金)に緑小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

 

学芸員から昔の暮らしや道具について説明を受けていると、児童が「これに載ってた!」と言って開いたものが「たんけんシート」。

これは郷土資料館から市内の小学校3年生あてに配布したもので、事前によく見てきてくれたようです。

 緑小学校館内見学写真

見たことはあっても、名前を知らない昔の道具たち。今日は名前も覚えていきましょう!

 

緑小学校竪穴式住居見学写真

自由見学の時間に竪穴式住居の前にいた児童からは

「よく見るとイノシシの皮だ!」と、人物の下に敷いてある物が何の動物かまで気が付きました。

見るだけでなく、“観察する目”が育ってきていますね♪

 

緑小学校体験コーナー写真

昔のおもちゃコーナーでは、紙鉄砲でいい音を鳴らす児童からは

「ストレス解消になった!」という言葉も(笑)

 

とっても元気で、反応が豊かな緑小学校3年生でした!

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。

感染拡大防止策を徹底しながらお待ちしておりますので、皆様もストレス解消にぜひご来館ください。

 

 

郷土資料館体験ワークショップを開催しました

令和2年11月14日(土)に、郷土資料館体験ワークショップ「パタパタをつくろう」を開催しました。

 

まずは蓄音機でレコード鑑賞をしました。基本的にワークショップの時限定で使用しているこの蓄音機。今年度初お披露目です♪

体験ワークショップ蓄音機写真

回転の速さによって高くなったり、低くなったりする音を聴いてとても楽しそうでした。

 

昔のおもちゃづくりでは「パタパタ」を作りました。

作り方が少し難しいおもちゃですが、職員の話をよく聞いて、みんな上手に作れていました。

体験ワークショップおもちゃ制作写真

1週間前から今日を楽しみにしていたとのことで、職員一同感激です♪

 

最後は記念の缶バッジづくり。

体験ワークショップ缶バッジ制作写真

今日のために用意したオリジナル缶バッジ作り体験も大変好評でした!

 

郷土資料館では、今後も感染防止策を徹底しながら講座などの企画を行っていく予定です。

次回の体験ワークショップは令和3年1月24日(日)に開催予定です。広報誌等でお知らせもいたしますので、ぜひご確認ください。

おもちゃは紙鉄砲とぴょんぴょんカエルを作るのでお楽しみに!

 

【常設展】須釜遺跡出土土器を展示替えしました

郷土資料館常設展示の弥生時代のコーナーでは、須釜遺跡の再葬墓から出土した弥生時代中期(約2,000年前)の土器を展示しています。

須釜遺跡の概要についてはこちら→須釜遺跡再葬墓出土遺物一括-指定文化財でめぐる春日部

これまでは、遺跡発見のきっかけとなった1号再葬墓の土器を展示していましたが、このたび4号再葬墓から出土した土器に展示替えしました。

4号再葬墓は、須釜遺跡でも変わった再葬墓で、ほかの再葬墓では複数の土器が1つの穴から出土したのに対し、4号再葬墓では、今回展示する土器、1つだけが出土しました。

出土した土器は壺形で、やや高い位置に最大径をもつプロポーションがとても整った土器です。胴の部分には、縄文をつけた上に、棒の先のようなもので、花のように、円から四方向に楕円形がのびるモチーフが4つみられます。

底には穴があけられ(底部穿孔:ていぶせんこう)、墓に使う土器として、日常の土器とは区別されました。さらに、割れた部分を再度つなげるために使う穴(補修孔:ほしゅうこう)もみられます。

土器の表面には籾(もみ)がはりついていたあと(籾圧痕:もみあっこん)があります。(展示では籾圧痕の部分にシールを貼っています。)

制作途中の弥生土器の表面に籾がつき、土器を焼いた後にそれが圧痕として残ることは、考古学では古くから知られていました。近年、圧痕と思われる穴にシリコンを入れ型どりしたレプリカを作成し、それを電子顕微鏡で観察することにより、何によってできた穴かを調べる「レプリカ法」が考古学でも積極的に使われています。レプリカ法により籾だけでなく、植物の種、茎など、さまざまなものが土器に圧痕として形を残していることがわかってきています。

須釜遺跡では、4号再葬墓の土器のほかにも籾や玄米の圧痕が残された土器が6個体出土しており、弥生時代の春日部には、確実に米が存在していたことを示しています。

ぜひご来館いただき、実物をお確かめください。

4号再葬墓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4号再葬墓出土状況

4号再葬墓出土土器底

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器の底の穴(底部穿孔)

4号再葬墓出土土器籾圧痕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器表面の籾のあと(籾圧痕)

4号再葬墓出土土器

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4号再葬墓出土土器

 

 

花積って思いのほか有名な地名です(広報補足その4)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は、 #考古学 をかじった人は必ず知っている「花積」の #縄文土器 について。 #かすかべプラスワン

 

広報の記事では、次のように紹介しました。

花積って有名な地名

花積は、考古学をかじった人は必ずしっている地名です。なぜなら花積下層式土器という「花積」の地名がつけられた今から約7千年前の土器の型式になっているからです。

花積には貝塚があり、周辺に比べて小高いため、東京湾が春日部まで広がっていた時代に陸地だったことが実感できます。

 

花積には、花積貝塚という、県内では数少なく、学術上欠くことのできない縄文時代の貝塚が所在します。なぜ学術上欠くことができないのか。それは、花積下層式土器(はなづみかそうしきどき)の標式遺跡だからです。標式とは、聞きなれない言葉ですが、考古学で一つの型式を的確に示すことのできる典型的な遺跡・遺物を指すものです。考古学上、花積下層式土器という土器の型式を決定づけた遺跡ということです。

花積貝塚は、明治時代中頃には既に貝塚として知られていましたが、広く知られるようになったのは、昭和3年の大山史前学研究所による発掘以後になります。大山史前学研究所は、軍人であり考古学者でもある公爵・大山柏が邸宅内に設置した遺跡の調査研究機関です。

大山史前学研究所の発掘調査により、花積貝塚の貝層は中間に土層を隔てて二層あり、上部貝層から勝坂式土器が多く出土したのに対し、下部貝層からは蓮田式土器が出土しました。のち、後者の蓮田式土器は細分類され、花積貝塚の下層からはじめて発見された土器型式は甲野勇により「花積下層式土器」と命名され、縄文時代前期初頭の土器型式と定められます。

 

花積下層式土器は、胎土中に繊維を多量に含み、羽状縄文(右撚りと左撚り縄をつなげて文様をつけたもの)や、撚糸(よりいと)が「の」の字形に押し付けられた文様が施されている特徴があります。 

大山史前学研究所が発掘した花積下層式土器はこちら。

写真:花積下層式土器(春日部市史考古資料編)

花積貝塚では戦前の調査でも、その後の調査でも花積下層式土器は破片のみの出土であり、完全な形の花積下層式土器は発見されていません。素人考えだと、完形の土器が出土していないのに、なぜ花積下層式土器はかくも有名なのだろうか、と思うところですが、戦前、大山史前学研究所を中心とする考古学者たちが、小さな土器片であっても、資料に基づき実証的に土器研究を積み重ねてきたため、現在も花積下層式土器という土器型式名称が学術用語として使われ、広く知られているのです。

残念ながら、大山史前学研究所は昭和20年5月の空襲に遭い、収蔵していた貴重な資料は焼失・散逸してしまいました。花積下層式土器の命名の基になった写真の土器は、失われてしまいました。

花積下層式土器は、縄文時代早期と前期を結ぶ学術上重要な土器型式であり、今後の研究も期待されているようです。と同時に、考古学と春日部を結ぶ重要な土器でもあります。

郷土資料館でも、縄文土器について詳しいお客様から、花積貝塚・花積下層式土器についての展示が貧弱だと、たまにお叱りをいただきます。花積貝塚・市内の遺跡から展示に耐え得る花積下層式土器の出土例が乏しい事情をお話して、陳謝することもありますが、「花積」の名が付いた土器から、春日部に興味をもってくださる方もいらっしゃるのです。

次回は、粕壁の大池についてです。

 

参考文献 『春日部市史 考古資料編』、阿部芳郎『失われた史前学 公爵大山柏と日本考古学』(岩波書店、2004年)

懐かしい暮らしで元気に

11月8日(日)市内の高齢者施設の方々が #春日部市郷土資料館 を見学されました。 #かすかべプラスワン

みなさん、高度経済成長前後の生活道具をご覧になって、「若いころちゃぶ台を使っていた」とか「炭を使って、アイロンを使った」など、昔のことを懐かしんでお楽しみいただけたようです。

写真:高齢者施設の方々

郷土資料館はデイサービスなど、高齢者施設の方々の見学も歓迎しています。

なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。団体でご見学を希望される場合は、事前にご相談いただければ幸いです。

郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました

令和2年11月7日(土)に、郷土資料館体験講座「ミニぞうりを作ろう」を開催しました。

江戸打ち紐を使い、10㎝程度の小さなぞうりを編み込んでいくもので、毎年参加者の方にはご好評いただいている企画です♪

 

体験講座紙芝居朗読写真

ミニぞうり作成前には、郷土の歴史に親しんでいただくため、職員が春日部市域にまつわる伝説の紙芝居を朗読しました。

 

体験講座ミニぞうり制作写真

職員の説明を聞きながら、皆さん丁寧に編み込んで綺麗なミニぞうりを完成させていました。

講座終了後のアンケートには、難しかったけど楽しかったというご意見をたくさんいただき、充実した時間を過ごしていただけたようで私共もうれしい限りです。

 

ミニぞうり写真

こちらはミニぞうりの見本です。飾りにぴったりミニサイズ♪

 

郷土資料館では、今後も新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底しながら、講座などの企画を行っていく予定です。

広報等ご確認いただき、ぜひご参加ください!

 

 

【体験ワークショップ】埼玉県民の日(11月14日)パタパタをつくろう

11月14日(土)の埼玉県民の日、体験ワークショップをおこないます。

体験ワークショップでは、手作りのおもちゃを作ったり、蓄音機(ちくおんき)でレコードの音楽をきいたりします。

今回作るおもちゃは「パタパタ」です。板返しとも言って、上から下へ板がパタパタと音を立てて裏返っていく、ちょっと不思議なおもちゃです。

申し込みはいりません。午前10時30分と午後2時からそれぞれおこないます。

県民の日は、郷土資料館でおもちゃを作って、たのしく遊びましょう。

 

体験ワークショップ「パタパタをつくろう」

日時:令和2年11月14日(土)午前10時30分~・午後2時~

場所:春日部市郷土資料館(春日部市粕壁東3-2-15)

作るおもちゃ:パタパタ(板返し)

蓄音機の上演もあります。

費用:無料

申し込み:不要。予定の時間に郷土資料館におこしください。

*参加者多数の場合、人数制限をさせて頂く場合がございます。当日、会場で検温させていただきますが、体調の悪い方は参加をお控えください。またマスクの着用をお願いします。

 

ワークショップパタパタ

 

放送大学の方が、郷土資料館を見学しました

令和2年11月1日(日)に放送大学の学生の方が、面接授業「埼玉の街道」の一環として郷土資料館を見学

されました。

 

放送大学館内見学写真

皆さん歴史に興味のある方なので、学芸員の解説に深く頷きながら聴いている方や、メモを取られる方、常設展示のパンフレットを手に取る方も多くいらっしゃいました。

 

放送大学宿場模型見学写真

 資料館を見学した後は、粕壁宿の現在の街並みを見学に行かれました。

 

今回は20名の幅広い年齢層の方にお越しいただきました。

郷土資料館が皆さんの学びの一端となれば幸いです。

 

郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡の上、ぜひご来館ください。

「1960年代の春日部」の写真を掲示しています

 

夏季展示でご好評いただいた「1960年代の春日部」展で使用した写真を、資料館入口横の掲示板に展示しています。

しばらくの間、定期的に入れ替えながら展示します。

教育センターにお越しの際は、ぜひご覧ください。

また展示する写真を掲載した展示図録は、下記のリンクからPDFをご覧になれます。

(PDF)1960年代の春日部(春日部市郷土資料館)(2.4MB)

 

 

1960年代の春日部展示コーナー

船も車も通れる橋(広報補足 その3)

引き続き広報かすかべ10月特集号の補足です。今回は庄和北部の西宝珠花の、江戸川に架けられていた橋「宝橋」について。川舟を並べ、その上に板を渡して橋にした船橋でした。 #かすかべプラスワン

写真:宝橋

人工の河川である江戸川は、その開削以来、舟運が大変盛んな河川であり、西宝珠花は河岸場の町として賑わった集落でした。宝珠花は、中世以来の郷村であり、江戸川が開削されたため、西宝珠花と東宝珠花(千葉県野田市)に「分断」された地域でもありました。そのため、江戸川に隔てられていても、東西の交流は盛んで、渡船場もあったようです。

しかし、明治時代以降の河川改修により、江戸川の川幅が広がり、堤防もかさ上げされ、さらには、東武鉄道の粕壁駅や杉戸駅に連絡する自動車の交通量が増加してきてことにより、架橋への要望が高まっていきます。

大正13年(1924)、西宝珠花の有志が宝橋組合を結成し、県内でも珍しい船橋を架橋しました。永久橋でなく、船橋とした理由は、未だ舟運業が盛んであり、蒸気船や和船の航行を妨げないためでした。郷土資料館では、宝橋組合の資料を保存していますが、そのなかに、次のような宝橋の設計図面があります。

写真:宝橋の青焼き図面

図面から読み取れるように、合計11艘の舟が板橋を支え、中央部の舟が旋回することで、幅11.2mの舟が通過できる航路をつくりました。

宝橋の架橋によって、舟運業を妨げず、自転車・自動車・リヤカー・人力車など、渡船では向こう岸に渡りづらかった車両も通行することが可能となりました。橋の維持管理のため、通行料が必要な有料の橋でした。通行の回数券や定期券も発行されていたようです。

写真:宝橋回数券

戦後、自動車輸送が普及し、江戸川の舟運が衰退していくと、県道の整備にあわせて、宝橋を永久橋に架け替えすることが計画され、昭和33年(1958)3月、鉄筋コンクリート製の宝珠花橋が架橋されました。橋開きの当日には、西宝珠花・東宝珠花の両岸の住民が押し寄せ、混雑した様子がうかがえる古写真もあります。

写真:昭和33年の橋開き

「船も車も通れた」というのが、舟運と陸運が共存していた当時の市域の交通事情を象徴しているようです。わたしたちが、普段は何気なく渡っている橋にも、そこに橋が架けられた経緯があると思いを巡らせると、ワクワクするのは私だけ!?

次回は、豊春地区の花積、花積下層式土器の話です。

武里中学校が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月29日(木)に武里中学校特別支援学級の生徒が、郷土資料館を見学に訪れました。

 

武里中学校竪穴式住居見学写真

館内の竪穴式住居や宿場の模型を見学しながら学芸員の説明を受けました。

学芸員が説明をしながら質問やクイズをだしたところ、“勘がいいな~”と感じたり、“よく知っているな~”とこちらが感心してしまうような回答を聞く場面もありました。

 

武里中学校航空写真見学写真

今と昔の春日部市の航空写真を見比べて、武里中学校の場所が変わっていることに気付くと、

「ホントだ!」「えっ、知らなかった」という声が聞こえてきました。通っている学校の歴史を学ぶよい機会になったようです。

 

郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。

なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡、ご相談のうえ、ぜひご来館ください。

 

【常設展】 #博物館実習生 による展示【 #展示替 】

春日部市郷土資料館の常設展示の1コーナーを展示替しました。この展示は、8月にお手伝いいただいた博物館実習生の皆さんによるプロデュース展示です。 #かすかべプラスワン

写真:資料陳列風景

展示のテーマは「道具を受け継ぐ」。粕壁地区の大工さんの道具について寄贈者ご本人から聞き取り調査し、調書を作成、キャプションもつくってもらいました。みなさん、真剣に、そして懸命に資料を一つ一つ丁寧に調査し、どうしたらご覧いただくみなさんに伝えたい事が伝えられるのか、苦心しながらキャプションをつくってくれました。そのときの記事はこちら。資料の陳列まで実習でできれば、良き実習だったのですが、時間切れ。少し時間が経ってしまいましたが、このたびその成果をお披露目することになりました。

今年の12月末まで展示予定です。ぜひ、ご覧ください。

松栄学園高等学校が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月22日(木)に松栄学園高等学校が、課外授業の一環として郷土資料館を見学に訪れ、竪穴式住居や粕壁宿の模型を見学しながら、学芸員の説明を受けました。

 

松栄学園高等学校宿場説明写真

粕壁宿の模型を見ながら、宿場の特徴を答えてもらったところ、「畑が多い」「建物が整っている」など、計画的に整えられた町場の雰囲気を感じ取ってくれたようです。

 

松栄学園高等学校見学風景写真 

千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験後の自由時間には、生徒さんが各展示コーナーに散らばり、幅広く見回ってくれたことが印象的でした。

 

郷土資料館では随時団体見学の受付を行っております。

なお、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入館は一度に30人程度までとさせていただいております。事前にご連絡、ご相談のうえ、ぜひご来館ください。

 

 

春日部にあった競馬場(広報補足 その2)

前回に引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足説明です。今回は、春日部市幸松地区小渕にあった競馬場のこと。 #かすかべプラスワン

戦前の競馬は、富国強兵のため軍馬資源の確保・産馬の奨励といった国策のために行われたものが主でした。春日部市内の競馬場は、「春日部競馬」と呼ばれ、昭和15年(1940)9月から昭和22年(1947)まで、小渕の地で開催されました。

当時の競馬は、軍馬資源保護法による「鍛錬競馬」であり、軍用保護馬と指定された馬のみ出走が許されたものでした。埼玉県では、羽田競馬・川崎競馬と並んで三大競馬と称された大宮競馬場が隆盛していましたが、昭和13年(1938)の軍需工業動員法により飛行場の用地とされ廃止され、新たに春日部の小渕の地が、当時県内唯一の競馬場として選定されました。

施設は、大宮競馬場の古材で建て、投票券の印刷、出馬表の印刷などは、毎朝浦和からオート三輪で運び、番組編成員は八丁目の仲蔵院でガリ版切りなどをやったと伝えられています。

ただ、売り上げは不振で出走頭数、入場人員も最低。昭和18年(1933)末には軍需工場に貸与され、競馬は一時中断されるに至りました。

戦後、鍛錬競馬の元になった軍馬資源保護法が廃止されると、俗にいう「ヤミ競馬」が始まります。春日部では2回延べ8日間、開催されました。

昭和21年(1946)11月に地方競馬法が制定されると、県内唯一の春日部競馬で地方競馬が1回延べ6日間開催されました。しかし、売り上げが悪く、また浦和の熱心な競馬場誘致もあって、昭和23年(1948)に浦和競馬に移転され、春日部競馬場の歴史は幕を下ろします。

残念ながら、当時のことを示す資料は、昭和23年(1948)の埼玉県庁の火災により、焼失したといわれ、詳しいことはよくわかりません。地元小渕の方によれば、お父さんが農閑の合間に馬券販売の手伝いをしたと話す方もいますが、競馬場があったという記憶は薄れつつあります。ちなみに、春日部競馬ではなく、「粕壁競馬」と書く文献もありますが、当時の一次史料が見出されていないため不明です。今回は、『埼玉県競馬史』にならい、「春日部競馬」としました。

広報かすかべにも掲載しましたが、春日部競馬場を物語る資料の一つに、航空写真があります。

戦後(昭和22年)に米軍が撮影したもののほか、昭和20年代の写真には、古利根川沿いの小渕一帯に、楕円形の馬場の跡が認められます。下の写真参照(国土地理院空中写真より)。この場所は、小渕の河畔砂丘が分布するところで、砂地を利用したダート馬場であったことが想像されます。競馬場が選定された当時、食糧を生産する農地をつぶすことは困難だったため、砂丘と桃畑の果樹園を走路として1000mの馬場がつくられたそうです。

昭和35年(1960)競馬場跡地にはアンデスハムの工場が建設され、現在は国道16号沿いの煎餅製造会社の工場として利用されています。

写真:昭和22年航空写真

現在、競馬場の跡はありませんが、古利根川沿いの小渕周辺には、河畔砂丘と呼ばれる内陸型の砂丘の痕跡があり、高齢者施設の幸楽荘の敷地や、近隣の寺社の境内などは砂地になっています。砂丘の地に足を運んでいただき、かつて競馬場であったことに思いをはせてみてはいかがでしょうか。

次回は、西宝珠花の船橋・宝橋について紹介する予定です。

参考文献 田辺一夫編『埼玉県競馬史』(埼玉県競馬主催者協議会、1965年)

【歴史文化講演会】震災後の粕壁町【 #藤羊羹 #桐箪笥 】

令和2年10月17日(土)、昨年度に引き続き、大川明弘先生をお迎えして、古地図から #関東大震災 前後の #粕壁町 の歴史について読み解く講演会を開催しました。

写真:会場の様子

今回は、ちょうど100年前の大正9年(1920)から、昭和10年(1935)ごろまでを対象に、粕壁町の震災被害状況や産業の移り変わりを、諸資料に基づきながらお話しいただきました。

ご講演では、県内三大被災地とされた粕壁町の被害状況はもとより、桐箪笥生産額が大正14年(1925)以降、町の工業生産額の第一位になり、町内の桐箪笥産業が震災後に隆盛すること、牛島のフジの国天然記念物指定の後に町内の飲食業などサービス業に変化がみられることを明らかにされました。昭和初期には町内の菓子店で「藤羊羹」なる名物(現在はない)を販売していたそうです。近現代の春日部を象徴する藤や桐箪笥産業の礎、また小学校校舎の建設など教育の礎が関東大震災の復興期に形成されていくと見通されるお話でした。

これまで、市内の近現代史は、地元の方の記憶・伝承に基づいて叙述されることが多かったように思えます。しかし、粕壁のご出身の大川先生は地元の記憶や伝承に加えて、これまで検討されたことのなかった「粕壁町勢要覧」(粕壁町の統計資料・当館所蔵)や「粕壁小学校震災文集」(当館寄託)などの諸資料に基づいて事実関係を実証されました。その点で、非常に有意義なお話であったと思います。

写真:大川明弘先生

会場からは、桐箪笥産業は江戸時代まで遡ると聞いているがどうなのか、など鋭い質問が投げかけられました。大川先生のお話の趣旨は、震災後に卸問屋業が増え、箪笥生産量が増加していくというものでした。先生も応答されたように、実は、江戸時代・明治時代の市内の桐箪笥産業のあり方について、よくわからない部分が多いのです。ご講演により、今後の課題が明らかになったのだと思います。

受講者の方からは、「市内のなかで粕壁は魅力ある地域だと思った」や「ますます春日部が好きになった」など、うれしい声もありました。地元の先生が郷土の歴史を紐解くことで、郷土愛・地元愛が育まれる。大変有意義な講演会でした。

藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月20日(火)に藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

藤塚小学校見学写真

市内の小学校3年生あてに配布した「たんけんシート」をもってきて、昔の暮らしや道具について、学芸員から説明を受けました。

 

藤塚小学校脱穀体験写真

千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験、「力がいる」「たいへん」といった感想のほかにも、「楽しかった」「気持ちよかった」などの声もあり、昔の苦労と知ると同時に新鮮な体験を楽しんでくれたようです。体験後はコロナ対策のためアルコール消毒もしっかりしました。

 

藤塚小学校スタンプ体験写真

「オリジナルスタンプには行列が!」

みんなマスクを着用して、順番をよく守っていましたね♪ 

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。

 

【更新】収蔵資料の紹介【祝・50点達成】

春日部市郷土資料館のホームページでは、展示しきれない、まちの歴史を物語る重要な資料を多くの方に知っていただくため、ほそぼそと収蔵資料の紹介をしています。この夏、博物館実習生の大学生のみなさんに協力いただき、今回5件の資料を紹介することができました。

実習生には、調書作成から、写真撮影、解説文の作成に至るまで取り組んでもらいました。その時の実習生による報告はこちらです。今回紹介するものは、いずれも春日部の歴史を語る上では重要な資料です。

亀田鵬斎書の看板は、粕壁の老舗の薬種問屋金子家に伝来した看板です。亀田は、江戸時代の有名な書家で、金子家に滞在したお礼に書をしたためたと伝えられています。宿場町粕壁における文化的交流を知るうえで貴重な資料といえます。

世界一藤のかすかべは、昭和5年に刊行された粕壁町や牛島のフジの観光案内書です。当該期の歴史的公文書など、まとまった資料が少ないなかで、国指定天然記念物指定直後の牛島のフジや、粕壁町・幸松村の状況を知るうえで基礎資料です。

木崎六之助商店の取引先名簿は、粕壁町の桐箪製造の商店に伝来した商店の名簿です。春日部の桐箪笥は特産品とされていますが、歴史的な経緯については、具体的にわかっていません。市域の産業の歴史を再考する上で重要な資料といえます。

備後石井家伝来の俳額は、江戸時代の市域を代表する俳人・石井文龍を輩出した備後石井家に伝来したものです。神社などに奉納されたものと考えられますが、詳しい経緯はわかりません。ただ、武里地区を中心とする葛飾蕉門の流れをくむ人々による投句がみられ、江戸時代後期に地域俳諧が盛んだったことがうかがえる資料です。

陣屋稲荷狐像は、粕壁の陣屋地区で祀られていた稲荷社の奉納されていた狐像です。陣屋稲荷は、平成30年8月に解体・遷座してしまいました。近代の粕壁町内の稲荷信仰の一端を物語る資料です。

この5件を更新して、収蔵資料の紹介の点数が、漸く50件に到達しました。

豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月16日(金)に豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

 

写真:豊野小学校見学風景

今から約60年前の生活の様子について学芸員から説明を聞いたり、千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験をしました。

 

写真:豊野小学校航空写真観察風景

航空写真に乗っかって、約60年前という自分が生まれる前の春日部の様子を食い入るように見る場面もありました。

 

帰り際には、「もっと見たい!」「また来ます!」といったうれしい声も♪

マスクの着用や体験後の手指の消毒など、コロナ対策をばっちり行って、楽しい見学会となりました。

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。

 

【広報かすかべ】まちのことを知ってみよう!補足(その1)

令和2年10月1日、春日部市は市制施行15周年を迎えました。10月1日は春日部市民の日です。 #かすかべプラスワン

市の広報誌「広報かすかべ」10月号では、市制15周年の記念して、特集記事「まちのこと知って、まちのことを発信してみよう!」が組まれました。

郷土資料館では、2面・3面の記事の内容を監修(?)しました。記事の内容は、市内8地区の意外に知らない、身近な歴史ネタを紹介したものです。郷土の歴史は「春日部らしさ」。なので、市制15周年を機に、身近にある「春日部らしさ」を再発見してもらいたいと願い、記事を書きました。

紙面に限りもありましたので、言葉足らずだった部分もありますので、この場を借りて補足説明をさせていただきます。今回はその第一弾「内牧編」です。

記事は次の通りです。

 春日部唯一!?古代人の顔

 内牧の塚内古墳群(市指定史跡)は、6世紀~7世紀につくられた約20基の古墳からなる古墳群です。このうち塚内4号墳からは、市内でも数少ない、人の形をした埴輪(はにわ)が発見されています。※古墳は全て私有地に所在し、一般公開はされていません。

 埴輪の性別は男性です。郷土資料館で展示中。

写真:塚内4号墳出土人物埴輪 

郷土資料館ではおなじみの人物埴輪を紹介しました。顔を側面に、美豆良(みずら)とよばれる男性の髪型を模った造形の痕跡がありますので、男性の埴輪とされています。

市内では、内牧の塚内古墳群のほか、庄和南部の東中野地区の向之内塚山古墳の二地区に古墳が認められます。塚内古墳群は20数基確認され、向之内塚山古墳と合わせて、多くの埴輪片が出土しています。しかし、人や馬などを模った形象埴輪はわずかで、さらに人の形の埴輪は、紹介した人物埴輪が「唯一!?」です。実は、この「!?」がミソです。

人物埴輪の出土例は、塚内古墳群で数点確認されます。その一部が下の写真です。

写真:人物埴輪部分

首から肩・胸にかけての、人物埴輪の部分です。丸いものは首飾りを模っているのでしょうか。

残念ながら、顔面は失われており、どんな顔だちなのか不明です。このほかにも、人の形の埴輪の部位と考えられる欠片がいくつか発見されていますが、肝心のお顔は見つかっていません。

ですから、塚内4号墳は、顔だちがわかる埴輪としては市内唯一ですが、人の形の埴輪として「唯一」ではないのです。今後、新たに発見されるかもしれません。そうした期待も込めて、「唯一」ではなく「唯一!?」とした次第です。

長くなりましたが、補足説明でした。次回は、幸松編・競馬場の話を予定します。

【台風】古文書講座(初級編・中級編)中止します

令和2年10月10日(土)に開催予定の古文書講座(初級編・中級編)について、台風14号の接近が予想されていますので、受講者の皆さんの安全のため、中止といたします。

初回は、11月14日(土)となりますので、ご承知おきください。

皆さまのご理解のほど、よろしくお願いいたします。

イラスト:おじぎするうめわかくん

【はじまりました】「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具」展

令和2年10月6日(火)より、小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」がはじまりました。

この展示では、今から約60年前の、道具やくらしの変化、そしてまちのうつりかわりを紹介するものです。小学校第3学年の社会科地域学習単元に対応した内容になっていますので、お子様でも楽しく学べる内容になっています。ご家族でぜひご利用ください。大人の方は、昔を懐かしんでいただける内容として、お楽しみいただけます。

画像:展示のポスター

この展示会は、毎年恒例なのですが、コロナ禍にあってハンズオン展示が難しいということもあり、今回は大幅に展示物や陳列方法を見直してみました。

担当者のおすすめは、新設した「切手と収蔵品でたどる20世紀」のコーナーです。

写真:展示資料

平成11年・12年に発売された20世紀デザイン切手を軸に、切手の図柄に描かれるゆかりの収蔵品を合わせて並べてみました。しかし、数万点はくだらない当館の収蔵品でも、昭和40・50年代の資料は乏しく、頭を悩ませました。

そこで、粕壁のレコード店に駆け込み、当時流行したレコードを捜し、陳列することにしました。ピンク・レディー「UFO」、ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」、山口百恵「秋桜」などがそれです。担当者は同時代を知りませんが、レコードジャケットの風合いが懐かしさを醸し出していると思います。そのほかにも、時代を象徴する出来事にゆかりの資料を展示していますので、ぜひご覧ください。

 

展示名:小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」 

会期:令和2年10月6日(火)~令和3年3月21日(日)

休館日:月曜日・祝日・年末年始

入館料:無料

「1960年代の春日部」パンフレットPDF版

第62回企画展示「1960春日部」は7月7日に、無事終了いたしました。
ご来館いただいた皆様、誠にありがとうございました。
会場で配布しておりました「1960年代の春日部」パンフレットをPDFにて掲載いたします。どうぞご利用ください。

 

*インターネット掲載にあたり、8ページ(3.1967年埼玉国体)の記述を一部修正しました。

誤:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。

正:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)と軟式野球(牛島球場)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。

 

*12月1日(火)修正:1ページ、谷原中の開校年を下記のとおり修正しました。

誤:(1976・昭和51年)→正:(1975・昭和50年)

 

*12月16日(水」)修正:2ページ「武里団地起工式」の年を下記の通り修正しました。

誤:武里団地起工式(1964年)→正:武里団地起工式(1965年)

 

1960年代の春日部パンフレット表紙 1960年代の春日部(春日部市郷土資料館).pdf

東洋一のマンモス団地

9月13日(日)まで企画展「1960年代の春日部」を開催しています。

「東洋一のマンモス団地」とは、どこの団地を指しているのでしょうか?という質問をいただきました。

草加市の草加松原団地は、1962年入居開始、竣工時戸数は5,926戸を誇ります。
草加市歴史民俗資料館では、10月4日まで、「草加×東洋一のマンモス団地展(草加市歴史民俗資料館サイトにリンク)」が開催されています。

わが春日部市の武里団地は、1966年入居開始で、竣工時の戸数が賃貸、特別分譲を合わせて6,119戸です。武里団地と草加松原団地は、埼玉県内のみならず全国的にも、規模が大きい団地です。

最大規模の団地は、UR都市機構のサイト(該当サイトにリンク)によると、東京都板橋区の高島平団地(1972年入居開始)で、総戸数10,170戸と、UR都市機構(旧日本住宅公団)が手がけた最大の団地とのことです。


国立国会図書館サーチ(該当サイトにリンク)で「東洋一 マンモス団地」という言葉で検索してみると、1962年7月1日号の週刊現代の記事がヒットします。この記事では、「夢の東洋一マンモス団地の誕生」と題し、大阪府の「千里丘陵ニュータウン」を採りあげています。千里ニュータウンは、大阪府営住宅、大阪府住宅供給公社、UR都市機構の住宅で構成され、3万戸の住宅にピーク時には約13万人が居住しました。

作家の藤井青銅氏は、2005年に『東洋一の本』を著し、日本中の「東洋一」を集め、考察されています。「東洋一」という言葉は、戦前から戦中の1926~1940年ごろと1951~1965年ごろの2度、新聞記事の見出しに多く使われたようです。武里団地や草加松原団地が完成した1960年代は、2回目の「東洋一」が多く使われる時期にあたります。また「東洋」という言葉は、確定的な範囲を示すものではなく、「西洋」に対して誕生した言葉であるようです。

藤井氏は、「東洋一」という言葉は、『エジプト旅行記』(ドミニク・ビバン・ドゥノン著、1802年)や福沢諭吉の『世界国尽』(1869年)が初出ではないかと推察されています。そして仮説として「西洋>東洋」という図式を意識した明治期の日本人が、「東洋一」であれば、西洋に認められると考え、多用し始めたのではないかとしています。

また高度経済成長期は、奇跡的に経済復興を果たした日本が、「東洋一」を名乗りやすくなり、規模の大きさなどを示す「東洋一」が数多く生まれたとしています。
ちなみに『東洋一の本』に掲載されている「日本全国『東洋一』物件リスト」には、大阪府の香里団地が「東洋一の団地」と呼ばれたことがあるとして掲載されています。

「東洋」の範囲を確定できない以上、真の「東洋一のマンモス団地」は残念ながらわかりませんが、1960年代の人々が「東洋一」と胸を張って誇った団地の歩みを、後世にも受け継いでいきたいものです。

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

 

参考文献

日本住宅公団20年史刊行委員会 1975 『日本住宅公団20年史』 日本住宅公団

千里ニュータウン情報館サイト https://senri-nt.com/

藤井青銅2005『東洋一の本』株式会社小学館

 

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