日光道中粕壁宿~歩いてみよう道しるべ案内マップ

案内マップ

①八坂神社

粕壁宿は、日本橋から9里2丁(約36キロメートル)の距離にある。幅は約9メートルの道沿いには、約1.1キロメートルもの町並みが続いていた。嘉永2年(1849)には、人口は3779人、旅籠屋は37軒あった。宿の入り口にあたる八坂神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれた。明和7年(1770)に火災に遭い、詳しい由来は不明だが、宿の市神として信仰された。神社の祭礼は、現在の春日部夏祭りの起源でもあり、江戸時代には毎年6月(旧暦)に行われた。

昭和37年(1962) 一宮交差点(郷土資料館所蔵)

一宮交差点で直進する現在の国道4号は、昭和27年(1952)に開通したもので、それまでの国道4号は現在の春日部大通りだった。写真は八坂神社付近から杉戸方面を撮影したもの。左:旧日光街道、右:国道4号。

②東陽寺・源徳寺

新々田と呼ばれるこの辺りは、宿場のなかでは新興の地だった。東陽寺は、文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に開山したが、寛永元年(1624)に焼失し、寛文2年(1662)に当地で中興したと伝えられる。松尾芭蕉に随行した弟子曽良の日記に「廿七日夜カスカヘニ泊ル」とあり、元禄2年(1689)3月27日、芭蕉が「奥の細道」の旅で同寺に宿泊したともいわれている。向かいの源徳寺は、明暦元年(1655)に開山したが、元文4年(1739)に火災に遭い、故事は不詳である。

昭和10年(1935)新々田の町並み(「大正12年粕壁町震災写真帖」郷土資料館所蔵)

東陽寺には、芭蕉の弟子曽良の日記(原本)の文字を刻んだ石碑がある。写真は杉戸方面を撮影したものと考えられる。中央にみえる石柱は東八幡神社の入口か。

③脇本陣跡

文化会館前交差点の付近には、かつて水路があり、三枚の板石の橋が架けられていたため、この辺りは三枚橋と呼ばれた。脇本陣は大名や高僧が宿泊・休憩する本陣の予備施設である。中宿(仲町)の蓮沼屋庄兵衛が勤めたが、天保元年(1830)に現在地で旅籠屋を営んでいた高砂屋竹内家が勤め、嘉永2年(1849)から幕末まで本陣になった。明治9年(1876)6月、同14年(1881)7月、明治天皇の東北巡幸の際、高砂屋は御昼食所となった。宅地は417坪あったと伝えられる。

昭和37年(1962)三枚橋付近での夏祭り(郷土資料館所蔵)

高砂屋は粕壁のなかでは上等の旅籠屋だったが、明治11年(1878)6月10日に高砂屋に宿泊した、イギリス人女性イザベラ・バードは、悪臭や蚤・蚊に悩まされたとつづっている(『日本奥地紀行』)。写真は、標柱③付近から杉戸方面を撮影したもの。

④本陣跡

本陣は、大名や高僧が宿泊・休憩する公用の施設である。古くは、関根次郎兵衛家が勤め、その後、現在地の関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に4度移転した。日光山法会など、公用の通行者が多い時には、最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもあった。

《粕壁宿の本陣の変遷》

年代 本陣を勤めた家 現在地
不明 関根次郎兵衛家 仲町郵便局辺り
不明 関根助右衛門家 標柱④
宝暦4年(1754)~ 見川家 埼玉りそな銀行向かい辺り
文化6年(1809)~ 小沢家 群馬銀行辺り
嘉永2年(1849)~ 竹内家 金子歯科医院辺り

小沢本陣図面(トレース)

小沢本陣屋敷図面(トレース)

図は、盛岡藩が作成した粕壁の本陣小沢栄蔵家の図面。小沢家は元々旅籠屋だったが、表門や番所、式台が備えられ、大名等が駕籠に乗ったまま玄関にあがれるようになっていた。家内には、上段の間や湯殿・雪隠などが整えられていた。

⑤ミセと蔵

中宿(仲町)と呼ばれたこの辺りには、江戸時代に米問屋など蔵造りの商家や旅籠屋などが多く立ち並んだ。粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。このような短冊状の地割は、江戸時代の宿場町にみられる歴史的な景観の一つである。街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げされた。現存する蔵造りの建物は、火災除けのため、幕末から明治期にかけて建てられたものが多い。

昭和10年(1935)仲町方面(「大正12年粕壁町震災写真帖」郷土資料館所蔵)

春日部駅東口ロータリーから古利根公園橋をつなぐ道路は昭和50年代から造成された道で、標柱⑤付近も町並みが続いていた。写真は仲町の東屋付近から杉戸方面を撮影したもの。

⑥問屋場

問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、継送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に六度の市がたった。なお、問屋場は文政9年(1826)に三枚橋に移転した。向かいの路地の神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路だった。通り沿いの神明社には同家の屋敷神といわれる見川稲荷が残っていたといわれる。

昭和10年(1935)上町の町並み(「大正12年粕壁町震災写真帖」郷土資料館所蔵)

粕壁宿の問屋場は、宝永4年(1707)に定使屋敷に設置。間口は表7間1尺7寸(約13メートル)あった。写真は武州銀行(現埼玉りそな銀行)付近から杉戸方面を撮影したもの。

⑦高札場跡・浜島家住宅土蔵

この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。

明治42年(1909)12月電話線架設記念(郷土資料館所蔵)

写真は標柱の向かいにあった商家(現第9保育所等)。明治33年(1900)に鷹狩のため来訪した徳川慶喜がここに宿泊した。

⑧新町橋・河岸場跡

新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29m)、横3間(約5m)の板橋で、高覧が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられた。新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。

昭和10年(1935)新町より粕壁町を望む(『粕壁町誌』、郷土資料館所蔵)

新町橋を渡ると隣村の八丁目村となるが、街道沿いには「新町」と呼ばれた町並みがしばらく続いた。写真は八丁目から粕壁方面を撮影したもの。写真奥には新町橋がある。