ほごログ(文化財課ブログ)

カテゴリ:郷土資料館

春日部にあった競馬場(広報補足 その2)

前回に引き続き、広報かすかべ10月特集号の補足説明です。今回は、春日部市幸松地区小渕にあった競馬場のこと。 #かすかべプラスワン

戦前の競馬は、富国強兵のため軍馬資源の確保・産馬の奨励といった国策のために行われたものが主でした。春日部市内の競馬場は、「春日部競馬」と呼ばれ、昭和15年(1940)9月から昭和22年(1947)まで、小渕の地で開催されました。

当時の競馬は、軍馬資源保護法による「鍛錬競馬」であり、軍用保護馬と指定された馬のみ出走が許されたものでした。埼玉県では、羽田競馬・川崎競馬と並んで三大競馬と称された大宮競馬場が隆盛していましたが、昭和13年(1938)の軍需工業動員法により飛行場の用地とされ廃止され、新たに春日部の小渕の地が、当時県内唯一の競馬場として選定されました。

施設は、大宮競馬場の古材で建て、投票券の印刷、出馬表の印刷などは、毎朝浦和からオート三輪で運び、番組編成員は八丁目の仲蔵院でガリ版切りなどをやったと伝えられています。

ただ、売り上げは不振で出走頭数、入場人員も最低。昭和18年(1933)末には軍需工場に貸与され、競馬は一時中断されるに至りました。

戦後、鍛錬競馬の元になった軍馬資源保護法が廃止されると、俗にいう「ヤミ競馬」が始まります。春日部では2回延べ8日間、開催されました。

昭和21年(1946)11月に地方競馬法が制定されると、県内唯一の春日部競馬で地方競馬が1回延べ6日間開催されました。しかし、売り上げが悪く、また浦和の熱心な競馬場誘致もあって、昭和23年(1948)に浦和競馬に移転され、春日部競馬場の歴史は幕を下ろします。

残念ながら、当時のことを示す資料は、昭和23年(1948)の埼玉県庁の火災により、焼失したといわれ、詳しいことはよくわかりません。地元小渕の方によれば、お父さんが農閑の合間に馬券販売の手伝いをしたと話す方もいますが、競馬場があったという記憶は薄れつつあります。ちなみに、春日部競馬ではなく、「粕壁競馬」と書く文献もありますが、当時の一次史料が見出されていないため不明です。今回は、『埼玉県競馬史』にならい、「春日部競馬」としました。

広報かすかべにも掲載しましたが、春日部競馬場を物語る資料の一つに、航空写真があります。

戦後(昭和22年)に米軍が撮影したもののほか、昭和20年代の写真には、古利根川沿いの小渕一帯に、楕円形の馬場の跡が認められます。下の写真参照(国土地理院空中写真より)。この場所は、小渕の河畔砂丘が分布するところで、砂地を利用したダート馬場であったことが想像されます。競馬場が選定された当時、食糧を生産する農地をつぶすことは困難だったため、砂丘と桃畑の果樹園を走路として1000mの馬場がつくられたそうです。

昭和35年(1960)競馬場跡地にはアンデスハムの工場が建設され、現在は国道16号沿いの煎餅製造会社の工場として利用されています。

写真:昭和22年航空写真

現在、競馬場の跡はありませんが、古利根川沿いの小渕周辺には、河畔砂丘と呼ばれる内陸型の砂丘の痕跡があり、高齢者施設の幸楽荘の敷地や、近隣の寺社の境内などは砂地になっています。砂丘の地に足を運んでいただき、かつて競馬場であったことに思いをはせてみてはいかがでしょうか。

次回は、西宝珠花の船橋・宝橋について紹介する予定です。

参考文献 田辺一夫編『埼玉県競馬史』(埼玉県競馬主催者協議会、1965年)

【歴史文化講演会】震災後の粕壁町【 #藤羊羹 #桐箪笥 】

令和2年10月17日(土)、昨年度に引き続き、大川明弘先生をお迎えして、古地図から #関東大震災 前後の #粕壁町 の歴史について読み解く講演会を開催しました。

写真:会場の様子

今回は、ちょうど100年前の大正9年(1920)から、昭和10年(1935)ごろまでを対象に、粕壁町の震災被害状況や産業の移り変わりを、諸資料に基づきながらお話しいただきました。

ご講演では、県内三大被災地とされた粕壁町の被害状況はもとより、桐箪笥生産額が大正14年(1925)以降、町の工業生産額の第一位になり、町内の桐箪笥産業が震災後に隆盛すること、牛島のフジの国天然記念物指定の後に町内の飲食業などサービス業に変化がみられることを明らかにされました。昭和初期には町内の菓子店で「藤羊羹」なる名物(現在はない)を販売していたそうです。近現代の春日部を象徴する藤や桐箪笥産業の礎、また小学校校舎の建設など教育の礎が関東大震災の復興期に形成されていくと見通されるお話でした。

これまで、市内の近現代史は、地元の方の記憶・伝承に基づいて叙述されることが多かったように思えます。しかし、粕壁のご出身の大川先生は地元の記憶や伝承に加えて、これまで検討されたことのなかった「粕壁町勢要覧」(粕壁町の統計資料・当館所蔵)や「粕壁小学校震災文集」(当館寄託)などの諸資料に基づいて事実関係を実証されました。その点で、非常に有意義なお話であったと思います。

写真:大川明弘先生

会場からは、桐箪笥産業は江戸時代まで遡ると聞いているがどうなのか、など鋭い質問が投げかけられました。大川先生のお話の趣旨は、震災後に卸問屋業が増え、箪笥生産量が増加していくというものでした。先生も応答されたように、実は、江戸時代・明治時代の市内の桐箪笥産業のあり方について、よくわからない部分が多いのです。ご講演により、今後の課題が明らかになったのだと思います。

受講者の方からは、「市内のなかで粕壁は魅力ある地域だと思った」や「ますます春日部が好きになった」など、うれしい声もありました。地元の先生が郷土の歴史を紐解くことで、郷土愛・地元愛が育まれる。大変有意義な講演会でした。

藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月20日(火)に藤塚小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

藤塚小学校見学写真

市内の小学校3年生あてに配布した「たんけんシート」をもってきて、昔の暮らしや道具について、学芸員から説明を受けました。

 

藤塚小学校脱穀体験写真

千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験、「力がいる」「たいへん」といった感想のほかにも、「楽しかった」「気持ちよかった」などの声もあり、昔の苦労と知ると同時に新鮮な体験を楽しんでくれたようです。体験後はコロナ対策のためアルコール消毒もしっかりしました。

 

藤塚小学校スタンプ体験写真

「オリジナルスタンプには行列が!」

みんなマスクを着用して、順番をよく守っていましたね♪ 

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。

 

【更新】収蔵資料の紹介【祝・50点達成】

春日部市郷土資料館のホームページでは、展示しきれない、まちの歴史を物語る重要な資料を多くの方に知っていただくため、ほそぼそと収蔵資料の紹介をしています。この夏、博物館実習生の大学生のみなさんに協力いただき、今回5件の資料を紹介することができました。

実習生には、調書作成から、写真撮影、解説文の作成に至るまで取り組んでもらいました。その時の実習生による報告はこちらです。今回紹介するものは、いずれも春日部の歴史を語る上では重要な資料です。

亀田鵬斎書の看板は、粕壁の老舗の薬種問屋金子家に伝来した看板です。亀田は、江戸時代の有名な書家で、金子家に滞在したお礼に書をしたためたと伝えられています。宿場町粕壁における文化的交流を知るうえで貴重な資料といえます。

世界一藤のかすかべは、昭和5年に刊行された粕壁町や牛島のフジの観光案内書です。当該期の歴史的公文書など、まとまった資料が少ないなかで、国指定天然記念物指定直後の牛島のフジや、粕壁町・幸松村の状況を知るうえで基礎資料です。

木崎六之助商店の取引先名簿は、粕壁町の桐箪製造の商店に伝来した商店の名簿です。春日部の桐箪笥は特産品とされていますが、歴史的な経緯については、具体的にわかっていません。市域の産業の歴史を再考する上で重要な資料といえます。

備後石井家伝来の俳額は、江戸時代の市域を代表する俳人・石井文龍を輩出した備後石井家に伝来したものです。神社などに奉納されたものと考えられますが、詳しい経緯はわかりません。ただ、武里地区を中心とする葛飾蕉門の流れをくむ人々による投句がみられ、江戸時代後期に地域俳諧が盛んだったことがうかがえる資料です。

陣屋稲荷狐像は、粕壁の陣屋地区で祀られていた稲荷社の奉納されていた狐像です。陣屋稲荷は、平成30年8月に解体・遷座してしまいました。近代の粕壁町内の稲荷信仰の一端を物語る資料です。

この5件を更新して、収蔵資料の紹介の点数が、漸く50件に到達しました。

豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年10月16日(金)に豊野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

 

写真:豊野小学校見学風景

今から約60年前の生活の様子について学芸員から説明を聞いたり、千歯こき(せんばこき)を使った脱穀体験をしました。

 

写真:豊野小学校航空写真観察風景

航空写真に乗っかって、約60年前という自分が生まれる前の春日部の様子を食い入るように見る場面もありました。

 

帰り際には、「もっと見たい!」「また来ます!」といったうれしい声も♪

マスクの着用や体験後の手指の消毒など、コロナ対策をばっちり行って、楽しい見学会となりました。

 

「くらしのうつりかわり―なつかしい昔の道具展―」は、10月6日(火)から3月21日(日)まで開催しています。

昔懐かしい民具や勉強道具、おもちゃなどを展示し、お子様からご年配の方まで楽しんでいただける展示となっております。ぜひご来館ください。

 

【広報かすかべ】まちのことを知ってみよう!補足(その1)

令和2年10月1日、春日部市は市制施行15周年を迎えました。10月1日は春日部市民の日です。 #かすかべプラスワン

市の広報誌「広報かすかべ」10月号では、市制15周年の記念して、特集記事「まちのこと知って、まちのことを発信してみよう!」が組まれました。

郷土資料館では、2面・3面の記事の内容を監修(?)しました。記事の内容は、市内8地区の意外に知らない、身近な歴史ネタを紹介したものです。郷土の歴史は「春日部らしさ」。なので、市制15周年を機に、身近にある「春日部らしさ」を再発見してもらいたいと願い、記事を書きました。

紙面に限りもありましたので、言葉足らずだった部分もありますので、この場を借りて補足説明をさせていただきます。今回はその第一弾「内牧編」です。

記事は次の通りです。

 春日部唯一!?古代人の顔

 内牧の塚内古墳群(市指定史跡)は、6世紀~7世紀につくられた約20基の古墳からなる古墳群です。このうち塚内4号墳からは、市内でも数少ない、人の形をした埴輪(はにわ)が発見されています。※古墳は全て私有地に所在し、一般公開はされていません。

 埴輪の性別は男性です。郷土資料館で展示中。

写真:塚内4号墳出土人物埴輪 

郷土資料館ではおなじみの人物埴輪を紹介しました。顔を側面に、美豆良(みずら)とよばれる男性の髪型を模った造形の痕跡がありますので、男性の埴輪とされています。

市内では、内牧の塚内古墳群のほか、庄和南部の東中野地区の向之内塚山古墳の二地区に古墳が認められます。塚内古墳群は20数基確認され、向之内塚山古墳と合わせて、多くの埴輪片が出土しています。しかし、人や馬などを模った形象埴輪はわずかで、さらに人の形の埴輪は、紹介した人物埴輪が「唯一!?」です。実は、この「!?」がミソです。

人物埴輪の出土例は、塚内古墳群で数点確認されます。その一部が下の写真です。

写真:人物埴輪部分

首から肩・胸にかけての、人物埴輪の部分です。丸いものは首飾りを模っているのでしょうか。

残念ながら、顔面は失われており、どんな顔だちなのか不明です。このほかにも、人の形の埴輪の部位と考えられる欠片がいくつか発見されていますが、肝心のお顔は見つかっていません。

ですから、塚内4号墳は、顔だちがわかる埴輪としては市内唯一ですが、人の形の埴輪として「唯一」ではないのです。今後、新たに発見されるかもしれません。そうした期待も込めて、「唯一」ではなく「唯一!?」とした次第です。

長くなりましたが、補足説明でした。次回は、幸松編・競馬場の話を予定します。

【台風】古文書講座(初級編・中級編)中止します

令和2年10月10日(土)に開催予定の古文書講座(初級編・中級編)について、台風14号の接近が予想されていますので、受講者の皆さんの安全のため、中止といたします。

初回は、11月14日(土)となりますので、ご承知おきください。

皆さまのご理解のほど、よろしくお願いいたします。

イラスト:おじぎするうめわかくん

【はじまりました】「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具」展

令和2年10月6日(火)より、小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」がはじまりました。

この展示では、今から約60年前の、道具やくらしの変化、そしてまちのうつりかわりを紹介するものです。小学校第3学年の社会科地域学習単元に対応した内容になっていますので、お子様でも楽しく学べる内容になっています。ご家族でぜひご利用ください。大人の方は、昔を懐かしんでいただける内容として、お楽しみいただけます。

画像:展示のポスター

この展示会は、毎年恒例なのですが、コロナ禍にあってハンズオン展示が難しいということもあり、今回は大幅に展示物や陳列方法を見直してみました。

担当者のおすすめは、新設した「切手と収蔵品でたどる20世紀」のコーナーです。

写真:展示資料

平成11年・12年に発売された20世紀デザイン切手を軸に、切手の図柄に描かれるゆかりの収蔵品を合わせて並べてみました。しかし、数万点はくだらない当館の収蔵品でも、昭和40・50年代の資料は乏しく、頭を悩ませました。

そこで、粕壁のレコード店に駆け込み、当時流行したレコードを捜し、陳列することにしました。ピンク・レディー「UFO」、ささきいさお「宇宙戦艦ヤマト」、山口百恵「秋桜」などがそれです。担当者は同時代を知りませんが、レコードジャケットの風合いが懐かしさを醸し出していると思います。そのほかにも、時代を象徴する出来事にゆかりの資料を展示していますので、ぜひご覧ください。

 

展示名:小学校地域学習展(第37回)「くらしのうつりかわりーなつかしい昔の道具展」 

会期:令和2年10月6日(火)~令和3年3月21日(日)

休館日:月曜日・祝日・年末年始

入館料:無料

「1960年代の春日部」パンフレットPDF版

第62回企画展示「1960春日部」は7月7日に、無事終了いたしました。
ご来館いただいた皆様、誠にありがとうございました。
会場で配布しておりました「1960年代の春日部」パンフレットをPDFにて掲載いたします。どうぞご利用ください。

 

*インターネット掲載にあたり、8ページ(3.1967年埼玉国体)の記述を一部修正しました。

誤:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。

正:旧春日部市で卓球(ウイングハット春日部)と軟式野球(牛島球場)、旧庄和町で軟式野球(庄和球場)が行われました。

 

*12月1日(火)修正:1ページ、谷原中の開校年を下記のとおり修正しました。

誤:(1976・昭和51年)→正:(1975・昭和50年)

 

*12月16日(水」)修正:2ページ「武里団地起工式」の年を下記の通り修正しました。

誤:武里団地起工式(1964年)→正:武里団地起工式(1965年)

 

1960年代の春日部パンフレット表紙 1960年代の春日部(春日部市郷土資料館).pdf

東洋一のマンモス団地

9月13日(日)まで企画展「1960年代の春日部」を開催しています。

「東洋一のマンモス団地」とは、どこの団地を指しているのでしょうか?という質問をいただきました。

草加市の草加松原団地は、1962年入居開始、竣工時戸数は5,926戸を誇ります。
草加市歴史民俗資料館では、10月4日まで、「草加×東洋一のマンモス団地展(草加市歴史民俗資料館サイトにリンク)」が開催されています。

わが春日部市の武里団地は、1966年入居開始で、竣工時の戸数が賃貸、特別分譲を合わせて6,119戸です。武里団地と草加松原団地は、埼玉県内のみならず全国的にも、規模が大きい団地です。

最大規模の団地は、UR都市機構のサイト(該当サイトにリンク)によると、東京都板橋区の高島平団地(1972年入居開始)で、総戸数10,170戸と、UR都市機構(旧日本住宅公団)が手がけた最大の団地とのことです。


国立国会図書館サーチ(該当サイトにリンク)で「東洋一 マンモス団地」という言葉で検索してみると、1962年7月1日号の週刊現代の記事がヒットします。この記事では、「夢の東洋一マンモス団地の誕生」と題し、大阪府の「千里丘陵ニュータウン」を採りあげています。千里ニュータウンは、大阪府営住宅、大阪府住宅供給公社、UR都市機構の住宅で構成され、3万戸の住宅にピーク時には約13万人が居住しました。

作家の藤井青銅氏は、2005年に『東洋一の本』を著し、日本中の「東洋一」を集め、考察されています。「東洋一」という言葉は、戦前から戦中の1926~1940年ごろと1951~1965年ごろの2度、新聞記事の見出しに多く使われたようです。武里団地や草加松原団地が完成した1960年代は、2回目の「東洋一」が多く使われる時期にあたります。また「東洋」という言葉は、確定的な範囲を示すものではなく、「西洋」に対して誕生した言葉であるようです。

藤井氏は、「東洋一」という言葉は、『エジプト旅行記』(ドミニク・ビバン・ドゥノン著、1802年)や福沢諭吉の『世界国尽』(1869年)が初出ではないかと推察されています。そして仮説として「西洋>東洋」という図式を意識した明治期の日本人が、「東洋一」であれば、西洋に認められると考え、多用し始めたのではないかとしています。

また高度経済成長期は、奇跡的に経済復興を果たした日本が、「東洋一」を名乗りやすくなり、規模の大きさなどを示す「東洋一」が数多く生まれたとしています。
ちなみに『東洋一の本』に掲載されている「日本全国『東洋一』物件リスト」には、大阪府の香里団地が「東洋一の団地」と呼ばれたことがあるとして掲載されています。

「東洋」の範囲を確定できない以上、真の「東洋一のマンモス団地」は残念ながらわかりませんが、1960年代の人々が「東洋一」と胸を張って誇った団地の歩みを、後世にも受け継いでいきたいものです。

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

武里団地7街区(10階建て)から南の風景(1969年)

 

参考文献

日本住宅公団20年史刊行委員会 1975 『日本住宅公団20年史』 日本住宅公団

千里ニュータウン情報館サイト https://senri-nt.com/

藤井青銅2005『東洋一の本』株式会社小学館

 

9月19日(土)から9月23日(水)は燻蒸作業のため休館します

9月19日(土)~23日(水)は燻蒸作業のため、郷土資料館は休館します。

19日(土)~22日(火)は、教育センター全館立ち入り禁止になりますのでご注意ください。

23日(水)は、郷土資料館は休館となりますが、教育委員会事務局は業務を行っております。 

博物館実習最終日

令和2年度の博物館実習も、いよいよ最終日をむかえました。

当館の博物館実習は、例年、体験講座の指導補助等、教育普及活動に重点を置いたものとなっていますが、今年度はコロナ禍のため、資料の調査・展示を重点とした実習となりました。とはいえ、昨日まで実習生が本ブログに記述してくれたように、収蔵資料のWeb紹介の準備資料の取り扱い地元の方を招いての聞き取り調査、資料の整理・調書作成展示のキャプションづくり近隣地域博物館の見学と盛りだくさんな内容でした。

最終日の今日は、実習生個々で準備・制作した収蔵資料のWeb紹介のコンテンツの発表を行いました。

写真:資料紹介文を検討する実習生

みなさん、短期間にも関わらずよく調べており、資料の解説は充実した内容となりましたが、資料自体の説明が不足していたり、課題も残りました。実習生の制作した収蔵資料の紹介は、みなさんの意見を踏まえブラッシュアップさせて、近日公開する予定です。

最後に、実習のまとめとして、各々に印象に残ったことを話してもらい、博物館・学芸員の役割について議論しました。資料を収蔵・保存する意義、調査し、展示を一からつくる大変さ、市民・地域とのコミュニケーション能力の大切さ、学芸員の専門性など、実習を経験して地域博物館や学芸員が抱える様々な問題に気づくことができたようでした。

実習生の皆さんにはこの経験を糧にして、未来に羽ばたいていただければ、郷土資料館の職員一同、大変うれしく思います。

実習六日目

 こんにちは!実習六日目の本日は、午前中には、まず、宮代町郷土資料館を訪れて、国史跡神明貝塚を見学して、午後には、幸手市郷土資料館を訪れました。
 宮代町郷土資料館は野外展示と常設展示で構成されていました。常設展示では、古墳時代の鍛冶工房の再現や江戸時代の新田開発の模型を置いて分かり易く解説していて、展示に工夫を凝らしていました。また、展示する上で問題も抱えながらも上手く対処していて資料の保存にも気を付けているようでした。

写真:宮代町郷土資料館で説明をうける
 企画展では太平洋戦争のことを取り上げていて、町や地域に根差した歴史を伝えるため寄贈を受けた資料をもとに分かったことを解説しているようでした。
 野外展示では旧加藤家住宅や旧斎藤家住宅を展示していました。土間には煙出しの高窓があって、定期的に竈を使っているようでした。古民家にはあまり入ったことがなかったため珍しいものが多く貴重な体験でした。

写真:宮代町郷土資料館の加藤家住宅

 宮代町から幸手市に移動する途中、国史跡神明貝塚を見学しました。神明貝塚では、縄文時代のシジミの貝殻などを観察することが出来ました。


 幸手市郷土資料館は、以前、准看護学校として使われていた建物と吉田中学校という昔の校舎を博物館として使っているそうです。ストライプウォールなどを使って展示方法に工夫を凝らしているようでした。旧吉田中学校の民具資料室は昭和・平成初期のものが多く米作りや養蚕に使われるものもあって親しみやすかったです。ここでは藍のたたき染体験も出来て、昔から伝わる手仕事も体験を通して伝えていました。

写真:藍のたたき染め体験

 明日の実習はいよいよ最終日で、展示コンテンツの発表・討論を行うので今まで学んできたことを活かして実習生一同全力で取り組みたいと思います。
(令和二年 博物館実習生)

実習五日目

実習五日目の本日は、午前中に、昨日実習生が個人で作成した調査カードを共有し、それぞれ良かった点、悪かった点などを話し合いました。実習生はそれぞれ至らなかった点に気づき、調査カードを書き直す姿が見受けられました。
写真:資料調書について話し合う実習生
次に、昨日、調査・整理した大工道具を展示するにあたり、テーマやキャプションをどうするかなどを実習生で議論しました。結果、実習生全員で展示のキャプションを完成させることができました。
写真:展示資料

写真:資料キャプションについて議論する実習生
私たちが博物館で目にする展示のキャプションは、このようにして一語一句、緻密に考えられてできているものだと実感しました。

明日の実習では博物館見学をするので今日体験した展示の企画を踏まえて、キャプションや、展示物の配置など細かいところに留意をしながら見学したいと思います。
(令和二年 博物館実習生)

実習四日目

実習四日目の本日は、聞き取り調査と収蔵資料の整理を行いました。

写真:寄贈された資料

市内にお住いの方が以前使用していた大工道具を寄贈してくださったため、その資料についてお話を伺いました。道具の呼称や使用方法などを教えていただくのと同時に、当時の粕壁についても理解を深めることができました。また、実習生は初の聞き取り調査ということもあり緊張した様子でしたが、一人一つずつは質問することができました。

写真:聞き取り調査の様子

写真:資料の使い方を説明される旧蔵者の方

一緒に聞き取り調査を行っていた学芸員さんは積極的に質問をされていて、分からないことはどんどん明確に、さらに話を詰めていました。学芸員という仕事においてコミュニケーション能力がいかに重要であるかを肌身で感じることができた実りある時間でした。

写真:資料調査の様子

午後は、寄贈していただいた資料の整理を行いました。資料一つにつき収蔵番号を記した調査カードを一枚括り付けていきました。加えて、午前中に寄贈者の方から伺ったお話をもとに文献と照らし合わせながら正確な情報を民具調査カードに記入しました。スケッチがとても難しかったので、慣れるためにも練習を重ねていきたいと思います。明日以降も実習生みんなで協力して展示を作り上げたいです。

(令和二年 博物館実習生)

実習三日目

実習三日目の今日は、午前中に昨日の続きである収蔵資料の調査・研究を、午後に軸装や土器の取扱いについての体験実習を行いました。資料調査では、実習生全員がWeb展示に向けて調査した内容をどのようにして文章に落とし込むかを真剣に考えながら黙々と作業を続ける様子が見受けられました。
写真:黙々と調べものをする実習生

写真:資料写真の撮影
午後からの体験実習では、資料を取り扱う際の基本的な心構えや資料毎の取扱い手順を教えていただいた後、実際に資料に触れさせてもらいました。細かい部分にも配慮しながら、資料を傷つけぬよう危機管理を徹底する考え方を改めて学ばせてもらいました。

写真:資料取り扱いの心構え

写真:資料の取り扱い
説明を受けて、頭の中でイメージができても実物を目の前にすると緊張してしまい、動きがぎこちなくなってしまいました。手順をしっかり復習して、次に扱う機会があったときには、冷静に作業を進められるようにしたいです。
また、土器の梱包にも挑戦しました。全員で協力しながら無事に梱包作業を終えることができました。

写真:綿布団づくり

 

写真:土器の梱包
コロナ禍でこのような実習を大学の授業で受けることができなくなってしまったので、とても有難かったです。
残りの実習も、有意義な時間を過ごせるように精一杯取り組みたいと思います!
(令和二年 博物館実習生)

 

博物館実習二日目

実習二日目の今日は、収蔵資料の紹介ということで資料の調査・研究を行いました。まず、収蔵庫から作業する部屋まで資料を移動させましたが、大きく重いものなど一人では持てないものもあり、実習生同士が協力して移動させることができました。
 私は、春日部市内で現在も営業されているカネコ薬局さんから寄贈していただいた看板について紹介することになりました。
写真:カネコ薬局寄贈の資料

写真:参考資料や撮影機材

主にこれらを使用して調査していきます
看板のさまざまな部分から情報を集めたほか、図録や市史以外のいろいろな媒体を使い、別の視点から調査していきましたが、資料調査はとても難しく、改めて大変さを学びました。博物館に展示されているものやデータベースに公開されている情報が大変な労力と時間をかけてつくられているものであると痛感しました。
写真:黙々と資料調査をする実習生
最終日に無事に発表できるようしっかり調査し、明日以降も充実した実習期間を過ごせるように頑張りたいと思います。
(令和二年 博物館実習生)

博物館実習が始まりました

令和2年8月16日(日)より、春日部市郷土資料館で博物館実習が始まりました。今年度は5名の学生が参加しています。

本日は初日ということもあり、館内・展示室・バックヤードや収蔵庫の案内をしました。

写真:展示室の案内

午後は、実習生どうしで、博物館や学芸員についてディスカッションをしました。様々な意見が出て、当館の運営にとって有意義な議論ができました。

火曜日からはいよいよ本格的な館務実習となります。実習生の諸君が、各日でブログを記述することになっていますので、お楽しみに。

渋谷区役所と春日部市役所と志木市役所

9月13日(日)まで、「1960年代の春日部」が開催中です。

現在の春日部市役所庁舎は、1970(昭和45)年1月19日から12月21日に建設工事が行われ、翌1971年1月8日に落成式が行われました。地下1階、地上5階、塔屋3階、建築面積3152.651平米、延床面積9007.428平米、総工費は5億9800万円でした。

正面ガラス張りの優美な曲線からなる建物は、当時の人々の目を引いたようで、『広報かすかべ新市庁舎完成記念特集号』では、「ユニークな建物」と表現されています。また、市役所の建物のイラストをあしらった落成記念手ぬぐいも作られ、落成式の記念品として配布されました。

なお、現在開催中の企画展「1960年代の春日部」にあわせ、郷土資料館では、市庁舎イラストの記念スタンプをご用意しました。

広報かすかべ新市庁舎完成記念号

広報かすかべ新市庁舎完成記念特集号

市庁舎落成記念てぬぐい

春日部市庁舎落成記念手ぬぐい(1971年)

 

 さて、1970年の春日部市役所建設工事の設計管理は、建築家、高橋武士氏が率いる株式会社建築モード研究所が行いました。株式会社建築モード研究所は、東京オリンピック開催の1964(昭和39)年に完成した渋谷区役所、また1972(昭和47)年完成の志木市役所の設計も行い、これらの庁舎は「三兄弟」ともいわれるような非常に似た外観で、曲線が生み出すモダンさなど建築業界でも注目を集めました。

高橋武士氏は、1957(昭和32)年に東京都立日比谷図書館(現千代田区立日比谷図書文化館)、その後、株式会社建築モード研究所を設立し、渋谷公会堂(渋谷区)や、有明コロシアム(江東区)、深川江戸資料館(江東区)などの設計も手がけました。

残念ながら、渋谷区役所は2015(平成27)年に、志木市役所は、まさに現在、解体工事が進行中で、われらが春日部市役所も、市立病院跡地に建設される新庁舎完成後に解体されます。

 建築中の春日部市役所

建設中の春日部市役所(「建築モード研究所」の看板が写る・1970年)

建設中の春日部市役所(1970年)

 建設中の春日部市役所(1970年)

 

参考文献

『広報かすかべ新市庁舎完成記念特集号』1971年

「渋谷、春日部と三兄弟?同じ事務所が手掛けた志木市役所解体へ 19日、市庁舎さよならイベント」

埼玉新聞2020年1月18日

千葉大学の博物館実習を受け入れました。

8月8日(土)博物館実習の授業の一環で、千葉大学の学生たち5名が春日部市郷土資料館に来ました。

午前は、館の概要・特徴、館内を案内しました。現在開催中の「1960年代の春日部」展のほか、バックヤード、収蔵庫の現況を見ていただきました。

午後は、館蔵の資料整理にご協力いただきました。未整理の文書箱を開梱して、資料の概要調査の調書を作成してもらいました。

写真:常設展示の見学

写真:常設展示の見学

 

千葉大の皆さん(先輩)には、昨年度も同様の作業をしていただきましたが、整理した資料は、市内の商家からいただいた明治時代から平成初頭までの史料群です。これは新発見!こんな便利な資料があったのか!と、われわれ職員がコーフンする資料がザクザク出てきました。春日部の近現代史は、まだまだ深められそうです。みなさんも各自の関心で興味深く資料を拝見されていたので、何よりでした。なかには、虫損(ちゅうそん。紙を食べる虫による破損)の古文書をはじめて手にとって、感動した、話してくれた学生もいました。やっぱり、資料の原物をみるっていいですね。

引率された先生をはじめ、学生のみなさん、お疲れさまでした。

写真:資料調査の風景

写真:資料整理の状況