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ほごログ

#エア博物館 遺跡と遺構と遺物

#おうちで博物館

郷土資料館の今年度の計画では、12月ごろに学芸員による「考古学講座」を予定しています。広報やほごログでご案内いたしますので、ご興味のある方はぜひご参加いただければと思います。新型コロナ感染症の状況も心配ですが、実施に向けて準備を進めています。

今回は講座でお話する内容の中から、考古学でよく使われる「遺跡」と「遺構(いこう)」と「遺物(いぶつ)」という用語についてご紹介します。

まず遺物は、土器や石器のような遺跡からとりはずして動かせるもののことを言います。人工遺物の他に、動物の骨や植物の種子など自然遺物と呼ばれるものも含まれます。

遺構は、住居の跡や墓の跡など、容易に遺跡からとりはずして持ち運べないもののことを言います。そしてこの遺構、遺物から構成されるものが遺跡です。

視点を変えてみますと、資料館に展示している土器や石器などはすべて遺物です。遺構は図面や写真、資料館の竪穴式住居模型のような復元模型の方法で紹介されます。

遺構は、遺構の剥ぎ取りなど例外的な方法を除いては、実物を持ち帰ったり、展示することができません。したがって、発掘調査を行う場合は、遺跡でしっかりと遺構の記録をとることが重要になります。

さらに、過去の人類の活動を研究する上では、遺跡内の遺構と遺物の位置関係が重要になります。例えば、一つの土器が、竪穴式住居の床面から発見されたのか、埋まっている土の中から発見されたのか、ここに着目することによって、その土器が竪穴式住居に住んだ人たちの土器なのか、それとも住居が使われなくなってからの土器なのかを推定することができます。

遺構と遺物を区別して考えることで、遺跡への理解が深まります。

 

遺構:竪穴住居跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺構:竪穴住居跡(貝の内遺跡(西宝珠花))

遺物:土器

 

 

 

 

 

 

遺物:土器 (塚崎遺跡(塚崎)の土師器(はじき))

#エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その4)

引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、昭和初めに国の天然記念物に指定され、ますます有名になっていく「牛島のフジ」(国特別天然記念物)について蘊蓄(うんちく)を語ります。

昭和3年(1928)1月18日、「牛島のフジ」はに国指定天然紀念物に指定されました。当時、埼玉県の天然紀念物としては5つ目でした。国会図書館デジタルコレクションで当時の『官報』を御覧いただけます(2コマ目左下段)が、『官報』上の表記は「牛島ノ藤」だったのですね。

ところで、国指定の文化財といえば、先日、市内の西親野井地区の神明貝塚が国の史跡に指定されました。市内では「牛島のフジ」に次いで2例目の国指定となりました。神明貝塚の例のように、国の文化財の指定にあたっては綿密な調査・研究が積み重ねられ、学術的な評価・価値づけがされた上で指定となります。同様に「牛島のフジ」も、当時の国の調査団による調査が行われ、価値付けがなされています。

調査は指定を遡る数年前の大正末年、植物学の大家で、日本に天然記念物の概念を広めた三好学(理学博士)の指導のもと、内務省の名勝天然紀念物保存調査会により調査されました。当時の調査報告『史蹟名勝天然紀念物調査報告』第35号(大正13年刊・98~99コマ目)によれば、「世ニ紫藤ノ大ナルモノナキニ非ザレドモ未本樹ノ如ク著シキモノアルヲ聞カズ、天然紀念物トシテ指定セラルベキモノト信ズ」と評価されています。つまり、藤の大木は無くはないが、「牛島のフジ」ほどものは未だに聞いたことがないので、天然紀念物に指定すべきだと評しています。同時に保存要件としては、根・幹・枝の損傷を防いで、適切な施肥をすることも指摘されています。

前にも触れた通り、明治時代には、花房を取ったり、和傘でさして藤花の下を(おそらく傘で花を痛めつけながら)くぐる観覧客がいました。天然紀念物に指定されることによって、「牛島のフジ」は国内有数の保存されるべき樹木として位置づけられることになったのです。

一方で、「牛島のフジ」の国指定は、結果として観光資源としての価値を高めていくことにも繋がりました。大正末の新聞紙上では内務省の調査団が訪れ、国指定に向けて期待する声が報じられていましたし、国天然紀念物の指定直後の5月には、関係諸氏を招き開催された祝賀会が開催されています(下の写真・かすかべデジタル写真館より)。

(クリックすると大きな画像が御覧いただけます)

さらに、昭和5年(1930)には『世界一藤のかすかべ』と題された、「牛島のフジ」を中心とした粕壁町・幸松村の観光ガイドブックが発行されています(館蔵)。明治時代には「関東一」だった「牛島のフジ」は「世界一」へと成長を遂げていったのです。国天然紀念物指定以降、「牛島のフジ」は国に認められた古木として、ますます多くの人々に知られるようになり、のちに春日部のシンボルにもなっていきます。

しかし、国の天然紀念物指定の本旨は、観光資源化でなく、その保存です(そういえば昨年は「史蹟名勝天然紀念物保存法100周年」でした)。表向きには華やかに「国の天然紀念物」と騒ぎ立てることは結構なのですが、その裏側の保存・保全にも光をあてるべき、と文化財行政に携わる職員として思います。こんなことを書くと、「観光マインドがない」と揶揄されてしまいそうですね。

「牛島のフジ」に関していえば、国指定以降、適切に保存・保全され、さらに戦後に施行された文化財保護法のなかで、昭和30年(1955)8月22日に国の特別天然記念物に指定され、今日まで保存・保全されてきています。昭和3年の国指定が今日までの「牛島のフジ」の保存・保全の起源となったといえ、こうした保存・保全の経緯があってはじめて「牛島のフジ」は存在しえているのです。

また、指定後のブランディングにも問題があるようです。「国指定」の冠を前面に押し出した刊行物等をみると、指定以前の由来や歴史が捨象される傾向が読み取れます。「国指定」のブランド力が強いため、中身が伴わず、空虚な価値付けに終始するものが多いようです。牛島のフジに関する伝説は昭和5年(1930)刊『世界一藤のかすかべ』が初見だったりします。

ですから、この#エア博物館「藤のまち春日部」展では、「国指定」以前の、「国指定」に留まらない牛島のフジの魅力を歴史のなかに見いだそうとしてきました。

藤の花は、もうすっかり散ってしまいましたが、あと2回ほど「牛島のフジ」に関する#エア博物館#おうちミュージアムにお付き合いください。

休館延長のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年5月31日(日)までの期間、郷土資料館の臨時休館を延長します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。

 

また、6月に予定しておりました下記のイベントは中止します。企画展示や講座につきましては、改めて企画し、皆さまに告知いたします。

・6月2日(火)~7月12日(日)企画展示「かすかべの宝もの17 KASUKABE1960s-1960年代の春日部」

・6月7日(日)大川明弘先生による歴史文化講演会・ウォーキング「古地図で読み解く昭和の粕壁」

・6月27日(土)展示解説講座・上演会

 

なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。

・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ

#エア博物館 #これはなんでしょう

#春日部市郷土資料館 では #休館中 収蔵資料の整理を進めています。今日は収蔵庫内に眠るお宝を #おうちミュージアム として紹介。

これなんでしょう?なにする道具?

 

 

 

 

 

 

正解は、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名称は「ミゾキリ」

春日部では古くから桐細工が盛んで、とくに桐箪笥・桐小箱が特産品となっています。「ミゾキリ」は木材を削るカンナの一種(溝切りカンナとも呼ばれるようです)です。この「ミゾキリ」は大正時代~昭和戦前まで、桐小箱を作っていた市内の職人が使っていた道具で、箱の本体と蓋を合わせるための溝などをほる時に使われたようです。

道具を横からみると、

 

矢印のところに突起(木・刃)があって、ここを木材の上で滑らすと、溝がほれるようになるのです。右手のナットを緩めて、溝をつけたい間隔を調整することもできます。

溝切りカンナは現在でも市販されているようですが、桐小箱づくりは高度経済成長期に機械化が進展したため、こうした道具は現在ではあまり使われていません。現在、春日部では桐箪笥職人の方たちが伝統工芸士として認定され、伝統的な桐箪笥製造の技術を伝承していますが、古くは桐小箱づくりの職人も「ハコサシ」などと呼ばれ、高度な指物技術を有していたものと考えられます。「ミゾキリ」は春日部の桐細工産業の技術を伝える資料として、とても貴重なものです。

エア博物館 おうちでぬりえをしませんか

#エア博物館 #おうちで博物館 #ぬりえ

いつもきょうどしりょうかんでくばっている、ぬりえをしょうかいします。

おうちでぬりえをたのしんでください。

 

クリックするとPDF(ぴーでぃーえふ)ファイルをダウンロードします。いんさつしてつかってください。

1.銚子口の獅子舞1.銚子口の獅子舞(ちょうしぐちのししまい)

2.備後須賀稲荷の初午祭(びんごすかいなりのはつうまさい)

3.やったり踊り3.やったり踊(おど)り

4.竪穴式住居4.竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)

5.牛島のフジ5.牛島(うしじま)のフジ

6.桐だんす・桐小箱6.桐(きり)タンス・桐小箱(きりこばこ)

7.押絵羽子板7.押絵羽子板(おしえはごいた)

8.秋葉神社の天狗8.秋葉神社の天狗(あきはじんじゃのてんぐ)

9.在原業平の伝説9.在原業平の伝説(ありわらのなりひらのでんせつ)

10.梅若丸の伝説10.梅若丸の伝説(うめわかまるのでんせつ)

11.千住馬車鉄道11.千住馬車鉄道(せんじゅばしゃてつどう)

12.春日部に最初に住んだ人たち12.かすかべに最初(さいしょ)に住(す)んだ人(ひと)たち

13.花積貝塚13.花積貝塚(はなづみかいづか)

14.内牧・塚内古墳群14.内牧・塚内古墳群(うちまき・つかないこふんぐん)

15.春日部氏の歴史15.春日部氏の歴史(かすかべうじのれきし)

16.日光道中粕壁宿16.日光道中粕壁宿(にっこうどうちゅうかすかべじゅく)

17.麦わら帽子17.麦わら帽子(むぎわらぼうし)

18.不動院野の神楽18.不動院野の神楽(ふどういんののかぐら)

19.赤沼の獅子舞19.赤沼の獅子舞(あかぬまのししまい)

#エア博物館 「藤のまち春日部」展の紹介(その3)

前回に引き続き、 #春日部市郷土資料館 のミニ企画展「藤のまち春日部」( #コロナ禍 のため中止)を #おうちミュージアム として紹介します。今回は、明治32年(1899)の東武鉄道開通以後の「牛島のフジ」(国特別天然記念物)についての蘊蓄(うんちく)。

前回ご紹介したように、千住馬車鉄道の開通もあり、「牛島のフジ」は東京の人々にも徐々に知られていきましたが、どうやら、東京近郊の名所として多くの人々に知られるのは東武鉄道開通後のようです。どうしてそのように考えられるのか。理由の一つとして、「牛島のフジ」に関する文献・資料は、明治32年以前のものは極端に少なく、鉄道開通以降、増えるということが挙げられます。新聞や著名人の紀行文だけでなく、地元粕壁でも、明治33年(1900)5月に『粕壁藤の紫折(しおり)』(当館所蔵)という観光パンフレットが発行されています。こうした刊行物・新聞や前回紹介したような絵葉書などによって、「牛島のフジ」はより多くの人々に知られるようになり、汽車を利用して、気軽に日帰りで訪れる東京近郊の名所地として確立されていきました。

また、5月には東武鉄道沿線では、牛島のフジとならんで、館林のツツジも花盛りを迎えます。東武鉄道では、フジの花盛りの季節に粕壁までの鉄道運賃を割引とし、東京の観光客を取り込もうとし、沿線に花の名所を位置づけていくことで、鉄道利用者を増やそうとしていったようです。例えば、田山花袋と牛島のフジを観覧した大町桂月は、東京から東武鉄道を利用して館林のツツジを観覧した後、田山と牛島のフジに訪れています(『東京遊行記』)。藤の花が満開を迎えるころには、一日の乗客が3000人に及んだといいます(『東武鉄道線路案内記』)。当時、最寄りの停車場である粕壁駅前には汽車や人力車の待合茶屋が設けられいた(『埼玉県営業便覧』)ことも考えると、藤のシーズンには粕壁は観光客で大変賑わったことでしょう。

さて、今回紹介する資料は、東武鉄道開通以後の明治40年(1907)の紫雲館の領収書です。 

写真:紫雲館領収書

紫雲館とは、牛島のフジの所在する庭園「藤花園」内にあった料亭です。紫雲館については、『東武鉄道線路案内記』(明治37年刊行)に「曽(かつ)て清浦法相観覧の砌(みぎり)、当園を紫雲館と命名せられり、今其遍(ママ)額を掲けあり、園内には紫雲館と称する賃席料理店あり、閑雅にして客室清浄川魚の名物なり」(32コマ)とあります。

清浦法相とは、当時司法大臣で、のちに総理大臣となる清浦奎吾(1850~1942)のこと。清浦奎吾は、若い頃に埼玉県の官吏でもあり、埼玉県東部地域とゆかりが深い人物です。紫雲館という名は、この清浦が命名したといい、能筆家でもあった清浦の扁額もあったと記されています。園内の紫雲館は静かで趣が深く清潔な賃席料理店であり、川魚料理が名物だったといいます。

 さて。この紫雲館の領収書は、明治40年5月13日のもの。粕壁町の篤志家であった山口万蔵が利用したときのものです。料理代・席料として2円95銭が計上され、そのほか「大和弐ツ」の代金として14銭を領収しています。「大和」とは酒か何か品物の銘柄なのでしょうか、詳細は不明です。あるいは「大和」と読んでいいものか微妙な字なのですが。いずれにしても、『東武鉄道線路案内記』が紹介しているように料理を出す施設であったことがうかがえます。

そして、学芸員一押しなのが、この領収書のハンコです。展示会ではココを皆さんにご覧いただきたかった!

ハンコの部分を少し拡大して撮影した写真が下のものです。

写真:領収書のハンコ

薄くてよくみえないのかもしれませんが、原物も薄いのでご了承ください。

ハンコには「藤花園章」と刻まれています。一押しは紫の朱肉です。藤ですから、藤色と言うべきでしょうか。なんとも洒落ているではありませんか!

この藤色の朱肉から、「閑雅」な紫雲館の情景が読み取れる(のではないかと個人的には思う)とてもいい資料だと思います。収蔵庫から(偶然)見いだした時、結構感動したんですよ。

なお、今年は、牛島のフジの公開は中止となりました。4月30日、花盛はちょうど最高の状態だそうです。残念ですが、藤の花も、フジをみながら語る蘊蓄も、来年まで楽しみにしておきましょう。

次回も#おうちミュージアム 牛島のフジの蘊蓄にご期待ください。

エア博物館 春日部市の埋蔵文化財発掘調査報告書

#エア博物館 #おうちで博物館

今回は、春日部市域の遺跡に関わる発掘調査報告書を紹介します。

日本では、年間8,000件近い遺跡の発掘調査が行われており、発掘調査を行うと調査報告書を刊行することが義務付けられています。発掘調査報告書は、国立奈良文化財研究所による「全国遺跡報告総覧」などでインターネット上に公開されているものもあります。

全国遺跡報告総覧(国立奈良文化財研究所サイト)

春日部市域の遺跡に関わる発掘調査報告書は、下記のようにこれまでに80冊以上が刊行されています。現在のところ、2018年に刊行した『埼玉県春日部市神明貝塚総括報告書』を、全国遺跡報告総覧でPDFファイルで公開しています。この他のものは、文化財保護課や市立図書館で閲覧できるほか、文化財保護課で販売しているものもあります。

発掘調査報告書に掲載することはおおよそ決められており、調査の経過や遺跡の立地、遺構・遺物の説明、また自然科学分析を実施した場合はその結果、さらに調査者の考察などが掲載されます。

発掘調査報告書は発掘調査された遺跡の第1次資料であり、「記録保存」 のための重要な刊行物です。決して読みやすい本ではありませんが、お時間があるときに、まずは神明貝塚の総括報告書からご覧いただければ幸いです。

 

●春日部市域に関わる発掘調査報告書(このリストは今後、随時更新します。)

<埼玉県遺跡調査会報告書>

1970      『花積貝塚発掘調査報告書』埼玉県遺跡調査会報告第15集

 

<埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書>

2002      『八木崎遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第281集

2014      『南台遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第414集

2016      『浅間下遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団第418集

 

<各遺跡調査会報告書>

1979      『風早遺跡』庄和町風早遺跡調査会

1984      『尾ヶ崎遺跡』庄和町尾ヶ崎遺跡調査会

1986      『陣屋遺跡-昭和57年度調査の記録-』庄和町陣屋遺跡調査会

1988      『浅間下遺跡第1地点・第2地点』庄和町浅間下遺跡調査会

1989      『貝の内遺跡』庄和町貝の内遺跡第2地点遺跡調査会

 

<(旧)春日部市埋蔵文化財調査報告書>

1987     『花積台耕地遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第1集

1988     『花積33・34・38号遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第2集

1989     『春日部市NO.31・39・44号遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第3集

1994     『花積台耕地遺跡3次、浜川戸遺跡12・13次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第4集

1995     『浜川戸遺跡14・16次、花積内谷耕地遺跡3次、慈恩寺原西遺跡』春日部市埋蔵文化財調査報告書第5集

1997     『浜川戸遺跡18次、小渕山下遺跡、花積内谷耕地遺跡4次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第6集

1998     『市内遺跡調査Ⅰ』春日部市埋蔵文化財調査報告書第7集

1999     『小渕山下北遺跡、八木崎遺跡2次、花積内谷耕地遺跡5次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第8集

2000     『立山遺跡2次、浜川戸遺跡15、22、23次、小渕山下北遺跡3次、塚内15号墳』春日部市埋蔵文化財調査報告書第9集

2001     『花積内谷耕地遺跡6次、花積台耕地遺跡5次、谷向遺跡、塚内16号墳、塚内17号墳、小渕山下北遺跡4、5次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第10集

2003     『浜川戸遺跡5、6、7、24、25、26次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第11集

2003     『浜川戸遺跡8、10次、花積台耕地遺跡6次、慈恩寺原南遺跡、塚内18号墳』春日部市埋蔵文化財調査報告書第12集

2004     『八木崎遺跡3次、浜川戸遺跡27、28次、小渕山下北遺跡6次、慈恩寺原南遺跡2次』春日部市埋蔵文化財調査報告書第13集

2005     『浜川戸遺跡1、2、3、4次調査地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第14集

  

<庄和町文化財調査報告>

1965   『米島貝塚』庄和町文化財調査報告第1集

1970   『神明貝塚』庄和町文化財調査報告第2集

1978   『神明遺跡-範囲確認調査-』庄和町文化財調査報告第3集

1996   『香取廻遺跡-第1次・第3次・第4次の発掘調査の記録-』庄和町文化財調査報告第4集、(庄和町遺跡調査会報告書第4集)

2001   『宮前遺跡』庄和町文化財調査報告第6集

2002   『陣屋遺跡-第1・3・4・5・6・7次調査の記録-』庄和町文化財調査報告第7集、庄和町遺跡調査会報告書第10集 

2003   『須釜遺跡』庄和町文化財調査報告第9集

2004   『塚崎遺跡ー第1・2・3・4・5・6次調査の記録』庄和町文化財調査報告第11集

2004   『町道遺跡・町通中遺跡』庄和町文化財調査報告第13集

2005   『浅間下遺跡第3次・香取廻遺跡2.5次・愛宕遺跡第2次・原遺跡第2次・馬場遺跡』庄和町文化財調査報告第14集

2005   『権現山遺跡第1次調査』庄和町文化財調査報告第15集

 

<春日部市遺跡調査会報告書>

1989     『春日部市33号遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第1集

1994     『新寺遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第2集

1995     『新寺遺跡2次』春日部市遺跡調査会報告書第3集

1995     『坊荒句北(1,2次)、坊荒句、立山遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第4集

1998     『小渕山下北遺跡2次』春日部市遺跡調査会報告書第5集

1998     『竹之下遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第6集

1999     『浜川戸遺跡21次』春日部市遺跡調査会報告書第7集

1999     『花積台耕地遺跡2次』春日部市遺跡調査会報告書第8集

1999     『大道東遺跡』春日部市遺跡調査会報告書第9集

1999     『花積台耕地遺跡4次』春日部市遺跡調査会報告書第10集

1999     『浜川戸遺跡11次』春日部市遺跡調査会報告書第11集

2001     『浜川戸遺跡17、19、20次』春日部市遺跡調査会報告書第12集

2004     『坊荒句遺跡2次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第13集

2004     『八木崎遺跡4次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第14集

2004     『小渕山下北遺跡7次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第15集

2005     『慈恩寺原南遺跡3次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第16集

2006     『慈恩寺原北遺跡2次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第17集

2006     『小渕山下遺跡2次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第18集

2006     『小渕山下遺跡3次調査地点』春日部市遺跡調査会報告書第19集

2010     『貝の内遺跡4次地点』春日部市遺跡調査会報告書第20集

2010     『貝の内遺跡12次地点』春日部市遺跡調査会報告書第21集

2011     『権現山遺跡2次地点』春日部市遺跡調査会報告書第22集

2011     『貝の内遺跡9次地点』春日部市遺跡調査会報告書第23集

 

<庄和町遺跡調査会報告書>

1989   『馬場遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第1集

1993  『寺屋敷・須釜遺跡発掘調査報告書』庄和町遺跡調査会報告書第2集

1994  『西の宮遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第3集

1997   『愛宕遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第5集

1998   『新宿新田不動塚遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第6集

1999   『吉岡遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第7集

2000   『原遺跡第1次・風早遺跡第2次・馬場遺跡第3次』庄和町遺跡調査会報告書第8集

2002   『作之内馬場遺跡・作之内遺跡』庄和町遺跡調査会報告書第9集

2005   『風早遺跡第3次調査・馬場遺跡第4次調査』庄和町遺跡調査会報告書第11集

2005   『吉岡遺跡第2~5次』庄和町遺跡調査会報告書第12集

 

<(新)春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書>

2006     『花積台耕地遺跡7次地点、慈恩原南遺跡4.5次地点、貝の内遺跡11・19次地点、小渕山下北遺跡8次地点、浜川戸遺跡29次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第1集

2007     『塚内14号墳』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第2集

2007     『貝の内遺跡2.20.21.22.23.24次地点、小渕山下遺跡4次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第3集

2008     『神明貝塚4次地点、塚崎遺跡7.8次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第4集

2008     『小渕山下遺跡6次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第5集

2008     『犬塚遺跡6次地点、中野吉岡遺跡1.2次地点、小渕山下遺跡5次地点、小渕山下北遺跡9,10次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第6集

2008     『小渕山下北遺跡14次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第7集

2009     『犬塚遺跡4次地点、貝の内遺跡1.7.14.16次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第8集

2009     『貝の内遺跡26次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第9集

2010     『貝の内遺跡8.13.18次地点、陣屋遺跡8次地点、中屋舗遺跡1次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第10集

2011     『小渕山下北遺跡11、12、13次地点、浜川戸遺跡30次地点、貝の内遺跡25次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第11集

2011     『中屋舗遺跡2次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第12集

2012     『花積貝塚3次地点、米島西宮遺跡1次地点、米島塚山遺跡1次地点、馬場遺跡5次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第13集

2013     『小渕山下遺跡7.8次地点、小渕山下北遺跡15.16.17.18.19次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第14集

2014     『八木崎遺跡5次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第15集

2014     『貝の内遺跡17.27次地点、浜川戸遺跡31.32.33次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第16集

2015     『作之内遺跡3次地点、西ノ宮東遺跡1次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第17集

2015     『浜川戸遺跡34次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第18集

2016     『陣屋遺跡9次地点、八木崎遺跡6次地点、貝の内遺跡15次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第19集

2018     『埼玉県春日部市神明貝塚総括報告書』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第20集

2019     『貝の内遺跡28次地点、馬場遺跡6次地点』春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書第21集

2019  『権現山遺跡3次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第22集

2020 『鷲前遺跡1次地点』春日部市埋蔵文化財調査報告書第23集 

文化財公開の中止のお知らせ

例年、春の風物詩にもなっている文化財の公開が、新型コロナウイルスのまん延防止の措置により、残念ながら中止となりますこと、お知らせいたします。

 ●国内唯一のフジ種目の国特別天然記念物であります『牛島のフジ』では、毎年、可憐で壮大な薄紫色のカーテンを楽しませていただいております。昨今の開花状況は例年とおり、順調な生育状況がみられます。今年は日々更新されています、藤花園のホームページで、是非、ご自宅で楽しんでください。 http://www.ushijimanofuji.co.jp/index.html

牛島のフジ 全景

 

 

 

 

 

 

また、4/14に当プログ上にアップしました、エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その2)でも藤の歴史を取り上げていますので、ぜひ、のぞいてみてはいかがでしょうか。

●5月の連休、全国各地からの円空仏ファンで連日にぎわう、県指定有形文化財『小渕観音院円空仏群』の公開におきましても中止となりました。7躯が本堂に勢ぞろいする年1回の機会ではございますが、拝観される方々の感染防止のため、お許しください。こちらも小淵山観音院のホームページで芸術的な画像を楽しむことができます。 https://www.kannonin.com/  

円空仏祭

  今年は皆さんに公開できず、所有者の皆さまも落胆されております。穏やか・健やかな日常が回復されましたら、また来年の春の頃、公開をご案内いたします。

【教えます】休館中は何をしているんですか?

#春日部市郷土資料館 は4月4日から臨時休館ですが、休館中も開館を期して準備を進めています。今回は #休館中 の資料館の #裏側 をご紹介します。

広報誌などでお知らせしていたように、新年度4月から、「クレヨンしんちゃん」や市の花「藤」の展示などを予定していたところですが、コロナウイルスの感染拡大を防止するため休館となり、中止・延期となってしまいました。

例年、今の時期には春季・夏季の企画展示に向けた調査に専念しているところですが、現在コロナウイルスの感染の終息に見通しが立たないことから、対面での資料調査・聞き取り調査等も自粛せざるをえず、企画展示の準備もままならない状況にあります。

郷土資料館の展示室はそんなに広くないので、展示物もほどほどといったところですが、実は地下にある資料収蔵庫には、普段は展示しきれないほどの資料が眠っています。教育委員会の職員も意外と知りません。今年度、郷土資料館に異動してきた職員もその数の膨大さに驚いていました!

写真:収蔵庫の様子 

収蔵庫を覗くと、こんな感じです。資料の劣化を防ぐための中性紙の箱で保管している古文書や歴史資料のほか、昔の生活道具・用具など多種多様な資料が棚に並んでいます。上の写真は収まりのよい部分を撮影したものですが、収蔵庫内は溢れんばかりの資料で、もう大変なことになっています。

以上のような状況にありますので、現在郷土資料館では将来への準備として、普段はなかなか落ち着いてできない収蔵資料の整理を進めています。休館中、何をしているのか。その答えは、資料の整理です。

写真:資料整理の風景

資料の整理とは、資料の点検をはじめ、未整理資料の確認・整理、写真の撮影などなど。職員総出で日々格闘しています。

恥ずかしい話ですが、「こんなのあったのか!」とか「久しぶりにみた」とか、なかには「(他所からわざわざ借りてきたけど)ウチ(=当館)にもあったのか!」など、地味ですが、発見に次ぐ発見の毎日です。この発見をすぐにでも、皆さんに実物を通じてお伝えしたいところですが、来るべき時まで温めておきたいと思います。一部はこのブログで「エア博物館」として紹介していきます。

エア博物館 春日部の歴史と火山灰

(2021年7月14日、専門研究者の方からご指摘をいただき、2003年刊行の『新編 火山灰アトラスー日本列島とその周辺』に基いた年代等に修正し、修正箇所はアンダーラインで示しました。)

 

#エア博物館 #おうちでミュージアム ということで、今回は火山灰について考えます。 

関東近県の火山の中では、現在も草津白根山で警戒情報が出されています。

草津白根山(白根山(湯釜付近))の活動状況

草津白根山の平成30年1月の噴火では、春日部市に被害はありませんでしたが、噴火の規模や風向きによっては春日部市にも火山灰が降る可能性があります。

噴火が観測された時は火山灰に注意してください(春日部市公式サイト)

コロナウィルスの影響で外出する機会も少ないかと存じますが、噴火の情報を見聞きしたときは、まず建物内に移動してください。

さて、関東地方の歴史と火山をみてみると、古くは鹿児島県の姶良カルデラの26000~29000年前に噴出した姶良丹沢火山灰(姶良Tn:AT)から、伊豆、箱根方面の火山では西暦1707年の富士宝永火山灰(F-Ho)、群馬・栃木方面の火山では、西暦1783年の浅間A(天明)火山灰(As-A)と多くの火山灰の存在が確認されています。

下に、2003年に刊行された『新編 火山灰アトラス 日本列島とその周辺』という本から、関東地方の火山灰を引用しました。これらの火山灰はすべて春日部市域に降灰しているわけではありません。しかしながら、特に群馬・栃木方面の火山の噴火は、土砂が多く利根川に流れ、春日部市の古利根川や江戸川も河床があがるなどの被害がありました。

また、火山灰は、火口に近い地域の場合、土壌中に土層になって現れることもありますが、春日部市域では、土壌に含まれる火山ガラスなどの特徴と検出層位から、どの火山灰かを特定しています。市域では、姶良丹沢火山灰(AT)や立川ローム上部ガラス質(UG)と推定される火山ガラスが確認されています。 

  以下、火山灰名、火山灰の記号、年代の順に引用しました。年代が不明なものは空欄となっています。

<富士・箱根・北関東:F-HoからAT>
富士宝永 F-Ho 西暦1707年(宝永4年)
富士新期上部(群)F-HoとF-Zoの間には8-9層のsfa(スコリア降下火山灰)があり、富士東麓から横浜・川崎まで分布。泥炭地遺跡で古墳平安時代の指標になる。
富士砂沢 F-Zn 2500~2800年前
富士大室 F-Om 2500~2800年前
富士大沢 F-Os 2500~2800年前
天城カワゴ平 Kg 3126~3145年前
伊豆大室山 Om 5000年前
富士新期下部(群) Kgと富士黒土層の間には仙石sfaなど4層以上のsfaがある。縄文後期から前期末までの遺物包含層と関係
箱根中央火口丘新規(群) 完新世のテフラ(小型火砕流)はK-Ahの下位に1層(神山起源Hk-Km5、約7.5-8Ka)、上位に2層(二子山起源Hk-Ft、約5.5Kaと冠ヶ岳起源Hk-Kn、約3Ka、Kg直上)がある。Hk-Km5、Knはカルデラの外側にも分布(上記年代は暦年較正値)。
鬼界アカホヤ K-Ah 7300年前
立川ローム上部ガラス質 UG(年代不記載)
安房 AG 13000~14000?年前
富士相模野第1 F-SS1 24000~26000年前
箱根中央火口丘中期(群) 含雲母グリース状Gr以後10ka以前の主に神山起源のテフラ(小型火砕流)は6層ある。そのうちAT直上のHk-Km3(約25ka)、Gr直上のHk-Km1(<50Ka)が顕著。
姶良Tn AT 26000~29000年前


<浅間・榛名・赤城・日光・北関東:As-AからAT>
浅間A(天明)As-A 1783(天明3)
浅間B(天仁) As-B 1108(天仁1)
榛名二ッ岳伊香保 Hr-FP 6世紀中葉 古墳時代
榛名二ッ岳渋川 Hr-FA 6世紀初頭 古墳時代
浅間C As-C 4世紀中葉 弥生時代
浅間D As-D 4500~5500年前 縄文中期
鬼界アカホヤ K-Ah 7300年前
浅間小諸2 As-Km2 11000~14000年前
男体七本桜 Nt-S 14000~15000年前
男体今市 Nt-I 14000~15000年前
浅間小諸1 As-Km-1 15000~16000年前
浅間草津 As-K 15000~16500年前
浅間板鼻黄色 As-YP 15000~16500年前
浅間大窪沢2 As-Ok2
浅間大窪沢1 As-OK1
浅間白糸 As-Sr 15000~20000年前
浅間雲場 As-Kb
男体片岡・小川(群) Nt-Kt/Og
浅間板鼻褐色(群) As-BP 20000~25000年前
那須黒森(群)Nas-Kr AT以上に2層、AT~DKP(大山倉吉)に2層、DKP直下に1層。どれも小規模なsfa、afa(降下火山灰)、pfi(小型火砕流堆積物)を伴う場合あり。
姶良Tn  AT  26000~29000年前

参考文献:町田洋・新井房夫 2003『新編 火山灰アトラス-日本列島とその周辺』財団法人東京大学出版会

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その2)

中止となった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展について、前回に引き続き #エア博物館 #おうちでミュージアム として紹介します。牛島のフジ(国特別天然記念物)は、明治時代半ば以降、東京近郊の名所として急速に認知されるようになっていきました。

 

今回紹介する資料は、「牛島のフジ」の手描き彩色写真絵葉書です。

 画像:彩色写真絵葉書

絵葉書には「粕壁の藤花」「M44」と記されています。「M44」は明治44年(1911)と考えられます。明治時代後期の文献では、「牛島の藤」と現地の「牛島」を冠して紹介されるものは少なく、「粕壁の藤」と紹介されるものが多くみられます。ですから、絵葉書の「粕壁の藤花」とは牛島のフジを撮影したものと考えられます。

 

明治初めの記録には「都下ニ遠キヲ以テ知ルモノ稀ナリ」、つまり、東京から遠いため牛島のフジを知る者はあまりいない、と評されています(「大日本国誌」)。牛島のフジが「粕壁の藤」として広く知られるようになるのは、春日部に鉄道が開設されて以降のことのようで、その嚆矢は、明治26年(1893)に千住と粕壁を結ぶ千住馬車鉄道の開通に求められます。

 

明治28年(1895)5月10日には、幸堂得知が、友人の俳人稲見悟友とともに千住茶釜橋より鉄道馬車に乗り、「粕壁の藤花」を観覧した紀行文を新聞紙上に掲載しています(朝日新聞・明治28年5月16・19・22日号)。幸堂の紀行文は、千住馬車鉄道の利用実態を具体的に記したものとしても貴重で、越ケ谷から乗車してきた旅籠屋の女性2名も藤を見に行くといい、「大門」(東八幡神社の参道の入口付近)で下車して、古利根川の橋(八幡橋か)では橋銭を徴収されたことなどが記録されています。同行した稲見悟友は、牛島の園内で「乗出して馬車の早さに引かへて めつそう長き牛じまの藤」と短歌を詠みました。この歌は早い(短い)馬車と花房の長い牛島の藤を対比した歌であり、馬車鉄道は、千住―粕壁間を片道3時間半で運行しましたが、当時の人たちにとって、東京郊外に早くアクセスできる手段だったことがわかります。

 

幸堂らと同様に馬車鉄道を利用して牛島のフジを訪れた著名人に大和田建樹(1857~1910)がいます。大和田は詩人で、「♪汽笛一声新橋を~」の鉄道唱歌の作詞家として知られています。大和田が牛島のフジを訪れた日時は明らかでありませんが、彼の著書『雪月花』(明治30年刊)のなかで、「粕壁の藤」に馬車で訪れ、藤花を「氷柱の如き滝波の如く」と描写しています。また、「客は花を二房三房づゝ請ひ取りて。傘を挿しなどしつゝゆく。さながら藤娘のさまよなど笑ふもあり。」と記しています。現在は国の特別天然記念物に指定され、保存すべき樹木とされていますので、何人たりとも花房を痛めることは許されませんが、当時、訪れた客は、花房を取り、あるいは和傘をさし、藤花の下をくぐりながら観藤する情景がうかがえます。なお、大和田の『雪月花』は国立国会図書館のデジタルコレクションでご覧になれます(粕壁の藤は76コマ~)。

 

明治44年の彩色写真絵葉書にも、池の向こう岸に和傘をさす和装の女性が写っており、大和田の描写を借りれば「さながら藤娘」のようです。

ちなみに、この絵葉書は職員がインターネットオークションで購入したものです。インターネットオークションで「粕壁」と検索すると、牛島のフジの絵葉書がたくさんヒットします。こうした絵葉書が土産物として広まり、さらに多くの人々に「粕壁の藤」は知られるようになっていったのでしょう。展示会では、いくつかの絵葉書を陳列していました。皆さんにご覧いただけず、無念です。

 写真:資料陳列状況

千住馬車鉄道の廃止後、明治32年(1899)東武鉄道が開通すると、「粕壁の藤」はさらに多くの人々に知られるようになっていきますが、その話は、次回の#エア博物館で。

 

なお、今年度の牛島のフジの観覧は、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、休園となりました。歴史ある牛島のフジは来年度までお預けとなってしまいましたが、藤花の様子は牛島のフジを管理されている藤花園さんのホームページで紹介されるようです。

エア博物館 郷土資料館収蔵の指定文化財を紹介しました

4月4日から臨時休館中の「エア博物館」第二弾として、春日部市郷土資料館で収蔵する指定文化財を紹介しました。収蔵資料の紹介ページを充実させましたので、#エア博物館#おうちでミュージアムとしてご活用ください。

担当者のおすすめは、「西金野井香取神社領朱印状」(寄託資料)です。歴代の徳川将軍が発給した歴代の朱印状がそろっており、市域の神社では唯一です。実物の料紙は大髙檀紙(おおたかだんし)という厚手のしわしわな和紙で、当時の将軍の権威を体現しているかのような立派な文書です。リンク先の写真は享保3年(1718)に発給された徳川吉宗朱印状です。8代将軍吉宗は、テレビでは暴れん坊将軍としておなじみですね。

常設展示で常時ご覧いただけるもののほか、普段は収蔵庫で大切に保管されている資料もありますので、おうちでしかご覧いただけないものもありますので、お見逃しなく。指定文化財だけでなく、ほかの収蔵資料もおすすめです!

エア博物館「藤のまち春日部」展の紹介(その1)

令和2年4月7日(火)から開催予定だった「藤のまち春日部 The wisteria in Kasukabe」展は、4月4日からの臨時休館により残念ながら中止となってしまいました。

資料の陳列は大方済んでおり、皆さまに紹介したいことも盛りだくさんで、資料も皆さんにお会いすることを楽しみにしていた(と思いますが)、仕方ありません。今回の展示は、春日部の歴史・文化に深くかかわってきた藤(フジ)について紹介することを趣旨としていました。

写真:展示風景

しかし、もうすぐ、藤の開花の季節。「ほごログ」の場を借りて、皆さんに「藤のまち春日部」展で展示する予定だった資料を紹介し、春日部が誇る藤にまつわる歴史・文化を紹介したいと思います。

市内には、樹齢1200年以上、弘法大師の御手植えともいわれる「牛島のフジ」(国特別天然記念物)がありますが、実はその起源については大きな謎に包まれています。管見の限り、牛島のフジが記録・文献に登場するのは、明治時代以降のことになります。

今回新たに、明治政府による皇国地誌編さんに関わって調査された牛島村の地誌の原稿である明治10年(1877)1月「牛島村村誌詳細取調書」(当館所蔵)を見出し展示しました。

写真:牛島村村誌詳細取調書

本資料には、牛島村の「名勝」の項目に次のような記述があります。

当村藤岡伊与太郎邸中一藤繁茂セルアリ、★(木偏に幹という字)根周囲壱丈五尺余枝葉瀰蔓スルコト三十間、其幅イン七八間ニ亙リ、蕤茎垂ルヽコト四尺余、其声誉俠近傍故焉(カ)、旧幕ノ頃侯伯屡来テ賞賛ス、加之慶応年干(間)沗クモ東叡山輪王寺ノ宮様遊纜ノ御幸アリ

 

すなわち、当時、藤岡氏の邸宅内に藤があり、近隣で著名だったこと、江戸時代に時折「侯伯」が訪れ賞賛されたこと、慶応年間に輪王寺宮が訪れたことが記述されています。

牛島のフジは、かつて蓮花院の境内にだったともいわれており、史料にみえる藤岡氏とは、牛島女体神社の神職を勤めた人物のようで、元は蓮花院の住職であったともいわれています。蓮華院は明治初年に廃寺となっているので、詳しいことはわかりませんが、明治初頭には藤岡氏の邸内にあったことが明らかになります。

また、江戸時代には「侯伯」、おそらく大名が訪れていたことや、輪王寺門跡が訪れたことが記述されています。おそらく日光道中を通行した大名や、幕末(慶応年間)には輪王寺宮が牛島のフジに訪れ、観覧したものと考えられます。近世の一次資料は現在は見出されていませんので、江戸時代における牛島のフジのあり方を示す資料として非常に重要な資料といえます。

ちなみ、慶応年間の輪王寺宮は、公現法親王で、明治3年(1870)に宮家の北白川家を継いだ、北白川宮能久です。明治33年(1900)刊の『藤の紫折』にも北白川宮能久が訪れたことが触れられています。

以上から、本資料は、牛島のフジに関する最古級、かつ貴重な記述のある重要な資料であるといえます。

今後も「藤のまち春日部」展の資料を紹介していきたいと思います。お楽しみに。

臨時休館のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止に向けた対応として、令和2年4月4日(土)から5月15日(金)までの期間、郷土資料館を臨時休館します。休館中は、展示室にご入館いただけません。なお、再開については、改めてお知らせします。ご理解、ご協力をお願いします。

臨時休館に伴い、常設展示、および令和2年4月7日(火)から5月2日(土)まで開催予定だったミニ企画展示「藤のまち春日部」展は中止します。また、4月7日(火)から展示予定の常設展示「クレヨンしんちゃんと春日部」も延期します。

なお、臨時休館期間でも以下のサービスはご利用いただけます。

・電話・メール等によるレファレンス・お問い合わせ

 

藤の開花の季節にあわせて開催する予定だった、ミニ企画展示「藤のまち春日部」については、本ブログでも展示の内容や資料を紹介する予定です。さながら、今流行の「#エア博物館」「#おうちでミュージアム」として、お楽しみいただければ幸いです。

【1960年代の春日部】北春日部駅の開業

北春日部駅は、西口の土地区画整理事業が予定されており、今後の発展が期待されている駅です。現在は、1日に約1万人の利用客があります。

北春日部駅周辺地区 土地区画整理事業(春日部市役所サイト

東武鉄道では昭和41年(1966)9月1日に、春日部駅、姫宮駅間の春日部市梅田に新電車区を建設し、北春日部駅を開設しました。北春日部駅は、橋上駅で、総工費1億2千万円、ホーム幅9m、ホーム長さ125mで、1日当たりの乗降客数2,800人を見込みました。

また、同日のダイヤ改正で、新造車50両を導入、それまで北越谷駅までだった地下鉄日比谷線の乗り入れを北春日部駅まで延長し、武里団地入居者の輸送力増強が図られました。武里団地入居者への対応については、昭和42年(1967)にせんげん台駅の開業、昭和44年(1969)の武里駅の橋上化など、この後も急ピッチで進められました。

 

一方、新たに設置された春日部電車区は、総面積約10万平方メートル、収容能力220両と当時の私鉄では随一の規模でした。春日部電車区は、大正13年(1924)に西新井駅に設置された西新井電車庫がその起源です。これはその後、昭和27年(1952)に竹ノ塚駅に移転して西新井電車区となりますが、周辺地域の開発が進み、施設の拡充が困難になったことから、西新井電車区を営団地下鉄(現・東京地下鉄)に譲渡し、春日部電車区を新設、移転しました。旧の西新井電車区は、現在、竹ノ塚電車区と呼ばれています。

 

北春日部駅が開業した2か月前の昭和41年(1966)6月30日、東武鉄道では全線電化が完成、佐野線を走っていた蒸気機関車の運用が廃止され、東武鉄道から蒸気機関車が完全に引退しました。

建設中の北春日部駅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建設中の北春日部駅

この写真は、郷土資料館ホームページのかすかべデジタル写真館で紹介しています。

参考文献

『東武鉄道百年史』1998年 東武鉄道株式会社

『春日部市史 第4巻 近現代資料編II』1992年

『春日部市史 第6巻 通史編II』1995年

 

 

【春日部版】古記録にみる感染症への対応の歴史

昨今、新型肺炎の対応・対策をめぐり、日本だけでなく、世界中の人たちが動揺しています。皆さんの日常生活でもさまざまな影響がでているのではないでしょうか。

職業柄、こうした出来事があると「はて、昔の人たちはどうだったのかな?」と気になってしまいます。

今回は、春日部市域に伝わる感染症の流行をめぐる古記録から、先人たちがどのように「病」と対峙していたのかを紹介してみたいと思います。

その古記録とは、市指定有形文化財にも指定されている「長久記」です。「長久記」は、江戸川の河岸場として栄えた西宝珠花の薬種問屋「堺屋」(さかいや)の家の記録で、西宝珠花で起こった諸事件や日常生活について記述されています。

「長久記」には、「麻疹流行記」と題される幕末の文久2年(1862)の記事があります。内容は次の通りです。

文久2年4~5月、江戸で麻疹(はしか)が流行し、西宝珠花では7月上旬からはやり始め、流行当初よりこれまでの麻疹とは異なり、症状が極めて強いものだった。

堺屋では、7月17日に家人が患い、はじめは寒気を感じ、次いで発熱、嘔吐、下痢の症状がつづき、食事は3~4日間、まったくとれなかった。

久喜町に遣いに出していた家人も麻疹に罹ったため、当主の堺屋安右衛門は夫婦で看病に訪れ、薬を与え、便の世話もした。また、快方を願って、「御嶽講」(みたけこう)を信心し、久喜町の講中にも頼み、水行(すいぎょう)をした。

世間では、麻疹のあと皮膚病になったり、吹き出物ができることが多かったが、家人たちは翌年の春には徐々に回復した。

麻疹が流行していた期間には、薬種問屋であった堺屋では薬は品切れになるものもあり、江戸から薬をたびたび取り寄せました。薬が不足したため町の若衆たちは麻疹で臥せてしまった。

9月下旬になると、ようやく麻疹は鎮まったが、閏8月には「コロリン」(コレラ)が流行し、18~23歳くらいの男女が多く亡くなった。特に妊婦が多く亡くなり、江戸川対岸の木間ケ瀬村(現野田市)辺りでは、夥しい人たちが亡くなった。西宝珠花では、町で牛頭天王を出し、氏子一同で信心し、厄を払った。

 

以上が「長久記」の記述です。薬種問屋による記述であるため、症状等が細かく記されるとともに、西宝珠花で治療薬が不足したこと、疫病の鎮静を願って、地域の神仏を信仰したことなどが記録されています。

春日部市域では、町場として人口が密集していた粕壁宿、西宝珠花に疫病の神である牛頭天王が祭られていました。また、疫病退散のために舞ったともされる獅子舞が各地に伝わっています。身を清め、神仏を信心することが、前近代の人々の疫病を防ぐ一つの対策だったのかもしれません。 

先人たちの感染症への対策をみると、正体不明の病が流行し、様々な噂や情報が飛び交うなかでも、病人の看病に努めたり、薬を取り寄せたり、神仏にお願いをしたりと、当時の生活習俗のなかで「やるべきことはやる」強かな姿勢が貫かれていたことがわかります。

ひるがえって、こんにちにおいても、生活者を不安に陥らせるようなデマや流言飛語が飛び交い、先行きが見通せない日々が続いています。先人に学び、私たちも、病やデマに対して毅然とした態度をとり、集団感染を防ぐ日常の予防に努めたり、咳エチケットを守ったり、不要不急の外出は避けたりと、「やるべきことはやる」を徹底すべきではないでしょうか。そうした日々の積み重ねが、流行病の終息につながるのかもしれません。

【速報】神明貝塚が国史跡に指定されました!!+巡回展示のお知らせ

令和2年3月10日付の官報において、神明貝塚を国史跡として指定されたことが告示されました。つまり神明貝塚は正式に国史跡となりました!!もちろん春日部市としては初の国史跡指定となります。

 

多くの皆様のご理解とご協力があってこそ、国史跡への指定が実現したものだと思います。改めて感謝申し上げます。

 

また今後は神明貝塚の特徴や価値を全国に向け発信できるよう、展示や講演、環境整備を行っていきますので、更なるご理解とご協力をお願いします。

 

また先日まで埼玉県立歴史と民俗の博物館に貸し出をしていた、”貝塚のジオラマ”や土器などが返却され、郷土資料館では市指定文化財の「堀之内式組合せ土器」などがご覧いただけます。

 

さらに、お休みをしておりました神明貝塚の巡回展示が現在、豊春地区公民館で開催されています!巡回展示記念の講演会も予定されております。コロナウィルスの影響もありますので、無理のない範囲で、ご覧いただければと思います。

巡回展示の様子

 

 

ほごろぐのデザイン更新

ほごログは、春日部市視聴覚センターのシステムを利用して、皆様にお届けしています。

このたび、機器等の入れ替えにより、ほごログのデザインも一新されました。

ご覧いただくにあたり、今までと違うページが表示されたりするなど、ご不便をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。

なお、以前からご要望の多い「文字の大きさ」については、画面右上のボタンから「大・中・小」が選択できますので、お好みのものをご利用ください。

「背景色」、「行間」も調整可能です。

【お知らせ】文化財公開の中止

 広報かすかべ3月号「かすかべ今昔絵巻」で紹介いたしました、仏教美術の優品であります一ノ割『圓福寺』所蔵の市指定文化財を公開する「圓福寺まつり」は、新型コロナウイルスの感染防止のため、4月5日(日)の開催が中止となりました。
 年1度の機会を楽しみにされていた方や関係者の皆さまには広報紙で広くご案内したにもかかわらず、申し訳ありませんでした。
 来年、同時期での開催となりますので、ぜひ、満開な桜の季節に足をはこんでみてはいかがでしょうか。


▲厨子入木彫釈迦涅槃図は代表的な文化財。
一般的な涅槃図は絵画だが、一点ずつ細部に
まで彩色が施された彫刻による仏教美術です。

♪今日は楽しい雛祭り~春日部と雛人形

春日部界隈で雛人形というと、人形の生産地の岩槻や越谷に話題が集まりがちですが、実は古くから春日部も雛人形に浅からぬ縁があるのです。

3月3日は桃の節句、雛祭り。女子の成長と幸せを願って、雛人形などを飾ります。戦前の調査記録『郷土の研究』(粕壁尋常高等学校編)には、旧暦の桃の節句にあたる4月3日に広く雛祭り行事が行われていたことが記録されています。『郷土の研究』によれば、昭和7年ころの雛祭りは次のような内容でした。
・3月28日頃から雛段を設け、分相応に雛を飾り、桃の花等を供える。
・供え物は、草餅、紅白の菱餅、アラレ、白酒など。ほかに、赤飯、五目飯、けんちんうどん等も馳走する。
・初節句には、親類近所の子供たちを呼び、馳走し、親元からは親王様・内裏様などの雛、親戚にも簡単な雛をお祝いとしてもらい、返礼として草餅・赤飯を贈る。
・初節句のほかは、家内だけで雛祭りのお祝いをする。
・4月5日に雛段をばらし、雛の箱には虫除けに草餅を入れてしまう。

以上は、昭和7年ごろの粕壁の町場の雛祭りで、農村や現在とは多少様子が違うのかもしれません。郷土資料館でも、季節展示で様々な手作りお雛様を飾っています。
写真:季節展示ひなまつり

ところで、伝統的な雛人形って、何でできているか知っていますか?
その答えが今回の本題の「雛人形と春日部の浅からぬ縁」と関係します。

ものにもよりますが、雛人形の頭や手足は、桐塑(とうそ)と呼ばれる練り物でできているものが多いそうです。この桐塑は、桐のおが屑と正麩糊(しょうふのり)を練ってつくります。弾性と粘着性があり、可塑性に優れ、乾燥すると木材同様に彫刻ができることから、細かい造形表現を可能にする素材として使われました。桐塑でできた人形は、整形したあと、胡粉(ごふん)が塗られ、和紙や布が貼られるものあるため、桐塑の生地面がみえなくなっています。

実はこの桐塑の原料の「桐のおが屑」こそ、春日部の地場産業の桐箪笥・桐小箱の製造過程で生じたもので、雛人形制作が盛んな岩槻や越谷の人形職人は、桐箪笥・桐小箱職人が出したおが屑を活用し、桐塑に加工して人形を生産しているのです。現代風にいえば、産業廃棄物を再利用する究極のリサイクルといったところでしょうか。
郷土資料館にも「桐のおが屑」がありましたので、参考まで少々ピンボケの写真を載せておきます。
写真:桐のおがくず
また、桐小箱は、雛人形を収納する箱としても用いられました。
もちろん、岩槻や越谷でも桐工芸産業は盛んでしたが、近隣の様々な地場産業が絡み合いながら、伝統的な地場産業が今も息づいていることがわかります。春日部近隣の雛人形は、もしかすると、人形の頭や手足、収納の箱などは春日部由来かもしれません。

国土地理院の地図の利用

歴史のことを調べる際に、地理情報はとても重要です。
最近では、インターネット上の地図も非常に使いやすくなっており、日本のみならず、世界中の詳細な地図を簡単に見ることができます。

ところで、昨年12月に、国土地理院の地図の利用手続きが改正されました。
国土地理院の地図の利用手続(国土地理院サイト)

主な改正点は「申請不要となる範囲の拡大」、「承認基準の見直し」です。特に申請不要となる範囲の拡大により、書籍やパンフレット、ウェブサイトへの地図の挿入が、出典を明示することのみで可能になりました。

国土地理院の地図は、インターネット上では地理院地図から利用できます。また、地理空間情報ライブラリーには、様々な地理空間情報がまとめられています。
地図を見ながら、さまざまな歴史上のできごとに思いをはせてみませんか。

【お知らせ】3月のイベントは中止します

春日部市郷土資料館では、新型コロナウイルスの感染防止のため、3月に予定されていた、以下の各種イベントを中止することになりました。

・3月1日(日) 古文書勉強会 中止(今後の予定については参加者の方に書面で通知します)
・3月14日(土)・28日(土) 古文書講座(初級・中級) 延期(今後の予定については参加者の方に書面で通知します)
・3月21日(土) ミュージアムトーク 中止
・3月22日(日) 体験ワークショップ 中止

楽しみにされていた方や関係者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

南桜井小学校「伝統芸能クラブ」発表会

2月18日(火)、南桜井小学校ではクラブ活動の成果を発表する”クラブ発表会”が行われました。
4月から伝統芸能クラブでは、県指定無形民俗文化財『西金野井の獅子舞』を伝承する西金野井獅子舞保存会の皆さまの指導により、夏季の地元神社の祭礼や地域のお祭り、そして市主催の民俗芸能公開事業など、様々な機会で地域の宝である獅子舞に一生懸命、取り組んでいただきました。
 4年生4名、5年生7名、そして6年生6名の総勢17名で獅子舞の舞手、巫女役、そしてお囃子の笛役と、3つの役割をこなしていただきました。

▲三匹獅子による力強い「芝舞」。西金野井の獅子舞で最も基本的な舞。
5年生を中心に堂々とした獅子舞が披露されました。

▲太夫獅子が模造刀を携え、地域の家内安全・五穀豊穣を祈願する「辻きり」。
舞の所作と共に由縁を理解した上で舞ってくれました。
 お囃子の笛役も子供たちだけで2曲をとおして吹くことができるようになり、保存会会長さんも目を細めて見守ってくれました。
当日は来年度にクラブ活動に新たに加わる3年生が中心に見学され、真剣な表情で先輩たちの舞に見入ってくれました。引き続き、多くの児童が参加されること、期待しております。
保存会の皆さま、そして校長先生、教頭先生、顧問の先生、地域の舞の後継者養成に取り組んでいただき、ありがとうございます!

 

【くらしのうつりかわり展】手回し洗濯機

現在開催中の「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」に展示している「手回し洗濯機」は、昭和32年(1957)ごろ、群馬県の林製作所から発売された「カモメホーム洗濯機」です。
使い方は、球体の洗濯槽部分に、乾いたままの衣類などをつめ、洗剤を溶かした熱湯を注ぎ、ゴムパッキンがついているふたを閉めます。ふたにより洗濯槽内部は密閉され、ハンドルを回転させると、内部に残った空気の気圧が高まって、圧力で衣類の汚れを落とします。すすぎは、お湯を入れ替えて回転させたそうです。
この仕組みは、群馬県の高月照雄さんという方が発明したものです。

ふたを開けるときにポンと音がするので「ポン洗濯機」とか、ソ連の人工衛星「スプートニク1号」に似ていたので「スプートニク型」と呼ばれていました。

林製作所の「カモメホーム洗濯機」は、同じ時期に発売が開始された電気洗濯機に押され、残念ながら昭和38年(1963)には生産を中止しました。しかし、同様の仕組みを利用した手回し洗濯機は、現在でも販売されており、電気を使わずきれいに汚れが落ちるエコな洗濯機として注目されています。

さて資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しております。昔の懐かしい道具や写真を展示し、小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。
ぜひ遊びにいらしてください。

(参考)
(PDF) 板橋春夫「いせさきフロンティア27【 高月照雄 】~魔法のような球体洗濯機の発明者~」『伊勢崎佐波地区景気動向調査NO.33』伊勢崎商工会議所・アイオー信用金庫
豊富郷土資料館のブログ(山梨県中央市)「球形手回し洗濯機について」

手回し洗濯機
手回し洗濯機「カモメホーム洗濯機」

カモメホームウォッシャーのロゴ
「KAMOME HOME WASHER」のロゴ

洗濯槽内部
洗濯機の内部

底面の刻印
底の刻印

郷土資料館体験ワークショップを開催しました♪

令和2年2月15日(土)、郷土資料館展示室で「体験ワークショップ からくり屏風を作ろう!」が開催されました。

春日部の伝説をもとにした紙芝居や、蓄音機によるレコード鑑賞を楽しんだあと、昔のおもちゃ「からくり屏風」を作りました。

裏と表の2面しかないように見えるのに、4種類の絵柄が出てくる不思議な屏風に、参加した子供たちは大変喜んでいました。

ワークショップは、小学生までを対象とした、昔の遊びを気軽に体験できるイベントです。事前申込み不要、当日の飛び込みも大歓迎です。
 次回ワークショップは、令和2年3月22日(日)に「ぴょんぴょんカエル」や「紙てっぽう」を作ります。ご参加をお待ちしています。

幸松小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年2月12日(水)に幸松小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

 

時代とともに少しずつ変わっていった春日部のくらしについて、学芸員から説明を聞きました。

 

説明の後の自由時間には郷土資料館を自由に見学しました。
古い地図や粕壁宿の模型を見たりして、昔の春日部を想像できたようです。

 

郷土資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。 

初午

お客様から「初午(はつうま)」のお問合せを頂きました。令和2年(2020)は、2月9日(日)が初午になります。

日本の暦(こよみ)では、年だけでなく、日々にも十二支が割り当てられています。そして、2月の最初の午(うま)の日を初午と呼び、主に稲荷神社でお祭りをします。
なぜ、1月の最初の午の日ではなく、2月なのかは、諸説ありますが、『庄和町史編さん史料12 民俗II』によれば、京都府の伏見稲荷神社の祭神がその山上に降臨したのが和銅4年(711)の2月11日で、この日が午の日であったとの伝えがあるとのことです。旧暦にあわせ、3月の最初の午の日を初午とするところもあります。

ともあれ、この時期が、ちょうど農作業をはじめる前のころにあたるため、豊作の祈願などが行われ、粗くおろした大根と大豆を煮た「スミツカリ」という料理を「ツトッコ」と呼ばれるわら包みにいれて、稲荷神社や各戸の屋敷神に供えたり、甘酒を作ったりします。
また、初午の日には、お風呂をたいたり、お茶をわかしたりしない、火事になるから仕事をしないなどの言い伝え(禁忌・きんき)もあるそうです。

資料館に展示している旧陣屋町内会から頂いた陣屋稲荷の狐たち

市民の皆さんと館蔵の古文書を読んでいます

令和2年2月2日(日)古文書勉強会を開催しました。前回に引き続き、嘉永2年(1849)の御鹿狩の勢子人足として動員された神間村の記録「小金原御鹿狩ニ付手控帳」を、21名の市民の方たちと講読しました。

今回は、神間村から動員された勢子人足が帰村した後、村内の「愛宕山」にお神酒を奉納し、「念相院」という寺院で「お時」(御斎)をしたという記事などを講読しました。

「小金原御鹿狩ニ付手控帳」は、いよいよ次回に読み終わりそうです。古文書勉強会のこれまでの成果はこちらからさかのぼって御覧になれます。

なお、次回は3月1日(日)14時~となります。

【常設展】竪穴式住居の魚たち

郷土資料館の竪穴式住居の模型の中には、サケ、クロダイ、スズキ、ウナギを燻製にした様子の模型を展示しています。


竪穴式住居の模型は、花積貝塚の発掘調査で発見された縄文時代中期の住居跡をモデルにしています。
クロダイとスズキ、ウナギは、実際に花積貝塚から骨が出土しており、縄文の人も食べていたと考えられます。
残念ながら花積貝塚では、サケの骨は出土していません。これは、サケの骨が、非常に小さく砕けてしまうことが理由のようです。しかしながら東北地方や信州・北陸地方、また東京都の遺跡では、サケの歯や骨が大量に見つかっていますので、花積貝塚でも食べていた可能性は十分にあります。


ところで、サケは回遊魚で、産卵期に川を上ってきます。ウナギも海で生まれ回遊した後、川をさかのぼります。クロダイやスズキ(*)は、河口など、塩分が弱い水域でも生活できますが、基本的には海に生息します。
つまり、花積貝塚に暮らした縄文の人は、川でとれる魚、海でとれる魚の両方を食べていました。模型の竪穴式住居が営まれた縄文時代中期は、比較的寒く、縄文時代前期に奥東京湾を形成した海は現在の春日部市域よりも南に下がっていたと考えられます。花積貝塚で暮らした縄文の人たちは、食料を手に入れるために、様々な漁場へ出かけていたのでしょう。

*スズキは河川の淡水域まで遡上する個体もいます。(2020年2月7日追記)

竪穴式住居模型の魚(上からスズキ、クロダイ、ウナギ)

江戸川小中学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年1月28日(火)に江戸川小中学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

暮らしのうつりかわりについての説明を聞いた後、自由時間には郷土資料館を自由に見学しました。

昔の電話や遊び道具を実際に触れて、記憶に残る見学になってくれたでしょうか

郷土資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。

郷土資料館体験ワークショップを開催しました♪

令和2年1月26日(日)、郷土資料館展示室で「体験ワークショップ」が開催されました。

ワークショップの様子

春日部の伝説をもとにした紙芝居や、蓄音機によるレコード鑑賞を楽しんだあと、
昔のおもちゃ「パタパタ(板がえし)」を作りました。


ワークショップの様子

一番上の板をひっくり返すと、下の板も順番に”パタ♪パタ♪パタ♪”と
音をたてながら ひっくり返るのを、何度も楽しんでいました。


ワークショップの様子

ワークショップは、小学生までを対象とした、昔の遊びを気軽に体験できる
イベントです。事前申込み不要、当日の飛び込みも大歓迎です。

※次回ワークショップは、令和2年2月15日(土)に「からくり屏風」を作ります。
ご参加をお待ちしています♪

小渕小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年1月24日(金)に小渕小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。

見学の様子

資料館に展示してある、少し前に家庭や学校などで使われていたものを見ながら
それぞれの道具の説明を聞きました。
説明を受けた後は千歯こき体験や、実際に昔のものに触れて体験です。


見学の様子

初めて触れる ”そろばん”    使い方はわかるかな?

見学の様子

かすかべ弁?「さっぱりわからない!!」と言いながら一生懸命考えていました。

郷土資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。

小金原御鹿狩の古文書を読んでいます。ついでに参考史料も紹介

令和2年1月19日(日)古文書勉強会を開催しました。前回に引き続き、嘉永2年(1849)の御鹿狩の勢子人足として動員された神間村の記録「小金原御鹿狩ニ付手控帳」を、17名の市民の方たちと講読しました。
写真:勉強会の風景
今回読んだ部分は、いよいよ御鹿狩の当日の場面でした。神間村の人足たちは「さんきらへばら」(山帰来・サルトリイバラ)の生い茂る山に入り、御狩場の左手の「なら山」に待機しましたが、場所が悪く「御天之方」(将軍家慶)の姿は全く見えなかったと記しています。狩りの始まりを告げる鉄砲の合図で勢子たちが持ち場を引き取った後、神間村の人足は「御天之方」へ赴き、狩りや将軍家慶の姿を拝見したようです。遠目ではありますが、将軍の姿を直接見る特別な機会になったようです。

ところで、当日も参加者の方からも紹介がありましたが、小金原御鹿狩の関連史料は数多くあり、そのうちの一部は史料所蔵機関のホームページで閲覧することができます。以下、わずかですが参考となる史料を紹介しておきます。
「小金原御鹿狩絵図」(船橋西図書館所蔵)*当日紹介されたものです。寛政7年(1795)の御鹿狩を描いたもの。
「〔小金原御鹿狩図〕」(船橋西図書館所蔵)*当日紹介したものです。嘉永2年(1849)の御鹿狩に伴い「御締」となった地域を示した絵図です。このほか船橋西図書館のサイトでは様々な御鹿狩の絵図や史料をご覧いただけます。
「小金野御鹿狩御用留」(東京国立博物館所蔵)*御鹿狩の準備のため代官斎藤嘉兵衛の手代中村条助が「御鹿狩御用出役」を勤めたときの御用留。御鹿狩のため獲物を生け捕りするなど、下館や真壁周辺の村々で準備が進められる様子がうかがえます。
「小金野御鹿狩記」(国立公文書館所蔵) *藤原政脩なる人物による嘉永2年の御鹿狩の記録(のち内務省により書写されたもの)。鹿狩の過程を描いた記録。供奉した大名・旗本の名や人数などが詳しく記録されるほか、彩色の挿絵もあります。

このほかにも、享保年間、寛政年間の御鹿狩の記録・絵図も含めると、インターネット上で公開されているものだけでも、枚挙にいとまがありません。
神間村の「小金原御鹿狩ニ付手控帳」は、解釈しづらい箇所もありますが、こうした関連史料を調べることで、史料の解釈が深まるかもしれませんね。個人的には②や④が役立つのかなと思います。

「小金原御鹿狩ニ付手控帳」は、未だ読み終わりませんが、古文書勉強会のこれまでの成果はこちらからさかのぼって御覧になれます。

なお、次回は2月2日(日)14時~、次々回は3月1日(日)14時~となります。

【銚子口の獅子舞】新春の舞が公開されました

 暦上では本日1月20日が「大寒」ですが、年中行事では年明けが”新春”。地域の家内安全・五穀豊穣を祈願する新春の祭礼が穏やかな暖かな陽射しのもと、1月19日(日)銚子口香取神社で市指定無形民俗文化財の銚子口の獅子舞が奉納されました。
 年末の第9回民俗芸能公開事業でも出演いただいた『銚子口獅子舞保存会』の皆さまは、年末年始も練習を重ね、特に二人の女子高校生、そして3年前に約70年ぶりに復活させた演目”宇津女(うづめ)の舞”の熟成に取り組まれました!
小獅子の舞
▲高校2年生の神谷さんによる「小獅子の舞」。獅子役は昨秋のデビューながら堂々とした落ち着いた舞を披露してくれました。
さんぎりの舞
▲”中獅子の舞”から新たに”さんぎりの舞”に取り組まれた高校2年生の日向さん。小気味よくリズミカルな舞を皆さんに披露してくれました。
うづめの舞1うづめの舞2
▲新春の舞にふさわしく桜花を太夫獅子が携える”宇津女の舞”。復活してから3年目の舞は徐々に地域でも浸透してきました。
 市内で唯一、1月に公開される民俗芸能ですが、7月、10月と、年間3回、銚子口の獅子舞では異なる演目が舞われます。
また、4月から本格的に各団体さんも始動してまいります。この令和2年も形なき文化遺産の応援、よろしくお願いします。

【常設展】花積貝塚の縄文人(復顔模型)

昭和43年(1968)、花積貝塚で、今から約4800年前の縄文時代中期の人骨が発見されました。
頭蓋骨から、その人が生きていた時の顔の様子を復元する作業を、復顔(ふくがん)といい、郷土資料館では、この人骨の頭蓋骨をもとに復顔した縄文人の顔の模型を展示しています。

花積貝塚の縄文人を含め、縄文人の顔は、現代人と比べて次のような特徴があります。
・頭の形が正方形に近い。(顔の幅が広い)
・眉間が突出し、ほりが深い。
・目が大きく丸い。
・口元はひきしまった印象がある。


模型では見えませんが、口元のひきしまった印象は、歯のかみ合わせに違いがあることによります。現代の日本人のほとんどが、上の歯が下の歯の前に下がる鋏状咬合(きょうじょうこうごう)であるのに対し、縄文人は、上の歯と下の歯が同じ位置でかみ合わさる鉗子状咬合(かんしじょうこうごう)になっています。


郷土資料館では、西親野井地区の神明貝塚で発見された縄文時代後期の頭蓋骨を、内牧地区の坊荒句遺跡で発見された江戸時代の頭蓋骨と並べて展示しています。これらをくらべてみると頭蓋骨からも、顔に現れる特徴の違いがよくわかります。

花積貝塚の縄文人
花積貝塚の縄文人

宮川小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年1月17日に宮川小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

見学の様子

展示物を見ながら説明を聞き、いつもの授業とは違う体験をしました


見学の様子
実際に学校で使われていた椅子に座って昔の教科書を読んだり

見学の様子
白黒テレビを見たりと、楽しみながら学ぶことができたようです

郷土資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。

春日部市内の道しるべ

とある市民の方より、市内の道しるべについて詳しく知りたいとお問い合せをいただきました。
今回は、そんなレファレンスの一コマから、市内の道しるべについて紹介したいと思います。
市内の道しるべについては、『埼葛の道しるべ』(1996年刊)という図書が参考になります。同書は、埼葛地区文化財担当者会という広域行政団体が調査・編集した報告書で、春日部市(旧春日部市・旧庄和町)をはじめ、埼葛地区の道しるべを悉皆調査し、様々な角度から分析しています
当時の調査によれば、市内には72基の道しるべがあるとされています。残念ながら発行部数も少なく、同書の入手は困難を極めています。そこで、同書から市内の道しるべ一覧(みちしるべ.pdf)を示しておきたいと思います。なお、現在は、その後の精緻な調査もあり、市内の道しるべは2基発見され、74基を数え、ここで掲載した道しるべ一覧は、今後も修正・訂正の余地があります。

市内の道しるべとして著名なのは、日光道中に建てられたものです。現在も春日部大通り(旧日光道中)に建てられているものや、郷土資料館で展示しているものもあります。また、小渕の追分にある宝永6年(1709)銘の道しるべは、市内最古であることが知られています。
道しるべの行き先をみると、日光や江戸といった日光道中ゆかりのものや、当時の城下町である関宿・岩槻や、古刹慈恩寺までの指標となったものが多くありますが、一方で、金野井(かなのい)、宝珠花(ほうしゅばな)など江戸川の湊として賑わった河岸や、備後(びんご)など渡船場を行き先にするもの、四国八十八か所を模して行われた庄内領新四国八十八か所の順路を示すものなど、地域色豊かな道しるべも散見されます。
道しるべというと、行き先を示した割と目立つ石塔を想像しがちですが、実は庚申塔等の石造物を兼ねているものが多いことも特徴です(併用道標)。また、江戸時代には多くあったであろう木製の榜示や道しるべは、朽ち果ててしまったと考えられます。路傍の石造物をじっくりみると、新発見の道しるべもまだあるかもしれません。お気づきのことがあれば、ぜひご教示ください。

中野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和2年1月15日(水)に中野小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

千歯こき体験

明治時代から現代までの生活の推移を、実物や写真を見て学びました
実際に、千歯こきを使い脱穀体験をしたり

わらじ

素足に ”わらじ” を履いて歩く児童もいました

わらじ

ちなみに感想は「痛い!痛い!」でした

小学校見学の様子

1時間以上、郷土資料館を見学してくれました♪

郷土資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください

【常設展】竪穴式住居模型を作っている木材

春日部市郷土資料館の竪穴式住居の模型は、花積貝塚で確認された縄文時代中期の住居跡をモデルにしています。上屋の構造は、発掘調査で発見される炭化した木材や世界各地の民族事例などから想定したものです。想定している部分は、調査や研究の進展いかんでは、新しいイメージも生まれてきます。たとえば神明貝塚では、近年の調査で土を屋根にふいたと思われる住居跡が確認されています。

さて今回は、模型に使われている木材の木の種類についてご紹介します。資料館の竪穴式住居の模型の木材は、すべて本物の植物を加工して使っています。
まず、中央で屋根を支えている4本の柱とそれを横につないでいる梁(はり)の部分は、コナラを使っています。棟(むね)という、住居の穴の外側から斜めに建てられている材木はスギです。その棟をマス目になるように横につないでいる横材はクリで、この棟と横材の上に屋根になるカヤがのせられています。
コナラやスギ、クリの木材は、縄文時代の遺跡からも炭化した状態で発見されることの多い木です。

木材の違いは樹皮の様子で簡単に見分けられます。ご来館いただいた際は、ぜひご確認ください。
竪穴住居模型

春日部市郷土資料館、三十路を迎えました

あけましておめでとうございます。本年もかわりなく「ほごログ」、そして春日部市の文化財行政と郷土資料館のお引き立てのほどよろしくお願いいたします。
ところで、今年2020年は郷土資料館開館30周年の記念すべき年です。皆様にご愛顧いただき、無事に三十路(みそじ)になりました(まだ数えですが・・・)。

正月早々、手前みそですが、今回は開館当時の資料から「生まれたて」の資料館を紹介したいと思います。

平成2年(1990)7月20日、郷土資料館は、教育センターの1階に開館しました。13時、開館式典のテープカットで、資料館は産声をあげました。
写真:テープカット
テープカットの写真からは、現在、民具等を展示して狭く感じるロビーには、何も置かれず、広々としている様子がわかります。次の写真は開館まもなくに撮られた展示室の写真です。
写真:開館当時の常設展示室
あまり変わり映えしていないようにも見えますが、その後、設置されていったケース、資料、解説パネルなどがありません(当然ですが)。
「広報かすかべ」408号(1990年6月号)には、資料館のオープンを紹介した記事が掲載されています。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\広報かすかべ
展示室(常設展示)のオープンと同時に開催された開館記念特別展は「粕壁と円空」でした。当時の記事をみると、旧春日部市内の14体の円空仏を展示したそうです。現在は、その後の調査も進み、現市内には22体の円空仏が確認されています。
開館当時の見どころが、竪穴住居と宿場の模型だったこともよくわかりますね。今は手を変え品を変え、収蔵資料で見どころをつくれるよう日々奮闘していますヨ!
開館特別記念講演会には県立博物館(当時)の林宏一先生をお招きして、「埼玉の円空仏」についてご講演いただきました。次の写真は講演会の記録写真です。
写真:最初の記念講演会
現在は満席になることも多い記念講演会ですが、まだ教育センターや資料館、円空仏について認知されていないなか、開館日の翌々日に開催されたので、空席が目立ちますが仕方ありませんね。現在は、多くの皆さまに少しは認知していただるようになったのかなぁと思ったり、思わなかったり。

さて、30周年となる2020年も、より多くの方にご利用いただき、郷土の歴史・文化に親しんでいただけるよう、様々な企画・工夫を凝らしていきたいと思います。三十路になった春日部市郷土資料館を、本年もどうぞ変わりなく、お引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。

ミュージアムトーク「春日部の歴史と2019を振り返る」を開催しました

12月28日(土)、本日は、令和元年の郷土資料館最終開館日でした。
本年も、ご来館いただき誠にありがとうございました。

さて本日は、「かすかべの歴史と2019年を振り返る」をテーマに常設展示のミュージアムトークを開催いたしました。暮れのお忙しい時期にもかかわらず、大勢の方にお越しいただきました。
ミュージアムトークでは、今年のニュースのレジュメをもとに、関連する展示物をご紹介いたしました。
2019年は、改元や台風被害など大きなニュースがありました。これらに関連して現在、市内に伝わった明治の改元の際の恩赦に関する文書や、明治43年の水害被害を記録した文書を常設展示に展示しております。こういった資料は、過去の人々が様々な事象に対してどのように向き合ったのかを如実に伝えてくれているだけではなく、現代を生きる私たちの指標ともなります。
また、7月に世界遺産になった百舌鳥・古市古墳群の大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)と市内の塚内古墳群の比較、大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)が世界遺産に登録されるにあたっての問題点について、解説いたしました。

2020年の暮れにも、また実施できればと考えております。
どうぞよいお年をお迎えください。


ミュージアムトークの様子
ミュージアムトークの様子

手作り季節展示を展示してます

冬の寒さを感じる毎日ですね
1年経つのは早いもので、もう年末です
郷土資料館では、小さな手作り門松をかざり、新年を迎える準備をしました♪
皆さま、ぜひご来館ください


季節展示

郷土資料館は、12月29日(日)から1月3日(金)まで休館となりますので
ご注意ください

郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」第2回を開催

令和元年12月21日、先週に引き続き、しめ縄作り第2回目を開催しました。私も、参加者の方と一緒にしめ縄を作らせていただきました。
しめ縄づくり1
2人一組になり1人が元をしっかり押さえた状態で、わらの束を3つに分けて、それぞれ右にねじります。

しめ縄づくり2
右にねじった2つのわらの束を、「左まき」でまき合わせるのですが、「左まき」がわからず2回失敗しました。
写真は間違っているまき方です。


しめ縄づくり3
3回目にして、ようやく正しい方向に巻くことができ、完成しました。
皆さん他に輪飾りなども作ってお持ち帰りになられました。
来年もまた暮れの時期に実施しますので、ご興味がある方はぜひご参加ください。

【ミュージアムトーク】春日部市の2019年

12月も残すところあと10日ばかりになり、テレビや新聞では、今年のニュースや出来事が振り返られています。
2019年の春日部市のニュースでは、以下のようなものがありました。

●2019年主な春日部のニュース(「広報かすかべ」他より)
2月8日 株式会社ジェイコム北関東越谷春日部局と市が包括的連携協定を締結。
2月14日 豊野町のプラスチック工場で火災。
2月26日 国交省が首都圏外郭放水路を次年度よりインフラツーリズムのモデル地区とすることを発表。3/23より有料施設見学開始。
3月8日 春日部駅付近連続立体交差事業都市計画決定。
3月23日 第91回選抜高校野球に春日部共栄高校。1/23初日高松商業に敗退。
3月29日 4/7埼玉県議会議員選挙告示、春日部市選挙区は無投票。
3月31日 住基カードによるコンビニ交付サービスの新規登録受付が終了。
3月31日 谷原中、中野中、宝珠花小、富多小、江戸川中廃校。
4月1日  春日部南中、江戸川小中学校開校。
5月3日  大凧あげ祭り、大凧文字「令和」「元年」(5/5も)。
5月7日  匠大塚株式会社と市が包括的連携協定を締結。
5月18日  資料館春季展示「指定文化財でめぐる春日部」(7/7まで)
6月30日  市のAR動画サービス(HP Reveal)サービス終了。
7月23日  資料館夏季展示「元祖成金!鈴木久五郎」(9/8まで)。
9月11日  葛飾中学校で熱中症19人が緊急搬送。屋外の最高気温35.8度。
10月1日  「アンタッチャブル」の山﨑弘也がかすかべ親善大使になる。
10月1日  資料館小学校地域学習展「くらしのうつりかわり」(R2.3/22まで)。
10月6日  イオンモール株式会社と市が包括的連携協定を締結。
10月13日  台風19号(10/13~)による避難勧告。水害に備えて避難所設置。
10月13日  ジェフユナイテッド千葉の春日部市出身、佐藤勇人現役引退。
11月15日  神明貝塚、国史跡に指定の答申。埼玉古墳群も特別史跡と答申。
11月29日  「クレヨンしんちゃんのなるほど春日部マガジン」が日本タウン誌フリーペーパー大賞で全国4位。
12月 3日  旧庄和町が2001年に埋設したタイムカプセル公開。1月に返送。


さて、12月28日(土)は、ミュージアムトークを行います。
春日部のニュースに限らず、2019年の様々なニュースを振り返りながら、関連する展示について、皆様とトークしたいと思います。

ミュージアムトークに向けて、一部展示替えを行い、皆様をお待ちしております。

【ミュージアムトーク】春日部の歴史と2019年をふり返る
日時:令和元年(2019年)12月28日(土)10:30~、15:00~
   各60分程度
場所:郷土資料館常設展示室
*ミュージアムトーク中の入場、退場は自由です。

郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」を開催しました

令和元年12月15日(日)、郷土資料館体験講座「しめ縄を作って新年を迎えよう」が開催され、多くの方が参加してくださいました。

しめ縄つくり

最初に、半紙を使い紙垂を作成した後、しめ縄本体の作成をしました。
しめ縄は、2人の共同作業になり、2人が藁の両端を持ち、ねじって作成します。

しめ縄つくり

しめ縄つくり

新年を迎えるのにふさわしい立派な物が完成しました。
参加者からは、「毎年参加しています!」「楽しかった」と感想をいただきました。

神間村文書を読む勉強会

令和元年12月15日(日)古文書勉強会を開催しました。今回も、前回に引き続き、嘉永2年(1849)「小金原御鹿狩ニ付手控帳」を、18名の市民の方たちと講読しました。今回読んだ部分には御鹿狩の勢子人足として動員された神間村の人々が、酒井根村(現柏市)や逆井村(現柏市)で野宿する場面でした。

酒井根村の焚き出しでは、夜飯に「にぎり飯壱人前三勺宛被下、其外茶酒抔迄も送り来」との記事があり、握り飯が3勺(1合の3分の1)では少ないのではないかとの意見があり、「勺」の字をめぐって様々な意見が飛び交いました。同様に「茶」という字も「薬」と読めるのではないか、「寝」の異体字の書き損じではないか、という意見もあり、あるいは「来」も「直」ではないかとの意見もあり、この一文の翻字と解釈をめぐって、皆さんで検討を深めました。
白熱(?)していたこともあり、今回はみなさんの写真を撮り忘れてしまいました・・・
「小金原御鹿狩ニ付手控帳」は、未だ読み終わりませんが、古文書勉強会のこれまでの成果はこちらからさかのぼって御覧になれます。

次回は、1月19日(日)14時~となります。

【常設展示】甕棺(福岡県春日市出土)のキャプションを更新しました

郷土資料館では甕棺(かめかん)と呼ばれる、人の遺体を入れるために作られた土器を展示しています。このたび、何かとご質問が多かったキャプションを更新しました。
この甕棺は、春日部市ではなく、福岡県春日(かすが)市の一の谷遺跡で発見されたものです。平成5年6月より、名前に「春日」が付く、春日居町(山梨県・現笛吹市)、春日井市(愛知県)、春日村(岐阜県・現揖斐川町)、春日町(兵庫県・現丹波市)、春日市(福岡県)と春日部市の6つの市町村で「春日サミット」を開催していました。それがきっかけで平成9年に福岡県春日市からお借りし、展示しているものです。
弥生時代中期後半、今から1900年くらい前のもので、高さは上のものが約60㎝、下のものが約89㎝、最大幅は70㎝です。

甕棺を使ったお墓を甕棺墓(かめかんぼ)といいます。甕棺墓は、弥生時代前期から中期の北九州地方に特有のお墓の形で、甕に人の遺体を入れ、ふたをかぶせたり、もう一つの甕を上にのせたりします。甕棺からは人の遺体や、副葬品の青銅製の武器類や鏡が発見されます。

春日市には、この甕棺が発見された一の谷遺跡のほかにも多くの弥生時代の遺跡があります。
国指定史跡の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)では、明治32年(1899)に、約30面の中国鏡、銅剣や銅矛(どうほこ)、ガラス製の勾玉など多くの品が副葬された甕棺墓が発見されました。この墓は、弥生時代当時、春日市近辺にあった奴国(なこく)の王の墓と推定されています。有名な「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印を残した王族です。

須玖岡本遺跡の近くには、春日市奴国の丘歴史資料館があり、ドーム内で甕棺墓を発掘調査当時の状態で展示しています。
お近くにご旅行の際は、ぜひご見学ください。

甕棺

【常設展・展示替】年末年始に向け一部展示替しました

年末年始に向けて、今年一年を回顧できるような資料を常設展示に出品してみました。今回は、常設展示室の最奥のケース2か所を展示替をしました。派手さはないですので、気づかない方多数!?
写真:展示替の様子
ひとつは、令和の即位の礼を回顧する(?)もの。幕末維新期に明治天皇が元服・即位した時、春日部市内で起きた出来事を物語る資料です。明治時代と令和の即位に共通点があるかも!?

もうひとつは「幸松村水害誌」の「ぷち展示替」です。今年10月の台風上陸で、春日部市でも避難所が開設されました。明治43年(1910)の水害のときにも、幸松村では避難所が開設されました。当時は公的施設は小学校と村役場くらいですが、果たして当時被災された方はどこに避難したのでしょうか。水害の歴史を物語る「ぷち展示替」です。

12月28日(土)にはミュージアムトーク「春日部の歴史と2019年をふり返る」も開催します。合わせて、お楽しみください。

気づかない方多数!?かもしれませんが、じっくり解説をご覧いただき、2019年ふり返える機会になれば幸いです。お見逃しなく!

【常設展・展示替】成金鈴久、再び。新出資料も!

春日部の八丁目出身の「元祖成金」鈴木久五郎。彼については今夏企画展示で紹介したところですが、今回、常設展を一部展示替し、企画展示後に市民の皆さまからご寄贈いただいた鈴久ゆかりの資料を出品しました。
写真:鈴久ミニ展示
なかでも、担当者の一押しは、11月末に粕壁の旧家の方からご寄贈いただいた古写真です。資料整理の最中、たまたま手に取った一枚に見慣れた青年が。よく見ると、鈴木久五郎。しかも、実兄の鈴木兵右衛門や粕壁の有志の方々と写っているではありませんか!もちろん新出資料です。新発見にドキドキしました。
撮影した写真館や他の被写体の方々から推測すると、明治33年(1910)5月に撮影されたもののようです。当時久五郎は23歳。この頃の久五郎の足跡はよくわかっていませんが、翌月6月2日には渋沢栄一の授爵にかかる埼玉県内有志の祝賀会に招かれています。実業家の階段を着実に上っている時期だったと考えられます。
この発見のドキドキ感をいち早く皆さんにお届けしたいので、展示しちゃいました。
夏季展示のパンフレットの残部もまだございますので、まだ鈴木久五郎を御存じない方も、ぜひともパンフレットと合わせてご覧ください。

八木崎小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました

令和元年12月11日に、八木崎小学校第3学年が、郷土資料館を見学しました。
少し昔に使われていた農具や家庭用品を見ながら、郷土資料館の学芸員より
その当時の暮らしについて説明をうけたり

見学の様子

資料館で触れることのできる昔の道具を実際に体験してみたりしました。

見学の様子

”そろばん”に”赤電話”、児童達にとっては初めて触れる物ばかりで興味津々でした。

見学の様子

重い石臼は2人がかりで一生懸命まわしていました。

郷土資料館では、3月22日(日)まで「くらしのうつりかわり―懐かしの暮らしと道具展」を開催しており、昔の懐かしい道具や写真を展示しています。小さなお子様からご年配の方まで、一緒に楽しめる展示となっております。ぜひ遊びにいらしてください。