2025年1月の記事一覧
謹賀新年「巳」ゆかりの地名と資料
あけましておめでとうございます。
正月一発目は、恒例の干支ゆかりの資料の紹介。今年の干支「巳」に関する資料を紹介します。「巳」がつく地名が市内にあること知っていますか?
市内には「巳」のつく地名が二つあり、一つは、武里中野の「巳ノ発」、もう一つは大畑の「東巳ノ起」「西巳ノ起」です。
現代の地図では「巳ノ発」は、現在の春日部南中学校(旧中野中学校)の周辺、「東巳ノ起」「西巳ノ起」は武里団地6街区の南東の安之堀川と新方川が合流する付近になります。
漢字は異なりますが、読み方は共通していて、「巳ノ発」は「みのおき」、「東巳ノ起」は「ひがしみのおき」、「西巳ノ起」は「にしみのおき」と読ませるようです(『武蔵国郡村誌』)。「発」「起」は開墾する意。つまり、それぞれの耕地は、巳年に開墾・開発されたという意味となります。
では、巳年とはいつのことなのでしょうか。いずれも江戸時代に中野村、大畑村と呼ばれた時代に付けられた地名であることは間違いありませんが、中野村、大畑村には古いことを知りうる資料がほとんど残されていませんので、巳年がいつのことなのかは、残念ながらわかりません。
ただ、大畑村には、幕府の勘定頭伊奈忠治が発給した、寛永時代(1624-1644)の年貢割付状が伝来しています。このうち、寛永6年(1629)の割付状をみると、大畑村では、下田8町1反1畝12歩が年貢の対象となっており、このうち2町5反9畝9歩は「巳発」、その他1町余は「当発」、1町余は「付荒」とされています。寛永6年は巳年ですが、この年に開発したのは「当発」の1町余であり、「巳発」の巳年とは寛永6年以前の巳年を指すものと考えられます。以降、寛永13年(1636)・同20年(1643)の年貢割付状にも、下田の内に「巳ノ発」が見えますので、寛永6年以前の巳年に開発された土地が「巳ノ発」という耕地として定着していたのではないかと考えられます。
そして、寛永時代の時点で「巳ノ発」が下田であったこともポイントです。下田とは、田んぼの等級で、江戸時代生産高に応じて土地の等級づけがされていました。寛永時代の大畑村では、田んぼは上田(じょうでん)、中田(ちゅうでん)、下田(げでん)、畑は上畑(じょうばた)、中畑(ちゅうばた)、下畑(げばた)、そして屋敷地に分けられています。下田は、田んぼのなかで最も低い生産高でした。前にみた寛永6年には下田の一部が「付荒」(荒廃地)となっていることからも、水田として利用するのは難しい土地であったのかもしれません。
武里中野の「巳ノ発」、大畑の「東巳ノ起」「西巳ノ起」が、割付状にみた「巳ノ発」と同じ土地であったかは、資料がなく証明はできません。しかし、明治初期に作図されたフランス式の迅速測図をみると、いずれの土地も低湿地特有の「水田」であり、江戸時代の中野村、大畑村のはずれに位置しています。「巳」のつく地名として残るこれらの土地も、かつてはいずれも人里から離れ、農作地としては不毛な土地だったのかもしれません。
さて、前置きが長くなりましたが、武里中野の「巳ノ発」、大畑の「東巳ノ起」「西巳ノ起」にゆかりの資料を紹介しましょう。いずれも、明治末から大正初めにかけて実施された新方領耕地整理組合が作図した図です。
まずは、武里中野の「巳ノ発」です。
耕地整理後に作図されたものなので、水路と田の畔が整然と区画されています。
右手の「丑ノ発」と書かれているあたりが、現在の南中学校の敷地です。「丑ノ発」ですから、丑年に開発されたのでしょう(詳細不明)。
左手中央に縦断する少し太い水路が「安之堀川」です。図からははずれますが、左手のほうにウイングハットが所在しています。
ついでに、地名の話。中野村(武里中野)には次のような小名が伝わっています。
根(ね)耕地、北耕地、南耕地、丑之発(うしのおき)耕地、新田耕地、五丁歩耕地、谷中耕地、谷原(やはら)耕地、長島耕地
続いて、大畑の「東巳ノ起」「西巳ノ起」です。
方角は、写真右手が北になります。
右下の凡例はこのようになっています。
耕地整理組合の署名・捺印もあります。
図の中央に横断する赤い線が道路で、この道路を境界に、東と西に分かれています。南側に流れる水路(上図だと左手)が新方川、中央にみえる少し太い水路が安之堀川です。
こちらも整然と水路、耕地が区画されています。安之堀川に掛かる橋は、現在大畑橋と呼ばれています。
少し大きい区画は、屋敷地です。武里中野の「巳ノ発」とは異なり、耕地内に民家も点在しているのが大畑の「東巳ノ起」「西巳ノ起」の特徴といえましょうか。
ちなみに、大畑の地名(小名)は次のようなものがあります。
横割(よこわり)耕地、杉の口耕地、前耕地、砂間(すなま)耕地、東下田(ひがししもだ)耕地、西下田(にししもだ)耕地、西巳の起耕地、東巳の起耕地
蛇足ですが、現在大畑は、「おおはた」と発音していますが、最近、古文書勉強会で読んでいる江戸時代の古文書には「大畑ケ村」と書かれており、かつては「おおはたけ」と呼んでいたこともあったかもしれません。
蛇足の多い取り留めのない文章になってしまいましたが、巳年ですからご勘弁を。
皆さまにとりまして、繁栄の一年になりますようご祈念申し上げます。そして、本年も郷土資料館と「ほごログ」をよろしくお願いいたします。
令和7年巳年 元旦